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2023年8月

2023年8月31日 (木)

戦時の女性たち(大日本国防婦人会と防火訓練)

こんにちは。
収蔵資料に「大日本国防婦人会」の襷(たすき)やこの白い襷をかけた女性たちの記念写真があります。

6_20230831105801 ←「モンペに割烹着、大日本国防婦人会の白襷をかけた西野村功刀の婦人たち(昭和15年頃)」(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市文化財課蔵)

 大日本国防婦人会というのは、昭和7年(1932)に大阪から発祥した戦争協力団体の一つです。「国防は台所から」というスローガンのもと、会員たちは出征軍人の駅などでの見送りや退役軍人の出迎え、遺骨の出迎え、戦地への慰問袋の製作などの奉仕活動のほか、食糧増産のための勤労、本土空襲に備えた防火訓練、国防献金運動にも動員されました。

Dsc_0315_20230831105801 ←大日本国防婦人会の襷(南アルプス市文化財課蔵)

Photo_20230831105802 ←「かっぽうぎに大日本国防婦人会の襷を掛けた夫人(昭和10~15年頃撮影)」(西野中込家資料・個人蔵)

 当時は、一般の家庭婦人が会員である「大日本国防婦人会」とは別に、明治34年から皇族や華族を中心に設立されていた「愛国婦人会」という組織も存在していましたが、昭和17年(1942)に「大日本婦人会」として一つに統合されました。その後は、20歳以下の未婚者を除く全婦人を強制的に加入させることで、女性の戦争協力への動員が徹底的に図られるようになるのです。

6_20230831105802 ←「モンペに割烹着、大日本国防婦人会の白襷をかけた西野村功刀の女性たち(昭和15年頃)」(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市文化財課蔵)空地を犂で耕して農地にする勤労奉仕活動であろう。西野功刀家資料には、戦争の悪化により国内の物資が不足したため、航空機の潤滑用オイルとして蓖麻(ひまし油の原料)を生産が行われたことを示す文書も残されている。

 戦争末期になると強制的加入となっていった婦人会ですが、一方で、それまで各家庭の中だけにしか活躍の場のなかった女性たちが、戦争協力としての役目を負わされたことで、一個人として社会とのつながりを認められたと感じることもあったようです。
  割烹着に大日本国防婦人会の襷をかけ、記念撮影する女性の表情に、かすかな誇らしさを感じるのはそのような理由があったのではないかと思います。揃いの割烹着と襷を身にまとい、勤労奉仕をする女性たちの表情に悲壮感が無く、皆晴れやかで明るいのにも納得できるような気がします。
 日本における戦後昭和以降の女性の社会進出において、彼女たちが戦時の婦人会で行った様々な活動経験が生かされたという見解もあるようです。 

また他に、〇博調査員が各地区でよく見かける、戦時中の女性の姿として印象的な資料は、「防火訓練」の写真です。

Img20180309_11353337 ←「榎原区での防火訓練(昭和17~20年頃撮影)」(八田榎原杉山家資料・個人蔵)

Photo_20230831105801 ←「池之端家庭防火群ノ張切ノ姿 ・・・(昭和17~20年頃撮影)」(西野中込家資料・個人蔵)

No37-1619 ←「飯野区での婦人会による防火演習(昭和16~19年頃)」(写真集「夢ー21世紀への伝言ーふるさと白根100年の回想」平成13年白根町発行 より)

各地区で意識的に記録として撮影されたようで、男性陣が指導監視する?中、防空頭巾などをかぶった女性たちがカメラ目線でバケツリレーする独特な構図の写真をよく見ます。女性も社会の一員として銃後の守りを遂行すべく防火訓練に励んでいる姿を記録、アピールしたものなのでしょう。

2023年8月25日 (金)

奉公袋を持つ出征兵とその家族

こんにちは。
〇博調査でいままでに収蔵した資料を日々整理していていますと、昭和時代の戦争に関するモノや画像は、まとまった量で集成されていることを実感します。 70年以上も続く戦争のない日常生活を送ってきた大半の市民にとっても、戦争という人類にとって最大級にネガティブな事象の記憶を示すモノには、容易に処分できない畏怖のような感情が生じ、特別に引き継がれたものが多いからだと思います。
 今日はそのような戦争資料のひとつ、奉公袋をご紹介したいと思います。
 まずは、櫛形地区上今井で今から80年ほど前に撮影された出征の時の家族写真をご覧ください。
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←出征記念の写真:中央の出征兵は奉公袋を抱えている。(上今井五味家資料 南アルプス市文化財課蔵)

 真ん中に写る出征する男性が大事そうに奉公袋を持っています。この袋は、中身がパンパンに詰まって膨らんでいる様子がわかりますね。
袋の中にこれからの陸軍生活で必要な荷物を全部入れて、この写真が撮影された直後に旅立っていったのでしょう。奉公袋の中に何を入れていたのか気になりますね?
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←奉公袋:陸軍の兵隊が必需品を入れていた袋。中には、軍隊手帳、召集令状、貯金通帳などが入れられた。海軍の場合は応召袋といった。(南アルプス市文化財課蔵)

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←奉公袋の裏側にあるプリント (南アルプス市文化財課蔵)

『応召ノ場合ニ携行スル品 一、軍隊手帳 勲章 徽章 適任証書 卒業証書 修行証書 印章  二、貯金通帳 三、私服結束用風呂敷及木札(住所氏名ヲ記入シタルモノ) 四、応召旅行用必要品及日用品』 在郷軍人は常にこれらを用意しておいたのだといいます。
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←収蔵資料の奉公袋の中に入れられていたもの。(南アルプス市文化財課蔵)

 住所氏名の記されたひも付きの木札は何のために入れていたのだろうかと以前から不思議に思っていたのですが、私服結束用に使用されたのですね。奉公袋裏の記載を読んでみてやっと謎が解けた〇博調査員です。

Sk0120230822_16321453 ←軍隊手帳:陸海軍の下士官・兵に公布された手帳。(南アルプス市文化財課蔵)
Sk0120230822_16300840 Sk0120230822_16291586  ←冒頭には軍人勅諭(天皇から軍人への言葉)が記され、陸軍では暗記するように言われた。(南アルプス市文化財課蔵)
Sk0120230822_16223740 ←奉公袋の中にあった『召集令状受領後入隊迄ノ日華業務予定表』(南アルプス市文化財課蔵)
 召集令状を受領した翌日には遺書まで書いて家事整理し、翌々日には出発入隊しなければならないという非常にタイトな時間割ですね。 赤紙が家に届いてから入隊するまで、こんなにも時間が無かったなんて知りませんでした。

出征壮行の家族写真には資料の訪問調査等でお目にかかることの多い〇博調査員ですが、日常生活での最低限の引継ぎ連絡だけで精一杯のような制限時間の中、急な知らせに駆け付けた家族親族たちとたいへん慌ただしい状況の中で撮影されたものだったのだと、はじめて理解できました。別れの言葉をゆっくり交わす暇などなかったでしょうに。

残念ながら、写真の出征兵についてその後の情報を得ることはできていませんが、一緒に写るご家族ともども、幸せな戦後昭和をお過ごしになっていたらいいなぁと思いました。

 

2023年8月22日 (火)

「スパイ御用心」戦争中の燐寸(マッチ)

こんにちは。
 昭和時代に生活必需品だったマッチを収蔵資料の中からご覧いただきます。
Dsc_0309_20230822105701 ←「スパイ御用心 書類手紙御用心 職場乗物御用 防諜」 二等品 志摩燐寸製造所(南アルプス市文化財課蔵)
 マッチは簡単に着火するための道具です。1800年代にイギリスで発明されたのち、マッチ箱の側面に薬剤を塗布してマッチを擦りつけて点火する形態のものがスウェーデンで生み出されます。
 日本では、清水誠という人がフランスでマッチ製造技術を学び、明治8年(1875)に東京に新燧社(しんすいしゃ)を設立して国産マッチの本格的な製造を始めたそうです。その後の明治大正期には、スウェーデン、アメリカと並ぶマッチ生産輸出国へと発展しました。
 ところで、マッチが使われる以前には、付木という火をつける道具もありました。
Dsc_0317_20230822105801 ←「付木(つけぎ)(南アルプス市文化財課蔵)」:薄い木片の先に硫黄を塗りつけたもので、火を他に移す時に使う。大正時代にマッチが普及すると使われなくなった。

Dsc_0314 ←「聖戦完遂 国策実践 共販燐寸 日本共販会社制定」 小嶋燐寸製造所(南アルプス市文化財課蔵)

 共販燐寸とは、マッチ業界の安定のため、昭和11年(1936)12月に設立された日本燐寸共販株式会社によって供給されたマッチだそうです。日本燐寸工業組合が統制事業の一環として組合員の製品を買上げ、共販会社に売り渡したものを地方販売会社が購入して消費者に売るもので、その後戦時のマッチ配給統制へとつながる仕組みとなりました。

 戦争の長期化により、とうとう昭和15年(1940)「マッチ配給統制規則」が公布。不足する生活必需品を国が確保し、集中させることなく全体にいきわたらせることを目的として配給制度が実施され、マッチは配給品となりました。
Dsc_0312_20230822105701 ←「一人一人が防諜戦士」二等品 志摩燐寸製造所 (南アルプス市文化財課蔵)

Dsc_0310 ←「逃がすなスパイ 防諜 漏らすな機密」二等品 志摩燐寸製造所(南アルプス市文化財課蔵)

これらの4点の燐寸資料をご寄贈くださったのは都留市にお住まいの方ですが、戦時中ご自宅の倉庫が配給所であったそうで、この資料は終戦、配給制度終了までに配りきれなかったものの残りが保管されていたのだそうです。

 今回ご紹介したマッチは、いずれも、昭和15年頃から20年までに製造された戦時配給品時の広告デザインがほどこされています。 一般市民にまで日常的にスパイに注意することを求めていて、いまを生きる私たちにはたいへんな違和感がありますね。しかし、今から80年ほど前、昭和期の南アルプス市域でも、有名なロタコ(飛行場)建設に子供から大人までたいへん多くの人々が駆り出されましたが、そのことは普段話してはいけないといわれていたのです。

  参考資料:一般社団法人日本燐寸工業会が運営するマッチのバーチャルミュージアム『マッチの世界』
       「日本民具辞典」 平成9年 日本民具学会 ぎょうせい

2023年8月17日 (木)

満州開拓女子奉仕隊と豊村分村開拓団

こんにちは。
18194343 ←「県庁前での豊村第一次満州開拓団女子奉仕隊の壮行会」(西野池之端中込家蔵:真ん中に立つ団長であった中込ちか氏は、白根地区西野池之端で喜久屋商店経営中込家の人でした。この画像はそのお孫さんに当たる方からご提供いただいたものです。)

前回の記事では満州に渡った少年たちの資料をご紹介しましたが、今回は、同じように女子たちの渡満についての記録もご紹介します。

 まずは、契機となった満州に設置された豊村分村についてまとめておきたいと思います。
 国策によって、昭和7年から20年の太平洋戦争敗戦までの14年間に27万人もの日本人が、中国大陸に渡りました。 昭和恐慌で疲弊した農民を移民によって救済することが第一目的でしたが、同時に、満州国を維持し、ソ連との国境地帯を防衛する意図もありました。
 そのような情勢に準じ、昭和14年にはじまった豊村分村計画によって、昭和15年2月11日から、満州(浜江省阿城県四道河)に開拓団の入植が開始されました。そして、昭和20年8月17日の最期を迎えるまで、170名ほどの人々が満州に設立された豊村の分村で暮らした過去があります。
 豊村とは、現在の南アルプス市櫛形地区の吉田・十五所・沢登・上今井区にあたる場所に昭和35年まで存在した村名です。

002img20200820_10045327 ←「四道河にねむる拓友に捧ぐ」豊村満州開拓団誌編集員会より 
 昭和17年4月に豊村分村本隊が中国東北部(満州国四道河)に渡り本格的な開拓が開始されます。
 そして最終的に、昭和20年8月17日に、149名の豊村分村の人々が浜江省阿城県四道河にあった開拓団本部で非業の死を遂げることになったのでした。 匪賊(ひぞく)に囲まれ、逃げ場を失って戦死者を出す中、集団自決という道が選ばれました。

 その満州に設立された豊村分村開拓団に奉仕するための「満州開拓女子奉仕員」の募集が青年学校や青年団を対象に行われました。豊地区からは、青年学校(※1)の先生の説明で20名の女子が奉仕団に応募したそうです。そして、農繁期の春から秋の数か月間を手伝うために満州の分村に派遣されました。
(※1)青年学校は当時の義務教育期間である尋常小学校(のちに国民学校初等科)6年を卒業した後に、中等教育学校(中学校・高等女学校・実業学校)に進学をせずに勤労に従事する青少年に対して社会教育を行っていた。12歳から18歳まで

 昭和18年(1943)中込ちか氏を団長として豊村第一次満州開拓団女子奉仕隊は、県会議事堂前での盛大な壮行会のあと、甲府駅から万歳に送られ出発したそうです。
002img20200820_10173132 ←「四道河にねむる拓友に捧ぐ」豊村満州開拓団誌編集員会より 

 隊員の服装は「紺の上下の訓練服に地下足袋、腕には満州開拓女子奉仕隊の腕章を」つけたとのこと。
 女子奉仕員たちは、満州のハルピンに着いてからさらに3時間乗って、四道河という小さな駅で下車し、迎えのトラックの荷台に揺られて六里離れた開拓団の村に着きました。奉仕隊の仕事は、炊事と風呂の準備に加え、農作業の手伝いでした。渡満からほぼ一年目に、懐かしいふるさとから若く元気な娘たちが20人も奉仕で訪れたので、開拓団に活気が出たといいます。
 奉仕団は3カ月ずつの期間で昭和20年の終戦の年も派遣されました。そのうち昭和20年5月に送出された第二次勤労奉仕隊員12名は現地で終戦を迎え、開拓団の人たちとともに帰らぬ人となったそうです。

002img20200820_10131053 ←「四道河にねむる拓友に捧ぐ」豊村満州開拓団誌編集員会より 

 本日、令和5年(2023)8月17日午後3時は、満州の豊村分村にある本部建物でダイナマイトに点火、自決が行われてから、78年目になりました。
豊諏訪神社の境内には、「満州開拓殉難者慰霊碑」と刻まれた石碑が建っています。本日も神社で慰霊祭が行われると聞いておりますが、きょうは現地に伺うことができないので、〇博調査員は3時に合わせて黙とうを捧げたいと存じます。
791 ←豊諏訪神社境内の「満州開拓殉難者慰霊碑」

2023年8月14日 (月)

豊村から旅立つ満蒙開拓青少年義勇軍

 こんにちは。
 今回は、昭和時代の戦争時に中国大陸に渡る少年たちを撮影した写真をご紹介します。
 昭和7年から20年の太平洋戦争敗戦までの14年間に27万人もの日本人が、中国大陸に渡りました。昭和恐慌で疲弊した農民を移民によって救済することが第一目的でしたが、同時に、満州国を維持し、ソ連との国境地帯を防衛する意図もありました。
Img20190213_09262137 ←古市場杉田家所蔵
こちらは、いまから80年ほど前に撮影され満蒙開拓少年義勇軍の壮行写真です。
 満蒙開拓青少年義勇軍は、中国大陸に日本人を移民させる日本政府の国策が推進される中、成人だけでは足りなくなった満州への移民を補う目的で政府が発足させた制度です。彼らは「鍬(くわ)の戦士」とよばれたそうです。

1938(昭13)年から満14~18歳までの青少年への募集が開始され、3年間の訓練期間を経て開拓団に移行し、満蒙開拓青少年義勇軍(満州での名称は満州開拓青年義勇隊)と呼ばれました。

002img20200820_10183809 ←「四道河にねむる拓友に捧ぐ」豊村満州開拓団誌編集員会より 
 満蒙開拓民創出事業の一つとしての募集要項の名目には、『満州の未墾の荒野を開拓し、将来は二十町歩(約20ヘクタール)の地主として独立した農業者になる』とありましたが、実際は14歳から18歳の男子がソ連国境地帯に入植させられ、満州国の防衛、治安にあたり、多くの人命が失われる結果となりました。
 「四道河にねむる拓友に捧ぐ」という文献には、旧豊村よりも25名(豊村誌では28名と記載)の男子が送り出されたとあります。

Photo_20230814113401 ←西野池之端中込家所蔵(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 写真にうつるまだあどけなさの残る少年たちの引き締まった表情を見るだけでも胸が詰まります。家族や親せき皆に送り出されたこの子たちには、その後どのような運命が待っていたのでしょうか? 広大な満州の地で家族に送ろうと写真を撮ったその一瞬の間、彼の頭の中にはどのような考えが去来していたのだろうか?背景を知ろうと思えば想うほど、いろいろと考えさせられてしまう写真資料です。

002img20200820_10192920

参考文献:「四道河にねむる拓友に捧ぐ」 豊村満州開拓団誌編集員会 平成14年2002年2月1日発行非売品
      「豊村」 豊村編纂委員会 昭和35年1月

2023年8月 3日 (木)

牛と馬の道具

 こんにちは。
只今、南アルプス市ふるさと文化伝承館ではテーマ展『南アルプス山麓の古代牧』を開催中です。会期は令和5年12月20日までです。 今日は、その中の民具展示コーナーをご紹介します。
 Dsc_0285 Dsc_0286_20230803142601 ←『南アルプス山麓の古代牧』展における民具コーナー 
展示している実物大写真の馬の種類は木曽馬です。古代の伝承にある「甲斐の黒駒」の画像はさすがにご用意できませんので、巨摩地域で飼育されてきた実績のある木曽馬の実物大画像を置いています。体高130㎝ほどの低身で頭が低く、お腹が大きくちょっとぷっくりしていて、太く短い首と耳が木曽馬の特徴的な体型です。また、丈夫で、引く力が強く、繁殖力もつよいという長所もありました。 南アルプス市有野で昭和25年頃に撮影された馬耕の様子の画像に写る馬もこの木曽馬だと思われます。
Photo_20230803142801 ←「南アルプス市有野で昭和25年頃撮影の馬耕の様子」(名取栄一氏蔵 平成13年白根町発行『夢』より)
M2534 M3426 ←荷鞍(にぐら):馬・牛の背に荷物をのせるための鞍。枠木の内側に厚さ20センチほどの藁を芯に畳表や布でくるんだ鞍床を左右に結いつけている。街道を運ぶときは、1駄(40貫=150㎏)、山道で32貫=120㎏)ほど一頭で運べたという。


Dsc_0289-2 ←蹄鉄(ていてつ):馬の蹄(ひづめ)の底に打ち付けて蹄を保護し、滑りを防ぐための金具。

Dsc_0289 Dsc_0291 ←ハミ・轡(くつわ):馬の口にはめる金具で、手綱(たづな)を付けて馬を操るのに必要な道具。口の中にくわえさせる銜(はみ)、その両端に付ける鉄鐶で構成される。古墳時代から使われてきた道具。


Dsc_0292 Dsc_0293 ←「胸繋(ハモ)」商品名のプレートには『角田式 製造元祖 萬年牛馬鞍 岡山角田農具製作所』とある。
胸繋(ハモ):木材やそりなどの重い荷や、馬耕作業用の道具を引く際に、荷重のかかる馬の首の皮膚への負担を軽減するために用いる装着具。U字型に馬の首に装着する。


Photo_20230803142901 ←「ハモを装着時の拡大図」(名取栄一氏蔵 平成13年白根町発行『夢』より)


M4156 ←尻枷(しりかせ):ハモから引いた引綱を両端に縛って牛馬の後方に位置させ、犂(すき)などの農具に取り付ける棒。具体的には、首にU字型に取り付けたハモの左右両側についている金属製の環のそれぞれに引綱を結び、後方に尻枷を装着する。さらに、尻枷の真ん中にある金属製のカギに引っかけて連結した荷や農具などを引かせる仕組み。


M2609 M2605 ←メコ(鐶):くさび部分を木材の端に打ち込み、材木を山から引き出したり、牛馬を柱につなぐときに用いる。


Dsc_0290_20230803142701 ←「尻枷にメコを連結した様子」メコの楔状部品を木材の端に打ち込めば、山から木材を運び出すことができる。

 令和5年度の今テーマ展では、御勅使川扇状地での牧(牧場)の存在が平安時代にさかのぼる可能性を示す百々遺跡出土資料の紹介を主眼にご覧いただいていますが、江戸時代以降も続いた牛馬利用の伝統についても言及しています。
そのため、文献資料や出土牛馬骨の分析資料だけでなく、もっと身近に最近まで行われていた牛馬と市民との関わり示す民具も観ていただこうと、昭和30年代頃まで市内で使われていた牛馬に関わる道具も展示致しております。 どうぞ、いらしてください。

2023年8月 1日 (火)

かをりよき千代花香油

こんにちは。
先月のことになりますが、櫛形地区小笠原で昭和時代に「富士商店」という、よろずやさんをしていらしたというお宅へ民俗資料の調査にお伺いしました。
3_20230801134201  ←「櫛形地区小笠原にあった富士商店の昭和63年当時の店内」(小笠原近藤家資料より 南アルプス市文化財課蔵)
 そこで、「昭和初期から40年代位までの女性が使っていたヘアオイルを小売りする際に、店頭に置いていた容器」というものがあり、見せていただきましたので、皆様にもご覧いただこうと思います。

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 側面に「千代花香油」と打ち出された、なんとも趣のある金属製の箱のふたを開くと、中には小分けされた油函が3つ。さらに、量り売りに必要な柄杓が一緒にセットされています。当時は買い物客が持ってきた瓶に詰め替えて売っていたということですね。
Dsc_0281_20230801134201 ←柄杓一杯で20円だったのでしょうか?ケースを開いた蓋の内側に値札が付いていました。 

「千代花香油」という商品は、香りを付けた鬢(びん)付け油で、昭和初期頃から千代田香油という会社が発売していました。鬢付け油は髪を固めたり、乱れを防いだりするのに使うスタイリング剤のような油のことです。この千代花香油は、日本髪を結うのに必要である伝統的な鬢付け油に、明治時代以降にヨーロッパから輸入され知られるようになっていた香水の要素を加えたもののようです。
Dsc_0282 ←「かをりよき 千代花香油 東京千代田香油本舗」 130×395×230(mm)
Dsc_0279_20230801134201 ←香油函の底に少し香油の残りがあり、よきかほりを嗅ぐことができました! 

昭和生まれの〇博調査員にとっては、幼き時におばあちゃんの鏡台のひきだしを内緒で開けてみた時の、少し背徳感のある懐かしいよきかほりでした。
 以上にご紹介した「千代花香油の小売函」は、南アルプス市文化財課の民俗資料にということで、寄贈していただけることになりました。
Dsc_0202 ←お父様の経営していらした富士商店の資料を案内してくださった近藤さん。ありがとうございました。
いずれ、「昭和のおしゃれ」みたいなテーマ展企画が通ったら、伝承館に展示する機会ができるなぁ。来館者の皆さんにもこの昭和の「よきかをり」を体感してもらえるようにできたらいいなぁ、という希望が湧きたった〇博調査員です。

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