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2020年9月

2020年9月30日 (水)

櫛形地区東吉田の稲荷社周辺で

296  こんにちは。

きょうは、櫛形地区東吉田を踏査した時に訪れた、刈穂稲荷神社周辺をご紹介します。

 

 

 

 


282 Photo_20200930163103 ←刈穂稲荷神社 (左:2020年9月1日撮影 右:昭和41年刊櫛形町誌画像)
玉垣の内に銅葺屋根の神殿をもつ刈穂稲荷神社には、かつて大正時代に女性の行者が居て奉仕していたそうです。

282-3 Photo_20200930163601 282-4 282-15    その東側には、隣接してさらに別の稲荷神社があり、その他、三峯神社の形跡など、いろいろな神を祀った石造物が多数存在している場所となっています。


←稲荷神社と狐(モノクロ画像は櫛形町誌画像):櫛形町誌には写っていない、足などが修復された狐が左右に置かれています。よく見ると愛らしいお狐ですよ。


282-5 Photo_20200930163801 ←三峯神社の水鉢(モノクロが画像は櫛形町誌):東吉田稲荷神社一帯の東入り口に置かれている。
 石造物や祈りの対象であった自然石については、豊村誌(昭和35年刊)と 櫛形町誌(昭和41年刊)に載る画像と現在の様子を照らし合わせてみてみましたが、それらを同定するのはとても難しいことに思えました。
Photo_20200930164501 ←シャクシバンバ(昭和35年刊豊村誌)
282-8_20201001101501  今後も聞き取り調査等を重ね、シャクシバンバと山之神の石造物だけでも、特定したいと考えています。シャクシバンバは、願掛けすると、咳や喉の病気によく効くと伝えられるしゃぶきばばあや姥神とおなじような民間信仰の対象となる石だったと思われます。
Photo_20200930164502 ←東吉田の山之神(昭和35年刊豊村誌)

282_20200930163101  282-9_20201001101501 282-6_20201001101401 東吉田に限らずどの地域でも、道路の拡幅や土地利用の変化などにより、願掛けや信仰の対象となっていた石造物や自然石も場所を移動したり、集められることがよくあります。


1229 それらの行方を探して歩くうちに、新興住宅地の一画にポツンと残るこんなものが目に入りました。果樹を潤す役目を終えたスプリンクラーのヘッドです。


350年前から、月夜でも焼けるこの土地を何とかしようと、先人たちが、はるばる韮崎市円野町より釜無川から取って、通してくれた水がここまで来ている。

こちらも先人たちが未来の私たちに残してくれた遺産の一つです。邪魔モノのようになってしまったヘッドをひっかけないように、横に置かれている切株がなんだか少し痛々しいですが、原七郷の土地利用の変化を今後もずっと記録していくのは、文化財課の仕事の一つです。

2020年9月25日 (金)

沢登の斉藤ラジオ店

こんにちは。
先月末に、櫛形地区沢登区を踏査しました。その際、富士川街道沿いの街並みを撮影しようと、「(株)斉藤テレビ」さんのお店前の様子も撮りました。
9292020827 ←沢登にある(株)斉藤テレビさん。(2020年8月27日撮影)


 この斉藤テレビさんのお宅からは、以前に昭和20年代末から40年代までのアルバム写真の画像データを文化財課にご提供いただいています。


 今日は、現在も多くの人や車が往来する富士川街道沿いで、地域の誰もが見知る街の電気屋さんの、昭和20年代末から30年代末までの変遷をアルバム写真データを、〇博調査員がおおまかな年順に整理して、ご紹介したいと思います。


1 ←昭和20年代末の「斉藤ラジオ店」(沢登斉藤家所蔵)


 斉藤家のアルバム中で、もっとも古いと考えられる店舗画像をよく見ると、看板にはテレビの文字はなく、「斉藤ラジオ店」とあります。

国産第一号のテレビは昭和28年の発売で、たいへん高価だったので一般家庭に普及せず、昭和34頃までは、街頭に設置されたテレビを見る時代でした。ですから、斉藤家でも、ラジオが看板商品だったようですね。

 さらによく見ると、右奥には斉藤商店が併設しており、たばこも販売していたようです。

その他、この写真に見えるいくつかの小看板から読み取ることのできた商品名を羅列すると、「日立真空管・ヒタチランプ・ラジオTEN真空管・岡田乾電池・ナショナルアイロン・NEC真空管」などで、当時の電気屋さんの売れ筋商品がわかります。


30_20200925091101 ←昭和30年頃撮影の斉藤テレビ店の商用車:ボンネットに乗っている赤ちゃんは昭和29年生まれの加恵子ちゃん。(沢登斉藤家所蔵)
 昭和30年代に入ると、一般家庭向けのテレビや冷蔵庫、洗濯機などが次々と発売されはじめるので、それらを配達するための大型の商用車が必要となったのでしょうね。幌をかぶせた荷台の側面にはラジオではなく「斉藤テレビ」の文字がペイントされています。


12_20200925091101 ←昭和31年か32年の斉藤テレビ商会:中央に立つ加恵子ちゃんの成長が、アルバム中の写真を年代順に並べる指標になります。(沢登斉藤家所蔵)


 この画像では、前輪カバーに斉藤テレビの銘が入った、かっこいい商用バイクにも目を奪われますが、 店前のいたるところに掲げられたちいさなホーロー看板の文字も、よく見ると情報がいろいろともらえます。

特に、吊り下げられた正方形のたばこ看板の下あたりに見える、「郡是製糸飯野工場指定店」の文字には、近隣の倉庫町で栄えていた蚕糸業の痕跡を見ることができますね。

 


32 ←昭和32年5月頃の斉藤テレビラジオ商会(沢登斉藤家所蔵)


 大きな「ナショナルテレビ」の縦型看板が目立ちます。右奥には、「サンヨーテレビ・ラジオ」の縦看板もありますね。

斉藤家では、ひきつつづきに日用雑貨店も併設していたようで、塩・たばこ・テンヨ武田(醤油)の文字も見えます。


112 ←昭和30年代半ばの斉藤テレビラジオ商会の店先(沢登斉藤家所蔵)

(※すべての画像は、タップすると少し拡大します。)


 こちらの画像では、園児くらいになった加恵子ちゃんの後ろにお店の商品の一部が見えます。

奥には洗濯機などの大物家電が、まだ舗装されていない富士川街道沿いの手前には、電灯の笠のような消耗品が並んでいますね。

そして、目を凝らすと、店内の装飾のれんに東芝の文字が見つけられます。


Photo_20200925091101 ←東芝ストアーとなった昭和30年代半ば1月の斉藤テレビ(沢登斉藤家所蔵)
 昭和30年代半ばに、斉藤家では店舗を改装し、東芝の家庭電気器具を売る特約店になったようですね。この画像では、昭和31年に生まれた忠彦さんがおばあちゃんの前に立っており、その後ろには、正月の初荷が積まれています。この画像では、富士川街道はまだ舗装されていません。
3438 ←昭和38年夏の斉藤テレビ(沢登斉藤家所蔵)


 こちらの画像にはしっかりと年記の裏書きがありました。

そして、店前の道がアスファルト舗装されており、商用車の車種も変わっています。

相変わらずたばこと塩も売っているようですが、店内の左寄り入り口近くには、電気炊飯器や電気ポットのようなものが棚に見え、冷蔵庫、テレビ、洗濯機の三種の神器以外にも、一般家庭に家電の種類がどんどん増えていく時分だったのだと理解できます。


 一般的に昭和30年代は各家庭にマイカーとともに、電化製品がいきわたっていく時代だったといわれています。のちの平成天皇ご成婚時のパレードを見るために、昭和34年には一般家庭のテレビ購入率が一気に上がりました。昭和30年代後半になると、二槽式で脱水槽のある洗濯機が爆発的に売れ、台所の氷冷蔵庫は製氷機付きの電気冷蔵庫に交代していきました。戦後の高度成長とともに急激に変化した社会生活に対応して、昭和の人々は新しい電化製品を家庭に導入し、その家電生活をもっと楽しむために一生懸命働いたのだと思います。

ふるさとの街の電気屋さんの、昭和30年代の店先の変化は、昭和時代の人々の生活の変化を端的に表しているといえます。

斉藤テレビさんからご提供いただいた家族アルバムの画像は、大変に貴重なふるさとの資料として、今後も○○博物館でたびたびに活用させていただく所存です。感謝申し上げます。願わくば、画像に付随した情報のさらなる肉付けを行うために、コロナ禍ですが、いつか訪問させていただくことが叶えばと思っております。

2020年9月16日 (水)

大正5年の榊小学校運動会プログラム

こんにちは。

101 本日は、〇博収蔵資料に中から、櫛形地区宮地にあった榊小学校の大正5年に行われた運動会のプログラムをご紹介したいと思います。

例年ならば、この時期に、地域の人々が集って盛大に開催される運動会ですが、今年は参観者の入場制限や種目数を減らすなどの対応をした上で、市内各小学校では9月末に多く行われるようですね。

大正5年榊尋常小学校運動会プログラム(表)(南アルプス市文化財課所蔵平岡河野家資料より)

日本で小学校の行事として運動会が行われるようになったのは、明治19年以降だといわれています。小学校や中学校では、体操おさらい会のような運動会が、体育教育の発展に有効だと判断した初代文部大臣の文部省令により、明治19年にはじまりました。

しかし、教育制度がはじまったばかりの当時では運動場の整っていない学校がほとんどで、地域の神社ら寺の敷地を借りて開催する場合も多かったようです。そのために、昭和時代までは、学区の人々も協力し、組ごとにお弁当を持ち寄って参観するような地域ぐるみの運動会の伝統が日本各地に残っていましたところが、現在では、都市部の学校など、児童の安全面への配慮から運動会自体を地域住民に公開しない場合も増えてきましたし、山梨県外の学校では、保護者とともにお弁当を食べるという習慣も失われはじめているようです。

特に今年は、南アルプス市市内の学校でもコロナ渦に対応した運動会の開催方法に苦慮ていると思いますが、今後運動会の在り方がどのように変わっていくのか気になりますね。

002img20200914_14373322  さて、本題の、「榊小学校の大正5年に行われた運動会のプログラム」ですが、今年の3月に、櫛形地区平岡の河野家よりご寄贈いただいた資料を、〇博で調査・整理するで発見しました。

「櫛形地区上宮地の八幡神社の下にあった榊小学校」中巨摩郡誌(昭和3年刊)

榊小学校は、現在の南アルプス市櫛形地区上宮地に存在した小学校でした。明治12年に榊村誕生とともに創設され、明治33年には榊尋常高等小学校となりました。場所は、上宮地の八幡神社東側のあたりになりますが、現在、建物等はありません(文化財課職員T氏の情報によると、旧敷地の門跡の石がまだ残っているそうです)。これは、昭和33年に小笠原第二小学校とともに統合されて櫛形北小学校ができ、廃校となったからです。

 

102  プログラムは残念ながら左の三分の一が切断されて無くなっており、午前の部の途中までしかわかりませんが、右から順に行う「演技名称」ごとに、「主目的」「学年」「回数」が列記されています。興味深い演技名などに目が釘付けになった〇博調査員は、このプログラムに載っている、大正時代に榊小学校で実際に行われた運動会を、いま見てきたかのように説明できたら、何てすばらしいだろうと想像してしまいました。

大正5年榊尋常小学校運動会プログラム(裏)(南アルプス市文化財課所蔵平岡河野家資料より)※タップすると画像が拡大します

最初に一年生が全員で行う『達磨落シ』の主目的は『沈着』、次の『旗送り』の目的は『規律、敏捷』。現在行われている小学校の種目や学習のねらいとは、ずいぶん風情が違いますね!

さらにこれこれ、その次の『珍無類』(ナンダソレ?)という演技の目的は『協同忍耐』だそうですよ!

ところで、この聞き慣れない『珍無類(ちんむるい)』という言葉の意味を調べてみると、他の例のないほどおかしくて変わっていること。また、そのさま。』とありました。そして、主目的は「協同で忍耐!」いったいどんな演技なのでしょう? 〇博調査員の頭の中で妄想がすごい勢いでふくらみます。

5_20200916151001 ためしに、〇博調査員の妄想でこの種目の説明を試みると、たとえば・・・、「珍無類という演技種目は、二組に分かれたチーム対抗戦で、一方が素っ頓狂な面白い姿を見せたり、笑わずにはいられないような寸劇を披露したりするのを、もう一方のチームが一生懸命に平静装って協同忍耐で笑うのをこらえる?!という競技。 チームの一人でも笑ったら負け!?」とかいう種目なのでしょうか? チーム皆で、おかしくておかしくてお腹が痛くなるくらいなのをこらえるのって、想像を絶する忍耐が必要ですよね!たぶん。 フィールドの外で見守る観客たちの無防備な笑い声や吹き出しは、この競技の勝負に致命的な邪魔になりますから、会場一体の空気感がもの凄いことになっていたはず。

でも、なんだか年末に大人気の、紅白歌合戦の裏番組に近いシチュエーションを想像してしまうのは、まったく、私の貧困な想像力のせいですね。失礼しました。

↑ 大正5年榊尋常高等小学校卒業生(南アルプス市文化財課所蔵平岡河野家資料より)

 しかしながら、みなさんもこのプログラムをご覧になったなら、大正五年にふるさとの先人たちが実際に行っていた地域の人々の集う盛大な祭りのような運動会の模様をその演技名称から想像して思い浮かべるうちに、実況アナウンサーのように解説してみたくなるに違いない!と思うのは〇博調査員だけでしょうか? このプログラム資料の存在で、大正時代の運動会が、女の子の出場種目が少なく、かけっこは男子のみだったようだ等の情報もくれますし、現在とはちょっと違う昔の運動会に思いはせることができます。プログラムと同じ大正5年の榊小学校のアルバム写真もありますが、全員の子供がまだ洋服を着ておらず着物に袴だったのを見ると、運動会の装いも洋服に靴ではなく、袴に運動足袋のようなものを履いていたことが想像できます。

7  来年開催予定の東京五輪・パラリンピック大会開催までに、〇博調査員は、さらに少しでも南アルプス市域における大正時代の運動会の実態がわかるよう、写真や記憶、文献資料の収集・調査に引き続き努めたいと思います。市民の皆様のご協力をお願いいたします。

大正7年榊尋常高等小学校卒業生(南アルプス市文化財課所蔵平岡河野家資料より)

本日は、〇博調査員の妄想を含んだ、大正時代の運動会地域資料発見のご報告でした。どうかご勘弁のほどを。

2020年9月 8日 (火)

沢登の瀬戸重さんのこと

こんにちは。
 去る、9月6日は、伝説の男「せとじゅうさん」の命日でした。
 櫛形町誌(昭和41年)に、地域で流行ったこんな地口(じぐち:言葉遊びのこと)が載っています。
『瀬戸じゅうやんじゃあねえけんど、ちっと「き」が足りん』
というもので、「き」を「木」と「気」にかけているだそうです。
Photo_20200908143101  そして、その解説に、『大正から昭和にかけて、沢登に瀬戸十さんと言う名物男があった。葬式があると尋ねていっては、各宗に応じたお経を読んで霊を慰めた。好んで子供と遊び、謎をかけて、自分から「瀬戸十やんとかけて、建てかけの普請と解くー心は、ちっときが足らん」と言った。この人は今、沢登の竜沢寺に瀬戸地蔵として祀られている。(櫛形町誌第三章p1722・昭和41年刊)』とあります。
地口は、せとじゅうさんが子供たちに発した謎かけがもとになっていたのですね。また、お地蔵さんにまでなっているなんて、すごい人物ですね。今日は、その名物男のことを探ってみたいと思います。
←櫛形町誌(昭和41年刊)の瀬戸地蔵画像。この地蔵は昭和24年12月6日に建立したという。


203-5先日、櫛形地区沢登区を踏査してきた際に、「せとじゅうさん」を偲んで造られた瀬戸地蔵さんのある龍沢寺の前を通りました。

←沢登の龍澤寺:平成23年造の瀬戸地蔵は門内の東側駐車場に面して鎮座している。2020年8月25日撮影

203-8 ←こちらが山門の脇にある瀬戸地蔵さんです。
台座のプレートには『風呂敷ひとつ 住む場所も名誉財産も求めず飄々と生きた 記憶力は抜群だが計算は出来なかった 知る人は、馬鹿といい 天才といい 無欲の聖人という 確かなのは純粋なひとであったということであろう』と刻まれています。
203-3 203-7  しかし、櫛形町誌に載っていたお地蔵さんの画像とは異なるもので、明らかに新しくピカピカで背景も違いますから、同一のものではないようです。
このお像の後ろに回ってみると、こちらは平成23年に造られたものだと判りました。 これは、「せとじゅうさん」という人が、死後60年以上経てもなお、地域の人々に語り継がれ慕われていた証拠ですから、〇博調査員はどんな人だったのかますます彼のことを知りたくなったわけです。

 

 そして、まずは文献をあたってみると
① 櫛形町誌第三章生活「いろいろな言いごと・地口」の項p1722 1966 昭和41年
② 甲州庶民伝「放浪の奇人 名取瀬戸重」 NHK甲府放送局編 日本放送出版会 1977 
③ えすぷりぬーぼー 創刊三号「瀬戸重」 山梨ふるさと文庫 1986 3月 
④ えすぷりぬーぼー 五号「あなたはせとじゅうを知っていますか」 山梨ふるさと文庫 1986 7月 
⑤ 喜劇 せとじゅうさん物語 石川武敏 山梨ふるさと文庫 1988 10月 
以上の5つがヒットしました。
 一番古い記述は、①櫛形町誌でした。そして、人物像について詳しく記されるようになるのは、②~④の文献ですが、そのすべてを岩崎征吾(正吾)さんという方が関わって執筆・編集されています。⑤は舞台用に脚本化されたせとじゅうの物語でした。

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←④えすぷりぬーぼー五号(1986年7月1日発行)のせとじゅうの特集記事。

では、 岩崎正吾氏の手による文献をもとに、人物像をまとめてみますね。

『沢登のせとじゅうやん』と親しまれ、お地蔵さんにもなったこの伝説の人物は、名取瀬戸重という実在の人で、明治11年に沢登に生まれ、昭和23年に70才で亡くなりました。その人は、葬式があると、どこからともなく弔いに必ず現れ、大きな風呂敷包みから古い袈裟を取り出して着て、どんな宗派でも本物のお坊さんに合わせて朗々とお経をあげました。そして、唱え終わると、同じ風呂敷包みから茶碗と箸、あるいは重箱と風呂敷を取り出して、お葬式のご飯をもらって帰っていったそうです。その地域は、現在の韮崎市、甲府市、甲斐市、昭和町、中央市、市川三郷町、富士川町にまでおよびました。
昔はこういう人のことを「おこんじきぼうず」と呼んだこともあったようですが、せとじゅうさんがとりわけ地域の人に愛されたのには、その風貌と人柄に理由があったようです。
・お地蔵さんみたいなクリクリ坊主に、澄んだ眼が印象的で、親しみやすく、「あはははは」とよく笑う人。
・子供が好きで、蛙の真似をしてゲコゲコ言いながら四つん這いになってぴょんぴょん飛び跳ねてみせて楽しませる。
・礼節はきちんとわきまえていて、ご飯やおにぎりをくれた家には、お礼にと、モシキ(薪)をくくって持ってきたりする。
以上のような愛嬌のある風貌と人柄が記されている一方で、
・六尺(180㎝)近く背が高く、カリスマ性も持ち合わせていた。
・「瀬戸重の暗記力」といわれるほど有名な抜群の記憶力で、お経は宗派を問わず読め、一度聞いた戒名や命日、近所の子供たちの名前もすべて覚えていた。
といいます。
12904  夜はたいていお寺の本堂などで寝泊まりしていましたが、長逗留はせず、一晩だけで別のお寺に行って寝たので、どのお寺でも「せとじゅうさんは悪いことはしない」ということで安心して泊めていたそうです。

←鏡中條の常教寺妙音堂:瀬戸重さんが亡くなる一週間前(昭和23年8月末)に、このお堂で倒れたのだという。(2019年11月5日撮影)

  瀬戸重さんの死後、その生き方が「六波羅蜜を体現した人」とか、中国の伝説上の僧である「寒山拾得そのもの」などと評価する人が現れ、近隣では「沢登の良寛さん」とか、「瀬戸観音の申し子」などの愛称とともに語り継がれました。
 たぶん、生前から、特異な行動と才能だった故に、皆がよく知っている地方の有名人みたいな人だったんだと思います。瀬戸地蔵が、亡くなった翌年に建立されていることからも、生前から様々な物語性をもった人物であったことは間違いありません。だからこそ、瀬戸重さんが、どうしてそんな生き方をするようになったかを含めて、いろいろなうわさ話や世間話が流布していたのだと考えられます。
 彼の死後、さらに、この人の特異性が深められて都市伝説のように広まり、早い時期から口承文学に発展したのだと推測できます。そして、昭和時代のうちに、文芸作品にとどまらず、演劇にまで発展していった「沢登のせとじゅうやん」。

 〇博調査員の亡き義父(昭和9年生まれ)は、現在の中央市の田富で生まれ育った人で、子供の頃、「リアルせとじゅうさん」に会って、蛙の物真似をして楽しませてもらったことを憶えており、息子(〇博調査員の配偶者)に話し聞かせたそうです。少なくとも平成の世までは、口承文芸として、「せとじゅうさん」が生きていたのです。
 義父と同じくらいの年の方々はまだたくさん元気にいらっしゃいますから、もしかしたら現在でも、瀬戸重さん本人を知る人に出会う幸運があれば、話を聞く事ができるかもしれませんね。

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←瀬戸重さんの生家のあった沢登区の街並み。(2020年8月25日撮影)

〇博では民俗学的な見地から、生家のあった沢登周辺地域において、「せとじゅう」物語がどのような口承文化として過去から現在まで伝えられてきているのか? 令和の世に改めて調査できたらいいなと考えています。

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