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2023年3月22日 (水)

山梨県立農民道場機山寮

12-1 ←昭和12年山梨農民道場機山寮アルバム(飯野中澤家資料より・南アルプス市文化財課所蔵)
 こんにちは。
 今年度収蔵した資料の中に「昭和12年山梨県立農民道場機山寮」のアルバムというのがあります。白根地区飯野2区のお宅の倉庫から見つかった昭和初期の古写真群中に入っていたものですので、おそらく、このお宅で生まれ育ったどなたかが、この農民道場1期生の修練生であったと思います。

 さて、このアルバム内の写真が撮影された昭和初期の時代背景から調べてみましょう。
 まず、昭和4年にアメリカで起きた世界恐慌は昭和5~6年以降、日本経済に深刻な影響を及ぼしていました。繭と米の二本柱で成り立っていた日本経済にとって、生糸の最大輸出国であるアメリカへの輸出量の大幅減による打撃に加え、昭和5年の豊作による米価下落、続く翌昭和6年の大凶作は危機的で、深刻な農村疲弊を招きました。


 このような昭和初期の農業恐慌を契機に農村更生運動の一環として全国各地に設置されたのが、「農民道場」とよばれた修練場です。 農民道場は昭和9年より、当時の農林省が農村中堅人物の養成を目指して設立した教育施設がはじまりで、徹底した心身鍛錬を主目的としていました。

 山梨県においても、まだ念場ケ原と呼ばれていた原野だった清里に、昭和12年5月17日「山梨県立農民学校機山寮」が創立されました。
 アルバムの中の画像にある「山梨県立農民道場機山寮」については、国立国会図書館デジタルコレクションでみられる『昭和14年6月 農山漁村中堅人物養成施設に関する調査 修練農場・漁村修練場・山村修練場 農林省経済更生部』という資料にその実態のわかる記述がありました。その内容と照らし合わせながら、清里村八ヶ岳周辺山麓にあった「山梨県立農民道場機山寮」の画像を見ていきたいと思います。
12-3 ←昭和12年山梨農民道場機山寮アルバムより(飯野中澤家資料より・南アルプス市文化財課所蔵)昭和12年5月17日に創立された「山梨県立農民道場機山寮」は、所在地が山梨県北巨摩郡清里村とあります。おそろいの制服があったようですね。

12-4 ←昭和12年山梨農民道場機山寮アルバムより(飯野中澤家資料より・南アルプス市文化財課所蔵) 修練生20名の入場資格は『17歳以上の男子ニシテ身体強健堅実ナル者タルヲ要ス』とあります。ちょうど20名全員そろっての体操風景でしょうか。

12-5 12-6 ←昭和12年山梨農民道場機山寮アルバムより(飯野中澤家資料より・南アルプス市文化財課所蔵) 修練方法として、『職員修練生一心同体寝食ヲ共ニシ念場ケ原處女地五拾町歩ニ道場ノ建設ヲ行フト同時ニ  一神社参拝 二農業労務 三日本古来ノ武道 等ヲ通シテ建国ノ精神ニ則リ皇国農民ノ使命ヲ体験シ其ノ本分ニ邁進セムトス』昭和初期の時代背景がよく表れた修練方針ですね。

 12-7 12-8 ←昭和12年山梨農民道場機山寮アルバムより(飯野中澤家資料より・南アルプス市文化財課所蔵) 機山寮の寄宿舎と建設中の建物。修練生は4月から3月末日までの1年間が修練期間ですので、この60坪の寄宿舎で寝泊まりしたのでしょう。
 修練生には毎月手当を支給されますが、食費に充てることになっていたようです。その代わり授業料宿舎費などは不要でした。

12-9 ←昭和12年山梨農民道場機山寮アルバムより(飯野中澤家資料より・南アルプス市文化財課所蔵) 修練生自ら当時、念場ケ原といわれた清里を開墾し、このような農場をつくっていったのですね。ちょうど同じころ、この周辺地にポールラッシュによって現在の清泉寮も建設されています。

12-10 ←昭和12年山梨農民道場機山寮アルバムより(飯野中澤家資料より・南アルプス市文化財課所蔵) 「製炭実習」

12-11 ←昭和12年山梨農民道場機山寮アルバムより(飯野中澤家資料より・南アルプス市文化財課所蔵) 11月には伊勢神宮方面に修学旅行に出かけたようですね。

12-12 ←昭和12年山梨農民道場機山寮アルバムより(飯野中澤家資料より・南アルプス市文化財課所蔵) 自分たちが建設した道場の中で撮った写真でしょうか?この場所は倉庫なのか畜舎なのかはわかりませんが、足元が泥で、長靴を皆で履いているのがわかります。

12-22 12-23 ←昭和12年山梨農民道場機山寮アルバムより(飯野中澤家資料より・南アルプス市文化財課所蔵) 「清里駅、小海線を走る機関車、学校周辺から見える富士山や赤岳などの山々の風景」昭和8年に小海線の清里駅が開業していました

 このアルバムには、農民道場機山寮1期生のナカザワヒトシさんの名が、ローマ字で記名してありました。
写真を撮ったのは、昭和12年11月から昭和13年3月末日までと記されています。 驚くべきことに、昭和12年といえば、清里高原の入植による開拓が本格的に行われる前年のことです。まったくの未開原野を18歳20名の修練生と教員数名で原野の開墾に挑戦したということです。すごいことですよね!!


 八ヶ岳開墾事務所所長安池興男氏が貢献した丹波山村28戸入植、ポール・ラッシュ氏による清泉寮建設などの清里高原開拓が本格的に始まるのは、この機山寮の1期生が巣立った直後の昭和13年春からのことです。 残念ながら、この農民学校がいつまで開校していたかは、よくわかりません(3期生までは確実に存在していた記録はありますが・・・)。しかし、この昭和12年の農民道場のアルバムの存在を確認できたことで、「山梨の北海道」といわれた清里の、その開拓史における最も早い時期に、山梨県内各地から集まった農民道場機山寮の若者20名と教師たちがいたことを知りました。

 一年間、過酷な開拓生活を成し遂げ、清里の地に学校の校舎まで建設した山梨農民学校機山寮の若者たちの精悍な顔つきから、その後、生まれた地域に戻って立派な農村中堅人物となったことが想像できます。しかし、昭和13年には18か19歳となる人たちであったということは、その後否応なく戦争に巻き込まれていたはずです。20名のうちほとんどの人が戦地に行ったかもしれないですね。このアルバムに写る機山寮の若者たちがこの後、どのような人生をたどったのか?気になるところです。しかし、寄贈くださった飯野中澤家にも、アルバムの持ち主であったナカザワヒトシ氏のことを知る人は、もういないようです。

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