「田島搗き屋通り」を歩いてみた
こんにちは。 甲西地区の江原の浅間神社付近の湧水に発し、鮎沢、田島、和泉へと、旧四ケ村を流れる狐川は、常に水量が一定に豊富で、しかも適当な傾斜があったので、最盛期には20軒以上の水車屋が軒を並べていたそうです。
特に旧田島村には、「搗き屋通り」と呼ばれるほどの名で賑わっていた場所がありました(甲西町誌より)。
先頃、〇博調査員は、水源である浅間神社の湧水地から和泉区で用水に取水されるまでの狐川の様子をさかのぼって観てきました。
その中でも、きょうは、昭和48年発行の甲西町誌に載っていた『田島搗き屋通り』の図の辺りが現在はどうな風景になっているか?ご覧いただこうと思います。
←「田島搗き屋通り図』 甲西町誌昭和48年より
←田島搗き屋通り(右は鮎沢川)甲西町誌昭和48年より
←田島搗き屋通り・右は鮎沢川(現在の狐川)左に甲西町誌の図の⑥搗屋のあった場所 (令和3年11月10日撮影)
←田島搗き屋通り(鮎沢川と小坪川の合流地点)甲西町誌昭和48年より
←田島搗き屋通りの鮎沢川(現在名は狐川)と小坪川(現在名は東狐川)の合流地点。この辺りに⑦⑨搗屋があった。(令和3年10月28日・11月10日撮影)
←田島搗き屋通り(小坪川)甲西町誌昭和48年より
←小坪川 この上流に⑧搗屋があった。(令和3年11月10日撮影)
米麦蕎麦などの籾摺りや粉ひきに、近在の人々が足繫く通った搗き屋は、大正時代に入ると電気を動力とする「電気搗屋」が現れ、数を減らしていきますが、昭和時代までは田島区に「搗き屋通り」という呼び名が残っていたそうです。
狐川の田島区内は実際に歩いてみて、途中で中部横断自動車道で分断された付近以外は、比較的昔ながらの川筋と景観を保っているように思いました。「田島搗き屋通りの図」を片手に、かつての水車小屋の連なる風景を想像しながら、狐川の川筋を散歩してみるのも気持ちの良いコースかな?とちょっと気分が上がった〇博調査員です。
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