甲西名物だった干瓢作りに挑戦
南アルプス市甲西地区では、東南湖を中心として江戸時代に干瓢づくりが盛んであったことは、「甲斐国誌(文化十一年)」に記され、「北斎漫画十三編『甲州に干瓢を製』(嘉永二年)」にその様子が描かれるほどでした。
明治時代のはじめには中断するようですが、甲西町誌(昭和48年)によれば、『明治27・28年頃から、江戸時代に盛んであったユウガオ栽培が再び盛んになり、県内の問屋はもちろん盛況時には京浜地方までも干瓢の行商が行われ、昭和8・9年頃までは相当量が取り扱われていた』とあります。
複数の河川が集合する甲西地区南湖のユウガオ畑地は、一面水田の中に盛土して作られたもので、水分と保温が良好なためその栽培に適していました。

富士山をバックに青々と広がる水田の、ところどころに太陽の光を浴びて眩いほどに白く輝く干ぴょうの帯が風を受けてはらはらとなびく光景。想像するだに美しく、魅了されてしまいました。それまで干瓢という食べ物に特に興味のなかった私ですが、その時から8月になったらユウガオの実を手に入れて干瓢を作ってみよう!と考えていました。
さらに、南アルプス市甲西地区で収集された民具の中に「干瓢削り器」なる資料を複数収蔵していることを確認していたので、これら干瓢作りに係わる民具の使われ方の確認もしたいと思いました。
それでは、干ぴょうづくりに取り掛かります。

実はそれほど堅くはありませんが、マルユウガオの場合、最大直径が35~40センチ弱もありますから家庭用の包丁では少し苦労しました。



←輪切り用手回し干瓢削り器:明治時代から昭和初期まで使用された。(南アルプス市東南湖高遠家資料)

さぁここからは、北斎漫画にあったように江戸時代と同じく包丁で手剥きするしかありませんのでやってみます。
後に乾いて縮むことを考慮して厚さは100円玉一枚分以上といいますから、2ミリほどでしょうか。

それでも格闘の末、何とか帯状に剥けました。
初めての干瓢削りで要領を得ないので、途中ちぎれてしまったものも多くありましたが、こうして遠目でみれば、なんとか干瓢になりそうな気がしてきました。あとは干しあがるのを待つばかりです。
しかし、これで直径35センチほどのマルユウガオの実2個分の成果です。上下の帯状に削れないヘタの部分や皮、種を含んだワタの部分を取り除かなくてはならないので、ユウガオ一つから採れる干ぴょうの量は(私の未熟さを差し引いても)驚くほど少ないことがわかりました。
さらに、今回自分で作ってみて、干瓢はたいへん手間暇のかかる加工品だということも実感できました。スーパーの乾物コーナーでみる国産干瓢が高いのにも納得できます。
もう少ししたら、完成品を調理して食べてみたいと思います。
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