沢登の瀬戸重さんのこと
こんにちは。
去る、9月6日は、伝説の男「せとじゅうさん」の命日でした。
櫛形町誌(昭和41年)に、地域で流行ったこんな地口(じぐち:言葉遊びのこと)が載っています。
『瀬戸じゅうやんじゃあねえけんど、ちっと「き」が足りん』
というもので、「き」を「木」と「気」にかけているだそうです。 そして、その解説に、『大正から昭和にかけて、沢登に瀬戸十さんと言う名物男があった。葬式があると尋ねていっては、各宗に応じたお経を読んで霊を慰めた。好んで子供と遊び、謎をかけて、自分から「瀬戸十やんとかけて、建てかけの普請と解くー心は、ちっときが足らん」と言った。この人は今、沢登の竜沢寺に瀬戸地蔵として祀られている。(櫛形町誌第三章p1722・昭和41年刊)』とあります。
地口は、せとじゅうさんが子供たちに発した謎かけがもとになっていたのですね。また、お地蔵さんにまでなっているなんて、すごい人物ですね。今日は、その名物男のことを探ってみたいと思います。
←櫛形町誌(昭和41年刊)の瀬戸地蔵画像。この地蔵は昭和24年12月6日に建立したという。
先日、櫛形地区沢登区を踏査してきた際に、「せとじゅうさん」を偲んで造られた瀬戸地蔵さんのある龍沢寺の前を通りました。
←沢登の龍澤寺:平成23年造の瀬戸地蔵は門内の東側駐車場に面して鎮座している。2020年8月25日撮影
←こちらが山門の脇にある瀬戸地蔵さんです。
台座のプレートには『風呂敷ひとつ 住む場所も名誉財産も求めず飄々と生きた 記憶力は抜群だが計算は出来なかった 知る人は、馬鹿といい 天才といい 無欲の聖人という 確かなのは純粋なひとであったということであろう』と刻まれています。
しかし、櫛形町誌に載っていたお地蔵さんの画像とは異なるもので、明らかに新しくピカピカで背景も違いますから、同一のものではないようです。
このお像の後ろに回ってみると、こちらは平成23年に造られたものだと判りました。 これは、「せとじゅうさん」という人が、死後60年以上経てもなお、地域の人々に語り継がれ慕われていた証拠ですから、〇博調査員はどんな人だったのかますます彼のことを知りたくなったわけです。
そして、まずは文献をあたってみると
① 櫛形町誌第三章生活「いろいろな言いごと・地口」の項p1722 1966 昭和41年
② 甲州庶民伝「放浪の奇人 名取瀬戸重」 NHK甲府放送局編 日本放送出版会 1977
③ えすぷりぬーぼー 創刊三号「瀬戸重」 山梨ふるさと文庫 1986 3月
④ えすぷりぬーぼー 五号「あなたはせとじゅうを知っていますか」 山梨ふるさと文庫 1986 7月
⑤ 喜劇 せとじゅうさん物語 石川武敏 山梨ふるさと文庫 1988 10月
以上の5つがヒットしました。
一番古い記述は、①櫛形町誌でした。そして、人物像について詳しく記されるようになるのは、②~④の文献ですが、そのすべてを岩崎征吾(正吾)さんという方が関わって執筆・編集されています。⑤は舞台用に脚本化されたせとじゅうの物語でした。
←④えすぷりぬーぼー五号(1986年7月1日発行)のせとじゅうの特集記事。
では、 岩崎正吾氏の手による文献をもとに、人物像をまとめてみますね。
『沢登のせとじゅうやん』と親しまれ、お地蔵さんにもなったこの伝説の人物は、名取瀬戸重という実在の人で、明治11年に沢登に生まれ、昭和23年に70才で亡くなりました。その人は、葬式があると、どこからともなく弔いに必ず現れ、大きな風呂敷包みから古い袈裟を取り出して着て、どんな宗派でも本物のお坊さんに合わせて朗々とお経をあげました。そして、唱え終わると、同じ風呂敷包みから茶碗と箸、あるいは重箱と風呂敷を取り出して、お葬式のご飯をもらって帰っていったそうです。その地域は、現在の韮崎市、甲府市、甲斐市、昭和町、中央市、市川三郷町、富士川町にまでおよびました。
昔はこういう人のことを「おこんじきぼうず」と呼んだこともあったようですが、せとじゅうさんがとりわけ地域の人に愛されたのには、その風貌と人柄に理由があったようです。
・お地蔵さんみたいなクリクリ坊主に、澄んだ眼が印象的で、親しみやすく、「あはははは」とよく笑う人。
・子供が好きで、蛙の真似をしてゲコゲコ言いながら四つん這いになってぴょんぴょん飛び跳ねてみせて楽しませる。
・礼節はきちんとわきまえていて、ご飯やおにぎりをくれた家には、お礼にと、モシキ(薪)をくくって持ってきたりする。
以上のような愛嬌のある風貌と人柄が記されている一方で、
・六尺(180㎝)近く背が高く、カリスマ性も持ち合わせていた。
・「瀬戸重の暗記力」といわれるほど有名な抜群の記憶力で、お経は宗派を問わず読め、一度聞いた戒名や命日、近所の子供たちの名前もすべて覚えていた。
といいます。 夜はたいていお寺の本堂などで寝泊まりしていましたが、長逗留はせず、一晩だけで別のお寺に行って寝たので、どのお寺でも「せとじゅうさんは悪いことはしない」ということで安心して泊めていたそうです。
←鏡中條の常教寺妙音堂:瀬戸重さんが亡くなる一週間前(昭和23年8月末)に、このお堂で倒れたのだという。(2019年11月5日撮影)
瀬戸重さんの死後、その生き方が「六波羅蜜を体現した人」とか、中国の伝説上の僧である「寒山拾得そのもの」などと評価する人が現れ、近隣では「沢登の良寛さん」とか、「瀬戸観音の申し子」などの愛称とともに語り継がれました。
たぶん、生前から、特異な行動と才能だった故に、皆がよく知っている地方の有名人みたいな人だったんだと思います。瀬戸地蔵が、亡くなった翌年に建立されていることからも、生前から様々な物語性をもった人物であったことは間違いありません。だからこそ、瀬戸重さんが、どうしてそんな生き方をするようになったかを含めて、いろいろなうわさ話や世間話が流布していたのだと考えられます。
彼の死後、さらに、この人の特異性が深められて都市伝説のように広まり、早い時期から口承文学に発展したのだと推測できます。そして、昭和時代のうちに、文芸作品にとどまらず、演劇にまで発展していった「沢登のせとじゅうやん」。
〇博調査員の亡き義父(昭和9年生まれ)は、現在の中央市の田富で生まれ育った人で、子供の頃、「リアルせとじゅうさん」に会って、蛙の物真似をして楽しませてもらったことを憶えており、息子(〇博調査員の配偶者)に話し聞かせたそうです。少なくとも平成の世までは、口承文芸として、「せとじゅうさん」が生きていたのです。
義父と同じくらいの年の方々はまだたくさん元気にいらっしゃいますから、もしかしたら現在でも、瀬戸重さん本人を知る人に出会う幸運があれば、話を聞く事ができるかもしれませんね。
←瀬戸重さんの生家のあった沢登区の街並み。(2020年8月25日撮影)
〇博では民俗学的な見地から、生家のあった沢登周辺地域において、「せとじゅう」物語がどのような口承文化として過去から現在まで伝えられてきているのか? 令和の世に改めて調査できたらいいなと考えています。
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