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2019年8月29日 (木)

八田山長谷寺の護摩と雨乞い

こんにちは。
Img_4961  令和元年八月二十日の午後7時から、榎原にある八田山長谷寺(ちょうこくじ)にて、恒例の夏祭りの護摩祈祷が行われました。
八田山長谷寺は、水が乏しく旱魃に悩まされてきた原七郷(上八田・西野・在家塚・上今井・吉田・小笠原・桃園の七つの村)にあっての湧水点の一つで、古来より雨乞いをする祈祷所でした。
←令和元年8月20日、榎原の八田山長谷寺。護摩壇の奥の前立て観音の、さらに奥の扉の向こうに、秘仏の十一面観音様がいらっしゃいます。
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そして所蔵する秘仏、木造十一面観音立像は原七郷の守り神として地域住民の信仰を集めてきました。
 
 現在では、毎年3月春と8月夏の祭礼に、榎原長谷寺本堂(観音堂)で護摩焚きが行われています。
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 この八田山長谷寺の護摩が古来から行われてきたことはまちがいなく、このブログでたびたび登場している江戸時代に書かれた野牛島要助さんの日記にも、雨乞として護摩を行った天保五年の記述があります。
←令和元年8月20日午後7時、榎原の八田山長谷寺で行われた護摩祈願。護摩とは、仏の智慧の火を以て苦の根元を焼きつくすことを表すそうです。

 今日はその護摩焚きを含めた長谷寺の雨乞い祈祷の箇所を確認してみたいと思います。

 野牛島に住む要助さんが文政七年十二月から天保九年四月までの14年間に記した中に、御嶽金峯山での雨乞いが1回ありましたが、それ以外の3回の雨乞いはすべて長谷寺で行われたものでした。
3717img20180320_13310606-2 ①天保三年七月十七日(1832年8月12日)『上八田村榎原村ニテ雨古い相初め』
5711img20180318_16504499 5711img20180318_16494156 ②天保五年七月九日~十八日(1834年8月13日~23日)『榎原村上八田村雨古い致申候飯野村在家塚西野沢登十五所吉田村上今井村々雨古い致申候』
57918img20180318_16520692_20190829170901 『榎原上八田村七月九日ゟ十六日迄観音様ニテ雨古いいたし相勤 同月十七日ニハ護摩 十八日同観音様御開帳御座候 両九ツ時ゟ曇り雨ふり 日暮迄夕立有 之申候我等儀参詣ニ仕候・・」
861926img20180320_10175130 ③天保八年六月十九日~二十六日(1837年7月21日~28日)『上八田榎原ニテ同月十九日ゟ観音様ニテ雨古い致し相勤十九日ゟ二十六日迄勤』
Img_4942   要助さんの日記にみえる、以上3か所の長谷寺雨乞いの記述ですが、やはりいずれも夏季に雨乞いが行われています。
Img_4989 特に、②の天保5年の雨乞いでは、長谷寺のある榎原村・上八田村をはじめ、原七郷のうち在家塚村・西野村・吉田村、さらに飯野村、沢登村、十五所村が挙って行い、
「まず観音堂で8日間の雨乞い祈願をしてダメで、次に護摩を行い、それでも雨が降らないので、ついに秘仏である観音様を特別に御開帳したところ、昼頃より曇って雨が降りだして日暮れまで夕立があった」とあります。
護摩の行われた八田山長谷寺観音堂(本堂)
観音様の力はすごいですね!

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