オーラルヒストリー

2020年8月24日 (月)

加賀美最後の瓦窯元であった神山家

こんにちは。
Dsc_0364_20200824110101  先日、瓦製造が盛んだった若草地区加賀美で、最後まで操業していた神山家工房跡を見せていただく機会を得ました。

加賀美は、最盛期の昭和初期には40軒以上もの瓦窯が密集する地域でした。

その中でも、この神山家はこの地で最後まで瓦を焼いていた家です。

 

Dsc_0357_20200824110101 昭和初め頃から平成2年まで操業し、最後の数年は夫に先立たれた神山とめ子さんが近所の瓦製造経験者たちに助けてもらいながら、ひとりで工房を継続したのだそうです。

←昭和初期から平成2年まで操業した神山家の瓦製造工房内

今は亡きとめ子さんの娘さんとお孫さんが、工房内に残されていた道具類を見せてくださり、一部は文化財課に寄贈していただくことになりました。


Dsc_0376_20200824110201←こちらは瓦を成形する型枠ですね。石のろくろとセットで使うのだと実際の使い方を見せてくださいました。


_dsc0595_20200824110101以前に、同じ加賀美にあった澤登瓦店の作業風景画像にも同じような道具が写っているのをみていたので、今回はその実物資料を収蔵する運びとなって、大変ありがたかったです。

←加賀美の澤登瓦店の昭和40年代末の瓦製造風景。神山家に残されていたのと同じ道具を使っている。

 


P8170344 P8170345P8180352←体験工房等で使用したと思われる鬼瓦に関連した型の数々。 また、神山家工房の終末期には、体験工房としてお客さんに瓦の置物等をつくってもらう取り組みもなさっていたようで、それらの体験用の備品が残されていました。

Dsc_0369 Dsc_0370_20200824110201  工房の外に出てみると、前庭の駐車場の一部がコンクリートブロックで囲われて一段高くなっているのを見つけました。

うかがってみると、この区画内には、かつて成型した瓦を干すための棚が設けられていたということでした。

↑庭の一部がコンクリートブロックで区画され、一段高くなっている。この区画上に瓦を干す台が設けられた。

一段高くなっているのは、大雨が降った際に、上に掛けたシートから流れ落ちる水を素早く流すためだったそうです。

002 Photo_20200824110201 ←八田町誌と若草町誌にある、瓦干し場の様子。


加賀美は南アルプス市の田方(たがた:原七郷にしみ込んだ水が豊富に湧き出る地域)にありますので、家によっては、このような工夫をする必要があったのですね。教えていただいて初めて知りました。

 加賀美の瓦産業については、まだまだ聞き取り調査や関連資料を増やしていきたいと考えています。


今回ご案内してくださった方には、帰り際に、神山家工房での作業風景や加賀美最後の瓦職人であったとめ子さんの画像のご提供をお願いしてまいりました。次回、見せていただくのを心待ちにしている〇博調査員です。

 

2020年8月 5日 (水)

徳島堰のツケエバタとポンプ池

こんにちは。
Dsc_0825  令和2年7月17日から開催中の南アルプス市ふるさと文化伝承館テーマ展「開削350年ー徳島堰」に関連して、
「徳島堰と水辺の暮らし編」をお伝えします。

 徳島堰が御勅使川の下をくぐる前の上流域(韮崎市内部分)には、堰の水を生活に利用するための「ツケエバタ(使い端・洗場)」を設けている場所が多く見られます。


Dsc_0798 ←ツケエバタは、家の敷地から階段で堰の水面に降りられるようになっているような個人のお宅専用のものもあれば、公民館の脇や堰と交差する道沿いなどに階段を付設して集落共同で使うものの2種類ありますが、農機具を洗う他、洗濯や風呂の水を汲むために利用されました。


 しかし、水量の多い4月から9月頃までは流されないように注意をしなくてはならないので、堰路内の水を多用するのは釜無川からの取水が行われない農閑期で、堰に流れ込んだ山からの沢水で、米を研いだり、野菜を洗ったりしたそうです。


 Photo_20200805152402 Photo_20200805152401   ←ポンプ池

そのほかの堰の水利用の実態として、来館者の方に教えていただいたのですが、韮崎市内では、堰下に、堰の水を引き入れる「ポンプ池」とよばれる防火水槽がつくられている場所がいくつかあり、普段はそのポンプ池の水で養蚕道具を洗ったり、菜洗いをしたそうです。

また、子供たちは冬に凍ったポンプ池で下駄スケートを愉しんだそうですよ。
田植え前の春先には、年に一度のポンプ池の水を抜いての大掃除が行われて、大きな魚をつかみ取りしたこともあったそうです。

Dsc_0072 Dsc_0074 M39963 ←下駄スケート(南アルプス市文化財課蔵):下駄に刃を取り付けたスケート用のはきもので、昭和30年代中頃まで使用された。

徳島堰やポンプ池が冬に結氷すると、スケート遊びが楽しみだった。

明治39年に長野県下諏訪町の飾り職人河西準乃助が「カネヤマ式下駄スケート」として売り出したのがはじまり。

 

 

今回のテーマ展の準備調査では、韮崎市山寺の徳島堰沿いに住み、家の前にツケエバタのある山本さんにもお話をうかがっています。

山本さんには、子供のころ、徳島堰で遊んだ思い出を語っていただきました。夏は水泳、冬はスケートを楽しんだそうです。

Dsc_0188←韮崎市の山本さん 89歳 

『夏はツケエバタを降りていって、男の子は皆フリチンで泳いだね。下流の石積みの掴まるのにちょうどいい石があるところまで流れに乗って泳いでいって、堰から上がってはまた上流から飛び込んだ。結構流れが速いから面白れぇだ。だけど、韮崎の水泳大会ではじめてここら辺の子供がプールで泳いだ時は、みんな、いっさら前に進まんくてびっくりしただぁ。その時初めて、堰では泳ぐふりはしてただけど、泳いでたじゃぁなくて、流れに乗っかっていただけだっちゅうこんを思い知っただよ。
 
 冬は凍った堰でスケートをしただ。下駄に刃の付いた下駄スケートを履いて、脱げんように足首にも紐で縛り付けるだ。下駄スケートは韮崎の街のムラタ屋さんというはきものやで買ってもらっただ。』

 

 今回のテーマ展の開催を前に、南アルプス市文化財課の職員は、韮崎市の文化財担当の方々と協同で徳島堰全長17キロを二日間かけて踏査しました。韮崎市側を踏査したのは、ちょうど田植え時期の6月でしたので、堰をドコドコと大量の水が流れており、たいへんな迫力がありました。
Dsc_0998Dsc_0797 Dsc_0776 そして、そんな堰沿いをずっと歩くと、たくさんの様々な形式のツケエバタがあり、流れに直行する階段もあれば、並行しているものもあって面白かったです。

流れに並行する階段の場合、ほとんどは下流に向かうように備え付けられていますが、中には、上流から流れてくる水に向かって階段を降りていくものもあり、ツケエバタに注目して形式分類しながら徳島堰を歩いてみるのもきっと楽しいだろうなと思いました。

そして、疲れたら、堰下にあるポンプ池で涼しげに泳ぐ赤い金魚や鯉を見ながら一休みするのも気持ちがよいと思います。

Dsc_0818_20200805152501  今年は観光に出かけられない日々が続いていますけれども、身近な場所(例えば、もちろん?徳島堰!)に出かけていき、いつもは見過ごしてしまうような何気ない風景をじっくりと観察したり、自分のペースで歩きながら先人の偉業や歴史をしみじみと実感してみるのも、これまた、良いお盆の過ごし方なのでは?と提案します。

← 使用しなくなったツケエバタが塀で仕切られてしまった例。


 さらに、徳島堰を散歩する前に、南アルプス市ふるさと文化伝承館へ「開削350年 徳島堰」展を観に来ていただけたなら、さらにもっと「徳島堰あるき」が楽しくなること間違いなしですよ!

2018年1月27日 (土)

「わたし、女子挺身隊だったのよ」

平成30126日(金)

 きのうは上高砂集落センターのサロン「えがお」にて枯露柿生産農家のノリコさんとお話しました。

その時に「わたし、女子挺身隊だったのよ。終戦の時に愛知にいたのよ」と教えてくれました。女子挺身隊とは、戦争中に軍需工場へ勤労動員された

14歳以上の未婚女性の団体のことです。

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 うし子は高砂名物枯露柿のお話を伺おうとしていたので、突然現れた「女子挺身隊(じょしていしんたい)」という聞きなれない単語に一瞬とまどいながらも、またとない機会に遭遇できたことに感謝しました。

冷戦後しばらく安定していた世界情勢ですが、その変化を実感するいま、戦争を知らない私たちにとって、戦争経験者の証言を直に聞くことができるのは貴重な体験です。大東亜戦争が終結してもう70年以上経っていますから。

 昭和2年生まれのノリコさんは「巨摩高(南アルプス市内に現在もある山梨県立巨摩高等学校・当時は女子高)を卒業した次の日に愛知県春日井郡鳥居松にあった軍需工場に、女子挺身隊として派遣」されました。

「鳥居松の軍需工場には、ノリコさんも含めて山梨県の巨摩高出身者は全部で42人いた」そうです。「来る日も来る日も軍需工場で鉄砲と拳銃の検査をした」「終戦間際は紙を貼り合わせて風船爆弾もつくった」といいます。「食事は米が全くなく、豆のしぼりかすとみそ汁ばかりで、山梨の実家にいた時よりも食糧事情は悪かった」そうです。「軍需工場地帯だったから空襲もよく来て、ある時、山梨の子がB29からの爆撃によって破壊された建物の下敷きになって、一人亡くなった」そうです。もう一人はけがで済みましたが、「治るまでに何か月もかかったからひどいけがだったんだと思う」と淡々と話してくれました。それでも、「終戦後に班長さんが2年半分の給金として2600円も実家に持ってきてくれた(ひと月県内40円・県外100円の賃金だった)。家族が喜んでくれてうれしかった」そうです。

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その話を聞いていた他のおばあちゃまたちからも「私は甲府の刑務所の近くの軍需工場で飛行機の尾翼のちっちゃなちいちゃなねじを作っていた」とか、「甲府の英和高校でずっと軍需関連の為替を記入していた」との声を聞きました。

 そのほか「電車に乗る時、街を歩く時など生活全般に戦争中は規制があってつまらなかったし大変だった」そうです。十代の終わり頃を女子挺身隊として過ごしたノリコさんだけでなく、青春時代を戦争にとられてしまった彼女たちには、「戦争は本当に嫌なこと」だそうです。

124野牛島中島家資料より「長男の出征」。男の人だけでなく、戦争では山梨の女の子たちも、親元を離れて工場で戦ったのですね。


ノリコさんの女子挺身隊時代の写真や資料はもう何も残っていないそうですが、お話を聞かせてもらえただけでも深く心にしみました。

 次回にお会いするときは、貴重なオーラルヒストリーとして是非動画に撮らせて欲しいとノリコさんに頼んでいます。

うし子

2018年1月21日 (日)

古写真と回想法

平成30119日(金)

こんにちは、八田うし子です。

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今週は
16日に榎原集落センター、18日に上高砂集落センターのサロン「えがお」を訪ね、おばあちゃまたちにまたいろいろと昔のことを教わってきました。

その日の話題の種になればと、集落それぞれに関連のある古い写真を何枚かプリントアウトして持っていくことにしています。

聴き取りたいテーマに、おばあちゃまたちの会話を誘導したいという意図もあるのですけど・・・。

 でも、おばあちゃまたちの古写真をご覧になった時の上々の反応は、そんなうし子の浅はかな企みを凌駕します。




写真に関連した光景や出来事が次々と頭の中によみがえるようで、もう話が止まらないんです!

Photoそんな状況にうし子のテンションも上がってしまっているようで、その様子を録画した動画を見返す時、自分の声も大きくなっていることに気づき、いつも反省しています。

毎回違う古写真をピックアップしていきますが、

今回は、榎原では「瓦屋」「でんでん山」、上高砂では地区特産の枯露柿に関する写真を持っていきました。

八田地区全体の話題として、つい最近入手ばかりの八田の百貨店「六科のだるまや」、野牛島のお宅から収集した明治44年撮影の「産湯につかる赤ちゃん」等の古写真、また、時節柄このあたりの節分行事の実態を知りたくて、文献をもとに再現してみた「節分用の目駕篭」の写真も持って行きました。

001昭和40年代の榎原・中沢瓦店さん「あ~こんなふうだった~。うちの家の瓦はこの中沢さんで焼いて葺いてもらったんだんよ」と上高砂のおばあちゃんが教えてくれました。
023←榎原でんでん山「この写真はねぇ、下高砂から長谷寺方面に上ってきて途中で道が分かれるところだね」と撮影地点を教えてくれました。

028←昭和初期に高砂枯露柿出荷組合を山梨県知事が視察した記念写真。上高砂の3人のおばあちゃまたち家の先代がこの中にいらっしゃいました!あわせて、干し柿つくりの歴史や実態を聞き取ることができました。

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 おばあちゃまたちが、あっちこっちで一斉に面白い話をしてくれていて、うし子が採収できなかったこぼれ話もいくつかあったと思います。

そんな時には、カメラマンがもう一人欲しいよ~と思いますが、これは複数回の訪問でカバーするしかありません。

来週もお邪魔しますとお伝えすると、「こんねん昔のことを知りたいという人がいるなんて驚いたよ。なんだか懐かしくて楽しいじゃんね」と言ってもらえて、幸せのうし子です。

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 近年、お年寄りのケアを専門になさっている方々は「回想法」という療法を行っておられます。映像や画像、実物の民具を見て、触って、過去の出来事を振り返り、その思いだしたことについて、お年寄り自らが口に出して語ってもらう働きかけをするそうです。

この写真をきっかけにお産婆さんの話になり、昭和期の出産の形態がどのように変わったかなども聞かせてもらいました。

専門家のみなさんには、いま、南アルプス市ふるさと○○博物館に収集している古写真をはじめとした様々な資料を、これからも是非、地域のデイサービスや介護施設での回想法に、どんどん活用してもらえたいと考えています。

今週の訪問で、上高砂の斎藤さんからは旦那様がかつてまとめた枯露柿の歴史に関する資料と、昭和30年代から収集した日本手ぬぐい一括を寄贈いただきました。

おばあちゃまたちから聴き取りした貴重な情報は今後皆様に提供できるようにまとめて、順次公開していきます。楽しみにしていてください。

うし子