豊村から旅立つ満蒙開拓青少年義勇軍
こんにちは。
今回は、昭和時代の戦争時に中国大陸に渡る少年たちを撮影した写真をご紹介します。
昭和7年から20年の太平洋戦争敗戦までの14年間に27万人もの日本人が、中国大陸に渡りました。昭和恐慌で疲弊した農民を移民によって救済することが第一目的でしたが、同時に、満州国を維持し、ソ連との国境地帯を防衛する意図もありました。 ←古市場杉田家所蔵
こちらは、いまから80年ほど前に撮影され満蒙開拓少年義勇軍の壮行写真です。
満蒙開拓青少年義勇軍は、中国大陸に日本人を移民させる日本政府の国策が推進される中、成人だけでは足りなくなった満州への移民を補う目的で政府が発足させた制度です。彼らは「鍬(くわ)の戦士」とよばれたそうです。
1938(昭13)年から満14~18歳までの青少年への募集が開始され、3年間の訓練期間を経て開拓団に移行し、満蒙開拓青少年義勇軍(満州での名称は満州開拓青年義勇隊)と呼ばれました。
←「四道河にねむる拓友に捧ぐ」豊村満州開拓団誌編集員会より
満蒙開拓民創出事業の一つとしての募集要項の名目には、『満州の未墾の荒野を開拓し、将来は二十町歩(約20ヘクタール)の地主として独立した農業者になる』とありましたが、実際は14歳から18歳の男子がソ連国境地帯に入植させられ、満州国の防衛、治安にあたり、多くの人命が失われる結果となりました。
「四道河にねむる拓友に捧ぐ」という文献には、旧豊村よりも25名(豊村誌では28名と記載)の男子が送り出されたとあります。
←西野池之端中込家所蔵(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
写真にうつるまだあどけなさの残る少年たちの引き締まった表情を見るだけでも胸が詰まります。家族や親せき皆に送り出されたこの子たちには、その後どのような運命が待っていたのでしょうか? 広大な満州の地で家族に送ろうと写真を撮ったその一瞬の間、彼の頭の中にはどのような考えが去来していたのだろうか?背景を知ろうと思えば想うほど、いろいろと考えさせられてしまう写真資料です。
参考文献:「四道河にねむる拓友に捧ぐ」 豊村満州開拓団誌編集員会 平成14年2002年2月1日発行非売品
「豊村」 豊村編纂委員会 昭和35年1月
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