講堂にはミシンがズラーっと!軍服のポケットを縫った巨摩高女時代
こんにちは。
7月の終わりに、南アルプス市内生まれ在住で昭和5年生まれ(94歳)のユキエさんに、戦時の記憶をお聴きしました。きっかけは、ふるさと文化伝承館で令和7年6~8月に開催していたテーマ展「ぼこんとうとせんそう」に、ユキエさんがご家族と見学にいらしてくださったことでした。
←南アルプス市上市之瀬生まれ在住で昭和5年生まれ(94歳)のユキエさん
その際解説した伝承館スタッフに、ユキエさんがご自分の戦時体験を少し話してくださったのです。興味深い内容だったので、オーラルヒストリーとして記録させていただきたいと考え、改めてお越しいただき録画しながらお聴きすることにしました。あわせて、アルバムに残るユキエさんの足跡も同時にデータ収蔵させていただくことにご同意いただきました。ユキエさんとそのご家族のご協力に、心より感謝申し上げます。
←2025年7月29日南アルプス市ふるさと文化伝承館にて聴き取り。 調査時にはご長女とご長男が同席してくださった。
ユキエさんは、昭和5年に市内上市之瀬に生まれ、野々瀬国民学校から山梨県立巨摩高等女学校へと進学しました。
←野々瀬国民学校初等科五学年集合写真(おそらく妙了寺で撮影)
ユキエさん『国民学校時代に行ったロタコ(南アルプス市で戦争末期に建設されていた飛行場での作業)では、飛行機を隠すために大人が掘っていた横穴壕から掘り出される土を袋に詰めて捨てに行く作業をしました。子供ながらに、子どもだからこんな少しづつしか運べないのに、(飛行場はほんとに完成するのだろうか?日本は)大丈夫なんだろうか?と思いました』とのこと。国民学校では、ロタコ以外にも、川向こうの玉幡飛行場での石拾い(砂利運び)にも駆り出されたそうです。
巨摩高等女学校に進学すると、『講堂にミシンがズラーっと並べて置いてあって、軍服のポケットの上蓋にあたる部分を積み上げるほど毎日ひたすら縫う時間があった。その際、軍服を着た監視の人が座席の間の通路を歩いてずっと監視していたから、何か嫌だった思い出がある。』といいます。戦争中は授業などほとんど受けずに勤労動員ばかりさせられていたようです。
その他にユキエさんが話してくださった、巨摩高等女学生の頃の思い出を聴き取りメモより以下に列記しておきます。同じ巨摩高等女学校に戦争中に通っていた2歳年上のお姉さんが軍需工場で働いていた時の話、学校の校庭の防空壕に隠れた話のほか、うれしかった女学校時代の思い出、戦後の天皇御巡幸の様子など興味深い話題です。
『体育の時間には、校庭の固い土を耕してさつまいもを植えた。農業の先生としてハナワ先生という人が来て教えてくれた。』
『2歳年上の姉(タツミさん)も巨摩高女だった。姉は女学校のそばにある2階建ての寄宿舎にいて、そこから近くの花輪製糸の工場に動員されていた。パラシュートの部品をつくったことを聞いている。』
『昭和20年7月6日の甲府空襲の時には、野々瀬から甲府方面がとても明るくなっているのを山の間に見た。甲府空襲の夜は姉のタツミさんは巨摩高女の寄宿舎にいたので心配だった。』
『荊沢空襲のあった時(昭和20年7月30日)には在校時で、校庭の周りに植えてあるサクラの木の根元に掘った防空壕に入った。学校には爆撃されなかったが、防空壕に入る前にすごい低空飛行で米軍機が通り過ぎるのを見た。その翌日か数日後に、荊沢のあたりで子どもの犠牲者が出たことを聞いた。』
『在学時に学校から甲府の貢川の方向に行くマラソン大会があって、お姉さんのタツミさんが1位で、ユキエさんが10位だった。1位のお姉さんへの賞品は体操着で、10位の幸枝さんには運動靴がもらえた。実際には引換券がもらえて、後に小笠原の商店へ行って実物をもらうスタイルだった。』
『戦後に昭和天皇が戦後巡幸で(1947年10月14日)巨摩高等女学校にいらしたときは、校庭の土の上に額を押し付けるようにしてひれ伏して迎えた記憶がある。何も考えずその時は先生に言われるままそうしたね。』
←巨摩高等女学校華道部 昭和23年3月 :戦後とはいえ、セーラー服の上衣にモンペと草履であわせているのがかわいらしい。
以上のように、ユキエさんからは貴重なオーラルヒストリーの数々を収蔵させてさせていただきました。本当にありがたいです。
これに加えて、もし山梨県立巨摩高等女学校の戦時期の学校日誌が存在するのであれば、ユキエさんの過ごした戦時・終戦直後の女学校生活の実態がもっと明らかになる可能性がありますよね。特に製糸工場でパラシュート製造に動員された事実については、今後もっと情報や証言が収集できるといいなと思いました。今後の史料発見に期待しましょう。


























































