明治20年の初産見舞帳1(初産見舞の贈り物編)」
こんにちは。
〇博調査員の基地のある、南アルプス市文化財課整理室の職場の仲間に、なんと、今週次々と2人の孫ベビちゃんが誕生しました!なんて嬉しいニュースなんでしょう。私も、生まれたばかりの赤ちゃんの画像を見せてもらって、元気をもらいました。
そのようなわけで、現在鋭意整理・リスト作成中の西野功刀幹浩家文献資料(南アルプス市文化財課所蔵)より、今日は、明治20年3月の「初産見舞帳」の内容について、ご紹介したくなりました。
功刀家は御勅使川扇状地・原七郷のひとつ、西野村で、江戸時代晩期から明治期まで当主は代々七右衛門を名乗ってきました。さらに、明治期以降は役場の戸長職などに就き、原七郷に興った果樹栽培産業勃興期に大きな力を発揮した家のひとつです。
南アルプス市ふるさと○○博物館では、平成30年7月より故功刀幹浩氏のオーラルヒストリーの収集をはじめ、令和2年12月に功刀家資料継承者から南アルプス市文化財課が所蔵文献資料等の寄贈を受けたことにより、現在、〇博調査員がクリーニングや目録作成等の整理作業を進めています。
『明治弐拾年三月廿一日
初産見舞帳
西野村 功刀安市 』
今回みていただく、「初産見舞帳」は明治20年に記されたもので、昭和2年になくなった七右衛門(幼名「安市」)が妻「ひら」の初めての出産に際して受けた贈答品や、「ぼこ見(新生児の披露宴)」のために功刀家が用意した食材や引き出物とその金額、また、初節句祝いとして受け取った雛人形などを書き上げたものです。
←真ん中に座っている方が晩年の功刀ひらさん(小野要三郎の実妹)と考えられます。前列向かって右に立っている男の子が平成30年の〇博調査の聴き取りに協力してくださった功刀幹浩氏。ひらさんは幹浩氏の祖母。(昭和8年11月撮影)(南アルプス市文化財課所蔵・西野功刀幹浩家資料より)
『 記
小野要三郎
一 木綿糸入 壱枚
一 甲斐絹朋立 壱枚
一 襦袢 壱枚
一 半襟 壱枚
一 綿入ドテラ 壱枚
一 鼠縮緬 壱枚
一 黄八丈 壱枚
一 笈摺 壱枚 ※笈摺(おいずり:袖なしの羽織)
一 襦袢 壱枚 』
明治20年3月、初めてのお産をした安市の妻ひらに、同じ西野村に住む、実家の兄で小野家当主の小野要三郎から、ひらの着物と赤ちゃん用の着物が多数贈られたようです。
このページに書き上げられた9枚の衣類は、すべてひらの実家、小野家からの贈り物です。
ひらの実兄の小野要三郎は、水の乏しい御勅使川扇状地にあって、最も水に恵まれない西野村で、いち早く落葉果樹栽培に着手し、後年、西野果実郷の父とよばれる人物になるのですが、この時期にはまだ桑の木を植えて試している頃で、小野家がモモなどの果樹の苗木を購入して計画的に試作開始するのは明治26年からのことです。
『 一 糸入結城 壱枚 中込清左衛門
※糸入:絹糸入りのという意 ※糸入結城:結城木綿の事
一 糸入結城 壱枚 中込□□吉
一 糸入結城 壱枚 芦沢正敬
一 木綿糸入 弐枚 中込太兵衛
一 木綿糸入 壱枚 野中作吉
一 金壹円五拾銭 仝人
一 木綿糸入 拾四尺 功刀太郎兵衛 』
赤ちゃんを産んだお母さんへの贈り物は、着物や反物が多いようですね。
『 一 木綿糸入 十四尺 功刀万吉
一 □色 八尺 功刀半右エ門
一 色木綿 壱丈 功刀六左衛門
一 色木綿 壱丈 相川利右衛門
一 木綿糸入 壱枚 功刀徳太郎
一 木綿糸入嘉恵 弐丈 功刀改造
一 木綿糸入 壱丈五寸 功刀半治郎 』
こちらの頁では、枚ではなく、尺や丈という単位から、反物が贈られていることが判ります。
『 一 氷豆腐 五辺
米壱□□ 長谷部勝左衛門
一 色木綿 一丈 功刀傳右衛門
一 木綿糸入 壱枚 手塚弥重郎
一 木綿糸入 壱枚 功刀喜右衛門
一 木綿糸入 拾一丈壱尺 中込清太郎
一 色木綿 壱丈 功刀清太郎
一 木綿糸入 拾疋 相川平吉郎
一 素麺 功刀亀吉
一 色結城 壱枚 田中壱左衛門
一 唐結城 壱枚 鶴田惣吉
一 唐結城 壱枚 功刀㐂訓 』
木綿の布の他に、氷豆腐と米などの食べ物も送られていますね。
『 一 金壹円 齋藤彦兵衛
一 金四円也 小野三七
一 金五拾銭 芦澤伊右衛門
一 南部糸入小袖 壱枚 手塚八兵衛
一 南部縮緬小袖 壱枚外 襦袢木綿茶他 小野源内
一 同断 小野在吉
一 紺縮緬小袖 壱枚 中込豊弘
一 緋縮緬糸入小袖 壱枚 中込清右衛門
一 黄八丈小立 壱枚 芦澤豊
一 唐結城小第□ 壱丈 小林勘兵衛
一 木綿糸入 長谷部正蔵
一 素麺 功刀太郎衛門
一 同断 功刀吉右衛門
一 同断 鶴田定太郎 』
この頁では、お金を贈った人もいますが、素麺を祝いの品として贈った近所の人々の名が記されています。
甲州では、ハレの日(冠婚葬祭)には、なにかと素麺を贈答したり食したりすることが多かったようです。現在でも山梨では新盆の参列者に素麺を引き出物とする習慣が残りますが、以前は慶事においても、たとえば婚礼祝膳ではまずは素麺の吸物を食すという慣習があったようです。
今回は、「明治20年に出産した人へ、親せきや近所の人たちからどんな品物が贈られたか?」がわかる文書を読んでみました。
21世紀に入ってから出産を経験した〇博調査員の場合、出産祝い品というと、ベビー服や紙おむつなど赤ちゃんのためのグッズをプレゼントしていただいたことが多かったと思います。また、自分がお祝いを贈る時も、赤ちゃんに対しての品物を多く選んでいた気がします。
しかし、この明治20年の出産見舞帳には、出産という大仕事を成し遂げたお母さんに対してのねぎらい(見舞い)をメインとする考え方があったことがよくわかります。明治20年の出産が、現在よりも数倍危険で母親にとっては命をかけた仕事であったことは間違いないですし、一族郎党にとっては跡継ぎを生み出した女性に対して、お礼と祝意を示すことは当然であったのだと思います。
この世に生まれ出た赤ちゃんに対しての祝意は、次回にご紹介する予定の頁の、出産祝宴と初節句見舞品の項に表れていますので、少しお待ち願います。
では、今回はこのへんで。次回は、「明治20年の初節句の祝宴」についての頁を読みます。
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