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2022年1月18日 (火)

塚原の「おしゃぶきさん」は、風邪治しの神様

あけましておめでとうございます。
Photo_20220118094901    とても寒い年明けになりましたね。 みなさまいかがお過ごしですか?

〇博調査員は本年も南アルプス市内のあちこちの隅から隅まで、てこてこ歩いていく予定ですよ。人知れず身近に転がっている、ちょっと気になる歴史トピックを見つけに行きます。

 今年もどうぞよろしくお願いいたします。

← 塚原熊野神社(2021年12月13日撮影)


 早速ですが、「甲西町の今むかし」という1995年に甲西町文化協会が発行した冊子があります。町に残る伝説や昔話を収めたものですが、その中にある、「風邪治しの神様として信仰された大きな岩」の話がずっと気になっていた〇博調査員。
実は、昨年の暮れに、ついにその「おしゃぶきさん」と呼ばれた岩の場所を探し当てることができて大変うれしかったので、新年一発目の〇博調査ご報告は、早速、この「おしゃぶきさんの岩探しレポート」をお届けいたします。


まずは、「甲西町の今むかし」より、件の話、『しゃぶきばあさん』の内容を要約しましたので、ご覧ください。

1995 ←「甲西町の今むかし」より、塚原のおしゃぶきさんの挿画

『その昔、悪い風邪が流行って塚原村の人々が苦しんでいると、働き者のおじいさんの夢に、お姫様が現れました。そして、「西の山の中腹にある大きな岩の前に葱が植えてあるの。それを持ってきて煎じて飲んでみてごらんなさい。 私の来たしるしに、岩の上に足跡を残しておくから。願い事のある時は、その足跡を小石でたたきながら祈ってね!」というような、お告げがあったそうです。
 翌朝、おじいさんが西の小高い山に登ってみると、はたして、葱の植わった大きな岩があり、足跡もありました。 そこで、夢のお告げにあったように小石でたたいてみると、木履(ポックリ)をやさしくたたいた時のようにぽこぽこと響いたのだとか。
 おじいさんは風邪が治りますようにとお祈りして、葱を持って帰って煎じて飲んでみると、三日ばかりで長く苦しんでいた風邪が良くなったので、葱を倍にしてお返ししたそうな。

 このことがだんだん広まって、お祈りする人が多くなったので、塚原村の人々は相談して岩の上に祠を立てて、岩を岩永姫(いわながひめ)の化身と信じ、秋には感謝の祭りを行っていたそうです。(「甲西町の今昔」しゃぶきばあさんの項より〇博調査員の要約)』

 この伝説を目にした五年ほど前から、甲西地区の調査の時には、必ずや、この風邪治しの神様の岩を観に行くんだと決めていました。 しかし、この伝説には岩の場所がどこにも書いていなくて、文化財課の身近な人に聞いても、当該地域周辺踏査をはじめて2日間目までに出会った住民に聞いても、「しゃぶきばあさんの石」のことを知る人に誰にも会うことができなくて、ちょっとがっかりしていました。
 でも、自分の机に戻って地図をもう一回広げて、自分の歩いた場所をマーキングして、見逃した場所をチエックすると、急坂を登った桃畑の中に気になるポイントがいくつか浮かび上がりました。
ムムッ、やる気が湧いてきた! あの沢沿いの斜面を登って見に行くぞ!さあ出発だ!ということで、やってきました、また甲西地区塚原へ。

1502  ←「大西のおかま」と、かつて地域住民に呼ばれていた「塚原上村古墳」の近くではみつからなかったので、堰野川を渡って右岸側に出て、どんどん斜面を登っていくと、ブロック塀に囲まれた何かが見えてきた!


1502-8  ←近づいていくと中に祀られている祠の屋根のようなものも見えてきました。
1502-71502-6  ←ブロック塀の際までたどり着いて中を覗きこむと、表面に足跡のようなクレーターのある巨石が、四方を囲んだ壁面の内側に「みっちりぎゅっ!」といった感じで詰まっています。時節柄、お重に詰め込まれた、さといもか、いや、数の子みたいだ。正直、巨石がかなり窮屈そうに見えてしまいましたが、この厳重な囲いようは、神様を後世も大事にして欲しいという、土地所有者の気持ちの表れだろうと理解しました。
 葱は植わっていなかったのですが、上記の伝説集のなかにあるイラストとそっくりなので、この石が風邪を治す神様として、かつてこの地域の信仰を集めた巨石であることは間違いなさそうです。

1502-10 1502-9
そして、高台にある、塚原のおしゃぶきさんからの眺めは本当に素晴らしい!! ここまでおしゃぶきさんを探して登ってきてよかった! 達成感に高揚する、〇博調査員でした。

 しばし、ここからの眺めにうっとりして水筒のお茶を飲んで寛いでいると、下の方の畑に人の動く姿を発見したので、急いで駆け下り、おしゃぶきさんについてなにかご存知か訊いてみました。
Photo_20220118095101 ←農作業中の金子さんは、〇博調査員が丘の上で見てきた石が、塚原区でかつて「おしゃぶきさん」と呼ばれていた神様であると教えてくださいました。「おしゃぶきさんの祭典日に掲げられたと伝わる幟旗を幼いころに畳まれた状態で見たことがある」そうですが、現在は残念ながら地域でお祭りなどは行っていないそうです。
「塚原のおしゃぶきさん」を間違いなく探し当てたことに太鼓判を押していただき、ますますうれしくなった〇博調査員でした。

 他に、塚原のおしゃぶきさんに関しては、落合の成妙寺にお墓のある俳人辻嵐外も句に詠んでいます。
『 「しはぶきや時雨るゝ冬の骨と皮」  塚原の里のやまかげにしたたかなる一つの岩あり。この岩は幼き者の咳そう(がいそう)を病まれつくに、「この病怠らしてん」とのいのりたらんに、かならずしもしるしのあればや。しはぶき婆となん申ふりて伝いたる。古きものがたり申伝うるなり。 岩面にいたいけなき足の形の所々にくぼまりたるも、何等のゆかりにやあるらん、あはれ年しらず古けたる咳がいのうばにこそ。』と和半紙一枚に走り書きしたものが、西落合の新津義右衛門家に遺されていたと、甲西町誌にありました。
 辻嵐外が落合に居住したのは文化2年(1805)頃から 天保12年(1841)までで、途中の信州方面への旅吟の期間を除いて、およそ32年間は甲西地区で暮らしたことになるそうなので、おしゃぶきさんは、それより前からの信仰なのでしょう。少なくとも200年以上前からの伝説ということですな。

 なお、しゃぶきばあ伝説というのは日本各地に類型があるもので、イボ病みや咳病みを癒す神としての信仰があるのですが、昭和48年刊行の町誌によると、甲西地区にはもう一カ所、大師区のどこかにあるそうです。こちらは、「葱と胡麻を備えてあるくぼみ石と尖り石ですりつぶして供え、細長い本尊の石柱を縄で結わえ、全治すればこれを解くというもの」らしいです。こちらの大師区のしゃぶきばあも、まったくまだその存在場所は不明です。だれかおしえて~。

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