西野村と山繭
こんにちは。
現在、〇博調査員は、山梨県に適用中の「まん延防止等重点措置」に従い、フィールドワークは行わず、ひたすら文書資料の整理作業に没頭しています。
作業中の資料群は、南アルプス市白根地区西野のさる旧家からご寄贈いただいた古文書群で、近世から現代にいたる千点以上に及ぶ文書を見ていくうちに、〇博的に様々な論点が浮かび上がり、まん防措置下であってもそれなりに有意義な調査を行っています。
さて、今日は、それらの文書資料の中から、いままで注目されてこなかった明治初期の原七郷の産業の一つを知ることができた文書の存在をご報告します。
その産業とは、現在も生産量が少なく最高級織物の原料として「繊維のダイヤモンド」と称されている山繭の生産です!
山繭とは、ヤママユガのつくった鮮やかな緑色の繭のことで、緑色の美しい糸をとることができます。ヤママユガは、人為的に生み出され、桑の葉を食べるカイコとは別の種で、幼虫はブナ科のクヌギやナラの木の葉っぱを食べて育ちます。現在も天蚕(てんさん)と呼ばれ、カイコとは別の飼育方法と技術が日本各地で受け継がれているんですよ。天蚕は昨秋に産み付けたヤママユガの卵を、手入れしたクヌギ林内の枝に孵化前に分散して付け(「山付け」という)、幼虫や繭を食べにくる外敵から人間が保護して守り育てます。
ではまず、明治8年5月12日に西野村の山蚕飼養人8人が山梨県令藤村紫朗宛に出願した文書をご覧ください。この文書を読むと山蚕(=天蚕)を飼養したクヌギ林の広さと山付け(掃立て)した卵の量、飼養時期や期間などが判ります。
では、読んでみましょうか。 ←「山蚕飼養ニ付小鳥威発砲願」明治8年 南アルプス市所蔵西野功刀幹浩文書
「山蚕飼養ニ付小鳥威発砲願」
御書付ヲ奉願上候
巨摩郡第廿六区
西野村山蚕飼養人
農
中込善右衛門
外七人
森林分内
一 林反別六町壱反四分
此掃立種子壱斗三升五合
右林受威銃持主
一 玉目三匁 芦澤重左エ門
猟師休業銃持主
一 玉目二匁壱分 手塚和重郎
千七百三拾二番休業銃持主
一 玉目二匁 笹本用蔵
前書之場所江山蚕飼養仕候
ニ付 蚕発生日ヨリ来ル七月廿五日迄
日数七十四日之間小鳥威として前
書之人員相雇ヒ空発砲致度
候間何卒御聞届ケ被下置(度)候 此
段奉願上候以上
明治八年第五月十二日 右飼養人
中込善左衛門
笹本用蔵
笹本三四郎
功刀七右衛門
功刀太郎右衛門
功刀彦蔵
手塚和重郎
手塚松右衛門
前書之通出願ニ付奥印仕候以上
明治八年第五月十二日 右戸長 長谷部守本
書面聞届乃事
明治八年五月十二日
山梨県令 藤村紫朗殿
内容は、「西野村の山蚕(ヤママユガ)飼養人中込善右衛門他7人は、村内の約6ヘクタールの林に20㎏(2万個位かな?)ほどの山蚕の種子(卵)を付けて飼育しますので、孵化してから7月25日までの74日間、山蚕の天敵となる小鳥を威す目的で三人の鉄砲撃ちを雇って空へ発砲いたしたくお聞き届けください」というような感じでしょうか。
飼養期間を74日間と明記しているところからみて、当時の西野村では山蚕の飼養技術がある程度確立したものであったことが判りますし、8家以上の農家が共同で組織的にクヌギ林を管理していた可能性も考えらると思います。もしかしたら、西野村の山蚕飼養は江戸時代から行われていたものかもしれませんね。
それから、文中の「玉目三匁」というのは、使用する弾丸の一個の重さが3匁ということで、火縄銃の口径の大きさを表現しているのだそうです。
それにしても、山蚕を守るために、人を雇って火縄銃による威嚇を行ったというのは驚きです。ヤママユガ(山蚕)に加害するものとしては、カラスなどを含む小鳥の他に、アリ、スズメバチ、ハエ、カエル、カマキリ、ネズミ、サルがありますが、それらの外敵を追い払うために銃を発砲するとは、他の農作物に比べても、厳重すぎる警戒行動のように感じます。当時の西野村で山繭生産がどれほどの経済的影響力を持つものだったかは不明ですので、江戸~明治初期の山繭生産はどれほど利益のあるものだったのか?今後の探求課題の一つとなりました。
山繭生産に関する文書としては、上記の「山蚕飼養ニ付小鳥威発砲願」の前年の明治7年に記された「山繭窃盗に付申渡」という文書もありますのでご覧ください。
←「山繭窃盗に付申渡」明治7年 南アルプス市所蔵西野功刀幹弘家文書
「山繭窃盗ニ付申渡」
甲戌九月九日
申渡
巨摩郡西野村農
半左エ門養子
●●杉作
其事儀金丸平甫外六人飼置ク
山繭可盗取ト椚林へ立入り未タ取り
得スト雖モ右科窃盗律ニ依り
懲役四十日申付ル
右村 戸長
右之通申渡付 □□□□人
どうやら、明治7年に、西野村の椚林で生産していた山繭を盗み取ろうとした者がいて罰せられたようですね。この文書には、盗まれそうになった山繭を生産していたのは金丸平甫ほか6人とあります。金丸平甫さんは、後に「全進社」という動力水車による236釜の繰糸場を今諏訪村に完成させたり(明治21年の調べ「山梨県蚕糸業概史」)り、今諏訪村名主や戸長を歴任した人物です。ちなみに今諏訪村は西野村の東隣に接する村です。
この文書からは、明治7年当時に、西野村に点在するクヌギ林を利用して山繭生産を行う人が隣村の住人にも存在したということと、山繭を生産するには、小鳥などの動物だけでなく、人間の窃盗行為にも気を配らなければならなかったことを教えてもらいました。
この場合は、窃盗未遂であったにもかかわらず、懲役40日を科されています。少し重すぎるような気もしますがどうでしょうか?(もっとも明治7年当時に村戸長が申し渡す懲役がどのようなものであったかを調べないと判らないですが・・・)いずれにしろ、山繭の窃盗行為が、村の利益を脅かすほどの許されない行為なのだと、当時の西野村や今諏訪村の人々が認識していた結果だと思います。
もしかすると、翌年の明治8年の山繭飼育期間に行われた銃での発砲威しの対象は、表向きは小鳥ですが、真の相手は案外、泥棒(人間)だったのかもしれませんね。
只今資料分析中の「西野功刀幹浩家文書」からは、、西野村の近世から昭和にかけての産業構造の変化を追う分析ができそうです。「米の作れない原七郷では、木綿→煙草→養蚕→果樹と商品作物を変化させてきた」というような従来の大まかな認識の合間に、その他のいろいろな作物や産業を試していた先人たちの行動がもう少し付け加えられるのではないかという期待があります。山繭生産に関しては、近世からの綿と煙草栽培と並行して行われていた可能性が高まりました。今後さらに分析を深めたいと思います。まずは西野村の山繭生産に関しての文書発見のご報告と雑感まで。
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