大正時代の牛乳瓶の姿(保壽社牛乳店)
こんにちは。
最近整理調査の終わった紙資料群の中から、大正9年から10年にかけての牛乳屋さんの領収書を9点発見しました。どうやら甲西地区に住んでいた人が大正9年から10年にかけて甲府市錦町(現平和通り沿いの中央1丁目11辺り)にあった山梨県病院に入院していた際に、保壽社牛乳店から受け取った領収書のようです。
←「保壽社牛乳店 甲府市伊勢町二千四百九十五番 (電話二〇八番) Dairy.C.Tsuchiya.Isecho.Kofu.Japan. HOJUSHA & Co」の発行した領収書と冊子」
「保壽社」という牛乳屋について文献で調べてみると、昭和初期から40年代にかけて山梨県酪農の指導的立場にあったし秋山作太郎氏が著した書籍の中に、昭和45年に調査し「(明治中期以降の)搾乳業者一覧表」としてまとめたものがあり大変参考になりましたので、そちらの内容を引用しながらご紹介したいと思います。
保壽社は明治20年12月に土屋忠平が西山梨郡稲門村(現甲府市)の千秋橋南方に開業し、のちに甲府市伊勢町に移転して昭和15年までの50年以上営業していた、県内酪農における草分け的業者のひとつだったようです。文献にも『甲府市の三大搾乳業者』と記されています。
それでは、保寿社の牛乳配達表と領収書を観察していきましょう。
真ん中にきりとり線が入っていてその左側に「牛乳配達表」があり、右半分はイラスト入りの領収書になっています。
←保壽社牛乳店大正10年6月牛乳配達表領収書(牛乳1本10円)(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
まずは、大正10年6月分について配達した牛乳の本数と代金の集計に注目しましょう。29本で290円とありますから、大正10年当時の販売価格は牛乳1本10円だったとわかります。ちなみに大正9年9月分の場合は30本で180円とあります。どうやら大正9年までは1本6円だったようですね。
←保壽社牛乳店大正9年9月牛乳配達表領収書(牛乳1本6円)(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
←保壽社牛乳店大正10年7月牛乳配達表領収書(牛乳1本10円)(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
また、四角く囲った枠の中に①『山梨県病院御用』②『新鮮生バタ』③『切手調進』といった謎の文言がありますが、順に読み解いていくと、①保壽社が山梨県病院の病棟に出入りして入院患者に販売していた事実を示すものであり、②保寿社牛乳店は新鮮な生バタ―も販売しており、③『切手調進』とは「保寿社牛乳製品を贈り物等に使用できる商品券もご用意しております」ということだと考えられます。
←保壽社牛乳店大正10年9月牛乳配達表領収書(牛乳1本10円)(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
そして右半分のいわゆる領収書部分ですが、大正時代当時の牛乳瓶とバター販売容器と牛たちが可愛らしく配置されたデザインになっています。当時の牛乳販売容器がどんなものであったかがよくわかるイラストで興味深いですな。このイラストにある牛乳販売容器は、ガラス製の瓶で口に陶器製の栓をして金属製の留め金で閉めた後で未開封と分かるように瓶と栓のつなぎ目に保壽社銘入りの未開封シールが貼られています。
←保壽社牛乳店大正10年9月牛乳配達表領収書より「機械口牛乳瓶部分」(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
気になって上記の秋山作太郎氏の著作『山梨の酪農』を読み返してみますと、牛乳販売容器の変遷についても記述がありました。
東京では明治22年頃に初めてガラスの容器が用いられたそうですが、最初は口に紙を巻いたり張ったりして蓋としていたのが、明治33年頃になると「機械口」と当時言われた、瀬戸物(陶製)やニッケル、コルクで蓋をして止め金で留めるものが登場したようです。そして、昭和3年くらいになると瓶は無色で統一され、王冠口になったとありました。
一方、山梨では明治36・37年頃までは、大半の牛乳屋は手提げ牛乳缶と木枡に柄を付けたもので売り歩き、家の軒先で客の丼や茶碗に写して量り売りしていたそうですが、甲府中心部などでは同じころでも東京と同じような機械口で、瀬戸物でできた栓の瓶売り容器で売られていたとあります。
以上のような牛乳販売容器の変遷史を踏まえても、大正9・10年に保壽社が瀬戸物の機械口のガラス瓶で甲府中心街において牛乳を販売していたことに矛盾はなく、このイラストが当時の牛乳瓶の姿を視覚的に伝えてくれていてうれしいです。
※参考引用文献
「山梨の酪農」秋山作太郎 平成二年発行 非売品 :令和6年11月現在は山梨県立図書館で借りられます。