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2020年6月

2020年6月30日 (火)

養蚕の錦絵を愉しむ

こんにちは。
 昨日までの大雨から一転、今日は梅雨の晴れ間。ジリジリ照り付ける太陽の光の強さに、「そうだ、6月下旬からは夏蚕(なつご)の季節であった!」ということを思い出しました。
 収蔵資料の中には、養蚕に関する資料がもちろんたくさんあるのですが、今日はその中から、うっとうしい梅雨の気分を払って晴れやかな気持ちにさせてくれる、パッと色鮮やかな養蚕の錦絵をご紹介します。


002img20200623_13155284←「養蚕図絵第三 にわの休 : 梅堂国政筆 」飯野新田石原家資料より


 女性たちが家の中で飼っているカイコに桑の葉を与えている場面ですね。外には蚕の守り神でもある馬が、桑の葉を背に付けて運んで来ました。


  題名にある「にわ(庭)の休」とは、金色姫伝説に起因する江戸時代における蚕の飼育期を指す言葉で、蚕が繭を作るまでに4回脱皮するうちの、4回目の脱皮前休眠状態期(四眠)のことを示していると思われます。

※蚕は、卵からふ化してから繭を作るまで、4回の脱皮を繰り返して成長します。脱皮ごとに成長期は1齢・2齢・3齢・4齢・5齢の区分で表記しますが、伝統的に養蚕地帯では、1齢を「獅子」→2齢を「鷹(竹)」→3齢を「船」→4齢を「庭」と表現していました。
 これは、先人たちが養蚕守護のために信仰していた茨城県つくば市に本社とする蚕影神社の縁起にある「金色姫(こんじきひめ)伝説」に由来します。
 ざっくりとこの伝説のあらすじを言うと、「継母に疎まれて4度も命を狙われるも、その度に救出された金色姫は、最終的に蚕に生まれ変わり養蚕をもたらした」というものです。
 その中に、「姫は継母に、一度目は獅子などの猛獣がいる山に捨てられ、2度目は鷹などの怖い鳥がいる山かもしくは竹藪に置き去りに、3度目は船に閉じ込められて海に流され、4度目は庭に埋められるのですが、その度に助け出されて生き返る」という文脈があり、この姫の受難は、「死んだようにしばらく眠った後に起きて脱皮することを4回繰り返す、蚕の生育過程」を示しているとされています。

 ↑右端の女性が持つ平かごのカイコが、ちょうど「庭の休み=四眠」なのでしょうか? 
刻んでいない桑の葉をかごに入れて立つ女性が、「もうそろそろ起きたかい?」と声を掛けたのに答えて、かごを持ってカイコの状態を見た右端の女性が「いや、全部起きてないから、桑付けは、まだおあづけだねぇ~」と答えているような気がします。

この錦絵には、「金色姫伝説」と並んで、日本における有名なもう一つの養蚕起源説である「馬娘婚姻譚(捜神記)」に由来する「馬」が登場しているところも興味深いです。馬は養蚕と関係の深い動物として、養蚕具に意匠として施されたり、養蚕繁盛の信仰対象になったりもしました。養蚕の文化は奥深いです。

次の錦絵もご覧ください。
002img20200623_13232575 ←「蚕養草:国利」飯野新田石原家資料より

この絵の蚕はかなり大きく太っていますので、たぶん、繭を作る直前の5齢期だと思います。

枝をかごに入れているところを見ると、そろそろ糸を吐き始めるころなのでしょう。

養蚕はこの時期が一番忙しいので、子を背負った母の表情にもその余裕のなさが出ている気がします。また、母の気持ちを少しでも自分に手繰り寄せようとする、子のけなげな手の表現にも惹きつけられます。


 題名左の文には、
『かいこおおねむり
 おきしてのちは
 くわの葉をくるる
 ことおおくして猶
 なたねのしべなどを
 入てすをつくる也』
と書いてあると思います。

すなわち、先に1枚目でご紹介した「にわの休み」後の、「五齢」以降の蚕の飼育要領を示した文言だといえます。

「蚕が大眠り(四眠・にわの休み)から起きた後は、桑の葉を多く与えて、その後は菜種の実を採った後の枝や藁の穂の芯などを入れると、す(繭)をつくる」という意味でしょう。

 

では続いて3枚目の錦絵もご覧くださいませ。
 002img20200623_13113006 ←「養蚕図絵 第五 あがりの図 : 梅堂国政」飯野新田石原家資料より


 この絵は、粗朶(そだ)につくらせた繭を吊るしてかけて置き、十日ほど経ったところで収穫している場面です。

乾燥中の繭はネズミの大好物ですから、赤い首輪の猫様がちゃんと見張っていますね。

収繭と並行して、繭を茹で、手回しの座繰り器で糸を繰る作業を行っているところも興味深いです。江戸時代は乾繭技術が未発達でしたから、各家では、繭中のさなぎが羽化する前に煮て糸を繰る作業が必要でした。

うまく繭が仕上がって満足そうな女性たちの笑顔が印象的ですね。

 

 

 以上3点の養蚕の錦絵はいずれも出版人が「堤吉兵衛 日本橋吉川町五番地」とあり、養蚕図絵2枚の出版届出が「明治二十年九月七日」となっていました。堤吉兵衛は元は浮世絵の版元であったのが、明治時代からは錦絵や絵草紙の問屋になったようです。


 江戸時代の浮世絵文化を引き継いだ錦絵は、あでやかな色彩や構図で現代の私たちを美術的に楽しませてくれるだけでなく、特に養蚕の様子を描いたものは、当時の様々な情報を視覚的に伝えてくれる貴重な資料だと実感しました。今度、養蚕について勉強する子供たちにも見てもらおうと思います。

久しぶりに絵を細部までじっくり鑑賞しました。あ~、たのしかった!

2020年6月19日 (金)

バス停の名は『上今井稚蚕飼育所』

こんにちは。
327_20200619114201 327_20200619114202   南アルプス市内に鉄道は通っていませんが、運賃100円のコミュニティバスが市内を巡っていて便利です。

その南アルプス市コミュニティバスの停留所のひとつに、現在ではたいへんレアな懐かしい名称があったので、櫛形地区上今井の現場に見に行ってきました!


その名も『上今井稚蚕飼育所』。


 南アルプス市役所交通政策室の発行している令和2年3月1日改正コミュニティバス時刻表によると、この停留所を通るバスは、4号車櫛形・白根線で、市立美術館を起点に櫛形・白根地区を各所を1時間ほどかけて8便が循環しています。

327-3 稚蚕飼育所(ちさんしいくじょ)というのは、養蚕における、稚蚕期の飼育のために造られた施設のことです。

蚕は卵をふ化させてから十日以内の稚蚕期が最も飼育が難しく、寒さに弱く病気になりやすいため、日ごとの生育に合わせた給餌と温湿度の管理などの飼育技術が必要となります。


そのため、昭和20年代以降、集落ごとに24時間管理で稚蚕を飼育するための共同施設が多く建設されました。

327-2 上今井稚蚕飼育所を北側を撮影。(令和2年6月16日撮影)手前右角の部屋は調理室になっている模様。各地の稚蚕飼育所には寝泊まりして世話する人のために、調理場や風呂などがある場合が多いです。


もともと出荷繭の集積所ともなっていた地域の公民館を増改築して転用する例も多くありましたし、また、現在公民館など地域のつどいの場になっている建物が、昭和40年代までかつて集落の稚蚕飼育所として使用されていた例が数多くあります。


 上今井稚蚕飼育所については櫛形町誌などに特に記録がありませんでしたので、こちらの飼育所がいつごろからあり、いつまで使われていたかは、これからの聴き取り調査で調べていかなければなりませんが、バス停の前にあるこちらの昭和レトロな建物が飼育所跡であることはまちがいなさそうです。


 327_20200619114203 外観をパッと見ると、南側には採光の抜群に良さそうなガラス窓が全面にあり、大きな間口を3か所設けています。基礎との境の部分には通気口もたくさん見えますので、稚蚕所特有の地下室があったのかもしれません。内部の構造も大変気になるところです。今後の取材活動によって判明いたしましたら、お知らせしますね。

←上今井稚蚕飼育所を南側を撮影。(令和2年6月16日撮影)


 ちなみに、稚蚕所は使用する地域住民が選択した稚蚕の飼育法によって、大部屋構造と小部屋構造のどちらかのタイプの建物に分類されます。山梨県の施設でよく見られるのは、群馬県発祥の「土室育(どむろいく)」を行う大部屋構造と長野県発祥の「天竜育(てんりゅういく)」を行う小部屋構造の2方式に大別されると思います。 上今井の養蚕組合がどちらを採用していたかも興味があります。

現在は、バス停の名とは異なりますが、稚蚕飼育所は「上今井老人いこいの家」として使用されており、この施設が稚蚕所としての役目を終えてから少なくとも三十年ほど経っているのに、「よくぞいままでバス停の名称を変えずにいてくださいました!」と、〇博としては、地域の方々へのリスペクトと感謝の気持ちでいっぱいです。 
36img20190213_09221113 369img20190213_09193284  以下、〇博でこれまでに収集した稚蚕飼育所の画像をご覧ください。

 ←昭和36年に竣工され、甲西地区古市場にあった大部屋構造の土室稚蚕飼育所の概観と内部の画像(古市場杉田家資料より)。このほか土室育は櫛形地区風新居地区でも採用されていました。左の写真の左右の壁際に蚕飼育用の土室の扉が写っています。


 Photo_20200619114201 ←地下室への入り口が見える八田地区六科稚蚕飼育所跡。平成時代まで利用されていた。
 Photo_20200619114202 ←飯野の稚蚕飼育所(白根写真集夢より)
 

2020年6月 3日 (水)

市川酒店さんの角樽

こんにちは。
Dsc_0614  昨年の秋、小笠原の市川酒店さんより、角樽(つのだる)や王冠打栓機、そろばんなど、昭和時代に使われた御商売の道具を寄付していただきました。

一部は、1月より開催いたしました「新春を彩った引札」展において関連資料として展示致しましたが、コロナ暴君の悪行により、短い間しか皆さんに見ていただくことができませんでした。

残念ですが、7月頃から開催予定のテーマ展に向けて、展示資料の入れ替えをしています。今日は展示ケースから出して、収蔵庫に移動する作業をしたので、その前に撮影しました。

一升入りの角樽と二斗入りの角樽です。お祝いの席のために誂えられたものですので、華やかですね。

P6020097←甲陽若柳は鏡中條にあった北酒屋清酒製造場の醸していた酒の銘柄。北酒屋は正徳年間(1700年代)から昭和26年まで9代続いた酒造家。

P6020096←主に結納で使用された一升(1.8ℓ)入りの祝樽。裏には鏡中條の北酒屋清酒製造場の醸していた「甲陽若柳」銘が入っている。
一升入りの角樽は一生連れ添うに掛けて、結納の席で用いられることが多かったようですよ。

2_20200603134201

←左右の側板を角上にのばした漆塗りの対の祝い酒樽。小笠原の市川酒店で使われた。二斗樽(36ℓ入り)。市川酒店さんの倉庫に眠っていたものを寄贈していただき、収蔵前のクリーニング作業を行っている時に撮影。




 


Photo_20200603134201 3_20200603134101 2_20200603134101  市川酒店さんの店前が写っている昭和30年代の写真が、〇博調査で白根地区の中込家のアルバムからデータ寄贈していただいた画像の中にありましたので、ご覧ください。

三枚ありましたが、お一人は過去の日本の国会議員の中でも大変有名なあの方が写っていますね。

←「市川酒店前での選挙当選報告会?」(在家塚中込家資料より)

写真三枚は、名執斉一氏の山梨県議当選報告会の様子のようです。

櫛形町誌昭和41年発行の記述を参考にすると、これらの写真は小笠原富士川街道の下町交差点付近から北方面を撮影したものだとわかりました。画面左端に市川酒店さんが写っていますね。 

 

 

002img20200603_10271270   ←「小笠原商店街の土蔵造りの店舗」昭和41年発行櫛形町誌より。

市川酒店の現在の店舗は、画像の「テレビはサンヨー」の看板の付いている『加藤電気器具店』の隣手前で、ちょうど演説者が背にしている入口の店の場所にあります。しかし、画像では道の向かい側に市川酒店の立派な看板が見えますので、櫛形町誌の図にあるように、かつては駿信往還(富士川街道)を挟んだ道の向かい側に店舗があったようです。


完全な疫病退散が実現して、心置きなく皆で祝いの酒を酌み交わせる状況が戻ることを願うばかりです。

〇博ではふるさと文化伝承館において、7月から新たなテーマ展を開催できるように準備をすすめ、職員皆で先週から展示に関する調査も兼ねて、全長17キロの徳島堰沿いを踏査しています。今週は収蔵庫内にある展示候補資料の確認をしました。来週はまた踏査の予定です。

コロナ禍は未だ終息していませんが、寛文十年の徳島堰工事完了から今年で350年の節目ですので、2020年中に是非ともメモリアルな展示を実現したいと考えています。(南アルプス市ふるさと文化伝承館は一部制限(市HPでご確認ください)がありますが、6月1日より開館しております。)

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