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2024年10月

2024年10月29日 (火)

荊沢にあった商店の大正時代の包装紙

こんにちは。
今回は文化財課収蔵資料の中から、南アルプス市甲西地区荊沢にあった商店の包装紙をご紹介いたします。
115 ←「松寿軒長崎包装紙(電話荊沢二十番」(湯沢依田家資料)(南アルプス市教育委員会文化財課蔵」
 松寿軒長崎は明治から平成時代まで 駿信往還の宿場町である荊沢において営業した菓子商です。ちょうど道が鍵の手のようにクランクする「かねんて」と呼ばれる箇所の西側に、現在も登録有形文化財として、その建物が遺されています。
 松の意匠の帯デザインの中に、店名と電話番号が記されており、この包装紙がいつごろから使用されていたかが判ります。甲西地区では大正9年11月26日に電話が個人宅や商店に開通し、1から41番の荊沢局電話加入者がいました。ですから、この包装紙は大正9年以降に使用されたものだと判断できます。また、その電話加入者一覧を甲西町誌(昭和48年刊)で見ることができますが、20番は『内藤伝吉 菓子商』とありました。
319 ←南アルプス市荊沢319に建つ松寿軒長崎(2021年10月8日撮影)
こちらの建物については、登録有形文化財として南アルプス市HPでの文化財情報や地図上で見る〇博アーカイブ、Mなび等でご紹介していますので興味のある方はご覧くださいませ。

つづいては、荊沢の商店包装紙二軒目のご紹介です。
116 ←「荊沢麻野屋呉服店包装紙(電話番号三五番)」(湯沢依田家資料)(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
麻の葉模様がさわやかなこちらの包装紙も、大正9年の電話番号一覧で記されている35番をみてみると、『あさのや入倉小三郎 呉服商』とありました。
Photo_20241029160201 ←「荊沢麻野屋のあった辺り」(2021年9月29日文化財課撮影)

昭和初期には、「せきや麻野屋呉服店」として、白根地区倉庫町交差点に包装紙にあるのと同じ屋号(「ヤマに中」)の店が存在していましたので、支店を出していたようですね。
002img20220705_15062833_20241029160201 ←「倉庫町関屋にあったせきや麻野屋呉服店のチラシ」(西野功刀幹浩家資料)(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 また、荊沢には麻野屋商店という名の店がもう一軒あり、そちらは茶問屋で茶器や食器なども販売していました。場所もちょうど同じ「かねんて」付近で呉服の麻野屋さんが駿信往還の東側にあるのに対して、茶問屋である麻野屋商店(屋号は「カネに麻」)は中野姓で西側に店を構えていました。 南アルプス市教育委員会文化財課収蔵資料や市内の旧家の蔵などで保存箱として使われている茶箱にこの麻野屋商店の文字をよく見かけます。
Img_1097 ←「雛人形の保管に使用されていた荊沢御銘茶所麻野屋商店の茶箱」(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
〇博調査的に、先人の遺したチラシや包装紙のストックは、かつて存在した商店の情報や地域ごとに異なるお買い物事情を知る手掛かりになるので重要視しています。

2024年10月 3日 (木)

大正時代の労働契約書

 こんにちは。
 まずは大正時代に交わされた、大工に関する労働契約書を2通ご紹介したいと思います。
    J7201_20241008145001  J7202 J7203 ←「弟子トシテ大工業修養セシムル契約書(大正13年竜王村花形富士吉)」(上八田小野家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
J7101 J7102 J7103 ←「弟子トシテ大工業修養セシムル契約書(大正15年百田村清水辰平)」(上八田小野家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 ご紹介する契約書は2通とも大正時代のもので、百田村に住む14歳と竜王村に住む15歳の少年が現在の白根地区上八田で大工を営む小野牛五郎に大工業(だいくぎょう)を教授してもらう4年間ほどの修養期間についての取り決めが記されています。その契約期間に雇われ人が使用する着物と大工道具一式は雇い主の牛五郎が用意し、年季明けにはそのまま給与されるとあります。また、修養途中で万が一雇われ人が失踪した場合は保証人が探して連れ戻し、雇用者の牛五郎に引き渡す事も記されています。労働の見返りに大工の技術を教授するので報酬は支払われなかった模様です。
 
 労働契約書のようなものは、江戸時代にも「奉公人請状」「奉公人手形」と呼ばれる書類として存在していました。しかし現在と大きく異なるのは、雇用主が雇われる側に提示するのではなく、雇われる側が保証人を通して奉公の期間や労働条件などを提出する作法にありました。今回ご紹介している大正時代の資料の場合も、大工業を修養予定の者がまだ未成年であるという理由ももちろんありますが、書面の契約者は弟子入りする本人ではなく、その父や保護者になっており、さらに保証人が立てられています。

 また、2通の契約書の内容の大筋は同じですが、2年違いで前後して契約した2人には待遇差があることがわかります。例えば、大正13年に竜王村から弟子入りした者には、4年間の修養後にさらに半年間の御礼奉公という無給期間があることを記していますが、大正15年に弟子入りしたものには御礼奉公期間というものが無くきっちり4年間で年季が終了するとあります。
さらに、大正15年に弟子入りの者にはその家庭事情を考慮して記された部分もあります。 牛五郎宅と同じ百田村内から弟子入りした清水辰平さんには、春蚕期に20日・夏秋蚕期にそれぞれ20日の年間60日間を実家での養蚕業務に従事することを許す文面があるのです。きっとこの弟子の実家は養蚕業で家計を支えており、養蚕繁忙期に大事な働き手を一人でも減らすことはできない事情を雇用主がよく理解しての判断だったのでしょう。2年の違いでずいぶん労働環境が改善していますね!

 大工は弟子入りすると、ほとんどの場合住み込みで、親方の家族と一緒に生活するのが普通であったようです。最初は家事手伝いや資材の運搬などをしながら道具の手入れの仕方や使い方を学んだようです。そして、親方と弟子との主従関係は生涯続いたといいます。
しかし、このように良くも悪くも伝統的な徒弟制度というようなものは、昭和時代の終わり頃にはほとんど消滅したようですね。

最後に、大正初期の大工以外の労働契約書も2点ご紹介しておこうと思います。
I81173t1 ←「雇人契約書(大正元年今諏訪村小林はまの)」(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
I81173t5 ←「雇人契約書(大正5年豊村澤登名取角太郎)」(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
こちらの2点の契約書も江戸時代からの作法にのっとり、雇われる側(保護者・保証人)が雇い主に契約書を提出する形式であり、最初に年給の額を提示し、着衣の給与要求と雇用期間を明記しています。さらに内金という名目で契約時に10円ほどの支給があったことも記されています。大工のような特別な技術を教授する場合とは、契約内容に異なる点が多少あるようです。

 大正時代は未成年である尋常小学校を卒業した10歳から高等小学校を卒業した14歳までの子供が親元を離れて雇い主宅に住み込み、休日もほとんどなく働く状況が多くありました。しかも、奉公に入る前に保護者がお金を受け取っている場合も多かったので立場も弱い上に、どんなに労働条件が厳しくても容易に逃げ出せないような文言が契約書に記されているのが普通でした。このように現代に比べて大正時代の労働条件が全く別物であったことにまちがいはないのですが、一方で、奉公先で親元に居た時よりも環境に恵まれ、学びの機会を得て数年後には成功者となるような、立身出世物語が多く生まれた時代であったのも確かなようです。

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