引札の広告主を探る
こんにちは。
もう10か月も前のことですが、今年の初めに、ふるさと文化伝承館では、テーマ展「ふるさとの新春を彩った引札」展を開催しました。しかし、コロナ禍に遭い、たくさんの方々に見ていただくことは叶いませんでした。通常開催だった場合には、引札それぞれを配った商店や人物を探る〇博調査結果を披露する講演会などの計画もたてていたのですけれどね。
今回は、テーマ展終了後に判ったことなども含めて、2点の引札を発行した先人二人に迫ってみたいと思います。
ちなみに、引札とは、明治・大正期に多く出された、商店の広告宣伝のビラのことです。
まずは、こちらの足袋商の引札をご覧ください。 「履物屋で踊る福助」
年記:なし
商業種:足袋商
地所:榊村上宮地
広告主:横内安平
裏書:平印五十七號
引札に込められた文字情報は以上ですが、南アルプス市広報の「ふるさとの誇り〇博レポート」の記事で、これを見た横内安平氏の孫の嫁にあたるノリコさんから、ご連絡をいただきました!
その、ノリコさんは、明治38年生まれの舅(安平の子)から、かつて家で足袋を売っていたことを聞いていたのでした。
←足袋商引札の広告主の安平さんの子孫家に複製をお渡しした。(令和2年10月14日)
ノリコさんが舅のナガトミさんから聞いた話によると、「店舗をかまえていたわけではないが、曽祖父の安平の代に、農閑期や耕作の合間に、増穂(現富士川町)の「イリハラ」という問屋から足袋を仕入れて、家で売っていた。近隣の人が買いに来た。」とのことです。
横内家には、現在、足袋商をしていたころの痕跡を示すものは残されていないそうですが、オーラルヒストリーとして、その歴史が伝えられていたのです。
先日、上宮地区踏査の際に、農作業中のノリコさんにお会いして、引札の複製をお渡ししました。
じっと見ながら、「お義父さんから聞いていただけの我家の歴史(足袋商の話)が、こうやって現物の証拠になって遺っていたんなんて! 誰かがこんなにきれいに持っててくれたですねぇ!」と感慨深げでいらっしゃいました。
お渡しした〇博調査員もうれしくなって、「ええ、これからもずっと、この引札は南アルプス市の文化財課で大切に保管していきますからご安心くださいね」とお伝えしました。また、「この字は印刷ではないので、もしかしたら、安平さんの書いた字かもしれませんね」とも話しました。
さて、続いてはこちらの引札です。 「恵比寿と大黒のどんちゃん騒ぎ」
年記:明治三十六年の暦入り
商業種/屋号:呉服太物商 カネに里
地所:中巨摩郡大井村
広告主:新津助治郎
印刷所:明治三十四年七月十日印刷同年八月三十日発行印刷兼発行者大阪市東区備後町三丁目二十七番屋敷平民古島竹次郎
こちらの引札は、なんと広告主さん人物像と顔がわかりました。
←広告主新津助治郎さんの孫にあたるセツコさんが、偶然、引札展を観に来てくださり、おじいさんの名をみつけてくださった。(令和2年1月15日)
その後、セツコさんから話を聞いた御兄弟や、新津家の現在の当主のスケヒロさんをはじめ、御親族の方々が、たくさん観に来てくださり、新津呉服店に関する様々な資料を見せてくださいました。 ←こちらが引札の広告主の新津助治郎さんです。側面には桃園の彫刻家長澤其山氏の記名があり、昭和十三年六月に作られたものでした。
←新津助治郎氏胸像(倉庫町新津家所蔵) 長澤其山作 155㎝×190㎝×350㎝(胸像部分のみ:110㎝×165㎝×220㎝)
助治郎さんは、引札の図柄のように、どんちゃん騒ぎをするような人物ではなく、逆に、酒は呑まず、勤勉で厳格な人であったと伝わっているそうですよ。
『慶応三年六月七日落合村ニ生レ 十八歳ヨリ呉服商ヲ営ミ 一年ニ達シ徴兵ニ合格后ニ至リテ日清日露ノ両戦役ニ□征シ功労ニ依 従軍徽章ニ勅許セラル 大井村ニ於テ営業スルコト十八ヶ年后事業発展ノ為ノ飯野村倉庫町ニ大正二年店舗新築移轉セリ織物組合ノ創立ニ盡瘁シ其統制ヲ全キヲ圖リ現在ニ至ル 昭和十三年六月 誌』
←背面には新津助治郎さんという人物についての略歴が刻まれています。
御子孫家には、ずっとこの像が置かれていたので、先祖に助治郎という名の人がいて、甲西地区荊沢あたりで呉服商をはじめたこと等の認識がご家族皆さんにあったそうです。 そのために、偶然に展示をご覧になった親族のお一人が、うっすらと涙ぐまれながら、「この助治郎は、私のおじいさんに違いないと思います!」と、すぐその場で申し出てくださったのでした。その後、御兄弟など御一族様がつぎつぎと連絡をくださり、助治郎氏胸像の他、呉服商を営んだ新津家の歴史を物語る資料を色々と見せてくださいました。
←新津呉服店風呂敷(倉庫町新津家所蔵)引札と同じカネに里の屋号が染め抜かれています。
上記した助治郎氏胸像の裏の文章に補足して概要をいえば、「落合村(甲西地区)で生まれた助治郎氏が、十八歳で呉服商を始めた。その一年後に、日清日露戦争に従軍することになり、帰国後、大井村荊沢で十八年営業した。さらに、事業を広げるために、倉庫町の煙草専売局敷地が大正2年に払い下げになったので、富士川街道に面するその一区画を購入して店を移転した。」となります。
この胸像は、新津呉服店創業者とお店の略歴を伝えているだけでなく、倉庫町の名の由来となった煙草の専売局敷地の、払い下げの時期を明確にできるなど、富士川街道倉庫町周辺の歴史を物語る上でも大切な資料だと思います。
大東亜戦争を乗り越えて、この助治郎氏胸像を保管してこられた新津家では、現在、お店は営業されていませんが、多くのお針子さんを雇って昭和戦後まで商売を続けた歴史がありました。
コロナ禍により、令和最初のテーマ展の開催期間は短かったのですが、文化財課所蔵のふるさとの引札の展示がきっかけとなって、足袋商横内家や新津呉服店の大変貴重な家族のオーラルヒストリー等を収集させていただくことができ、〇博調査員として大変感謝申し上げるところです。
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