八田山長谷寺の護摩と雨乞い
八田山長谷寺は、水が乏しく旱魃に悩まされてきた原七郷(上八田・西野・在家塚・上今井・吉田・小笠原・桃園の七つの村)にあっての湧水点の一つで、古来より雨乞いをする祈祷所でした。
←令和元年8月20日、榎原の八田山長谷寺。護摩壇の奥の前立て観音の、さらに奥の扉の向こうに、秘仏の十一面観音様がいらっしゃいます。
そして所蔵する秘仏、木造十一面観音立像は原七郷の守り神として地域住民の信仰を集めてきました。
現在では、毎年3月春と8月夏の祭礼に、榎原長谷寺本堂(観音堂)で護摩焚きが行われています。
この八田山長谷寺の護摩が古来から行われてきたことはまちがいなく、このブログでたびたび登場している江戸時代に書かれた野牛島要助さんの日記にも、雨乞として護摩を行った天保五年の記述があります。
←令和元年8月20日午後7時、榎原の八田山長谷寺で行われた護摩祈願。護摩とは、仏の智慧の火を以て苦の根元を焼きつくすことを表すそうです。
今日はその護摩焚きを含めた長谷寺の雨乞い祈祷の箇所を確認してみたいと思います。
今日はその護摩焚きを含めた長谷寺の雨乞い祈祷の箇所を確認してみたいと思います。
野牛島に住む要助さんが文政七年十二月から天保九年四月までの14年間に記した中に、御嶽金峯山での雨乞いが1回ありましたが、それ以外の3回の雨乞いはすべて長谷寺で行われたものでした。
「まず観音堂で8日間の雨乞い祈願をしてダメで、次に護摩を行い、それでも雨が降らないので、ついに秘仏である観音様を特別に御開帳したところ、昼頃より曇って雨が降りだして日暮れまで夕立があった」とあります。
↑護摩の行われた八田山長谷寺観音堂(本堂)
観音様の力はすごいですね!
« 甲西名物だった干瓢作りに挑戦 | トップページ | 鏡中條電話八番は洗心堂医院 »
「八田地区下高砂・徳永・榎原」カテゴリの記事
- 故郷に届いた出稼ぎ工女の葉書②(2023.12.19)
- 高砂渡場橋梁渡船賃銭表(たかすなわたしばきょうりょうとせんちんせんひょう)(2023.11.27)
- 戦時の女性たち(大日本国防婦人会と防火訓練)(2023.08.31)
- 前御勅使川を封鎖した穴水朝次郎の報徳碑(2023.05.25)
- にしごおり果物の軌跡は「柿の野売り」による行商活動からはじまった(2022.12.15)