「生盆」てなんだろう?
こんにちは。
一般的に今日8月13日から各家々で盆行事がはじまります。ここ南アルプス市(山梨県)では、お墓を掃除した後、座敷や居間に盆棚を設け、夏の収穫物と「あべかわ」と呼ばれるきな粉と黒蜜をかけた餅、茄子馬などを作って飾ります。我が家でも夜には家の前で迎え火を焚きます。

さて、お盆といえば最近「生盆」という言葉が気になっていたところでした。当ブログでその興味深い内容をたびたびご紹介している野牛島の要助さんの日記の、天保5年7月12日の箇所に「生盆」なる行事が記されていたのです。
『同(七月)十二日晩
生盆として極□のもの東組之内江
祝ひ出し候分
生盆として極□のもの東組之内江
祝ひ出し候分
米京壱升 定吉
米大升五合 野兵衛
米京壱升 □左衛門
米壱升 喜三郎母
米大升五合 平兵衛
米大枡五合 吉五郎

米京壱升 龍助倅
米大升五合 兵吉
米京壱升 文右衛門
米京壱升 喜三郎
米京壱升 善右衛門
米京壱升 彦蔵
米大升五合 宇兵衛
米京壱升 勇吉
米京壱升 清之丈
米大升五合 利兵衛
米京壱升 惣之丈
米京壱升 政兵衛
米京壱升 清兵衛 』
生盆の贈り物として米を近所の東組の人々に配ったようで、その20人の配布先とそれぞれに贈った米の量がリストアップされています。
今も私たちが慣れ親しんでいる亡くなった人をお迎えして祀るといった、いわゆるふつうの「お盆」とはちがうものなのでしょうか?「生盆」について調べてみました。文献に見つかった事例を順にご紹介していきます。
今も私たちが慣れ親しんでいる亡くなった人をお迎えして祀るといった、いわゆるふつうの「お盆」とはちがうものなのでしょうか?「生盆」について調べてみました。文献に見つかった事例を順にご紹介していきます。
①昭和初期に民俗学者折口信夫が著した「たなばたと盆祭りと」という文献によると、『七夕から盆へ続く間には、「生き盆」すなわち「いきみたま」の祭りが以前は盛んに行われていた(抜粋)』そうです。要助さんの生きた江戸時代後期の甲州でも一般的な行事だったのでしょう。しかし、折口信夫はこの文章を発表した昭和4年当時において「生き盆」という行事は『聞く事甚稀になった』と書いており、昭和時代のはじめまでには、ほとんど忘れられた民俗だったこともわかりました。
②ちょうど手許にあった広辞苑第二版昭和44年発行を開いてみると、「生盆(いきぼん・しょうぼん)」は「いきみたま」と同じとあり、『旧暦の七月八日から十三日までの間に、児女が、生存している父母・尊長者に祝物を贈りまたは饗応した儀式・行事。』と記されています。
要助は所属する東組の人々へ、元気でこれからも過ごして欲しいという願いを込めて、祝いの米を贈ったということでしょうか。なるほど生盆で行われる贈り物は、生きている人の魂(いきみたま)を供養していると理解できますね。
要助は所属する東組の人々へ、元気でこれからも過ごして欲しいという願いを込めて、祝いの米を贈ったということでしょうか。なるほど生盆で行われる贈り物は、生きている人の魂(いきみたま)を供養していると理解できますね。
③山梨県内の他の文献中に「生盆」の事例はあるかどうか探してみると、山梨県史資料編10近世3在方Ⅰに、現在の笛吹市春日居町国府にあった江戸時代からの医家、辻家の文書「辻家年中覚(年月日未詳)」に生盆の項を発見しました。
生盆のために、七月に入ったら肴類を(盆礼用に)調達しておくとして、麺、しらす、鰹節、年魚(鮎)が書き連ねられています。そしてそれぞれの送り先として15名ほどの名がリストアップされていました。
これにより、野牛島要助家があった山梨県の西郡とおなじように、辻家のあった東郡地域でもかつて生盆が行われていたことが確認できました。
辻家では小麦を使った麺と「なまぐさもの」とよばれた魚類を用意しているところが、米のみを配った野牛島要助家とは異なりますが、やはり東郡でも生盆に際して、食物の贈り物は必須だったことはわかりました。
生盆のために、七月に入ったら肴類を(盆礼用に)調達しておくとして、麺、しらす、鰹節、年魚(鮎)が書き連ねられています。そしてそれぞれの送り先として15名ほどの名がリストアップされていました。
これにより、野牛島要助家があった山梨県の西郡とおなじように、辻家のあった東郡地域でもかつて生盆が行われていたことが確認できました。
辻家では小麦を使った麺と「なまぐさもの」とよばれた魚類を用意しているところが、米のみを配った野牛島要助家とは異なりますが、やはり東郡でも生盆に際して、食物の贈り物は必須だったことはわかりました。
④昭和56年に発行された山梨郷土研究会発行の学術誌「甲斐路第41号」では山梨の盆行事が特集されており、その巻頭論考にも生盆を『7月13日以前に行った盆礼の古い姿である』と書かれています。さらに県内各地域での盆行事の様相を示した記述部分では、県内各地でそうめんや小麦粉・米などを親族や知人友人に贈答する盆礼(中元)が盛んに行われており、忍野村には「生盆まいり」という言葉がかろうじて残り、同じく忍野村と都留市では、「13日の晩には生臭いもの(魚)を食べないと仏さまに口を吸われる」との言い伝えを遺している様子が報告されていました。昭和の終わり頃だと、まだ生盆の痕跡を追うことができたようです。
今回、野牛島要助さんの日記から、生盆という言葉を知り、かつて日本では、死者のみならず生者も同様に持っている魂(たましい)を平等に供養する民俗があったことを知りました。
祖先の霊を迎える前に生きている人の魂を供養するという生盆。
現在では「生盆」が「盆」の行事に集約され、その言葉は忘れ去られてしまったけれど、いまでも7月半ばになるとかつての盆礼である中元を親しい人に贈ります。そして、仕事を休んで、帰省ラッシュに見舞われながらも故郷に帰り、刺し身や寿司などの生臭ものの盆のごちそうを親類たちと一緒に食べて体と心を休めて楽しむのは、実は「生盆」からの習慣だったのだと理解できました。

←昭和30年代 盆踊り(在家塚中込家資料)
魂は亡くなった人にだけあるものでなく、当然生きている人の中にも存在する。だから、「生盆」を行って、まずは頑張って生きている自分たちの魂にもご褒美をあげ、慰労しよう!そして、すっきりした心と体で今度はあの世から戻っていらっしゃるご先祖さまや身近な亡き人の御魂(御霊)を盆供養しよう。
野牛島の要助さんの日記にあった生盆という文字がきっかけとなって、先人たちが行った盆行事の内容やその意味の一端を知るに至りました。民俗学者の折口信夫のいう生盆風にするならば、今年も無事にお盆を迎えられたことを祝して「おめでとう」と身近な人とおめでた詞(ごと)を伝え合いたくなるわけです。
文献:「去申年此方用気控帳より天保五年七月十二日の記」要助 野牛島中島家資料
「たなばたと盆祭りと」折口信夫 民俗学第一巻第一号 昭和4年7月
「辻家年中覚」山梨県史 資料編10近世3在方Ⅰ 平成14年10月
「甲斐路 第41号 特集山梨の盆行事」 山梨郷土研究会 昭和56年6月
「盆行事の輪郭」清水茂夫 甲斐路第41号 昭和56年6月
「たなばたと盆祭りと」折口信夫 民俗学第一巻第一号 昭和4年7月
「辻家年中覚」山梨県史 資料編10近世3在方Ⅰ 平成14年10月
「甲斐路 第41号 特集山梨の盆行事」 山梨郷土研究会 昭和56年6月
「盆行事の輪郭」清水茂夫 甲斐路第41号 昭和56年6月
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