2024年12月13日 (金)

昭和26年のきみ子ちゃんの絵日記を読む4

こんにちは。
 今日も、前回からの続きで小学三年生のきみ子ちゃんの日記から、昭和26年6月29~7月1日までのものと最後のページにある先生の講評をご紹介します。
 お父さんとお母さん、そしてお兄さんと弟との5人家族に育ったきみ子ちゃんは、何かしらの家の手伝いを毎日しているしっかりものの女の子です。この絵日記は昭和26年(1951)6月16日から7月1日まで毎日欠かさず書かれたもので、紐で一冊に綴じられていました。6月後半の2週間は麦刈りや田植えの行われる時期ですからちょうど農繁期休みの期間であったと考えられ、ほぼ毎日、家の仕事に勤しんでいる姿が事細かに絵に表現され、その下段に文章がしたためられています。
 また、この絵日記には、昭和26年の櫛形地区の中野の風景や人々の暮らしを物語る細かいデティールが、きみ子ちゃんという、絵の上手な女の子によって素晴らしく表現されています。この資料によって、私たちは、小学3年生の彼女の目や心のフィルターを通して、昭和26年の南アルプス市域におけるヤマカタ(山方)の生活というものを知り、その時代の子供の気持ちを追体験することができるような気がするのです。
100014
←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月29日(金)雨雲晴」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 絵は、麦扱きの様子ですね。
お母さんが、ベルトで発動機とつないだ脱穀機に麦束をすべらせて、麦扱きをしています。麦扱きとは、刈った麦の穂を藁からこき落とす作業のことです。きみ子ちゃんは麦の束を両手いっぱいに抱えて、脱穀機のところまで運ぶお手伝いをしています。
「朝起きて少し経つと、雨が降ってきた。お母さんが今日はこれでは麦扱きができないねといった。」そのうちに、雨がやんできて晴れになったので、手伝いのおばさんが二人来てくれて麦扱きができたようです。「私は麦を運んだ」と文にあります。
 山梨県の郷土食といわれるほうとうも小麦粉でつくります。米と同様に麦も大切な作物でした。この日もきみ子ちゃんは頑張ったんだね!
100015
←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月30日(土)晴」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 きみ子ちゃんが背負子(しょいこ)にかごをくくり付けて歩いています。
 「昼休みをしてからお母さんとはるえさんと東の畑の所のじゃがいもを掘りに行きました。私が背負子(しょいこ)にかごを縛って、芋を運んだ。背負子が大きいので、上手くおしりの所へいって歩けなかった。おかあさんが芋をこいでから、お母さんも運んだ。そのうちにサイレンが鳴った。」
 昔は子供も結構重たいものを運ぶ機会があったのですよね。ふるさと文化伝承館では、小学校三年生の子供たちが学習する昔の暮らしの授業で背負子を体験してもらうのですが、ちょうど同じような学年の子供たちがこんな風に背負子でジャガイモを運んでいたことをこの日記を見て知ってもらいたいです。 
100016
←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・7月1日(日)雲晴」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 この日の絵は、家の中のようすですね。障子戸の外に見えるのは、山々の頂です。きみ子ちゃんの家がどのような場所に建っていて、周辺の景観はどんな感じだったかがわかります。そう、櫛形地区中野は大変見晴らしの良い場所なのです。そんな家の中で、きみ子ちゃんはランドセルに学校で使うものを入れて準備しています。
「私が明日学校へ行くだからと言って、かばんの中に学校で使うものをしまっていると、今夜、道祖神祭りだから、ジャガイモをふかしてくれと言ったので、整理をしてからお母さんが言ったことをしてやった。そして晩、道祖神へ行って楽しくとびあいってきた。」
 いよいよ今日で農繁期休みは終わりなのですね。小学3年生で一人で、かまどで火を焚いてジャガイモをふかすことを任されるなんてすごいなぁ! 最終日の夜は、楽しい道祖神祭りの日でよかったです。「ぞうそりん(道祖神)」へ行って「とびあいってきた」という最後の甲州弁の一文が、きみ子ちゃんの楽しさに弾む心の度合いをよく表していると思います。※甲州弁で「とびあいってきた」とは、「忙しく走り回ってきた」という意味。走ることを飛ぶといい、歩くを「あいく」という。
100017
←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・教師講評」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 最後の空白のページには、赤いインクでその時の担任の先生であった秋山正美先生の講評が書かれています。雨宮キミコさんによると、まだ若い男の先生だったそうですよ。
「お休み中公子はよくお手伝いをしましたね。そして毎日絵日記がとても丁寧に書いてあります。公子が買って来たたばこ、おとうさんは本当においしくのむ事でしょう。 公子が両手にお茶をつるして田に行く姿が思はれました。 杉の木にカニがおったなどとてもうまく書けています 秋山正美」
 これまで、4回の記事をわたって、昭和26年6月に櫛形地区中野で、小学3年生の農繁期休みの出来事を綴ったきみ子ちゃんの日記をご紹介しました。
 この絵日記にあるきみ子ちゃんのお手伝いの数々をみてまず驚くのは、今の小学校低学年の子供たちが普段頼まれているようなお手伝いに比べ、かなり高レベルな作業内容だということです。
 例えば、「芋をふかしておく」という作業は、畑で芋を掘って、屋外の水路で洗ってから、台所のかまどで火を起こしてお湯を沸かして調理します。現代と違って何倍もの工程と労力が必要になり作業内容も高度です。でもきみ子ちゃんはこの一連の作業を全部ひとりでできます。もちろん、毎回その作業を最初からすべて行うわけではありませんが、現在の私たちがスーパーで買ってきたジャガイモにラップをかけてチンするだけとは訳が違います。これはもはやお手伝いというレベルではなく、家事の一部を小学校低学年でガッツリ担っているといった感じです。この家はきみこちゃんがいなければ回っていかないのではないだろうかと思われるほどです。もちろん、時代的にも、社会的にも状況が全く違いますので、現代の子供たちに同じようなことが要求される事態はあり得ません。
 しかし、昭和20年代では、子供たち一人一人が家族の一員であるという強い自覚とともに、その経営の一部を担っているという感覚や責任感を強く持っていたのだと想像させられます。
Dsc_1009 ←「キミコさんからの聴き取り調査の様子(2024年11月7日撮影)」
 聞き取り調査で雨宮キミコさんが話してくれたのですが、きみ子ちゃんが小学一年生くらいの頃から、お父さんは病気で体調の悪い日が多かったそうです。そのため、この日記の絵には、お父さんの気配はあれども姿が描かれていなかったことが理解できました。
 そこで、〇博調査員が「お母さんを助けようと、きみ子ちゃんは人一倍頑張っていたのでしょうね」というと、意外にも、雨宮さんは「いや、そんなことは特に思った記憶はないです。みんなどの家の子もそれくらいのお手伝いはしてたと思う」とおっしゃっていらしたのが印象的でした。
3164 ←「中野上田家絵日記資料一括」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 南アルプス市○○博物館活動では、このような子供たちの絵日記も大切な地域の文化や生活を物語る資料として大切に収蔵し、保管・活用を進めています。

2024年12月12日 (木)

昭和26年のきみ子ちゃんの絵日記を読む3

こんにちは。
 今日も、前回からの続きで小学三年生のきみ子ちゃんの日記から、昭和26年6月25~28日のものをご紹介します。
 お父さんとお母さん、そしてお兄さんと弟との5人家族に育ったきみ子ちゃんは、何かしらの家の手伝いを毎日しているしっかりものの女の子です。この絵日記は昭和26年(1951)6月16日から7月1日まで毎日欠かさず書かれたもので、紐で一冊に綴じられていました。6月後半の2週間は麦刈りや田植えの行われる時期ですからちょうど農繁期休みの期間であったと考えられ、ほぼ毎日、家の仕事に勤しんでいる姿が事細かに絵に表現され、その下段に文章がしたためられています。
 また、この絵日記には、昭和26年の櫛形地区の中野の風景や人々の暮らしを物語る細かいデティールが、きみ子ちゃんという、絵の上手な女の子によって素晴らしく表現されています。この資料によって、私たちは、小学3年生の彼女の目や心のフィルターを通して、昭和26年の南アルプス市域におけるヤマカタ(山方)の生活というものを知り、その時代の子供の気持ちを追体験することができるような気がするのです。
100010 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月25日(月)雲雨」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 絵の中で、昔から坂道ばっかりの櫛形地区中野の集落の中をきみ子ちゃんがすたすたと歩いています。右手に何か四角いモノを持っていますが何でしょう?文を読んでみましょうね。
 朝十時から書き取りの勉強をしていた聡明なきみ子ちゃんですが、お父さんからハガキを出しに行ってくださいと頼まれたので、勉強を中断して、ポストに向かったようです。その帰りに校長先生に会い、おはようございますと挨拶したことが書いてあります。ポストのある野々瀬郵便局は小学校の向かいにあったので、先生と出会う確率も高かったのでしょう。
100011 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月26日(火)はれ」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 今日は、草取りをしているきみ子ちゃんの絵です。
 文には「朝起きると、お母さんが今朝は土がやっこいからみんなで家の下の草を取って下さいといったので、すすむ(弟)が学校へ行くとすぐ、草とりをはじめました。兄さんは、前の河原でどっかのおじさんが水を止めていたので、兄さんは早々飛んで行った。お母さんが今年は水が貴いといった」とあります。おそらく前日に降った雨も畑を少し湿らす程度で水が不足しがちな日和が続いていたのでしょう。
100012 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月27日(水)晴」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 この日は石と板と本の絵ですね。
 「今日、私は池でたまねぎを洗っていると、つつじが咲いていたのを見て押し葉にしたくなってつつじを採った。池の所と家の前の所のを採って押し葉にした。それから家の前の所へ行ってきれいな花を採って来た」
 いつも家のお手伝いをしていて忙しい中にも、きれいな花を見て、その心のときめきを押し花にして残そうとする小学三年生のきみ子ちゃんの心意気に、愛しさあふれてたまらないです。
100013 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月28日(木)雲晴」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 畑の上の電線につばめが三羽いるのを見上げているきみ子ちゃん。畑の土には備中ぐわが刺さっており、作業の途中だと言うことがわかります。
 今日のきみ子ちゃんは午後の昼休みの後、おかあさんと一緒に畑の畝づくりをしたようです。頭の上でつばめが鳴いていたので立ってみていると、電線でつばめたちが飛び上がったりして楽しく遊んでいたのだそうです。
 青い空をバックに木の電柱、そして電線に遊ぶつばめたち。そしてそれを見上げるきみ子ちゃんと備中ぐわ。開放感があって明るい絵なのだけれども、つばめたちの賑やかな鳴き声も聞こえてくるのだけれども、なぜかほんの少しばかりの寂寥感も感じさせるような・・・。とても魅力的な構図ですね。
 
今日はここまでで。
昭和26年6月29日から7月1日までの日記は次回にご紹介します。

 

2024年12月11日 (水)

昭和26年のきみ子ちゃんの絵日記を読む2

こんにちは。
 今日も、前回からの続きで小学三年生のきみ子ちゃんの日記から昭和26年6月20~24日のものをご紹介します。
 お父さんとお母さん、そしてお兄さんと弟との5人家族に育ったきみ子ちゃんは、何かしらの家の手伝いを毎日しているしっかりものの女の子です。この絵日記は昭和26年(1951)6月16日から7月1日まで毎日欠かさず書かれたもので、紐で一冊に綴じられていました。6月後半の2週間は麦刈りや田植えの行われる時期ですからちょうど農繁期休みの期間であったと考えられ、ほぼ毎日、家の仕事に勤しんでいる姿が事細かに絵に表現され、その下段に文章がしたためられています。
 また、この絵日記には、昭和26年の櫛形地区の中野の風景や人々の暮らしを物語る細かいデティールなどが、きみ子ちゃんという、絵の上手な女の子によって素晴らしく表現されています。この資料によって、私たちは、小学3年生の彼女の目や心のフィルターを通して、昭和26年の南アルプス市域におけるヤマカタ(山方)の生活というものを知り、その時代の子供の気持ちを追体験することができるような気がするのです。
10005 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月20日(水)曇晴」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 この絵は、きみ子ちゃんがお風呂を沸かしている様子です。
 夕方に弟が頼まれた風呂焚きの途中で眠ってしまったので、きみ子ちゃんが代わりに湯を沸かすことになったようです。文の最後に「松葉だから、けむ(煙)がたくさん出た」と書いてあります。
 絵をよく見ると、水を入れた木樽の五右衛門風呂に薪ボイラーが取り付けてあり、奥納戸の前できみ子ちゃんが木っ端にちょこんと腰かけて、燃料の枝を差し入れている場面ですね。ボイラーの煙突からはもうもうと煙があがっており、このすごい煙の原因は松葉を燃したからだったのですね。煙突から出た灰が湯船に落ちないように、五右衛門風呂には大きな木の蓋もかぶせてあります。湯温を調整するためなのか、水を入れた桶も横に置いてありますよ。きみ子ちゃんの絵のおかげで昔のお風呂の支度の様子がよくわかります。きっと松葉の煙が目に沁みてチクチク痛かっただろうなぁとか、〇博調査員だったら涙がポロポロ出ちゃったに違いない、なんて思いました。いまはお風呂を沸かすのに、スイッチ一つでよいことに心より感謝申しまする。
10006 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月21日(木)晴」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 この日のきみ子ちゃんは、水路で何やら洗い物でしょうか? 文によると、お母さんに頼まれてジャガイモを畑でとって庭の水路で洗っている場面のようです。ところが、洗っている最中にジャガイモを一つ流してしまったので拾いに行ったところ、滑ってしまい、履いていたゴム草履ごと川に入ってしまったそうですが、柿の木のところまで流れて行ってしまったジャガイモは無事に拾えたようですね。ちなみに、濡れたゴム草履は石の上に干しておいたとのこと。
 もう一度このきみ子ちゃんの記述を踏まえて絵をみると、水路の中を大きなでこぼこのジャガイモが一個流れていくのがわかりますし、ジャガイモを拾うことができた場所にある柿の木も描かれています。
 また、文中にはありませんでしたが、右奥にある大きな建物が水を引き揚げるポンプ小屋であることを、成長したきみ子ちゃん(雨宮キミコさん)からの証言で確認しています。
Dsc_1008←「キミコさんからの聴き取り調査の様子(2024年11月7日撮影)」

10007 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月22日(金)晴雨」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
やかんと風呂敷包を持って田舎道を歩くきみ子ちゃん。現在も櫛形地区中野にはこの絵のような棚田風景が遺されており、この絵の中からも観る人に心地よい風が運ばれてくるようです。
 きみ子ちゃんは「おちゃごし」と呼ばれる野良で働く人たちの休憩のために、お茶と食べ物を田んぼに持って行く役をお母さんに頼まれたようですね。その帰り道にある杉の木にいたカニを3つ獲って、家のヒヨコに与えました。そうすると、ヒヨコたちは「とりっこ」して喜んで食べたみたいです。子供の日常の空気感が伝わる生き生きとした絵と内容にワクワクさせてもらいました。
10008 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月23日(土)晴」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 次の日の日記も棚田の中を歩いているきみ子ちゃんの絵です。でも、手にはやかんと風呂敷ではなくて、あぜ道を稲苗の束を両手に持って運んでいます。文によると、この日のきみ子ちゃんは、朝は植木に水をやってから、田植えのために苗代にあった苗を田んぼまで運ぶ仕事をしたようです。文中に、小学生らしく「ねえ」=苗、「持ちに行った」=取りに行った等、甲州の方言の音そのままに書かれているのが微笑ましいです。
10009 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月24日(日)」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 この絵は、ほおずきの実を描いたもののようですよ。
 今日のきみ子ちゃんは、田に水をかけに行くお手伝いの途中で、ほおずきの青い実がたくさんなっているのを見て、その2つをもいで帰ってきたのだそうです。家に帰ってから「ほおずきをこしらえて鳴らしてみた」とあります。これはどういうことかと調べてみると、ほおずきの実を覆っているガクを剥いて外して、ミニトマトみたいな実を取り出した後さらにその中の果肉を取り除いてミニトマトの皮だけの風船みたいになったものを口の中に入れて鳴らすと、ギュッギュッとカエルの鳴き声のような音が鳴るのだそうです。きみ子ちゃんは「ならしてみたら、口の中が苦かった」そうです。絵にあるほおずきはまだ青いので熟していなくて果肉も苦かったのでしょうか?昔の子供の遊びの一つを教えてもらえて、うれしくなった〇博調査員です。
 
今日はここまでで。
昭和26年6月25日からの日記は次回にご紹介します。

 

2024年12月10日 (火)

昭和26年のきみ子ちゃんの絵日記を読む1

1000
←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・表紙」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 こんにちは。
 今日は、収蔵資料から、昭和26年に野之瀬小学校三年生だった当時9歳のきみ子ちゃんが書いた絵日記をご紹介します。野之瀬小学校は現在の櫛形西小学校です。
 お父さんとお母さん、そしてお兄さんと弟との5人家族に育ったきみ子ちゃんは、何かしらの家の手伝いを毎日しているしっかりものの女の子です。この絵日記は昭和26年(1951)6月16日から7月1日まで毎日欠かさず書かれたもので、紐で一冊に綴じられていました。6月後半の2週間は麦刈りや田植えの行われる時期ですからちょうど農繁期休みの期間であったと考えられ、ほぼ毎日、家の仕事に勤しんでいる姿が事細かに絵に表現され、その下段に文章がしたためられています。
 この絵日記には、昭和26年の櫛形地区の中野の風景や人々の暮らしを物語る細かいデティールなどが、きみ子ちゃんという絵の上手な女の子によって素晴らしく表現されています。この資料によって、私たちは、小学3年生の彼女の目や心のフィルターを通して、昭和26年の南アルプス市域におけるヤマカタ(山方)の生活というものを知り、その時代の子供の気持ちを追体験することができるような気がするのです。
 
 では、昭和26年6月16日から順にきみ子ちゃんの絵日記を見せてもらいましょう。
10001 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月16日(土)雨」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 雨の中、長靴をはいて和傘を持ってお出かけする様子か描かれています。文章によると、「絵日記をかく図画紙を買いに行き、帰ってきてから帳面に作りました」とあります。洋傘にはない、和傘に特徴のカッパと呼ばれる頭紙が頂部のろくろに縛り付けられている様をきみ子ちゃんは忠実に絵で描きあらわしていますね!

10002 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月17日(日)晴」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
Dsc_1190_20241210095201  ←「回転蔟」
 これは養蚕のお手伝いの絵ですね。回転蔟(かいてんまぶし)とよばれる、蚕に繭を作らせた格子状の道具から、繭を手でもぎ取って収穫する様子を描いています。文にも「お母さんに頼まれて朝から繭もぎ(原文:「めえもぎ」)の手伝いをした。お茶休憩になって飴をもらった」とかいてあります。
 昭和20年代にこの地域で養蚕が行われていたこと、絵にあるような道具を使って蚕に繭を作らせていたこと、6月の半ばに春蚕が収穫できたことなど様々な当時の養蚕に関する情報を伝えてくれています。現在、私たちの身近なところになく想像しがたい養蚕という生業をこのきみ子ちゃんの絵と文で私たちは知ることができます。とても興味深いです。

10003 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月18日(月)晴」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
こちらは女の子3人で立ち話をしている絵ですね。きみ子ちゃんのお家は中野の棚田の最上部に近い所にありますから、バックには青い空にぽかんと浮かぶ白い雲、その下に舌状の市之瀬台地が、さらに下に甲府盆地を見下ろす風景が広がっています。
 そして、3人の女の子たちの話題は、「今夜蛍を採りに行く約束について」だったようです。お友達の名はとみこさんとやすみさんですが、残念なことに、ご飯を食べてやすみさんを迎えに行くと頭が痛いと言って行かないことになってしまっったようです。そこで、結局きみ子さんのお兄さんも誘ってとみこさんと3人で蛍採りにでかけました。昭和26年当時の中野の棚田には夜になると蛍がいっぱい飛んでいて、お星さまのようにきれいだったことでしょうね!

10004 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月19日(火)晴」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 この絵は昭和26年当時に売られていた「ききょう」と「光り」という銘柄の煙草の箱の絵です。おかあさんとおばさんとで小麦を刈って、きみ子ちゃんとお兄さんでその小麦を運ぶお手伝いをしていたようですが、その後、きみ子ちゃんはお父さんに頼まれて、上市之瀬のタバコ屋さんに「ききょう」と「光り」を買いに行きました。彼女らしい繊細な観察眼で煙草のパッケージデザインを模写しています。
Dsc_1189 ←「ききょう」の箱(南アルプス市教育委員会文化財課収蔵資料)

 今日はここまでで。
 つづきの6月29日以降の日記は次回以降で順にご紹介してまいりますよ。

2024年11月25日 (月)

腸チフス予防唱歌とコレラ注意報!!

こんにちは。
先週くらいから急に寒くなって、やっぱり今年も冬が来るのだと実感しました。寒くなって空気が乾燥してくると、また風邪などの伝染病が流行する季節にもなりますね。
 今回は、大正10年頃に山梨県衛生課が高等小学校に配った「チブス予防唱歌」のリーフレットと、コレラ注意報として配布された「虎軍隣県を襲ふ!! 本県は危険状態にあり!!」のチラシをご紹介したいと思います。

 大正10年頃に山梨県衛生課は「チブス予防唱歌」というものを作成して小学生に配ったようです。小学校の生徒に毎日見てもらえるように、二つ折りにして時間割を記入できるような欄も設ける工夫がされています。

25102 ←山梨県衛生課チブス予防唱歌(表)(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
  まず表紙では『チブス?』の項でこの病気の原因と感染経路、病状などを説明し、感染予防対策の方法や罹患した場合の対処について簡潔に記しています。 一般的には「チフス」という呼び名の方が聞き慣れているのですが、かつては「窒扶斯」という漢字を当てたようなので大正時代には「チブス」と濁音にして読んでいたこともよくあったのかもしれません。 記載内容を読んでみると、紹介されているチブスという病気が現代日本で言うところの「腸チフス」であることがわかります。
 また、この面を山折りに二つ折りにすると裏になる部分に、名前や時間割を書く欄があったり、ギリシャとイギリス、日本の俚諺(りげん)が3つ記され、健康の大切さを表したことわざも教えてくれています。

25101 ←山梨県衛生課チブス予防唱歌(裏)(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
  見開きページには、真ん中にチブス予防唱歌の歌詞と楽譜(数学譜)があり、これをぐるっと囲むように明治13年~大正9年までの山梨県内腸チフス患者及び志望者累年表が記されています。
『チブス予防唱歌
 【一】山川清き山梨に 悪疫チブスは蔓これり 人々互ひに警めて 此の病毒を絶やせかし
 【二】飲食ひものに附着して チブスの病毒は口に入る 味ひよくも生魚や 生の野菜は食すなよ
 【三】まして生水や氷水 使ひ水にも注意して 食事前には手を洗ひ 暴飲暴食せぬ様に
 【四】蠅を駆除して食器には 蓋する事を忘るゝな 家の内外掃除して 身体衣服も清潔に
 【五】予防注射も早く受け 患者を見舞う事勿れ 熱病む人のある時は 醫者を迎えよ直ぐ様に
 【六】かくて縣民一斉に 心協せて豫防せば 流石に猛き腸チブス 忽ち跡を絶ちぬべし      』
 この予防唱歌を歌っていれば、表紙にあったようなチフス対策を万全に覚えられるようなっています。すばらしいですね!

 予防唱歌の周りにある、山梨県下における腸チフス患者及び死亡者数の推移の方を見ていくと、明治14年に大流行があり、明治25年にもまた流行したことが判ります。 しかし、明治30年に伝染病予防法にて法定伝染病に指定されたことが功を奏しようで、明治31年~40年代はじめまでの山梨県内の腸チフス患者数は劇的に減少しています。その後は、明治44年と大正9年に流行がみられます。今回の資料は、大正9年の流行に接し、前回の流行年からおよそ10年ほどで緩んできた感染対策を特に経験のない子供たちに徹底・注意喚起するように対象者を絞って山梨県が配布したものだったのではないでしょうか。
 明治30年以降、腸チフスは感染対策を徹底することで罹患リスクを減らすことができることが実証されていたので、大正元年頃から実施が増えてきた腸チフスワクチン注射とあわせて、流行終息を目指したものと考えられます。
 なお、平成11年に施行された感染症法により、現在、法定伝染病は家畜に関して定められるものになり、腸チフスは「3類感染症」と分類されているそうです。

つづいては、チブス予防唱歌の資料と同じく山梨県衛生課作成のチラシですが、これはコレラに対する注意喚起するものです。前記の大正10年のチフスに関するもの同じ資料群にありました。この資料ではコレラを「虎軍」と表現していますが当時は「虎狼狸」「虎列刺」とも表記することがあったようです。
252 ←山梨県衛生課コレラ予防チラシ「虎軍隣県を襲ふ!! 本県は危険状態にあり!!」(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 また、コレラの流行の歴史について少し調べてみると、インドからはじまったパンデミックにより日本では江戸時代(安政年間)から明治大正期にかけて幾度もの流行が起こりましたが、大正9年に神戸市から発生したものを最後に全国的な流行は起きていないようなので、この資料は大正9年から10年頃に配布されたものと推定できます。
 『虎軍隣県を襲ふ!! 本県は危険状態にあり!!』と喧伝し、『流行地ヨリ来リシ者ニ注意スルコト』『コレラ流行地ヘ行カヌコト』などの文言からはじまるところは、つい数年前の令和初めに起こった新型コロナウイルスのパンデミックにおいて、都道府県をまたぐ不要不急の移動の自粛が私たちに求められた状況を思い起こさせます。
 命はもとより国の経済・社会の仕組みにまで影響を与える感染症の急襲は、病原や感染経路が解明され、ある程度の治療体制を持つようになった近代以降においても、人々がその脅威を忘れて緩むたびに繰り返されています。

2024年11月19日 (火)

大正9年落合小学校秋季運動会次プログラム

こんにちは。
今回は、大正9年10月24日午前7時から行われた、落合尋常高等小学校の第三十七回秋季大運動会のプログラムをご紹介いたします。

       ※いづれの画像もタップすると少し拡大します

23602 ←大正九年落合尋常高等小学校第三十七回秋季運動会次第(表紙・裏表紙)(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 南アルプス市ふるさと○○博物館資料収集活動において、今まで大正5年の榊小学校、大正15年の西野小学校の運動会プログラムを教育委員会文化財課で収蔵してこちらのブログやMなび、〇博アーカイブなどでご紹介してきました。
 今回は新たに市の南部に属する甲西地区で収集した落合小学校の大正9年のものを見ていただきます。
 裏表紙の記載から、このプログラムの作成・配布については、小笠原にある山扇印刷所の寄付によって行われたようです。しかしながら、現在も市内小笠原で営業している株式会社山扇印刷さんのHPによると、大正14年10月に創業とありますから、その前身の印刷所だったのかどうかについては不明です。

23601 ←大正九年落合尋常高等小学校第三十七回秋季運動会案内状(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
23603 ←大正九年落合尋常高等小学校第三十七回秋季運動会次第(午前之部・午後之部)(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 つづいて、運動会の演目について見ていきますと、午前之部27種目の後、30分という短い午餐休憩をはさんで、午後之部は25種目行うという、かなりタイトなスケジュールとなっています。それに、『爆裂弾』『陣地占領』『砲弾輸送』など、戦闘を想起させるなにやら物騒な演目が所々にありますね。
 中でも、午前之部の最後の演目として全校男子で行う『軍歌行進』と午後之部で高等小学校男子全員で行う『執銃訓練』は、軍隊の基礎を学ぶはじめの一歩としての訓練のようです。

 いままでに収蔵した資料と比較してみると、大正5年の榊小学校の運動会プログラムにはあまり軍事的な演目は見られませんでしたが、大正15年の西野小学校のものには軍歌行進が行われています(当ブログ2020年9月16日「大正5年の榊小学校運動会プログラム」、2021年9月29日「大正5年榊小学校と大正15年西野小学校の運動会プログラム」もご覧ください) 。 校風の違いもあったでしょうが、落合小学校の資料の場合、大正9年頃は第一次世界大戦が終わり、将来起こるであろう次の戦争に向けて、その準備が平時から必要との認識が学校教育にも芽生えてきていた頃なのかもしれません。
M12902 ←木銃(長さ167㎝ 川上滝沢家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵):※この資料が運動会等で使用されたかどうかは不明です

23603_20241119164001←大正九年落合尋常高等小学校第三十七回秋季運動会次第(午前之部・午後之部)(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 一方、女子については、午後之部終盤において「主婦の務(つとめ)」という演目の題名がまず目を引きます。高学年の女子が行ったこの演目の具体的な内容こそわかりませんが、その題名だけで当時の女子教育が目指していたものをダイレクトに示しています。近年、ジェンダフリー社会の実現を目指して小中学校で行われているジェンダー教育とはまさに対極となるものですね。

 また、同じく女子種目の『タンツラインゲン』というドイツ語風の外来種目名に興味をひかれたのでしらべてみると、『タンツ=ライゲン(Tanz reigen)』という言葉がヒットしました。連舞の一種で、数人が一列に並んで曲に合わせて行進しながら、いくつかの振り付けを行うダンスだそうです。戦前の運動会では、「タンツライゲン」という名称で女子の演目として全国的によく披露されたものだということです。

 以上のように、大正時代の運動会プログラムを観察すると、現代の小中学校とは教育目標が異なるので、演目に違和感を覚えるような点もいくつか見られます。時代を表していると一言で言ってしまえばそれまでですが、当時の社会的背景や運動会そのものの教育的意義などを推し量ってみると、いまではありえないような種目が存在していた理由も理解することができて興味深いです。
今後もまた、市内の小中学校の運動会プログラムは継続的に収集していきたいと思っています。

2024年11月13日 (水)

保寿社牛乳タイムス大正14年掲載のケーキレシピ

こんにちは。
 保壽社牛乳店が毎月一回発行していた冊子「保壽社牛乳タイムス」をご覧いただきます。

2371223719   ←保寿社タイムス10月号表裏紙 大正14年10月1日(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)※タップすると少し拡大します
保壽社牛乳店については前回、南アルプス市教育員会文化財課で収蔵した大正時代の領収書からの情報から、大正9年から10年の間に牛乳1本が6円から10円に値上がりしたことや、当時の販売用牛乳瓶の姿などをご紹介しましたが、今回は大正14年10月1日発行とある「保壽社牛乳タイムス十月号」について観ていきたいと思います。
 前回でもご紹介しました通り、保寿社は明治20年12月に土屋忠平が西山梨郡稲門村(現甲府市)の千秋橋南方に開業し、のちに甲府市伊勢町に移転して昭和15年までの50年以上営業していた、県内酪農における草分け的業者のひとつだったようです。文献にも『甲府市の三大搾乳業者』と記されています。

23713 ←保寿社タイムス10月号 大正14年10月1日 2.3ページ(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 この冊子「保壽社牛乳タイムス」の構成は、全5ページで4項目の記事で構成されています。
 表紙をめくるとまずは「家庭日記」という項目で、襟や靴の手入れやネクタイの洗濯の仕方など主に洋装の手入れ方法が掲載されています。牛乳を毎日飲むような先進的な家庭の主婦には知りたい情報だったのかもしれません。


 次の3.4ページには「牛乳の威力」という題で、農学士大川石松氏による寄稿があります。なんでも、「マツカラム博士によって証明された人類の生命に欠くことのできない溶油性ヴヰタミンと水溶性ヴヰタミンの二要素を摂取するには、バター脂を含む乳製品の摂取が適している」というようなことが書かれています。また、「『我国乳児の死亡率は世界一』であることと『我国の牛乳使用率は世界の文明国中で一番少量』であることには深い関係がある」と説いており、『牛乳は人類の生存に必要な総ての要素を完全に、具有している』と、牛乳を飲むことを推奨しています。つづく同じページの残りの部分には、「ほんとの両親」という小話が穴埋め的に掲載されています。

23714 ←保寿社タイムス10月号 大正14年10月1日 4.5ページ(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 最後の5ページ目には「おやつのごちそう」という魅力的なレシピ集が掲載されています。メニューは、2種の『グリッドルケーク』と『芋よんかん』『バタいも』です。興味深いそのレシピを以下に書き出しますと、

『グツリドルケーキ(原文ママ):メリケン粉 コップ三杯、牛乳 コップ二杯、ベーキングパウダー 大匙一杯半、玉子 一個、塩 茶匙半杯、バタ 大匙二杯、砂糖 コップ四分の一
メリケン粉、塩、砂糖、ベーキングパウダーをまぜ合して篩にかけ、玉子をよく泡立てせて加へ、牛乳をそろそろと加へてよく泡立て器でかきまはし、バタと融して加へます。フライパンにバタをひいてそのなかへまぜ合した材料を少しづつ流し込んで、まはりが焼けて来て真中が泡だらけになったらひつくり返して焼きます。鍋に引いたバタが少ないとこげつきます。かうして何枚も焼いて、焼きたてにバタをつけ、メープルシロップ(蜜のようなもので紅葉の葉の砂糖をとかしたもの)を上からかけて食べます。メープルシロップの代りに砂糖をかけてもよいので、これはハイカラなボツタラ焼のようなもので、朝食の代り、おやつには最も適してゐます。』
※「グツリドルケーキ」と原文に記載があるが、以降のレシピに(その二)とあるので、「グリッドルケーキ」が正しく誤植であると考えられる)

『グリツドルケーキ(その二):牛乳 コップ一杯、玉子 2個、御飯の温かいの コップ一杯、融かしたバタ 大匙一杯、塩 茶匙半杯、メリケン粉 コップ八分の七
  御飯と塩との上に牛乳を注ぎ込み玉子の黄味をレモン色になるまでよくかきまぜて泡立たせて加えます。それへとかしたバタ及メリケン粉を加へ、玉子の白味を泡立てゝ加へたものを第一と同様にして焼きます。』

『芋ようかん:砂糖七十匁、さつまいも百匁、塩小匙半分
  先づお芋の皮をむいて二分位の輪切りにし、水につけてあくをぬきます。鍋にはたっぷりの湯を煮たたせておきごく強い火でお芋の切ったのを、軟らかくなるまで煮、煮へたらザルにあけて湯を切ります。次に鍋の湯をあけてそれへお芋の煮たのを入れ、塩と砂糖を入れ、シャモジで芋をつぶしながらよくねり合わせ、指をふれてみてつかなくなったら重箱その他適宜な器に布をしいて、その上へねつた材料を入れ、上に布をかぶせて、その器のなかへはいるだけの板をおき、上から強い重しをかけ二時間ほどおくとかたくなります。それを取り出して適宜の大きさにきるのです。』

『バタいも:
フライパンにラードを引き、二三分の厚みに輪切りにした芋を両面から焼き、焼けたらバタをぬり砂糖をふりかけます。』

 以上のように、この「おやつのごちそう」で紹介されている4つのレシピをみてみると、大正14年に一般家庭で材料をそろえて作るのが難しい憧れレベルの一品から、牛乳屋さんの紹介するレシピなのに乳製品すら使わなくて済むような庶民的なおやつまで4種類のものが紹介されています。

23714_20241113134701 ←保寿社タイムス10月号 5ページ「おやつのごちそう」(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 中でも材料の異なる二種類が紹介がされているグリッドルケークなるものですが、検索してみると、「griddle cake(グリドルケーキ)」というものがヒットし、いわゆるパンケーキないしはホットケーキのことだとありました。パンケーキやホットケーキのようなものは、明治時代に日本に伝わったようですが、大正12年に日本橋の三越デパートでバターとメープルシロップを添えて提供されはじめたのが本格的な上陸だったようです。この大正14年10月号の「牛乳タイムス」でも、焼きたてにバタとメープルシロップを上からかけるとあるので、まさに当時の最先端かつ憧れのおやつレシピが載せられていたことになるのですね! 当時のほとんどの甲州人には未知の食材であったであろうメープルシロップは『紅葉の葉の砂糖をとかしたもの』と微妙な解説があって微笑ましいです。さらに明治期にドイツで開発されたばかりのベーキングパウダーもあって、きっと「このナンチャラパウダーっちゅう薬は何でぇ?」という感じだったのではないでしょか? 庶民に出来上がりを想像しやすいようにか『これはハイカラなボッタラ焼のようなもので・・・』とも記されています。


 そのためか、グリッドルケーキ(その二)では、手に入りやすい材料ばかりでつくれるようなレシピが紹介されています。材料だけを見ると、甲州人にもなじみ深い「うすやき」の亜流みたいな感じがするのですが、作り方を読むと最後に卵の白味を泡立てたものを加えて焼くとあるので、ふんわり感を出すようにちゃんと工夫したレシピなんだなぁと感心!実際に作ってみたくなった〇博調査員でした♡

2024年11月 1日 (金)

大正時代の牛乳瓶の姿(保壽社牛乳店)

こんにちは。
最近整理調査の終わった紙資料群の中から、大正9年から10年にかけての牛乳屋さんの領収書を9点発見しました。どうやら甲西地区に住んでいた人が大正9年から10年にかけて甲府市錦町(現平和通り沿いの中央1丁目11辺り)にあった山梨県病院に入院していた際に、保壽社牛乳店から受け取った領収書のようです。
23701 ←「保壽社牛乳店 甲府市伊勢町二千四百九十五番 (電話二〇八番) Dairy.C.Tsuchiya.Isecho.Kofu.Japan. HOJUSHA & Co」の発行した領収書と冊子」

 「保壽社」という牛乳屋について文献で調べてみると、昭和初期から40年代にかけて山梨県酪農の指導的立場にあったし秋山作太郎氏が著した書籍の中に、昭和45年に調査し「(明治中期以降の)搾乳業者一覧表」としてまとめたものがあり大変参考になりましたので、そちらの内容を引用しながらご紹介したいと思います。
 保壽社は明治20年12月に土屋忠平が西山梨郡稲門村(現甲府市)の千秋橋南方に開業し、のちに甲府市伊勢町に移転して昭和15年までの50年以上営業していた、県内酪農における草分け的業者のひとつだったようです。文献にも『甲府市の三大搾乳業者』と記されています。

 それでは、保寿社の牛乳配達表と領収書を観察していきましょう。
 真ん中にきりとり線が入っていてその左側に「牛乳配達表」があり、右半分はイラスト入りの領収書になっています。
23710   ←保壽社牛乳店大正10年6月牛乳配達表領収書(牛乳1本10円)(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 まずは、大正10年6月分について配達した牛乳の本数と代金の集計に注目しましょう。29本で290円とありますから、大正10年当時の販売価格は牛乳1本10円だったとわかります。ちなみに大正9年9月分の場合は30本で180円とあります。どうやら大正9年までは1本6円だったようですね。
23707   ←保壽社牛乳店大正9年9月牛乳配達表領収書(牛乳1本6円)(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
23706 ←保壽社牛乳店大正10年7月牛乳配達表領収書(牛乳1本10円)(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 また、四角く囲った枠の中に①『山梨県病院御用』②『新鮮生バタ』③『切手調進』といった謎の文言がありますが、順に読み解いていくと、①保壽社が山梨県病院の病棟に出入りして入院患者に販売していた事実を示すものであり、②保寿社牛乳店は新鮮な生バタ―も販売しており、③『切手調進』とは「保寿社牛乳製品を贈り物等に使用できる商品券もご用意しております」ということだと考えられます。
23711   ←保壽社牛乳店大正10年9月牛乳配達表領収書(牛乳1本10円)(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 そして右半分のいわゆる領収書部分ですが、大正時代当時の牛乳瓶とバター販売容器と牛たちが可愛らしく配置されたデザインになっています。当時の牛乳販売容器がどんなものであったかがよくわかるイラストで興味深いですな。このイラストにある牛乳販売容器は、ガラス製の瓶で口に陶器製の栓をして金属製の留め金で閉めた後で未開封と分かるように瓶と栓のつなぎ目に保壽社銘入りの未開封シールが貼られています。
23711_20241101132701 ←保壽社牛乳店大正10年9月牛乳配達表領収書より「機械口牛乳瓶部分」(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 気になって上記の秋山作太郎氏の著作『山梨の酪農』を読み返してみますと、牛乳販売容器の変遷についても記述がありました。
 東京では明治22年頃に初めてガラスの容器が用いられたそうですが、最初は口に紙を巻いたり張ったりして蓋としていたのが、明治33年頃になると「機械口」と当時言われた、瀬戸物(陶製)やニッケル、コルクで蓋をして止め金で留めるものが登場したようです。そして、昭和3年くらいになると瓶は無色で統一され、王冠口になったとありました。
一方、山梨では明治36・37年頃までは、大半の牛乳屋は手提げ牛乳缶と木枡に柄を付けたもので売り歩き、家の軒先で客の丼や茶碗に写して量り売りしていたそうですが、甲府中心部などでは同じころでも東京と同じような機械口で、瀬戸物でできた栓の瓶売り容器で売られていたとあります。
以上のような牛乳販売容器の変遷史を踏まえても、大正9・10年に保壽社が瀬戸物の機械口のガラス瓶で甲府中心街において牛乳を販売していたことに矛盾はなく、このイラストが当時の牛乳瓶の姿を視覚的に伝えてくれていてうれしいです。

※参考引用文献
「山梨の酪農」秋山作太郎 平成二年発行 非売品 :令和6年11月現在は山梨県立図書館で借りられます。

2024年10月29日 (火)

荊沢にあった商店の大正時代の包装紙

こんにちは。
今回は文化財課収蔵資料の中から、南アルプス市甲西地区荊沢にあった商店の包装紙をご紹介いたします。
115 ←「松寿軒長崎包装紙(電話荊沢二十番」(湯沢依田家資料)(南アルプス市教育委員会文化財課蔵」
 松寿軒長崎は明治から平成時代まで 駿信往還の宿場町である荊沢において営業した菓子商です。ちょうど道が鍵の手のようにクランクする「かねんて」と呼ばれる箇所の西側に、現在も登録有形文化財として、その建物が遺されています。
 松の意匠の帯デザインの中に、店名と電話番号が記されており、この包装紙がいつごろから使用されていたかが判ります。甲西地区では大正9年11月26日に電話が個人宅や商店に開通し、1から41番の荊沢局電話加入者がいました。ですから、この包装紙は大正9年以降に使用されたものだと判断できます。また、その電話加入者一覧を甲西町誌(昭和48年刊)で見ることができますが、20番は『内藤伝吉 菓子商』とありました。
319 ←南アルプス市荊沢319に建つ松寿軒長崎(2021年10月8日撮影)
こちらの建物については、登録有形文化財として南アルプス市HPでの文化財情報や地図上で見る〇博アーカイブ、Mなび等でご紹介していますので興味のある方はご覧くださいませ。

つづいては、荊沢の商店包装紙二軒目のご紹介です。
116 ←「荊沢麻野屋呉服店包装紙(電話番号三五番)」(湯沢依田家資料)(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
麻の葉模様がさわやかなこちらの包装紙も、大正9年の電話番号一覧で記されている35番をみてみると、『あさのや入倉小三郎 呉服商』とありました。
Photo_20241029160201 ←「荊沢麻野屋のあった辺り」(2021年9月29日文化財課撮影)

昭和初期には、「せきや麻野屋呉服店」として、白根地区倉庫町交差点に包装紙にあるのと同じ屋号(「ヤマに中」)の店が存在していましたので、支店を出していたようですね。
002img20220705_15062833_20241029160201 ←「倉庫町関屋にあったせきや麻野屋呉服店のチラシ」(西野功刀幹浩家資料)(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 また、荊沢には麻野屋商店という名の店がもう一軒あり、そちらは茶問屋で茶器や食器なども販売していました。場所もちょうど同じ「かねんて」付近で呉服の麻野屋さんが駿信往還の東側にあるのに対して、茶問屋である麻野屋商店(屋号は「カネに麻」)は中野姓で西側に店を構えていました。 南アルプス市教育委員会文化財課収蔵資料や市内の旧家の蔵などで保存箱として使われている茶箱にこの麻野屋商店の文字をよく見かけます。
Img_1097 ←「雛人形の保管に使用されていた荊沢御銘茶所麻野屋商店の茶箱」(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
〇博調査的に、先人の遺したチラシや包装紙のストックは、かつて存在した商店の情報や地域ごとに異なるお買い物事情を知る手掛かりになるので重要視しています。

2024年10月 3日 (木)

大正時代の労働契約書

 こんにちは。
 まずは大正時代に交わされた、大工に関する労働契約書を2通ご紹介したいと思います。
    J7201_20241008145001  J7202 J7203 ←「弟子トシテ大工業修養セシムル契約書(大正13年竜王村花形富士吉)」(上八田小野家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
J7101 J7102 J7103 ←「弟子トシテ大工業修養セシムル契約書(大正15年百田村清水辰平)」(上八田小野家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 ご紹介する契約書は2通とも大正時代のもので、百田村に住む14歳と竜王村に住む15歳の少年が現在の白根地区上八田で大工を営む小野牛五郎に大工業(だいくぎょう)を教授してもらう4年間ほどの修養期間についての取り決めが記されています。その契約期間に雇われ人が使用する着物と大工道具一式は雇い主の牛五郎が用意し、年季明けにはそのまま給与されるとあります。また、修養途中で万が一雇われ人が失踪した場合は保証人が探して連れ戻し、雇用者の牛五郎に引き渡す事も記されています。労働の見返りに大工の技術を教授するので報酬は支払われなかった模様です。
 
 労働契約書のようなものは、江戸時代にも「奉公人請状」「奉公人手形」と呼ばれる書類として存在していました。しかし現在と大きく異なるのは、雇用主が雇われる側に提示するのではなく、雇われる側が保証人を通して奉公の期間や労働条件などを提出する作法にありました。今回ご紹介している大正時代の資料の場合も、大工業を修養予定の者がまだ未成年であるという理由ももちろんありますが、書面の契約者は弟子入りする本人ではなく、その父や保護者になっており、さらに保証人が立てられています。

 また、2通の契約書の内容の大筋は同じですが、2年違いで前後して契約した2人には待遇差があることがわかります。例えば、大正13年に竜王村から弟子入りした者には、4年間の修養後にさらに半年間の御礼奉公という無給期間があることを記していますが、大正15年に弟子入りしたものには御礼奉公期間というものが無くきっちり4年間で年季が終了するとあります。
さらに、大正15年に弟子入りの者にはその家庭事情を考慮して記された部分もあります。 牛五郎宅と同じ百田村内から弟子入りした清水辰平さんには、春蚕期に20日・夏秋蚕期にそれぞれ20日の年間60日間を実家での養蚕業務に従事することを許す文面があるのです。きっとこの弟子の実家は養蚕業で家計を支えており、養蚕繁忙期に大事な働き手を一人でも減らすことはできない事情を雇用主がよく理解しての判断だったのでしょう。2年の違いでずいぶん労働環境が改善していますね!

 大工は弟子入りすると、ほとんどの場合住み込みで、親方の家族と一緒に生活するのが普通であったようです。最初は家事手伝いや資材の運搬などをしながら道具の手入れの仕方や使い方を学んだようです。そして、親方と弟子との主従関係は生涯続いたといいます。
しかし、このように良くも悪くも伝統的な徒弟制度というようなものは、昭和時代の終わり頃にはほとんど消滅したようですね。

最後に、大正初期の大工以外の労働契約書も2点ご紹介しておこうと思います。
I81173t1 ←「雇人契約書(大正元年今諏訪村小林はまの)」(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
I81173t5 ←「雇人契約書(大正5年豊村澤登名取角太郎)」(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
こちらの2点の契約書も江戸時代からの作法にのっとり、雇われる側(保護者・保証人)が雇い主に契約書を提出する形式であり、最初に年給の額を提示し、着衣の給与要求と雇用期間を明記しています。さらに内金という名目で契約時に10円ほどの支給があったことも記されています。大工のような特別な技術を教授する場合とは、契約内容に異なる点が多少あるようです。

 大正時代は未成年である尋常小学校を卒業した10歳から高等小学校を卒業した14歳までの子供が親元を離れて雇い主宅に住み込み、休日もほとんどなく働く状況が多くありました。しかも、奉公に入る前に保護者がお金を受け取っている場合も多かったので立場も弱い上に、どんなに労働条件が厳しくても容易に逃げ出せないような文言が契約書に記されているのが普通でした。このように現代に比べて大正時代の労働条件が全く別物であったことにまちがいはないのですが、一方で、奉公先で親元に居た時よりも環境に恵まれ、学びの機会を得て数年後には成功者となるような、立身出世物語が多く生まれた時代であったのも確かなようです。

«明治7年、西郡に共栄医療組合医院できる