大正5年の榊小学校運動会プログラム
こんにちは。
本日は、〇博収蔵資料に中から、櫛形地区宮地にあった榊小学校の大正5年に行われた運動会のプログラムをご紹介したいと思います。
例年ならば、この時期に、地域の人々が集って盛大に開催される運動会ですが、今年は参観者の入場制限や種目数を減らすなどの対応をした上で、市内各小学校では9月末に多く行われるようですね。
←大正5年榊尋常小学校運動会プログラム(表)(南アルプス市文化財課所蔵平岡河野家資料より)
日本で小学校の行事として運動会が行われるようになったのは、明治19年以降だといわれています。小学校や中学校では、体操おさらい会のような運動会が、体育教育の発展に有効だと判断した初代文部大臣の文部省令により、明治19年にはじまりました。
しかし、教育制度がはじまったばかりの当時では運動場の整っていない学校がほとんどで、地域の神社ら寺の敷地を借りて開催する場合も多かったようです。そのために、昭和時代までは、学区の人々も協力し、組ごとにお弁当を持ち寄って参観するような地域ぐるみの運動会の伝統が日本各地に残っていました。ところが、現在では、大都市部の学校などが、児童の安全面への配慮から運動会自体を地域住民に公開しない場合も増えてきましたし、山梨県外の学校では、保護者とともにお弁当を食べるという習慣も失われはじめているようです。
特に今年は、南アルプス市市内の学校でもコロナ渦に対応した運動会の開催方法に苦慮していると思いますが、今後運動会の在り方がどのように変わっていくのか気になりますね。
さて、本題の、「榊小学校の大正5年に行われた運動会のプログラム」ですが、今年の3月に、櫛形地区平岡の河野家よりご寄贈いただいた資料を、〇博で調査・整理する中で発見しました。
←「櫛形地区上宮地の八幡神社の下にあった榊小学校」中巨摩郡誌(昭和3年刊)
榊小学校は、現在の南アルプス市櫛形地区上宮地に存在した小学校でした。明治12年に榊村誕生とともに創設され、明治33年には榊尋常高等小学校となりました。場所は、上宮地の八幡神社東側のあたりになりますが、現在、建物等はありません(文化財課職員T氏の情報によると、旧敷地の門跡の石がまだ残っているそうです)。これは、昭和33年に小笠原第二小学校とともに統合されて櫛形北小学校ができ、廃校となったからです。
プログラムは残念ながら左の三分の一が切断されて無くなっており、午前の部の途中までしかわかりませんが、右から、順に行う「演技名称」ごとに、「主目的」「学年」「回数」が列記されています。興味深い演技名などに目が釘付けになった〇博調査員は、このプログラムに載っている、大正時代に榊小学校で実際に行われた運動会を、いま見てきたかのように説明できたら、何てすばらしいだろうと想像してしまいました。
←大正5年榊尋常小学校運動会プログラム(裏)(南アルプス市文化財課所蔵平岡河野家資料より)※タップすると画像が拡大します
最初に一年生が全員で行う『達磨落シ』の主目的は『沈着』、次の『旗送り』の目的は『規律、敏捷』。現在行われている小学校の種目や学習のねらいとは、ずいぶん風情が違いますね!
さらに、これこれ、その次の『珍無類』(ナンダソレ?)という演技の目的は『協同忍耐』だそうですよ!
ところで、この聞き慣れない『珍無類(ちんむるい)』という言葉の意味を調べてみると、『他の例のないほどおかしくて変わっていること。また、そのさま。』とありました。そして、主目的は「協同で忍耐!」いったいどんな演技なのでしょう? 〇博調査員の頭の中で妄想がすごい勢いでふくらみます。
ためしに、〇博調査員の妄想でこの種目の説明を試みると、たとえば・・・、「珍無類という演技種目は、二組に分かれたチーム対抗戦で、一方が素っ頓狂な面白い姿を見せたり、笑わずにはいられないような寸劇を披露したりするのを、もう一方のチームが一生懸命に平静を装って協同忍耐で笑うのをこらえる?!という競技。 チームの一人でも笑ったら負け!?」とかいう種目なのでしょうか? チーム皆で、おかしくておかしくてお腹が痛くなるくらいなのをこらえるのって、想像を絶する忍耐が必要ですよね!たぶん。 フィールドの外で見守る観客たちの無防備な笑い声や吹き出しは、この競技の勝負に致命的な邪魔になりますから、会場一体の空気感がもの凄いことになっていたはず。
でも、なんだか年末に大人気の、紅白歌合戦の裏番組に近いシチュエーションを想像してしまうのは、まったく、私の貧困な想像力のせいですね。失礼しました。
↑ 大正5年榊尋常高等小学校卒業生(南アルプス市文化財課所蔵平岡河野家資料より)
しかしながら、みなさんもこのプログラムをご覧になったなら、大正五年にふるさとの先人たちが実際に行っていた地域の人々の集う盛大な祭りのような運動会の模様を、その演技名称から想像して思い浮かべるうちに、実況アナウンサーのように解説してみたくなるに違いない!と思うのは〇博調査員だけでしょうか? このプログラム資料の存在で、大正時代の運動会が、女の子の出場種目が少なく、かけっこは男子のみだったようだ等の情報もくれますし、現在とはちょっと違う昔の運動会に思いはせることができます。プログラムと同じ大正5年の榊小学校のアルバム写真もありますが、全員の子供がまだ洋服を着ておらず着物に袴だったのを見ると、運動会の装いも洋服に靴ではなく、袴に運動足袋のようなものを履いていたことが想像できます。
来年開催予定の東京五輪・パラリンピック大会開催までに、〇博調査員は、さらに少しでも南アルプス市域における大正時代の運動会の実態がわかるよう、写真や記憶、文献資料の収集・調査に引き続き努めたいと思います。市民の皆様のご協力をお願いいたします。
←大正7年榊尋常高等小学校卒業生(南アルプス市文化財課所蔵平岡河野家資料より)
本日は、〇博調査員の妄想を含んだ、大正時代の運動会地域資料発見のご報告でした。どうかご勘弁のほどを。
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