西野の蚕種屋「甲蠶館」で使用された検尺器と顕微鏡
こんにちは。
先日、〇博調査員のもとに、白根地区西野でかつて種屋とよばれた蚕種家で使用されていたという道具が持ち込まれました。 みたところ、検尺器と顕微鏡であると判りましたが、お預かりしてもう少し詳しく調べることにしました。
その前に、この道具を使用した蚕種家についてですが、山梨県蚕糸業概史に記載されている大正14年蚕種製造業者調べによると、山梨県には大正14年に370の蚕種製造業者があり、そのうち現南アルプス市域が含まれる中巨摩郡には23の業者があったようです。さらに、当時の主な製造業者の内、現南アルプス市域の町村のものを調べ出すと、6名の名前がありました。
「大正14年に現南アルプス市域の主な蚕種家(山梨県蚕糸業概史・昭和34年刊より)」
三恵村寺部(若草地区):塚原水次郎
鏡中條村(若草地区):名取保吉
豊村(櫛形地区):河野豊佐
豊村(櫛形地区):斉藤応武
西野村(白根地区):長谷部長七
御影村(八田地区):清水元治郎
このなかに、西野村長谷部長七の名があります。〇博調査員に検尺器と顕微鏡を託してくださった白根地区にお住いの郷土史家小野氏からの情報からも、これらの道具を使用していたのは、白根地区西野の長谷部家であることを知らされています。
大正時代の西野には、長谷部長七さんという、山梨県下で著名な蚕種家がいたのですね。
このほか、前出の山梨県蚕糸業概史には、昭和3年調べの大規模蚕種業者名も記されていますが、残念ながらこの中に西野村の長谷部長七氏の名はありませんので、おそらく明治20年代から大正時代を中心に活躍した蚕種家だったと考えられます。
「昭和3年に一万から三万枚を製造していた大規模蚕種業者(山梨県蚕糸業概史・昭和34年刊より)」
三恵村寺部:塚原水次郎
豊村:河野豊佐
五明村 塩沢薫太郎
もっとも、地域の蚕種業者が活躍できたのは昭和初期までのようです。『昭和11年頃には蚕種の自家製造と配給を随伴した他県大資本製糸会社(郡是・鐘紡・片倉・東英語・昭栄)の特約取引の進出により(山梨県内の蚕種業者は)古くからの得意先を奪われ壊滅的に』なったとのことで、ちょうどこの頃に、西郡で最も大規模で有名な蚕種家であった、三恵村の塚原水次郎も休業したもようです(昭和5年生まれの若草地区寺部在住者からの聴き取り等による).
それでは、まず蚕種家、長谷部家の検尺器から見ていただきましょう。
一般的に検尺器は、製糸会社が使用する場合は生糸の繊度(太さ)を測定するため用いることが多い(450mの生糸が0.05グラムの時、糸の太さが1デニールという単位となる)のですが、蚕種業者が使用する場合は、繭質についての検査に使用するわけですから、主に、繭糸長(1粒の繭から得られる繭糸の長さ)をや生糸量歩(一定量の繭を繰糸して得られる生糸量の歩合)を検尺器を使用して調べていたと考えられます。
検尺器の枠は一周で112.5㎝と決まっており、100回、200回と回転計によってベルが鳴り、停止させることができるようになっています。 ←こちらの検尺器には、製造した日本蚕業株式会社の社名プレートが付けられています。
つづいては、顕微鏡が2点あります。
蚕病にかかっていない蚕種を製造販売するために、顕微鏡は蚕種製造者にとって必需品でした。江戸時代にヨーロッパの蚕糸業に壊滅的な打撃を与えていた蚕の病気(微粒子病)が、明治以降の開国で、日本国内にも脅威が拡がっていたからです。
イタリアでは、明治14年ごろには、卵を産んだ母蛾の感染を顕微鏡で発見することで、微粒子病を予防することに成功しており、日本では明治19年に蚕種検査規則が公布されました。
山梨県でも明治20年には体制が整い(山梨県蚕糸業概史より)、『蚕種製造業者は必ず、産卵した雌蛾について経卵伝染する微粒子病胞子の存在有無を顕微鏡検査し、合格した無毒の蚕種のみを市販する(「日本の養蚕技術」井上元2007年 繊維と工業Vol.63,No.8 )』ようになりました。
しかし、明治20年頃から蚕種屋で必要になった顕微鏡も、国産のものがまだ開発されておらず、高価な輸入品を手に入れるしかなかったようです。
さらに、明治44年になると「蚕糸業法」という法律が制定され、蚕糸業者には母蛾検査が明確に義務付けられ、日本国内におけるの微粒子病対策が徹底されるようになった流れがあります。
まずこちらの顕微鏡ですが、明治時代のドイツのErnst Leitz(エルンスト・ライツ)社製のもので、箱裏に書かれていた墨書から明治43年に購入したものだと判りました。「蚕糸業法」の制定された前年に購入していますね。
ちなみに、Ernst Leitz社は、あのカメラで有名な、ドイツのライカ社の前身の社名であり、顕微鏡メーカーです。もともとは、「Ernst Leitz(エルンスト・ライツ)社の製造したカメラ」という意味で、「ライツのカメラ」=「ライカ」となり、カメラ部門が分かれて社名になったようですよ。
顕微鏡の箱の中には、一緒にカードも入っていましたが、ここに「Wetzlar」という文字もあったので、辞書で調べると、ドイツの地名で、どうやら、Ernst Leitz(エルンスト・ライツ)社の創業地のようです。
日本では、高千穂製作所(のちのオリンパス)が大正9年に完成させるまで、顕微鏡はドイツのツァイス社かエルンスト・ライツ社等の輸入品を購入するしかありませんでした。
顕微鏡を販売する代理店なようなものが甲府にもあったのでしょうね?今度、「山梨蚕桑時報」のような古い蚕糸業界雑誌にのっている広告覧を調べてみたいと思います。若尾銀行の隣にあった大きな蚕具屋さん(丸亀商店)で取り扱っていたかもしれません・・・。
少なくとも、この顕微鏡の存在から、西野村にあった長谷部長七が経営する蚕種製造販売会社は、明治時代から(43年には)営業していたことがわかりました。そして、微粒子病をもった種を販売しないために、この顕微鏡で母蛾の検査を行っていました。
こちらのものは、大正時代の日本のオリンパス製の解剖顕微鏡です。
箱裏の墨書から大正10年9月に購入されたものであることがわかります。
高千穂製作所は大正10年よりオリンパスの商標になりますので、この顕微鏡にもその刻印が見えます。
こちらの解剖顕微鏡では、微粒子病の検査ではなく、蚕の卵やふ化直後の様子、その他蚕体器官の観察を主に行っていたのではないかと〇博調査員は考えています。蚕種屋では、卵の成熟具合を観察したり、蚕が成虫になる前に幼虫の段階で現れる斑紋を鑑別して雄雌を分けておくこともします。微粒子病の病原体を探し出す目的以外にも顕微鏡はよく利用されたのではないかと思っています。
箱裏の墨書には購入年以外にも情報が書かれていたので読んでみますと、『大正十年九月
胚子調査器求之 甲蠶館』とあります。西野の長谷部長七経営の蚕種製造販売社の名は「甲蠶館」と称していたことが判りました。
西郡(にしごおり)では、明治38年頃から煙草産業が衰退し、蚕糸業へと産業が移っていきますので、「甲蠶館」は、この時期から昭和10年頃にかけて活躍した蚕種家であったと言えると思います。
こののち昭和40年代まで西郡蚕糸業は栄えました。その萌芽期を支えた、蚕種家長谷部長七氏の道具を見出すことができ、たいへんうれしい〇博調査員です。
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