「メロン玉吊りネット」を百々の民家で発見!
こんにちは。
先日、白根地区百々のあるお宅から依頼を受けて調査に伺った〇博調査員は、お蔵の外の軒下に、念願のあるものを発見!大喜びでお預かりしてきました。リアル〇博調査員をご存知の方ならば、事務室に帰ってから、その資料を手に、他の職員に小躍りしながら言いふらした光景はご想像の通りです。 ←〇博調査員念願の収蔵品「メロン玉吊りネット」
←メロン玉吊りネットの発見状況
大正14年から白根地区西野ではじまった温室メロン栽培初期の写真にも、この玉吊りネットが写っています。 ←ほら、こちらの写真で、男の子が手を添えているメロンをよーく見ると、吊るしたネットで果実を支えているのがわかるでしょう!「昭和9年西野のメロン裁判温室内(西野功刀幹浩家資料より)」
←メロン部分の拡大。「昭和9年西野のメロン裁判温室内(西野功刀幹浩家資料より)」
←収蔵資料と同じタイプの玉吊りネット(昭和2年頃・西野功刀幹浩家資料より)※こちらの実はメロンではなくスイカです。西野では昭和初期に温室メロンの他に温室スイカも出荷していた記録があります。
←出荷間近のメロンに使用した玉吊りネット(大正末~昭和初期・西野芦澤家資料より)※こちらのタイプの玉吊りネットは収蔵できていません。
大正14年からはじまった南アルプス市域のメロン栽培は、アジア太平洋戦争の戦況悪化に伴い、①働き手の減少②ぜいたく品は作りにくい情勢③温室は光って空襲の際に目印や標的になりやすいことから多くのガラスが外されて軍需工場他に供出、以上①~③のような理由でメロン栽培は急速に縮小し、途絶えました。
戦後になっても、西野以外の市内各所で昭和時代終わりころくらいまで小規模に行われるのみで、市内では、30年以上も前に消えた栽培作物です。
そのため、 かつて一時代を築いたメロン栽培ですが、その歴史を語る時には、古写真か、市内に点々とわずかに残るメロンハウスの痕跡を見ていただく他なかったのです。 ←昭和初期のメロンハウス(西野芦澤家資料より)
←市内に残るメロンハウスの痕跡(平成31年2月13日撮影・白根地区飯野・有野)※木製の骨組みにのビニールハウスであったら、かつてメロンハウスであった確率が高いです。木製のフレームにガラスが嵌められたものであれば、まず間違いなく正解だと思います。
←西野のメロン(西野功刀幹浩家資料より)
今回、展示しやすく、館内ですぐにご覧いただくことが可能な、メロン栽培用器具が、市内のお宅に多数残されていたことが判り、また、所有者の方が快く寄贈してくださいましたことに、重ねて感謝の気持ちでいっぱいです。 ありがとうございました。
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