飯野専売支局敷地境界石
こんにちは。 白根地区飯野にある、富士川街道・倉庫町北交差点の北西部分にあたるブロックは、明治時代に当市域の主産業であった煙草産業の中心地でした。
その場所には、明治時代から大正時代のはじめに、山梨県内の農家で収穫された葉煙草が集められる飯野専売支局が置かれていたのです。そのため、乾燥した葉煙草を納める倉庫が立ち並ぶ様子から、倉庫町と呼ばれるようになりました。
先日、周辺を〇博踏査した際に、飯野専売支局敷地の四隅にあったと考えられる境界石の現状を確認してきましたので、ご報告します。
←飯野専売局敷地の境界石。かつて4つあったと伝えられるうちの一つ。(令和2年10月5日撮影)
←飯野専売支局敷地の境界石の裏書。「明治三十五年十月建之」とある。(令和2年10月2日撮影)
境界石は今年で118歳!ということですね。
←境界石の上部に刻まれた十字マーク。(令和2年10月2日撮影)
飯野専売支局の敷地は、大正6年以降に区画が細分されて民間に払い下げられました。現在は何軒もの家々が建ち並ぶ住宅地となっていますが、ちょうど旧敷地内の真ん中あたりに、地区の公会堂があり、飯野専売支局敷地境界石の一つが、その前の花壇の花々に囲まれるようにして立ち、保存されています。
←飯野専売支局旧敷地内のほぼ中央部にあたる飯野第十一区公会堂前の花壇に、境界石の一つが移設され遺されています。(令和2年10月2日撮影)
←「明治36年3月に専売局から上八田の小野元二郎氏に支給された月俸十二円の証書」 (南アルプス市文化財課所蔵・上八田小野家資料より)小野元二郎氏は旧百田村に明治三年生まれと記録がある人物です。
明治37年以降に、当地での煙草産業が衰退しはじめ、大正6年以降は煙草倉庫はなくなった倉庫町でしたが、その後は蚕糸業の隆盛とともに、周辺に数多くの大製糸場ができ、繭倉庫や大工場が並び、活気は昭和50年代までそのままでした。
これまでに、南アルプス市域が、木綿→たばこ→蚕糸→果樹へと産業を進展させてきた歴史のうち、たばこ産業時代の一ページを、明治時代から100年以上、ずっと同じ敷地内に立ち、静かに物語る飯野専売支局敷地境界石です。 手入れの行き届いた花壇で、美しい花々に囲まれ、地域の人々に大切にされている情景に、心和んだ〇博調査員でした。
←かつての飯野専売支局敷地東端一帯。手前の道は富士川街道(令和2年10月2日撮影)
←かつての飯野専売支局敷地西南角より倉庫町北交差点に向かう道。(令和2年10月5日撮影)※タップすると画像が少し拡大します。
※参考年表
明治29年 :葉煙草専売法施行。
明治30年 :葉煙草専売官制公布。
明治35年 :官制改正で東京専売局飯野出張所建設。
葉煙草収納倉庫建てられ倉庫町といわれるようになった。
明治37年 :最盛期(作付反別526町7に達する)日本中部における重要産地になっていた。
明治37年 :煙草製造工場が国営になる。
大正5年 :葉煙草耕作も禁止。
大正6年 :倉庫町出張所も廃止。
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