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2020年3月

2020年3月31日 (火)

明治時代に加賀美で作られた瓦

こんにちは。
 Dsc_1400 こちらは、南アルプス市文化財課の収蔵庫で保管している若草地区加賀美で明治時代に作られた瓦の資料です。瓦本体の刻印には『特製瓦 甲州加賀美 澤登八十八』とあります。

396715 Dsc_1399 寄贈された際に添付したと思われる紙には、『明治時代に作られたもの 加賀美の土瓦 特製瓦甲州ヤマヤ(屋号) 製造主澤登八十八と記す』、もう一点には、刻印の写しとともに『孫八十春 現在戸主利秋』と記されていました。


 この手掛かりを頼りに、文献を調べてみますと、『生産遺跡分布調査報告書(窯業遺跡)1990 山梨県教育委員会』に 加賀美瓦窯跡群の項があり、明治時代以降現代( 平成初め)にいたる加賀美の瓦屋のリストが記載されていたので、大変参考になりました。

これによると、ヤマにヤの屋号で澤登八十春さんの名があり、昭和50年くらいまで操業していた瓦屋だとわかりました。

早速、リストにある番地を訪ねてみましたが、いまその地番には瓦屋であったらしき建物や痕跡は残されていませんでした。

 


 しかし、昭和時代まで40か所以上の瓦製造所があった若草地区加賀美を歩くと、まだ瓦製造の街だった痕跡をそこここに見つけることができます。


1810 ←奥城瓦工業跡(令和元年10月23日撮影)Photo_20200331110702 ←「若草町誌」1990にみえる奥城瓦工業生産の様子
363468-4 ←青柳瓦工業(令和元年10月23日撮影)

 上記の『生産遺跡分布調査報告書』の当該部分を執筆した末木健先生の『山梨県に於ける近世瓦窯について 1994 山梨県考古学協会 山梨考古学論集Ⅲ』の論文によると、
加賀美での瓦製造については、瓦窯の創始を示すと思われる享保元年(1716)の伝承がありますが、積極的に商売として甲府城に瓦を納入したのは天保五年(1834)頃からだとのことです。
 それでも、江戸時代は農閑期に瓦生産を行う程度であったようです。甲府城などで瓦が必要になると、施主が現在の愛知県三河地方から瓦製造職人を招聘し、甲斐の国で瓦を焼くための良質な粘土が採取できる場所に釜を築きました。そして、その地域に住む農民を雇用して焼き上げた地のひとつに、現在の南アルプス市若草地区加賀美(かがみ)がありました。必要量を焼き上げると、職人たちは釜を放棄して三河に帰ったので、この技術を身に着けた加賀美の農民(地域有力者)たちは自立して瓦屋をはじめたのだと想定されています。
 しかし、明治中期になるまでは、一般の住宅の多くは藁ぶきで、瓦屋根は寺院や役所、城など特別な建物にしか普及しておらず、明治初期までの加賀美での瓦製造は産業というほどではなく、技術のあるものが農業の合間に行う程度でした。したがって、加賀美の瓦産業は、明治中期以降に発達したものとされています。
 その後、若草地区の瓦製造地は瓦粘土の分布した加賀美区より北部の、寺部区や鏡中條区・下今井区にまで広がりを見せ、戦後の原料粘土は八田地区野牛島から採掘したものも含まれました(若草町誌)。
Photo_20200331110701 ←現在、南アルプス市市内では、唯一、八田地区榎原にあった旧中沢瓦店さんの敷地に瓦窯跡が残されている。325301  

 加賀美の瓦製造の歴史は伝承では約300年前から、文書の記録が残っているものとしては180年ほど前からであり、生業として成り立っていたのは今からは130年ほど前(明治時代中期)から約30年前(昭和50年代おわり)までということになります。加賀美の瓦産業の隆盛期は100年間ほどであったということですね。

←斉藤瓦工業(令和元年10月23日撮影)

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←石川瓦工業(令和元年10月23日撮影)


 令和になった加賀美区では、瓦製造を行う工業所がなくなったかわりに、そのノウハウを生かして、愛知県のメーカーから仕入れた瓦で修理や瓦葺き工事を行う会社が現在も集中しています。いまも加賀美区が瓦の街であることに変わりはありません。歩いてみると、会社の敷地に積み上げられた瓦をあちこちで見かけますし、民家の屋根に、目を引く意匠を凝らした立派な鬼瓦を見つけると、「さすが加賀美、瓦の街だな」と納得しています。

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甲州加賀美瓦屋の動向(『山梨県に於ける近世瓦窯について1994 山梨県考古学協会』より)
天保八年(1837):加賀美村瓦屋新左衛門、甲府八日町、秤所御用人と瓦の取引を行う。
弘化二年(1846):鏡村弥一右衛門、瓦問屋銅屋庄左衛門に瓦を納入。
嘉永四年(1851):加賀美村、弥一右衛門、甲府御破損方役所へ、甲府城補修用の瓦値段表を提出。
慶応四年(1868):加賀美で70年以上前から瓦商売を行い、瓦土を採取していたことが記されている。
明治3年(1870):加賀美法善寺過去帳に、農間瓦焼家業の弥市右衛門の名がみえる。

←野呂瀬瓦店(令和元年10月23日撮影)

 

2020年3月26日 (木)

紅の霞棚引く如く(甲西のスモモの花)

こんにちは。  

Dsc_0405_20200326142201 南アルプス市内の果樹地帯では、2週間ほど前から、ひときわノッポで淡いピンクのスモモの授粉樹「ハリウッド」が咲き始め、春が本格的に始まりました。

つづいて純白のスモモの花々が満開となってきた先週末頃から濃いピンクの桃の花が、昨日あたりからは桜の花も開き始めました。市内各地が美しいです! 

 

フルーツ王国の花々は何が有ろうと、惑わされることなく、気候に合わせて淡々と自分たちの仕事をしています。そんな実直で律儀な花々たちの様子を見に、お彼岸のお休みに甲西地区に出かけてみました。

 Dsc_0360 Dsc_0359 まずは、秋山川すももの郷公園に車を停めて散策しますと、脚立をかけて摘花作業にいそしむ人々を見かけました。良い実をつくるために枝の先端と上部についている花を落としています。

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 Dsc_0390 次に秋山からトンネルをくぐって、高台にある湯沢の懸腰山から眺めてみることにしました。

Dsc_0397 Dsc_0400 日蓮上人ゆかりの眺望で知られる名勝、懸腰山(けんようざん)ですが、現在ここからでは残念ながら電柱が邪魔をしているので、道を挟んだ高台を登ったところに展望場がもうけられていました。

Dsc_0391 ←こちらがその展望場から撮影した画像です。(令和2年3月21日撮影)でも私個人的にはスモモの花に埋もれる秋山や湯沢の集落をメインに撮影したかったので、ここから見える下の道に降りてもっと東方面にカメラを向けてみました。

Dsc_0410 ←花に埋もれて青緑色の屋根が2つ並んで見えるのは、左から湯沢区公民館と落合創造館アミカルです。ああ、まさに桃源郷!

Dsc_0357  嘉永4年(1851)「甲斐叢記」という書物みると、四巻・宗持里落合村の項に、『落合湯澤塚原の三村に係て 近き頃より桃の樹を夥く植え実を採て生業とする者多し 花の盛には西山の足一面に紅の霞棚引如くにて いと麗しき風景なり』と記されていました。

 現在も春の落合で見ることのできるスモモの花の饗宴が、江戸時代から続く歴史的景観であることに感動しました。

 Dsc_0374 江戸時代の人が、「くれないのかすみたなびくごとく」と表現した甲西地区落合の春、今年も変わらず麗しいですわよ♡

2020年3月 4日 (水)

令和最初の上八田西小路百万遍講

こんにちは。
Dsc_1658  令和最初の上八田西小路の百万遍講は1月14日午後3時から、道祖神場に集合して始まりました。

新しく作られた梵天飾りを置き、お参りしてから、正月飾りや昨年の百万遍の飾りをその前で燃します。


つづいて、午前中に切紙で飾りつけした百万遍の当番家に移動して、お念仏を皆で唱えます。

その具体的な様子は昨年の当ブログ記事の白根地区カテゴリーの中の「上八田西小路百万遍」の前・後編2019年1月23・24日の記事をご覧になって参考にしてください。


Dsc_1667  上八田の百万遍は、地域の人々が集まって鉦(かね)と太鼓を鳴らしながら念仏を唱えることで、疫病退散や家内安全を願う行事です。

年に一度の百万遍講は地区内の当番の家(当家・とうや)の座敷を斎場として、一年ごとに順に各家を回って行われています。

その年の斎場となった家では、座敷内に縄張りがされ、オシンメイ(お注連)や御札、提灯が飾られます。


Dsc_1638 Dsc_1636  昨年までは上八田内の薬師小路・大下小路・西小路でそれぞれ百万遍を開催していましたが、令和となった今年からは西小路のみが例年通り行ったようです。

朝早くから人々が当番の家に集まり、独特の切紙飾りをつくって会場を異空間に整える様や、当番の家での接待に手料理の腕を振るう女性たちの頼もしさに、昨年の取材ではたいへん感動させられたので、正直、少し寂しく感じてしまいました。

 

4083← 南アルプス市文化財課〇博調査で収蔵した平成31年の「上八田西小路百万遍講お飾り」の民俗資料

そのため、より一層、この百万遍に伴う文化を少しでも多く記録に残しておこうという気持ちがおこり、西小路の昨年の切紙飾りを、○博調査に伴う資料として南アルプス市文化財課で収蔵させていただくことにしました。

 

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今年は飾り作りの際に、ばっちり〇博調査員も参加させてもらったので、切り方・折り方も教わりましたよ。

いつか、ふるさと文化伝承館での展示に活用できたらいいなと思っています。


  西小路の百万遍は、昭和48年発刊された「やまなしの民俗・下巻」上野晴朗 でも、阿弥陀信仰の中の念仏講に強く結びついた例として紹介されており、その当時の行事内容の記述もあります。昭和40年代と現在では、また少しちがうところもあるようですから、その部分をご紹介しておきたいと思います。
『・・・念仏講そのものを単に百万遍と呼んでいるところも多い。白根町上八田西小路の百万遍などその例で、ここでは一月十四日の晩に講中の集まりがあるという。当番の家が斎場となり、天井に注連を張り提灯を吊し、正面の床の間に南無阿弥陀仏の掛けものを掛け、団子をあげ、御幣を立てて、太鼓を叩きながら、弥陀の名号を唱えるのであった。その際、昔は大きな百万遍の数珠を用いたという。(上野晴朗「やまなしの民俗・下巻」昭和48年より)』

002img20200219_12133705 ←『上八田の百万遍(念仏講の姿である)』上野晴朗「やまなしの民俗・下巻」昭和48年より


写真も付されていたので、斎場の切紙飾りを伴う飾りつけは、現在と同じことがわりますが、記述にあるような団子はいまは作っていません。また、念仏講が現在行われている日中ではなく晩からであったことと、数珠はすでに昭和40年代には失われていたということがわかりました。

Dsc_1670 Dsc_1647 このように、先輩の遺してくれた記述はたとえほんの一部であってもたいへん参考になります。私も日々見習いたいと思っています。

 

←令和2年1月14日午後3時頃撮影の西小路百万遍

2020年3月 3日 (火)

十日市の豆知識Q&A

Dsc_0063 こんにちは。  
南アルプス市若草地区十日市場で、安養寺の縁日である十日市が行われ、今年も多くの人出でにぎわいました。


南アルプス市十日市場で毎年2月10日・11日に行われてきた「十日市(とおかいち)」は、時期的に『甲府盆地に春を告げる・・・』とか品数が豊富で何でもそろう盛大な祭りということで『売ってないものは猫のたまごと馬の角」というような上手いキャッチフレーズで多くの人々を集める有名なイべントです。


 でも、「どれくらい昔からやってるの?」「なんでここでやってるの?」とか、「2月にやるのはどうしてで~?」などの基本的なことをいま一度知りたいと思いました。十日市の取材に行って、安養寺の鼻採地蔵にお参りして、お堂の中で行われていた護摩焚きを見せていただく中で、周りの人から質問されたからです。今回は、Q&A方式で簡単にまとめてみたいと思います。

 

ではまず、

Q「十日市はどれくらい昔からやっているの?」

Photo_20200303114102 Photo_20200303114201 A:十日市の歴史は古く、少なくとも戦国時代から約500年も続いていることがわかっています。

←法幢院の入り口 令和元年10月撮影

このことは、法幢院(ほうどういん)というお寺にある中世の木造を納める厨子の造立に関する銘文に「天文3年(1534)」の年号と「十日市場」の村名があることから、戦国時代のその頃にはすでに十日市が開かれていたことがわかるのです。
法幢院は、十日市の店が並ぶ沿道を安養寺より西に進んだところにあるお寺です。

法幢院の本堂内の左から3番目が厨子入地蔵菩薩坐像:厨子の銘文に天文三年・十日市場の語がある。 令和元年10月撮影

 
Dsc_0065Q「なんで昔からこの場所で十日市は開かれるの?」

←十日市「北の宿」の庭先に並べられた名物の杵と臼


A:十日市が開かれる十日市場は、物流や文化の交差点だったからです。
十日市場は、静岡方面から富士川を遡ってくる文化と長野方面から富士川を下っていく文化の交差点に位置していて、古代から文化の交流拠点でした。
642-2 又、地形的にもちょうど、水に乏しい御勅使川扇状地と、水の豊かな地域との境界線にあり、それぞれの地域の産物を交換するのに都合の良い場所でもありました。そんな場所だからこそ、ここで十日市が開かれているのです。

Dsc_0058←十日市に来て安養寺に参拝する人々の列 令和2年2月11日撮影

Q「十日市に行くと、安養寺の鼻採地蔵(はなとりじぞう)に必ずお参りするのはなぜですか?」
Photo_20200303114101 A:「十日市は、十日市場にある安養寺(あんようじ)の門前で開かれます。十日市は、実は十日市場の安養寺に安置された鼻採地蔵(市神地蔵さん)の縁日に開かれてきた市なのです。

 安養寺には、「鼻採地蔵縁起」という巻物が伝えられています。この「縁起」は江戸の初めごろ、野呂瀬主税助(のろせちからのすけ)という十日市場出身の尾張(現在の愛知)藩士が書き故郷へ奉納したもので、十日市の様子なども記されています。


Dsc_0054 1841-6 「鼻採地蔵縁起」とは・・・
 ある時、田植え前の田んぼを平らにならす作業(代かき)の時に馬の鼻を取る人(馬の鼻先を竿で誘導する)が居なくて困っていると、安養寺のお地蔵様が童子に姿を変えて現れ、暴れる馬をなだめて田植えが出来るように手伝ってくれた、という伝説です。

この伝説から十日市場のお地蔵様は鼻採地蔵さんと呼ばれ、農業を助けてくれる仏様として信仰を集めています。


 十日市では、その鼻採地蔵さんが御開帳され、護摩焚きなどの供養や祭祀が行われる縁日に参詣する人々の賑わいを当て込んで、境内の外に多くの露店が並んだわけです。

←安養寺本堂の鼻採地蔵尊(市神地蔵尊・地蔵菩薩立像)令和元年10月撮影


 ちなみに、安養寺の鼻採地蔵尊(地蔵菩薩立像)は『鎌倉時代の作で、像高122・6センチ、寄木造りで玉眼を嵌入している。すらりとした長身にゆったりと衣をまとい、静かに両手を構えた姿は穏やかで、相貌は高貴な女性のように美しい』と評されています。※南アルプス市教育委員会が平成23年に刊した南アルプス市内仏像悉皆調査報告書「祈りのよこがお」に詳細が載っています。
「十日市に行ったら、安養寺の鼻採地蔵さんにも是非お参りしてくださいね!」

 

Q「かつて十日市は夏にも開かれていたって本当ですか?」
A:本当ですよ。かつての十日市は、春正月と秋七月の年2回行われていたことが、安養寺に伝わる鼻採地蔵縁起やその他江戸時代の文書に記されています。

Dsc_0055 ←安養寺本堂にて護摩焚の様子 令和2年2月11日撮影


鼻採地蔵縁起:寛永十七年(1640)野呂瀬主税介筆によると、
※十日市に関する部分読み下し
「十日市場と云う事 春正月十日十二日十四日市立始めり 国中の萬民出賣し 歳の始の用事を叶へ 穐秋七月も右の両三日市立てて 六親眷属の盆祭の用事をも此処にて叶へ侍りぬ 誠に春正月は現世の用事を営み 秋七月は盂蘭盆聖霊祭の用事を叶へ現世後生名誉の巷なり・・・」
 上記の文書によると、江戸時代の十日市は、旧暦の1月の10・12・14日と7月の10・12・14日の年に2回、合計6日開催していたことがわかります。さらに、1月の十日市は、お正月の用事や春の農作業の準備のため、7月の十日市は先祖を迎えるお盆の用事を足すために行われたとのこと。そのため、春正月の十日市はこの世の人のため、秋七月の十日市はあの世(先祖)の人のために開かれたとも記されています。 春と秋にそれぞれ三日間も立つ市の日付が一日おきになっているのは、その間に商品の仕入れや調達をするためだといわれています。古くからたくさんの人々が集い、多くの売り買いが行われた盛大な市だったことが想像できます。しかし、いつの頃からか、7月の十日市はすたれてしまったのですね。
 近年では(令和2年も)、2月10・11日に開催されています。これは、旧暦の1月10日が新暦の2月10日辺りにあたることから、2月に行われています。

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 以上のようなわけで、十日市はかつては春を呼ぶだけではなく秋も招いていたり、十日にだけやっていただけでなかったりと・・・、毎年楽しみに出かけているけど、知っているようで知らなかった十日市の素朴な疑問を少しひも解いてみました。来年の十日市をもっと愉しむネタにしていただければ幸いです。

←今も昔も十日市で売られる縁起物のダルマは、かつては綿と繭の豊産を願って白いものがよく売れたという。「やまなしの民俗」上巻 昭和48年 上野晴朗著より

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