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2022年9月15日 (木)

瞽女(ごぜ)座元印札

こんにちは。
〇博調査で、白根地区西野で江戸時代に名主を務めたお宅の文献目録を作っていましたら、甲府の「瞽女」の資料が2点みつかりました。
002img20220914_13105977       ←「瞽女座元印札(横近習町組・飯田新町組)」 慶応4年戊辰9月(1868)(西野功刀幹浩家資料I-13-0-17-15・南アルプス市文化財課蔵)
 この印札はいったい何に使われたのでしょうか?

「瞽女」と書くこの字は、「ごぜ」と読みます。瞽女は、ちょうど手元にあった広辞苑第二版を開くと、『三味線を弾き、唄を歌いなどして銭を乞う盲の女』とあります。「座元」とは元締め、或はまとめ役のことです。


この慶応4年の瞽女座元印札は、縦長の紙が二つ折りにされていて、二つの組の座元の印札が組み合わさったものです。したがって、よく見ると、2つの印影は異なっています。一つは「飯田新町組」、もう片方は、年代のみの記載であるために組名がこの資料だけでは不明です。

002img20220914_13123559 002img20220914_13120947 ←よく見ると、2つの印影は異なっています。

 それでは次に、同じ功刀家資料の中にあったもう一つの瞽女資料を見てみましょう。
002img20220914_13055414←「瞽女座元印札与置ニ付(横近習町瞽女座元)」文久2年戌2月(1862)(西野功刀幹浩家資料I-13-0-17-14・南アルプス市文化財課蔵)

『乍恐以書付奉御届申上候
 近来座元に無届之他国瞽女、御村内へ
 乱に入込、渡世仕、御助成多分之事故
 中には格別御立腹之御村方も有之
 如何様にも取締仕度、依之一同相談仕、
 此度左之座元印札与置候間、其札持参之
 組江御宿乍御役介被下置候様奉願
 上候已上
         甲府
文久二年    横近習町
  戌二月 日   座元


 御名主様               』

002img20220914_13065767「瞽女座元印札与置ニ付」文久2年戌2月(1862)(西野功刀幹浩家資料I-13-0-17-14・南アルプス市文化財課蔵)

 こちらの資料は、江戸時代に甲府横近習町にあった瞽女の組(集団)をまとめていた座元が、地元の組に所属する瞽女であると照合するための印札の発行について、村の名主へ説明する内容の手紙です。
 内容をかいつまんで読んでみると、「近頃、甲州以外の他国からの瞽女が入り込むため取締りたいので、この書状にある印と同じ印札を持参した組の瞽女のみを、泊まらせたりお世話していただきたくお願いします。」といった内容だと思います。こちらの送り主は甲府の横近習町組の座元です。

 以上2点の資料の情報を踏まえて、次に、甲府の瞽女についての記述を探して、その実態をもう少し詳しく探ってみます。

P1130381 参考文献:
①「裏見寒話巻之四」1754宝暦4年 野田成方 「甲斐志料集成三 地理部2」1933昭和8年 甲斐志料刊行会・大和屋書店収載版
②「裏見寒話巻之四」1754宝暦4年 野田成方 「甲斐叢書第6巻」1974年 甲斐叢書刊行会編・第一書房収載版
③「甲斐国志巻之百一 人物部附録」 「大日本地誌体系第47巻」 1972年 雄山閣収載版
④「甲斐の落葉」山中共古 有峰堂1975 上巻p:46
⑤「瞽女うた」2014年 ジェラルド・グローマー 岩波新書
⑥「角川日本地名大辞典19山梨県」昭和59年

①②「裏見寒話」には、
『瞽女 配当 横近習町 飯田新町にあり。郭内等へも入来る事あり。』
『配当盲女 横近習町飯田新町等に在り、里俗之を瞽女といふ、唄を歌ふて銭米を乞、夜に至れは、行先の名主に就て泊るを例とす』

③「甲斐国志」には、
『瞽女 府中に居を座元と云う。近習町に一組、飯田新町と云う処に一組あり。夏秋毎に猿貫して州中の村里を廻り、絃歌を以て米銭を乞う物なり。』

④「甲斐の落葉」には、
 『盲女ノ年頭 維新前甲府ノ盲女奉公其他ノ役場へ年始ニ参ルニ盲女ノ頭大門ヨリ玄関ニ到りベニカワ ヲカン年頭申上マスト言ヒ置キ帰ルコトトスこの盲女ノ頭ノ名紅川オカントイフ名ニハアラズ唯此名ヲ申テ年始に来ルナリシト今ハ此事絶たり ベニカワオカンノ名詳ナラズ』

⑤「瞽女うた」には、
『明治六年(1873)五月二日、山梨県は瞽女家業の禁止を命じた(山梨県史第三巻)・・・・それまでは、法令によって、「取締(座元)」に統率される仲間が甲府の横近習町に存在した。瞽女組織は県内の女性視障者を貰い受け弟子にし、「なりものうた(絃歌)」を教え、村々を「たちまわり(徘徊)」させた。やがて米銭を乞う生業となり、当時の人員は二百五十人。失明した娘を瞽女に預けなければ、その家の他の子供も失明するという俗信があり、視力を失った女子はかならず瞽女仲間に加入させられた。・・・・』

⑥「角川日本地名大辞典19山梨県」昭和59年
横近習町の項 『甲府城下下府中・・・瞽女1組があり、慶応4年町内居住瞽女は157人であった。・・・昭和39年中央1~5町目の一部となる』
飯田新町の項『甲府城下西南端の西青沼町から西へ家続きに位置し、甲州街道に沿って立地する。・・・瞽女が町内に一組いた。』

 以上、甲府の瞽女たちについてまとめると、
 江戸時代には、飯田新町と横近習町に、それぞれ「組」と呼ばれる瞽女集団をつくって住んでおり、この二つの集団を束ねるものは「座元」と呼ばれました。このような瞽女たちの集団は、幕府が認めた組織として存在し、視覚障碍を持つ女性たちの生きる場所のひとつであったということです。瞽女たちは『猿貫して(連なって歩いて)』甲州中の村里に行き、三味線を弾きながら唄をうたって村人を愉しませ、米や銭を稼ぎました。そして、各村の名主家では、瞽女たちが来たならば接待して世話し、泊めることもありました。
 瞽女たちは郭内(甲府城内)にも入り込んで、新年などは役場に年始に行ったとあります。
 明治6年になると、瞽女家業は禁止となりましたが、当時(明治初期)の瞽女集団の人員は250人であったとのこと。慶応4年時点では、横近習町だけで157人いたということですから、飯田新町には100人ほどの瞽女が住んでいたということですね。
 明治6年以降、座元は解体となり、女たちは実家や親類の家に戻されたようです。上記参考文献の⑤「瞽女うた」では、山梨県では『旧籍の村に送る多額の公費が捻出されていた(山梨県史第3巻)』との記述があることを紹介していますが、『(明治6年に)瞽女に「盲児を遣ハす事」は禁じられ、瞽女はそれぞれの生家に帰籍させられた。・・・・こうして二世紀以上存続した甲府の瞽女仲間組織は解体された。』とあります。

 今回は、白根地区西野で見つかった、名主家と瞽女集団との関係を表す資料2点をご覧いただきました。
江戸時代に、甲府の横近習町や飯田新町から、前を歩く人の着衣の一部や紐を持ったりして連なって歩き、釜無川を渡って、西ごおりの村々を訪れた瞽女たち。
 まずは各村の名主宅に件の印札をもって挨拶をし、村人を集めてもらって、芸を披露していたのでしょう。さらに、各村の名主宅は瞽女たちの宿泊や休憩の場所となり、食事を供されることもあったと考えられます。
 もしかしたら、瞽女たちの中には、年に何回か、父母や兄弟の住む実家のある村を訪れることを、楽しみにしていたものもあったかもしれません。村人たちもまた、忙しい労働の合間の数少ない娯楽として、瞽女たちの定期的な来訪を心待ちにしていたことでしょう。村の経費が、瞽女の芸の対価としての米や金銭(配当)・接待に使用されることに、江戸時代の社会では何の矛盾もなかったのだと推察されます。甲州での瞽女の座元組織が、社会保障的な役割の一部も担っていた側面が見えてきます。


 今後の〇博調査では、南アルプス市域にのこる日記や村の支出などの古文献に、甲府の瞽女との係わりを見出すことで、例えば、年に何回位どの時期に何人くらいの集団で来ていたのか? 各村の経費の中にどのくらい瞽女さんたちへの支払いがあったか?さらに、どんな唄や芸を披露していたかなどの情報が将来的に蓄積できればいいなぁと思いました。

 また、「甲斐の落葉」に記されている『ベニカワオカン』という文言が本当は何と言っていたのか?気になるので、つきとめたいですね!

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