南アルプス市の七夕文化が甲府中心街で受け継がれていました!
「あまの川 深さの程はしらねども 七夕さまの袖のながさよ」
こんにちは、みづほです。
最初にご紹介した歌はかつて、南アルプス市十五所(旧櫛形町)に居住していた花輪いそ子さんが昭和初期に詠んだ歌です。
七夕の夜、家の前に立てた笹竹に、ひらひら風になびく袖の長い男女の七夕様を飾り終え、ふと、夜空を見上げると、天の川が見えたのでしょうか。
当時、この地で飾られた七夕人形が天の川の深さと比べたくなるくらい、袖が長かったことがわかります。
←昭和初期に南アルプス市十五所で花輪いそ子さんが七夕に詠み、書き記した歌。七夕人形とともに封筒に入れられ、保管されていた。(画像提供:山梨郷土研究会会員・信清由美子氏)
この歌の存在は、山梨に数ある七夕人形の中でも、西郡(にしごおり)の七夕人形が「袖が長い」という特徴を有していたことを示す資料の一つとなると思います。
他には、同じ南アルプス市落合で発見された明治以前製作の袖の長い七夕人形を、上野晴朗氏が「やまなしの民俗下巻(昭和48年刊)」で写真付きで紹介しています。
←南アルプス市落合(旧甲西町)の旧家の蔵の梁に近い壁ぎわに吊るされていた、明治以前製作の袖の長い男女の七夕人形。上野晴朗氏「やまなしの民俗下巻(昭和48年刊)」より。
←これに対して、山梨県東部(ひがしごおり)の人形は「裾(すそ)や足が長い」ものが報告されていて、その違いが興味深いです。
このたび念願叶い、冒頭の七夕人形の歌が記された短冊の所有者で、いそ子さんの長女である満知子さんに、七夕の室礼の安藤家住宅にお越しいただきました。
昭和7年生まれの満知子さんは、実母のいそ子さんがかつて七夕に人形を作っていらしたのを記憶しており、いそ子さんの字で記されたこの短冊を、亡きお母さまの形見として長い間大事にお持ちでした。
さらに満知子さんは、毎年七夕になると、いそ子さんが十五所で作っていた人形を思い出して自らも七夕人形を切り、額装した形見の歌とともに甲府市中心街にある自宅に飾っていらしたのです。
いまは忘れ去られてしまった南アルプス市の七夕人形文化が、なんと甲府市街で受け継がれていました。
満知子さんのお話によると、いそ子さんは明治生まれで、昭和のはじめ頃に十五所にあった花輪製糸場創業家に嫁ぎ、二男二女をもうけたあと、昭和18か19年頃に38歳の若さで亡くなられたそうです。
花輪製糸場は明治37年に創業し、昭和40年代半ばまで操業した旧櫛形町内では最大の製糸場でした。
この花輪家に長女として生まれた満知子さんは、終戦後の混乱期ををはさみ、他家へ嫁いだこともあり、長い間七夕人形のことは忘れていたといいますが、約30年前に、いそ子さん自らがつくった七夕人形とともに直筆の歌が紙に包まれて遺されているのに接し、在りし日の母いそ子さんを偲びながら、七夕人形を飾るようになったそうです。
残念ながら、いそ子さんが昭和初期に作成した七夕人形はいまは所在が分からなくなっているようですが、人形の作り方と母の直筆の歌だけは満知子さんの宝物として手元にあるそうです。
今後も、この花輪家の七夕人形文化は甲府で満知子さんのお嬢様が受け継いでくださるでしょうが、〇博では、この文化を、南アルプス市内で地域的な広がりを持って捉えることができないか調査しています。
というのも、満知子さんは七夕になると近所にあった十五所の商店で、七夕様用の紙を売っていて、ご自分も「七夕様の紙をください」といって、買いに行った記憶があるとのことですから、少し期待できるような気がします。
南アルプス市内の七夕人形文化は、おそらく昭和初期くらいまでの習俗であり、その手掛かりを集めるのは難しい作業になると思いますが、七夕のとても素敵な風習なので、是非、その文化を掘り起こして、再現できたらしあわせです。
みづほ
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