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2020年8月 7日 (金)

農間渡世は棉商い

こんにちは。
Dsc_0379  Dsc_0395  連日の猛暑ですが、みなさまお変わりなくお過ごしでしょうか?

←伝承館2階のベランダで種から育てている綿は、梅雨が明け後のこの猛暑を待ちわびていたかのように力強くなり、どんどん実をつけはじめました。

そして、すでにその実もはちきれんばかりに大きく膨らんできています。お日様の力は偉大ですね!

 さて、綿の実といえば、最近の調査で、農業の合間に綿商いを渡世(稼業)としていた在家塚(白根地区)の八百助さんという人が、仕事で現在の韮崎市方面に出かけた帰り道に、大変なトラブルに巻き込まれてしまった事件に関する、江戸時代(嘉永五年・1852)の文書を読みました。 ご紹介したいと思います。


この文書は、具体的なトラブルの内容も野次馬根性的な好奇心を満たすに十分な内容なのですが、それ以上に、原七郷で江戸時代に行われた綿産業の実態が、八百助さんという一人の「農間綿商人」の活動を通して垣間見ることができるということが素晴らしいです。


 原七郷の産業の中で、養蚕以前では、綿は、煙草・藍と並んで根幹をなすものでした。甲州の西郡綿が、江戸時代の終わり頃に、在地の人々によって、どのような仕組みや過程をもって流通され、商売として成り立っていたのかを知ることができそうです。


 では、読んでみます。

(※画像をタップすると拡大できます)
Photo_20200807140101在家塚中込茂家所蔵資料 「文献72 鯛兵衛一件」

『     乍恐以書付奉願上候

巨摩郡在家塚村百姓卯右衛門幷弟八百助一
同奉申上候 右八百助儀者 卯右衛門同居罷在越農間
棉商ひいたし 近村々へ日々買出し罷越し
渡世相励み 尤買入候種木綿目附相頼繰綿と
いたし 所々へ売捌罷在候 然ル処右商ひいたし
河原部村緒方有之 去ル三日同所罷越 夫々届集メ
帰宅の途中 下條東割村平四郎後家ひなと申物ハ
去ル嘉永申(嘉永4年)綿繰御座候度ニ相頼ミ候ものニ付 当年
之渡と相附□ 右ハ八百助義ひな方へ寄候処 酒を振

Photo_20200807140102 舞 夜に入四ッ時頃(午後十時)同人宅表裏ゟ兼テ見知候
同村百姓鯛兵衛多右衛門霜多郎祖代吉亀太郎
米吉弁次郎儀兵衛倅栄吉浅七倅幸吉嘉蔵
弟賢吉金兵衛倅和重郎其外不躰不知名者
壱両人(ひとりふたり)一同立入 理不尽不法 八百助を打擲に
および且同人所持罷有候甲金壱分文金弐両
壱分弐朱銭壱貫三百文程財布侭幷紬絹羽織縮緬の
頭巾拵附脇差とも奪取 其上鯛兵衛多右衛門
重て藁縄を以縛り猶打擲ニおよび候ニ付 苦痛ニ

 

 

Photo_20200807140103 絶兼声立候處 追々隣家の者とも寄集り
縄解呉候所不法の始末同村役許へ申出調□□
心得候得ども右様大胆のもの共に付同所罷在候□ハ
如何様儀出来候も難計 早速其場を引取り
帰宅いたし前条の次第(在家塚村の)村役許へ訴出候處
直様(すぐさま)下条東割村名主許へ掛合および候得ども
不取(首)尾挨拶いたし心外至極に難捨置 不顧恐
奉出訴候 何卒格別之以御慈悲ヲ前出名前者共
一同被召出右躰不法の働いたし候始末 厳重の
御吟味被成下 被奪取候品々差戻し以来右躰の

 

Photo_20200807140104 働キ不仕様被仰付被下置度此段偏ニ
奉願上候
右の通御聞済被成下置候ハバ偏難有仕合ニ
奉存候以上

願主 卯右衛門
幷弟 八百助
組合 伊三郎
親類 三蔵
名主代 仙助

市川 御役所様 』

 

以下は、〇博調査員の超訳まではいかない意訳です。(注※まじめになり過ぎずに読んでください)
Dsc_1078「在家塚に住む卯右衛門の弟の八百助は農業の合間に棉商をしている。
具体的には、近村農家で木綿(収穫した綿の実)を買い入れて、別の農家へ種を取り除く作業を依頼し「繰綿」にして、それを売りさばくという渡世(稼業)をしていた。
ある日、河原部村(現韮崎市街)の緒方(篠巻をつくる作業場か、もしくは糸を紡ぐ作業場か?)へ繰綿を売りに行った帰りに、事件は起きた!
 Dsc_1071 ←綿繰り作業の様子。ハンドルで上下に重なるローラーを回し、その間に綿実を通すと、手前に種が落ち、綿と種を分けることができる。


(注※続きのここからはどうしても、おばさんの噂話風口調になりますが、お許しください)
 韮崎(河原部村)で綿の商売がうまくいって、懐も温まったところで八百助さんの気も緩んだんでしょうかねぇ?
まっすぐ家に帰ればいいものを、よせばいいのにねぇ~、
 八百助さんは、帰り道の駿信往還沿いにある下條東割村の、未亡人のひなさんの家に寄ったんだよぉ~。
どうやら前年の嘉永4年の秋に繰綿を頼んだことがあるもんだからその支払いもあってのことだったようだけどさぁ~。
でも、酒をふるまってもらった上に、夜中の十時頃迄ひなさんの家でくつろいでいたんだから・・・。ひなさんってきっと美人だったに違いないよね(おばさんの個人的見解)。

 そんなところへ様子をかぎつけた、鯛兵衛はじめ15・6人の上條東割の若者たちが、ひなと八百助のいる家にどっと入ってきた! そして、なんと、八百助を、『理不尽不法』に『打擲(ちょうちゃく)』、コテンパンにやっつけちゃったんだってよ~!
 さらにひどいことに、八百助の所持金(『甲金壱分文金弐両壱分弐朱銭壱貫三百文程』を財布ごと奪ったほか、身に着けていた絹の羽織や縮緬の頭巾、脇差(わきざし)までも取り上げて、荒縄で縛り上げてボッコボコにしたらしいんだよぉっ~!! 
 可哀そうに、縄で縛られたまま大勢に痛めつけられた八百助さんは、あまりの苦痛に大声で泣き叫んで助けを求めるしかなかったそうなんだよ。そうしたら近所の人がやってきて助けてくれたらしいんだけど・・・・・。

 八百助さんは、帰宅して在家塚の村役に相談して、すぐさま下條東割村の名主さんに掛け合ってもらったけれど、「ぜんぜ~ん誠意が感じられなかったので怒りが収まりません(『不首尾挨拶いたし心外至極に難捨置』)」ということで、市川の代官所に吟味をするように訴える文書を出したってことさ。
(※〇博調査員おばさん口調風訳は、以上で終わり)」

 西郡綿は、煙草とともに駿信往還を経て、長野県の諏訪・松本・南佐久方面に多く移出され、繰綿(種やごみを取り除いた綿の実)として、または冬の農閑期を利用して糸に紡ぎ布にして広く販売されました。
 この文献では、はじめの記述で当時の西郡綿の商いの実態がコンパクトにまとめられており、とても興味深いです。
その内容から、①在家塚の近村農家では江戸時代終わり頃に木綿栽培が多く行われていたということ。②原七郷で生産された「綿を各農家から買い取って→農家へ綿(実)繰り作業の依頼をし→収集して繰綿の売買を行う」というような商品作物として綿を流通させる仕事を持つ人が在家塚に居たということ。③韮崎に「緒方」と呼ばれる、繰綿を売りに行く場所があったということ。④御勅使川を渡った現韮崎市の下條東割村の住人にも綿繰り作業を頼んでいたこと。が判ります。
 しかし、そもそも「緒方」という場所がどのような作業を行う場所だったのかが不明です。当時甲府には、糸車で糸を紡ぐ前段階としての綿の形態である「篠巻」を売る店が数多くあった(甲州文庫の「甲府買物独案内」に多く登場)ようですが、韮崎のいわゆる「篠巻屋」さんと「緒方」と呼ばれる場所との関係はどうなのか?については、今後調査を深めたいと考えています。

 さらに、面白いのは、下條東割の鯛兵衛をはじめとして次々と名前の挙がる15人ほどの若者から、寄ってたかって打ちくじかれて奪い取られたものの記述を見ると、基本は農民であるはずの八百助の、上等な服装や所持品がわかり、たいへんなおしゃれさんであった人物像も想像できるところです。たぶん、八百助さんは、界隈で歩いていても目立つ人でしたよね。綿商いする人は羽振りがよかったのでしょうか?
八百助さんはきっとおしゃれな美男子で、韮崎の若者たちが普段から「気障でいけ好かない男」だと、敵対視するほどの人物だったに違いない!と想像してしまいます。
 でも、「ちょっと懲らしめてやろう」としたところが、下條東割村の鯛兵衛さんたちは、いくらなんでもひどくやりすぎてしまいましたね。
 結局、在家塚の名主を通して市川の代官所にまで訴えられてしまって大ごとになってしまったようです。

Photo_20200807140106 Photo_20200807140105  ←この一件に関する文書が、実はもう一点、同じ文書資料群(在家塚中込茂家所蔵資料 文献70)にもあります。
 こちらは、在家塚八百助側が市川代官所に訴えた文書(中込茂家資料 文献72)を受けて出されたもので、訴えられた下條東割村名主が、問題を起こした鯛兵衛を含めた11人の記名捺印をもって、被害に遭わせた在家塚村八百助と家長で兄の卯右衛門宛に謝罪文を送ったものです。在家塚村に近い飯野村の長百姓・長右衛門に証人なってもらい、事を収めたということでしょう。 年記は嘉永五子年二月七日(1852)となっています。

 このころは、在家塚出身の若尾逸平が、最初の結婚で婿に入った小笠原の常盤屋を立て直し、近隣でその力量がみとめられはじめた頃です。八百助さんの家は、若尾逸平生家とご近所さんですから、後に甲州財閥となる逸平さんとは顔見知りだったでしょうね。そんなことも考えると、石ころだらけのやせた土地の広がる原七郷のど真ん中にある農村であっても、商才にあふれた人物たちが自信満々に闊歩する在家塚村の風土が想像できるような気がします。その二年ほど後に、ご近所さんの若尾家は、甲府へ、横浜へと出て、甲州財閥に成長していくわけです。
Photo_20200807140002 Photo_20200807140001  ←明治30年代以降になると、八百助さんの家である在家塚中込家には、糸繭商や煙草栽培を行ったことが判る資料がみえます。

←在家塚中込茂家所蔵資料

明治31年ころから外国綿花の輸入により、それまでの綿商いが立ち行かなくなり、取り扱う商品を繭糸や煙草にと、時代に合わせて次々代えていったようです。


 〇博で調査した在家塚中込家資料の中に、綿に関しては買入帳のようなものは残されていなかったのですが、この「鯛兵衛一件」のような事件が起こったことにより交わされた文書が残されていたため、江戸時代の在家塚村綿商の活動を示す資料の発見となりました。

事件後に即、市川代官所に訴えた在家塚村としては、同じく綿商を営む村民が不利益を被らないためにも、商売上で関わる近隣村者との争いに対しては、早期の対応と解決が求められたのだと思います。

P.S.(※今日の本題から外れてしまいますけれども・・・)
 それにしても、中込茂家資料・文献72文中の『不取(首)尾挨拶いたし心外至極に難捨置』というくだり。
八百助をはじめとして、これをしたためた在家塚村の人々の気持ちがなんだかすごく伝わってきます。 潔いくらいに直球な物言い! 参考にしたくなりました。 うん、わたしも、今度、夫婦喧嘩の書き置きに使ってみよう!

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