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2024年11月

2024年11月25日 (月)

腸チフス予防唱歌とコレラ注意報!!

こんにちは。
先週くらいから急に寒くなって、やっぱり今年も冬が来るのだと実感しました。寒くなって空気が乾燥してくると、また風邪などの伝染病が流行する季節にもなりますね。
 今回は、大正10年頃に山梨県衛生課が高等小学校に配った「チブス予防唱歌」のリーフレットと、コレラ注意報として配布された「虎軍隣県を襲ふ!! 本県は危険状態にあり!!」のチラシをご紹介したいと思います。

 大正10年頃に山梨県衛生課は「チブス予防唱歌」というものを作成して小学生に配ったようです。小学校の生徒に毎日見てもらえるように、二つ折りにして時間割を記入できるような欄も設ける工夫がされています。

25102 ←山梨県衛生課チブス予防唱歌(表)(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
  まず表紙では『チブス?』の項でこの病気の原因と感染経路、病状などを説明し、感染予防対策の方法や罹患した場合の対処について簡潔に記しています。 一般的には「チフス」という呼び名の方が聞き慣れているのですが、かつては「窒扶斯」という漢字を当てたようなので大正時代には「チブス」と濁音にして読んでいたこともよくあったのかもしれません。 記載内容を読んでみると、紹介されているチブスという病気が現代日本で言うところの「腸チフス」であることがわかります。
 また、この面を山折りに二つ折りにすると裏になる部分に、名前や時間割を書く欄があったり、ギリシャとイギリス、日本の俚諺(りげん)が3つ記され、健康の大切さを表したことわざも教えてくれています。

25101 ←山梨県衛生課チブス予防唱歌(裏)(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
  見開きページには、真ん中にチブス予防唱歌の歌詞と楽譜(数学譜)があり、これをぐるっと囲むように明治13年~大正9年までの山梨県内腸チフス患者及び志望者累年表が記されています。
『チブス予防唱歌
 【一】山川清き山梨に 悪疫チブスは蔓これり 人々互ひに警めて 此の病毒を絶やせかし
 【二】飲食ひものに附着して チブスの病毒は口に入る 味ひよくも生魚や 生の野菜は食すなよ
 【三】まして生水や氷水 使ひ水にも注意して 食事前には手を洗ひ 暴飲暴食せぬ様に
 【四】蠅を駆除して食器には 蓋する事を忘るゝな 家の内外掃除して 身体衣服も清潔に
 【五】予防注射も早く受け 患者を見舞う事勿れ 熱病む人のある時は 醫者を迎えよ直ぐ様に
 【六】かくて縣民一斉に 心協せて豫防せば 流石に猛き腸チブス 忽ち跡を絶ちぬべし      』
 この予防唱歌を歌っていれば、表紙にあったようなチフス対策を万全に覚えられるようなっています。すばらしいですね!

 予防唱歌の周りにある、山梨県下における腸チフス患者及び死亡者数の推移の方を見ていくと、明治14年に大流行があり、明治25年にもまた流行したことが判ります。 しかし、明治30年に伝染病予防法にて法定伝染病に指定されたことが功を奏しようで、明治31年~40年代はじめまでの山梨県内の腸チフス患者数は劇的に減少しています。その後は、明治44年と大正9年に流行がみられます。今回の資料は、大正9年の流行に接し、前回の流行年からおよそ10年ほどで緩んできた感染対策を特に経験のない子供たちに徹底・注意喚起するように対象者を絞って山梨県が配布したものだったのではないでしょうか。
 明治30年以降、腸チフスは感染対策を徹底することで罹患リスクを減らすことができることが実証されていたので、大正元年頃から実施が増えてきた腸チフスワクチン注射とあわせて、流行終息を目指したものと考えられます。
 なお、平成11年に施行された感染症法により、現在、法定伝染病は家畜に関して定められるものになり、腸チフスは「3類感染症」と分類されているそうです。

つづいては、チブス予防唱歌の資料と同じく山梨県衛生課作成のチラシですが、これはコレラに対する注意喚起するものです。前記の大正10年のチフスに関するもの同じ資料群にありました。この資料ではコレラを「虎軍」と表現していますが当時は「虎狼狸」「虎列刺」とも表記することがあったようです。
252 ←山梨県衛生課コレラ予防チラシ「虎軍隣県を襲ふ!! 本県は危険状態にあり!!」(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 また、コレラの流行の歴史について少し調べてみると、インドからはじまったパンデミックにより日本では江戸時代(安政年間)から明治大正期にかけて幾度もの流行が起こりましたが、大正9年に神戸市から発生したものを最後に全国的な流行は起きていないようなので、この資料は大正9年から10年頃に配布されたものと推定できます。
 『虎軍隣県を襲ふ!! 本県は危険状態にあり!!』と喧伝し、『流行地ヨリ来リシ者ニ注意スルコト』『コレラ流行地ヘ行カヌコト』などの文言からはじまるところは、つい数年前の令和初めに起こった新型コロナウイルスのパンデミックにおいて、都道府県をまたぐ不要不急の移動の自粛が私たちに求められた状況を思い起こさせます。
 命はもとより国の経済・社会の仕組みにまで影響を与える感染症の急襲は、病原や感染経路が解明され、ある程度の治療体制を持つようになった近代以降においても、人々がその脅威を忘れて緩むたびに繰り返されています。

2024年11月19日 (火)

大正9年落合小学校秋季運動会次プログラム

こんにちは。
今回は、大正9年10月24日午前7時から行われた、落合尋常高等小学校の第三十七回秋季大運動会のプログラムをご紹介いたします。

       ※いづれの画像もタップすると少し拡大します

23602 ←大正九年落合尋常高等小学校第三十七回秋季運動会次第(表紙・裏表紙)(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 南アルプス市ふるさと○○博物館資料収集活動において、今まで大正5年の榊小学校、大正15年の西野小学校の運動会プログラムを教育委員会文化財課で収蔵してこちらのブログやMなび、〇博アーカイブなどでご紹介してきました。
 今回は新たに市の南部に属する甲西地区で収集した落合小学校の大正9年のものを見ていただきます。
 裏表紙の記載から、このプログラムの作成・配布については、小笠原にある山扇印刷所の寄付によって行われたようです。しかしながら、現在も市内小笠原で営業している株式会社山扇印刷さんのHPによると、大正14年10月に創業とありますから、その前身の印刷所だったのかどうかについては不明です。

23601 ←大正九年落合尋常高等小学校第三十七回秋季運動会案内状(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
23603 ←大正九年落合尋常高等小学校第三十七回秋季運動会次第(午前之部・午後之部)(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 つづいて、運動会の演目について見ていきますと、午前之部27種目の後、30分という短い午餐休憩をはさんで、午後之部は25種目行うという、かなりタイトなスケジュールとなっています。それに、『爆裂弾』『陣地占領』『砲弾輸送』など、戦闘を想起させるなにやら物騒な演目が所々にありますね。
 中でも、午前之部の最後の演目として全校男子で行う『軍歌行進』と午後之部で高等小学校男子全員で行う『執銃訓練』は、軍隊の基礎を学ぶはじめの一歩としての訓練のようです。

 いままでに収蔵した資料と比較してみると、大正5年の榊小学校の運動会プログラムにはあまり軍事的な演目は見られませんでしたが、大正15年の西野小学校のものには軍歌行進が行われています(当ブログ2020年9月16日「大正5年の榊小学校運動会プログラム」、2021年9月29日「大正5年榊小学校と大正15年西野小学校の運動会プログラム」もご覧ください) 。 校風の違いもあったでしょうが、落合小学校の資料の場合、大正9年頃は第一次世界大戦が終わり、将来起こるであろう次の戦争に向けて、その準備が平時から必要との認識が学校教育にも芽生えてきていた頃なのかもしれません。
M12902 ←木銃(長さ167㎝ 川上滝沢家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵):※この資料が運動会等で使用されたかどうかは不明です

23603_20241119164001←大正九年落合尋常高等小学校第三十七回秋季運動会次第(午前之部・午後之部)(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 一方、女子については、午後之部終盤において「主婦の務(つとめ)」という演目の題名がまず目を引きます。高学年の女子が行ったこの演目の具体的な内容こそわかりませんが、その題名だけで当時の女子教育が目指していたものをダイレクトに示しています。近年、ジェンダフリー社会の実現を目指して小中学校で行われているジェンダー教育とはまさに対極となるものですね。

 また、同じく女子種目の『タンツラインゲン』というドイツ語風の外来種目名に興味をひかれたのでしらべてみると、『タンツ=ライゲン(Tanz reigen)』という言葉がヒットしました。連舞の一種で、数人が一列に並んで曲に合わせて行進しながら、いくつかの振り付けを行うダンスだそうです。戦前の運動会では、「タンツライゲン」という名称で女子の演目として全国的によく披露されたものだということです。

 以上のように、大正時代の運動会プログラムを観察すると、現代の小中学校とは教育目標が異なるので、演目に違和感を覚えるような相違点がいくつか見られます。時代を表していると一言で言ってしまえばそれまでですが、当時の社会的背景や運動会そのものの教育的意義などを推し量ってみると、いまではありえないような種目が存在していた理由も理解することができて興味深いです。
今後もまた、市内の小中学校の運動会プログラムは継続的に収集していきたいと思っています。

2024年11月13日 (水)

保寿社牛乳タイムス大正14年掲載のケーキレシピ

こんにちは。
 保壽社牛乳店が毎月一回発行していた冊子「保壽社牛乳タイムス」をご覧いただきます。

2371223719   ←保寿社タイムス10月号表裏紙 大正14年10月1日(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)※タップすると少し拡大します
保壽社牛乳店については前回、南アルプス市教育員会文化財課で収蔵した大正時代の領収書からの情報から、大正9年から10年の間に牛乳1本が6円から10円に値上がりしたことや、当時の販売用牛乳瓶の姿などをご紹介しましたが、今回は大正14年10月1日発行とある「保壽社牛乳タイムス十月号」について観ていきたいと思います。
 前回でもご紹介しました通り、保寿社は明治20年12月に土屋忠平が西山梨郡稲門村(現甲府市)の千秋橋南方に開業し、のちに甲府市伊勢町に移転して昭和15年までの50年以上営業していた、県内酪農における草分け的業者のひとつだったようです。文献にも『甲府市の三大搾乳業者』と記されています。

23713 ←保寿社タイムス10月号 大正14年10月1日 2.3ページ(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 この冊子「保壽社牛乳タイムス」の構成は、全5ページで4項目の記事で構成されています。
 表紙をめくるとまずは「家庭日記」という項目で、襟や靴の手入れやネクタイの洗濯の仕方など主に洋装の手入れ方法が掲載されています。牛乳を毎日飲むような先進的な家庭の主婦には知りたい情報だったのかもしれません。


 次の3.4ページには「牛乳の威力」という題で、農学士大川石松氏による寄稿があります。なんでも、「マツカラム博士によって証明された人類の生命に欠くことのできない溶油性ヴヰタミンと水溶性ヴヰタミンの二要素を摂取するには、バター脂を含む乳製品の摂取が適している」というようなことが書かれています。また、「『我国乳児の死亡率は世界一』であることと『我国の牛乳使用率は世界の文明国中で一番少量』であることには深い関係がある」と説いており、『牛乳は人類の生存に必要な総ての要素を完全に、具有している』と、牛乳を飲むことを推奨しています。つづく同じページの残りの部分には、「ほんとの両親」という小話が穴埋め的に掲載されています。

23714 ←保寿社タイムス10月号 大正14年10月1日 4.5ページ(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 最後の5ページ目には「おやつのごちそう」という魅力的なレシピ集が掲載されています。メニューは、2種の『グリッドルケーク』と『芋よんかん』『バタいも』です。興味深いそのレシピを以下に書き出しますと、

『グツリドルケーキ(原文ママ):メリケン粉 コップ三杯、牛乳 コップ二杯、ベーキングパウダー 大匙一杯半、玉子 一個、塩 茶匙半杯、バタ 大匙二杯、砂糖 コップ四分の一
メリケン粉、塩、砂糖、ベーキングパウダーをまぜ合して篩にかけ、玉子をよく泡立てせて加へ、牛乳をそろそろと加へてよく泡立て器でかきまはし、バタと融して加へます。フライパンにバタをひいてそのなかへまぜ合した材料を少しづつ流し込んで、まはりが焼けて来て真中が泡だらけになったらひつくり返して焼きます。鍋に引いたバタが少ないとこげつきます。かうして何枚も焼いて、焼きたてにバタをつけ、メープルシロップ(蜜のようなもので紅葉の葉の砂糖をとかしたもの)を上からかけて食べます。メープルシロップの代りに砂糖をかけてもよいので、これはハイカラなボツタラ焼のようなもので、朝食の代り、おやつには最も適してゐます。』
※「グツリドルケーキ」と原文に記載があるが、以降のレシピに(その二)とあるので、「グリッドルケーキ」が正しく誤植であると考えられる)

『グリツドルケーキ(その二):牛乳 コップ一杯、玉子 2個、御飯の温かいの コップ一杯、融かしたバタ 大匙一杯、塩 茶匙半杯、メリケン粉 コップ八分の七
  御飯と塩との上に牛乳を注ぎ込み玉子の黄味をレモン色になるまでよくかきまぜて泡立たせて加えます。それへとかしたバタ及メリケン粉を加へ、玉子の白味を泡立てゝ加へたものを第一と同様にして焼きます。』

『芋ようかん:砂糖七十匁、さつまいも百匁、塩小匙半分
  先づお芋の皮をむいて二分位の輪切りにし、水につけてあくをぬきます。鍋にはたっぷりの湯を煮たたせておきごく強い火でお芋の切ったのを、軟らかくなるまで煮、煮へたらザルにあけて湯を切ります。次に鍋の湯をあけてそれへお芋の煮たのを入れ、塩と砂糖を入れ、シャモジで芋をつぶしながらよくねり合わせ、指をふれてみてつかなくなったら重箱その他適宜な器に布をしいて、その上へねつた材料を入れ、上に布をかぶせて、その器のなかへはいるだけの板をおき、上から強い重しをかけ二時間ほどおくとかたくなります。それを取り出して適宜の大きさにきるのです。』

『バタいも:
フライパンにラードを引き、二三分の厚みに輪切りにした芋を両面から焼き、焼けたらバタをぬり砂糖をふりかけます。』

 以上のように、この「おやつのごちそう」で紹介されている4つのレシピをみてみると、大正14年に一般家庭で材料をそろえて作るのが難しい憧れレベルの一品から、牛乳屋さんの紹介するレシピなのに乳製品すら使わなくて済むような庶民的なおやつまで4種類のものが紹介されています。

23714_20241113134701 ←保寿社タイムス10月号 5ページ「おやつのごちそう」(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 中でも材料の異なる二種類が紹介がされているグリッドルケークなるものですが、検索してみると、「griddle cake(グリドルケーキ)」というものがヒットし、いわゆるパンケーキないしはホットケーキのことだとありました。パンケーキやホットケーキのようなものは、明治時代に日本に伝わったようですが、大正12年に日本橋の三越デパートでバターとメープルシロップを添えて提供されはじめたのが本格的な上陸だったようです。この大正14年10月号の「牛乳タイムス」でも、焼きたてにバタとメープルシロップを上からかけるとあるので、まさに当時の最先端かつ憧れのおやつレシピが載せられていたことになるのですね! 当時のほとんどの甲州人には未知の食材であったであろうメープルシロップは『紅葉の葉の砂糖をとかしたもの』と微妙な解説があって微笑ましいです。さらに明治期にドイツで開発されたばかりのベーキングパウダーもあって、きっと「このナンチャラパウダーっちゅう薬は何でぇ?」という感じだったのではないでしょか? 庶民に出来上がりを想像しやすいようにか『これはハイカラなボッタラ焼のようなもので・・・』とも記されています。


 そのためか、グリッドルケーキ(その二)では、手に入りやすい材料ばかりでつくれるようなレシピが紹介されています。材料だけを見ると、甲州人にもなじみ深い「うすやき」の亜流みたいな感じがするのですが、作り方を読むと最後に卵の白味を泡立てたものを加えて焼くとあるので、ふんわり感を出すようにちゃんと工夫したレシピなんだなぁと感心!実際に作ってみたくなった〇博調査員でした♡

2024年11月 1日 (金)

大正時代の牛乳瓶の姿(保壽社牛乳店)

こんにちは。
最近整理調査の終わった紙資料群の中から、大正9年から10年にかけての牛乳屋さんの領収書を9点発見しました。どうやら甲西地区に住んでいた人が大正9年から10年にかけて甲府市錦町(現平和通り沿いの中央1丁目11辺り)にあった山梨県病院に入院していた際に、保壽社牛乳店から受け取った領収書のようです。
23701 ←「保壽社牛乳店 甲府市伊勢町二千四百九十五番 (電話二〇八番) Dairy.C.Tsuchiya.Isecho.Kofu.Japan. HOJUSHA & Co」の発行した領収書と冊子」

 「保壽社」という牛乳屋について文献で調べてみると、昭和初期から40年代にかけて山梨県酪農の指導的立場にあったし秋山作太郎氏が著した書籍の中に、昭和45年に調査し「(明治中期以降の)搾乳業者一覧表」としてまとめたものがあり大変参考になりましたので、そちらの内容を引用しながらご紹介したいと思います。
 保壽社は明治20年12月に土屋忠平が西山梨郡稲門村(現甲府市)の千秋橋南方に開業し、のちに甲府市伊勢町に移転して昭和15年までの50年以上営業していた、県内酪農における草分け的業者のひとつだったようです。文献にも『甲府市の三大搾乳業者』と記されています。

 それでは、保寿社の牛乳配達表と領収書を観察していきましょう。
 真ん中にきりとり線が入っていてその左側に「牛乳配達表」があり、右半分はイラスト入りの領収書になっています。
23710   ←保壽社牛乳店大正10年6月牛乳配達表領収書(牛乳1本10円)(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 まずは、大正10年6月分について配達した牛乳の本数と代金の集計に注目しましょう。29本で290円とありますから、大正10年当時の販売価格は牛乳1本10円だったとわかります。ちなみに大正9年9月分の場合は30本で180円とあります。どうやら大正9年までは1本6円だったようですね。
23707   ←保壽社牛乳店大正9年9月牛乳配達表領収書(牛乳1本6円)(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
23706 ←保壽社牛乳店大正10年7月牛乳配達表領収書(牛乳1本10円)(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 また、四角く囲った枠の中に①『山梨県病院御用』②『新鮮生バタ』③『切手調進』といった謎の文言がありますが、順に読み解いていくと、①保壽社が山梨県病院の病棟に出入りして入院患者に販売していた事実を示すものであり、②保寿社牛乳店は新鮮な生バタ―も販売しており、③『切手調進』とは「保寿社牛乳製品を贈り物等に使用できる商品券もご用意しております」ということだと考えられます。
23711   ←保壽社牛乳店大正10年9月牛乳配達表領収書(牛乳1本10円)(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 そして右半分のいわゆる領収書部分ですが、大正時代当時の牛乳瓶とバター販売容器と牛たちが可愛らしく配置されたデザインになっています。当時の牛乳販売容器がどんなものであったかがよくわかるイラストで興味深いですな。このイラストにある牛乳販売容器は、ガラス製の瓶で口に陶器製の栓をして金属製の留め金で閉めた後で未開封と分かるように瓶と栓のつなぎ目に保壽社銘入りの未開封シールが貼られています。
23711_20241101132701 ←保壽社牛乳店大正10年9月牛乳配達表領収書より「機械口牛乳瓶部分」(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 気になって上記の秋山作太郎氏の著作『山梨の酪農』を読み返してみますと、牛乳販売容器の変遷についても記述がありました。
 東京では明治22年頃に初めてガラスの容器が用いられたそうですが、最初は口に紙を巻いたり張ったりして蓋としていたのが、明治33年頃になると「機械口」と当時言われた、瀬戸物(陶製)やニッケル、コルクで蓋をして止め金で留めるものが登場したようです。そして、昭和3年くらいになると瓶は無色で統一され、王冠口になったとありました。
一方、山梨では明治36・37年頃までは、大半の牛乳屋は手提げ牛乳缶と木枡に柄を付けたもので売り歩き、家の軒先で客の丼や茶碗に写して量り売りしていたそうですが、甲府中心部などでは同じころでも東京と同じような機械口で、瀬戸物でできた栓の瓶売り容器で売られていたとあります。
以上のような牛乳販売容器の変遷史を踏まえても、大正9・10年に保壽社が瀬戸物の機械口のガラス瓶で甲府中心街において牛乳を販売していたことに矛盾はなく、このイラストが当時の牛乳瓶の姿を視覚的に伝えてくれていてうれしいです。

※参考引用文献
「山梨の酪農」秋山作太郎 平成二年発行 非売品 :令和6年11月現在は山梨県立図書館で借りられます。

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