« 養蚕の錦絵を愉しむ | トップページ | 豊村には乾繭場があった »

2020年7月 8日 (水)

上今井の天神の井をさがせ!

こんにちは。
002img20200703_16425310  先日、〇博調査員は櫛形地区上今井を踏査しました。

踏査では、地域性のにじみ出る古い建築物や景観等も記録しながらテクテクしています。事前に下調べしておいた史跡の現状もチェックします。

しかしその日は、チェックポイントの一つであった「天神の井」がどうしても見つかりません。

→「天神の井」 櫛形町誌より 昭和41年刊

327_20200708085601豊村誌には、「天神社の御手洗」であると記されていたので、社殿に拝礼し、上今井稚蚕所跡と接している天神社敷地周辺をウロウロしましたが、見つかりません。

→上今井天神社の鳥居


 「う~ん、どこにあるんじゃぁ~」と額に手を当てて考え込みながら立ち止まると、どこか遠くない場所から感じる視線!

急いで辺りを見回すと、塀の上からじっとこちらを凝視する黒い物体が!!

254-4 254-6よく見ると、塀に肘を掛けた黒いお犬様が。

→塀の上から鋭い視線を送る上今井のお犬様

「こんにちは」とご挨拶すると、お犬様は達観したような佇まいを漂わせながら、「ここら辺では見ない顔じゃが、何用ですかな?」とテレパシーを送ってこられました。

そこで、塀の下に駆け寄り、「はい、わたくし、上今井の地名の由来となった、旱魃にも涸れることがないと伝えられております「天神の井」を探しておりますっ」とお伝えすると、お犬様は口をぎゅっとつぐんだまま「己の道を信じて、すすめ!」と私に念を送られたあと、そのまま微動だにせず視線だけを逸らされました。

239
 この言葉に勇気づけられた〇博調査員は、塀の上のお犬様の言う通り東方面に道を進み、敷地に筆塚のあるお宅を訪ね、「天神の井」の場所を教えていただくことができたのです。

→津久井七右衛門筆塚

  「天神の井」は、豊村誌と櫛形町誌によると、『別名「七ツ池」とも呼ばれ、昔、天神様が七才の童子の夢枕に立ち、その教えに従って之を掘った。後に天神宮を祀って天神の御手洗となった。この水は旱魃にも涸れることがないと言われる。』と記載されています。また、櫛形町誌には『上今井の地名も「神井」(かむい)からきているとも言われている』とも書かれています。


  さて、住民の方に案内していただいた「天神の井」は、なんとびっくり、現在、道路の下にありました。

2544 →「天神の井」へ近所の方に見せていただく。


 2544-14 井戸の上に鉄板を敷き、その上をアスファルトで覆って道にしたとのことですが、一部が開閉できる鉄蓋になっており、そこを開けていただくと、井戸の石積みと湧水が溜まっている様子を見ることができたのでした。

→道路上の天神の井の範囲


正直、櫛形町誌の写真とのあまりの変化に驚きましたが、小さな穴から中を覗くと、側面のきれいな石積みと真下にキラキラ輝く水面がみえました。

2544-3 2544-8 →天神の井の石積みがみえる。
案内してくださった方によると、いまでも地域の子供たちに、お年寄りが「天神の井」の伝説を教えてあげながら、蓋を開けて見せてあげることもあるようです。「月夜でも涸れる」といわれた原七郷にあっての貴重な湧水であった上今井の「天神の井」がこのように守り伝えられていることに安堵し、感謝した〇博調査員です。

天神の井にお導きくださった、お犬様とご近所の方にもお礼申します。

239_20200708090401 ちなみに、天神の井を見せてくださったご近所の方の庭にある「筆塚」は、正しくは「津久井七右衛門筆塚」といい、豊村誌によると、江戸時代に津久井七右衛門の開いた私塾跡に、筆子(塾生)が師を偲んで建てたものだそうです。

『七右衛門は性朴実にして儒学を好み多くの筆子を有した。碑は自然石で正面に筆塚、側面に嘉永七年甲寅秋筆子中とある。」と記載されています。

 もし、上今井の「天神の井」の場所に行ってみたい方は、この「津久井七右衛門筆塚」を目印にするとよいと思います。

2544-13  この筆塚から道なりにまっすぐ南へ50メートルほど先の、東へまがる道角の地下が「天神の井」の存在する場所ですよ。(ちなみに、お犬様には、筆塚前の道を左ヘ西方向に向かい、常泰寺門前をキョロキョロすると出会えるかもしれません)

 

 

 →「天神の井」を案内してくださったご近所の方が家に戻られる際のかっこいい後姿。ありがとうございました!

 

 

« 養蚕の錦絵を愉しむ | トップページ | 豊村には乾繭場があった »

○博日誌」カテゴリの記事

櫛形地区」カテゴリの記事