2020年10月14日 (水)

飯野専売支局敷地境界石

 こんにちは。
3611-2  白根地区飯野にある、富士川街道・倉庫町北交差点の北西部分にあたるブロックは、明治時代に当市域の主産業であった煙草産業の中心地でした。

その場所には、明治時代から大正時代のはじめに、山梨県内の農家で収穫された葉煙草が集められる飯野専売支局が置かれていたのです。そのため、乾燥した葉煙草を納める倉庫が立ち並ぶ様子から、倉庫町と呼ばれるようになりました。


 先日、周辺を〇博踏査した際に、飯野専売支局敷地の四隅にあったと考えられる境界石の現状を確認してきましたので、ご報告します。


←飯野専売局敷地の境界石。かつて4つあったと伝えられるうちの一つ。(令和2年10月5日撮影)


361197-7 ←飯野専売支局敷地の境界石の裏書。「明治三十五年十月建之」とある。(令和2年10月2日撮影)

境界石は今年で118歳!ということですね。

 


361197-3←境界石の上部に刻まれた十字マーク。(令和2年10月2日撮影)

361197-6  飯野専売支局の敷地は、大正6年以降に区画が細分されて民間に払い下げられました。現在は何軒もの家々が建ち並ぶ住宅地となっていますが、ちょうど旧敷地内の真ん中あたりに、地区の公会堂があり、飯野専売支局敷地境界石の一つが、その前の花壇の花々に囲まれるようにして立ち、保存されています。


←飯野専売支局旧敷地内のほぼ中央部にあたる飯野第十一区公会堂前の花壇に、境界石の一つが移設され遺されています。(令和2年10月2日撮影)


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←「明治36年3月に専売局から上八田の小野元二郎氏に支給された月俸十二円の証書」 (南アルプス市文化財課所蔵・上八田小野家資料より)小野元二郎氏は旧百田村に明治三年生まれと記録がある人物です。

 

 明治37年以降に、当地での煙草産業が衰退しはじめ、大正6年以降は煙草倉庫はなくなった倉庫町でしたが、その後は蚕糸業の隆盛とともに、周辺に数多くの大製糸場ができ、繭倉庫や大工場が並び、活気は昭和50年代までそのままでした。


 これまでに、南アルプス市域が、木綿→たばこ→蚕糸→果樹へと産業を進展させてきた歴史のうち、たばこ産業時代の一ページを、明治時代から100年以上、ずっと同じ敷地内に立ち、静かに物語る飯野専売支局敷地境界石です。 手入れの行き届いた花壇で、美しい花々に囲まれ、地域の人々に大切にされている情景に、心和んだ〇博調査員でした。

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←かつての飯野専売支局敷地東端一帯。手前の道は富士川街道(令和2年10月2日撮影)


3611 ←かつての飯野専売支局敷地西南角より倉庫町北交差点に向かう道。(令和2年10月5日撮影)※タップすると画像が少し拡大します。

※参考年表
明治29年 :葉煙草専売法施行。
明治30年 :葉煙草専売官制公布。
明治35年 :官制改正で東京専売局飯野出張所建設。
    葉煙草収納倉庫建てられ倉庫町といわれるようになった。
明治37年 :最盛期(作付反別526町7に達する)日本中部における重要産地になっていた。
明治37年 :煙草製造工場が国営になる。
大正5年 :葉煙草耕作も禁止。
大正6年 :倉庫町出張所も廃止。

2020年10月13日 (火)

「斉藤テレビさんのアルバムより、メグロジュニア・ダットサントラック・トヨタスタウト・三菱360

こんにちは。
 〇博では、市民の方々から、保管されているアルバム写真をお借りし、文化財課でその画像をデジタルデータ化して、データのみをご提供いただき、資料化しております。
 その際、どのお宅のアルバムに貼られた写真もだいたいそうなのですが、必ずしも年代順に貼られているわけではありませんので、資料化するにあたっては、〇博調査員が画像の中のヒントを頼りに、前後関係を考えて並べなおしていきます。
54-30 同一人物を特定してその時系列を考えることも大きなヒントになりますが、その時代を象徴するモノや商品が写り込んでいないかを観察すると、年代をある程度絞り込むことができます。
 富士川街道に面する斉藤テレビさんからご提供いただいたアルバムデータの場合は、いろいろなバイクや車が店前に写り込んでいて、大変参考になりました。

 今日は、年代を知る大きなヒントを〇博調査員に与えてくれた昭和20年代から30年代に活躍した車やバイクを斉藤テレビさんのアルバムからご紹介します。(※当ブログ過去記事「沢登の斉藤ラジオ店」2020年9月25日記でもご紹介しています)


ダットサントラック6147型 昭和26年(1951)~発売 


 現在も櫛形地区沢登で営業中の斉藤テレビさんは、昭和22年9月1日にラジオ店をこちらの斉藤忠男氏が開いたのがはじまりだそうです。もともと、同じ場所で忠男氏の父の武さんが雑貨商を営んでおり、その半分を間借りして始めたのだそうです。

30_20201013114201ダットサントラック6147型 忠男氏は昭和27年に結婚し、ボンネットに座る女の子は昭和29年の生まれであるとのことです。


9833 31 12_20201013114201メグロジュニア 昭和25年から31年位に販売されたもののようです。女の子が2歳位なので一致します。このかっこいいバイクを販売した目黒製作所は、後に川崎重工業に吸収されたようですね。
1201955ダットサントラック120型 1955年昭和30年から発売されたもよう。ボンネットに座っているのは、忠男さんの長男で、現在の斉藤テレビ店主である、昭和31年生まれの忠彦さん。塗装されたマツダという文字に迷わされますが、ダットサンでした。
1038-2 ←こちらの画像には昭和38年夏の裏書きがありましたが、よく見ると、3台のスクーターや車が写っています。
順に見ていくと
36036三菱360は、昭和36年に発売開始。昭和38年夏、富士川街道にはこんな車が走っていたんですね。いったいどんなカラーだったのでしょうかね?
3438_20201013114301トヨタスタウト 昭和38年夏に撮影。
103834ホンダドリームベンリィ 昭和34年から販売。便利なベンリィ!
 以上、いろいろなメーカーの車種が写り込んでいたのを調べてみました。
360rk10038 昭和26年から発売された「ダットサントラック6147型」からはじまって、「メグロジュニア」、「ダットサントラック120型」、「三菱360」、「トヨタスタウト」、「ホンダドリームベンリィ」と、現在もポピュラーなメーカーであっても、〇博調査員の聞き慣れない名前の車ばかりで、車好きバイク好きの方々の協力を得ても、探し当てるのは、けっこう難しかったです。


今後も、まだ街道を走る車の交通量が少なかった時代の生活や、お店ではどんな商品を多く運んだかなど、いろいろと斉藤テレビさんに質問してみたいと思ってます。現在使用されている商用車も見せていただけたら嬉しいな♪

2020年10月 9日 (金)

巨摩高校前駅・倉庫町駅・甲斐飯野駅

こんにちは。
2_20201009161301  今月に入ってから、コミュニティバスを利用して、在家塚から小笠原までの富士川街道沿い周辺を踏査しています。
 その途中で、ボロ電の駅跡の場所をいくつか撮影していたので、古い写真と比較しながらご覧いただきたいと思います。
 ボロ電に関する古写真については、撮影者の岡部禹雄氏の御子孫より、17点の現画像・3点の画像データを昨年度に南アルプス市文化財課にご寄贈くださいましたので、今回、活用させていただきます。

 通称「ボロ電」は、昭和5年(1930)~昭和37年(1962)までの32年間、甲府から南アルプス市域を経由して現在の富士川町にあった甲斐青柳駅まで、およそ20キロメートルを結んだ路面電車のことです。32年間のうちにこの鉄道の名称は、運営会社の買収や改名などにより、甲府電気鉄道→山梨電気鉄道→峡西電気鉄道→山梨交通と移行しています。
戦後になると、車社会の進展により利用者が減り、質素な小屋のような駅舎やところどころに草の生えた線路の状況に、いつしか「ボロ電」の愛称でよばれるようになりました。
 
 2_20201009161101  では、まず、「巨摩高校前駅」のあった場所からご紹介しましょう(令和2年10月2日撮影)。

←巨摩高校前駅跡を北から南方面に撮影(令和2年10月2日撮影)


 巨摩高校前駅跡に行くには、南アルプス市のコミュニティバス発着の起点となっている市立美術館バス停から、ボロ電廃軌道を南に歩いていきます。さらに、春仙美術館南交差点をさらに少し南に歩くと、左手に巨大なジャングルジムみたいな東京電力明穂変電所の構造物が見えてきます。そのあたりが巨摩高校前駅のあった場所です。ちょうどコミュニティバスの富士見町バス停のある場所ですよ。 

4_20201009161101 ←巨摩高校前駅跡を南から北方面に撮影(令和2年10月2日撮影)


002img20190909_16282430 ←岡部禹雄氏撮影の昭和30年代撮影の巨摩高校前駅(南アルプス市教育委員会文化財課所蔵)


8 現在の写真と見比べてみてください。 

←旧巨摩高校前駅(令和2年10月2日撮影


002img20190909_13150474 ←岡部禹雄氏撮影の昭和37年頃撮影の巨摩高校前駅(岡部家所蔵)

6_20201009161201 ←この場所では、ホームの痕跡も見つけることができるのですよ!ホーム部分と思われる場所の東側にまわってみると、下部に石積みのようなものが見えます。


10 ←ここはかつてホームを降りる階段があった場所だと思われます。


 3686  こちらは、倉庫町駅跡周辺です。シラネパックさんの敷地あたりが駅だったといわれています。ちょうど現在の桃園交差点の北西部分にあたります。この倉庫町駅周辺には、泰平館・石原・甲西社・天行館・グンゼ飯野工場・斉藤・巨摩社などの大製糸場がボロ電操業期間に存在したので、そこに働いた多くの工女さんたちもこの倉庫町駅を利用したのではないでしょうか。

 ちなみに、巨摩高校前駅と倉庫町駅の間にあった桃園駅は、現在の桃園神社敷地南東交差点脇にあり、駐車場にかわっています。この場所については、桃園地区踏査の際にしっかり撮影したいと思います。

34375-2  ←こちらはかつて甲斐飯野駅があったあたりです。赤で記したところにホームがあったのだと思います。


002img20190909_15135817 ←岡部禹雄氏撮影の昭和30年代撮影の甲斐飯野駅(南アルプス市教育委員会文化財課所蔵)


開業からずっと飯野驛とよばれた駅は、昭和25年9月から、国鉄との連帯運輸開始に伴い、駅名が「甲斐飯野駅」に改名されました。


甲斐飯野駅から甲府へ向かう次の駅は在家塚駅ですが、現在は、道の駅しらねの場所になり、そこは、コミュニティバスのバス停「JA在家塚支所」でもあります。


 Photo_20201009161301 実は、昭和23年に製造されたボロ電の車両が、現在走っているコミュニティバスの塗装でよみがえっています。

ですから、コミュニティバスに乗って市内を走ると、50年以上前に走っていたボロ電にホントに乗ってる気分になって、効率よく懐かしのボロ電駅ツアーができてしまうという素晴らしさ!を実感した〇博調査員です。

今後の小笠原や曲輪田方面への調査でも、コミュニティバスが大活躍しそうです。

ボロ電塗装車は他に青色バージョンもあるので、今度乗車する日が楽しみです。

2020年9月30日 (水)

櫛形地区東吉田の稲荷社周辺で

296  こんにちは。

きょうは、櫛形地区東吉田を踏査した時に訪れた、刈穂稲荷神社周辺をご紹介します。

 

 

 

 


282 Photo_20200930163103 ←刈穂稲荷神社 (左:2020年9月1日撮影 右:昭和41年刊櫛形町誌画像)
玉垣の内に銅葺屋根の神殿をもつ刈穂稲荷神社には、かつて大正時代に女性の行者が居て奉仕していたそうです。

282-3 Photo_20200930163601 282-4 282-15    その東側には、隣接してさらに別の稲荷神社があり、その他、三峯神社の形跡など、いろいろな神を祀った石造物が多数存在している場所となっています。


←稲荷神社と狐(モノクロ画像は櫛形町誌画像):櫛形町誌には写っていない、足などが修復された狐が左右に置かれています。よく見ると愛らしいお狐ですよ。


282-5 Photo_20200930163801 ←三峯神社の水鉢(モノクロが画像は櫛形町誌):東吉田稲荷神社一帯の東入り口に置かれている。
 石造物や祈りの対象であった自然石については、豊村誌(昭和35年刊)と 櫛形町誌(昭和41年刊)に載る画像と現在の様子を照らし合わせてみてみましたが、それらを同定するのはとても難しいことに思えました。
Photo_20200930164501 ←シャクシバンバ(昭和35年刊豊村誌)
282-8_20201001101501  今後も聞き取り調査等を重ね、シャクシバンバと山之神の石造物だけでも、特定したいと考えています。シャクシバンバは、願掛けすると、咳や喉の病気によく効くと伝えられるしゃぶきばばあや姥神とおなじような民間信仰の対象となる石だったと思われます。
Photo_20200930164502 ←東吉田の山之神(昭和35年刊豊村誌)

282_20200930163101  282-9_20201001101501 282-6_20201001101401 東吉田に限らずどの地域でも、道路の拡幅や土地利用の変化などにより、願掛けや信仰の対象となっていた石造物や自然石も場所を移動したり、集められることがよくあります。


1229 それらの行方を探して歩くうちに、新興住宅地の一画にポツンと残るこんなものが目に入りました。果樹を潤す役目を終えたスプリンクラーのヘッドです。


350年前から、月夜でも焼けるこの土地を何とかしようと、先人たちが、はるばる韮崎市円野町より釜無川から取って、通してくれた水がここまで来ている。

こちらも先人たちが未来の私たちに残してくれた遺産の一つです。邪魔モノのようになってしまったヘッドをひっかけないように、横に置かれている切株がなんだか少し痛々しいですが、原七郷の土地利用の変化を今後もずっと記録していくのは、文化財課の仕事の一つです。

2020年9月25日 (金)

沢登の斉藤ラジオ店

こんにちは。
先月末に、櫛形地区沢登区を踏査しました。その際、富士川街道沿いの街並みを撮影しようと、「(株)斉藤テレビ」さんのお店前の様子も撮りました。
9292020827 ←沢登にある(株)斉藤テレビさん。(2020年8月27日撮影)


 この斉藤テレビさんのお宅からは、以前に昭和20年代末から40年代までのアルバム写真の画像データを文化財課にご提供いただいています。


 今日は、現在も多くの人や車が往来する富士川街道沿いで、地域の誰もが見知る街の電気屋さんの、昭和20年代末から30年代末までの変遷をアルバム写真データを、〇博調査員がおおまかな年順に整理して、ご紹介したいと思います。


1 ←昭和20年代末の「斉藤ラジオ店」(沢登斉藤家所蔵)


 斉藤家のアルバム中で、もっとも古いと考えられる店舗画像をよく見ると、看板にはテレビの文字はなく、「斉藤ラジオ店」とあります。

国産第一号のテレビは昭和28年の発売で、たいへん高価だったので一般家庭に普及せず、昭和34頃までは、街頭に設置されたテレビを見る時代でした。ですから、斉藤家でも、ラジオが看板商品だったようですね。

 さらによく見ると、右奥には斉藤商店が併設しており、たばこも販売していたようです。

その他、この写真に見えるいくつかの小看板から読み取ることのできた商品名を羅列すると、「日立真空管・ヒタチランプ・ラジオTEN真空管・岡田乾電池・ナショナルアイロン・NEC真空管」などで、当時の電気屋さんの売れ筋商品がわかります。


30_20200925091101 ←昭和30年頃撮影の斉藤テレビ店の商用車:ボンネットに乗っている赤ちゃんは昭和29年生まれの加恵子ちゃん。(沢登斉藤家所蔵)
 昭和30年代に入ると、一般家庭向けのテレビや冷蔵庫、洗濯機などが次々と発売されはじめるので、それらを配達するための大型の商用車が必要となったのでしょうね。幌をかぶせた荷台の側面にはラジオではなく「斉藤テレビ」の文字がペイントされています。


12_20200925091101 ←昭和31年か32年の斉藤テレビ商会:中央に立つ加恵子ちゃんの成長が、アルバム中の写真を年代順に並べる指標になります。(沢登斉藤家所蔵)


 この画像では、前輪カバーに斉藤テレビの銘が入った、かっこいい商用バイクにも目を奪われますが、 店前のいたるところに掲げられたちいさなホーロー看板の文字も、よく見ると情報がいろいろともらえます。

特に、吊り下げられた正方形のたばこ看板の下あたりに見える、「郡是製糸飯野工場指定店」の文字には、近隣の倉庫町で栄えていた蚕糸業の痕跡を見ることができますね。

 


32 ←昭和32年5月頃の斉藤テレビラジオ商会(沢登斉藤家所蔵)


 大きな「ナショナルテレビ」の縦型看板が目立ちます。右奥には、「サンヨーテレビ・ラジオ」の縦看板もありますね。

斉藤家では、ひきつつづきに日用雑貨店も併設していたようで、塩・たばこ・テンヨ武田(醤油)の文字も見えます。


112 ←昭和30年代半ばの斉藤テレビラジオ商会の店先(沢登斉藤家所蔵)

(※すべての画像は、タップすると少し拡大します。)


 こちらの画像では、園児くらいになった加恵子ちゃんの後ろにお店の商品の一部が見えます。

奥には洗濯機などの大物家電が、まだ舗装されていない富士川街道沿いの手前には、電灯の笠のような消耗品が並んでいますね。

そして、目を凝らすと、店内の装飾のれんに東芝の文字が見つけられます。


Photo_20200925091101 ←東芝ストアーとなった昭和30年代半ば1月の斉藤テレビ(沢登斉藤家所蔵)
 昭和30年代半ばに、斉藤家では店舗を改装し、東芝の家庭電気器具を売る特約店になったようですね。この画像では、昭和31年に生まれた忠彦さんがおばあちゃんの前に立っており、その後ろには、正月の初荷が積まれています。この画像では、富士川街道はまだ舗装されていません。
3438 ←昭和38年夏の斉藤テレビ(沢登斉藤家所蔵)


 こちらの画像にはしっかりと年記の裏書きがありました。

そして、店前の道がアスファルト舗装されており、商用車の車種も変わっています。

相変わらずたばこと塩も売っているようですが、店内の左寄り入り口近くには、電気炊飯器や電気ポットのようなものが棚に見え、冷蔵庫、テレビ、洗濯機の三種の神器以外にも、一般家庭に家電の種類がどんどん増えていく時分だったのだと理解できます。


 一般的に昭和30年代は各家庭にマイカーとともに、電化製品がいきわたっていく時代だったといわれています。のちの平成天皇ご成婚時のパレードを見るために、昭和34年には一般家庭のテレビ購入率が一気に上がりました。昭和30年代後半になると、二槽式で脱水槽のある洗濯機が爆発的に売れ、台所の氷冷蔵庫は製氷機付きの電気冷蔵庫に交代していきました。戦後の高度成長とともに急激に変化した社会生活に対応して、昭和の人々は新しい電化製品を家庭に導入し、その家電生活をもっと楽しむために一生懸命働いたのだと思います。

ふるさとの街の電気屋さんの、昭和30年代の店先の変化は、昭和時代の人々の生活の変化を端的に表しているといえます。

斉藤テレビさんからご提供いただいた家族アルバムの画像は、大変に貴重なふるさとの資料として、今後も○○博物館でたびたびに活用させていただく所存です。感謝申し上げます。願わくば、画像に付随した情報のさらなる肉付けを行うために、コロナ禍ですが、いつか訪問させていただくことが叶えばと思っております。

2020年9月16日 (水)

大正5年の榊小学校運動会プログラム

こんにちは。

101 本日は、〇博収蔵資料に中から、櫛形地区宮地にあった榊小学校の大正5年に行われた運動会のプログラムをご紹介したいと思います。

例年ならば、この時期に、地域の人々が集って盛大に開催される運動会ですが、今年は参観者の入場制限や種目数を減らすなどの対応をした上で、市内各小学校では9月末に多く行われるようですね。

大正5年榊尋常小学校運動会プログラム(表)(南アルプス市文化財課所蔵平岡河野家資料より)

日本で小学校の行事として運動会が行われるようになったのは、明治19年以降だといわれています。小学校や中学校では、体操おさらい会のような運動会が、体育教育の発展に有効だと判断した初代文部大臣の文部省令により、明治19年にはじまりました。

しかし、教育制度がはじまったばかりの当時では運動場の整っていない学校がほとんどで、地域の神社ら寺の敷地を借りて開催する場合も多かったようです。そのために、昭和時代までは、学区の人々も協力し、組ごとにお弁当を持ち寄って参観するような地域ぐるみの運動会の伝統が日本各地に残っていましたところが、現在では、都市部の学校など、児童の安全面への配慮から運動会自体を地域住民に公開しない場合も増えてきましたし、山梨県外の学校では、保護者とともにお弁当を食べるという習慣も失われはじめているようです。

特に今年は、南アルプス市市内の学校でもコロナ渦に対応した運動会の開催方法に苦慮ていると思いますが、今後運動会の在り方がどのように変わっていくのか気になりますね。

002img20200914_14373322  さて、本題の、「榊小学校の大正5年に行われた運動会のプログラム」ですが、今年の3月に、櫛形地区平岡の河野家よりご寄贈いただいた資料を、〇博で調査・整理するで発見しました。

「櫛形地区上宮地の八幡神社の下にあった榊小学校」中巨摩郡誌(昭和3年刊)

榊小学校は、現在の南アルプス市櫛形地区上宮地に存在した小学校でした。明治12年に榊村誕生とともに創設され、明治33年には榊尋常高等小学校となりました。場所は、上宮地の八幡神社東側のあたりになりますが、現在、建物等はありません(文化財課職員T氏の情報によると、旧敷地の門跡の石がまだ残っているそうです)。これは、昭和33年に小笠原第二小学校とともに統合されて櫛形北小学校ができ、廃校となったからです。

 

102  プログラムは残念ながら左の三分の一が切断されて無くなっており、午前の部の途中までしかわかりませんが、右から順に行う「演技名称」ごとに、「主目的」「学年」「回数」が列記されています。興味深い演技名などに目が釘付けになった〇博調査員は、このプログラムに載っている、大正時代に榊小学校で実際に行われた運動会を、いま見てきたかのように説明できたら、何てすばらしいだろうと想像してしまいました。

大正5年榊尋常小学校運動会プログラム(裏)(南アルプス市文化財課所蔵平岡河野家資料より)※タップすると画像が拡大します

最初に一年生が全員で行う『達磨落シ』の主目的は『沈着』、次の『旗送り』の目的は『規律、敏捷』。現在行われている小学校の種目や学習のねらいとは、ずいぶん風情が違いますね!

さらにこれこれ、その次の『珍無類』(ナンダソレ?)という演技の目的は『協同忍耐』だそうですよ!

ところで、この聞き慣れない『珍無類(ちんむるい)』という言葉の意味を調べてみると、他の例のないほどおかしくて変わっていること。また、そのさま。』とありました。そして、主目的は「協同で忍耐!」いったいどんな演技なのでしょう? 〇博調査員の頭の中で妄想がすごい勢いでふくらみます。

5_20200916151001 ためしに、〇博調査員の妄想でこの種目の説明を試みると、たとえば・・・、「珍無類という演技種目は、二組に分かれたチーム対抗戦で、一方が素っ頓狂な面白い姿を見せたり、笑わずにはいられないような寸劇を披露したりするのを、もう一方のチームが一生懸命に平静装って協同忍耐で笑うのをこらえる?!という競技。 チームの一人でも笑ったら負け!?」とかいう種目なのでしょうか? チーム皆で、おかしくておかしくてお腹が痛くなるくらいなのをこらえるのって、想像を絶する忍耐が必要ですよね!たぶん。 フィールドの外で見守る観客たちの無防備な笑い声や吹き出しは、この競技の勝負に致命的な邪魔になりますから、会場一体の空気感がもの凄いことになっていたはず。

でも、なんだか年末に大人気の、紅白歌合戦の裏番組に近いシチュエーションを想像してしまうのは、まったく、私の貧困な想像力のせいですね。失礼しました。

↑ 大正5年榊尋常高等小学校卒業生(南アルプス市文化財課所蔵平岡河野家資料より)

 しかしながら、みなさんもこのプログラムをご覧になったなら、大正五年にふるさとの先人たちが実際に行っていた地域の人々の集う盛大な祭りのような運動会の模様をその演技名称から想像して思い浮かべるうちに、実況アナウンサーのように解説してみたくなるに違いない!と思うのは〇博調査員だけでしょうか? このプログラム資料の存在で、大正時代の運動会が、女の子の出場種目が少なく、かけっこは男子のみだったようだ等の情報もくれますし、現在とはちょっと違う昔の運動会に思いはせることができます。プログラムと同じ大正5年の榊小学校のアルバム写真もありますが、全員の子供がまだ洋服を着ておらず着物に袴だったのを見ると、運動会の装いも洋服に靴ではなく、袴に運動足袋のようなものを履いていたことが想像できます。

7  来年開催予定の東京五輪・パラリンピック大会開催までに、〇博調査員は、さらに少しでも南アルプス市域における大正時代の運動会の実態がわかるよう、写真や記憶、文献資料の収集・調査に引き続き努めたいと思います。市民の皆様のご協力をお願いいたします。

大正7年榊尋常高等小学校卒業生(南アルプス市文化財課所蔵平岡河野家資料より)

本日は、〇博調査員の妄想を含んだ、大正時代の運動会地域資料発見のご報告でした。どうかご勘弁のほどを。

2020年9月 8日 (火)

沢登の瀬戸重さんのこと

こんにちは。
 去る、9月6日は、伝説の男「せとじゅうさん」の命日でした。
 櫛形町誌(昭和41年)に、地域で流行ったこんな地口(じぐち:言葉遊びのこと)が載っています。
『瀬戸じゅうやんじゃあねえけんど、ちっと「き」が足りん』
というもので、「き」を「木」と「気」にかけているだそうです。
Photo_20200908143101  そして、その解説に、『大正から昭和にかけて、沢登に瀬戸十さんと言う名物男があった。葬式があると尋ねていっては、各宗に応じたお経を読んで霊を慰めた。好んで子供と遊び、謎をかけて、自分から「瀬戸十やんとかけて、建てかけの普請と解くー心は、ちっときが足らん」と言った。この人は今、沢登の竜沢寺に瀬戸地蔵として祀られている。(櫛形町誌第三章p1722・昭和41年刊)』とあります。
地口は、せとじゅうさんが子供たちに発した謎かけがもとになっていたのですね。また、お地蔵さんにまでなっているなんて、すごい人物ですね。今日は、その名物男のことを探ってみたいと思います。
←櫛形町誌(昭和41年刊)の瀬戸地蔵画像。この地蔵は昭和24年12月6日に建立したという。


203-5先日、櫛形地区沢登区を踏査してきた際に、「せとじゅうさん」を偲んで造られた瀬戸地蔵さんのある龍沢寺の前を通りました。

←沢登の龍澤寺:平成23年造の瀬戸地蔵は門内の東側駐車場に面して鎮座している。2020年8月25日撮影

203-8 ←こちらが山門の脇にある瀬戸地蔵さんです。
台座のプレートには『風呂敷ひとつ 住む場所も名誉財産も求めず飄々と生きた 記憶力は抜群だが計算は出来なかった 知る人は、馬鹿といい 天才といい 無欲の聖人という 確かなのは純粋なひとであったということであろう』と刻まれています。
203-3 203-7  しかし、櫛形町誌に載っていたお地蔵さんの画像とは異なるもので、明らかに新しくピカピカで背景も違いますから、同一のものではないようです。
このお像の後ろに回ってみると、こちらは平成23年に造られたものだと判りました。 これは、「せとじゅうさん」という人が、死後60年以上経てもなお、地域の人々に語り継がれ慕われていた証拠ですから、〇博調査員はどんな人だったのかますます彼のことを知りたくなったわけです。

 

 そして、まずは文献をあたってみると
① 櫛形町誌第三章生活「いろいろな言いごと・地口」の項p1722 1966 昭和41年
② 甲州庶民伝「放浪の奇人 名取瀬戸重」 NHK甲府放送局編 日本放送出版会 1977 
③ えすぷりぬーぼー 創刊三号「瀬戸重」 山梨ふるさと文庫 1986 3月 
④ えすぷりぬーぼー 五号「あなたはせとじゅうを知っていますか」 山梨ふるさと文庫 1986 7月 
⑤ 喜劇 せとじゅうさん物語 石川武敏 山梨ふるさと文庫 1988 10月 
以上の5つがヒットしました。
 一番古い記述は、①櫛形町誌でした。そして、人物像について詳しく記されるようになるのは、②~④の文献ですが、そのすべてを岩崎征吾(正吾)さんという方が関わって執筆・編集されています。⑤は舞台用に脚本化されたせとじゅうの物語でした。

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←④えすぷりぬーぼー五号(1986年7月1日発行)のせとじゅうの特集記事。

では、 岩崎正吾氏の手による文献をもとに、人物像をまとめてみますね。

『沢登のせとじゅうやん』と親しまれ、お地蔵さんにもなったこの伝説の人物は、名取瀬戸重という実在の人で、明治11年に沢登に生まれ、昭和23年に70才で亡くなりました。その人は、葬式があると、どこからともなく弔いに必ず現れ、大きな風呂敷包みから古い袈裟を取り出して着て、どんな宗派でも本物のお坊さんに合わせて朗々とお経をあげました。そして、唱え終わると、同じ風呂敷包みから茶碗と箸、あるいは重箱と風呂敷を取り出して、お葬式のご飯をもらって帰っていったそうです。その地域は、現在の韮崎市、甲府市、甲斐市、昭和町、中央市、市川三郷町、富士川町にまでおよびました。
昔はこういう人のことを「おこんじきぼうず」と呼んだこともあったようですが、せとじゅうさんがとりわけ地域の人に愛されたのには、その風貌と人柄に理由があったようです。
・お地蔵さんみたいなクリクリ坊主に、澄んだ眼が印象的で、親しみやすく、「あはははは」とよく笑う人。
・子供が好きで、蛙の真似をしてゲコゲコ言いながら四つん這いになってぴょんぴょん飛び跳ねてみせて楽しませる。
・礼節はきちんとわきまえていて、ご飯やおにぎりをくれた家には、お礼にと、モシキ(薪)をくくって持ってきたりする。
以上のような愛嬌のある風貌と人柄が記されている一方で、
・六尺(180㎝)近く背が高く、カリスマ性も持ち合わせていた。
・「瀬戸重の暗記力」といわれるほど有名な抜群の記憶力で、お経は宗派を問わず読め、一度聞いた戒名や命日、近所の子供たちの名前もすべて覚えていた。
といいます。
12904  夜はたいていお寺の本堂などで寝泊まりしていましたが、長逗留はせず、一晩だけで別のお寺に行って寝たので、どのお寺でも「せとじゅうさんは悪いことはしない」ということで安心して泊めていたそうです。

←鏡中條の常教寺妙音堂:瀬戸重さんが亡くなる一週間前(昭和23年8月末)に、このお堂で倒れたのだという。(2019年11月5日撮影)

  瀬戸重さんの死後、その生き方が「六波羅蜜を体現した人」とか、中国の伝説上の僧である「寒山拾得そのもの」などと評価する人が現れ、近隣では「沢登の良寛さん」とか、「瀬戸観音の申し子」などの愛称とともに語り継がれました。
 たぶん、生前から、特異な行動と才能だった故に、皆がよく知っている地方の有名人みたいな人だったんだと思います。瀬戸地蔵が、亡くなった翌年に建立されていることからも、生前から様々な物語性をもった人物であったことは間違いありません。だからこそ、瀬戸重さんが、どうしてそんな生き方をするようになったかを含めて、いろいろなうわさ話や世間話が流布していたのだと考えられます。
 彼の死後、さらに、この人の特異性が深められて都市伝説のように広まり、早い時期から口承文学に発展したのだと推測できます。そして、昭和時代のうちに、文芸作品にとどまらず、演劇にまで発展していった「沢登のせとじゅうやん」。

 〇博調査員の亡き義父(昭和9年生まれ)は、現在の中央市の田富で生まれ育った人で、子供の頃、「リアルせとじゅうさん」に会って、蛙の物真似をして楽しませてもらったことを憶えており、息子(〇博調査員の配偶者)に話し聞かせたそうです。少なくとも平成の世までは、口承文芸として、「せとじゅうさん」が生きていたのです。
 義父と同じくらいの年の方々はまだたくさん元気にいらっしゃいますから、もしかしたら現在でも、瀬戸重さん本人を知る人に出会う幸運があれば、話を聞く事ができるかもしれませんね。

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←瀬戸重さんの生家のあった沢登区の街並み。(2020年8月25日撮影)

〇博では民俗学的な見地から、生家のあった沢登周辺地域において、「せとじゅう」物語がどのような口承文化として過去から現在まで伝えられてきているのか? 令和の世に改めて調査できたらいいなと考えています。

2020年8月24日 (月)

加賀美最後の瓦窯元であった神山家

こんにちは。
Dsc_0364_20200824110101  先日、瓦製造が盛んだった若草地区加賀美で、最後まで操業していた神山家工房跡を見せていただく機会を得ました。

加賀美は、最盛期の昭和初期には40軒以上もの瓦窯が密集する地域でした。

その中でも、この神山家はこの地で最後まで瓦を焼いていた家です。

 

Dsc_0357_20200824110101 昭和初め頃から平成2年まで操業し、最後の数年は夫に先立たれた神山とめ子さんが近所の瓦製造経験者たちに助けてもらいながら、ひとりで工房を継続したのだそうです。

←昭和初期から平成2年まで操業した神山家の瓦製造工房内

今は亡きとめ子さんの娘さんとお孫さんが、工房内に残されていた道具類を見せてくださり、一部は文化財課に寄贈していただくことになりました。


Dsc_0376_20200824110201←こちらは瓦を成形する型枠ですね。石のろくろとセットで使うのだと実際の使い方を見せてくださいました。


_dsc0595_20200824110101以前に、同じ加賀美にあった澤登瓦店の作業風景画像にも同じような道具が写っているのをみていたので、今回はその実物資料を収蔵する運びとなって、大変ありがたかったです。

←加賀美の澤登瓦店の昭和40年代末の瓦製造風景。神山家に残されていたのと同じ道具を使っている。

 


P8170344 P8170345P8180352←体験工房等で使用したと思われる鬼瓦に関連した型の数々。 また、神山家工房の終末期には、体験工房としてお客さんに瓦の置物等をつくってもらう取り組みもなさっていたようで、それらの体験用の備品が残されていました。

Dsc_0369 Dsc_0370_20200824110201  工房の外に出てみると、前庭の駐車場の一部がコンクリートブロックで囲われて一段高くなっているのを見つけました。

うかがってみると、この区画内には、かつて成型した瓦を干すための棚が設けられていたということでした。

↑庭の一部がコンクリートブロックで区画され、一段高くなっている。この区画上に瓦を干す台が設けられた。

一段高くなっているのは、大雨が降った際に、上に掛けたシートから流れ落ちる水を素早く流すためだったそうです。

002 Photo_20200824110201 ←八田町誌と若草町誌にある、瓦干し場の様子。


加賀美は南アルプス市の田方(たがた:原七郷にしみ込んだ水が豊富に湧き出る地域)にありますので、家によっては、このような工夫をする必要があったのですね。教えていただいて初めて知りました。

 加賀美の瓦産業については、まだまだ聞き取り調査や関連資料を増やしていきたいと考えています。


今回ご案内してくださった方には、帰り際に、神山家工房での作業風景や加賀美最後の瓦職人であったとめ子さんの画像のご提供をお願いしてまいりました。次回、見せていただくのを心待ちにしている〇博調査員です。

 

2020年8月21日 (金)

パステルグリーンがレトロな旧野々瀬郵便局跡建物

こんにちは。
Dsc_0382_20200821111501 本日も、ふるさと文化伝承館では、テーマ展「開削350年 徳島堰」が絶賛開催中です。

←入口の展示資料に、「徳島兵左衛門俊正像」があります。
昭和32年に飯野新田の了円寺に寄進されたというそのお像を眺めていて思ったのは、「昭和30年代になっても、南アルプス市に住む人々にとって、この堰のもたらしてくれる恩恵の偉大さは衰えるどころか増す一方であったことをこの像は象徴しているのだなぁ」ということです。

像の作者で桃園の木彫家、長澤其山氏がこの像を完成させたのは昭和40年とのことですので、もちろん彼の想像のお姿ですが、この直後に、堰からの水を使って南アルプス市の原七郷一円に本格的なスプリンクラー網整備がされていくことを考えると、製作時期とその意図に興味が湧きます。


Dsc_4203   さらにもうひとつ思ったのは、「お着物のグリーンが目に爽やかできれいだなぁ」ということです。其山先生のお好みの色だったのでしょうか?黒く日焼けした逞しいお顔をあざやかなグリーンの縞の着物が引き立てています。

そういえば、昭和30年代から40年代はパステルグリーンというか、ミントグリーンのようなさわやかな緑色が、車や生活用具、家の塗装によく使われていたイメージがあります。


←そうそう、櫛形地区上市之瀬に昭和12年に開業した古い郵便局の建物を見せていただいたときにも、爽やかなパステルグリーンの扉や内装がレトロで素敵でしたっけ、と思い出しました。

今日は話題が飛躍して申し訳ありませんが、その上市之瀬の野々瀬郵便局跡建物をご紹介することにしますね。

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← 現在は営業していませんが、道に面した大きなパステルグリーンの観音扉が印象的なその野之瀬郵便局は、櫛形西小学校の向かいに、県道伊奈ヶ湖公園線を挟んで立っています。


006 野々瀬郵便局は、昭和12年12月1日に現存する建物が建てられ、「野之瀬郵便取扱所」として開業しました。

005_20200821111601 その後15年に郵便局として新たにスタートを切っています。


郵便局は昭和50年代とその後とで2度移転していますので、最初の建物は当時のまま、古写真に写る姿をとどめています。

001 現在も建物を所有する、初代野々瀬郵便局長山本氏のご子孫が、当時の画像と資料を2018年に文化財課に寄贈してくださいました。


1215002 ←この写真には「取扱所」の文字が見えるので昭和15年以前ということがわかります。
Dsc_4204 201881 ←扉を開けると内装は当時のままでパステルグリーンの昭和レトロな雰囲気を醸しています。
Dsc_2588 Dsc_2589 ←お客さんと事務所を隔てる格子窓の内側の木枠に「150」の表示があります。この数字は、もしも郵便局に強盗が入ってきた場合には、この身長150㎝の目印でもって、強盗犯の身長の目安を得るための工夫だそうです。
Dsc_2599 Dsc_2598 ←外観を眺めると、屋根のてっぺんの瓦に〒マークが入っているのを見つけることができます。
Dsc_2566  ←外側の窓枠にはめられていた鉄格子は戦争時に切って供出してしまったそうです。
Dsc_2579 Dsc_2581 ←建物内には、郵便局時代の備品もいくつか遺されていました。パステルグリーンの彩色は昭和40年頃に塗りなおしたものだそうです。やはり、この色味が流行った時期なのでしょうかね。

Dsc_4205  普段は個人のお宅なので公開はしていませんが、文化財課では上市之瀬を舞台としたまち歩きイベント等の機会に、所有者のご協力を得て見せていただいています。

この野々瀬郵便局跡建物の左隣にはJA南アルプス市野之瀬支所、消防倉庫を挟んで右隣には現在営業中の野々瀬郵便局があります。

野々瀬村では最初の郵便局ということもあり、この地域の皆さんの記憶に深く残る象徴的な建物なんです。

←2018年10月1日に行った、「〇博さんぽ上市之瀬中野編」の際に立ち寄った旧野々瀬郵便局跡建物。

2020年8月14日 (金)

太郎さんの持ち帰った伝単「桐一葉」

こんにちは。
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 本日は、太平洋戦争中に陸軍航空本部技手であった志村太郎さんが、太平洋北部のアリューシャン列島にあるキスカ(鳴神)島で拾ったという、伝単「桐一葉」をご紹介します。

この「桐一葉」は南アルプス市文化財課が平成28年に若草地区下今井の志村家よりご寄贈いただき、収蔵する資料中にあります。

←伝単「桐一葉」表面「桐一葉 落つるは軍権必滅の凶兆なり散りて悲哀と不運ぞ積るのみ」とあり。


 伝単とは、戦争において、敵の国民や兵士に降伏をうながしたり、戦意を喪失させる意図で、空から撒いたり街に掲示したりする、宣伝謀略用の印刷物(ビラ)のことです。


 この「桐一葉」は、戦場で数多くばらまかれた伝単の中でも、ひときわ芸術性・文学性が高いものです。  
 色と形が桐の葉そっくりに作られているだけでなく、当時有名だった歌舞伎の演目「桐一葉」の内容を想起させる格調高い短文を付して、日本兵に軍部の衰退と滅亡を予感させています。
桐一葉はもとは坪内逍遥作の豊臣家の没落をテーマにした戯曲で、その中で詠われた台詞「桐一葉落ちて天下の秋を知る」は、片桐且元が豊臣家と自分の悲運を嘆く場面で発する有名な句でした。
「桐一葉」の伝単は、1942年(昭和17年)6月にニューヨークで在米日本人が関与して製作されたそうです。(※一ノ瀬俊也著「戦場に舞ったビラー伝単で読み直す太平洋戦争ー」2007年刊より)。

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 この「桐一葉」の伝単を北方アリューシャン列島のキスカ島で拾ったという志村太郎さんは、昭和13年9月に陸軍航空本部へ技手として雇入れられ、昭和17年にキスカ島に配属されました。

志村氏の書き遺した資料には、昭和17年11月10日20時に鳴神島(キスカ島)に上陸し、土木班として飛行場の建設に従事したと記されています。そして、翌、昭和18年6月18日に伊二号潜水艦で撤収とありましたので、その間の7か月間のキスカ島生活の中で、拾う機会があったものと考えられます。

←伝単「桐一葉」裏面「春再び来る前、降るアメリカの爆弾は、梧桐の揺落する如く、悲運と不幸を来すべし」との文言。


 当時、敵国からの伝単を所持することは固く禁じられていましたので、小さく折り畳んだその折目痕を見ると、見つからないように注意して持ち帰った、彼の気持ちを推し量りたくなります。


 志村氏がキスカ島滞在中の昭和18年5月には、同じアリューシャン列島のアッツ島がアメリカ軍によって玉砕しており、その状況下でのキスカ島から脱出は、まさに命からがらだったということです。(*証言は資料寄贈時に、志村太郎氏妻の道子氏からの聴き取りによる)

3936201619_20200814143501←「アリューシャン作戦従軍記録」志村太郎氏が後年、書き記して記録したもの。(※画像すべてはタップすると拡大します)


3936201616  ←「鳴神(キスカ)飛行場計画平面図 昭和18年2月北海道守備隊司令部」

下今井志村家より寄贈された資料の中にあるキスカ島配属時のものには、上陸前半期の従軍日誌、まぼろしとなった鳴神飛行場計画平面図(昭和18年2月北海守備隊司令部)、現地アリュート人との交流を写した写真等も残されています。

1718_20200814143501  志村家よりうかがったお話によると、太郎さんは昭和8年に17歳で農林学校を卒業後、父のもと22歳まで養蚕業に従事しましたが、昭和13年に、志村家の広大な養蚕飼育場があった土地を、玉幡飛行場建設のために陸軍航空本部へ売却せざるをえなくなったため、太郎氏は陸軍航空本部に雇入れられることになったそうです。

←「船上にて」左が志村太郎さんと推測される。


1718_20200814143503 その後、設計部員として北方のアリューシャン列島に位置するキスカ島や空襲の激しかった大阪などに配属された後、昭和20年6月からは地元でロタコと呼ばれた御勅使河原飛行場の建設に携わりました。

←「アリュート人と鮭を運ぶ」キスカ島にて昭和17・18年頃の撮影。


 太郎氏は昭和59年に68歳で亡くなられましたので、もう直接にその証言を聴くことは叶わないのですが、26歳で思いがけず流氷浮かぶベーリング海を臨む孤島に連れていかれた若者の心境、その地で「桐一葉」を拾った時の心情はどんなものだったのでしょうか? そして拾った伝単を、決死のキスカ島撤退を経て、太郎さんは内緒で生まれ故郷まで持ち帰ってくださいました。そして、彼が亡くなった後はご家族が大切に保管されていました。
1718_20200814143502  戦争の時代に生きるということはどういうことだったのか?志村太郎さんの遺品や文書、写真、その一生から、なんらかの答えがもらえそうな気がしています。

 

←「アリュート人と我が勇姿(太郎氏本人の裏書きによる)」キスカ島にて昭和18年頃の撮影。 
 勇姿というにはあまりにも優しく清らかな太郎氏の笑顔に子供たちとの関係性がにじみ出ていると思います。

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