« 豊国民学校の子供たちが満州に軍事郵便で送った葉書 | トップページ | 西野果実郷の父・小野要三郎直筆の手紙 »

2022年7月26日 (火)

にしごおりの人も愛した甲府の雛問屋「松榮斎 松米」

こんにちは
毎年、2月の初め頃から、収蔵資料の雛人形を重要文化財安藤家住宅に展示しています。 この企画の準備作業は、手足どころか足腰も凍りそうなとても寒いさむーい1月下旬から始めるのですが、江戸時代から昭和初期に製作された300躰以上の人形たちのコンディションに気を配りつつ、限られた時間で見栄えよく配置するのは容易ではなく、個人的に寒中修行!と呼んでいます。しかし、そのような厳しい作業の中にも、心がわくわくするような気づきや発見が必ずあるので、大好きな作業でもあります。 
というのも、人形だけでなく、収蔵時に入っていた紙箱や木箱、人形を包んでいた紙や掛け紙も丁寧に扱って、埃を払ったりしわを伸ばしてみたら、まるでご褒美のように新しい情報をもらえるからです。


たとえばこちら、
2_20220726133101
→甲府の雛問屋「松米」の引札(広告チラシ)『美術 雛人形 幷ニ雛道具各種 甲府八日町 松榮斎松米商店 電話四十六 振替二百三十二番』 (南アルプス市文化財課所蔵)
箱の底の角っこで丸まっていた紙をひろげたみたら、買い求めた人形屋さんの引札(チラシ)のようなものがでてきました。もしかしたら掛け紙かもしれません。
甲府の雛問屋「松米」は、江戸時代中期から昭和戦前まで甲府で雛人形や端午の節句飾り、だるまなどを製作して販売した「松城屋」という屋号の雛問屋です。初代から明治の10年代以前は店の通称を「松伝」と名乗っていました。

 ここで、この松城屋(松伝・松米)を含め、甲府の雛問屋について、調べておきましょう。

 江戸時代から明治、大正・昭和期に存在した甲府の雛問屋は「おかぶと(カナカンブツ)」「横沢びな」「甲州ダルマ」といった独特の在地の節句飾りや雛、玩具を生み出してきました。

甲府の雛問屋の存在を知る手掛かりとなる文献資料は、江戸時代末から明治期、さらに昭和時代のものに、7点見つけることができました。
文献
①文政10年(1827)「諸国道中商人鑑」竹中半兵衛(甲州文庫)→掲載問屋:美濃屋清右衛門
②嘉永6年(1852)「雛問屋差縺一件訴状内済証文」(甲州文庫)→掲載問屋:松城屋太郎右衛門・松城屋伝兵衛・井筒屋八右衛門・美濃屋清右衛門
③嘉永7年(1854)「甲府買物独案内」伊勢屋宗助(甲州文庫)→掲載問屋:松城屋太郎右衛門・松城屋伝兵衛・井筒屋八右衛門
④明治5年10月(1872)「甲府買物独案内」伊勢屋宗助(国立国会図書館・甲州文庫)→掲載問屋:松城屋太郎右衛門・松城屋伝兵衛・井筒屋八右衛門
⑤明治18年2月(1885)「山梨甲府各家商業便覧」大塚宗七編(国立国会図書館)→掲載問屋:松城屋松本米兵衛・井筒屋武井八右衛門
⑥明治22年3月(1889)「峡中広告集・御誂御家名入団扇無比廉価調製広告」(甲州文庫)→掲載問屋:松城屋甲府市三日町九番地松本米兵衛の店
⑦昭和47年(1972)「やまなしの民俗」上野晴朗著 (甲府雛問屋等に関する考察文献)→掲載問屋:松城屋太郎右衛門・松城屋伝右衛門伝兵衛米兵衛・井筒屋八右衛門・美濃屋清右衛門

 特に、上記文献②嘉永六年(1852)「雛問屋差縺一件訴状内済証文」(甲州文庫)の内容により、甲府には江戸時代の嘉永6年当時、4軒の雛問屋が存在したことが判ります。
それは、1松城屋太郎右衛門 2美濃屋清右衛門 3松城屋伝兵衛 4井筒屋八右衛門 の4軒であり、これらの消息をさらに拾ってみていくと、明治時代に入ったあたりで、1松城屋太郎右衛門 2美濃屋清右衛門 の店が廃業したようです。そして、大正期・昭和期まで存続したのは、3松城屋伝兵衛(米兵衛)と、4井筒屋八右衛門の2店でした。

 「松伝」・「松米」という通称を持った「松城屋」の店の場所については、江戸中期の初代より甲府横沢町にありましたが、明治期に入って、火事によりいったん柳町一丁目に移転したようです(上記文献⑦より)、その後、明治5年から16年の間に代替わりして「松米」と改称して三日町一丁目九番地に店を出し、さらに、明治24年頃から八日町一丁目に移転したことが、上記①~⑦の資料を総合的に見て判りました。
 したがって、文頭でご紹介した八日町と記載のある松米のチラシは、明治24年頃以降に使用されたものだと考えられます。

では、7点の文献中、誰でも簡単に見ることのできる、国立国会図書館のデジタルコレクションから探した、「松城屋」の資料をみてください。
Photo_20220726133203←④明治5年10月(1872)「甲府買物独案内・ひの頁」(国立国会図書館デジタルコレクションより)
右から『横沢町 ヤマに太 松城屋太郎右衛門』『横沢町 ヤマにマ 松城屋伝兵衛』『下一条町 イゲタに八 井筒屋八右衛門』
Photo_20220726133201
←⑤明治18年2月(1885)「山梨甲府各家商業便覧・松本米兵衛店の頁」大塚宗七編(国立国会図書館デジタルコレクションより)『雛人形翫物問屋松本 まつしろや ヤマにマ 松城屋 大黒種問屋 義太夫抜本 くどき唄本 諸祭典道具類 祭典燈篭類 御誂御注文次第 雛人形類 萬翫物類 白張提灯問屋 絵ぞうし横笛品々 三日町九番地 松本米兵衛店』 :雛人形や翫物(おもちゃ)の他に、お祭りの道具、絵草紙などの印刷物など、節句・祭り・趣味の用品など幅広い品ぞろえだったことが判ります。
Photo_20220726133202
←⑤明治18年2月(1885)「山梨甲府各家商業便覧・井筒屋八右衛門店の頁」大塚宗七編(国立国会図書館デジタルコレクション)『いつつや イゲタに八 井筒屋 翫物類 雛人形問屋 大黒種おろし  際物類 宮嶋物 塗物類品々  絵ぞうし うた本品々 下一条町 武井八右衛門』 

 甲府城下町伝統の雛問屋として昭和期まで存続した松城屋(松米)と井筒屋(井八)の明治18年当時の販売品目を見ると、際物とよばれる節句飾りや季節の縁起物の他、娯楽読み物など、だいたい同じような品揃えで、雛人形だけを売っていたわけではないようですね。いまも甲府にあったら、是非行ってみたいようなお店なんですよね~。

 残念ながら、井八商店と呼ばれた井筒屋の包紙や箱は、南アルプス市の収蔵資料中からはまだ発見していないのですが、「松米」のものは、最初にご紹介したチラシの他にいくつか見つけました。
Dsc_0834→人形の木箱に貼られた『松榮斎 松米作』のラベル (南アルプス市文化財課所蔵)

Dsc_0806 M4555

 

→男女一対の内裏雛の入った箱の表ラベル『松榮斎 松米作 印」(南アルプス市文化財課所蔵)
Dsc_0807 512→雛人形の底に貼られた『松榮斎 松米製』のシール(南アルプス市文化財課所蔵)

これらのラベルには、上記①~⑦の資料には記載されていない『松榮斎』という斎号が入っています。「松米」の抱える職人たちが所属する工房の名称でしょうか? 

 

 以前、「松米」の御子孫である松本さんという方が、横沢びなを展示した際に見に来てくださり、(平成27年頃に中央市豊富郷土資料館で)偶然お会いしてお話を伺ったことがあります。松米という屋号の雛問屋は戦前までに廃業し、松本家は大正7年頃から甲府の中心街で「富士館」という映画館(三日町拾番地)も経営されたようです。文献⑦で上野晴朗氏が聞き取り調査を行った松本きみさんのことを「きみおばあさん」と確か呼んでおられたこと、甲府空襲で松本家が保有していた横沢びな等の雛問屋の資料はすべて焼失してしまったことを教えていただいた記憶があります。まだ私自身が甲府の雛問屋について勉強不足で、ご先祖の家業であった雛問屋の情報を求めていらした期待に応えられなかったのが心残りで居ります。

 甲州独特の節句飾りを江戸時代に作り上げ、明治・大正・昭和初期とその文化を発信した松城屋・井筒屋のことはこれからも大事に調べていこうと思います。いつかまた、あの松本さんにもう一度お会いして、松米製作のお人形がにしごおりの人々にもとても愛されていたこと、そして、それらのお人形を南アルプス市文化財課で多数保有していること等について、お話しできたらいいのになぁとつくづく思うこの頃です。

« 豊国民学校の子供たちが満州に軍事郵便で送った葉書 | トップページ | 西野果実郷の父・小野要三郎直筆の手紙 »

オーラルヒストリー」カテゴリの記事

○博日誌」カテゴリの記事