2018年9月19日 (水)

山梨県南アルプス市でなぜスピードスプレーヤーとよく遭遇するのか?

こんにちは、みづほです。

Dsc_3283  かねてから興味を持って調べているスピードスプレーヤーのことを知りたくて、9月8日(土)にJA南アルプス市百田経済店舗で開かれた農耕機械車の展示販売会に取材に行きました。
スピードスプレーヤー、通称エスエス(以下、SS)は自走式の薬剤噴霧器のことです。
果樹地帯である南アルプス市内では、春先から晩秋にかけて、道路ですれ違ったり、交差点で信号待ちしていると前後に挟まれたりなんかして真っ赤なダンゴムシみたいなかわいい車体のSSに、普通に遭遇します。
でも、これって他の地域ではあんまりないことみたい。南アルプス市ならではの景観の一つなんですよ!
Dsc_3285  展示販売会にいらしていたSSの大手メーカー3社さんに聞いたのですが、「山梨はSSの年間販売台数が全国一ダントツに多い」というのです!
大手3社合わせて年間約300台も売れる県は他にないのだそうですよ。
隣県の長野県や静岡県では年間100台にも届かないそうです。
山梨以外の日本の名だたる果樹栽培県では、集約した農地を持つ比較的規模の大きな農家が積載容量1000リットルキャビンタイプ等、大型のものを買う傾向にあるのに比べ、山梨は500リットルタイプの小容量が主流ですが、果樹栽培一家に一台ほぼ存在しているので、販売台数が多くなるようです。
Dsc_3271 そういえば、この辺の住宅街の車庫には普通乗用車の横にSSが停めてあるのを見るのはフツーですからね。
 しかも、みなさん、ご存知でしょうか?山梨県で一番最初にこのSSを導入したのは、我が南アルプス市の西野農協だったんですよ!さらに、今年は、昭和33年(1958年)1月25日の初導入から60年目(2018年)を迎えた記念の年です。まさに南アルプス市のSSの歴史は還暦を迎えたという訳です。
Photo南アルプス市は県内第一号の導入実績を持つのです。昭和33年1月25日に共立のSS-1型が納入されました。(写真集「夢 21世紀への伝言 ふるさと白根100年の回想」より。  
Img20180802_13540001 ←「スピード・スプレーヤ西野農協え入る 知事『富士号』と命名」というタイトルの興味深い新聞記事も見つかりました。
この日には、西野農協共選所そばの西野小学校校庭に天野山梨県知事を招いて、入魂式がおこなわれたそうです。
記事には、『神官による儀式の後、天野知事より「富士号」と命名された。この後、西野小学校校庭でエンジンの音も高らかに試運転が行われ、百ケの噴口から直径二十メートルに広がって噴き出される霧は晴れ渡った富士をもかくし、喜びのうちに式は終つた。』とあります。
以前のブログ記事「真っ赤なスピードスプレーヤー」でも書きましたが、SSが日本に導入されたのは昭和30年北海道余市町のリンゴ農場でのアメリカFMC・ジョンビーン社から輸入のけん引式が最初です。これに刺激された日本の技術者たちが開発をはじめ、翌年の昭和31年には長野県須坂市の昭信自動車が車に噴霧器を搭載した自走式の「スピードスプレイヤー」を、昭和32年5月には共立がけん引式「スピードスプレーヤSS-1」を長野県小布施のリンゴ園に初導入、昭和37年には戦前より噴霧器メーカーとして実績があった丸山がけん引式「ステレオスプレーヤ」を相次いで開発しました。
この流れにあって、西野農協は共立が昭和32年5月に納入した長野県の小布施に何回となく視察・調査を行って討議した結果、昭和32年中に購入が決定し、年が明けた昭和33年1月に納入となったようです。
←新聞記事に記載の富士号の性能Img20180802_13540001_2_2
前回の記事でもお話を聞いた西野の功刀幸男さんによると、最初に西野で導入した第一号のSSは、たいへん大型で専用運転手が雇われていたとのことです。 記録によると、共立開発の3.63mの噴霧器を長さ2.921mのイギリス製のけん引車ファガーソン(軽油37馬力)が引っ張るもので、SS全体としての長さは7m近くにもなり、巨大だったことがわかります。昭和40年代から出回るようになったコンパクトで小回りが利くように設計された自走式SS500リットルタイプが、だいたい全長3m弱なので、なんと倍以上の長さ(大きさ)だったんですね。 
 
38ss1img20180905_14250397 ←功刀家の桃畑を行く第一号導入SS「富士号」の雄姿。昭和38年撮影功刀家アルバムより
南アルプス市域の初期のSS導入実態を、功刀氏の記憶と白根町誌の記述を合わせてまとめると、①まず昭和33年1月25日に第一号の「富士号」が西野農協によって導入され、農協管轄下で運用された後、②次に、西野で昭和37年から39年の間に2つのグループ(長谷部さんと功刀さんを中心とするグループ)が共立が開発に成功した直後の自走式をそれぞれ1台ずつ購入し、③昭和40年~42年にかけて旧白根地区内で新たに3台の自走式SS(西野:昭信製1台、在家塚:昭信製1台、今諏訪:メーカー不明1台)が導入されていき、ひろがっていきます。
40ssmg20180905_15483831_2 ←j自走式SS 昭和40年代撮影功刀家アルバムより
483 ←西野白桃に噴霧する功刀グループで購入した自走式SS。功刀幹浩氏運転。昭和48年3月撮影
Ss55419ssssv60601aab117774600011118 ←初めて功刀幸男家専用として昭和55年4月19日に購入した共立SS(SSV-60-601A タンク600ℓ)。約20年間も使用した思いで深いSSなのだとか。平成11年11月8日撮影功刀家アルバムより。


功刀幸男氏によると、昭和33年の西野農協のSS導入は山梨の果樹栽培機械化への幕開けを象徴するものだったといいます。
知事を招いて大々的に行われた入魂式の報道は、県内の果樹栽培者たちに、大きなインパクトを与えたに違いありません。
昭和30年初めに初登場し、その後10年もたたないうちに、日本の農地の事情に合わせて急速に進化していったSS。
そして、その日本製のコンパクトでカワイイSSが南アルプス市を多く行き交う景観には、背景となる歴史があったんですね。 
みづほ

2018年9月18日 (火)

西野のブドウ畑できく果樹栽培者の流儀

こんにちは。
Dsc_3123_2 先日、西野の功刀幸男さん(昭和3年生まれ)のお宅に、戦後果樹栽培技術史について、いろいろと教えてもらいに行きました。
白根地区の果樹産業に多大な貢献をしてこられた重鎮のお一人ですからちょっと緊張してうかがったのですが杞憂でした。
Dsc_3130  ←幸男氏は90歳とは思えない軽やかな足取りで(しかも速い!)タッタタッタと自宅そばの農地まで先導してくださり、私のつたない質問にも穏やかな優しい口調で答えてくださいます。
幸男さんは21歳から西野功刀家で祖父の代以前から行っていた果樹栽培を引き継ぎました。39歳からは自宅農園の仕事だけでなく、その技術と人望、手腕を買われ、西野農協の理事や山梨果樹園芸会の理事なども歴任されました。非常に豊富な見識をお持ちですが、一度の訪問では質問しきれないので、今回はブドウ畑でご自身の果樹栽培の流儀について伺うことにしました。
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 現在、西野の功刀家のブドウは、巨峰→シャインマスカット・ジュエルマスカット→ロザリオビアンコ・赤嶺の種類、順で出荷なさっています。
←こちらは甲斐路の枝代わり早生品種「赤嶺(せきれい)」。この木は昭和60年頃に品種発見者の三沢昭氏宅(山梨市)を訪問し、所有の原木より枝を譲り受けて、幸男氏自らが自宅の台木に継いだもの。平成時代の功刀家のブドウ栽培を支えた思いで深い木の一つ。
Dsc_3116_2 ←こちらの緑色のブドウは「ロザリオビアンコ」。赤色系の「赤嶺(早生甲斐路)」と並んで、これら二つの品種は平成時代にスターだった品種。特別に頂戴して試食してみましたところ、二つの品種ともに少し皮が厚めで種がありますが、マスカットのさわやかな香りが鼻にぬけると同時に、口の中にはしっかりとした甘みの中にバランスの良い酸味が絶妙に溶け合い、これぞうまいブドウの代名詞というような食べ応えのある味がしました。
 しかし、10年以上前から功刀家でも栽培してきたシャインマスカットが一昨年あたりから人気沸騰。種無しで薄皮大粒酸味全く無しが最近の品種のヒット要素だそうで、「赤嶺」と「ロザリオビアンコ」の時代は終わったとの確信を持ったそうです。
 ブドウの木の経済寿命は30年だということで、平成の世の終わりとともに、この赤嶺とロザリオビアンコの木は切られます。そして、すでに栽培している緑系のシャインマスカットと対をなして箱に詰める、赤系のなにがしかの品種(皮ごと食べられ、種なし酸味なし)に植え替えていくそうです。幸男さんの中ではもうすでにシャインマスカットの次、(平成の次の世)に流行る品種を見定めています。常に次期にどんな品種が流行るか見据えたうえで木の改植を順次行っていかなければならないのだそうです。
Dsc_3142 ←台木「テレキ5BB」の育成について教えてくださる功刀幸男氏。苗木として広く流通する前に新品種の良しあしを自分で確かめるために、台木の育成も自家農園で行っている。
Dsc_3140 ←「テレキ5BB」の実。台木ももちろん葡萄の木ですが、こんなちっちゃな実なんて信じられませんね。しかし、この台木の野性的で強靭な根っこを利用させてもらわないと、いま私たちの食べている立派なブドウの実を実らせることができないのですね。この技術を発見して習得してきた人間ってすごいと思う。
Dsc_3145 ←台木テレキ5BBに早生甲斐路(赤嶺)の接ぎ木をした箇所。斜めの筋になって見える。
 Dsc_3121 ←来年までに切ってしまう予定の、でもまだまだたくさんの立派な実をつける赤嶺(早生甲斐路)の幹をいとおしそうに撫でながら、幸男氏は「品種の先取りにより、経営を安定させていく」という西野地区の伝統的な果樹栽培の考え方をこれからも実践していくのだと語ってくださった。
今回は、主にブドウ棚の下で教わったことを書きました。
しかし、幸男さんにはまだまだたくさん教えてもらわなければならないことがあります。たとえば,スピードスプレーヤー等の耕作マシン導入期の話、今までに山梨で栽培されてきたブドウ以外の優良果樹品種開発の話などです。白根地区の果樹栽培史の生き字引のような方なのですから。
「昭和20年代以降のこの地域の果樹栽培は大変なスピードで進化して状況もかなり変化したのに、その部分の歴史を記述したものは少ないですね。あなたもそこが気になっているのでしょう?」と私の意図もすべてお見通しです。
功刀幸男さんとお話ししていると、江戸時代の終わりに西野松聲堂(にしのしょうせいどう)を住民の力で開学したこの地区ならではのアカデミックな気質を現代に垣間見る感があります
Dsc_3097 Dsc_3094 ←功刀家では、大正時代より今日まで代々詳細に記している農事日誌が大切なデータとして保管・活用されています。
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幸男氏は果樹栽培の研究および普及発展を図るために果樹栽培者自らが執筆する学術機関紙「山梨の園芸」を昭和20年代から発行し続けている山梨県果樹園芸会の理事を長い間勤めていらっしゃった方でもありますし・・・。
果樹のことを調べるうちに、さらにどんどん幸男さんに教えてもらいたいことがあふれてきます。今後ともよろしくお願いします。
みづほ。

2018年9月14日 (金)

西野巻屋ふれあいサロンでみせていただいた写真

こんにちは、みづほです。

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先日、白根地区西野巻屋にある中央公会堂でのふれあいサロンに呼んでいただきました。この日は回想法を取り入れたプログラムが行われ、会員の皆さんが自宅にある懐かしい写真を持ち寄って参加されるとのことで、私も文化財課で収集した写真を持ってお邪魔しました。
←西野巻屋中央公会堂で行われたふれあいサロンで。左からトヨコさんとシノブさん。
参加者の皆さんが古いアルバムを見せてくださりながら、ご自分の幼少時のこと、お嫁に来た時のこと、昭和時代の家庭の様子、つらかったこと楽しかったこと等いろいろ思い出して、堰を切ったように勢いよく元気に語って聞かせてくださいました。
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皆さんのテンションに感化され、その興味深い思い出話の数々に私も夢中に聞き入りました。気づくと、あっと間に4時間が経っていました。
←会場は西野2区公会堂
今回は参加者の皆さんにたくさん見せていただいた写真の中から、いくつか見ていただこうと思います。
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←シノブさんのアルバムにあった戦前のさくらんぼの収穫時の記念写真。ここに写っている娘さんたちは普段は製糸工場に勤めている地元に住む工女さんたちだったそうです。昭和30年代になっても、南アルプス市内にはまだ数多くの製糸工場があり、山梨県の中でも甲府に次いで有数の製糸場密集地帯でした。
ちょうどサクランボの収穫時はまだその年の春蚕が仕 上がる前で糸を取る原料の繭が入荷しないので仕事がなく、サクランボ摘みのアルバイトに来てもらったそうです。
その他シノブさんからは、降雨に弱いサクランボの実を守るため「家の外に鉄板を置いておいて、ポトンと一粒でも雨の落ちる音がしたら、急いで畑に走ってサクランボの木の上に三角屋根を広げに飛びだしたものだ」という話を聞きました。家の中で家事をしていても、寝ている夜中でも、サクランボの収穫時は気が抜けなかったそうです。果樹地帯ならではのこの地区に特徴的な逸話ですよね。大変面白かったです。
沢山見せていただいた写真の中には昭和40年代初期にはまだ珍しかったカラー写真もありました。
Img20180907_14080475 ←昭和40年代の子供たち。抱っこしているお人形やその後ろにある車の色が懐かしい感じですね。
Img20180907_14274466 ←こちらはモノクロですが、昭和40年代初期の西野保育園のお昼ごはん風景。
Img20180907_14100729  トヨコさんからは、いまはもう行われていない西野地区の民俗行事の記念写真を見せていただきました。
←昭和10年代撮影と思われる西野巻屋地域の「ちょうまたぎ」。
集合写真の後ろに大きな提灯をたくさん吊るした「ちょうまたぎ」が写っている。かつては西野の八幡神社参道立てられたそうです。現在市内では飯野若宮神社の夏の祭礼でのみ見ることができますが、かつては白根地区各地で行われていたといわれています。この写真の存在により、西野地区の「ちょうまたぎ」の存在と姿が明らかになりました。
Img20180907_14061302 ←こちらは戦後の西野巻屋の「ちょうまたぎ」。この写真はトヨコさんが勝沼からお嫁にいらっしゃった昭和32年以前の写真で、トヨコさんの記憶の中に西野でちょうまたぎを立てた記憶はないそうです。このことから、昭和30年代にはすでに西野のちょうまたぎは消滅していたことがわかります。
家に眠っていたアルバムを持ち寄っただけで、それぞれの口から次々と興味深い思い出話が語られ大変盛り上がりました。
文化財課にとっても貴重なお話が採収できる機会となりますので、これからも是非このような集まりに読んでいただけたら嬉しいです。
Img20180907_14182367 ←最後におまけの写真です。勝沼出身のトヨコさんが葡萄娘だったころのお写真(
左から二人目)があまりにもかわいらしくて、サロンに集った皆で盛り上がりましたのでご紹介!昭和29年か30年に名古屋の丸栄デパートで、勝沼から葡萄娘として販売促進に赴いた時のスナップだそうです。
白根地区の農協でも同じような活動が行われていたのか不明ですが、もし情報があればお知らせ願いたいです。
今回は、白根地区西野巻屋のみなさんには、大変お世話になりました。今後ともお知り合いになれた縁で、いろいろなことを教えていただきたいです。
よろしくお願いします。
 みづほ

2018年9月13日 (木)

甲州の収穫

こんにちは。

Dsc_3226 4月から観察させていただいている小野さんちの曲輪田の葡萄畑に収穫の時がやってきました。
例年は9月の下旬ですが、今年は春がはやくやってきた影響で、この畑でワイン用に育てられていた「甲州」も9月8日が収穫日となりました。
←平成30年9月7日
それでは、8月から収穫まで、甲州の実が順に色づく様子をご覧ください。
25 ←平成30年4月12日 まだ芽吹き前。
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←平成30年8月1日。
 甲州は、日本原産の品種であり、山梨でもっとも古くから栽培されてきたぶどうです。
甲府市にある植原葡萄研究所代表の著書「日本のブドウ ハンドブック」によると、甲州はコーカサス地方の野性的欧州種がシルクロードを超えて交雑を繰り返しながら中国を経由して、日本にもたらされ生み出されたものだそうです。
山梨の野生種の遺伝子も入りこんでいるので、この地の気候風土に最も適応したブドウです。
なるほど、甲州だけは袋掛けなどせずとも、雨にも負けず、風にも負けず、病気にも強く、棚いっぱいに大きく広げた枝に薄紫の房をたわわに実らせます。他の過保護な「おぶどうたち」に比べて、なんと力強くて健やかなこと!

 
←平Dsc_3044_2成30年8月13日。猛暑の中、色づいてきた。
 この小野家甲州は植えてからまだ2年目の若木なのだそうですが、4月にはじめて対面したときは、切り詰められてまだ葉の出ていなかった枝だったのに、半年もしないうちにぐんぐん伸びて葉を茂らせ、たくさんの美しい実をぶら下げている現在までの様子を振り返ると、その生命力に感動させられます。
「頑張ったね、すごいね」と思わず声を掛けたくなります。
たまにただ見に行っているだけの私がそう感じるのですから、世話をしてきた勝也さんはどんな思いなのでしょうね。
Dsc_3242 ←平成30年9月8日収穫日。
Dsc_3267 ←9月8日小野家のお母さんとお父さんも収穫に参戦。
Dsc_3261 一粒味見をさせてもらったら、甘みと酸味が凝縮したウンと濃い味がしたので、「いいワインができそうですね」とつい軽薄な言動をしましたら、「まだ2年目の木ですから、まだまだわかりませんっ」と、いつも自作の評価に厳しい勝也さんらしい言葉がかえってきました。
今回もまた背筋が伸びました、ありがとうございます。志が高い人と接する機会を持つことは大事ですね。
←吟味しながら、収穫する勝也さん。
 甲州は、欧州ブドウ種がシルクロードを通過していくうちに、いろいろな在地種と混ざり合い自然に出来上がった日本(山梨・南アルプス市)の風土に最も適した固有種。
もともとは乾燥地帯で生まれた葡萄がその長い旅の終着点で、日本の高温多湿な環境においても生き延びる力を「甲州」という品種になり身に着けたということでしょう。
 そして、日本では甲州の旺盛な生育力に適した、他国に類を見ない独特の棚栽培が発明されました。
歴史的にも文化的にも大変なロマンをまとったブドウだったんですね。小野さんのワイン造りにおいて、この甲州にこだわる理由がよくわかりました。故郷のこの土地を大好きなブドウが、無理なく健やかに育って実らせた原料を使って作るワインに期待が膨らみます。
みづほ。

2018年8月31日 (金)

温室メロン栽培の痕跡

 こんにちは。 今回もメロン特集です。

J きょうは、南アルプス市域で昭和初期に最盛期であった、メロンの栽培と出荷に関する資料をいくつかご紹介したいと思います。
←白根地区西野芦澤家にあったメロンの写真(「ローヤルジュビリー」という裏書きがある)。品種名だろうか?
大正14年に現南アルプス市西野の功刀七内氏によってはじまったガラス温室によるメロン栽培ですが、昭和初期には西野周辺地域(現白根地区)の名産品として、全国的に名をはせるようになりました。
昭和初期以前から当該地域にお住いの家の方に、古いアルバムを見せていただくと、メロン栽培に関わっていたご先祖の姿が写し出されているのをよく目にします。
J_2 ←白根地区西野芦澤家のガラス温室
Img20180731_16190233assyuku ←昭和9年・白根地区西野の功刀家を訪れた李王殿下
Img20180808_16234690  峡西電鉄西野駅が昭和5年5月に開業すると、駅前に県下初の果実専門法人組合である西野果実組合の事務所が置かれ、地域をあげて大都市圏に向けての組織的な販売戦略が実行されました。
そして、西野のメロンは駅の小荷物扱所から鉄道便で北海道・東京・信州・名古屋・大阪・神戸などへ出荷されてくようになりました。
←西野駅から出荷されるメロン。昭和初期に功刀七内氏が撮影。
組合ができてからは、昭和10年に、本家浜松・豊橋産のメロンとの京浜関西市場での競合を避けるために代表者会議を開いて種をまく時期を協定したり、昭和12年には熟度が均一のものを出荷するために、メロンの共同選果を行うなどの先進的な取り組みも行われました。
 さらに、昭和13年7月には、大阪市中央卸売市場において、西野の組合代表者等80名を大阪に送り込み、大阪京都神戸の青果会社の仲買人や小売業者、新聞社を招待して大試食会を行っています(白根町誌の功刀七内氏執筆による記録より)。この活動は、現在のJAでも行っているトップセールスといわれるようなものにあたるのでしょう。昭和初期に、結成された果実組合がすでにこれらの活動をおこなっていたということに驚きます。
Dsc_2870 ←白根地区西野芦澤家で使っていたメロンの掛け紙
昭和18年になると食糧増産政策による果樹生産抑制が行われます。また、戦時対策のため、光に反射して敵機の目印や標的になりやすい温室のガラスは外され、ボイラーは軍需工場に徴発されてしまい、メロン栽培は壊滅的な状況になります。そして、戦後になっても西野では復活しませんでした。
2145
 戦争に翻弄された西野のメロン産業ですが、設備投資を伴う先駆的な栽培、他競合産地との調整や地区をあげての品質の統一、トップセールスを行うなどの成功体験で培った技術や販売戦略や思想は、その後の南アルプス市域の果樹生産者の姿勢や方針に多くの影響を与えています。
←昭和14年5月櫛形地区沢登で撮影
戦後になり、当地でさまざまな設備や機器が先駆的導入された事実(スプリンクラーやスピードスプレーヤ、桃の非破壊式糖度センサー等)にも、その流れ(影響)を見ることができるのではないでしょうか。
Img20180831_13303390 ←白根地区飯野の朝光園のラベル
みづほ

西野に伝わるメロンの思い出(ガラス温室編)

こんにちは、みづほです。
Photo ←この写真は昭和9年頃に西野で撮影されたメロン栽培用の温室内での一コマです。
立派なメロンにそっと手を添えている少年はその時、2歳6か月だった功刀幹浩さんです。ちっちゃなあんよに不釣り合いな大きな下駄もかわいらしいですね。
その後ろで、幼い幹浩さんの背中をやさしく支える男性は、当時功刀家で働いていた文貴男さんです。
撮影したのは幹浩さんの父で、温室栽培を南アルプス市に初めて導入した功刀七内という人です。
 かつて市内で行われていたメロン栽培について、昭和6年生まれの功刀幹浩さんにお聴きしました。
Dsc_2907 ←お父様のメロン栽培のお話を聞かせてくださった功刀幹浩さん(平成30年7月31日撮影)
Photo_2 戦前まで南アルプス市で大規模に行われていたメロン栽培は西野が発祥です。
幹浩さんのお父さまである功刀七内氏が大正13年秋、愛知県の清州試験場に温室栽培を学びに行ったのがきっかけでした。七内氏はその1か月の研修中にガラス製温室を設計図に作成して西野に帰宅し、さっそく翌年の大正14年3月にはじめてのガラス温室(30坪)を現南アルプス市西野字池尻に建設しました。
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昭和9年撮影:西野功刀家ガラス温室群・大正14年建設の30坪の葡萄(マスカットオブアレキサンドリア)用温室は一番右側のひとまわり小さなもの。この中の葡萄の木の下に置かれたサンマ樽が西野メロン栽培のはじまり。右側奥にみえる煙突は、昭和2年設置の石炭を燃料とするボイラーの煙突。
このようなメロン栽培用の温室群が戦前まで白根地区各地で見られました。幹浩氏の思い出によると、ボイラー室では、雇人二人が交代で24時間の番をしていたそうで、幼い幹浩少年はメンコをあぶって強くしようという目的もあり、よく遊びに行ったそうです。
Img20180803_11543695_3 ←こちらの写真が、大正14年当初の温室内のメロン栽培の様子です。よく見ると、なぜかメロンは樽に一本ずつ植えられています。(白根町誌より)
実は、このガラス温室は、当初はメロン用ではなく、岡山で成功していたマスカットオブアレキサンドリアという葡萄の促成栽培を目指すために建てられたものでした。
 しかし、ガラス温室が完成した直後に植えた葡萄の苗木が育ち、結実するまでには2~3年はかかってしまいます。その間に見込めない収入を埋められないかと考えられた方策が、同じ温室内で行うメロン栽培だったのです。
 七内氏は愛知での研修で成長の早いメロン栽培も学んでいました。サンマの入っていた樽を鉢に転用して土を入れ葡萄の苗の間に置き、メロンの苗を一本ずつ植えたのでした。
Img20180808_16260467 その三か月後には立派に実ったメロンを東京の有名なフルーツパーラーに出荷したところ大好評で、七内はメロン栽培の有利性に気づきます。
当時、30坪の温室で600円ほどの建設費が必要でしたが、単価の高いメロンは、栽培がうまくいけば一回の収穫で温室の建設費がまかなえるほどの収入がありました。
 さらに、功刀家では、昭和2年に加温用のボイラーを取り付け、年に3回の収穫ができるようになっていました。
七内さんは抱えきれるだけのメロンを持って中央線に乗り、東京の市場に毎日運んで販路拡大にも奔走したそうです。
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大正14年に西野の功刀家からはじまった温室メロン栽培は、その収益性の魅力によって、近在の農家に瞬く間に広まり、昭和14年をピークとする急激な温室建設ラッシュが起こりました。「桑畑の中の光る建物」「朝の西野はまるでダイヤモンドで飾った村だ」「木綿煙草で知られた里も今じゃメロンで名が高い」などといわれたのもこの頃です。メロン栽培用のため池や水道を設備したり、冬になると、毎年入れ替える必要のある土を男たちがハウス内から出し入れする姿が頻繁に見られました。
↑昭和6年に天皇陛下に献上したクローコールマン種の葡萄の箱を持って自宅前で撮影。左が功刀七朗 右が功刀七内。
しかし、大東亜戦争の戦況悪化に伴い、①男手も少なくなる一方 ②ときは食料増産体制真っただ中で、ぜいたく品は作りにくい情勢 ③温室は光って目印や標的になりやすいことから多くのガラスが外されて軍需工場他に供出 以上①~③のような理由でメロン栽培は急速に縮小し、途絶えました。戦後になっても、西野以外の市内各所で昭和時代終わりころくらいまで小規模に行われるのみでした。
1 ←百々清水家に遺るメロン温室を転用した作業場とその横にあるメロン栽培用のコンクリート製のため池。
3
←作業場内部(温室として使用していたころはこの骨組みにガラスがはめられていた。
今ならまだ、メロンに沸いた大正14年から昭和15年頃の記憶を市内各所で聴き取ることがきますし、温室の建物の痕跡をまだ見つけることは可能です。
なるべく取りこぼさないように、資料収集したいです。
みづほ

2018年8月28日 (火)

飯野のそろばん教室で

 こんにちは、みづほです。
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 白根地区飯野に、昭和30年代から開塾しているそろばん教室に資料を見せていただきにまいりました。
←そろばん教師の相川さんは全国的な和算の研究会にも所属され、そろばんに関するありとあらゆる資料を収集されている有名な方です。
 そのたいせつな所蔵品の一部を、○○博物館のために、特別に見せてくださいました。
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かつて習い事は「お習字かそろばんか」という時代が長く、そろばん教室が各地で盛んに開かれてました。
 相川さんのお話によると、明治以降に東京などの都会に出て一旗揚げたいという人も、まずは「読み書きそろばんを身に着けてから」でないと話にならなかったとのこと。
 戦後も個人で使える電子計算機のなかった時代、金融機関でも行員がそろばんを使っていた昭和30年代には、複数の場所に教場を持っているような大手のそろばん塾が現在の南アルプス市内に5~6軒ほどもあったそうです。
 昭和50年代になり、ピアノや水泳など習い事の選択肢が増えたきたころから、そろばん教室の状況はかなり変化してきたようですが、相川さんが開いていらっしゃる飯野にある珠算学院には、現在も小学生を中心に生徒さんが元気よく通っていらっしゃるとのことでした。
 見せていただいた資料の一部をご紹介させていただきますね。
Dsc_3074 ←南アルプス市内でかつて使われた「問屋そろばん」 
Dsc_3087 ←なつかしい昭和のそろばん玩具
Dsc_3095 ←そろばん付きの銭函 
Dsc_3064 ←江戸時代から明治時代にかけての文書 Dsc_3076 ←和算書「峡算須知」 
Dsc_3097 ←そろばん教室用グッズ 
Dsc_3090 ←料理屋の部屋ごとの勘定を表す特殊なそろばん
以上のような、南アルプス市民の皆様がお手元で大切に保管していらっしゃる地域に関する資料も、その概要や状況を文化財課にお知らせいただければ、市内にある限り、所有者はそのままで南アルプス市ふるさと○○博物館の大切な資産の一つになります。
 今回のそろばん関連資料についても、所有者の相川さんより、「今後地域文化に関する研究や展示などをする機会があれば活用して欲しいので協力しますよ」とありがたいお申し出をいただきました。
 もし市内の個人のお宅で、このような郷土に関する資料をお持ちの方がいらっしゃいましたら、文化財課のふるさと○○博物館までお知らせいただけると助かります。
Dsc_3108_2 ←ここ飯野には、昭和40年代名古屋生まれの私も通ったそろばん教室の懐かしい光景がそのままにありました。耳を澄ますとパチパチという音が今にも聞こえてくるようでした。
みづほ

2018年8月24日 (金)

糖度センサーを最初に導入した西野農協(現JA南アルプス西野支所)

 こんにちは。
Dsc_2956  最近は、スーパーに並ぶ果物に「糖度保証」のシールが貼られているものが増えてきました。少々高めのお値段なのですが、ついついそちらに手が伸びてしまいます。
果実を傷つけずに食べる前から甘さを保証できるなんて、ふしぎ~ですよね。
現在では、桃・林檎・梨・蜜柑といった多くの果物の選果に使用されている非破壊式の糖度センサーですが、最初は外見からではわからない食味のバラつきに悩まされていた桃のために開発されました。
 昭和62年から山梨県と山梨県果実農業協同組合連合会(果実連)・三井金属鉱業株式会社が協同して開発がはじめられ、一宮と西野の農協で測定実験が行われた後、平成元年にさっそく本格導入したのは、旧白根町にあった西野農協(現南アルプス市)が最初でした。
←解析装置に入っていく桃。
なんでも、「人工衛星から電波を発信して地球の鉱物資源探査をしている特殊光線を利用することで,桃を破壊せずに糖度を測定できるのではないか」という話を三井金属工業の技術者から聞き、これに賛同した山梨県の果樹産業関係者とはじめたプロジェクトだったそうです。
ちょうど桃の出荷中だった8月1日に、世界で初めて平成元年に桃の非破壊式糖度センサーを導入したJA南アルプス市西野支所(導入時:西野農協)へ、現在の稼働状況を取材に行きました。現在、導入されている桃の非破壊糖度センサーは、平成21年に導入された透過式と呼ばれるもので、平成元年に最初に設置された反射式とは測定方法が異なり、より精度の高いものになっているそうです。
Dsc_2880 ←こちらがJA南アルプス西野支所の集出荷施設。
 販売係の浅川さんが丁寧に説明してくださいました。 
今年は春先の気温の高さから一週間ほど収穫が早まり、最大稼働日は7月15日で、8月10日までの稼働でした。
Dsc_2948 ←取材に伺った8月1日は、この選果場に70~80人が働いていました。
Dsc_2946 ←場内では、縦横無尽に張り巡らされたレールの上を、まるで回転ずしのように、一個ずつ黒い皿に乗った桃が流れていきます。皿の中には桃の個体情報を記録するためのチップが入っています。
Dsc_2923 ←入荷した桃はまずこの場所で、目視によりキズなどないかチェックしながら皿に一つずつのせています。
Dsc_2916 ←皿に乗った桃が最初に通るのが、こちらの糖度を測るための透過式光センサーです。このボックスの中で桃に特殊光線が当たり、個体ごとに数値化した糖度を皿に内蔵されたチップに記録していきます。
Dsc_2918 ←画像の右から左へとチップ入りの皿に乗った桃が流れ、糖度解析の次に⇒画像解析の順で,それぞれの測定機器が内蔵されたボックス内を通過していきます。
Dsc_2957 ←糖度解析の次に、桃が入っていくボックスでは色目と形状を画像判定しています。画像はこちらのモニターで見ることができます。
Dsc_2942 ←2つのボックスを通過して糖度と色目と形状を数値化された桃が出てきました。桃は手前の方に流れてきています。
JA南アルプス市管内では西野の他、飯野、豊、櫛形、鏡中條の支所にこの装置があり、現在導入されている機器は平成21年に導入されたもので、透過式の非破壊糖度センサーです。
Dsc_2966 ←次にそのチップの情報をもとにルートが枝分かれして等級ごとのラインに振り分けられ、それぞれの箱詰め作業者に運ばれていきます。
Dsc_2949 Dsc_2965糖度13度以上で色目と大きさ形状の点数が高いものは「エクセレント」という最高位の称号が与えられて出荷されます。次に糖度11度以上の「特青○秀(トクアオマルシュウ)」→「特赤〇秀(トクアカマルシュウ)」、さらに糖度9度以上の「青秀(アオシュウ)」→「赤秀(アカシュウ)」というようにランク付けしているそうです。

←すべての桃は個体ごとに糖度・形状・重量・熟度が記録され、データ化されています。そして、出荷した個々の農家にもその情報がすぐに伝えられる仕組みになっています。
 平成元年に西野ではじまった非破壊糖度センサーの実用化は、それまでの重量と外観のみの選果から、加えて、糖度も保証するという画期的なもので、これにより、「外見はよくてもまずい桃は一つたりとも出荷しない」という品質保証体制が確立しました。
いまでは、日本全国にこの体制はひろまり、日本果実の品質の高さが海外からも称賛されるようになっています。
Dsc_2924_2  しかし、一方で、一定の糖度に達しない果実は出荷されないので、うまい桃を作ることができない農家は淘汰されてしまうことになります。
そこで、西野農協では、開発初期段階より、「高糖度果実を生産する技術を解明するためにも糖度センサーを導入するのだ」という目的を掲げていました。
生産農家側でも糖度センサーの計測結果を最大限に活用して高糖度の桃を生産する農園の農事日誌を詳細に調べてその技術をマニュアル化するなど、さらなる品質向上を実現してきました。
機器開発技術者だけではなく、西野の生産者たちの一致団結した勇気と覚悟がなければ、糖度センサー導入プロジェクトは成功しなかったといえます。
 パイオニア精神にあふれた西野地区の土地柄が平成のはじめにも受け継がれていたことを象徴するような事例の一つだと思いました。 
じつは、西野には「果樹栽培における初めて物語」がほかにもいくつかあるんですよねぇ。順にお伝えしていきたいと思っています。
みづほ

2018年8月22日 (水)

飯野若宮神社にちょうまたぎが集結!(お灯篭祭り)

こんにちは。
前回の記事に引き続き、「ちょうまたぎ」の登場するお祭りについて書きま~す!

南アルプス市飯野にある若宮神社では、毎年8月20日に一番近い日曜日に、お灯篭祭りが行われます。

Dsc_3385 ←平成30年のお灯篭祭りは8月19日に行われ、夜7時頃の若宮神社参道には、このように灯篭や提灯をたくさん飾った「ちょうまたぎ」8基が連なりました(1基は鉄パイプ製)。
こちらは、1区上手組。

 慶長3年(1598)からはじめられたと伝わるこの祭りですが、昭和40年代初期から53年まで途絶えていました。復活したのは昭和54年からです。

Dsc_3375
 
←こちらは1番古い、2区中村組のちょうまたぎ。武者絵が美しいです。
Dsc_3329←2組の灯篭を納めている箱には昭和13年の墨書があります。
Dsc_3337 ←箱の中に入っていた灯篭にも、電球ではなくて、まだろうそくを灯していたころの痕跡が残っていますね。
途絶期間以前は、春蚕と麦刈りと田植えが終わって訪れる農休みの7月9日に、飯野全地区の道祖神前でちょうまたぎを建て、集落の境界で夏の疫病を退散させる祭事(夏の道祖神祭り)を行っていました。その翌日は、いったん取り壊したものを若宮神社の参道に再び立てて、各地区のちょうまたぎを集結させて、飯野地区全体の氏神様である若宮神社のお灯篭祭り(氏神様の祭礼)を行いました。「ちょうまたぎ」という共通する祭礼ツールを使って、二つの異なる祭礼を連続日程で行うという実態があったということになります。
 残念ながら昭和時代の約10年間の断絶期間に、お灯篭祭りだけでなく前日に行っていた夏の道祖神祭りも、ともに行われなくなっていましたが、昭和54年復活時には、前回の記事でご紹介した3区西北組と4区東北組と6区郷地新居組が、お灯篭祭りだけでなく前日の道祖神祭も同時に復活させ、現在も続けています(前回記事参照)。 
Dsc_3283 ←平成30年8月19日午後3時に、若宮神社参道に集結した「ちょうまたぎ」に灯篭などの飾りつけが始まりました。
Dsc_3348 ←ちょうまたぎの隣でその地区の住民たちがテントを張り、宴会をしています。宮畑組は、ちょいと跨ぐのではなくスロープになっていて、バリアフリー仕様のちょうまたぎに進化していますね。
文化財課ではこれまでの調査により、このお灯篭祭りの現在の形態は、夏の道祖神祭りにおける境界に関わる祭事と若宮神社における祭礼が習合したものだと考えています。
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また、ちょうまたぎを建て、提灯や灯篭を多数飾るという行為も、夏の疫病の流行を防ぐために日本各地で行われてきた祇園祭の系譜であろうと推測しています。(広報南アルプスNO.185平成30年8月号p12~13「ふるさとの誇り133〇博レポート「歴史に光をともす地域の伝承~飯野・若宮神社のお灯篭祭りとチョウマタギの文化~」の記事で詳細をご覧ください)
Dsc_3362 道祖神祭りで建てるちょうまたぎをいつから若宮神社に集結させるようになったかは不明ですが、今年も行った調査では、明治初期に布達された道祖神祭礼幣習禁止令などの圧力をかわすために、道祖神の祭りを若宮神社祭礼の前夜祭として習合することで、以後も行うことができるように意義づけた可能性もあるのではないかという指摘もいただきました(山梨県立博物館丸尾氏より)。
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Dsc_3384  若宮神社のお灯篭祭りの起源の痕跡は、その前日に今も3つの地区で存続されている、夏の疫病流行を除けるために行ってきた夏の道祖神祭りに見ることができます。
みづほ

2018年8月21日 (火)

飯野の夏の道祖神祭り(若宮神社お灯篭祭り前夜祭)

こんにちは、みづほです。
Dsc_3155 平成30年8月18日に白根地区飯野へ夏の道祖神祭りの調査に伺いました。文化財課では飯野地区で道祖神祭りの翌日に行われる「若宮神社お灯篭祭り」と合わせて、昨年より山梨県立博物館の丸尾先生と山梨大学の大山先生にも加わっていただき、聞き取りなどの調査を行っています。
18日は、飯野5区宮畑組、飯野3区西北組、飯野4区東北組、飯野6区郷地新居のお住いの方に聴取りを行い、3区・4区・6区の皆さんには祭りの様子を見せていただきました。
Dsc_3098 飯野若宮神社の参道石碑の入り口に位置する3区西北組の道祖神さんの前では、ちょうど15時位から地域の男性が40人ほど集まり、に「ちょうまたぎ」または「雨屋(あまや)」とよばれる構造物を組み立て始めました。
Dsc_3137部材はすぐそばにある3区の公会堂に保管してあります。
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30分ほどで骨組みが出来上がり、1時間ほどすると、屋根や提灯、風鈴、花などで美しく飾られた「ちょうまたぎ」が完成しました。
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午後5時からは子供たち向けのリクリエーションもその前ではじまり、賑わっていました。
Dsc_3202 6区郷地新居組では、区民会館前に「ちょうまたぎ」を立て、道祖神のお祭りをしていました。
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ここでは地区の役員の方や近所に住む90歳のおばあちゃまがお米を供えて道祖神さんにお参りする姿が見られました。
 区民会館の中ではバザーが行われ、外では夏の宴会が行われ、お灯篭祭りの前夜祭という意識で地域の方々が道祖神祭りを楽しんでおられました。
Dsc_3257 4区では、6時頃に伺うと、果樹地帯の道を抜けていく途中の暗闇に突然豪華な提灯の明かりが現れました。
Dsc_3276 道を挟んで鎮座する道祖神さんに向けて「ちょうまたぎ」が組まれており、その下で道路を封鎖して(申請許可済)提灯の明かりの下、楽しそうな宴会が開かれていました。
Dsc_3274 この地域に住んでいる人には夏の恒例行事の見慣れた風景なのかもしれませんが、なんて情緒ある光景なのだと感動してしまいました。
その下に集う人々の笑顔を見ているだけで、なんともぜいたくな気持ちになります。うらやましいな~。
このぜいたくな宴は、趣は少し変わりますが翌晩も若宮神社の灯篭祭りの場で開かれます。
今晩の宴が終わった後にちょうまたぎの提灯は一旦外しておいて、翌朝に若宮神社の参道に移動させ、再び飾りつけます。
Dsc_3275
翌8月19日は、飯野若宮神社参道に飯野にある8地区のちょうまたぎが集合して、お灯篭祭りが開催されるからです。
お灯篭祭りの様子は次回の記事でレポートしますね。
 
みづほ

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