オーラルヒストリー

2025年10月 3日 (金)

講堂にはミシンがズラーっと!軍服のポケットを縫った巨摩高女時代

こんにちは。

7月の終わりに、南アルプス市内生まれ在住で昭和5年生まれ(94歳)のユキエさんに、戦時の記憶をお聴きしました。きっかけは、ふるさと文化伝承館で令和7年6~8月に開催していたテーマ展「ぼこんとうとせんそう」に、ユキエさんがご家族と見学にいらしてくださったことでした。

Kimg6598   ←南アルプス市上市之瀬生まれ在住で昭和5年生まれ(94歳)のユキエさん

その際解説した伝承館スタッフに、ユキエさんがご自分の戦時体験を少し話してくださったのです。興味深い内容だったので、オーラルヒストリーとして記録させていただきたいと考え、改めてお越しいただき録画しながらお聴きすることにしました。あわせて、アルバムに残るユキエさんの足跡も同時にデータ収蔵させていただくことにご同意いただきました。ユキエさんとそのご家族のご協力に、心より感謝申し上げます。

Img_1866 Img_1867 ←2025年7月29日南アルプス市ふるさと文化伝承館にて聴き取り。 調査時にはご長女とご長男が同席してくださった。

 ユキエさんは、昭和5年に市内上市之瀬に生まれ、野々瀬国民学校から山梨県立巨摩高等女学校へと進学しました。

210 ←野々瀬国民学校初等科五学年集合写真(おそらく妙了寺で撮影)

ユキエさん『国民学校時代に行ったロタコ(南アルプス市で戦争末期に建設されていた飛行場での作業)では、飛行機を隠すために大人が掘っていた横穴壕から掘り出される土を袋に詰めて捨てに行く作業をしました。子供ながらに、子どもだからこんな少しづつしか運べないのに、(飛行場はほんとに完成するのだろうか?日本は)大丈夫なんだろうか?と思いました』とのこと。国民学校では、ロタコ以外にも、川向こうの玉幡飛行場での石拾い(砂利運び)にも駆り出されたそうです。

222 215 ←巨摩高等女学校生当時のユキエさんと同級生

 巨摩高等女学校に進学すると、『講堂にミシンがズラーっと並べて置いてあって、軍服のポケットの上蓋にあたる部分を積み上げるほど毎日ひたすら縫う時間があった。その際、軍服を着た監視の人が座席の間の通路を歩いてずっと監視していたから、何か嫌だった思い出がある。』といいます。戦争中は授業などほとんど受けずに勤労動員ばかりさせられていたようです。

その他にユキエさんが話してくださった、巨摩高等女学生の頃の思い出を聴き取りメモより以下に列記しておきます。同じ巨摩高等女学校に戦争中に通っていた2歳年上のお姉さんが軍需工場で働いていた時の話、学校の校庭の防空壕に隠れた話のほか、うれしかった女学校時代の思い出、戦後の天皇御巡幸の様子など興味深い話題です。

『体育の時間には、校庭の固い土を耕してさつまいもを植えた。農業の先生としてハナワ先生という人が来て教えてくれた。』

『2歳年上の姉(タツミさん)も巨摩高女だった。姉は女学校のそばにある2階建ての寄宿舎にいて、そこから近くの花輪製糸の工場に動員されていた。パラシュートの部品をつくったことを聞いている。』

『昭和20年7月6日の甲府空襲の時には、野々瀬から甲府方面がとても明るくなっているのを山の間に見た。甲府空襲の夜は姉のタツミさんは巨摩高女の寄宿舎にいたので心配だった。』

『荊沢空襲のあった時(昭和20年7月30日)には在校時で、校庭の周りに植えてあるサクラの木の根元に掘った防空壕に入った。学校には爆撃されなかったが、防空壕に入る前にすごい低空飛行で米軍機が通り過ぎるのを見た。その翌日か数日後に、荊沢のあたりで子どもの犠牲者が出たことを聞いた。』

『在学時に学校から甲府の貢川の方向に行くマラソン大会があって、お姉さんのタツミさんが1位で、ユキエさんが10位だった。1位のお姉さんへの賞品は体操着で、10位の幸枝さんには運動靴がもらえた。実際には引換券がもらえて、後に小笠原の商店へ行って実物をもらうスタイルだった。』

『戦後に昭和天皇が戦後巡幸で(1947年10月14日)巨摩高等女学校にいらしたときは、校庭の土の上に額を押し付けるようにしてひれ伏して迎えた記憶がある。何も考えずその時は先生に言われるままそうしたね。』

213_20251003103401 ←巨摩高等女学校華道部 昭和23年3月 :戦後とはいえ、セーラー服の上衣にモンペと草履であわせているのがかわいらしい。

 以上のように、ユキエさんからは貴重なオーラルヒストリーの数々を収蔵させてさせていただきました。本当にありがたいです。

 これに加えて、もし山梨県立巨摩高等女学校の戦時期の学校日誌が存在するのであれば、ユキエさんの過ごした戦時・終戦直後の女学校生活の実態がもっと明らかになる可能性がありますよね。特に製糸工場でパラシュート製造に動員された事実については、今後もっと情報や証言が収集できるといいなと思いました。今後の史料発見に期待しましょう。

2024年12月13日 (金)

昭和26年のきみ子ちゃんの絵日記を読む4

こんにちは。
 今日も、前回からの続きで小学三年生のきみ子ちゃんの日記から、昭和26年6月29~7月1日までのものと最後のページにある先生の講評をご紹介します。
 お父さんとお母さん、そしてお兄さんと弟との5人家族に育ったきみ子ちゃんは、何かしらの家の手伝いを毎日しているしっかりものの女の子です。この絵日記は昭和26年(1951)6月16日から7月1日まで毎日欠かさず書かれたもので、紐で一冊に綴じられていました。6月後半の2週間は麦刈りや田植えの行われる時期ですからちょうど農繁期休みの期間であったと考えられ、ほぼ毎日、家の仕事に勤しんでいる姿が事細かに絵に表現され、その下段に文章がしたためられています。
 また、この絵日記には、昭和26年の櫛形地区の中野の風景や人々の暮らしを物語る細かいデティールが、きみ子ちゃんという、絵の上手な女の子によって素晴らしく表現されています。この資料によって、私たちは、小学3年生の彼女の目や心のフィルターを通して、昭和26年の南アルプス市域におけるネカタ(根方)の生活というものを知り、その時代の子供の気持ちを追体験することができるような気がするのです。
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←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月29日(金)雨雲晴」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 絵は、麦扱きの様子ですね。
お母さんが、ベルトで発動機とつないだ脱穀機に麦束をすべらせて、麦扱きをしています。麦扱きとは、刈った麦の穂を藁からこき落とす作業のことです。きみ子ちゃんは麦の束を両手いっぱいに抱えて、脱穀機のところまで運ぶお手伝いをしています。
「朝起きて少し経つと、雨が降ってきた。お母さんが今日はこれでは麦扱きができないねといった。」そのうちに、雨がやんできて晴れになったので、手伝いのおばさんが二人来てくれて麦扱きができたようです。「私は麦を運んだ」と文にあります。
 山梨県の郷土食といわれるほうとうも小麦粉でつくります。米と同様に麦も大切な作物でした。この日もきみ子ちゃんは頑張ったんだね!
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←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月30日(土)晴」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 きみ子ちゃんが背負子(しょいこ)にかごをくくり付けて歩いています。
 「昼休みをしてからお母さんとはるえさんと東の畑の所のじゃがいもを掘りに行きました。私が背負子(しょいこ)にかごを縛って、芋を運んだ。背負子が大きいので、上手くおしりの所へいって歩けなかった。おかあさんが芋をこいでから、お母さんも運んだ。そのうちにサイレンが鳴った。」
 昔は子供も結構重たいものを運ぶ機会があったのですよね。ふるさと文化伝承館では、小学校三年生の子供たちが学習する昔の暮らしの授業で背負子を体験してもらうのですが、ちょうど同じような学年の子供たちがこんな風に背負子でジャガイモを運んでいたことをこの日記を見て知ってもらいたいです。 
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←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・7月1日(日)雲晴」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 この日の絵は、家の中のようすですね。障子戸の外に見えるのは、山々の頂です。きみ子ちゃんの家がどのような場所に建っていて、周辺の景観はどんな感じだったかがわかります。そう、櫛形地区中野は大変見晴らしの良い場所なのです。そんな家の中で、きみ子ちゃんはランドセルに学校で使うものを入れて準備しています。
「私が明日学校へ行くだからと言って、かばんの中に学校で使うものをしまっていると、今夜、道祖神祭りだから、ジャガイモをふかしてくれと言ったので、整理をしてからお母さんが言ったことをしてやった。そして晩、道祖神へ行って楽しくとびあいってきた。」
 いよいよ今日で農繁期休みは終わりなのですね。小学3年生で一人で、かまどで火を焚いてジャガイモをふかすことを任されるなんてすごいなぁ! 最終日の夜は、楽しい道祖神祭りの日でよかったです。「ぞうそりん(道祖神)」へ行って「とびあいってきた」という最後の甲州弁の一文が、きみ子ちゃんの楽しさに弾む心の度合いをよく表していると思います。※甲州弁で「とびあいってきた」とは、「忙しく走り回ってきた」という意味。走ることを飛ぶといい、歩くを「あいく」という。
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←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・教師講評」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 最後の空白のページには、赤いインクでその時の担任の先生であった秋山正美先生の講評が書かれています。雨宮キミコさんによると、まだ若い男の先生だったそうですよ。
「お休み中公子はよくお手伝いをしましたね。そして毎日絵日記がとても丁寧に書いてあります。公子が買って来たたばこ、おとうさんは本当においしくのむ事でしょう。 公子が両手にお茶をつるして田に行く姿が思はれました。 杉の木にカニがおったなどとてもうまく書けています 秋山正美」
 これまで、4回の記事をわたって、昭和26年6月に櫛形地区中野で、小学3年生の農繁期休みの出来事を綴ったきみ子ちゃんの日記をご紹介しました。
 この絵日記にあるきみ子ちゃんのお手伝いの数々をみてまず驚くのは、今の小学校低学年の子供たちが普段頼まれているようなお手伝いに比べ、かなり高レベルな作業内容だということです。
 例えば、「芋をふかしておく」という作業は、畑で芋を掘って、屋外の水路で洗ってから、台所のかまどで火を起こしてお湯を沸かして調理します。現代と違って何倍もの工程と労力が必要になり作業内容も高度です。でもきみ子ちゃんはこの一連の作業を全部ひとりでできます。もちろん、毎回その作業を最初からすべて行うわけではありませんが、現在の私たちがスーパーで買ってきたジャガイモにラップをかけてチンするだけとは訳が違います。これはもはやお手伝いというレベルではなく、家事の一部を小学校低学年でガッツリ担っているといった感じです。この家はきみこちゃんがいなければ回っていかないのではないだろうかと思われるほどです。もちろん、時代的にも、社会的にも状況が全く違いますので、現代の子供たちに同じようなことが要求される事態はあり得ません。
 しかし、昭和20年代では、子供たち一人一人が家族の一員であるという強い自覚とともに、その経営の一部を担っているという感覚や責任感を強く持っていたのだと想像させられます。
Dsc_1009 ←「キミコさんからの聴き取り調査の様子(2024年11月7日撮影)」
 聞き取り調査で雨宮キミコさんが話してくれたのですが、きみ子ちゃんが小学一年生くらいの頃から、お父さんは病気で体調の悪い日が多かったそうです。そのため、この日記の絵には、お父さんの気配はあれども姿が描かれていなかったことが理解できました。
 そこで、〇博調査員が「お母さんを助けようと、きみ子ちゃんは人一倍頑張っていたのでしょうね」というと、意外にも、雨宮さんは「いや、そんなことは特に思った記憶はないです。みんなどの家の子もそれくらいのお手伝いはしてたと思う」とおっしゃっていらしたのが印象的でした。
3164 ←「中野上田家絵日記資料一括」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 南アルプス市○○博物館活動では、このような子供たちの絵日記も大切な地域の文化や生活を物語る資料として大切に収蔵し、保管・活用を進めています。

2024年12月12日 (木)

昭和26年のきみ子ちゃんの絵日記を読む3

こんにちは。
 今日も、前回からの続きで小学三年生のきみ子ちゃんの日記から、昭和26年6月25~28日のものをご紹介します。
 お父さんとお母さん、そしてお兄さんと弟との5人家族に育ったきみ子ちゃんは、何かしらの家の手伝いを毎日しているしっかりものの女の子です。この絵日記は昭和26年(1951)6月16日から7月1日まで毎日欠かさず書かれたもので、紐で一冊に綴じられていました。6月後半の2週間は麦刈りや田植えの行われる時期ですからちょうど農繁期休みの期間であったと考えられ、ほぼ毎日、家の仕事に勤しんでいる姿が事細かに絵に表現され、その下段に文章がしたためられています。
 また、この絵日記には、昭和26年の櫛形地区の中野の風景や人々の暮らしを物語る細かいデティールが、きみ子ちゃんという、絵の上手な女の子によって素晴らしく表現されています。この資料によって、私たちは、小学3年生の彼女の目や心のフィルターを通して、昭和26年の南アルプス市域におけるネカタ(根方)の生活というものを知り、その時代の子供の気持ちを追体験することができるような気がするのです。
100010 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月25日(月)雲雨」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 絵の中で、昔から坂道ばっかりの櫛形地区中野の集落の中をきみ子ちゃんがすたすたと歩いています。右手に何か四角いモノを持っていますが何でしょう?文を読んでみましょうね。
 朝十時から書き取りの勉強をしていた聡明なきみ子ちゃんですが、お父さんからハガキを出しに行ってくださいと頼まれたので、勉強を中断して、ポストに向かったようです。その帰りに校長先生に会い、おはようございますと挨拶したことが書いてあります。ポストのある野々瀬郵便局は小学校の向かいにあったので、先生と出会う確率も高かったのでしょう。
100011 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月26日(火)はれ」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 今日は、草取りをしているきみ子ちゃんの絵です。
 文には「朝起きると、お母さんが今朝は土がやっこいからみんなで家の下の草を取って下さいといったので、すすむ(弟)が学校へ行くとすぐ、草とりをはじめました。兄さんは、前の河原でどっかのおじさんが水を止めていたので、兄さんは早々飛んで行った。お母さんが今年は水が貴いといった」とあります。おそらく前日に降った雨も畑を少し湿らす程度で水が不足しがちな日和が続いていたのでしょう。
100012 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月27日(水)晴」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 この日は石と板と本の絵ですね。
 「今日、私は池でたまねぎを洗っていると、つつじが咲いていたのを見て押し葉にしたくなってつつじを採った。池の所と家の前の所のを採って押し葉にした。それから家の前の所へ行ってきれいな花を採って来た」
 いつも家のお手伝いをしていて忙しい中にも、きれいな花を見て、その心のときめきを押し花にして残そうとする小学三年生のきみ子ちゃんの心意気に、愛しさあふれてたまらないです。
100013 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月28日(木)雲晴」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 畑の上の電線につばめが三羽いるのを見上げているきみ子ちゃん。畑の土には備中ぐわが刺さっており、作業の途中だと言うことがわかります。
 今日のきみ子ちゃんは午後の昼休みの後、おかあさんと一緒に畑の畝づくりをしたようです。頭の上でつばめが鳴いていたので立ってみていると、電線でつばめたちが飛び上がったりして楽しく遊んでいたのだそうです。
 青い空をバックに木の電柱、そして電線に遊ぶつばめたち。そしてそれを見上げるきみ子ちゃんと備中ぐわ。開放感があって明るい絵なのだけれども、つばめたちの賑やかな鳴き声も聞こえてくるのだけれども、なぜかほんの少しばかりの寂寥感も感じさせるような・・・。とても魅力的な構図ですね。
 
今日はここまでで。
昭和26年6月29日から7月1日までの日記は次回にご紹介します。

 

2024年12月11日 (水)

昭和26年のきみ子ちゃんの絵日記を読む2

こんにちは。
 今日も、前回からの続きで小学三年生のきみ子ちゃんの日記から昭和26年6月20~24日のものをご紹介します。
 お父さんとお母さん、そしてお兄さんと弟との5人家族に育ったきみ子ちゃんは、何かしらの家の手伝いを毎日しているしっかりものの女の子です。この絵日記は昭和26年(1951)6月16日から7月1日まで毎日欠かさず書かれたもので、紐で一冊に綴じられていました。6月後半の2週間は麦刈りや田植えの行われる時期ですからちょうど農繁期休みの期間であったと考えられ、ほぼ毎日、家の仕事に勤しんでいる姿が事細かに絵に表現され、その下段に文章がしたためられています。
 また、この絵日記には、昭和26年の櫛形地区の中野の風景や人々の暮らしを物語る細かいデティールなどが、きみ子ちゃんという、絵の上手な女の子によって素晴らしく表現されています。この資料によって、私たちは、小学3年生の彼女の目や心のフィルターを通して、昭和26年の南アルプス市域におけるネカタ(根方)の生活というものを知り、その時代の子供の気持ちを追体験することができるような気がするのです。
10005 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月20日(水)曇晴」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 この絵は、きみ子ちゃんがお風呂を沸かしている様子です。
 夕方に弟が頼まれた風呂焚きの途中で眠ってしまったので、きみ子ちゃんが代わりに湯を沸かすことになったようです。文の最後に「松葉だから、けむ(煙)がたくさん出た」と書いてあります。
 絵をよく見ると、水を入れた木樽の五右衛門風呂に薪ボイラーが取り付けてあり、奥納戸の前できみ子ちゃんが木っ端にちょこんと腰かけて、燃料の枝を差し入れている場面ですね。ボイラーの煙突からはもうもうと煙があがっており、このすごい煙の原因は松葉を燃したからだったのですね。煙突から出た灰が湯船に落ちないように、五右衛門風呂には大きな木の蓋もかぶせてあります。湯温を調整するためなのか、水を入れた桶も横に置いてありますよ。きみ子ちゃんの絵のおかげで昔のお風呂の支度の様子がよくわかります。きっと松葉の煙が目に沁みてチクチク痛かっただろうなぁとか、〇博調査員だったら涙がポロポロ出ちゃったに違いない、なんて思いました。いまはお風呂を沸かすのに、スイッチ一つでよいことに心より感謝申しまする。
10006 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月21日(木)晴」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 この日のきみ子ちゃんは、水路で何やら洗い物でしょうか? 文によると、お母さんに頼まれてジャガイモを畑でとって庭の水路で洗っている場面のようです。ところが、洗っている最中にジャガイモを一つ流してしまったので拾いに行ったところ、滑ってしまい、履いていたゴム草履ごと川に入ってしまったそうですが、柿の木のところまで流れて行ってしまったジャガイモは無事に拾えたようですね。ちなみに、濡れたゴム草履は石の上に干しておいたとのこと。
 もう一度このきみ子ちゃんの記述を踏まえて絵をみると、水路の中を大きなでこぼこのジャガイモが一個流れていくのがわかりますし、ジャガイモを拾うことができた場所にある柿の木も描かれています。
 また、文中にはありませんでしたが、右奥にある大きな建物が水を引き揚げるポンプ小屋であることを、成長したきみ子ちゃん(雨宮キミコさん)からの証言で確認しています。
Dsc_1008←「キミコさんからの聴き取り調査の様子(2024年11月7日撮影)」

10007 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月22日(金)晴雨」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
やかんと風呂敷包を持って田舎道を歩くきみ子ちゃん。現在も櫛形地区中野にはこの絵のような棚田風景が遺されており、この絵の中からも観る人に心地よい風が運ばれてくるようです。
 きみ子ちゃんは「おちゃごし」と呼ばれる野良で働く人たちの休憩のために、お茶と食べ物を田んぼに持って行く役をお母さんに頼まれたようですね。その帰り道にある杉の木にいたカニを3つ獲って、家のヒヨコに与えました。そうすると、ヒヨコたちは「とりっこ」して喜んで食べたみたいです。子供の日常の空気感が伝わる生き生きとした絵と内容にワクワクさせてもらいました。
10008 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月23日(土)晴」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 次の日の日記も棚田の中を歩いているきみ子ちゃんの絵です。でも、手にはやかんと風呂敷ではなくて、あぜ道を稲苗の束を両手に持って運んでいます。文によると、この日のきみ子ちゃんは、朝は植木に水をやってから、田植えのために苗代にあった苗を田んぼまで運ぶ仕事をしたようです。文中に、小学生らしく「ねえ」=苗、「持ちに行った」=取りに行った等、甲州の方言の音そのままに書かれているのが微笑ましいです。
10009 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月24日(日)」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 この絵は、ほおずきの実を描いたもののようですよ。
 今日のきみ子ちゃんは、田に水をかけに行くお手伝いの途中で、ほおずきの青い実がたくさんなっているのを見て、その2つをもいで帰ってきたのだそうです。家に帰ってから「ほおずきをこしらえて鳴らしてみた」とあります。これはどういうことかと調べてみると、ほおずきの実を覆っているガクを剥いて外して、ミニトマトみたいな実を取り出した後さらにその中の果肉を取り除いてミニトマトの皮だけの風船みたいになったものを口の中に入れて鳴らすと、ギュッギュッとカエルの鳴き声のような音が鳴るのだそうです。きみ子ちゃんは「ならしてみたら、口の中が苦かった」そうです。絵にあるほおずきはまだ青いので熟していなくて果肉も苦かったのでしょうか?昔の子供の遊びの一つを教えてもらえて、うれしくなった〇博調査員です。
 
今日はここまでで。
昭和26年6月25日からの日記は次回にご紹介します。

 

2024年12月10日 (火)

昭和26年のきみ子ちゃんの絵日記を読む1

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←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・表紙」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 こんにちは。
 今日は、収蔵資料から、昭和26年に野之瀬小学校三年生だった当時9歳のきみ子ちゃんが書いた絵日記をご紹介します。野之瀬小学校は現在の櫛形西小学校です。
 お父さんとお母さん、そしてお兄さんと弟との5人家族に育ったきみ子ちゃんは、何かしらの家の手伝いを毎日しているしっかりものの女の子です。この絵日記は昭和26年(1951)6月16日から7月1日まで毎日欠かさず書かれたもので、紐で一冊に綴じられていました。6月後半の2週間は麦刈りや田植えの行われる時期ですからちょうど農繁期休みの期間であったと考えられ、ほぼ毎日、家の仕事に勤しんでいる姿が事細かに絵に表現され、その下段に文章がしたためられています。
 この絵日記には、昭和26年の櫛形地区の中野の風景や人々の暮らしを物語る細かいデティールなどが、きみ子ちゃんという絵の上手な女の子によって素晴らしく表現されています。この資料によって、私たちは、小学3年生の彼女の目や心のフィルターを通して、昭和26年の南アルプス市域におけるネカタ(根方)の生活というものを知り、その時代の子供の気持ちを追体験することができるような気がするのです。
 
 では、昭和26年6月16日から順にきみ子ちゃんの絵日記を見せてもらいましょう。
10001 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月16日(土)雨」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 雨の中、長靴をはいて和傘を持ってお出かけする様子か描かれています。文章によると、「絵日記をかく図画紙を買いに行き、帰ってきてから帳面に作りました」とあります。洋傘にはない、和傘に特徴のカッパと呼ばれる頭紙が頂部のろくろに縛り付けられている様をきみ子ちゃんは忠実に絵で描きあらわしていますね!

10002 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月17日(日)晴」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
Dsc_1190_20241210095201  ←「回転蔟」
 これは養蚕のお手伝いの絵ですね。回転蔟(かいてんまぶし)とよばれる、蚕に繭を作らせた格子状の道具から、繭を手でもぎ取って収穫する様子を描いています。文にも「お母さんに頼まれて朝から繭もぎ(原文:「めえもぎ」)の手伝いをした。お茶休憩になって飴をもらった」とかいてあります。
 昭和20年代にこの地域で養蚕が行われていたこと、絵にあるような道具を使って蚕に繭を作らせていたこと、6月の半ばに春蚕が収穫できたことなど様々な当時の養蚕に関する情報を伝えてくれています。現在、私たちの身近なところになく想像しがたい養蚕という生業をこのきみ子ちゃんの絵と文で私たちは知ることができます。とても興味深いです。

10003 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月18日(月)晴」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
こちらは女の子3人で立ち話をしている絵ですね。きみ子ちゃんのお家は中野の棚田の最上部に近い所にありますから、バックには青い空にぽかんと浮かぶ白い雲、その下に舌状の市之瀬台地が、さらに下に甲府盆地を見下ろす風景が広がっています。
 そして、3人の女の子たちの話題は、「今夜蛍を採りに行く約束について」だったようです。お友達の名はとみこさんとやすみさんですが、残念なことに、ご飯を食べてやすみさんを迎えに行くと頭が痛いと言って行かないことになってしまっったようです。そこで、結局きみ子さんのお兄さんも誘ってとみこさんと3人で蛍採りにでかけました。昭和26年当時の中野の棚田には夜になると蛍がいっぱい飛んでいて、お星さまのようにきれいだったことでしょうね!

10004 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月19日(火)晴」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 この絵は昭和26年当時に売られていた「ききょう」と「光り」という銘柄の煙草の箱の絵です。おかあさんとおばさんとで小麦を刈って、きみ子ちゃんとお兄さんでその小麦を運ぶお手伝いをしていたようですが、その後、きみ子ちゃんはお父さんに頼まれて、上市之瀬のタバコ屋さんに「ききょう」と「光り」を買いに行きました。彼女らしい繊細な観察眼で煙草のパッケージデザインを模写しています。
Dsc_1189 ←「ききょう」の箱(南アルプス市教育委員会文化財課収蔵資料)

 今日はここまでで。
 つづきの6月29日以降の日記は次回以降で順にご紹介してまいりますよ。

2024年8月16日 (金)

月賦商店の通帳

こんにちは。
こちらの資料は、櫛形地区上今井の功刀松太郎商店が大正時代に顧客向けに発行した帳簿です。「通帳(かよいちょう)」といって、江戸時代から昭和40年代初期くらいまで、日常の買い物の際によく使っていた帳簿です。近所にある馴染みの店で日用品や食料を買う時は、その店が発行したこの通帳を持って行けば、キャッシュレスで品物を購入することができました。買ったものの日付や商品名、値段を記入してもらい、その代金は、月末や盆暮れ、コメや繭の収穫時などのまとまったお金が入る時期に支払います。
Dsc_0845_20240816163501 Dsc_0846_20240816163501←「功刀松太郎商店通帳(大正)表・裏」(上今井津久井家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
112_20240816163601←櫛形地区上今井にある功刀松太郎商店(2020年6月16日撮影)
 それでは、通帳の頁をめくっていきましょう。
Dsc_0852_20240816163601 Dsc_0851_20240816163601←「功刀松太郎商店 通帳(大正7年~8年)」(上今井津久井家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 購入品目として米や酢・煮干し・鱒(マス)等食料品のほかに、下駄やチリ紙・付け木などの雑貨消耗品が列記されています。値段も書かれているので、大正時代の物価を知ることができます。また、季節ごとに異なる購入品目の違いから、日常の様子や様々な年中行事等に伴う生活の実態もうかがい知ることができます。
 また、現金で支払いをした日付には店の印が押されています。掠れていて見難いですが、この印からは、大正時代当時の功刀松太郎商店の情報を得られそうです。この通帳のところどころに押された印を見比べて、文字を読み取って行こうと思います。
Dsc_0849 Dsc_0848_20240816163701 Dsc_0847←「功刀松太郎商店 通帳印 『呉服太物本□瓦月賦商 証貸 中巨摩郡豊村上今井(大正7・8・9年)」(上今井津久井家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

通帳内に押されたいくつもの印影を並べてみると、掠れて読めずにいた箇所がある程度判りました。まずは外枠にある文字を右から左に読んでいくと、『呉服太物本□瓦月賦商 中巨摩郡豊村上今井』とあります。□の一文字はどうしても読めないのですが、『証』という字かもしれません。真ん中には、屋号の下に『功刀商店 証貸』とあります。
 ここで、『月賦商』『証貸』という聞き慣れない言葉を調べてみたいと思います。
 月賦商(げっぷしょう)とは、代金を一度に払わずに、分割して月ごとに支払うことを条件にした販売方法をとる店のことをいいます。先に代金を支払う前払い式と後から代金を支払う方式があり、明治時代以降に普及したようです。
また、証貸とは、証書貸付の意味で、店が借用証書をとってお金を貸すこと(融資すること)です。
 このように印影の文字情報からは、この功刀松太郎商店が食品も扱うよろず屋さん的な商売以外に、銀行のような貸付業務も行っていたことがわかりました。
 この通帳を使っていた津久井家の場合は、店印の押された箇所に、『〇〇円御預り申事』と記されており、買った商品の代金とは関係なく、お金が入った時にまとまった額を預けておいて、その預金から購入商品の代金を引き落としてもらっていたようです。いまの私たちが電子マネーで買い物をするのと同じですね。
 さらに功刀松太郎商店は、証貸業務もしているということですから、預け入れてある金額を超過するような買物をしたい時や融資を頼みたい時は今の銀行のように対応してもらえたということですね。
 今回は、この通帳をじっくり観察したことで、上今井にあった功刀松太郎商店が銀行業務も併せて行っていたことが判りました。
Dsc_0847-2 ←「功刀松太郎商店 通帳(大正7年)」(上今井津久井家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 豊村は明治38年にそれまでの主産業であった煙草産業から蚕糸業へと転換を図り、大正時代には、一般家庭でも新規にはじめる養蚕の設備や器具等への投資で幾らかの資金が必要になる状況があったと考えられます。そのような情勢の中で、起業家や投資家などが使用する大手銀行とは別に、近所の雑貨店が比較的些少な金額を融資する証貸業務も行っているのは、とても便利なことだったと思います。

 

2024年8月 9日 (金)

曽我物語の引札

 こんにちは。

 先日、櫛形地区上今井にお住まいの方より、蔵に保管されていた文書類とともに明治大正期の引札(ひきふだ)のご寄贈がありました。 

 引札は明治大正期の商店の広告チラシのようなものですが、色鮮やかでデザイン性に富み美しいので、お正月の初売りなどにおまけとして客に配られました。

文化財としても、明治大正期に存在した地域商店の名前や販売品、所在地などを知る手掛かりとなり、当時の人々の生活を復元する上で価値の高いものです。今日はその中から曽我物語をデザインした一点をご覧いただきたいと思います。

1-jpeg ←「雑貨商上今井大和屋商店引札38×52㎝(明治・大正時代)」(上今井津久井家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 こちらの引札は曽我兄弟の物語を題材としたデザインとなっており、右上部分には『最新流行浪花節』として、なんと!物語のあらすじが文章で添付されている比較的珍しいタイプです。浪花節とも呼ばれる浪曲(ろうきょく)は明治時代にはじまった話芸で、三味線を伴奏に独特の節回しで義理人情などを語るもので、明治大正時代には人気の娯楽でした。

600dpi103 ←曽我物語のあらすじ『最新流行浪花節』の部分

 曽我物語は鎌倉時代初期に起きた「曽我兄弟の仇討ち」を題材としたお話です。「曽我物(そがもの)」と一括りで呼ばれるほど、この題材は能や歌舞伎、読み物や話芸、浮世絵や人形など多くの演目や媒体に広がりが見られます。そのため、引札が配られた明治大正期、昭和初期までは誰もがよく知るドラマティックストーリーでした。

 600dpi105 ←富士の巻狩場の曽我兄弟:「群千鳥」の着物で右に立つ兄の曽我十郎祐成(そがじゅうろうすけなり)と蝶の模様の入った着物の弟の曽我五郎時宗(そがごろうときむね)が討ち入ろうとする場面

600dpi104 ←虎御前:兄の祐成の愛妾の遊女。南アルプス市芦安地区の伝承では、虎御前は「芦安安通の生まれで伊豆大磯の富豪の養女となった」とある。また、安通の伊豆神社跡近くには虎御前が鏡を立てて化粧をしたという「虎御前の鏡立石」がある。さらに、恋人同士であった曽我十郎と虎御前の木像が伊豆神社から移されて大曽利の諏訪神社に保管されており、市の文化財に指定されている。

  また、静岡県や神奈川県などに多い曽我物語にゆかりの史跡ですが、ここ南アルプス市芦安地区と八田地区野牛島にもいくつか点在しており、西郡の先人たちには特になじみ深いお話だったと思います。ですから、当時流行りだった浪曲風に語ることのできる曽我物語が印刷されている引札となれば、充分な宣伝効果が得られたのではないかと思います。

600dpi106 ←「山にト」の屋号の豊村上今井大和屋商店

961-5 961 ←上今井大和屋商店(2020年7月2日撮影):屋号が「山に平」であり、引札にある屋号と異なっている。これは、現在の店主家が昭和初期に隣家にあった引札の屋号の店から営業権を購入してはじめたためだとのことである。(津久井家聴き取りによる2022年7月)

2023年12月19日 (火)

故郷に届いた出稼ぎ工女の葉書②

こんにちは。
今日は、明治終わりから昭和時代にかけて、県外の製糸場で働いていた女性たちが故郷に送った葉書がまとまって見つかりましたので、ご紹介したいと思います。今諏訪にあるお宅の蔵に眠っていた古い書簡の束からピックアップしたものですが、70通以上もありました。
こちらのブログでは、過去に西野村の相川ふくのさんという女性が明治31年から39年の間に武州入間豊岡町にあった石川製糸所から送った葉書をご紹介しましたが、今回は、今諏訪村の手塚家に30名ほどの村出身の女工が明治から昭和時代に掛けて送った80通もの葉書等を新資料として加えて、考察してみよう思います。
   002img20211020_10434640_20231219165801 ←明治31~39年埼玉への出稼ぎ工女からの葉書(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市文化財課蔵)
   Dsc_0523←明治41~45年埼玉・長野・山梨(諏訪村:現在の北都留郡上野原町)への出稼ぎ工女から届いた葉書(今諏訪手塚正彦家資料・南アルプス市文化財課蔵)

Dsc_0525_20231219165301←大正4~15年長野の諏訪岡谷への出稼ぎ工女からの葉書(今諏訪手塚正彦家資料・南アルプス市文化財課蔵)
Dsc_0526 ←昭和2~13年長野・滋賀・甲府の工女から届いた葉書(今諏訪手塚正彦家資料・南アルプス市文化財課蔵)

現在、南アルプス市域で確認している出稼ぎ工女からの葉書は、すべて白根地区の西野と今諏訪で収蔵したものですが、およそ80通をリスト化してみると、出身の少女たちの出稼ぎ先の年代的な傾向やその他興味深い事実が見えてきました。

Sk0120231220_09011682 ←白根地区出稼ぎ工女からの葉書リスト(南アルプス市ふるさと○○博物館調査員作成)

 いままでに南アルプス市域で見つかった出稼ぎ工女からの葉書でもっとも古いものは、明治31年のものです。出稼ぎ先は武州入間郡(現埼玉県入間市)の石川製糸所。
まだ中央線などの鉄道が存在しなかった頃ですから、御勅使川扇状地に住むにしごおりの人達は、当然、武州入間まで自分の足で歩いていくしか無かったはずです。まずは、今諏訪の渡しで釜無川を渡り、荒川を渡り、甲府の街を抜けた後、秩父往還に入り、険しい雁坂峠を越えてやっと秩父の町に降りたら、交差する武州街道を右に折れて入間に向かったと考えられます。糸取りの出稼ぎに向かう少女たちはいったいどれくらいの日数をかけて入間の石川製糸所に至ったのでしょうか?明治初期より生糸の輸送路として使用されていた秩父往還ですが、途中の雁坂峠越えはさぞ大変だったことでしょう。
同じように明治後期から大正期にかけて日本の近代化を支えた糸取り工女たちを語るうえで象徴的な「あゝ野麦峠(昭和54年公開)」という有名な映画がありますが、その主人公のモデルであった政井みねさんは明治36年~42年に、飛騨高山から信州諏訪の製糸所に出稼ぎに行っていました。甲州西野村から武州入間の石川製糸所に出稼ぎした相川ふくのさんは明治31年~39年の間に行っていますから、だいたい同時代のこととなりますね。そして、信州諏訪で百円工女となった政井みねさんが病気になり、引取りに行った兄の背中で『ああ、飛騨が見える』とつぶやいて息を引き取った場所というのが、有名な野麦峠です。
もしかしたら、野麦峠と同じようなエピソードが雁坂峠でもあったかもしれません。舞台が違えば、兄に背負われた乙女が「あゝ、甲州が見える」と云ったこともあったかも知れない。いや、文言は「あゝ富士が見える」だったでしょうか?雁坂峠から見える富士は格別ですから。(もっとも、工場の近くの入間駅からも富士山は見えるらしいのですけどね・・・・)
 武州石川製糸所の系列工場の川越工場には、 明治43年まで働いていた手塚はまのさんからの葉書が故郷今諏訪に届いており、明治30年代から40年代初めまでは、南アルプス市域からの工女の出稼ぎ先は武州(埼玉県)方面が主流であったといえます。
 しかし、明治44年以降にはじめて信州諏訪へ行くものが見られると、その後、大正時代の出稼ぎ地は諏訪湖周辺の平野村や長地村といった現在の岡谷市方面一択となります。この傾向は、昭和初期まで続いていきます。
 これは、中央線が明治36年に甲府まで開通、明治39年に岡谷まで開通、明治44年に全線開通(新宿から長野県塩尻駅を経由して名古屋駅まで)する動向に付随するものと考えられます。葉書を送った女性たちの故郷である西野・今諏訪の最寄り駅となる龍王駅は明治36年に開業していますから、その後の埼玉方面への出稼ぎには、八王子までは中央線を使っての移動も可能になりました。そして、明治44年に中央線が全線開通すると、出稼ぎ先が一気に長野方面へシフトするわけです。
 
 山梨県は明治7年より県営の山梨勧業製糸場が操業し、全国的にも早い段階で大規模器械製糸工場が栄えていましたので、先進地であるがゆえに次々と日本各地に勃興する大規模器械製糸場に熟練工女が高待遇で引き抜かれていくという憂き目にあいました。これは中央線の開通によりさらに加速し、大正期に入ると山梨県内の女性労働者たちの多数が県外の製糸場で働くようになりました。そのため、慢性的な人手不足に陥った山梨の製糸業は地位を落としたといわれています。今回の分析結果からも、当地の製糸工女供給地としての様相が、多数の葉書の存在と年代別に見た仕事場の住所の変遷から見て取れます。
 また、分析資料の大半を占める上今諏訪手塚家資料の葉書の宛名は、大正時代までは手塚正森さん宛になっていることが多いのですが、文面に、製糸場までの見送りを感謝する内容が多かったことから、この人物が製糸場の工女集めに関与する役目を担っていた可能性があると考えています。

 昭和時代に入っても長野方面への出稼ぎは続きますが、昭和9年に滋賀県の鐘紡製糸場に行くものが現れたり、逆に地元の豊村の花輪製糸や甲府の製糸場に行っている人の葉書もありました。
以前に、南アルプス市内八田地区榎原での聴き取りで、大正11年生まれで岡谷に糸繰りに行ったという女性にお会いしたことがあります。たいへんなこともあったようですが、楽しく印象に残る経験も多くあったと話してくれました。2年間岡谷に行った後は、家に帰って家の仕事をしながら通いで市内鏡中條にあった山梨製糸で働いたということですから、そのようなことも多かったのかもしれません。以下に、聴き取り時のメモを参考資料として貼っておきます。
201712511 ←八田地区杉山ナツエさん 2017年12月5日撮影聴き取り
「岡谷に製糸場に行った時こと」
杉山ナツエ(なつゑ)大正11年生(聴き取り時:95歳 現在:101歳)
「十六・七歳(昭和13・14年)の頃、2年間岡谷の製糸場で働いた。龍王駅から電車に乗っていった。他にもたくさんの山梨の人が岡谷に行って女子寮に入って女工をしていた」→女工時代は楽しい思い出がいっぱいある。(ごはん・寝るところ・厳しい検番(工女の監視をする男の人でしゃべっていたりよそ見をしているとすぐに飛んできて怒る)
「男女交際禁止だったので、夜に仲間の誰かがもらったラブレターを皆で内緒で読んだ(学校に行っていなかったので、字が読めない人のラブレターを字の読める人が読んでやって、皆で聴いたり見たりして字や手紙の書き方、男の人との付き合い方等いろいろ学んだ)」
「製糸会社でも裁縫や勉強(習字)などを教えてくれた。」
「ふだんの休みの時には岡谷の街に映画を見に行ったり、買い物に行ったりした。帰る時間に遅れて門限を過ぎてしまうと、寮の門番に名前を書くように言われたので、いつもうそをついて女優の名前「スガヌマシズエ」を書いたりしていたがばれなかった。」
「お盆には休みはなく、お正月にしか休めなかったが、実家に帰る前には家族が喜ぶお土産をいっぱい買い込んで、満員電車に乗って中央線で龍王駅に降り立った。岡谷の製糸会社で働いている山梨の人は多かったので、会社の中でも同郷同士かたまって仲良くしていた。また、正月で帰る電車の中は、岡谷の他の会社で工女となっている人とも一緒になって、地元の知り合いだらけだったし、駅もごったがえしていた。」
「正月に実家に帰ると、両親がよく頑張ってくれたと言って新しい着物の反物をかっておいてくれた(あんまりうれしくなかったけど)」
「私は、優等工女でもなく、出来が悪いわけでもなく、いつも平均の成績で糸を取っていたので、新しい繭が入荷すると繭の質を見るために、どれくらいの糸目でとれるか試す役にされた。繭の品質で糸目はすごく違った。よい(解除率の良い)繭はすぐに糸口が見つかるが悪い繭はなかなか見つからずに無駄がいっぱい出てしまって糸目が少なくなった」
「お母さんもおばあさんも岡谷に糸を取りに行った」
「岡谷から帰ったあと、鏡中條の山梨製糸に行って25歳くらいまで働いた。家からの通いになったので、岡谷にいた時ほどの自由はなく通勤などちょっとたいへんになった。」

2023年8月22日 (火)

「スパイ御用心」戦争中の燐寸(マッチ)

こんにちは。
 昭和時代に生活必需品だったマッチを収蔵資料の中からご覧いただきます。
Dsc_0309_20230822105701 ←「スパイ御用心 書類手紙御用心 職場乗物御用 防諜」 二等品 志摩燐寸製造所(南アルプス市文化財課蔵)
 マッチは簡単に着火するための道具です。1800年代にイギリスで発明されたのち、マッチ箱の側面に薬剤を塗布してマッチを擦りつけて点火する形態のものがスウェーデンで生み出されます。
 日本では、清水誠という人がフランスでマッチ製造技術を学び、明治8年(1875)に東京に新燧社(しんすいしゃ)を設立して国産マッチの本格的な製造を始めたそうです。その後の明治大正期には、スウェーデン、アメリカと並ぶマッチ生産輸出国へと発展しました。
 ところで、マッチが使われる以前には、付木という火をつける道具もありました。
Dsc_0317_20230822105801 ←「付木(つけぎ)(南アルプス市文化財課蔵)」:薄い木片の先に硫黄を塗りつけたもので、火を他に移す時に使う。大正時代にマッチが普及すると使われなくなった。

Dsc_0314 ←「聖戦完遂 国策実践 共販燐寸 日本共販会社制定」 小嶋燐寸製造所(南アルプス市文化財課蔵)

 共販燐寸とは、マッチ業界の安定のため、昭和11年(1936)12月に設立された日本燐寸共販株式会社によって供給されたマッチだそうです。日本燐寸工業組合が統制事業の一環として組合員の製品を買上げ、共販会社に売り渡したものを地方販売会社が購入して消費者に売るもので、その後戦時のマッチ配給統制へとつながる仕組みとなりました。

 戦争の長期化により、とうとう昭和15年(1940)「マッチ配給統制規則」が公布。不足する生活必需品を国が確保し、集中させることなく全体にいきわたらせることを目的として配給制度が実施され、マッチは配給品となりました。
Dsc_0312_20230822105701 ←「一人一人が防諜戦士」二等品 志摩燐寸製造所 (南アルプス市文化財課蔵)

Dsc_0310 ←「逃がすなスパイ 防諜 漏らすな機密」二等品 志摩燐寸製造所(南アルプス市文化財課蔵)

これらの4点の燐寸資料をご寄贈くださったのは都留市にお住まいの方ですが、戦時中ご自宅の倉庫が配給所であったそうで、この資料は終戦、配給制度終了までに配りきれなかったものの残りが保管されていたのだそうです。

 今回ご紹介したマッチは、いずれも、昭和15年頃から20年までに製造された戦時配給品時の広告デザインがほどこされています。 一般市民にまで日常的にスパイに注意することを求めていて、いまを生きる私たちにはたいへんな違和感がありますね。しかし、今から80年ほど前、昭和期の南アルプス市域でも、有名なロタコ(飛行場)建設に子供から大人までたいへん多くの人々が駆り出されましたが、そのことは普段話してはいけないといわれていたのです。

  参考資料:一般社団法人日本燐寸工業会が運営するマッチのバーチャルミュージアム『マッチの世界』
       「日本民具辞典」 平成9年 日本民具学会 ぎょうせい

2023年8月17日 (木)

満州開拓女子奉仕隊と豊村分村開拓団

こんにちは。
18194343 ←「県庁前での豊村第一次満州開拓団女子奉仕隊の壮行会」(西野池之端中込家蔵:真ん中に立つ団長であった中込ちか氏は、白根地区西野池之端で喜久屋商店経営中込家の人でした。この画像はそのお孫さんに当たる方からご提供いただいたものです。)

前回の記事では満州に渡った少年たちの資料をご紹介しましたが、今回は、同じように女子たちの渡満についての記録もご紹介します。

 まずは、契機となった満州に設置された豊村分村についてまとめておきたいと思います。
 国策によって、昭和7年から20年の太平洋戦争敗戦までの14年間に27万人もの日本人が、中国大陸に渡りました。 昭和恐慌で疲弊した農民を移民によって救済することが第一目的でしたが、同時に、満州国を維持し、ソ連との国境地帯を防衛する意図もありました。
 そのような情勢に準じ、昭和14年にはじまった豊村分村計画によって、昭和15年2月11日から、満州(浜江省阿城県四道河)に開拓団の入植が開始されました。そして、昭和20年8月17日の最期を迎えるまで、170名ほどの人々が満州に設立された豊村の分村で暮らした過去があります。
 豊村とは、現在の南アルプス市櫛形地区の吉田・十五所・沢登・上今井区にあたる場所に昭和35年まで存在した村名です。

002img20200820_10045327 ←「四道河にねむる拓友に捧ぐ」豊村満州開拓団誌編集員会より 
 昭和17年4月に豊村分村本隊が中国東北部(満州国四道河)に渡り本格的な開拓が開始されます。
 そして最終的に、昭和20年8月17日に、149名の豊村分村の人々が浜江省阿城県四道河にあった開拓団本部で非業の死を遂げることになったのでした。 匪賊(ひぞく)に囲まれ、逃げ場を失って戦死者を出す中、集団自決という道が選ばれました。

 その満州に設立された豊村分村開拓団に奉仕するための「満州開拓女子奉仕員」の募集が青年学校や青年団を対象に行われました。豊地区からは、青年学校(※1)の先生の説明で20名の女子が奉仕団に応募したそうです。そして、農繁期の春から秋の数か月間を手伝うために満州の分村に派遣されました。
(※1)青年学校は当時の義務教育期間である尋常小学校(のちに国民学校初等科)6年を卒業した後に、中等教育学校(中学校・高等女学校・実業学校)に進学をせずに勤労に従事する青少年に対して社会教育を行っていた。12歳から18歳まで

 昭和18年(1943)中込ちか氏を団長として豊村第一次満州開拓団女子奉仕隊は、県会議事堂前での盛大な壮行会のあと、甲府駅から万歳に送られ出発したそうです。
002img20200820_10173132 ←「四道河にねむる拓友に捧ぐ」豊村満州開拓団誌編集員会より 

 隊員の服装は「紺の上下の訓練服に地下足袋、腕には満州開拓女子奉仕隊の腕章を」つけたとのこと。
 女子奉仕員たちは、満州のハルピンに着いてからさらに3時間乗って、四道河という小さな駅で下車し、迎えのトラックの荷台に揺られて六里離れた開拓団の村に着きました。奉仕隊の仕事は、炊事と風呂の準備に加え、農作業の手伝いでした。渡満からほぼ一年目に、懐かしいふるさとから若く元気な娘たちが20人も奉仕で訪れたので、開拓団に活気が出たといいます。
 奉仕団は3カ月ずつの期間で昭和20年の終戦の年も派遣されました。そのうち昭和20年5月に送出された第二次勤労奉仕隊員12名は現地で終戦を迎え、開拓団の人たちとともに帰らぬ人となったそうです。

002img20200820_10131053 ←「四道河にねむる拓友に捧ぐ」豊村満州開拓団誌編集員会より 

 本日、令和5年(2023)8月17日午後3時は、満州の豊村分村にある本部建物でダイナマイトに点火、自決が行われてから、78年目になりました。
豊諏訪神社の境内には、「満州開拓殉難者慰霊碑」と刻まれた石碑が建っています。本日も神社で慰霊祭が行われると聞いておりますが、きょうは現地に伺うことができないので、〇博調査員は3時に合わせて黙とうを捧げたいと存じます。
791 ←豊諏訪神社境内の「満州開拓殉難者慰霊碑」

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