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2020年10月

2020年10月14日 (水)

飯野専売支局敷地境界石

 こんにちは。
3611-2  白根地区飯野にある、富士川街道・倉庫町北交差点の北西部分にあたるブロックは、明治時代に当市域の主産業であった煙草産業の中心地でした。

その場所には、明治時代から大正時代のはじめに、山梨県内の農家で収穫された葉煙草が集められる飯野専売支局が置かれていたのです。そのため、乾燥した葉煙草を納める倉庫が立ち並ぶ様子から、倉庫町と呼ばれるようになりました。


 先日、周辺を〇博踏査した際に、飯野専売支局敷地の四隅にあったと考えられる境界石の現状を確認してきましたので、ご報告します。


←飯野専売局敷地の境界石。かつて4つあったと伝えられるうちの一つ。(令和2年10月5日撮影)


361197-7 ←飯野専売支局敷地の境界石の裏書。「明治三十五年十月建之」とある。(令和2年10月2日撮影)

境界石は今年で118歳!ということですね。

 


361197-3←境界石の上部に刻まれた十字マーク。(令和2年10月2日撮影)

361197-6  飯野専売支局の敷地は、大正6年以降に区画が細分されて民間に払い下げられました。現在は何軒もの家々が建ち並ぶ住宅地となっていますが、ちょうど旧敷地内の真ん中あたりに、地区の公会堂があり、飯野専売支局敷地境界石の一つが、その前の花壇の花々に囲まれるようにして立ち、保存されています。


←飯野専売支局旧敷地内のほぼ中央部にあたる飯野第十一区公会堂前の花壇に、境界石の一つが移設され遺されています。(令和2年10月2日撮影)


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←「明治36年3月に専売局から上八田の小野元二郎氏に支給された月俸十二円の証書」 (南アルプス市文化財課所蔵・上八田小野家資料より)小野元二郎氏は旧百田村に明治三年生まれと記録がある人物です。

 

 明治37年以降に、当地での煙草産業が衰退しはじめ、大正6年以降は煙草倉庫はなくなった倉庫町でしたが、その後は蚕糸業の隆盛とともに、周辺に数多くの大製糸場ができ、繭倉庫や大工場が並び、活気は昭和50年代までそのままでした。


 これまでに、南アルプス市域が、木綿→たばこ→蚕糸→果樹へと産業を進展させてきた歴史のうち、たばこ産業時代の一ページを、明治時代から100年以上、ずっと同じ敷地内に立ち、静かに物語る飯野専売支局敷地境界石です。 手入れの行き届いた花壇で、美しい花々に囲まれ、地域の人々に大切にされている情景に、心和んだ〇博調査員でした。

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←かつての飯野専売支局敷地東端一帯。手前の道は富士川街道(令和2年10月2日撮影)


3611 ←かつての飯野専売支局敷地西南角より倉庫町北交差点に向かう道。(令和2年10月5日撮影)※タップすると画像が少し拡大します。

※参考年表
明治29年 :葉煙草専売法施行。
明治30年 :葉煙草専売官制公布。
明治35年 :官制改正で東京専売局飯野出張所建設。
    葉煙草収納倉庫建てられ倉庫町といわれるようになった。
明治37年 :最盛期(作付反別526町7に達する)日本中部における重要産地になっていた。
明治37年 :煙草製造工場が国営になる。
大正5年 :葉煙草耕作も禁止。
大正6年 :倉庫町出張所も廃止。

2020年10月13日 (火)

「斉藤テレビさんのアルバムより、メグロジュニア・ダットサントラック・トヨタスタウト・三菱360

こんにちは。
 〇博では、市民の方々から、保管されているアルバム写真をお借りし、文化財課でその画像をデジタルデータ化して、データのみをご提供いただき、資料化しております。
 その際、どのお宅のアルバムに貼られた写真もだいたいそうなのですが、必ずしも年代順に貼られているわけではありませんので、資料化するにあたっては、〇博調査員が画像の中のヒントを頼りに、前後関係を考えて並べなおしていきます。
54-30 同一人物を特定してその時系列を考えることも大きなヒントになりますが、その時代を象徴するモノや商品が写り込んでいないかを観察すると、年代をある程度絞り込むことができます。
 富士川街道に面する斉藤テレビさんからご提供いただいたアルバムデータの場合は、いろいろなバイクや車が店前に写り込んでいて、大変参考になりました。

 今日は、年代を知る大きなヒントを〇博調査員に与えてくれた昭和20年代から30年代に活躍した車やバイクを斉藤テレビさんのアルバムからご紹介します。(※当ブログ過去記事「沢登の斉藤ラジオ店」2020年9月25日記でもご紹介しています)


ダットサントラック6147型 昭和26年(1951)~発売 


 現在も櫛形地区沢登で営業中の斉藤テレビさんは、昭和22年9月1日にラジオ店をこちらの斉藤忠男氏が開いたのがはじまりだそうです。もともと、同じ場所で忠男氏の父の武さんが雑貨商を営んでおり、その半分を間借りして始めたのだそうです。

30_20201013114201ダットサントラック6147型 忠男氏は昭和27年に結婚し、ボンネットに座る女の子は昭和29年の生まれであるとのことです。


9833 31 12_20201013114201メグロジュニア 昭和25年から31年位に販売されたもののようです。女の子が2歳位なので一致します。このかっこいいバイクを販売した目黒製作所は、後に川崎重工業に吸収されたようですね。
1201955ダットサントラック120型 1955年昭和30年から発売されたもよう。ボンネットに座っているのは、忠男さんの長男で、現在の斉藤テレビ店主である、昭和31年生まれの忠彦さん。塗装されたマツダという文字に迷わされますが、ダットサンでした。
1038-2 ←こちらの画像には昭和38年夏の裏書きがありましたが、よく見ると、3台のスクーターや車が写っています。
順に見ていくと
36036三菱360は、昭和36年に発売開始。昭和38年夏、富士川街道にはこんな車が走っていたんですね。いったいどんなカラーだったのでしょうかね?
3438_20201013114301トヨタスタウト 昭和38年夏に撮影。
103834ホンダドリームベンリィ 昭和34年から販売。便利なベンリィ!
 以上、いろいろなメーカーの車種が写り込んでいたのを調べてみました。
360rk10038 昭和26年から発売された「ダットサントラック6147型」からはじまって、「メグロジュニア」、「ダットサントラック120型」、「三菱360」、「トヨタスタウト」、「ホンダドリームベンリィ」と、現在もポピュラーなメーカーであっても、〇博調査員の聞き慣れない名前の車ばかりで、車好きバイク好きの方々の協力を得ても、探し当てるのは、けっこう難しかったです。


今後も、まだ街道を走る車の交通量が少なかった時代の生活や、お店ではどんな商品を多く運んだかなど、いろいろと斉藤テレビさんに質問してみたいと思ってます。現在使用されている商用車も見せていただけたら嬉しいな♪

2020年10月 9日 (金)

巨摩高校前駅・倉庫町駅・甲斐飯野駅

こんにちは。
2_20201009161301  今月に入ってから、コミュニティバスを利用して、在家塚から小笠原までの富士川街道沿い周辺を踏査しています。
 その途中で、ボロ電の駅跡の場所をいくつか撮影していたので、古い写真と比較しながらご覧いただきたいと思います。
 ボロ電に関する古写真については、撮影者の岡部禹雄氏の御子孫より、17点の現画像・3点の画像データを昨年度に南アルプス市文化財課にご寄贈くださいましたので、今回、活用させていただきます。

 通称「ボロ電」は、昭和5年(1930)~昭和37年(1962)までの32年間、甲府から南アルプス市域を経由して現在の富士川町にあった甲斐青柳駅まで、およそ20キロメートルを結んだ路面電車のことです。32年間のうちにこの鉄道の名称は、運営会社の買収や改名などにより、甲府電気鉄道→山梨電気鉄道→峡西電気鉄道→山梨交通と移行しています。
戦後になると、車社会の進展により利用者が減り、質素な小屋のような駅舎やところどころに草の生えた線路の状況に、いつしか「ボロ電」の愛称でよばれるようになりました。
 
 2_20201009161101  では、まず、「巨摩高校前駅」のあった場所からご紹介しましょう(令和2年10月2日撮影)。

←巨摩高校前駅跡を北から南方面に撮影(令和2年10月2日撮影)


 巨摩高校前駅跡に行くには、南アルプス市のコミュニティバス発着の起点となっている市立美術館バス停から、ボロ電廃軌道を南に歩いていきます。さらに、春仙美術館南交差点をさらに少し南に歩くと、左手に巨大なジャングルジムみたいな東京電力明穂変電所の構造物が見えてきます。そのあたりが巨摩高校前駅のあった場所です。ちょうどコミュニティバスの富士見町バス停のある場所ですよ。 

4_20201009161101 ←巨摩高校前駅跡を南から北方面に撮影(令和2年10月2日撮影)


002img20190909_16282430 ←岡部禹雄氏撮影の昭和30年代撮影の巨摩高校前駅(南アルプス市教育委員会文化財課所蔵)


8 現在の写真と見比べてみてください。 

←旧巨摩高校前駅(令和2年10月2日撮影


002img20190909_13150474 ←岡部禹雄氏撮影の昭和37年頃撮影の巨摩高校前駅(岡部家所蔵)

6_20201009161201 ←この場所では、ホームの痕跡も見つけることができるのですよ!ホーム部分と思われる場所の東側にまわってみると、下部に石積みのようなものが見えます。


10 ←ここはかつてホームを降りる階段があった場所だと思われます。


 3686  こちらは、倉庫町駅跡周辺です。シラネパックさんの敷地あたりが駅だったといわれています。ちょうど現在の桃園交差点の北西部分にあたります。この倉庫町駅周辺には、泰平館・石原・甲西社・天行館・グンゼ飯野工場・斉藤・巨摩社などの大製糸場がボロ電操業期間に存在したので、そこに働いた多くの工女さんたちもこの倉庫町駅を利用したのではないでしょうか。

 ちなみに、巨摩高校前駅と倉庫町駅の間にあった桃園駅は、現在の桃園神社敷地南東交差点脇にあり、駐車場にかわっています。この場所については、桃園地区踏査の際にしっかり撮影したいと思います。

34375-2  ←こちらはかつて甲斐飯野駅があったあたりです。赤で記したところにホームがあったのだと思います。


002img20190909_15135817 ←岡部禹雄氏撮影の昭和30年代撮影の甲斐飯野駅(南アルプス市教育委員会文化財課所蔵)


開業からずっと飯野驛とよばれた駅は、昭和25年9月から、国鉄との連帯運輸開始に伴い、駅名が「甲斐飯野駅」に改名されました。


甲斐飯野駅から甲府へ向かう次の駅は在家塚駅ですが、現在は、道の駅しらねの場所になり、そこは、コミュニティバスのバス停「JA在家塚支所」でもあります。


 Photo_20201009161301 実は、昭和23年に製造されたボロ電の車両が、現在走っているコミュニティバスの塗装でよみがえっています。

ですから、コミュニティバスに乗って市内を走ると、50年以上前に走っていたボロ電にホントに乗ってる気分になって、効率よく懐かしのボロ電駅ツアーができてしまうという素晴らしさ!を実感した〇博調査員です。

今後の小笠原や曲輪田方面への調査でも、コミュニティバスが大活躍しそうです。

ボロ電塗装車は他に青色バージョンもあるので、今度乗車する日が楽しみです。

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