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2020年7月

2020年7月28日 (火)

葉煙草売買製造業KAWANO商店の看板

こんにちは。
南アルプス市教育委員会文化財課では、豊村にあったタバコ製造所の看板を所蔵しています。M4244
 

→「KAWANO-SHOTEN 葉煙草売買兼製造業 山梨県中巨摩郡豊村 河野伴右衛門商店」看板。 お店の入り口に掲げていたものでしょうか?


 櫛形地区豊は明治後期から昭和40年代まで蚕糸業が盛んな場所でしたが、明治37年以前は煙草製造と販売が主要な産業でした。
ちなみに豊村は、明治7年11月15日から、上今井・吉田・十五所・澤登の四ヶ村で発足し、昭和35年に櫛形町になるまで存続した村です。

 豊村誌(昭和35年刊)をみると、明治30年代に煙草製造と煙草草・製造煙草の仲買を含む会社が7社記載されており、その中に、明治27年1月創業 職工男女60人を抱えた河野商会の名がありました。当時の代表者名は看板と同じ河野伴右衛門さんですので、資料の看板も明治時代に作られたものであることが判ります。

「河野商店」の名は、同じく豊村誌の昭和33年7月の商業調査においても、煙草小売業リストに記載されています。しかし、この店が、明治27年創業の河野伴右衛門商店の流れを汲む商店であるのかは不明です。

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←「刻み煙草の製造道具」豊村誌より

「女は巻台の上で葉煙草を巻き付け、男は大きい庖丁細かく刻んで造った。巻煙草は明治20年前後から、輸入巻煙草に教えられて製造するようになった。」と豊村誌にあります。

 さて、現在の南アルプス市域で生産された西郡煙草は、江戸時代から明治・大正時代までの、豊村が含まれる原七郷(御勅使川扇状地上の水の乏しい地域)における重要な特産物でしたが、明治30年4月に葉煙草専売所官制が公布(葉煙草専売法は明治31年1月実施)され、「飯野葉煙草専売所」が山梨県全体を管轄として飯野周辺に設置されました。
 専売制とは、国が財政収入の増加や品質保証などを目的として、生産・流通・販売を全面的に管理下に置く制度のことで、国はそこから発生する利益を独占することができるようになります。

 その頃にあった豊地区の煙草産業を以下に見ると、豊村誌に7社が記載されています。

 豊村誌(昭和35年刊)記載の、明治30年代初期に存在した「煙草製造と煙草草・製造煙草の仲買を含む会社」(7社)
   ・煙草製造場一:明治15年創業 職工男10女29 斉藤才次郎
   ・煙草製造場二:明治17年5月創業 職工男11女20 保坂勇太郎
   ・豊保商会:明治20年1月創業 職工男10女18 保坂勇太郎
   ・煙草製造場三:明治20年6月創業 職工男12女40 中島勘七
   ・河野商会:明治27年1月創業 職工男10女50 河野伴右衛門
   ・竜王煙草合資会社:明治32年1月創業 職工男8女32 竜王煙草合資会社
   ・煙草製造場四:明治32年12月創業 職工男15女30 合名会社斉藤兄弟商会

明治32年5月には、「飯野専売支局」に昇格しました。
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←「明治32年年末に飯野専売支局を管轄する山梨県から、工場雇の小野元二郎氏に支給された勉励手当金(二円五十銭)の証書」 上八田小野家資料より

 明治35年10月には官制改正となり、飯野専売支局の建物が現白根地区飯野村に建設され、葉煙草収納倉庫が建てられたために、倉庫町と呼ばれる場所ができました。
山梨の煙草産業の中心地となった倉庫町は明治37年をピークに人が集まり、栄えました。


ちなみに、飯野専売支局の敷地境を示す境界石は今もひっそりと白根地区の倉庫町北交差点西の個人敷地内に残っています。

 


Img20180510_08525892 ←「明治36年3月に専売局から小野元二郎氏に支給された月俸十二円の証書」 上八田小野家資料より 小野元二郎氏は旧百田村に明治三年生まれと記録がある人物です。

 
 しかし、明治37年になると、日露戦争戦費調達の目的で、国が葉煙草の収穫から製品の輸入移入に至るまでのことごとくに専売の対象を広げたため、煙草製造工場がすべて国営に集約されてしまいました。
以来、豊村では委託製造という形で存続した工場もあったようですが急激にたばこ産業は衰退しました。

豊村村誌の、「明治44年末豊村内煙草製造会社調べ」によると、委託製造を請け負う会社のみの3社に減っています。
・合名会社竜王煙草:上今井 明治33年1月設立 煙草製造(委託製造)
・中島河野合名会社:上今井 明治41年4月設立 煙草製造(委託製造)
・斉藤花輪合名会社:沢登 明治41年4月設立 煙草製造(委託製造)

さらに、大正5年には政府が個人の煙草耕作までも禁止したので、倉庫町の出張所も大正6年には廃止となってしまったのです。
 
 以上のような経緯で、たばこ産業は明治37年を境に衰退・消滅の一途をたどるわけですが、厳しい自然環境のもと、原七郷の先人たちが育んできた西郡魂は、そこでへこたれるようなモノではありませんでした。ちゃんと次の手(蚕糸業への参入・切り替え)を計画的に進めていたのです。
それまで利水の面で難ありとされていた製糸場を設立することにはじまる、新たな基幹産業の創出を、明治37年から次々と行っていきます。
 さらに、大正5年までに耕作の禁止される煙草に代わって、ものすごい勢いで桑が植えられていきました。煙草耕作から養蚕業への転換です。
 明治37年以降の原七郷を、先人たちは、原料を供給するための養蚕業と、製品を生み出す製糸業のを両立させた産業(蚕糸業)を地域内で発達させることで、煙草産業に代わる雇用を生み出し、昭和40年代まで生き抜いていくのです。
 
 明治37年以降に櫛形地区で出現し、急速に拡大した製糸場については、その詳細を次回以降に記したいと思います。

2020年7月22日 (水)

豊村には乾繭場があった

こんにちは。
Dsc_4171  南アルプス市櫛形地区吉田には、昭和40年代まで操業していた乾繭場(かんけんじょう)の倉庫建物が現存しています。

→2018年11月27日撮影 豊乾繭場倉庫跡 (文化財課職員H氏によると、この倉庫内に残されていた棟札から昭和4年築と判るそうです。この建物は、もうすでに90歳を超えているのですね)
 乾繭場とは、養蚕農家から集めた生繭を熱風で乾燥させ、中のさなぎが羽化して出てくる前に刹蛹(さつよう)し、さらに水分を除去することでカビが生えたりするのを防ぎ、長期間の保存に耐えるよう処理をする工場のことです。


002img20200622_11283036  豊乾繭農協(豊乾繭場)は、山梨市にあった乾繭施設を昭和32年5月に198万円譲りうけて豊農協構内に設立されたものでした。「田端式」という乾燥機が一機配備されていたと櫛形町誌に記されています。

→「豊乾繭農協」櫛形町誌(昭和41年刊)より  現在残るトタン張りの倉庫は、写真の中央の屋根の真ん中に櫓の付いていた建物なのでしょうか?現在、煙突は撤去されていますし、位置関係がよくわかりません。今後の踏査では、この写真を持ち歩いて、当時のことが分かる人を探したいと思います。




 乾繭場は製糸工場内に設けられる場合もありますが、こちらの豊乾繭場は、特定の製糸場の専用の施設というものはなく、豊乾繭組合(農協)が、この乾繭場で周辺農家から集めた繭を乾燥して倉庫に貯蔵し、近隣に多数あった製糸工場に供給していたようです。

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 →2019年1月27日撮影 豊乾繭場倉庫跡(建設された昭和4年からこの倉庫は「豊第二農業倉庫」といわれていたそうです。もともとあった建物を改装して、昭和32年に乾繭繭の倉庫として整備したのかもしれません。)


2_20200722150401 Photo_20200722150401  山梨蚕糸業概史に載っている昭和33年調べ製糸場一覧をみると、現在の南アルプス市域に当時存在した製糸工場はなんと19カ所もありました。

→「豊乾繭場内部」豊村誌(昭和35年刊)

しかもより 周辺は昭和40年代まで大養蚕地帯でもあったので、それら蚕糸業の中心地たる櫛形地区豊に製糸場と養蚕農家をつなぐための、組合組織の乾繭場があって不思議はありません。

逆にこの頃には、この乾繭施設を手放した山梨市(東郡地域)での蚕糸業はすでに漸次衰退していたということを示すのでしょう。

→「乾繭場全影」豊村誌(昭和35年刊)より


 
 3993  →豊乾繭場跡に残されていた和紙製繭袋

さて、こちらは、豊乾繭場で乾燥した繭を入れていた袋です。文化財課が所蔵しています。
この袋は木綿ではなく、丈夫で吸湿性のある厚手の和紙を貼り合わせたもので、その大きさはだいたい84㎝×150㎝です。口紐はついていないタイプです。
 3993-3 乾燥させた繭は生繭のおよそ半分の重さになるので、軽くなったぶん、一袋にたくさんの量を入れることができます。そのため、生繭を入れて運搬する木綿の繭袋(油単ゆたん)よりも、乾繭貯蔵用袋は大きいものになります。


 以前に、石和で蚕糸包装資材一式を製造販売していた宮方商店の関係者に、製造していた繭袋についてお聞きしたことがあるのですが、「和紙製の繭袋は特注品の厚手の紙を仕入れ、職人が手でよく揉んで柔らかくしてから糊で貼り合わせて作っていた。木綿袋よりも高級品で、乾繭貯蔵用袋としての注文が多かった」と聞いています。


 ←この和紙製繭袋には、「豊乾繭組合」の上に「〇マルに木」の屋号がプリントされています。屋号は取引した製糸場のものでしょうか?今後調査を進めたいと思います。


 〇博調査員は、2018年に、豊乾繭場倉庫跡の道を挟んだすぐ目の前にある豊小学校の子供たちと一緒に、倉庫跡を見学させていただいたことがあります。

内部はすでに空っぽで、田端式乾燥機の跡形もありませんでしたが、2階部分に上がると、床の所どころに四角い穴が開けられていて、想像力を掻き立てられました。その際、子供達には、岡谷蚕糸博物館さんの発行した冊子の中の乾繭場内部の古写真等を見てもらい、「こんな感じにたくさん繭が積み上げられていたり、ベルトコンベアーがあったのかなぁ?」などと一緒に話したのを憶えています。

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→2018年11月27日撮影 昭和レトロな建物を維持しているJA南アルプス豊支所の敷地に豊乾繭場倉庫跡の建物が立っています。


 2018年当時のJA南アルプス市豊支所の方にうかがった記憶では、特に利用されていない様子でしたが、いまも存在感を放って立つ豊乾繭場倉庫跡建物の存在そのものが、いかにこの地に蚕糸業が発達していたかを、私たちにしずかに語ってくれています。

 

2020年7月 8日 (水)

上今井の天神の井をさがせ!

こんにちは。
002img20200703_16425310  先日、〇博調査員は櫛形地区上今井を踏査しました。

踏査では、地域性のにじみ出る古い建築物や景観等も記録しながらテクテクしています。事前に下調べしておいた史跡の現状もチェックします。

しかしその日は、チェックポイントの一つであった「天神の井」がどうしても見つかりません。

→「天神の井」 櫛形町誌より 昭和41年刊

327_20200708085601豊村誌には、「天神社の御手洗」であると記されていたので、社殿に拝礼し、上今井稚蚕所跡と接している天神社敷地周辺をウロウロしましたが、見つかりません。

→上今井天神社の鳥居


 「う~ん、どこにあるんじゃぁ~」と額に手を当てて考え込みながら立ち止まると、どこか遠くない場所から感じる視線!

急いで辺りを見回すと、塀の上からじっとこちらを凝視する黒い物体が!!

254-4 254-6よく見ると、塀に肘を掛けた黒いお犬様が。

→塀の上から鋭い視線を送る上今井のお犬様

「こんにちは」とご挨拶すると、お犬様は達観したような佇まいを漂わせながら、「ここら辺では見ない顔じゃが、何用ですかな?」とテレパシーを送ってこられました。

そこで、塀の下に駆け寄り、「はい、わたくし、上今井の地名の由来となった、旱魃にも涸れることがないと伝えられております「天神の井」を探しておりますっ」とお伝えすると、お犬様は口をぎゅっとつぐんだまま「己の道を信じて、すすめ!」と私に念を送られたあと、そのまま微動だにせず視線だけを逸らされました。

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 この言葉に勇気づけられた〇博調査員は、塀の上のお犬様の言う通り東方面に道を進み、敷地に筆塚のあるお宅を訪ね、「天神の井」の場所を教えていただくことができたのです。

→津久井七右衛門筆塚

  「天神の井」は、豊村誌と櫛形町誌によると、『別名「七ツ池」とも呼ばれ、昔、天神様が七才の童子の夢枕に立ち、その教えに従って之を掘った。後に天神宮を祀って天神の御手洗となった。この水は旱魃にも涸れることがないと言われる。』と記載されています。また、櫛形町誌には『上今井の地名も「神井」(かむい)からきているとも言われている』とも書かれています。


  さて、住民の方に案内していただいた「天神の井」は、なんとびっくり、現在、道路の下にありました。

2544 →「天神の井」へ近所の方に見せていただく。


 2544-14 井戸の上に鉄板を敷き、その上をアスファルトで覆って道にしたとのことですが、一部が開閉できる鉄蓋になっており、そこを開けていただくと、井戸の石積みと湧水が溜まっている様子を見ることができたのでした。

→道路上の天神の井の範囲


正直、櫛形町誌の写真とのあまりの変化に驚きましたが、小さな穴から中を覗くと、側面のきれいな石積みと真下にキラキラ輝く水面がみえました。

2544-3 2544-8 →天神の井の石積みがみえる。
案内してくださった方によると、いまでも地域の子供たちに、お年寄りが「天神の井」の伝説を教えてあげながら、蓋を開けて見せてあげることもあるようです。「月夜でも涸れる」といわれた原七郷にあっての貴重な湧水であった上今井の「天神の井」がこのように守り伝えられていることに安堵し、感謝した〇博調査員です。

天神の井にお導きくださった、お犬様とご近所の方にもお礼申します。

239_20200708090401 ちなみに、天神の井を見せてくださったご近所の方の庭にある「筆塚」は、正しくは「津久井七右衛門筆塚」といい、豊村誌によると、江戸時代に津久井七右衛門の開いた私塾跡に、筆子(塾生)が師を偲んで建てたものだそうです。

『七右衛門は性朴実にして儒学を好み多くの筆子を有した。碑は自然石で正面に筆塚、側面に嘉永七年甲寅秋筆子中とある。」と記載されています。

 もし、上今井の「天神の井」の場所に行ってみたい方は、この「津久井七右衛門筆塚」を目印にするとよいと思います。

2544-13  この筆塚から道なりにまっすぐ南へ50メートルほど先の、東へまがる道角の地下が「天神の井」の存在する場所ですよ。(ちなみに、お犬様には、筆塚前の道を左ヘ西方向に向かい、常泰寺門前をキョロキョロすると出会えるかもしれません)

 

 

 →「天神の井」を案内してくださったご近所の方が家に戻られる際のかっこいい後姿。ありがとうございました!

 

 

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