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2021年9月27日 (月)

道子さん(100歳)の語り継ぐ太郎さんの戦争体験

会期が令和3年11月17日まで延長した「戦争と にしごおりの人々」展を開催中の南アルプス市ふるさと文化伝承館から、こんにちは。Dsc_0215  去る9月23日のお彼岸の日、現在開催中の企画展の中でご紹介させていただいている故志村太郎氏の戦争関連資料をご覧になりに、志村家の方々がご来館くださいました。


 この度の企画展で志村太郎氏の資料を活用させていただくにあたり、〇博調査員は、展示作業の途中に何度も、素晴らしい資料を扱えることの幸せを噛みしめ、志村太郎氏の妻の道子さんに対して、感謝の気持ちで胸がいっぱいになりました。

Dsc_0214 そのようなわけで、企画展が7月からはじまってから、一度は道子さんに観てもらえたらうれしいなぁと願っていたので、今日のこの日はほんとうに感激しました。

P9230544  戦時に飛行場建設技手としてアリューシャン列島のアッツ島とキスカ島に派遣された志村太郎氏(昭和59年逝去)の資料は、2016年11月に妻の道子さんより、南アルプス市教育委員会文化財課にご寄贈いただいたものです。
 50点以上にも及ぶこれらの資料は、奥様が76年以上にわたって丁寧にお手入れされてきたことがよくわかる大変すばらしいコンディションでした。
 そして何よりも、一つ一つの資料が語る戦争体験の明確なことが、出色の資料群です。これは、太郎氏が奥様の道子さんに寝物語に語った戦争の記憶(戦争体験のオーラルヒストリー)を色濃く纏っているからです。一つ一つの資料の来歴(どこでいつどのように使用したか?またその時の気持ち)が太郎氏から〇博調査員が直接譲り受けたかのように、確かなのです。

Photo_20210927150501  ←太郎氏の死後、道子さんは毎年、遺品の虫干しをして手入れを行うとともに、そのオーラルヒストリーを子供ら家族に語り継いでこられました。だからこそ、戦後76年も経過した太郎氏の資料が持つ戦争体験を、私たちは臨場感を持つ言霊で受け取ることができたのです。それらの太郎さんの言葉は、そのまま資料解説として展示しております。


さらに、道子さんが語る志村太郎氏のオーラルヒストリーの一部は、今回の来館時に、許可を得て動画として記録させていただきました。


 道子さんによると、太郎氏は生前中、近所の小学校から戦争の悲惨さを教えてほしいと頼まれても、「あまりにも壮絶な戦場体験を自ら話すことはどうしてもできない」と断っていたそうです。でも、奥様にだけでも伝えてくれていてよかった!


P9230557  そして、100歳の道子さんが、南アルプス市ふるさと○○博物館に太郎さんの資料とオーラルヒストリーを引き継いでくださったことにお礼を申し上げるとともに、この奇跡に感謝しています。このコロナ禍において、細心の準備と注意を払いながら、当館企画展に道子さんをお連れくださった志村家の皆様にも心より感謝申します。

 当日は〇博調査員が100歳の道子さんに、さらなるオーラルヒストリーを伺うことのできたと申しましたが、今回、道子さんとご長男夫妻と一緒に展示を観ていく中で、さらに新たな事実や視点が確認できました。
それを以下に箇条書きにするとこのとおりです。〇博調査員の備忘メモとして記しておくことにします。

 

 

002img20210927_16312097  アッツ島とキスカ島派遣時について


・太郎氏はアッツ島に派遣された後、より米国に近い位置にあるキスカ島へ移動となり、一度甲府に戻ってからキスカに赴任したとのこと。 移動の基準は、「妻帯者はアッツ島へ、単身者はより危険なキスカ島へ」ということだったと太郎氏からきいた。しかし、結果としては、アッツ島が逆に玉砕し、キスカ島が脱出に成功した。

3936201615-3_20210927150401←・伝単「桐一葉」を米軍は飛行機から、毎日、物凄くたくさんの枚数をばらまいていた」と太郎氏からきいた。

 

鉄兜の隙間に銃弾が通った時はタコツボに埋まり、軍医にもうだめかもと言われたこともあったが、生きて帰ってこられた。

 

 

 

太郎氏と道子さんの長男、ケンジさんからの聴き取り
191214←写真向って左が太郎さん。キスカ帰還後の昭和19年12月に広島の宮島で撮影(南アルプス市文化財課所蔵)

・太郎さんが雷を極度に怖がるのを息子のケンジさんは不思議だったが、「戦争で爆撃を経験したからだ」と周りの大人に教えられた。

Photo_20210927150401 ・写真にある養蚕のテントは戦後も家の庭で養蚕をする際に使用していた。昭和40年代頃に養蚕はやらなくなった。

20_20210927150501 20 20-3 ・釜無川に橋を架けるのは秋の稲刈り収穫の時に、村の勤労奉仕という感じで臨時の橋を架けた。

開国橋を渡るとなると往復一時間以上かかるところ、半分以下の時間で行き来できた。

ロタコの資材を利用して仮橋を毎秋かけていたのは昭和20年代終わりころまでで、コンバインが登場したら橋は架けなくなった。それまでは稲の収穫が終わると、橋は外して倉庫にしまっていた。長男ケンジ氏も仮橋の記憶がある。

戦後は玉幡の農地では、稲とリンゴをつくっていた。
 
以上です。

↑上画像3点は、釜無川にロタコの廃資材を利用して、下今井から玉幡へ仮橋をかけているところ。(南アルプス市文化財課所蔵)

 

 

Dsc_0219  

 

当日、 〇博調査員や伝承館の解説員は、道子さんにお礼の気持ちを伝えたい一心でおりましたのに、逆に、道子さんから、「(資料を文化財課に)もらってもらうときに、お嫁さんが3回もお茶を入れ換えるほど、(文化財課職員に)たくさん話を聞いてもらっただけでもうれしかったのに、こんなにしてもらってみなさんにも観ていただけるなんて、とてもうれしいです」という有難いお言葉をいただき、みんなで涙ぐんでしまいました。


 「それほど重要ではないと思いがちな、家や個人の歴史と記憶が、市全体の文化資源となり継承されていく過程や作業は、いまとこれからを生きる市民に、ある種の幸福感を伴う文化的財産をもたらす」、〇博プロジェクトの意義のうちの一つが、ここにあると思っています。


まゆこ

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