沢登の斉藤ラジオ店
こんにちは。
先月末に、櫛形地区沢登区を踏査しました。その際、富士川街道沿いの街並みを撮影しようと、「(株)斉藤テレビ」さんのお店前の様子も撮りました。 ←沢登にある(株)斉藤テレビさん。(2020年8月27日撮影)
この斉藤テレビさんのお宅からは、以前に昭和20年代末から40年代までのアルバム写真の画像データを文化財課にご提供いただいています。
今日は、現在も多くの人や車が往来する富士川街道沿いで、地域の誰もが見知る街の電気屋さんの、昭和20年代末から30年代末までの変遷をアルバム写真データを、〇博調査員がおおまかな年順に整理して、ご紹介したいと思います。
斉藤家のアルバム中で、もっとも古いと考えられる店舗画像をよく見ると、看板にはテレビの文字はなく、「斉藤ラジオ店」とあります。
国産第一号のテレビは昭和28年の発売で、たいへん高価だったので一般家庭に普及せず、昭和34頃までは、街頭に設置されたテレビを見る時代でした。ですから、斉藤家でも、ラジオが看板商品だったようですね。
さらによく見ると、右奥には斉藤商店が併設しており、たばこも販売していたようです。
その他、この写真に見えるいくつかの小看板から読み取ることのできた商品名を羅列すると、「日立真空管・ヒタチランプ・ラジオTEN真空管・岡田乾電池・ナショナルアイロン・NEC真空管」などで、当時の電気屋さんの売れ筋商品がわかります。
←昭和30年頃撮影の斉藤テレビ店の商用車:ボンネットに乗っている赤ちゃんは昭和29年生まれの加恵子ちゃん。(沢登斉藤家所蔵)
昭和30年代に入ると、一般家庭向けのテレビや冷蔵庫、洗濯機などが次々と発売されはじめるので、それらを配達するための大型の商用車が必要となったのでしょうね。幌をかぶせた荷台の側面にはラジオではなく「斉藤テレビ」の文字がペイントされています。
←昭和31年か32年の斉藤テレビ商会:中央に立つ加恵子ちゃんの成長が、アルバム中の写真を年代順に並べる指標になります。(沢登斉藤家所蔵)
この画像では、前輪カバーに斉藤テレビの銘が入った、かっこいい商用バイクにも目を奪われますが、 店前のいたるところに掲げられたちいさなホーロー看板の文字も、よく見ると情報がいろいろともらえます。
特に、吊り下げられた正方形のたばこ看板の下あたりに見える、「郡是製糸飯野工場指定店」の文字には、近隣の倉庫町で栄えていた蚕糸業の痕跡を見ることができますね。
大きな「ナショナルテレビ」の縦型看板が目立ちます。右奥には、「サンヨーテレビ・ラジオ」の縦看板もありますね。
斉藤家では、ひきつつづきに日用雑貨店も併設していたようで、塩・たばこ・テンヨ武田(醤油)の文字も見えます。
←昭和30年代半ばの斉藤テレビラジオ商会の店先(沢登斉藤家所蔵)
(※すべての画像は、タップすると少し拡大します。)
こちらの画像では、園児くらいになった加恵子ちゃんの後ろにお店の商品の一部が見えます。
奥には洗濯機などの大物家電が、まだ舗装されていない富士川街道沿いの手前には、電灯の笠のような消耗品が並んでいますね。
そして、目を凝らすと、店内の装飾のれんに東芝の文字が見つけられます。
←東芝ストアーとなった昭和30年代半ば1月の斉藤テレビ(沢登斉藤家所蔵)
昭和30年代半ばに、斉藤家では店舗を改装し、東芝の家庭電気器具を売る特約店になったようですね。この画像では、昭和31年に生まれた忠彦さんがおばあちゃんの前に立っており、その後ろには、正月の初荷が積まれています。この画像では、富士川街道はまだ舗装されていません。 ←昭和38年夏の斉藤テレビ(沢登斉藤家所蔵)
こちらの画像にはしっかりと年記の裏書きがありました。
そして、店前の道がアスファルト舗装されており、商用車の車種も変わっています。
相変わらずたばこと塩も売っているようですが、店内の左寄り入り口近くには、電気炊飯器や電気ポットのようなものが棚に見え、冷蔵庫、テレビ、洗濯機の三種の神器以外にも、一般家庭に家電の種類がどんどん増えていく時分だったのだと理解できます。
一般的に昭和30年代は各家庭にマイカーとともに、電化製品がいきわたっていく時代だったといわれています。のちの平成天皇ご成婚時のパレードを見るために、昭和34年には一般家庭のテレビ購入率が一気に上がりました。昭和30年代後半になると、二槽式で脱水槽のある洗濯機が爆発的に売れ、台所の氷冷蔵庫は製氷機付きの電気冷蔵庫に交代していきました。戦後の高度成長とともに急激に変化した社会生活に対応して、昭和の人々は新しい電化製品を家庭に導入し、その家電生活をもっと楽しむために一生懸命働いたのだと思います。
ふるさとの街の電気屋さんの、昭和30年代の店先の変化は、昭和時代の人々の生活の変化を端的に表しているといえます。
斉藤テレビさんからご提供いただいた家族アルバムの画像は、大変に貴重なふるさとの資料として、今後も○○博物館でたびたびに活用させていただく所存です。感謝申し上げます。願わくば、画像に付随した情報のさらなる肉付けを行うために、コロナ禍ですが、いつか訪問させていただくことが叶えばと思っております。
« 大正5年の榊小学校運動会プログラム | トップページ | 櫛形地区東吉田の稲荷社周辺で »
「○博日誌」カテゴリの記事
- 昭和26年のきみ子ちゃんの絵日記を読む4(2024.12.13)
- 昭和26年のきみ子ちゃんの絵日記を読む3(2024.12.12)
- 昭和26年のきみ子ちゃんの絵日記を読む2(2024.12.11)
- 昭和26年のきみ子ちゃんの絵日記を読む1(2024.12.10)
- 腸チフス予防唱歌とコレラ注意報!!(2024.11.25)
「櫛形地区」カテゴリの記事
- 昭和26年のきみ子ちゃんの絵日記を読む4(2024.12.13)
- 昭和26年のきみ子ちゃんの絵日記を読む3(2024.12.12)
- 昭和26年のきみ子ちゃんの絵日記を読む2(2024.12.11)
- 昭和26年のきみ子ちゃんの絵日記を読む1(2024.12.10)
- 大正9年落合小学校秋季運動会次プログラム(2024.11.19)