地方病予防溝渠(ちほうびょうよぼうこうきょ)を見つけたよ
こんにちは。
先週、甲西地区東南湖の横川と西川の間を流れるみぞの側壁を覗きながら歩いていたら、こんなプレートがついているのを5か所で発見しましたよ!
←「地方病予防溝梁銘板」
とても地味なプレートですが、〇博調査員は、ここ数年ずっと南アルプス市内にあるコンクリート溝沿いをトボトボと歩き、探し続けていました。 「あ~、ついに見つけた! やっと会えたわね!」といった感じです。
←東南湖堀切橋(令和3年11月25日):この地点で左から右へ流れる西川へ地方病予防溝渠の水が合流する。ここから地方病予防溝渠を北上すると、松岩院という寺院に至るまでに5つの地方病予防溝渠銘板をみることができる。
山梨県で地方病終息宣言が出されたのは平成8年のこと。その後25年が経ち、釜無川流域の人々があれほどまでに苦しめられた地方病の記憶を、実感を持って語る人の数はかなり少なくなってきました。しかし、こうやって先人たちの苦労を少しでも心に留めて過ごしていると、出会えるものなんですね。
私たちの暮らしのすぐそばに、まだまだかつての壮絶な地方病との戦いの痕跡が残されていることに気づきます。
←これらのプレートは、地方病の予防のために溝渠を自費でコンクリート化した際に寄付者や会社の銘を刻んだものです。
山梨で明治20年頃から「地方病」と呼ばれ始めた病は、日本住血吸虫症というのが正式名で、お腹に水がたまり死に至る恐ろしい病気でした。
その病の原因となるミヤイリガイ(宮入貝)を駆除するために、大正時代初期から様々な刹貝方法が試みられました。中でも、昭和20年代から南アルプス市(白根地区飯野)で試験的に始まった用水路のコンクリート化は、ミヤイリガイの駆除に最も大きな効果をあげました。溝をコンクリート化して直線化すると水の流れが速くなり、流れの穏やかな場所に生息するミヤイリガイを減らすことができたのです。
そのようなわけで、山梨県民は、地方病を撲滅するために、昭和時代をかけて県内の大小ほとんどすべての水路をコンクリートで塗り固めることに腐心しました。
莫大な費用の掛かる事業でしたが、昭和54年以降には新規患者は発見されなくなり、平成8年に撲滅事業が終了して、晴れて終息宣言が出され、現在に至っています。
それでは、三郡橋北交差点から三郡橋方向に少し行ったところにある堀切橋から溝渠を北上して順に見つけた地方病予防のプレートをご覧いただこうと思います。
←堀切橋近辺の地方病予防銘板のある場所
←①昭和53年度地方病予防溝渠銘板(あさひセンチュリーホテルの東のあたり(令和3年11月25日)
←②昭和53年度地方病予防溝渠銘板(株式会社プラスターの北のあたり(令和3年11月25日)
昭和53年は日本国内で地方病新規感染者の確認が(韮崎市内で)最後だった年です。
←③昭和52年度地方病予防溝渠銘板(長久寺の東に位置するあたり(令和3年11月25日)
←④昭和50年度地方病予防溝渠銘板(東南湖中宿交差点の東あたり(令和3年11月25日)
←⑤昭和50年度地方病予防溝渠銘板(松岩院の南あたり(令和3年11月25日)
現在の南アルプス市域は、山梨県内においても西高東低と言われた地方病罹患率の高い地域でしたので、甲西地区以外にもまだまだ、この「地方病予防溝渠」のプレートが見つけられるのではないかと思います。
先頃も、市民の方に見たことはないかと尋ねてみましたら、「白根地区源(みなもと)に一つあると思うよ!」との情報をいただいたので、すぐにでも確認に行こうと思っている〇博調査員です。溝が改修されるとプレートが無くなってしまう可能性もあるので、地方病との戦いの主戦場の一つ一つを丁寧に記録して、〇博アーカイブ上のマップにこれから反映させていきたいと考えています。
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