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2018年12月24日 (月)

昭和9年、西野にて枯露柿の『火力乾燥に成功す』

こんにちは、みづほです。

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←昭和1118日『輸出枯露柿万歳!火力乾燥に成功す』東京朝日山梨版(手塚家所蔵)

 

 和製ドライフルーツの代表である枯露柿は、天日と冷たい冬の季節風(南アルプス市域では八ヶ岳颪による乾燥が主流でしたが、現在では火力を使った乾燥法もかなり増えてきました。

室内で乾燥させるため、温度と湿度を加減でき、品質が安定し生産調整も可能になります。

今回は、昭和初期に枯露柿の生産において、火力での乾燥方法を研究し完成させた白根地区西野の手塚光司氏とその業績について記したいと思います。

 

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明治以降、甲州枯露柿は山梨の主要輸出品の生糸や水晶等と並んで重要な輸出品のひとつとして数えられていましたが、大正時代に入ると輸出先での顕微鏡検査で枯露柿の表面に多数のバクテリアや有害微生物がみられるとして、衛生的見地から天日干しという製法の問題点が指摘されるようになっていました。

 

←昭和1118日『輸出枯露柿万歳!火力乾燥に成功す』東京朝日山梨版(手塚家所蔵)の乾燥室と手塚光司氏の画像部分拡大

 この問題解決にいちはやく反応した生産者が、白根地区西野の当時30歳代であった手塚光司氏でした。

手塚家ではその父光彰氏の代より枯露柿原料として最適な品種を模索する中で、のちに「大和百目」と命名される柿を選定して園地を造成し(大正7年)、その栽培法を確立していました。

 その上で、昭和5年か6年頃から光司氏が枯露柿の火力乾燥に関する研究を行い、昭和9年に乾燥室の装置、加工法、排気装置、温度、燃料等を開発し、火力乾燥法を完成させます。

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当時の新聞記事や現在も枯露柿生産をなさっている手塚家の光裕氏よりの情報によると、昭和初期に自宅の庭に建設された乾燥室は『一丈四方、高さ八尺』のほぼ正方形の建物で、約一万個の柿を収容できました。

「山梨県果実連史」平成5年発行より


 コンクリート二重壁の乾燥室内には空気攪拌器が三個取り付けられ、練炭を入れた火鉢八個から発する熱気を調節して、室内の上部下部に温度差がないように工夫されていました。

 また、当時撮影された乾燥室の写真を見ると、天井に蒸留する水分を排出するための排気孔として、乾燥室の屋根には9本もの煙突が取り付けられています。これらの煙突には室内の湿度を調節するための、回転式の調節弁が取り付けられていたようです。

 昭和18年生まれの手塚光裕氏は、父親の光司氏が昭和5年から9年までの火力乾燥法の試行実験を重ねる中、「幾度も実験に失敗し、大量の柿を未完成の乾燥室からすべて出して処分する憂き目に家族が遭遇した」と伝え聞いているそうです。

燃料も当初は石炭で試みたものの、火力乾燥法完成時は練炭を使用していたそうです。さらに、戦後から昭和40年代まではコークスを使用、その後は石油を燃料とした乾燥室に移行したと教えてくださいました。

 手塚家では、昭和10年より本格的に火力乾燥法による枯露柿生産をはじめました。

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昭和11年と14年の東京朝日山梨版記事(手塚家所蔵)には、『衛生好きのアメリカ人』に大好評で、ロサンゼルス及びサンフランシスコ方面から『クリスマス用に大量送れ』の注文が殺到したと書かれています。

 

←昭和14118日『太平洋の彼方から枯露柿に大量注文』東京朝日山梨版(手塚家所蔵)

 

 同時期(昭和初期)には、従来通り天日干しであった八田地区高砂の枯露柿もシアトルやサンフランシスコに輸出されていましたが、白根地区西野の手塚家で開発された火力乾燥法による枯露柿生産は、品質の向上とあわせて、何よりも「衛生的」という点において評価されるものでした。

その後の、戦時下の南方への軍用供出や戦後のアメリカ向け輸出再開への販路を開拓するものとなっただけでなく、現代の室内機械乾燥法の先駆けであったことは間違いありません。

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↑戦後、枯露柿の輸出再開のために手塚家他を訪れ、視察を行ったアメリカの調査団(昭和20年代・手塚家所蔵)

 

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←昭和初期に枯露柿に添付された商品カードの裏には、輸出先でも対応できるように英文での説明書きがされている。
 

 残念ながら、枯露柿の火力乾燥法の生みの親、手塚光司氏は、生まれたばかりの息子の光裕氏(昭和189月生まれ)を1度だけ抱く機会を得てから戦地へ向かい、37歳の若さで亡くなられたそうです。

 それでも、戦後手塚家では、早世した光司氏開発の乾燥技術が忠実に引き継がれ、現在に至るまで高品質な枯露柿生産を実現しています。

 今回の調査に当たって、現在の当主の手塚光裕氏には、昭和初期からの火力乾燥の歴史を示す貴重な資料を提供していただきました。

 

 現在は南アルプス市域において枯露柿の輸出は行われていないようですが、新しい技術に果敢に挑み、『甲州枯露柿の恩人』とまでいわれた光司氏の姿は、原七郷の西野ならではの進取の気質を感じさせるものです。

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←昭和141215日『甲州の枯露柿アメリカ行きの支度で大忙し』東京朝日新聞山梨版より(手塚家所蔵)

 

先進的な農業経営を行っておられることで有名な現在の手塚家叶屋園芸場についても、その進取の気風が確実に受け継がれている様子が随所に感じられ、非常に興味深かったです。

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