火の用心!「明治38年南湖村大火災後実況」
こんにちは。
師走に入り、冷たく乾燥した八ヶ岳おろしが吹き始めましたね。火の用心の季節のはじまりです。
今日は、文化財課で収蔵している明治時代の写真に、甲西地区で起きた大火災に関するものがありましたので、ご紹介しようと思います。
←「明治三十八年一月二十四日夜 南湖村字東南湖大火災後ノ実況 同二月二日記念撮影」(南アルプス市文化財課所蔵)
冷たい風を避けるように、子供たちが焼け残った建物の壁に張り付くように立っているのが印象的な写真です。人々がまだ皆、和服を着ています。綿入れの上着を着ていても、二月にこの程度の着衣で屋外にいては、寒いでしょうね。風やほこり対策なのか、ほっかむりをしている大人もいますね。
火災後9日目くらいの撮影ですが、焼け残った木材などが積み上げられて、だいぶ片付けも進んでいるよう状況にみえます。 ←さらに目を凝らして画像をよく見ると、建物がすっかり焼け落ちてなくなってしまった場所に、看板のような板が立てられています。
←おそらく、所有者の名前や現在の居場所などが記されているのではなかろうかと想像できます。
焼け落ちた家を早々に片づけてすぐに復興への作業を自分たちで行っている様子が見て取れて、悲惨な状況の中にも先人たちの生命力の強さが感じられます。
明治38年(1905)1月は今から117年前で、ちょうど日露戦争の真っ最中に起きた火災で、甲西町誌(昭和48年刊)には、『東南湖八幡神社南方東西両側ともあわせて87軒焼失。』とあります。また、『明治三十八年の東南湖の火災には、甲斐新聞の募集その他によって、1257円54銭の救助金が寄せられ』たとの記述もありました。この画像は甲西町誌にも同じものが載せられており、もしかしたらその新聞報道の際にも使用されたものかもしれませんね。
昨年、この東南湖の大火災のあった辺りである、河内路沿いの八幡神社南方面を踏査して撮った写真がありましたので、117年後の現地周辺を見てみましょう。 ←「河内路西側にある東南湖八幡宮前」:鳥居の右(北)には東南湖の公民館、左(南)には南湖駐在所が建っています。ここより南(左)方面が明治38年の焼失地域になるのですね。 当然のことながら、現在は写真の状況を想像させる面影は残っていません。
←「東南湖八幡宮の御輿と神鈴」を紹介する看板(令和3年11月撮影)
←明治38年の大火災で焼失した地域の現在。河内路南方面
←明治38年の大火災で焼失した地域の現在。河内路北方面
この後、東南湖は大正元年(1912)にも15戸が焼失する大火事があったようですが、その後の大火の記録は甲西町誌にはありませんでした。
←明治38年の火事の北端となる現在の東南湖公会堂前交差点にある火の見櫓。
現地には明治の大火災の痕跡は当然なく、平和な街並みでした。しかし、残念ながら令和の世になっても火事は避けられない災害ですので、最小限に被害を食い止めようと市内各区ごとに住民による消防団が組織され、地域の安心と安全を守る役割を果たしています。今冬も火事を出さないように気を付けていきたいですね。〇博的には、今後、市内各地に残る消防団の古記録も紹介していきたなと思いました。
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