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2020年8月

2020年8月24日 (月)

加賀美最後の瓦窯元であった神山家

こんにちは。
Dsc_0364_20200824110101  先日、瓦製造が盛んだった若草地区加賀美で、最後まで操業していた神山家工房跡を見せていただく機会を得ました。

加賀美は、最盛期の昭和初期には40軒以上もの瓦窯が密集する地域でした。

その中でも、この神山家はこの地で最後まで瓦を焼いていた家です。

 

Dsc_0357_20200824110101 昭和初め頃から平成2年まで操業し、最後の数年は夫に先立たれた神山とめ子さんが近所の瓦製造経験者たちに助けてもらいながら、ひとりで工房を継続したのだそうです。

←昭和初期から平成2年まで操業した神山家の瓦製造工房内

今は亡きとめ子さんの娘さんとお孫さんが、工房内に残されていた道具類を見せてくださり、一部は文化財課に寄贈していただくことになりました。


Dsc_0376_20200824110201←こちらは瓦を成形する型枠ですね。石のろくろとセットで使うのだと実際の使い方を見せてくださいました。


_dsc0595_20200824110101以前に、同じ加賀美にあった澤登瓦店の作業風景画像にも同じような道具が写っているのをみていたので、今回はその実物資料を収蔵する運びとなって、大変ありがたかったです。

←加賀美の澤登瓦店の昭和40年代末の瓦製造風景。神山家に残されていたのと同じ道具を使っている。

 


P8170344 P8170345P8180352←体験工房等で使用したと思われる鬼瓦に関連した型の数々。 また、神山家工房の終末期には、体験工房としてお客さんに瓦の置物等をつくってもらう取り組みもなさっていたようで、それらの体験用の備品が残されていました。

Dsc_0369 Dsc_0370_20200824110201  工房の外に出てみると、前庭の駐車場の一部がコンクリートブロックで囲われて一段高くなっているのを見つけました。

うかがってみると、この区画内には、かつて成型した瓦を干すための棚が設けられていたということでした。

↑庭の一部がコンクリートブロックで区画され、一段高くなっている。この区画上に瓦を干す台が設けられた。

一段高くなっているのは、大雨が降った際に、上に掛けたシートから流れ落ちる水を素早く流すためだったそうです。

002 Photo_20200824110201 ←八田町誌と若草町誌にある、瓦干し場の様子。


加賀美は南アルプス市の田方(たがた:原七郷にしみ込んだ水が豊富に湧き出る地域)にありますので、家によっては、このような工夫をする必要があったのですね。教えていただいて初めて知りました。

 加賀美の瓦産業については、まだまだ聞き取り調査や関連資料を増やしていきたいと考えています。


今回ご案内してくださった方には、帰り際に、神山家工房での作業風景や加賀美最後の瓦職人であったとめ子さんの画像のご提供をお願いしてまいりました。次回、見せていただくのを心待ちにしている〇博調査員です。

 

2020年8月21日 (金)

パステルグリーンがレトロな旧野々瀬郵便局跡建物

こんにちは。
Dsc_0382_20200821111501 本日も、ふるさと文化伝承館では、テーマ展「開削350年 徳島堰」が絶賛開催中です。

←入口の展示資料に、「徳島兵左衛門俊正像」があります。
昭和32年に飯野新田の了円寺に寄進されたというそのお像を眺めていて思ったのは、「昭和30年代になっても、南アルプス市に住む人々にとって、この堰のもたらしてくれる恩恵の偉大さは衰えるどころか増す一方であったことをこの像は象徴しているのだなぁ」ということです。

像の作者で桃園の木彫家、長澤其山氏がこの像を完成させたのは昭和40年とのことですので、もちろん彼の想像のお姿ですが、この直後に、堰からの水を使って南アルプス市の原七郷一円に本格的なスプリンクラー網整備がされていくことを考えると、製作時期とその意図に興味が湧きます。


Dsc_4203   さらにもうひとつ思ったのは、「お着物のグリーンが目に爽やかできれいだなぁ」ということです。其山先生のお好みの色だったのでしょうか?黒く日焼けした逞しいお顔をあざやかなグリーンの縞の着物が引き立てています。

そういえば、昭和30年代から40年代はパステルグリーンというか、ミントグリーンのようなさわやかな緑色が、車や生活用具、家の塗装によく使われていたイメージがあります。


←そうそう、櫛形地区上市之瀬に昭和12年に開業した古い郵便局の建物を見せていただいたときにも、爽やかなパステルグリーンの扉や内装がレトロで素敵でしたっけ、と思い出しました。

今日は話題が飛躍して申し訳ありませんが、その上市之瀬の野々瀬郵便局跡建物をご紹介することにしますね。

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← 現在は営業していませんが、道に面した大きなパステルグリーンの観音扉が印象的なその野之瀬郵便局は、櫛形西小学校の向かいに、県道伊奈ヶ湖公園線を挟んで立っています。


006 野々瀬郵便局は、昭和12年12月1日に現存する建物が建てられ、「野之瀬郵便取扱所」として開業しました。

005_20200821111601 その後15年に郵便局として新たにスタートを切っています。


郵便局は昭和50年代とその後とで2度移転していますので、最初の建物は当時のまま、古写真に写る姿をとどめています。

001 現在も建物を所有する、初代野々瀬郵便局長山本氏のご子孫が、当時の画像と資料を2018年に文化財課に寄贈してくださいました。


1215002 ←この写真には「取扱所」の文字が見えるので昭和15年以前ということがわかります。
Dsc_4204 201881 ←扉を開けると内装は当時のままでパステルグリーンの昭和レトロな雰囲気を醸しています。
Dsc_2588 Dsc_2589 ←お客さんと事務所を隔てる格子窓の内側の木枠に「150」の表示があります。この数字は、もしも郵便局に強盗が入ってきた場合には、この身長150㎝の目印でもって、強盗犯の身長の目安を得るための工夫だそうです。
Dsc_2599 Dsc_2598 ←外観を眺めると、屋根のてっぺんの瓦に〒マークが入っているのを見つけることができます。
Dsc_2566  ←外側の窓枠にはめられていた鉄格子は戦争時に切って供出してしまったそうです。
Dsc_2579 Dsc_2581 ←建物内には、郵便局時代の備品もいくつか遺されていました。パステルグリーンの彩色は昭和40年頃に塗りなおしたものだそうです。やはり、この色味が流行った時期なのでしょうかね。

Dsc_4205  普段は個人のお宅なので公開はしていませんが、文化財課では上市之瀬を舞台としたまち歩きイベント等の機会に、所有者のご協力を得て見せていただいています。

この野々瀬郵便局跡建物の左隣にはJA南アルプス市野之瀬支所、消防倉庫を挟んで右隣には現在営業中の野々瀬郵便局があります。

野々瀬村では最初の郵便局ということもあり、この地域の皆さんの記憶に深く残る象徴的な建物なんです。

←2018年10月1日に行った、「〇博さんぽ上市之瀬中野編」の際に立ち寄った旧野々瀬郵便局跡建物。

2020年8月14日 (金)

太郎さんの持ち帰った伝単「桐一葉」

こんにちは。
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 本日は、太平洋戦争中に陸軍航空本部技手であった志村太郎さんが、太平洋北部のアリューシャン列島にあるキスカ(鳴神)島で拾ったという、伝単「桐一葉」をご紹介します。

この「桐一葉」は南アルプス市文化財課が平成28年に若草地区下今井の志村家よりご寄贈いただき、収蔵する資料中にあります。

←伝単「桐一葉」表面「桐一葉 落つるは軍権必滅の凶兆なり散りて悲哀と不運ぞ積るのみ」とあり。


 伝単とは、戦争において、敵の国民や兵士に降伏をうながしたり、戦意を喪失させる意図で、空から撒いたり街に掲示したりする、宣伝謀略用の印刷物(ビラ)のことです。


 この「桐一葉」は、戦場で数多くばらまかれた伝単の中でも、ひときわ芸術性・文学性が高いものです。  
 色と形が桐の葉そっくりに作られているだけでなく、当時有名だった歌舞伎の演目「桐一葉」の内容を想起させる格調高い短文を付して、日本兵に軍部の衰退と滅亡を予感させています。
桐一葉はもとは坪内逍遥作の豊臣家の没落をテーマにした戯曲で、その中で詠われた台詞「桐一葉落ちて天下の秋を知る」は、片桐且元が豊臣家と自分の悲運を嘆く場面で発する有名な句でした。
「桐一葉」の伝単は、1942年(昭和17年)6月にニューヨークで在米日本人が関与して製作されたそうです。(※一ノ瀬俊也著「戦場に舞ったビラー伝単で読み直す太平洋戦争ー」2007年刊より)。

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 この「桐一葉」の伝単を北方アリューシャン列島のキスカ島で拾ったという志村太郎さんは、昭和13年9月に陸軍航空本部へ技手として雇入れられ、昭和17年にキスカ島に配属されました。

志村氏の書き遺した資料には、昭和17年11月10日20時に鳴神島(キスカ島)に上陸し、土木班として飛行場の建設に従事したと記されています。そして、翌、昭和18年6月18日に伊二号潜水艦で撤収とありましたので、その間の7か月間のキスカ島生活の中で、拾う機会があったものと考えられます。

←伝単「桐一葉」裏面「春再び来る前、降るアメリカの爆弾は、梧桐の揺落する如く、悲運と不幸を来すべし」との文言。


 当時、敵国からの伝単を所持することは固く禁じられていましたので、小さく折り畳んだその折目痕を見ると、見つからないように注意して持ち帰った、彼の気持ちを推し量りたくなります。


 志村氏がキスカ島滞在中の昭和18年5月には、同じアリューシャン列島のアッツ島がアメリカ軍によって玉砕しており、その状況下でのキスカ島から脱出は、まさに命からがらだったということです。(*証言は資料寄贈時に、志村太郎氏妻の道子氏からの聴き取りによる)

3936201619_20200814143501←「アリューシャン作戦従軍記録」志村太郎氏が後年、書き記して記録したもの。(※画像すべてはタップすると拡大します)


3936201616  ←「鳴神(キスカ)飛行場計画平面図 昭和18年2月北海道守備隊司令部」

下今井志村家より寄贈された資料の中にあるキスカ島配属時のものには、上陸前半期の従軍日誌、まぼろしとなった鳴神飛行場計画平面図(昭和18年2月北海守備隊司令部)、現地アリュート人との交流を写した写真等も残されています。

1718_20200814143501  志村家よりうかがったお話によると、太郎さんは昭和8年に17歳で農林学校を卒業後、父のもと22歳まで養蚕業に従事しましたが、昭和13年に、志村家の広大な養蚕飼育場があった土地を、玉幡飛行場建設のために陸軍航空本部へ売却せざるをえなくなったため、太郎氏は陸軍航空本部に雇入れられることになったそうです。

←「船上にて」左が志村太郎さんと推測される。


1718_20200814143503 その後、設計部員として北方のアリューシャン列島に位置するキスカ島や空襲の激しかった大阪などに配属された後、昭和20年6月からは地元でロタコと呼ばれた御勅使河原飛行場の建設に携わりました。

←「アリュート人と鮭を運ぶ」キスカ島にて昭和17・18年頃の撮影。


 太郎氏は昭和59年に68歳で亡くなられましたので、もう直接にその証言を聴くことは叶わないのですが、26歳で思いがけず流氷浮かぶベーリング海を臨む孤島に連れていかれた若者の心境、その地で「桐一葉」を拾った時の心情はどんなものだったのでしょうか? そして拾った伝単を、決死のキスカ島撤退を経て、太郎さんは内緒で生まれ故郷まで持ち帰ってくださいました。そして、彼が亡くなった後はご家族が大切に保管されていました。
1718_20200814143502  戦争の時代に生きるということはどういうことだったのか?志村太郎さんの遺品や文書、写真、その一生から、なんらかの答えがもらえそうな気がしています。

 

←「アリュート人と我が勇姿(太郎氏本人の裏書きによる)」キスカ島にて昭和18年頃の撮影。 
 勇姿というにはあまりにも優しく清らかな太郎氏の笑顔に子供たちとの関係性がにじみ出ていると思います。

2020年8月 7日 (金)

農間渡世は棉商い

こんにちは。
Dsc_0379  Dsc_0395  連日の猛暑ですが、みなさまお変わりなくお過ごしでしょうか?

←伝承館2階のベランダで種から育てている綿は、梅雨が明け後のこの猛暑を待ちわびていたかのように力強くなり、どんどん実をつけはじめました。

そして、すでにその実もはちきれんばかりに大きく膨らんできています。お日様の力は偉大ですね!

 さて、綿の実といえば、最近、農業の合間に綿商いを渡世(稼業)としていた在家塚(白根地区)の八百助さんという人が、仕事で現在の韮崎市方面に出かけた帰り道に、大変なトラブルに巻き込まれてしまった事件に関する、江戸時代(嘉永五年・1852)の文献を読みました。 ご紹介したいと思います。


この文献は、具体的なトラブルの内容も野次馬根性的な好奇心を満たすに十分な内容なのですが、それ以上に、原七郷で江戸時代に行われた綿産業の実態が、八百助さんという一人の「農間綿商人」の活動を通して垣間見ることができるということが素晴らしいです。


 原七郷の産業の中で、養蚕以前では、綿は、煙草・藍と並んで根幹をなすものでした。甲州の西郡綿が、江戸時代の終わり頃に、在地の人々によって、どのような仕組みや過程をもって流通され、商売として成り立っていたのかを知ることができそうです。


 では、読んでみます。

(※画像をタップすると拡大できます)
Photo_20200807140101在家塚中込茂家所蔵資料 「文献72 鯛兵衛一件」

『     乍恐以書付奉願上候

巨摩郡在家塚村百姓卯右衛門幷弟八百助一
同奉申上候 右八百助儀者 卯右衛門同居罷在越農間
棉商ひいたし 近村々へ日々買出し罷越し
渡世相励み 尤買入候種木綿目附相頼繰綿と
いたし 所々へ売捌罷在候 然ル処右商ひいたし
河原部村緒方有之 去ル三日同所罷越 夫々届集メ
帰宅の途中 下條東割村平四郎後家ひなと申物ハ
去ル嘉永申(嘉永4年)綿繰御座候度ニ相頼ミ候ものニ付 当年
之渡と相附□ 右ハ八百助義ひな方へ寄候処 酒を振

Photo_20200807140102 舞 夜に入四ッ時頃(午後十時)同人宅表裏ゟ兼テ見知候
同村百姓鯛兵衛多右衛門霜多郎祖代吉亀太郎
米吉弁次郎儀兵衛倅栄吉浅七倅幸吉嘉蔵
弟賢吉金兵衛倅和重郎其外不躰不知名者
壱両人(ひとりふたり)一同立入 理不尽不法 八百助を打擲に
および且同人所持罷有候甲金壱分文金弐両
壱分弐朱銭壱貫三百文程財布侭幷紬絹羽織縮緬の
頭巾拵附脇差とも奪取 其上鯛兵衛多右衛門
重て藁縄を以縛り猶打擲ニおよび候ニ付 苦痛ニ

 

 

Photo_20200807140103 絶兼声立候處 追々隣家の者とも寄集り
縄解呉候所不法の始末同村役許へ申出調□□
心得候得ども右様大胆のもの共に付同所罷在候□ハ
如何様儀出来候も難計 早速其場を引取り
帰宅いたし前条の次第(在家塚村の)村役許へ訴出候處
直様(すぐさま)下条東割村名主許へ掛合および候得ども
不取(首)尾挨拶いたし心外至極に難捨置 不顧恐
奉出訴候 何卒格別之以御慈悲ヲ前出名前者共
一同被召出右躰不法の働いたし候始末 厳重の
御吟味被成下 被奪取候品々差戻し以来右躰の

 

Photo_20200807140104 働キ不仕様被仰付被下置度此段偏ニ
奉願上候
右の通御聞済被成下置候ハバ偏難有仕合ニ
奉存候以上

願主 卯右衛門
幷弟 八百助
組合 伊三郎
親類 三蔵
名主代 仙助

市川 御役所様 』

 

以下は、〇博調査員の超訳まではいかない意訳です。(注※まじめになり過ぎずに読んでください)
Dsc_1078「在家塚に住む卯右衛門の弟の八百助は農業の合間に棉商をしている。
具体的には、近村農家で木綿(収穫した綿の実)を買い入れて、別の農家へ種を取り除く作業を依頼し「繰綿」にして、それを売りさばくという渡世(稼業)をしていた。
ある日、河原部村(現韮崎市街)の緒方(篠巻をつくる作業場か、もしくは糸を紡ぐ作業場か?)へ繰綿を売りに行った帰りに、事件は起きた!
 Dsc_1071 ←綿繰り作業の様子。ハンドルで上下に重なるローラーを回し、その間に綿実を通すと、手前に種が落ち、綿と種を分けることができる。


(注※続きのここからはどうしても、おばさんの噂話風口調になりますが、お許しください)
 韮崎(河原部村)で綿の商売がうまくいって、懐も温まったところで八百助さんの気も緩んだんでしょうかねぇ?
まっすぐ家に帰ればいいものを、よせばいいのにねぇ~、
 八百助さんは、帰り道の駿信往還沿いにある下條東割村の、未亡人のひなさんの家に寄ったんだよぉ~。
どうやら前年の嘉永4年の秋に繰綿を頼んだことがあるもんだからその支払いもあってのことだったようだけどさぁ~。
でも、酒をふるまってもらった上に、夜中の十時頃迄ひなさんの家でくつろいでいたんだから・・・。ひなさんってきっと美人だったに違いないよね(おばさんの個人的見解)。

 そんなところへ様子をかぎつけた、鯛兵衛はじめ15・6人の上條東割の若者たちが、ひなと八百助のいる家にどっと入ってきた! そして、なんと、八百助を、『理不尽不法』に『打擲(ちょうちゃく)』、コテンパンにやっつけちゃったんだってよ~!
 さらにひどいことに、八百助の所持金(『甲金壱分文金弐両壱分弐朱銭壱貫三百文程』を財布ごと奪ったほか、身に着けていた絹の羽織や縮緬の頭巾、脇差(わきざし)までも取り上げて、荒縄で縛り上げてボッコボコにしたらしいんだよぉっ~!! 
 可哀そうに、縄で縛られたまま大勢に痛めつけられた八百助さんは、あまりの苦痛に大声で泣き叫んで助けを求めるしかなかったそうなんだよ。そうしたら近所の人がやってきて助けてくれたらしいんだけど・・・・・。

 八百助さんは、帰宅して在家塚の村役に相談して、すぐさま下條東割村の名主さんに掛け合ってもらったけれど、「ぜんぜ~ん誠意が感じられなかったので怒りが収まりません(『不首尾挨拶いたし心外至極に難捨置』)」ということで、市川の代官所に吟味をするように訴える文書を出したってことさ。
(※〇博調査員おばさん口調風訳は、以上で終わり)」

 西郡綿は、煙草とともに駿信往還を経て、長野県の諏訪・松本・南佐久方面に多く移出され、繰綿(種やごみを取り除いた綿の実)として、または冬の農閑期を利用して糸に紡ぎ布にして広く販売されました。
 この文献では、はじめの記述で当時の西郡綿の商いの実態がコンパクトにまとめられており、とても興味深いです。
その内容から、①在家塚の近村農家では江戸時代終わり頃に木綿栽培が多く行われていたということ。②原七郷で生産された「綿を各農家から買い取って→農家へ綿(実)繰り作業の依頼をし→収集して繰綿の売買を行う」というような商品作物として綿を流通させる仕事を持つ人が在家塚に居たということ。③韮崎に「緒方」と呼ばれる、繰綿を売りに行く場所があったということ。④御勅使川を渡った現韮崎市の下條東割村の住人にも綿繰り作業を頼んでいたこと。が判ります。
 しかし、そもそも「緒方」という場所がどのような作業を行う場所だったのかが不明です。当時甲府には、糸車で糸を紡ぐ前段階としての綿の形態である「篠巻」を売る店が数多くあった(甲州文庫の「甲府買物独案内」に多く登場)ようですが、韮崎のいわゆる「篠巻屋」さんと「緒方」と呼ばれる場所との関係はどうなのか?については、今後調査を深めたいと考えています。

 さらに、面白いのは、下條東割の鯛兵衛をはじめとして次々と名前の挙がる15人ほどの若者から、寄ってたかって打ちくじかれて奪い取られたものの記述を見ると、基本は農民であるはずの八百助の、上等な服装や所持品がわかり、たいへんなおしゃれさんであった人物像も想像できるところです。たぶん、八百助さんは、界隈で歩いていても目立つ人でしたよね。綿商いする人は羽振りがよかったのでしょうか?
八百助さんはきっとおしゃれな美男子で、韮崎の若者たちが普段から「気障でいけ好かない男」だと、敵対視するほどの人物だったに違いない!と想像してしまいます。
 でも、「ちょっと懲らしめてやろう」としたところが、下條東割村の鯛兵衛さんたちは、いくらなんでもひどくやりすぎてしまいましたね。
 結局、在家塚の名主を通して市川の代官所にまで訴えられてしまって大ごとになってしまったようです。

Photo_20200807140106 Photo_20200807140105  ←この一件に関する文書が、実はもう一点、同じ文書資料群(在家塚中込茂家所蔵資料 文献70)にもあります。
 こちらは、在家塚八百助側が市川代官所に訴えた文書(中込茂家資料 文献72)を受けて出されたもので、訴えられた下條東割村名主が、問題を起こした鯛兵衛を含めた11人の記名捺印をもって、被害に遭わせた在家塚村八百助と家長で兄の卯右衛門宛に謝罪文を送ったものです。在家塚村に近い飯野村の長百姓・長右衛門に証人なってもらい、事を収めたということでしょう。 年記は嘉永五子年二月七日(1852)となっています。

 このころは、在家塚出身の若尾逸平が、最初の結婚で婿に入った小笠原の常盤屋を立て直し、近隣でその力量がみとめられはじめた頃です。八百助さんの家は、若尾逸平生家とご近所さんですから、後に甲州財閥となる逸平さんとは顔見知りだったでしょうね。そんなことも考えると、石ころだらけのやせた土地の広がる原七郷のど真ん中にある農村であっても、商才にあふれた人物たちが自信満々に闊歩する在家塚村の風土が想像できるような気がします。その二年ほど後に、ご近所さんの若尾家は、甲府へ、横浜へと出て、甲州財閥に成長していくわけです。
Photo_20200807140002 Photo_20200807140001  ←明治30年代以降になると、八百助さんの家である在家塚中込家には、糸繭商や煙草栽培を行ったことが判る資料がみえます。

←在家塚中込茂家所蔵資料

明治31年ころから外国綿花の輸入により、それまでの綿商いが立ち行かなくなり、取り扱う商品を繭糸や煙草にと、時代に合わせて次々代えていったようです。


 〇博で調査した在家塚中込家資料の中に、綿に関しては買入帳のようなものは残されていなかったのですが、この「鯛兵衛一件」のような事件が起こったことにより交わされた文書が残されていたため、江戸時代の在家塚村綿商の活動を示す資料の発見となりました。

事件後に即、市川代官所に訴えた在家塚村としては、同じく綿商を営む村民が不利益を被らないためにも、商売上で関わる近隣村者との争いに対しては、早期の対応と解決が求められたのだと思います。

P.S.(※今日の本題から外れてしまいますけれども・・・)
 それにしても、中込茂家資料・文献72文中の『不取(首)尾挨拶いたし心外至極に難捨置』というくだり。
八百助をはじめとして、これをしたためた在家塚村の人々の気持ちがなんだかすごく伝わってきます。 潔いくらいに直球な物言い! 参考にしたくなりました。 うん、わたしも、今度、夫婦喧嘩の書き置きに使ってみよう!

2020年8月 5日 (水)

徳島堰のツケエバタとポンプ池

こんにちは。
Dsc_0825  令和2年7月17日から開催中の南アルプス市ふるさと文化伝承館テーマ展「開削350年ー徳島堰」に関連して、
「徳島堰と水辺の暮らし編」をお伝えします。

 徳島堰が御勅使川の下をくぐる前の上流域(韮崎市内部分)には、堰の水を生活に利用するための「ツケエバタ(使い端・洗場)」を設けている場所が多く見られます。


Dsc_0798 ←ツケエバタは、家の敷地から階段で堰の水面に降りられるようになっているような個人のお宅専用のものもあれば、公民館の脇や堰と交差する道沿いなどに階段を付設して集落共同で使うものの2種類ありますが、農機具を洗う他、洗濯や風呂の水を汲むために利用されました。


 しかし、水量の多い4月から9月頃までは流されないように注意をしなくてはならないので、堰路内の水を多用するのは釜無川からの取水が行われない農閑期で、堰に流れ込んだ山からの沢水で、米を研いだり、野菜を洗ったりしたそうです。


 Photo_20200805152402 Photo_20200805152401   ←ポンプ池

そのほかの堰の水利用の実態として、来館者の方に教えていただいたのですが、韮崎市内では、堰下に、堰の水を引き入れる「ポンプ池」とよばれる防火水槽がつくられている場所がいくつかあり、普段はそのポンプ池の水で養蚕道具を洗ったり、菜洗いをしたそうです。

また、子供たちは冬に凍ったポンプ池で下駄スケートを愉しんだそうですよ。
田植え前の春先には、年に一度のポンプ池の水を抜いての大掃除が行われて、大きな魚をつかみ取りしたこともあったそうです。

Dsc_0072 Dsc_0074 M39963 ←下駄スケート(南アルプス市文化財課蔵):下駄に刃を取り付けたスケート用のはきもので、昭和30年代中頃まで使用された。

徳島堰やポンプ池が冬に結氷すると、スケート遊びが楽しみだった。

明治39年に長野県下諏訪町の飾り職人河西準乃助が「カネヤマ式下駄スケート」として売り出したのがはじまり。

 

 

今回のテーマ展の準備調査では、韮崎市山寺の徳島堰沿いに住み、家の前にツケエバタのある山本さんにもお話をうかがっています。

山本さんには、子供のころ、徳島堰で遊んだ思い出を語っていただきました。夏は水泳、冬はスケートを楽しんだそうです。

Dsc_0188←韮崎市の山本さん 89歳 

『夏はツケエバタを降りていって、男の子は皆フリチンで泳いだね。下流の石積みの掴まるのにちょうどいい石があるところまで流れに乗って泳いでいって、堰から上がってはまた上流から飛び込んだ。結構流れが速いから面白れぇだ。だけど、韮崎の水泳大会ではじめてここら辺の子供がプールで泳いだ時は、みんな、いっさら前に進まんくてびっくりしただぁ。その時初めて、堰では泳ぐふりはしてただけど、泳いでたじゃぁなくて、流れに乗っかっていただけだっちゅうこんを思い知っただよ。
 
 冬は凍った堰でスケートをしただ。下駄に刃の付いた下駄スケートを履いて、脱げんように足首にも紐で縛り付けるだ。下駄スケートは韮崎の街のムラタ屋さんというはきものやで買ってもらっただ。』

 

 今回のテーマ展の開催を前に、南アルプス市文化財課の職員は、韮崎市の文化財担当の方々と協同で徳島堰全長17キロを二日間かけて踏査しました。韮崎市側を踏査したのは、ちょうど田植え時期の6月でしたので、堰をドコドコと大量の水が流れており、たいへんな迫力がありました。
Dsc_0998Dsc_0797 Dsc_0776 そして、そんな堰沿いをずっと歩くと、たくさんの様々な形式のツケエバタがあり、流れに直行する階段もあれば、並行しているものもあって面白かったです。

流れに並行する階段の場合、ほとんどは下流に向かうように備え付けられていますが、中には、上流から流れてくる水に向かって階段を降りていくものもあり、ツケエバタに注目して形式分類しながら徳島堰を歩いてみるのもきっと楽しいだろうなと思いました。

そして、疲れたら、堰下にあるポンプ池で涼しげに泳ぐ赤い金魚や鯉を見ながら一休みするのも気持ちがよいと思います。

Dsc_0818_20200805152501  今年は観光に出かけられない日々が続いていますけれども、身近な場所(例えば、もちろん?徳島堰!)に出かけていき、いつもは見過ごしてしまうような何気ない風景をじっくりと観察したり、自分のペースで歩きながら先人の偉業や歴史をしみじみと実感してみるのも、これまた、良いお盆の過ごし方なのでは?と提案します。

← 使用しなくなったツケエバタが塀で仕切られてしまった例。


 さらに、徳島堰を散歩する前に、南アルプス市ふるさと文化伝承館へ「開削350年 徳島堰」展を観に来ていただけたなら、さらにもっと「徳島堰あるき」が楽しくなること間違いなしですよ!

2020年8月 3日 (月)

徳島堰の魚捕りは夏の楽しみ

こんにちは。
Dsc_0389Dsc_0312_20200803133301 Dsc_0301_20200803131301

 

  
 今日は久しぶりに午前中からお日様がピカピカで暑くなりました。ようやく梅雨が明けましたね。
八月に入り、暑さもひとしおですが、当館(南アルプス市ふるさと文化伝承館)では、テーマ展「開削350年 徳島堰」(令和3年4月18日まで)を開催中です。

 

 
 展示資料の一部には、涼しげな堰の水場を再現したコーナーがあり、堰沿いに住む人々の夏の楽しみのひとつであった、魚捕りの様子と道具を展示しています。


 本日は、その水場コーナーの民具資料をご紹介したいと思います。

Dsc_0387 Dsc_0388 ← 筌(うけ・もじり):ドジョウやウナギなどの魚類の習性を利用して生捕りするための竹ひご製の道具です。中に餌を入れて口を紐や竹輪で縛り、夜のうちに水に沈めておき、翌日の明け方に取り上げます。餌の匂いにつられた下流の魚が底に開いた穴から入り込み逃げられなくなるという仕組み。

Dsc_0386 ←カンテラ:韮崎市及び南アルプス市域では、携帯用の手持ちの灯火具の総称として、この名で呼んでいました。

Dsc_0390_20200803131401 M35312 ガンドウ:提灯の一種。釣鐘型の内部にあるろうそく立てが自在に回転して常に垂直になり、火が消えることがないように2個の金輪を取り付けています。現代の懐中電灯と同じ役割を持つものですが、17世紀初めごろから使用されていました。

Dsc_0391_20200803131401←(もり):ドジョウやウナギなどの魚類を、先端に着けた金属の刺突具で仕留めるための棒状の漁具。

 

 

 

 

民具の展示棚にも、徳島堰にまつわる民具の展示がありますので、是非ご覧ください。

Dsc_0384 ビンブセ:ハヤなどの小魚を捕るためのガラス製の筌(うけ)。蚕のさなぎなどを餌として中に入れて、草の生い茂る水辺の木に流れないようにひもで縛ってくくりつけ、水に沈めて仕掛けました。

Dsc_0087 Dsc_0085 Dsc_0084 魚籠(びく):捕った魚を入れる籠。この資料は、腰にひもでくくりつけるようになっており、腰が当たる側には板が貼ってあります。その板に蓋が取り付けてあり、蝶番(ちょうつがい)のように開閉できます。通称「甲州魚籠」と呼ばれるタイプです。

Dsc_0929 Dsc_1234  堰の魚捕りを再現したコーナーの隣には、徳島堰沿いの韮崎市神山町鍋山で育った、ノーベル生理学・医学賞受賞者の大村智先生の思い出を、そのご著書から紹介するコーナーを作りました。

↑ 左:徳島堰のツケエバタ(洗い場) 右:南アルプス市飯野を流れる徳島堰

幼少期の大村先生がお父様と徳島堰へウナギを捕まえに行ったとき、『ウナギが太平洋で産卵・孵化して富士川を上り、堰までやってくること』を教えてもらい、好奇心をかきたてられたことを綴っておられる場面を紹介させていただきました。

 テーマ展「開削350年 徳島堰」は、全体的には350年という歴史の重みと偉業を感じられるような構成を目指しましたが、その中にあって、堰の水辺コーナーは、一服の清涼剤となるように意図した気軽な展示です。

伝承館の受付職員が苦心して手作りしたドジョウやウナギの出来も、紙粘土製にしてはリアルな完成度だと思います! ぜひ、小さな子供たちにも興味を持ってもらえたらうれしいです。

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