故郷に届いた出稼ぎ工女の葉書②
こんにちは。
今日は、明治終わりから昭和時代にかけて、県外の製糸場で働いていた女性たちが故郷に送った葉書がまとまって見つかりましたので、ご紹介したいと思います。今諏訪にあるお宅の蔵に眠っていた古い書簡の束からピックアップしたものですが、70通以上もありました。
こちらのブログでは、過去に西野村の相川ふくのさんという女性が明治31年から39年の間に武州入間豊岡町にあった石川製糸所から送った葉書をご紹介しましたが、今回は、今諏訪村の手塚家に30名ほどの村出身の女工が明治から昭和時代に掛けて送った80通もの葉書等を新資料として加えて、考察してみよう思います。
←明治31~39年埼玉への出稼ぎ工女からの葉書(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市文化財課蔵)
←明治41~45年埼玉・長野・山梨(諏訪村:現在の北都留郡上野原町)への出稼ぎ工女から届いた葉書(今諏訪手塚正彦家資料・南アルプス市文化財課蔵)
←大正4~15年長野の諏訪岡谷への出稼ぎ工女からの葉書(今諏訪手塚正彦家資料・南アルプス市文化財課蔵)
←昭和2~13年長野・滋賀・甲府の工女から届いた葉書(今諏訪手塚正彦家資料・南アルプス市文化財課蔵)
現在、南アルプス市域で確認している出稼ぎ工女からの葉書は、すべて白根地区の西野と今諏訪で収蔵したものですが、およそ80通をリスト化してみると、出身の少女たちの出稼ぎ先の年代的な傾向やその他興味深い事実が見えてきました。
←白根地区出稼ぎ工女からの葉書リスト(南アルプス市ふるさと○○博物館調査員作成)
いままでに南アルプス市域で見つかった出稼ぎ工女からの葉書でもっとも古いものは、明治31年のものです。出稼ぎ先は武州入間郡(現埼玉県入間市)の石川製糸所。
まだ中央線などの鉄道が存在しなかった頃ですから、御勅使川扇状地に住むにしごおりの人達は、当然、武州入間まで自分の足で歩いていくしか無かったはずです。まずは、今諏訪の渡しで釜無川を渡り、荒川を渡り、甲府の街を抜けた後、秩父往還に入り、険しい雁坂峠を越えてやっと秩父の町に降りたら、交差する武州街道を右に折れて入間に向かったと考えられます。糸取りの出稼ぎに向かう少女たちはいったいどれくらいの日数をかけて入間の石川製糸所に至ったのでしょうか?明治初期より生糸の輸送路として使用されていた秩父往還ですが、途中の雁坂峠越えはさぞ大変だったことでしょう。
同じように明治後期から大正期にかけて日本の近代化を支えた糸取り工女たちを語るうえで象徴的な「あゝ野麦峠(昭和54年公開)」という有名な映画がありますが、その主人公のモデルであった政井みねさんは明治36年~42年に、飛騨高山から信州諏訪の製糸所に出稼ぎに行っていました。甲州西野村から武州入間の石川製糸所に出稼ぎした相川ふくのさんは明治31年~39年の間に行っていますから、だいたい同時代のこととなりますね。そして、信州諏訪で百円工女となった政井みねさんが病気になり、引取りに行った兄の背中で『ああ、飛騨が見える』とつぶやいて息を引き取った場所というのが、有名な野麦峠です。
もしかしたら、野麦峠と同じようなエピソードが雁坂峠でもあったかもしれません。舞台が違えば、兄に背負われた乙女が「あゝ、甲州が見える」と云ったこともあったかも知れない。いや、文言は「あゝ富士が見える」だったでしょうか?雁坂峠から見える富士は格別ですから。(もっとも、工場の近くの入間駅からも富士山は見えるらしいのですけどね・・・・)
武州石川製糸所の系列工場の川越工場には、 明治43年まで働いていた手塚はまのさんからの葉書が故郷今諏訪に届いており、明治30年代から40年代初めまでは、南アルプス市域からの工女の出稼ぎ先は武州(埼玉県)方面が主流であったといえます。
しかし、明治44年以降にはじめて信州諏訪へ行くものが見られると、その後、大正時代の出稼ぎ地は諏訪湖周辺の平野村や長地村といった現在の岡谷市方面一択となります。この傾向は、昭和初期まで続いていきます。
これは、中央線が明治36年に甲府まで開通、明治39年に岡谷まで開通、明治44年に全線開通(新宿から長野県塩尻駅を経由して名古屋駅まで)する動向に付随するものと考えられます。葉書を送った女性たちの故郷である西野・今諏訪の最寄り駅となる龍王駅は明治36年に開業していますから、その後の埼玉方面への出稼ぎには、八王子までは中央線を使っての移動も可能になりました。そして、明治44年に中央線が全線開通すると、出稼ぎ先が一気に長野方面へシフトするわけです。
山梨県は明治7年より県営の山梨勧業製糸場が操業し、全国的にも早い段階で大規模器械製糸工場が栄えていましたので、先進地であるがゆえに次々と日本各地に勃興する大規模器械製糸場に熟練工女が高待遇で引き抜かれていくという憂き目にあいました。これは中央線の開通によりさらに加速し、大正期に入ると山梨県内の女性労働者たちの多数が県外の製糸場で働くようになりました。そのため、慢性的な人手不足に陥った山梨の製糸業は地位を落としたといわれています。今回の分析結果からも、当地の製糸工女供給地としての様相が、多数の葉書の存在と年代別に見た仕事場の住所の変遷から見て取れます。
また、分析資料の大半を占める上今諏訪手塚家資料の葉書の宛名は、大正時代までは手塚正森さん宛になっていることが多いのですが、文面に、製糸場までの見送りを感謝する内容が多かったことから、この人物が製糸場の工女集めに関与する役目を担っていた可能性があると考えています。
昭和時代に入っても長野方面への出稼ぎは続きますが、昭和9年に滋賀県の鐘紡製糸場に行くものが現れたり、逆に地元の豊村の花輪製糸や甲府の製糸場に行っている人の葉書もありました。
以前に、南アルプス市内八田地区榎原での聴き取りで、大正11年生まれで岡谷に糸繰りに行ったという女性にお会いしたことがあります。たいへんなこともあったようですが、楽しく印象に残る経験も多くあったと話してくれました。2年間岡谷に行った後は、家に帰って家の仕事をしながら通いで市内鏡中條にあった山梨製糸で働いたということですから、そのようなことも多かったのかもしれません。以下に、聴き取り時のメモを参考資料として貼っておきます。
←八田地区杉山ナツエさん 2017年12月5日撮影聴き取り
「岡谷に製糸場に行った時こと」
杉山ナツエ(なつゑ)大正11年生(聴き取り時:95歳 現在:101歳)
「十六・七歳(昭和13・14年)の頃、2年間岡谷の製糸場で働いた。龍王駅から電車に乗っていった。他にもたくさんの山梨の人が岡谷に行って女子寮に入って女工をしていた」→女工時代は楽しい思い出がいっぱいある。(ごはん・寝るところ・厳しい検番(工女の監視をする男の人でしゃべっていたりよそ見をしているとすぐに飛んできて怒る)
「男女交際禁止だったので、夜に仲間の誰かがもらったラブレターを皆で内緒で読んだ(学校に行っていなかったので、字が読めない人のラブレターを字の読める人が読んでやって、皆で聴いたり見たりして字や手紙の書き方、男の人との付き合い方等いろいろ学んだ)」
「製糸会社でも裁縫や勉強(習字)などを教えてくれた。」
「ふだんの休みの時には岡谷の街に映画を見に行ったり、買い物に行ったりした。帰る時間に遅れて門限を過ぎてしまうと、寮の門番に名前を書くように言われたので、いつもうそをついて女優の名前「スガヌマシズエ」を書いたりしていたがばれなかった。」
「お盆には休みはなく、お正月にしか休めなかったが、実家に帰る前には家族が喜ぶお土産をいっぱい買い込んで、満員電車に乗って中央線で龍王駅に降り立った。岡谷の製糸会社で働いている山梨の人は多かったので、会社の中でも同郷同士かたまって仲良くしていた。また、正月で帰る電車の中は、岡谷の他の会社で工女となっている人とも一緒になって、地元の知り合いだらけだったし、駅もごったがえしていた。」
「正月に実家に帰ると、両親がよく頑張ってくれたと言って新しい着物の反物をかっておいてくれた(あんまりうれしくなかったけど)」
「私は、優等工女でもなく、出来が悪いわけでもなく、いつも平均の成績で糸を取っていたので、新しい繭が入荷すると繭の質を見るために、どれくらいの糸目でとれるか試す役にされた。繭の品質で糸目はすごく違った。よい(解除率の良い)繭はすぐに糸口が見つかるが悪い繭はなかなか見つからずに無駄がいっぱい出てしまって糸目が少なくなった」
「お母さんもおばあさんも岡谷に糸を取りに行った」
「岡谷から帰ったあと、鏡中條の山梨製糸に行って25歳くらいまで働いた。家からの通いになったので、岡谷にいた時ほどの自由はなく通勤などちょっとたいへんになった。」
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