2024年11月 1日 (金)

大正時代の牛乳瓶の姿(保壽社牛乳店)

こんにちは。
最近整理調査の終わった紙資料群の中から、大正9年から10年にかけての牛乳屋さんの領収書を9点発見しました。どうやら甲西地区に住んでいた人が大正9年から10年にかけて甲府市錦町(現平和通り沿いの中央1丁目11辺り)にあった山梨県病院に入院していた際に、保壽社牛乳店から受け取った領収書のようです。
23701 ←「保壽社牛乳店 甲府市伊勢町二千四百九十五番 (電話二〇八番) Dairy.C.Tsuchiya.Isecho.Kofu.Japan. HOJUSHA & Co」の発行した領収書と冊子」

 「保壽社」という牛乳屋について文献で調べてみると、昭和初期から40年代にかけて山梨県酪農の指導的立場にあったし秋山作太郎氏が著した書籍の中に、昭和45年に調査し「(明治中期以降の)搾乳業者一覧表」としてまとめたものがあり大変参考になりましたので、そちらの内容を引用しながらご紹介したいと思います。
 保壽社は明治20年12月に土屋忠平が西山梨郡稲門村(現甲府市)の千秋橋南方に開業し、のちに甲府市伊勢町に移転して昭和15年までの50年以上営業していた、県内酪農における草分け的業者のひとつだったようです。文献にも『甲府市の三大搾乳業者』と記されています。

 それでは、保寿社の牛乳配達表と領収書を観察していきましょう。
 真ん中にきりとり線が入っていてその左側に「牛乳配達表」があり、右半分はイラスト入りの領収書になっています。
23710   ←保壽社牛乳店大正10年6月牛乳配達表領収書(牛乳1本10円)(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 まずは、大正10年6月分について配達した牛乳の本数と代金の集計に注目しましょう。29本で290円とありますから、大正10年当時の販売価格は牛乳1本10円だったとわかります。ちなみに大正9年9月分の場合は30本で180円とあります。どうやら大正9年までは1本6円だったようですね。
23707   ←保壽社牛乳店大正9年9月牛乳配達表領収書(牛乳1本6円)(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
23706 ←保壽社牛乳店大正10年7月牛乳配達表領収書(牛乳1本10円)(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 また、四角く囲った枠の中に①『山梨県病院御用』②『新鮮生バタ』③『切手調進』といった謎の文言がありますが、順に読み解いていくと、①保壽社が山梨県病院の病棟に出入りして入院患者に販売していた事実を示すものであり、②保寿社牛乳店は新鮮な生バタ―も販売しており、③『切手調進』とは「保寿社牛乳製品を贈り物等に使用できる商品券もご用意しております」ということだと考えられます。
23711   ←保壽社牛乳店大正10年9月牛乳配達表領収書(牛乳1本10円)(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 そして右半分のいわゆる領収書部分ですが、大正時代当時の牛乳瓶とバター販売容器と牛たちが可愛らしく配置されたデザインになっています。当時の牛乳販売容器がどんなものであったかがよくわかるイラストで興味深いですな。このイラストにある牛乳販売容器は、ガラス製の瓶で口に陶器製の栓をして金属製の留め金で閉めた後で未開封と分かるように瓶と栓のつなぎ目に保壽社銘入りの未開封シールが貼られています。
23711_20241101132701 ←保壽社牛乳店大正10年9月牛乳配達表領収書より「機械口牛乳瓶部分」(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 気になって上記の秋山作太郎氏の著作『山梨の酪農』を読み返してみますと、牛乳販売容器の変遷についても記述がありました。
 東京では明治22年頃に初めてガラスの容器が用いられたそうですが、最初は口に紙を巻いたり張ったりして蓋としていたのが、明治33年頃になると「機械口」と当時言われた、瀬戸物(陶製)やニッケル、コルクで蓋をして止め金で留めるものが登場したようです。そして、昭和3年くらいになると瓶は無色で統一され、王冠口になったとありました。
一方、山梨では明治36・37年頃までは、大半の牛乳屋は手提げ牛乳缶と木枡に柄を付けたもので売り歩き、家の軒先で客の丼や茶碗に写して量り売りしていたそうですが、甲府中心部などでは同じころでも東京と同じような機械口で、瀬戸物でできた栓の瓶売り容器で売られていたとあります。
以上のような牛乳販売容器の変遷史を踏まえても、大正9・10年に保壽社が瀬戸物の機械口のガラス瓶で甲府中心街において牛乳を販売していたことに矛盾はなく、このイラストが当時の牛乳瓶の姿を視覚的に伝えてくれていてうれしいです。

※参考引用文献
「山梨の酪農」秋山作太郎 平成二年発行 非売品 :令和6年11月現在は山梨県立図書館で借りられます。

2024年10月29日 (火)

荊沢にあった商店の大正時代の包装紙

こんにちは。
今回は文化財課収蔵資料の中から、南アルプス市甲西地区荊沢にあった商店の包装紙をご紹介いたします。
115 ←「松寿軒長崎包装紙(電話荊沢二十番」(湯沢依田家資料)(南アルプス市教育委員会文化財課蔵」
 松寿軒長崎は明治から平成時代まで 駿信往還の宿場町である荊沢において営業した菓子商です。ちょうど道が鍵の手のようにクランクする「かねんて」と呼ばれる箇所の西側に、現在も登録有形文化財として、その建物が遺されています。
 松の意匠の帯デザインの中に、店名と電話番号が記されており、この包装紙がいつごろから使用されていたかが判ります。甲西地区では大正9年11月26日に電話が個人宅や商店に開通し、1から41番の荊沢局電話加入者がいました。ですから、この包装紙は大正9年以降に使用されたものだと判断できます。また、その電話加入者一覧を甲西町誌(昭和48年刊)で見ることができますが、20番は『内藤伝吉 菓子商』とありました。
319 ←南アルプス市荊沢319に建つ松寿軒長崎(2021年10月8日撮影)
こちらの建物については、登録有形文化財として南アルプス市HPでの文化財情報や地図上で見る〇博アーカイブ、Mなび等でご紹介していますので興味のある方はご覧くださいませ。

つづいては、荊沢の商店包装紙二軒目のご紹介です。
116 ←「荊沢麻野屋呉服店包装紙(電話番号三五番)」(湯沢依田家資料)(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
麻の葉模様がさわやかなこちらの包装紙も、大正9年の電話番号一覧で記されている35番をみてみると、『あさのや入倉小三郎 呉服商』とありました。
Photo_20241029160201 ←「荊沢麻野屋のあった辺り」(2021年9月29日文化財課撮影)

昭和初期には、「せきや麻野屋呉服店」として、白根地区倉庫町交差点に包装紙にあるのと同じ屋号(「ヤマに中」)の店が存在していましたので、支店を出していたようですね。
002img20220705_15062833_20241029160201 ←「倉庫町関屋にあったせきや麻野屋呉服店のチラシ」(西野功刀幹浩家資料)(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 また、荊沢には麻野屋商店という名の店がもう一軒あり、そちらは茶問屋で茶器や食器なども販売していました。場所もちょうど同じ「かねんて」付近で呉服の麻野屋さんが駿信往還の東側にあるのに対して、茶問屋である麻野屋商店(屋号は「カネに麻」)は中野姓で西側に店を構えていました。 南アルプス市教育委員会文化財課収蔵資料や市内の旧家の蔵などで保存箱として使われている茶箱にこの麻野屋商店の文字をよく見かけます。
Img_1097 ←「雛人形の保管に使用されていた荊沢御銘茶所麻野屋商店の茶箱」(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
〇博調査的に、先人の遺したチラシや包装紙のストックは、かつて存在した商店の情報や地域ごとに異なるお買い物事情を知る手掛かりになるので重要視しています。

2024年10月 3日 (木)

大正時代の労働契約書

 こんにちは。
 まずは大正時代に交わされた、大工に関する労働契約書を2通ご紹介したいと思います。
    J7201_20241008145001  J7202 J7203 ←「弟子トシテ大工業修養セシムル契約書(大正13年竜王村花形富士吉)」(上八田小野家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
J7101 J7102 J7103 ←「弟子トシテ大工業修養セシムル契約書(大正15年百田村清水辰平)」(上八田小野家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 ご紹介する契約書は2通とも大正時代のもので、百田村に住む14歳と竜王村に住む15歳の少年が現在の白根地区上八田で大工を営む小野牛五郎に大工業(だいくぎょう)を教授してもらう4年間ほどの修養期間についての取り決めが記されています。その契約期間に雇われ人が使用する着物と大工道具一式は雇い主の牛五郎が用意し、年季明けにはそのまま給与されるとあります。また、修養途中で万が一雇われ人が失踪した場合は保証人が探して連れ戻し、雇用者の牛五郎に引き渡す事も記されています。労働の見返りに大工の技術を教授するので報酬は支払われなかった模様です。
 
 労働契約書のようなものは、江戸時代にも「奉公人請状」「奉公人手形」と呼ばれる書類として存在していました。しかし現在と大きく異なるのは、雇用主が雇われる側に提示するのではなく、雇われる側が保証人を通して奉公の期間や労働条件などを提出する作法にありました。今回ご紹介している大正時代の資料の場合も、大工業を修養予定の者がまだ未成年であるという理由ももちろんありますが、書面の契約者は弟子入りする本人ではなく、その父や保護者になっており、さらに保証人が立てられています。

 また、2通の契約書の内容の大筋は同じですが、2年違いで前後して契約した2人には待遇差があることがわかります。例えば、大正13年に竜王村から弟子入りした者には、4年間の修養後にさらに半年間の御礼奉公という無給期間があることを記していますが、大正15年に弟子入りしたものには御礼奉公期間というものが無くきっちり4年間で年季が終了するとあります。
さらに、大正15年に弟子入りの者にはその家庭事情を考慮して記された部分もあります。 牛五郎宅と同じ百田村内から弟子入りした清水辰平さんには、春蚕期に20日・夏秋蚕期にそれぞれ20日の年間60日間を実家での養蚕業務に従事することを許す文面があるのです。きっとこの弟子の実家は養蚕業で家計を支えており、養蚕繁忙期に大事な働き手を一人でも減らすことはできない事情を雇用主がよく理解しての判断だったのでしょう。2年の違いでずいぶん労働環境が改善していますね!

 大工は弟子入りすると、ほとんどの場合住み込みで、親方の家族と一緒に生活するのが普通であったようです。最初は家事手伝いや資材の運搬などをしながら道具の手入れの仕方や使い方を学んだようです。そして、親方と弟子との主従関係は生涯続いたといいます。
しかし、このように良くも悪くも伝統的な徒弟制度というようなものは、昭和時代の終わり頃にはほとんど消滅したようですね。

最後に、大正初期の大工以外の労働契約書も2点ご紹介しておこうと思います。
I81173t1 ←「雇人契約書(大正元年今諏訪村小林はまの)」(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
I81173t5 ←「雇人契約書(大正5年豊村澤登名取角太郎)」(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
こちらの2点の契約書も江戸時代からの作法にのっとり、雇われる側(保護者・保証人)が雇い主に契約書を提出する形式であり、最初に年給の額を提示し、着衣の給与要求と雇用期間を明記しています。さらに内金という名目で契約時に10円ほどの支給があったことも記されています。大工のような特別な技術を教授する場合とは、契約内容に異なる点が多少あるようです。

 大正時代は未成年である尋常小学校を卒業した10歳から高等小学校を卒業した14歳までの子供が親元を離れて雇い主宅に住み込み、休日もほとんどなく働く状況が多くありました。しかも、奉公に入る前に保護者がお金を受け取っている場合も多かったので立場も弱い上に、どんなに労働条件が厳しくても容易に逃げ出せないような文言が契約書に記されているのが普通でした。このように現代に比べて大正時代の労働条件が全く別物であったことにまちがいはないのですが、一方で、奉公先で親元に居た時よりも環境に恵まれ、学びの機会を得て数年後には成功者となるような、立身出世物語が多く生まれた時代であったのも確かなようです。

2024年9月25日 (水)

明治7年、西郡に共栄医療組合医院できる

こんにちは。

Jpeg3 ←「共栄利用組合診療券」(上八田小野家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

こちらは、いまから90年以上前に西郡で発行された診療券です。この券で受診できる病院は、「共栄利用組合医院」といって、昭和7年5月に地域の産業組合が共同出資して建設された病院でした。

Jpeg4 ←「共栄利用組合医院規程」昭和7年(1932)5月15日より実施す :『本組合員及その家族の保険に努め疾患の際は之を軽減し以て生存の平安を得しむる為め診察所を付設し左記規程を設置す』」(上八田小野家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)※タップすると拡大します

 この共栄利用組合医院規程を読んでみると、出資している組合員とその家族は、組合の発行した診療券を持っていけば基本的に無料で診察を受けることができました。ただ、処方する薬や手術、注射料、往診料は利用料として別途請求された模様です。

 昭和初期は未だ国民健康保険法はなかったので、もちろん健康保険証など無い時代であり、一般的に体の調子が悪くても医療を受けることは、現代とは比べ物にならないほどハードルの高い行動でした。ちょうどこの頃は世界恐慌の影響による生糸の暴落が養蚕に現金収入を頼っていた農村を疲弊・窮乏させ、乳幼児の死亡率の増加や感染症の罹患率を高めていました。政府も兵力の供給源である農村の医療確保策として後押したこともあり、産業組合が共同して病院を建てるという取り組みがこの時期に全国に広まっていました。まさにこれらの流れの中で、件の共栄利用組合医院は一部組合員家庭のみですが、はじめての地域医療体制を昭和7年に西郡に発足させたわけです。

Jpeg2 ←「共栄利用組合之章」(上八田小野家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 さらに、、組合医院規程を順にみていきましょう。内科や外科などの専門科に分かれての医師の配置はなかった様子ですが、産婆料に係わる項目が第九条から十一条に明記されていることが判ります。助産の歴史の転換期である昭和初期に、欧米スタイルの教育を受けて国家資格を持った産婆たちがどのように活躍したのか?あるいは、都市部で一部行われていたような入院分娩がこの組合医院でもあったのか?など興味がつきないところです。

「白根町誌」昭和44年刊 p977の記述には、『巨摩共立病院:昭和7年(1932)5月12日、飯野・源・在家塚・小笠原・桃園・豊・曲輪田の7産業組合によって櫛形町桃園地内の白根町境に明穂共栄医療組合病院が設立され、峡西病院と称した。昭和18年10月には、山梨県農業会に移管され、第一厚生病院と改称し経営者も変わり、昭和40年1月における病院の患者の収容力は、一般患者25名、結核患者40名であった。昭和40年9月には、山梨県勤労者医療協会に移管され、巨摩共立病院となる。昭和43年の患者収容能力は、一般患者57名、結果右患者44名であった。目下のところ内科、小児科、外科、整形外科、産婦人科の診療にあたっている。』とあります。

いまから92年前に地域の産業組合主導ではじまった西郡の本格医療体制は、その後、山梨県農業会など経営母体を交代させながら、にしごおりの地域医療を担ってきました。 昭和36年(1961)には国民皆保険となって国民すべてが健康保険証を持つことができるようになったため、組合員だけしか受診できない病院というのではなくなりました。昭和40年からは山梨県勤労者医療協会に経営が移管され、現在もその名称で続く巨摩共立病院となっています。

Jpeg_20240925163701 ←巨摩共立病院(「白根町誌」昭和44年刊より)

巨摩共立病院は西郡地域の地域医療に貢献し続けている当該施設は、令和6年現在、公益財団法人山梨勤労者医療協会巨摩共立病院という正式名でそのHPによると、診療科は一般内科、専門内科、小児科、外科、整形外科、眼科、人工透析科、リハビリテーション科という内訳です。

2024年8月20日 (火)

明治大正期の商店の引札

こんにちは。
今回は、最近、櫛形地区上今井にお住いの方よりご寄贈いただき、収蔵した明治大正期の引札(ひきふだ)をご紹介したいと思います。 
 引札は明治大正期の商店の広告チラシのようなものですが、色鮮やかでデザイン性に富み美しいので、お正月の初売りなどにおまけとして客に配られました。
J600dpi22 ←「米穀食塩石油荒物和洋酒罐詰諸帳簿其他雑貨 小笠原金丸商店 引札26×37.2㎝(上今井津久井家資料明治・大正時代)」(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 こちらは、明治大正昭和初期には西郡地区一の繁華街であった小笠原にあった金丸商店の引札です。金のなる木に登って小判をザクザク集めている男女に日の出、鶴亀というような、いかにも縁起と羽振りのよい図柄です。この商店で売っているものは「米穀食塩石油荒物和洋酒罐詰諸帳簿その他雑貨」とかいてあります。屋号は「ヤマに〇」
4_20240820150701 ←南アルプス市役所本庁舎東にある旧金丸商店跡(2020年2月13日撮影)
 小笠原にはもう一店同じ名の金丸商店があり、こちらの引札は当ブログ2020年5月8日記事『小笠原の金丸商店』にてご紹介しておりますのでご覧になってみてください。明治35年頃のもので、名前は同じですが、屋号や販売品も「カネに丸」「呉服太物類幷和洋綿糸染糸類」で異なっています。場所はヤマに〇屋号の金丸商店の北に隣り合って軒を連ねていたようですよ!
2_20240820150701 J600dpi22_20240820150601 ←旧金丸商店跡の瓦に残る屋号は引札と同じ「ヤマに〇」(2020年2月13日撮影)
 今回ご紹介している引札の「ヤマに〇」の屋号を持つ金丸商店は、現在は閉店されているようですが、平成15年頃の住宅地図を見てみると、『金丸砂糖店』という表記になっていますので、明治時代末から平成時代まで営業されていたのです。

 次は甲西地区にあった商店の引札をご覧ください。
J600dpi32   ←「諸国銘茶並質屋業 五明村功刀琴四郎 引札」26×37.7㎝(上今井津久井家資料・明治・大正時代)(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
全体的に黒を基調とした落ち着いた色合いで、これもまた素敵ですね。
引札に記された文字情報によると、功刀琴四郎商店はお茶屋さんの看板を上げながら質屋も営んでいた模様です。引札の左端には明治34年7月10日印刷と記されています。五明村は現在の甲西地区になりますので、当時の櫛形地区上今井に住む人の買物圏を知る手掛かりになります。

J600dpi32_20240820150901 明治大正期に数多く出回った引札は、図柄にこそ地域性はあまりないのですが、そこに記された商店の文字情報によって当時の商店の所在や販売品、それらを利用した人々の動きや生活が復元できる文化財的価値の高いものです。 市民の皆さまが処分を予定している明治大正昭和初期の紙資料の中にも、この引札が紛れ込んでいる可能性があります。何か気になることがありましたら、是非〇博調査員にご一報いただきたいと思います。

2024年8月16日 (金)

月賦商店の通帳

こんにちは。
こちらの資料は、櫛形地区上今井の功刀松太郎商店が大正時代に顧客向けに発行した帳簿です。「通帳(かよいちょう)」といって、江戸時代から昭和40年代初期くらいまで、日常の買い物の際によく使っていた帳簿です。近所にある馴染みの店で日用品や食料を買う時は、その店が発行したこの通帳を持って行けば、キャッシュレスで品物を購入することができました。買ったものの日付や商品名、値段を記入してもらい、その代金は、月末や盆暮れ、コメや繭の収穫時などのまとまったお金が入る時期に支払います。
Dsc_0845_20240816163501 Dsc_0846_20240816163501←「功刀松太郎商店通帳(大正)表・裏」(上今井津久井家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
112_20240816163601←櫛形地区上今井にある功刀松太郎商店(2020年6月16日撮影)
 それでは、通帳の頁をめくっていきましょう。
Dsc_0852_20240816163601 Dsc_0851_20240816163601←「功刀松太郎商店 通帳(大正7年~8年)」(上今井津久井家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 購入品目として米や酢・煮干し・鱒(マス)等食料品のほかに、下駄やチリ紙・付け木などの雑貨消耗品が列記されています。値段も書かれているので、大正時代の物価を知ることができます。また、季節ごとに異なる購入品目の違いから、日常の様子や様々な年中行事等に伴う生活の実態もうかがい知ることができます。
 また、現金で支払いをした日付には店の印が押されています。掠れていて見難いですが、この印からは、大正時代当時の功刀松太郎商店の情報を得られそうです。この通帳のところどころに押された印を見比べて、文字を読み取って行こうと思います。
Dsc_0849 Dsc_0848_20240816163701 Dsc_0847←「功刀松太郎商店 通帳印 『呉服太物本□瓦月賦商 証貸 中巨摩郡豊村上今井(大正7・8・9年)」(上今井津久井家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

通帳内に押されたいくつもの印影を並べてみると、掠れて読めずにいた箇所がある程度判りました。まずは外枠にある文字を右から左に読んでいくと、『呉服太物本□瓦月賦商 中巨摩郡豊村上今井』とあります。□の一文字はどうしても読めないのですが、『証』という字かもしれません。真ん中には、屋号の下に『功刀商店 証貸』とあります。
 ここで、『月賦商』『証貸』という聞き慣れない言葉を調べてみたいと思います。
 月賦商(げっぷしょう)とは、代金を一度に払わずに、分割して月ごとに支払うことを条件にした販売方法をとる店のことをいいます。先に代金を支払う前払い式と後から代金を支払う方式があり、明治時代以降に普及したようです。
また、証貸とは、証書貸付の意味で、店が借用証書をとってお金を貸すこと(融資すること)です。
 このように印影の文字情報からは、この功刀松太郎商店が食品も扱うよろず屋さん的な商売以外に、銀行のような貸付業務も行っていたことがわかりました。
 この通帳を使っていた津久井家の場合は、店印の押された箇所に、『〇〇円御預り申事』と記されており、買った商品の代金とは関係なく、お金が入った時にまとまった額を預けておいて、その預金から購入商品の代金を引き落としてもらっていたようです。いまの私たちが電子マネーで買い物をするのと同じですね。
 さらに功刀松太郎商店は、証貸業務もしているということですから、預け入れてある金額を超過するような買物をしたい時や融資を頼みたい時は今の銀行のように対応してもらえたということですね。
 今回は、この通帳をじっくり観察したことで、上今井にあった功刀松太郎商店が銀行業務も併せて行っていたことが判りました。
Dsc_0847-2 ←「功刀松太郎商店 通帳(大正7年)」(上今井津久井家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 豊村は明治38年にそれまでの主産業であった煙草産業から蚕糸業へと転換を図り、大正時代には、一般家庭でも新規にはじめる養蚕の設備や器具等への投資で幾らかの資金が必要になる状況があったと考えられます。そのような情勢の中で、起業家や投資家などが使用する大手銀行とは別に、近所の雑貨店が比較的些少な金額を融資する証貸業務も行っているのは、とても便利なことだったと思います。

 

2024年8月 9日 (金)

曽我物語の引札

 こんにちは。

 先日、櫛形地区上今井にお住まいの方より、蔵に保管されていた文書類とともに明治大正期の引札(ひきふだ)のご寄贈がありました。 

 引札は明治大正期の商店の広告チラシのようなものですが、色鮮やかでデザイン性に富み美しいので、お正月の初売りなどにおまけとして客に配られました。

文化財としても、明治大正期に存在した地域商店の名前や販売品、所在地などを知る手掛かりとなり、当時の人々の生活を復元する上で価値の高いものです。今日はその中から曽我物語をデザインした一点をご覧いただきたいと思います。

1-jpeg ←「雑貨商上今井大和屋商店引札38×52㎝(明治・大正時代)」(上今井津久井家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 こちらの引札は曽我兄弟の物語を題材としたデザインとなっており、右上部分には『最新流行浪花節』として、なんと!物語のあらすじが文章で添付されている比較的珍しいタイプです。浪花節とも呼ばれる浪曲(ろうきょく)は明治時代にはじまった話芸で、三味線を伴奏に独特の節回しで義理人情などを語るもので、明治大正時代には人気の娯楽でした。

600dpi103 ←曽我物語のあらすじ『最新流行浪花節』の部分

 曽我物語は鎌倉時代初期に起きた「曽我兄弟の仇討ち」を題材としたお話です。「曽我物(そがもの)」と一括りで呼ばれるほど、この題材は能や歌舞伎、読み物や話芸、浮世絵や人形など多くの演目や媒体に広がりが見られます。そのため、引札が配られた明治大正期、昭和初期までは誰もがよく知るドラマティックストーリーでした。

 600dpi105 ←富士の巻狩場の曽我兄弟:「群千鳥」の着物で右に立つ兄の曽我十郎祐成(そがじゅうろうすけなり)と蝶の模様の入った着物の弟の曽我五郎時宗(そがごろうときむね)が討ち入ろうとする場面

600dpi104 ←虎御前:兄の祐成の愛妾の遊女。南アルプス市芦安地区の伝承では、虎御前は「芦安安通の生まれで伊豆大磯の富豪の養女となった」とある。また、安通の伊豆神社跡近くには虎御前が鏡を立てて化粧をしたという「虎御前の鏡立石」がある。さらに、恋人同士であった曽我十郎と虎御前の木像が伊豆神社から移されて大曽利の諏訪神社に保管されており、市の文化財に指定されている。

  また、静岡県や神奈川県などに多い曽我物語にゆかりの史跡ですが、ここ南アルプス市芦安地区と八田地区野牛島にもいくつか点在しており、西郡の先人たちには特になじみ深いお話だったと思います。ですから、当時流行りだった浪曲風に語ることのできる曽我物語が印刷されている引札となれば、充分な宣伝効果が得られたのではないかと思います。

600dpi106 ←「山にト」の屋号の豊村上今井大和屋商店

961-5 961 ←上今井大和屋商店(2020年7月2日撮影):屋号が「山に平」であり、引札にある屋号と異なっている。これは、現在の店主家が昭和初期に隣家にあった引札の屋号の店から営業権を購入してはじめたためだとのことである。(津久井家聴き取りによる2022年7月)

2024年7月18日 (木)

呪歌(まじないうた)

こんにちは。
芦安地区で収蔵した文書資料の中に、このような紙切れ(資料です!)が紛れ込んでいました。

R59img←「呪歌(まじないうた)書き留め(芦安役場資料)年不詳」南アルプス市教育委員会文化財課蔵

どうやら3つの「呪歌(まじないうた)」を書き留めたもののようです。順に調べながら見ていきましょう。

R59img_20240718155101 ←『蚖蛇及蝮蠍(ガンジャギュウフクカツ) 気毒煙火燃(ケドクエンカネン) 念彼観音力(ネンピカンノンリキ) 尋聲自回去(ジンジョウジエコ)』
 どうやら、観音経(観世音菩薩普門品かんぜおんぼさつふもんぼん)というお経の一節のようです。「蛇やまむし、さそりの毒が炎のように襲ってきても、観音力を念ずれば鎮まる」というような文言でしょうか?
山に入る時の蛇除けの呪文として、効力がありそうですね。

R59img-2『身カクレノ法:月山 シャリコー キンキンソワカー 四面童子ノ雲ワリテ ワガ身カクセヨ アビラウンケンソワカー』
 「アビラウンケンソワカー(阿毘羅吽欠娑婆可)」は大日如来に祈る時の呪文だそうです。
もし山の中で出会いたくないクマやイノシシ、落石などにあった際には、この身隠れの呪歌が有効かもしれません。 ちなみにアビラウンケンは「地水火風空」を表す意味で、ソワカーは「幸あれー」というように願いが叶うことを期待する文言のようです。〇博調査員的には、是非この部分だけでも覚えて唱えたいですね。現代の私たちの日常におけるちょっとしたメンタルヘルスに有効な気がします。

R59img-3『牛馬病ノ呪ノ歌:大阪や八坂坂中鯖一つ 行基にくれて 馬の腹やむ 古い行基弁ノ傳ト有り
こちらは、全国各地で伝承されている「馬の腹痛を治す呪歌」のようで、飛鳥時代から奈良時代にかけて仏教の普及に尽力し、東大寺の大仏造立の責任者でもあったことでも有名な行基(ぎょうき・ぎょうぎ)という高僧が、詠んだ歌とされています。これは鯖(さば)伝説と呼ばれる逸話の中にあります。
行基の鯖伝説:「大阪の八坂峠で、行基が塩鯖を積んだ馬子に鯖を一つ乞うが拒否されたので、『大阪や八坂坂中鯖一つ 行基にくれ 馬の腹病む』という呪歌を唱えると馬の腹が病んでしまった。馬子が鯖を渡すと行基は再び唱えて『大阪や八坂坂中鯖一つ 行基にくれ 馬の腹止む』というと、馬は元に戻った」という伝説です。
一文字音を変えるだけで「病む」と「止む」の掛詞になっており、正反対の目的を持つ呪歌になるところに凄味がありますね。この呪文を使って馬の腹痛を治したいときは、くれぐれも言い間違えに気を付けなければなりません。

 山梨県南アルプス市芦安地区は今も昔も日本の屋根ともいえる奥深い山々(南アルプス)への玄関口のひとつです。南アルプスとは、山梨県長野県静岡県にまたがる赤石山脈のことで、日本第二の高峰である北岳など、標高3000m級の山々が南北に連なっています。


 芦安地区の先人たちは昭和時代までは、山とともに暮らし、林業や鉱山、炭焼きなどの山仕事を生活の糧に暮らしていました。これら山仕事に有効な呪歌がいつ書き留められたものかは不明ですが、呪歌(呪文)を唱えることで、観音菩薩様や大日如来様、行基様などの威力を借りて、山中で起こりかねない禍や危険を回避したり、病を除くための手段としてきたのです。呪歌はほとんどが口伝で長い間引き継がれるものです。時代とともに呪歌に頼る必要性が薄れ、忘れ去られる前に、村のどなたかが書き留めておいてくれたのでしょう。このただの走り書きのような紙切れでも、芦安地区の先人たちの暮らしと意識を物語る重要な資料のひとつです。

2024年7月12日 (金)

大正7年の白米廉売券と米騒動

こんにちは。
きょうは、最近の〇博収蔵作業で扱った資料の中からご紹介しようと思います。
R54img_20240712164501 ←「大正7年 白米廉売券」(南アルプス市教育委員会文化財課蔵):大正7年夏に山梨県が発行したお米の安売り券
 こちらの資料は、大正7年夏に山梨県が発行したお米の安売り券です。表側には、「山梨県中巨摩郡役所」の印が押されています。
この白米廉売券が発行された大正7年の夏は、全国各地で米騒動とよばれる暴動蜂起があった年です。8月2日に政府がシベリア出兵を宣言したため、その後急激に投機目的の米穀の買いや売り惜しみが起こった上に、前年産米の不作などの要因もあり、米価の急高騰が発生する中、日本各地で暴動事件が起きました。
 8月15日夜には、甲府でも舞鶴公園で行われようとしていた米価高騰抗議市民大会に刺激された群衆が、山田町13番地にあった若尾家前に集まり暴徒化し、若尾邸を焼き打ち壊すという事件が起きています。(甲府での米騒動が若尾邸焼き討ちに至るまでの様相は山梨県史通史編5近現代1に詳しくまとめられている)
R54img ←表側には「山梨県中巨摩郡役所」の印
 今回ご紹介している白米廉売券は、この大正7年夏に起きた米騒動対策として、山梨県から芦安村各戸に配られた米の安売り券だと考えられます。芦安村誌(平成6年発行)によると、『政府は三百万円の恩賜金を各府県に配布し、米価対策費一千万円を予算化した。芦安村はこれに基づき、恩賜金七五円三〇銭分の米の廉売券を交付した。対象は三七戸、一六二人。しかし、四戸が交付を辞退したので、その分を割り振りし直した。』とあります。
R54img-2 ←裏面には「一、本券ハ1枚二付 内地米1升又ハ外米2升二対シ金10銭ノ廉売二用ウルモノトス」「一、本券の使用期間ハ大勝7年9月30日迄トス」とある
この白米廉売券の裏面には、注意事項として『一、本券ハ1枚二付 内地米1升又ハ外米2升二対シ金10銭ノ廉売二用ウルモノトス』『一、本券の使用期間ハ大正7年9月30日迄トス』とあります。
では、その内容をかみ砕いて読んでみましょう。
「内地米1升又は外米2升に対し金10銭ノ廉売」ということですから、同じ値段で外米(当時の東南アジアの国々産の輸入米)は国産米の倍量買えたということですね。この時に外米を食べた人々の言葉として白根町誌(昭和44年刊)に『南京米を喰いやすと、わしゃやせる(南京米はラングーン米のことであるという注釈有)』というのが載っていました。ラングーン米というのを調べてみると、現在のミャンマー辺りでとれた細長い米粒の長粒種で、「食べ慣れないけど安いから食べているが痩せてしまう!」という不満が皆にあったということでしょう。
 しかしながら、米1升は1.5㎏ですから、この廉売券があれば、米30キロであったら金200銭=2円で国産米が買えたことになります。 ちなみに山梨県史によると米騒動中の大正7年8月8日が甲府の最高値で、米4斗入り1俵(60k)19円20銭とあります。30キロでは9円60銭支払うことになりますから、この廉売券で30キロを2円で買えたのはかなりの救済策だと思います。
Dsc_0840 ←旧芦安役場資料である白米廉売券は、多くが切り離されていない状態で綴られている(南アルプス市教育委員会文化財課所蔵)
 また、この資料は芦安役場にまとめて綴った状態で保存されていました。役場が廉売券を使って買う米を米問屋から事前に調達し、村民に購入させた可能性も考えられます。芦安村への恩賜金が75円30銭だったということですから、内地米であれば753升分=1102.5㎏の購入券配布となり、単純に戸数で割ると一戸当たり29.7㎏ですし、人数割りしてみると6.8㎏ですから、一ヶ月分くらい充分に食べられる量の米がこの白米廉売券を使用すれば問題なく買えたようですね。

米騒動は全国的にも8月下旬までには落ち着き、発生しなくなりました。この廉売券の使用期間にも、「9月30日迄」とありますので、おおよそそのような計算で算出された救済策だったのでしょう。

2024年7月 5日 (金)

ファンシーな壁掛けフックに記された北岳の数字

こんにちは。

このたび、芦安地区で木製の壁掛けフック数点を収蔵しました。

Dsc_0832_20240705114101Dsc_0832-2Dsc_0832-4

土産物として売られていたものなのか?何らかのイベントで配布されたものなのか?は不明です。いかにも昭和末期的なキャラクター!を感じさせるペンギンやキツネ、ウシさんが付いていてかわいいです。〇博調査員の記憶の彼方から学生時代(バブル時代)に夢中になった「ファンシーグッズ」という言葉が出てきましたわ。懐かしい~

 ファンシーは実用的なことはあまり気にしないので華奢なフックですが、ここで注目していただきたいのは、キャラクターの横に貼られた北岳の数値です。

Dsc_0833

「3192m」「3192.4m」って?現在の北岳の標高と違いませんか? 確かに数字の横に「標高」という文字はありませんが・・・。標高でしたら、1メートル低い気がしますね!

 現在、北岳の最高標高点は、富士山に次ぐ高さを誇る「3193m」と知られていますよね。それもそのはず、どうやら20年ほど前に測量し直され修正されたようです。

ですからこの壁掛けフックは、少なくとも20年以上前のものであり、さらにファンシーなキャラクターたちが全盛期だったバブル期は昭和60年から平成3年頃までなのを考え合わせると、やはりちょうど昭和末期から平成時代初めにかけて作られた資料だと判断できます。

 現在、国土地理院HPのGSI Mapsで北岳山頂付近を見ると、3等三角点標高が3192.5mで、最高標高点は3193mと2か所の標高を示す数字を確認できます。当時はまだ最高標高点の測量はされておらず、そのかわり北岳の頂上に最も近い三角点の標高が3192メートルとされていたので、こういうことになっていたのですね。

北岳登山への玄関口である八田地区芦安広河原にて、今年も6月22日に2024南アルプス開山祭が行われ、蔓払いのセレモニーの後夏山シーズンが始まりました。今日も多くの登山者が広河原を起点として北岳山頂への山行を楽しんでおられることでしょう。

002img20210906_16013819_20240705114101 002img20210906_16102280_20240705114101 ←昭和37年10月31日 野呂川橋渡り初めの様子(西野功刀幹浩家資料より・南アルプス市教育委員会文化財課蔵):60年ほど前に完成した野呂川橋のおかげで南アルプスの山々への山梨県側の玄関口となる広河原が整備された

Img_1118_20240705114101 ←令和4年7月の野呂川橋

広河原山荘や北岳山荘、北岳肩の小屋などの山小屋で販売している北岳グッズの中に、3193mと記された木製フックみたいなものはまだ売っているのでしょうかね?もちろんファンシーではないでしょうけど。

 

«衣替えで洗い張り