2018年11月15日 (木)

高尾街道沿いの保坂呉服店と道標

こんにちは、みづほです。

 西野にある保呉服店さんは昭和2年に高尾街道沿いの椚に開店しました。

Img20181026_09540442 ←昭和20年代終わりころから30年代はじめの撮影と思われる保坂呉服店の様子。店の前に立っているのは、売り出しの際の看板の字をいつも書いていた保坂高治さん(保坂治さんのお父様)だそうです。(保坂和子家アルバムより)

Dsc_3750 ←現在の保坂呉服店(木曜休日)の様子。(平成30118日撮影)

Img20181026_09444754 現在の店主は西野区調査でいつもお世話になっている、保坂和子さんです。

お持ちになっている貴重なアルバムからたくさんの画像資料をご提供くださいましたので、ご紹介したいと思います。

←保坂和子さんは犬のメリーちゃんを触っている右の女の子です。和子さんの左の女の子は近所に住んでいた一つ年上の友達、長谷部京子さん。京子さんの前にいる男の子は保坂弘秀さん(和子さんの弟)(昭和30年代撮影)

西野区内の高尾街道沿いには、保坂呉服店さんの他に、乾物屋、酒屋、薬屋、日用雑貨店などがありましたが、現在も営業されているのは、保坂呉服店さんのみです。

2018110220181106_09513328_2 ←保坂和子さんの前の保阪呉服店店主は兄の勝美さんでした。自転車に乗っているのが4歳の保坂勝美さん、その横にいるのが2歳の和子さん。

Img20181026_09541212 ←初売りでにぎわう保坂呉服店。(昭和30年代撮影)

Img20181026_09560764Img20181026_09563769 ←初売りの福引きの様子。福引きを取り仕切っている男性は野沢正徳さん。(昭和30年代撮影)

Img20181026_09471775 甲府から高尾穂見神社に参詣する人々が釜無川を渡って今諏訪の坂を上り、慈眼寺のあたりで戸田街道から離れるようにに曲がって西野へと進む道が、高尾街道です。保坂呉服店はその街道の通り道にある西野の椚(くぬぎ)集落にありました。

←店先で大量の綿が売られている。座っている男の子は和子さんの弟の保坂弘秀さん(昭和35年撮影)

 

和子さんが「11月の半ばに行われる高尾の夜祭に出かける人々向けて、街道沿いに面する商店の前では「茅飴(かやあめ)」を売っていたみたいよ」と教えてくださいました。

かつては茅飴づくり用と伝わるおおきな鉢がお宅に残されていたそうです。

提灯を持ったたくさんの人々がこのお店の前を行き交ったのでしょうね。

Img20181026_10032428 ←昭和52年、旧店舗を取り壊す直前に撮影。保坂和子さんのおばの静子さんが店前に立っている。

 

Photo そんなことを考えながらお店の入り口そばをウロウロすると、道標がありました。

←保坂家入口から在家塚方面へ出ると、ため池跡広場脇の道路沿いにこの道標が立っている。

保坂呉服店さんの前から小笠原方面に行く道が分岐しているので、その分かれ道の起点に置かれたものだったのでしょう。

 

現在、この道標は高尾街道沿いで南向きに立っていますが、「右は高尾、左は小笠原」の指し示す方向から考えて、もとは東向きに立てられていたと考えられます。

 

Img20181026_14205016 〇博のウェブサイトが12月にオープンしましたら、是非、昭和期の写真と現在の様子を重ね合わせて白根地区西野区椚あたりを歩いてみてください。

←昭和17年撮影。保坂呉服店前で撮影された家族と従業員の集合写真。結婚する前の和子さんのお父様(保坂正弘さん21歳)の出征時の写真で、まだ11歳のお母さまも写っている。

前列左から、①保坂静子(和子さんのおば)、②野沢正弘(後に和子さんの父になる。21歳の時)、③保坂庭之助(和子さんの祖父、明治32年生まれで昭和22年に亡くなる)、④保坂イマ(庭之助の母)、⑤保坂トクノ(庭之助の妻)、⑥保坂達子(トクノに抱かれている赤ちゃん。和子さんのおば)

後列左から、①ふみ子さん(庭之助の姪)、②氏名その他不明、③野沢正徳(野沢正弘の兄。従業員)、④向山真広、⑤保坂初子(和子さんの母、11歳の時)、⑥今子さん(従業員)


※写真の氏名記載は保坂和子さんのご了解とご希望をいただき、掲載させていただきました。


往時の風景から変わったところと変わらないところ、いろいろな面白い発見があると思いますよ。

100年の大和百目

こんにちは、みづほです。

Dsc_3788 ←こちらは南アルプス市白根地区西野の手塚家が所有する大和百目の柿畑です。

大正71918)年3月に手塚光彰氏が西野字北組切付(現南アルプス市白根地区桃ノ丘団地北部)に50本の大和百目の苗木を植えた場所です。

 今回は、その大和百目にこだわり、全国的にも評価の高い枯露柿生産者である手塚光裕さんを取材させていただきました。

Dsc_3791 100歳大和百目の実。

 

Dsc_3813  現在、南アルプス市域では、あんぽ柿・枯露柿が盛んですが、その原料となる渋柿には、9月終わりから12月にかけて、刀根早生・平核無・勝平・大和百目・甲州百目・武田などの品種が移り変わっていきます。

そのうち、勝平と大和百目の原木は南アルプス市白根地区にあったものです。

とくに大和百目は、甲州百目とならんで、現在山梨を代表する大型の枯露柿の原料として大変人気があり、南アルプス市域で多く生産されている品種の一つです。

 

 手塚氏によると、大和百目という品種の歩みは、西野に近接する上今諏訪の手塚半氏の竹林の中にあった一本の柿の木からはじまったそうです。

大正7年に植えられた100歳の大和百目。光裕さんに園地の一角にある100歳樹に案内していただきましたところ、意外にも、想像していたような老齢感漂う大きく太い幹ではなかったです。むしろ、この地に根を下ろして100年経っているとは思えないほどの樹勢で、大きな実をたくさんつけており、若々しささえ感じられる樹でした。(平成30年11月8日撮影)

Dsc_3792この木は甲州百目の枝代わりと言われていましたが、果実はそれ以上の大きさで、その上、核(種)が少なく、甲州百目よりも早く熟します。枯露柿用として用いると、果肉が非常になめらかで食感がよく、色も鮮やかに仕上ります。

この樹の柿に魅せられた光裕氏の祖父、光彰氏が、今諏訪の原木から穂木をとって苗木に仕立てて、大正73月に、現在の桃ノ丘団地付近に50本の苗木を植え、当時としては珍しい柿の園地を造成したのです。

ちょうど、今から100年前のことです。

Img20180803_11440081 ←南アルプス市白根地区上今諏訪の手塚半氏宅にあった「大和百目」の原木(昭和44年以前の撮影・白根町誌より)

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手塚家では、100年前に最初に植えた大和百目からさらに穂木をとって園地を増やし、現在は自家生産の大和百目のみに限定して、枯露柿を生産しています。

←大和百目の収穫をする昭和18年生まれの手塚光裕さん。光裕さんが生まれたころ、この大和百目の樹はすでに25歳だったということですね。

昭和9年には、光裕氏のお父様である光司氏が屋内での火力乾燥法を完成させ、加工技術においても業績をあげました。

いま、手塚家では100年にわたる代々の技術の蓄積を最大限に生かしたこだわりの枯露柿づくりを実現しています。

Dsc_3767 Dsc_3781←手塚家が経営する叶屋園芸場での枯露柿づくり。

手塚光司氏の完成させた枯露柿の火力乾燥法については、昭和期の当地からアメリカへの枯露柿輸出の実績にも深く関係している可能性があるので、今回とは別記事でご紹介したいと考えています。

柿の屋外干しシーズン到来!

こんにちは、みづほです。

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 市内での干し柿生産が最盛期を迎えています。

←上高砂にて(平成30年11月8日撮影)

いま八田・白根地区を歩くと、いたるところで柿剥きが行われています

そのそばには、剥きあがった鮮やかなオレンジ色の柿が可動式の棚に吊るされて、硫黄燻蒸室に順々に運ばれるのを待っています。

Dsc_3732 周辺の露地にまで、柿の上品な甘い香りがほのかに漂ってきて、思わず「ふぅー、すぅー」と深呼吸。

季節感あふれる秋の空気で肺も心も満たされ、うれしくなります。

下高砂にて(平成30年11月8日撮影)

Dsc_3747 ←下高砂にて(平成30118日撮影)

Dsc_3667  9月の終わりころから空調管理の整った屋内での乾燥が始まっていた南アルプス市域での干し柿生産ですが、11月に入ってからは屋外の干場にようやく柿が吊されるようになりました。

←西野にて(平成301025日撮影)

町中を歩き回れば、鮮やかなオレンジ色の柿があちらこちらで目に入り、その美しい光景に心癒されます。

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きょうは、〇博踏査の途中で撮りためた柿の風景をご覧いただきたいと思います。

←下高砂にて(平成30年11月8日撮影)


これらの干し柿生産の様子は、南アルプス市のまちなかを11月~12月のはじめ頃に歩けば、普通にあちこちで出会うことのできる風景です。

別に観光地でもなく、いつもの集落の道だけれども、このシーズンばかりは山の紅葉景色にも負けないくらいに美しい。

そう感じるのは、この地に住む人々が特に柿という果実とともに、生き抜いてきた歴史を知るからかもしれません。

Img20180808_16263615 江戸時代以前より、米の取れないこの地に住んできた人々は、籾と交換するために敷地の境に柿を植え、これを加工して籠に詰め、釜無川の東側にわたって野売りしました。

←昭和初期まで行われた柿の野売りの籠(功刀幹浩家アルバムより)

Dsc_3636 ←今諏訪にて(平成30年10月23日撮影)

加工の仕方や販売方法は時代とともに変化しましたが、現在も当地では、あんぽ柿や枯露柿など渋柿類の加工が盛んにおこなわれています。

Dsc_3762←上八田にて(平成30118日撮影)

庭先に大量の柿を積み上げ、軒先や庭の作業小屋内で盛大に皮を剥いています。

Dsc_3974_2 Dsc_0012 下高砂にて。上段部分だけ吊るされている。(平成30年11月15日午前10時撮影) と、昨年同日の下高砂同地点にて撮影したもの。昨年はすでに下段にも吊るされていた。(平成29年11月15日午前10時撮影)

 

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そして、八ヶ岳颪によく当たるように屋根より高く設けた干し台に運ばれた柿が揺れる風景はこの地で連綿と受け継がれてきた歴史的な景観といえると思います。

←下高砂にて(平成30年11月8日撮影)

2018年11月12日 (月)

まぼろしの西野白桃(後編)

Jpg_972463  こんにちは、みづほです。

うまい桃として根強いファンを持つ西野白桃は昭和40年代から50年代にかけて、大変人気が高かったおいしさ抜群の桃です。

しかし、甘い果汁が多く、果肉柔らかいという究極にうまい桃の特質が、現在の流通システムや購入時の消費者心理にそぐわず、一般に多く流通しない品種となってしまったことは前編でお伝えしました。

西野白桃の歩みは、昭和39年8月1日の午後、西野農協の事務室の2階で、芦澤達雄氏の敷地にあった実生、うまいと評判の桃を皆で試食したことにはじまります。(その際の詳しい描写は功刀幸男氏が著した「くだもの随想281その3西野白桃の思い出(山梨の園芸第523号平成12年6月号)」に掲載されています)

Jpg_s40 ←西野白桃モモ団地の造成(昭和40年・功刀幸男家アルバムより)

すぐさま、なんとかこのモモを世に出したいと農協を中心に努力がはじまり、昭和40年秋には、西野農協管内の7人の有志で近接するそれぞれの農園の桃やリンゴの木を伐採して伐根し、垣根を取り払って「西野白桃モモ団地」を造成し、西野白桃の苗木を植えました。一方、農林水産省に名称登録を申請して、昭和42年に種苗登録を実現

Img20180905_16404086 ←西野白桃は扇子を広げたように樹形を整える独特の剪定により、落果を防ぐことができた。写真左が功刀幸男氏、樹に上って剪定しているのが功刀幹浩氏(昭和40年代・功刀幸男家アルバムより)

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 しかし、西野白桃の栽培は難しく、画一的な栽培方法ではうまくいきませんでした。

人工授粉、剪定の仕方、肥料の種類や与え方、実にかける袋も開発含めた厳密な選定(内側が黒、外側の白の紙袋の採用)を行うなど、西野白桃を実らせるためのさまざまな研究を生産者自らが行い、栽培方法を模索しました。

←西野白桃は花粉がないので、結実には人工授粉が必須だった。傘で授粉用の大久保の摘蕾をする功刀幸男氏(昭和52年4月・功刀幸男家アルバムより)

 その当時の様子を振り返って、西野白桃栽培プロジェクトメンバーのお一人であった功刀幸男さんは、

「西野白桃栽培の試行錯誤では、苗を植える土地(立地)を良く観察・分析し、その特性に合致した栽培法をみつけることの重要性を思い知らされた。

果樹も人間と同じで、画一的な枠にはめては育たない。身を置く場所で一番合った生き方を見つけ、個々の自然体を大切に生きてこそ、力を発揮できる。」

西野白桃の栽培から人生も学んだと感慨深げでした。

Jpg_19s48412 ←第19回全国モモ研究大会の様子1(昭和48412日・功刀幸男家アルバムより) 

Jpg_19s48412_2 昭和48年には、全国モモ研究会が、成果をあげていた「西野白桃モモ団地」を舞台に開催されました。

←第19回全国モモ研究大会の様子2(昭和48年4月12日・功刀幸男家アルバムより)

 当時抜群にうまい桃として全国から注目されていた西野白桃について、発祥地で栽培方法を研究した農家たち自らがその成果と技術を公開するとあって、全国から桃農家が集結し、大変な賑わいだったようです。

 

 山梨県南アルプス市西野で生まれた西野白桃は、栽培経験者が減っていく現状にあって、もはやレジェンドとなりつつあります。

しかし、そのおいしさの記憶は昭和時代の桃の味を知る市民の中にまだ生きており、流通や販売方法の多様化が進む将来、再び出番がやってくるのではないだろうかと期待してしまいます。Jpg_19s48412_3

←第19回全国モモ研究大会の様子3(昭和48年4月12日・功刀幸男家アルバムより)

昭和39年に西野の果樹農家たちが魅了されたモモの味っていったいどんなおいしさなのでしょうか?

 

 南アルプス市の果樹産業史に燦然と輝く昭和末期の西野白桃栽培。

専門的な栽培技術が、末永く当地の果樹農家に継承されることを望まずにはいられません。

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←第19回全国モモ研究大会の様子4(昭和48年4月12日・功刀幸男家アルバムより)

「ふるさとの果樹産業を支えてきた先人たちを想いながら、是非一度は西野白桃を味わってみたいなぁと考えるのは、私だけではないと思うのですけれど。

2018年11月 7日 (水)

まぼろしの西野白桃(前編)

こんにちは。
Jpg_972462 ひとくちに桃といっても、7月から9月まで時期によって旬の品種は移っていきます。
←平成9年7月24日撮影 収穫直前の西野白桃(功刀幸男家アルバムより)
現在南アルプス市で栽培されている桃の代表的な品種には、「日川白鳳」「夢みずき」「白鳳」「あかつき」「川中島白桃」等がありますが、どの品種も色つきが良く、糖度が高いのはもちろんで、その上、日持ちが良い硬質の果肉であることが人気栽培品種の条件となっています。
そう、最近の桃はとっても甘いのに、リンゴのように皮をむいてカリカリと食べられるのです。
 昔食べた、果汁が滴り落ちるような柔らかい桃は現在の市場では出回りません。いまどきの流通システムに対応した共同選果が、傷がつきやすく痛みやすい桃に不向きだからです。そのために、かつて水密桃といわれたような、食べると果汁で口の周りがベタベタするような果肉の柔らかい品種の桃は淘汰されていきました。その淘汰された桃の品種のひとつに「西野白桃(にしのはくとう)」があります。
 桃栽培技術史について、西野の功刀幸男さんにインタビューしたときのことです。
 その時は桃にかける袋、「桃袋」の今昔について、面白い話を聞かせてもらっていました。
Jpg_s506 ←昭和50年6月西野白桃袋かけ

幸男さんは、小学生だった昭和10年頃に「のし板の上に新聞紙を重ねて、それを祖父が桑切包丁で裁断したものを指先を真っ黒にして貼り合わせた」ことを記憶されているそうです。
Dsc_3577_3
Dsc_3580_2 その後、昭和25年頃になると、「電話帳の紙を再利用した袋が市販されるようになったが、最初は止め金がなかったので藁ひもで結んだ」こと、その後、「鉄製の細いピンで袋の口を止めるようになった」こと、昭和30年代になるとやっと「針金入りの桃袋が市販されるようになった」ことを教えてもらいました。 
昭和20年代後半に使用していた磁石付きの桃の止め金入れとその説明をしてくださっている功刀幸男さん(平成30年10月16日撮影)
その桃袋の変遷の話の中に「あの時の品種は『倉方』『砂子』『高倉』『大久保』『高陽白桃』「山根白桃』だったから・・・」みたいに、たくさんの桃の名前が登場します。
どうやら、幸男さんの時代観のなかには、その時栽培していた桃の品種名の記憶が深く刻まれているようなのです。
そんな話の流れの中で、ずっと聞いてみたかった質問をしてみました。
みづほ 「ところで、幸男さんがいままでで一番美味しいと思った桃の品種は何ですか?」
すると、いとも簡単に
幸男さん 「それは何といっても『西野白桃』でしょう」 とずばり!おっしゃったのです。
 幸男さんによると、「西野白桃」というブランドは、西野の桃栽培農家たちが見い出し、その栽培技術を昭和40年代に確立した、非常に甘くて果汁の多い「みずみずしさ」が売りのいまでも自慢の桃だそうです。昭和50年代には南アルプス市のおいしい桃生産を支えた品種です。
5771 ←山梨日日新聞昭和57年7月1日版に「全国に誇る農家の宝」と紹介された西野白桃の記事
Photo  しかし、平成に入り、糖度センサー等を駆使した共同選果による出荷体制に画一化される中、西野白桃のおいしさの特徴である、その「みずみずしさ」が仇となっていきました。
より効率化した流通システムには、果肉の柔らかい桃はなじまず、姿を消さざるをえなかったのです。
←平成元年に西野共選所に導入された非破壊式糖度センサーのパンフレット
果物屋さんでは、販売者やお客さんが少々触っても傷が付きにくく、日持ちの良い桃を仕入れたがります。そのため、現在では、通常の流通経路での販売は皆無となりました。
 功刀幸男家でも、家族が食べるための分と、長年直送している熱狂的な西野白桃ファンに向けて、栽培するのみだそうです。「西野白桃」の傷つきやすい特徴を理解した上で、食べたいと切望する人に直接少量しか販売できないのが現状だそうです。
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幸男さんいわく、「西野白桃は、現在の市場流通には向かないが、特に「みずみずしさ」という点で、消費者の望む理想の桃のイメージと合致している。非常に惜しい桃だと思う。」とのこと。
←昭和50年4月西野白桃摘花(功刀幸男家アルバムより)

 実はいままで市内の何人もの桃栽培者さんに、「一番うまい桃は西野白桃だけれども、いまは売れないから作らない」と聞いていました。正直、いままで意味が分からなかったのです。
でも、幸男さんからその経緯を詳しく聞いて、謎が解けました。
 品種の変遷にも、いろいろなドラマがあるのですね。
毎年毎年、新しい注目品種が生まれては消えていく中、いまはまぼろしのうまい桃「西野白桃」の栽培史は、その生誕の地南アルプス市において、記録・継承すべき歴史だと思いました。

 次回後編は、幸男さんのImg20180905_16423349証言と所蔵される写真をもとに、西野白桃を見出してその栽培に力を注いだ西野区の農家の方々のことを書きたいと考えています。
←西野白桃出荷箱(功刀幸男家アルバムより)
みづほ

2018年11月 5日 (月)

昭和の子供たち(西野区池之端編)

こんにちは、みづほです。
西野の池之端にお住いの中込さんにご提供いただいたアルバムに中に、昭和30年代の子供たちの生き生きとした様子が魅力的な写真があったので、ご紹介させていただきます。
Img20180927_13300291 ←手前の少年のポーズが気になりますよね。当時流行っていた何かのキャラクターになりきっている感じの、たのしい雰囲気が魅力的です。

Img20180927_13301966 ←西野池之端の仲良し三人組。中込家の前で。

Img20180927_13060292Img20180927_13111056 ←こちらも一枚目と同じく昭和30年代前半に撮影されたものだと思われますが、場所は在家塚大城寺か池之端公会堂そばの広場でしょうか?鉄棒にぶら下がる子供たちのかわいらしいこと。
Img20180927_11354837 ←これらの 写真が納められたアルバムの持ち主の中込明久さん(写真左の少年)は昭和29年生まれです。

Img20180927_11211184←こちらは、二人のお姉さんとともに家の門前で撮影した1枚。
Img20180927_12012531Img20180927_13263329 ←中込家が大正時代から営んでいた喜久屋商店は、昭和30年代後半に高尾街道沿いから離れ、元あった場所から北方向に100メートルほど集落内に入った場所で新装開店しました。

こちら2枚ともに、昭和30年代撮影の新装喜久屋商店前での撮影です。

Jpg ←こちらは、明久さんのお父様の喜久男さんが左端に写っています。喜久男さんは昭和2年生まれとのことですから、戦前の撮影です。この時期の幼児は、大きな白いエプロンをよくつけていますよね。昭和時代の写真を沢山見せていただくうちに、服装の違いからも時代が予測できるようになりました。

 中込家のアルバムには大正時代から昭和40年代までの家族や家(建物)、家業の様子が刻々と変わっていく様子が、写し出されています。

 また、その周辺に写り込む近所の人々の服装や生活用具・様式、風景の変化など、とても興味深い過去の地域情報も与えてくれます。

 南アルプス市ふるさと○○博物館で後世に伝えていくべき宝物が市民の皆さんのご協力でどんどん増えています。これらの写真を見るたびに、感謝の気持ちでいっぱいになるみづほです。

2018年10月25日 (木)

木毛(もくも)ってなんだ?

こんにちは、みづほです。

さて、「木毛」って何でしょう?

白根地区の果実郷で聴き取りをしていてよく遭遇する言葉なのですが・・・・、「もくも」と読むそうです。人によっては、「もくず」と言ったりもします。

Dsc_3567 ←ヒント①こちらが現物のアップ画像です。(西野芦澤家資料)
Dsc_3569 ←ヒント②お蔵を調査させていただいたお宅からはこのような状態で木箱の底に詰まって見つかります。これは桃とスモモの出荷箱ですね。(西野芦澤家資料)

Dsc_2949 ←ヒント③昭和40年代くらいから、問題の「木毛」は使用されなくなり、このようなフルーツキャップやウレタンシートが代わりに使われるようになっています。(平成30年撮影JA南アルプス市西野共選場にて撮影)

答え→「木毛」とは、木材を糸場に削り、デリケートな果物を梱包する際に詰め物にした緩衝材のことです。
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全国的には「木毛」と書いて、「もくめん」とか「もくもう」というようですが、ここ南アルプス市白根地区では「もくも」や「もくず」と呼ぶのを聞いています。現在ではもっとおしゃれな名になって「ウッドパッキン」として販売されてもいるようですけれど。

←昭和35年メロンの出荷箱(平成22年南アルプス市郷土研究部小野捷夫『昭和の恐慌から地域を救った温室メロン』より):メロンの下に木毛が詰めてある。
Img20180803_11545401 ←大正時代の鉄道輸送だったメロンの荷造りにも木毛は大活躍した。(西野功刀幹浩家資料)
 昭和30年代終わりまで桃の出荷は木箱でした。
昭和39年頃になると段ボール化がされ、特にデリケートでキズの付きやすい桃の大量生産・販売の道が開かれました。

Photo ところが、桃の荷造りでもう一つ大きな問題は箱に入れる緩衝材でした。
 従来、 木毛は箱の上下に入れてももを保護していたそうです。
まず段ボールの底に平均して敷いて、新聞紙で押さえました。同じことを桃の上部にあたる蓋の所にもしなければなりませんでした。
←昭和37年の西野農協共選所での桃の箱詰め作業での木毛詰め。(西野功刀幸男家資料)

そのころ、西野農協では昭和32年に桃の重量選果機の試作機を先駆けて導入し、東洋一の選果場を持つといわれていたのに、せっかく共選でももを機械で迅速に選果しても、荷造りが停滞するという問題に直面していました。
 ここで以下に、木毛について記載された平成5年発行の山梨県果実連史の当該部分をご紹介します。
『木毛の埃が大変。作業している人は猛暑の中で、長袖で作業しなければならない。汗か泣いているのか判らないような仕事が、ウレタンの使用で一挙に解決された。たしか、石和町の英組合で最初に使用されたと思う。弾力、保温など心配されたが、便利、安い、簡単と三拍子そろった資材であったので、直ちに全県下に普及し、現在のウレタンネットへと向上した。(山梨県果実連史平成5年発行)』とあります。
 木毛を西野では長坂にある木工所などから仕入れて使用していたそうですが、昭和40年代半ばにウレタンが登場し、ももネット(フルーツキャップ)へと緩衝材は向上しました。
Img20180905_14453396 ←昭和37年の西野農協共選所の建物内へ、木毛を詰め、その上に新聞紙を敷いた状態の木箱が入っていくところ。(西野功刀幸男家資料)

 最近、世界的にプラスチック製ストローの使用が問題となり、紙製のものへの切り替えが各地ではじまっていますが、今後、果物の荷造りに関する資材にも自然素材への回帰があるのかもしれませんね。
 もちろん、かつての扱いが大変だった「木毛」には戻らないと思いますが、時代にあわせて進化した新たな果実の荷造りの形態がこれから生み出されていくかもしれません。
みづほ

2018年10月23日 (火)

高尾街道沿いにあった喜久屋商店

Jpg こんにちは、みづほです。
南アルプス市白根地区西野区内にあった喜久屋商店さんの情報を求めて、中込明久さんのお宅を訪問しました。
←大正時代初期、開店したばかりの喜久屋商店
 今回も、南アルプス市郷土研究部員で、保坂呉服店の和子さんが案内してくださいまして、大正時代から昭和40年代までに撮影されたご家族のアルバムを見せていただきました。
Dsc_3374 ←平成30年9月20日にご近所の保坂和子さんが中込明久さんの家に連れて行ってくださいました。大正から昭和にかけての地域情報が詰まった素晴らしいアルバムを見せていただきました。
Jpg_2  大正時代から昭和10年代まで営業されていた喜久屋商店は櫛形山の中腹にある高尾の夜祭で有名な穂見神社に向かう通称高尾街道沿いにあります。
甲府方面から釜無川を渡って参詣する主要ルートであったため、西野区内でもこの街道に面する家では喜久屋商店の他、呉服屋や薬屋を営むものが2・3軒ありました。
←全盛時代喜久屋商店初売りの様子
 喜久屋では、創業した芳明氏が甲府一高で同級生だった倉庫町の山梨商会経営者の協力を得て、駿信往還沿いの倉庫町にも進出し、タクシー業務部と臨時支店をもちました。
Jpg_3 Jpg_5 ←倉庫町に出した喜久屋自動車部(大正3年頃)
Jpg_4
←倉庫町にあった山梨商会に臨時出店した喜久屋商店(大正7年頃)
Jpg_355 ←昭和3年5月5日撮影 高尾街道沿いの喜久屋商店





Img20180927_10025728_2 ←この方が明久さんのおじい様で喜久屋商店を創業経営していらした芳明氏。

 
 現在でも11月22日~23日にかけて、高尾穂見神社の夜祭が行われます。
かつては高尾山にある穂見神社を目指して、提灯を持った人々の行列が夜通し街道を多く行き交ったといいます。
 今年の高尾穂見神社の祭礼も約1か月後に迫ってきました。
それまでに、もう1軒、西野区の高尾街道沿いで有名なお店、保坂呉服店さんに取材に伺う予定です。
いつもご協力くださる保坂和子さんのお宅にお邪魔することになります。
よろしくお願いいたします。 
みづほ

2018年10月21日 (日)

小野家のあんぽ柿製造はじまる

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こんにちは、みづほです。

 平成30年は925日(火)から上八田の小野家で、あんぽ柿の製造がはじまりました。

10月に入り、南アルプス市内ではいたるところで柿の収穫が始まり、各農家で乾燥施設を使用した干柿類の製造が最盛期を迎えています。

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しかし、家々の軒先にオレンジ色輝く柿の姿をいまはまだ見ることはできません。天日や八ヶ岳颪でもって昔ながらに屋外乾燥施設で干す場合には、
11月下旬からの作業になるからです。現在は、衛生的で計画的な出荷が可能で、温湿度管理が徹底し品質管理のしやすい、この小野家のような屋内の乾燥施設での製造が増えてきました。

小野家の作業場には、あんぽ柿作りのために招集されたベテランのお手伝いさんが畑から収穫されたばかりの柿の皮を次から次へと剥いていました。

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あんぽ柿とは、枯露柿と同じ干し柿の一種ですが、枯露柿よりもジューシーな食感を保つため、比較的水分を多く残した状態で製造されます。

そのため、硫黄燻蒸という工程を行うことで、ある程度保存が利くように工夫されました。大正時代に福島県で製法が確立し、戦後に全国に広まったようです。

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小野家のあんぽ柿作りは12月の下旬まで行われますが、その間に収穫できる柿の品種は順々にかわっていきます。

←写真のこの柿は「刀根早生(とねわせ)」という品種です。

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へた周りを成形し、皮を剥くのは基本的に機械を使って行われますが、手持ちの皮むき器を持って必ずひとつひとつをチェックして、剥き残しがない様にしていました。

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だいたいこの1週間後には製品として完成して出荷されます。

Dsc_3562←一週間後に干しあがった刀根早生あんぽ柿。すんごくあま~いよ!

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←小野家では101日が刀根早生あんぽ柿の初出荷だったそうです。

次にお邪魔した1016日にはすでに刀根早生から大和百目という大型の柿での製造がはじまっていました。

 Dsc_3559←10月16日乾燥室に入る前の大型で先のとがった大和百目

大和百目は枯露柿生産用として南アルプス市西野で大正時代に見いだされた伝統的な大型品種ですが、ここ小野家ではこの大和百目をあんぽ柿に仕上げるそうです。個人的に大和百目のような大型のあんぽ柿をいままでみたことがないのでどんな風に仕上がるのかとても楽しみです。

今度は乾燥室を見せていただこうと思っています。 

みづほ

2018年10月10日 (水)

「果実郷の父」である小野要三郎と「危険分散」の思想

こんにちは、みづほです。

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小野要三郎さんという人のことを知りたくて、御子孫の一人である小野要一さんを訪ねました。

小野要三郎氏晩年のスナップ(功刀幹浩家アルバムより)

 

 白根地区西野の調査では、お宅を訪問して大正昭和期の写真を見せていただているのですが、小野要三郎さんの写り込む写真がいくつものお宅で見つかります。

どんな人だったのでしょうか?

小野要一さんは要三郎氏のひ孫にあたる方で、今までに収集した小野要三郎氏の画像と一緒に写っている人の名前や関係性、関連資料の紹介などをしてくださいました。

Dsc_3022 小野要一さん宅で。左はコチラのお宅に案内してくださり、一緒に聞き取り調査を行った南アルプス市郷土研究部員の保坂さんです。

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その資料の中に
、要一氏と同じ要三郎氏のひ孫にあたる樋川(旧姓小野)美奈子氏が執筆された「愛と信念の人 郷土に尽くした曽祖父 小野要三郎」2017年4月発行という文献もありました。

樋川(旧姓小野)美奈子氏が執筆された「愛と信念の人 郷土に尽くした曽祖父 小野要三郎」2017年4月発行

上記の著作によると、小野要三郎氏は安政元年(1854)10月に現南アルプス市西野に小野徳温氏の長男として生まれました。

郷学松聲堂で学んだあと、明治26年頃から牡丹杏や梨、桃などの果樹栽培を試みるようになり、明治40年~44年にかけて西野・清水にあったカラマツ林を開墾して、50アールに本格的に生業として果樹を植えました。この地の桃栽培は軌道に乗り、南アルプス市の果樹栽培の黎明期を象徴するものとなります。

Dsc_3019Dsc_3018桃の栽培を軌道に乗せた西野の清水という場所に、小野要三郎の遺した「開園記念」の碑がある。「明治40年から44年まで」の年記がある。

 

Photo_2  昭和8年開国橋の渡り初め記念に自宅の庭で撮影された。前列中央が小野要三郎左隣が妻のいつ、右隣が要三郎の息子の善次、後列左から善次の妻、善次の長男の奏捷、奏捷の妻なよ。人物の後ろには、当時西野で隆盛を極めていたメロン栽培用と思われる温室が見える。(西野芦澤家資料より)

 

しかし、小野要三郎氏は成功した桃の栽培だけに収入を頼ることに、強い危機感を持ちました。

時は蚕糸業ブーム。生死業ともよばれながらも周辺の畑地は一面の桑畑に変わりつつあり、人々は繭相場の行方に一喜一憂する毎日を送っていました。そのような情勢において、要三郎氏は成功時の収益の大きさに目がくらんで一つの栽培品目や産業に集中することの危うさを感じていたのです。

Img20180903_13235060  小野要三郎氏の経営していた錦果園の桜桃収穫風景(樋川美奈子前掲著作より)

 
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桜桃園において、西野村の小野家と功刀家の人々が写るスナップ。大正末期から昭和初期に撮影されたものと思われる。中央に小野要三郎、その後ろに左から息子の小野義次、功刀七内、孫の小野奏捷、要三郎の右隣の人物は不明、一番右は功刀七朗。功刀家は西野でメロン栽培を最初にはじめた家。(西野功刀幹浩家アルバムより)

 

自身は早期に桃栽培にも着手してリスク分散を進めていましたが、さらに大正2年に、小野要三郎氏は息子の義次に山形から桜桃(サクランボ)の苗木500600本(貨車2台分)を大量に買い付けることを命じ、率先して栽培に着手しました。

この小野要三郎氏の行動こそ、その後、現在にも続く南アルプス市の果樹栽培の在り方を特徴づけている「危険分散」の思想のはじまりなのです。

一つの品目だけでなく、5月の桜桃から始まって、梅、スモモ、桃、メロン、葡萄、りんご、柿と、晩秋まで多種栽培をしてリスクを分散し、春から秋にかけて季節順に次々と収入を得られるように、家ごとに栽培品目を工夫して組み合わせます。

その後起きた、大正9年の大霜害と繭価の暴落は、小野要三郎氏の説いていた「危険分散」の思想が周辺住民に浸透するきっかけとなりました。

現在においても、小野要三郎氏が「果実郷の父」とよばれる所以です。

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小野要三郎氏晩年のスナップ(功刀幹浩家アルバムより)

 

晩年の小野要三郎氏は、地域住民から尊敬される人物でありながらも、『いつも喜びながら果樹園に居り、遠くからでも「かえじさ~ん(小野家当主代々の通称)」と呼びながら挨拶ができるような(前掲の樋川美奈子文献による)』好々爺として親しまれ、昭和1626日に88歳の天寿を全うされたそうです。

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小野要三郎氏の思想は100年以上たった現在も南アルプス市の果樹産業に大きな影響を与え続けています。

 

昭和16年米寿の小野要三郎氏 右隣は妻のいつ。(西野芦澤家資料より)

 

その姿をうつす写真が西野地区の家々にいまも多く残され、発見される理由が納得できました。  

 

みづほ。

 

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