明治31年10月、武州石川組製糸女工福乃が故郷西野に送った葉書
急に寒くなってきましたね。
棚の上のブドウの葉が紅く色づきはじめた南アルプス市から、こんにちは。
きょうは、今から120年以上も前のいま頃、明治31年10月23日に、埼玉県の製糸場に出稼ぎに行っていた女性が、故郷の西野村に書き送った葉書をご紹介します。
←「明治31年から39年記武州石川組製糸場女工より葉書表(西野功刀幹弘家資料より南アルプス市文化財課所蔵)
明治31年ころは、生糸のアメリカ向けの輸出増大で、日本中に大規模製糸場が次々と建設されていた時代です。
山梨県は、明治7年に県営勧業製糸場が創業(富岡製糸場は明治5年創業)したことで、蚕糸業萌芽期の先進地の一つとして、明治20年代には甲府の製糸家が全国的に台頭するほどまでになっていました。
そのため、地元で器械繰糸技術を習得した山梨県内の女工たちが、次々と県外に新しく建設される製糸場から引き抜かれ、出稼ぎに行きました。
明治30年以降は長野県の諏訪湖畔地域の製糸家が急成長するので、山梨から長野県への出稼ぎも増えてきた頃です。
さらに、明治36年には中央線が甲府まで開通、明治38年には岡谷まで開通したことにより、山梨県の製糸工女の流失がさらに加速して、甲州出身の女性たちが日本各地の製糸場で活躍しました。
←「明治31年から39年記武州石川組製糸場女工より葉書裏(西野功刀幹弘家資料より南アルプス市文化財課所蔵)
さて、今回ご覧いただく葉書を書いたのは、相川福乃さんという女性です。現南アルプス市白根地区西野から、現埼玉県入間市にあった石川組製糸に出稼ぎに行っていたようです。
文化財課が所蔵している相川ふくのさんが石川組製糸から贈った葉書は、明治31年のものが2枚、明治39年2枚の併せて4枚があります。ですから、甲州中巨摩郡西野村出身の相川福乃さんは、中央線が開通する前から、武州入間郡豊岡町にあった石川組製糸に行ったわけです。当時の福乃さんが10歳代後半から20歳代の女性だったと考えると、彼女が感じた故郷からの距離はかなり遠く、ホームシックになったり仕事で辛いことがあっても容易に帰ることはできないという覚悟が必要だったと想像できます。
石川組製糸は明治26年に武州入間で創業し、
昭和12年の終業までに日本全国に10カ所の製糸工場をもつ大会社になりました。
現入間市の発行する石川組製糸の資料を読むと、
相川福乃さんは、その石川組製糸がはじめて器械製糸場として豊岡町に建設した本店(第一)工場で、
明治31年8月から39年8月の少なくとも足かけ8年間は働きに行っていたと考えてよいと思います。
それでは、4枚のはがきの内の1枚、明治31年10月23日に福乃さんが書いた葉書の内容を少し見せてもらいましょう。
←「明治31年10月23日記武州石川組製糸場女工より葉書表(西野功刀幹弘家資料より南アルプス市文化財課所蔵)
「山梨県中巨摩郡西野村 功刀七右衛門様
武州入間郡豊岡町 石川製糸場内 相川福乃拝
十月廿三日』
←「明治31年10月23日記武州石川組製糸場女工より葉書裏(西野功刀幹弘家資料より南アルプス市文化財課所蔵)
とても簡単に内容を言うと、「冬用の着物と薬を大至急送ってくださ~い」ということのようで、10月下旬の急な冷え込みに耐えかねたのでしょうか。はやく実家に知らせて武州に送らせてくださいと隣家の功刀家に頼んでいます。その他、「リュウマチの良い薬があれば」と書いてありますので、寒くなって手足に痛みを感じ、製糸場での仕事を辛く感じていたのかもしれませんね。
入間市博物館のHP「いるま歴史ガイド」 を読むと、石川組製糸場本店工場の繰糸女工の出身者は山梨出身の者が多く、『工場では甲州弁を話さなくては通用しませんでした』とあります。また、石川組製糸は、甲府に女工や繭を集めるための出張所を置いていました。福乃さんの他にもたくさんの甲州の女工たち集められ、故郷を遠く離れた石川組製糸の運営する各製糸工場に出稼ぎに行っていたのですね。
山梨県では、明治36年の中央線開通以降、県外製糸募集員によって山梨県内製糸場いたるところで優秀女工争奪戦が展開されるようになり、明治20年代迄全国的にその生産量と質でリードしていた山梨県の蚕糸業は、明治30年代以降には慢性的女工不足に陥り、長野や埼玉、群馬県に本拠地を置く製糸家たちに水をあけられていくのです。少し時代は後ですが大正9年の記録では、4602人もの甲州の女性たちが埼玉県へ出稼ぎに行っています(山梨県蚕糸業概史より)。
ときは、日露戦争に向けての富国強兵政策の真っただ中、日本は「生糸を輸出して軍艦を買って」いました。相川福乃さんをはじめ、日本各地に出稼ぎした甲州出身女工たちの働きは、故郷の親元に送るお金で山梨の経済を潤しただけでなく、生糸輸出による外貨獲得によって日本経済も支えていたといってよいでしょう。
〇博調査員は、武州入間の石川組製糸場跡をいつか見に行きたいなと思っています。なんと、西野村出身の福乃さんが働いていた本店工場の隣にあった、石川組製糸の迎賓館である「旧石川組製糸西洋館」が現在も遺され、公開されているようなのです。
福乃さんが女工としてどんな生活をしていたのか、現地に行っていろいろと知りたくなりました。まだ東京から甲府まで鉄道が開通していない明治31年に、福乃さんはどのようなルートで何日かかって武州入間に移動したのでしょうか? これからも少しずつ調べていきたいと思っています。
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