八田地区下高砂・徳永・榎原

2023年12月19日 (火)

故郷に届いた出稼ぎ工女の葉書②

こんにちは。
今日は、明治終わりから昭和時代にかけて、県外の製糸場で働いていた女性たちが故郷に送った葉書がまとまって見つかりましたので、ご紹介したいと思います。今諏訪にあるお宅の蔵に眠っていた古い書簡の束からピックアップしたものですが、70通以上もありました。
こちらのブログでは、過去に西野村の相川ふくのさんという女性が明治31年から39年の間に武州入間豊岡町にあった石川製糸所から送った葉書をご紹介しましたが、今回は、今諏訪村の手塚家に30名ほどの村出身の女工が明治から昭和時代に掛けて送った80通もの葉書等を新資料として加えて、考察してみよう思います。
   002img20211020_10434640_20231219165801 ←明治31~39年埼玉への出稼ぎ工女からの葉書(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市文化財課蔵)
   Dsc_0523←明治41~45年埼玉・長野・山梨(諏訪村:現在の北都留郡上野原町)への出稼ぎ工女から届いた葉書(今諏訪手塚正彦家資料・南アルプス市文化財課蔵)

Dsc_0525_20231219165301←大正4~15年長野の諏訪岡谷への出稼ぎ工女からの葉書(今諏訪手塚正彦家資料・南アルプス市文化財課蔵)
Dsc_0526 ←昭和2~13年長野・滋賀・甲府の工女から届いた葉書(今諏訪手塚正彦家資料・南アルプス市文化財課蔵)

現在、南アルプス市域で確認している出稼ぎ工女からの葉書は、すべて白根地区の西野と今諏訪で収蔵したものですが、およそ80通をリスト化してみると、出身の少女たちの出稼ぎ先の年代的な傾向やその他興味深い事実が見えてきました。

Sk0120231220_09011682 ←白根地区出稼ぎ工女からの葉書リスト(南アルプス市ふるさと○○博物館調査員作成)

 いままでに南アルプス市域で見つかった出稼ぎ工女からの葉書でもっとも古いものは、明治31年のものです。出稼ぎ先は武州入間郡(現埼玉県入間市)の石川製糸所。
まだ中央線などの鉄道が存在しなかった頃ですから、御勅使川扇状地に住むにしごおりの人達は、当然、武州入間まで自分の足で歩いていくしか無かったはずです。まずは、今諏訪の渡しで釜無川を渡り、荒川を渡り、甲府の街を抜けた後、秩父往還に入り、険しい雁坂峠を越えてやっと秩父の町に降りたら、交差する武州街道を右に折れて入間に向かったと考えられます。糸取りの出稼ぎに向かう少女たちはいったいどれくらいの日数をかけて入間の石川製糸所に至ったのでしょうか?明治初期より生糸の輸送路として使用されていた秩父往還ですが、途中の雁坂峠越えはさぞ大変だったことでしょう。
同じように明治後期から大正期にかけて日本の近代化を支えた糸取り工女たちを語るうえで象徴的な「あゝ野麦峠(昭和54年公開)」という有名な映画がありますが、その主人公のモデルであった政井みねさんは明治36年~42年に、飛騨高山から信州諏訪の製糸所に出稼ぎに行っていました。甲州西野村から武州入間の石川製糸所に出稼ぎした相川ふくのさんは明治31年~39年の間に行っていますから、だいたい同時代のこととなりますね。そして、信州諏訪で百円工女となった政井みねさんが病気になり、引取りに行った兄の背中で『ああ、飛騨が見える』とつぶやいて息を引き取った場所というのが、有名な野麦峠です。
もしかしたら、野麦峠と同じようなエピソードが雁坂峠でもあったかもしれません。舞台が違えば、兄に背負われた乙女が「あゝ、甲州が見える」と云ったこともあったかも知れない。いや、文言は「あゝ富士が見える」だったでしょうか?雁坂峠から見える富士は格別ですから。(もっとも、工場の近くの入間駅からも富士山は見えるらしいのですけどね・・・・)
 武州石川製糸所の系列工場の川越工場には、 明治43年まで働いていた手塚はまのさんからの葉書が故郷今諏訪に届いており、明治30年代から40年代初めまでは、南アルプス市域からの工女の出稼ぎ先は武州(埼玉県)方面が主流であったといえます。
 しかし、明治44年以降にはじめて信州諏訪へ行くものが見られると、その後、大正時代の出稼ぎ地は諏訪湖周辺の平野村や長地村といった現在の岡谷市方面一択となります。この傾向は、昭和初期まで続いていきます。
 これは、中央線が明治36年に甲府まで開通、明治39年に岡谷まで開通、明治44年に全線開通(新宿から長野県塩尻駅を経由して名古屋駅まで)する動向に付随するものと考えられます。葉書を送った女性たちの故郷である西野・今諏訪の最寄り駅となる龍王駅は明治36年に開業していますから、その後の埼玉方面への出稼ぎには、八王子までは中央線を使っての移動も可能になりました。そして、明治44年に中央線が全線開通すると、出稼ぎ先が一気に長野方面へシフトするわけです。
 
 山梨県は明治7年より県営の山梨勧業製糸場が操業し、全国的にも早い段階で大規模器械製糸工場が栄えていましたので、先進地であるがゆえに次々と日本各地に勃興する大規模器械製糸場に熟練工女が高待遇で引き抜かれていくという憂き目にあいました。これは中央線の開通によりさらに加速し、大正期に入ると山梨県内の女性労働者たちの多数が県外の製糸場で働くようになりました。そのため、慢性的な人手不足に陥った山梨の製糸業は地位を落としたといわれています。今回の分析結果からも、当地の製糸工女供給地としての様相が、多数の葉書の存在と年代別に見た仕事場の住所の変遷から見て取れます。
 また、分析資料の大半を占める上今諏訪手塚家資料の葉書の宛名は、大正時代までは手塚正森さん宛になっていることが多いのですが、文面に、製糸場までの見送りを感謝する内容が多かったことから、この人物が製糸場の工女集めに関与する役目を担っていた可能性があると考えています。

 昭和時代に入っても長野方面への出稼ぎは続きますが、昭和9年に滋賀県の鐘紡製糸場に行くものが現れたり、逆に地元の豊村の花輪製糸や甲府の製糸場に行っている人の葉書もありました。
以前に、南アルプス市内八田地区榎原での聴き取りで、大正11年生まれで岡谷に糸繰りに行ったという女性にお会いしたことがあります。たいへんなこともあったようですが、楽しく印象に残る経験も多くあったと話してくれました。2年間岡谷に行った後は、家に帰って家の仕事をしながら通いで市内鏡中條にあった山梨製糸で働いたということですから、そのようなことも多かったのかもしれません。以下に、聴き取り時のメモを参考資料として貼っておきます。
201712511 ←八田地区杉山ナツエさん 2017年12月5日撮影聴き取り
「岡谷に製糸場に行った時こと」
杉山ナツエ(なつゑ)大正11年生(聴き取り時:95歳 現在:101歳)
「十六・七歳(昭和13・14年)の頃、2年間岡谷の製糸場で働いた。龍王駅から電車に乗っていった。他にもたくさんの山梨の人が岡谷に行って女子寮に入って女工をしていた」→女工時代は楽しい思い出がいっぱいある。(ごはん・寝るところ・厳しい検番(工女の監視をする男の人でしゃべっていたりよそ見をしているとすぐに飛んできて怒る)
「男女交際禁止だったので、夜に仲間の誰かがもらったラブレターを皆で内緒で読んだ(学校に行っていなかったので、字が読めない人のラブレターを字の読める人が読んでやって、皆で聴いたり見たりして字や手紙の書き方、男の人との付き合い方等いろいろ学んだ)」
「製糸会社でも裁縫や勉強(習字)などを教えてくれた。」
「ふだんの休みの時には岡谷の街に映画を見に行ったり、買い物に行ったりした。帰る時間に遅れて門限を過ぎてしまうと、寮の門番に名前を書くように言われたので、いつもうそをついて女優の名前「スガヌマシズエ」を書いたりしていたがばれなかった。」
「お盆には休みはなく、お正月にしか休めなかったが、実家に帰る前には家族が喜ぶお土産をいっぱい買い込んで、満員電車に乗って中央線で龍王駅に降り立った。岡谷の製糸会社で働いている山梨の人は多かったので、会社の中でも同郷同士かたまって仲良くしていた。また、正月で帰る電車の中は、岡谷の他の会社で工女となっている人とも一緒になって、地元の知り合いだらけだったし、駅もごったがえしていた。」
「正月に実家に帰ると、両親がよく頑張ってくれたと言って新しい着物の反物をかっておいてくれた(あんまりうれしくなかったけど)」
「私は、優等工女でもなく、出来が悪いわけでもなく、いつも平均の成績で糸を取っていたので、新しい繭が入荷すると繭の質を見るために、どれくらいの糸目でとれるか試す役にされた。繭の品質で糸目はすごく違った。よい(解除率の良い)繭はすぐに糸口が見つかるが悪い繭はなかなか見つからずに無駄がいっぱい出てしまって糸目が少なくなった」
「お母さんもおばあさんも岡谷に糸を取りに行った」
「岡谷から帰ったあと、鏡中條の山梨製糸に行って25歳くらいまで働いた。家からの通いになったので、岡谷にいた時ほどの自由はなく通勤などちょっとたいへんになった。」

2023年11月27日 (月)

高砂渡場橋梁渡船賃銭表(たかすなわたしばきょうりょうとせんちんせんひょう)

こんにちは。
秋も深まってお散歩するのが楽しい季節ですね。私は橋を渡って河川敷の遊歩道を歩くと、気分がスッとして好きです。ちょっとひんやり澄み切った空気を吸い込みながらテクテクする遊歩道は、だいたい川の堤防上にあるから小高くて、富士や南アルプス等の甲府盆地を取り囲む山々がぐるっと望めますし、またその背景になっている空もきれい!「私っていい所に住んでるよね~」って幸せを感じるひと時です。
 でも、いまから100年くらい前までは、気軽に橋を渡って川沿いに散歩することなんてできなかったんですよね。お金も必要だったようですし。
 たとえば、現在、南アルプス市八田地区に、昭和7年にコンクリート製の旧信玄橋が開通するまで、上高砂と龍王を隔てる釜無川を渡るには、「高砂渡し(たかすなのわたし)」を利用する必要がありました。その高砂の渡しには利用料も必要でした。しかも、釜無川の水量の状態や利用する人の条件によって料金が細かく設定されていました。
10_20231127114601 ←「大正5年頃の高砂の渡しの様子」(南アルプス市文化財課蔵)
Dsc_0422_20231127114701   Dsc_0417_20231127114701 ←「高砂渡場橋梁渡船賃銭表看板 大正7年」(南アルプス市文化財課所蔵):釜無川の右岸にある高砂と左岸側の竜王へと結ぶために運営されていた渡し場に掲げられていた料金表の看板

『 山梨県許可
 橋梁渡船賃銭表
 橋梁之部
人壱人  金二銭
牛馬一頭 金四銭
人力車一輌 金四銭
自転車一輌 金二銭
荷車一輌  金五銭 
客馬車一輌 金七銭
荷馬車一輌 金十銭

 渡船之部
 常水三尺以下二人越
人壱人  金三銭
牛馬一頭  金四銭
人力車一輌 金四銭
自転車一輌 金二銭
荷車一輌  金五銭
 増水三尺五寸以下三人越
人壱人  金四銭
牛馬一頭  金五銭
人力車一輌 金五銭
自転車一輌 金三銭
荷車一輌  金六銭
 増水四尺以下四人越
 人壱人  金五銭
牛馬一頭  金七銭
人力車一輌 金七銭
自転車一輌 金四銭
荷車一輌  金八銭
増水四尺五寸以下五人越
 人壱人  金六銭
牛馬一頭  金九銭
人力車一輌 金九銭
自転車一輌 金五銭
荷車一輌  金十二銭
増水五尺以下六人越
 人壱人  金七銭
牛馬一頭  金十一銭
人力車一輌 金十一銭
自転車一輌 金六銭
荷車一輌  金十四銭

備考荷車並荷馬車空車ナルトキハ総テ半額トス
右之通り
大正七年四月廿七日  高砂渡場     
          山梨県龍王警察署□印 』

Dsc_0419 ←「高砂渡場橋梁渡船賃銭表看板 大正7年」(南アルプス市文化財課所蔵):釜無川の右岸にある高砂と左岸側の竜王へと結ぶために運営されていた渡し場に掲げられていた料金表の看板
 ただの料金の羅列ですが、最初から最後まで頭を働かせながらゆっくり見ていくと、かなり面白い発見ができそうです。では、一緒に見ていきましょう!
 ①まず、全体の構成から見ると、橋梁の部と渡船の部に分けられていることに気がつきます。「橋があるのに、それよりも1銭も高く支払って船で渡るとはいかに?遊覧船でもあるまいし」と、不思議に思ってしまいますが、ここには理由があって、昭和7年にコンクリート製の永久橋である信玄橋が建設されるまで、橋は、冬期の水量の少ない時期にのみ存在するものでした。春から秋にかけての増水期には、橋は取り払われていました。橋梁の建築技術や素材が未熟だった明治大正期には、春から秋に起こる大雨によって流される危険性が高かったのでしょう。
 高砂の渡しの場合、舟が運航するのは5月頃から12月中旬までで、水の少ない12月から4月までは仮橋がかけられていたと八田村誌にあります。そのために、橋の通行料と渡船賃の両方が明記されていたというわけです。

10_20231127114603 ←「大正5年頃の高砂の渡しの様子」(南アルプス市文化財課蔵)
 毎年の橋の架け替えに必要な経費については、橋の通行人が支払うものとは別に、橋を多く利用する近隣村が分け合って負担していたようで、年末にまとめて村が支出していたことが、文化財課が保管する村入用夫銭帳などからわかっています。
12_20231127115201 Photo_20231127115301 ←「k-0-0-19-30 1862戌夫銭帳西野村」(南アルプス市文化財課蔵・西野功刀幹浩家資料より)
 上今諏訪の渡し(現在の開国橋あたり)に近い西野村でも、文久2年村入用夫銭帳にて12月に「上高砂 橋掛入用甲銀15匁を支出」の記載があります。この他の年でもだいたい同じような金額を12月にまとめて上高砂村に支払っているようですので、高砂の渡しで毎年建設する橋梁は上高砂村が管理運営していたということだと思います。

 ②それでは、次に橋梁の部と渡船の部の項目別の料金について見比べてみます。通行人だけでなく、牛馬や人力車、自転車、荷車などの乗り物別に料金設定が異なっている様子がわかりますが、客馬車と、荷馬車は渡船では無理だったようで、橋梁の存在する期間(12月から4月頃)に限って通行可能であったことがわかります。

Dsc_0421 ←「高砂渡場橋梁渡船賃銭表看板 大正7年」(南アルプス市文化財課所蔵):釜無川の右岸にある高砂と左岸側の竜王へと結ぶために運営されていた渡し場に掲げられていた料金表の看板

 ③さて、次に着目するのは、渡船賃料が、川の水深によって細分されているところです。
 三尺以下(90.9cm以下)、三尺五寸(106.1cm以下)、四尺以下(121.2cm以下)、四尺五寸(136.35cm以下)、五尺以下(151.5cm以下)の5段階となっています。このことから、5尺以上(水深151.5cm以上)で渡しは中止されたということが理解できます。
 三尺以下の常水では1人3銭であるのが、最も増水している時では一人7銭となり倍以上の料金がかかったということがわかります。

 ④面白いことに、馬や荷車に乗せた荷物の量や重さは料金に無関係だったようです。荷台はカラあっても満載でも1輌分の料金は変わらないということでしょうか。

10_20231127114602 ←「大正5年頃の高砂の渡しの様子」(南アルプス市文化財課蔵)

 ここで、大正初期当時の高砂の渡し利用状況を具体的にいろいろ想定して、料金を計算してみようと思います。
・夏に収穫した桃を詰めた籠を背負って、晴れた日に甲府の市場に行くために高砂の渡しを使う場合の料金
→3銭
・桃を荷車に積んで船で渡る場合 → 5銭
・甲府へ新春の初売りに行くために橋をわたるとき→ 2銭
・甲府の製糸場へ出荷するため、台風の翌朝に繭を荷車いっぱいに積んで船で渡るとき(釜無川は増水五尺)→14銭
・芦安で切り出した材木を12月に荷馬車で甲府に運ぶ場合→10銭

 川を渡るときのお金のかかり具合は、だいたいこんな感じでしょうかね。しかし、まだわからないというか、こんな時はどうなんだろうという場合もあります。たとえば、客馬車に乗っているお客さんからも一人当たりの橋梁渡賃2銭を徴収していたのか否か? 荷車の積載量を徴収しないのと同じように、客馬車代を7銭払ってあれば、のせている人の数は不問だったのでしょうか?気になるところです。

 こうしてみてみると、ひと1人で渡る時に一番安く川を渡れるのは、12月から4月までの橋の架かっている時期の2銭で、5月から11月の渡船でいかなくてはならない時期には1銭高くなったのですね。一番値段の高くなるのは、増水五尺で1人で7銭、荷車で渡るときは14銭とありますが、『六人越』とありますから、6人の渡し人を使って流れの速い釜無川に船を出すのですから、相当危険なこともあったと想像します。
7_20231127114701 ←「昭和7年信玄橋落成記念」(南アルプス市文化財課蔵・野牛島中島家資料より)

71115 ←昭和7年11月15日信玄橋開通記念:長さ460㍍、幅7メートルの鉄筋コンクリート製の永久橋が完成し、高砂の渡しは終了した。(南アルプス市文化財課蔵)

 高砂の渡しは、昭和7年にコンクリート製の永久橋が竣工すると終了したと考えられます。この永久橋が初代の信玄橋です。総長455.5m、幅員5.45mで、総工費は約12万円だったそうです。

Photo_20231127114601 ←昭和7年(1932)旧信玄橋のこの親柱には、頭部に橋灯が設置され夜間の通行の助けになっていたが、戦時中に撤去されたとのこと。(南アルプス市文化財課蔵)

Dsc_0461 Dsc_0464 ←現在の信玄橋と信玄橋上からみた高砂の渡しのあった辺り(令和5年11月16日撮影)

Dsc_0462 ←平成4年(1992)に竣工した2代目で現在の信玄橋の親柱には、武田菱がついている(令和5年11月16日撮影)

現在の信玄橋は平成4年に2代目として竣工したものですが、1代目と同じく、武田菱や武将の意匠が橋の所どころにデザインされた信玄橋の名にあやかったものとなっています。
 なお、役目を終えた1代目の信玄橋の親柱は、現在、八田児童館の敷地内に移されており、いつでも自由に見ることできるようになっていますよ。

Dsc_0484 Dsc_0482_20231127120201 ←「昭和7年竣工の旧信玄橋の親柱」八田児童館の敷地内に移されている。(令和5年11月16日)

 

2023年8月31日 (木)

戦時の女性たち(大日本国防婦人会と防火訓練)

こんにちは。
収蔵資料に「大日本国防婦人会」の襷(たすき)やこの白い襷をかけた女性たちの記念写真があります。

6_20230831105801 ←「モンペに割烹着、大日本国防婦人会の白襷をかけた西野村功刀の婦人たち(昭和15年頃)」(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市文化財課蔵)

 大日本国防婦人会というのは、昭和7年(1932)に大阪から発祥した戦争協力団体の一つです。「国防は台所から」というスローガンのもと、会員たちは出征軍人の駅などでの見送りや退役軍人の出迎え、遺骨の出迎え、戦地への慰問袋の製作などの奉仕活動のほか、食糧増産のための勤労、本土空襲に備えた防火訓練、国防献金運動にも動員されました。

Dsc_0315_20230831105801 ←大日本国防婦人会の襷(南アルプス市文化財課蔵)

Photo_20230831105802 ←「かっぽうぎに大日本国防婦人会の襷を掛けた夫人(昭和10~15年頃撮影)」(西野中込家資料・個人蔵)

 当時は、一般の家庭婦人が会員である「大日本国防婦人会」とは別に、明治34年から皇族や華族を中心に設立されていた「愛国婦人会」という組織も存在していましたが、昭和17年(1942)に「大日本婦人会」として一つに統合されました。その後は、20歳以下の未婚者を除く全婦人を強制的に加入させることで、女性の戦争協力への動員が徹底的に図られるようになるのです。

6_20230831105802 ←「モンペに割烹着、大日本国防婦人会の白襷をかけた西野村功刀の女性たち(昭和15年頃)」(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市文化財課蔵)空地を犂で耕して農地にする勤労奉仕活動であろう。西野功刀家資料には、戦争の悪化により国内の物資が不足したため、航空機の潤滑用オイルとして蓖麻(ひまし油の原料)を生産が行われたことを示す文書も残されている。

 戦争末期になると強制的加入となっていった婦人会ですが、一方で、それまで各家庭の中だけにしか活躍の場のなかった女性たちが、戦争協力としての役目を負わされたことで、一個人として社会とのつながりを認められたと感じることもあったようです。
  割烹着に大日本国防婦人会の襷をかけ、記念撮影する女性の表情に、かすかな誇らしさを感じるのはそのような理由があったのではないかと思います。揃いの割烹着と襷を身にまとい、勤労奉仕をする女性たちの表情に悲壮感が無く、皆晴れやかで明るいのにも納得できるような気がします。
 日本における戦後昭和以降の女性の社会進出において、彼女たちが戦時の婦人会で行った様々な活動経験が生かされたという見解もあるようです。 

また他に、〇博調査員が各地区でよく見かける、戦時中の女性の姿として印象的な資料は、「防火訓練」の写真です。

Img20180309_11353337 ←「榎原区での防火訓練(昭和17~20年頃撮影)」(八田榎原杉山家資料・個人蔵)

Photo_20230831105801 ←「池之端家庭防火群ノ張切ノ姿 ・・・(昭和17~20年頃撮影)」(西野中込家資料・個人蔵)

No37-1619 ←「飯野区での婦人会による防火演習(昭和16~19年頃)」(写真集「夢ー21世紀への伝言ーふるさと白根100年の回想」平成13年白根町発行 より)

各地区で意識的に記録として撮影されたようで、男性陣が指導監視する?中、防空頭巾などをかぶった女性たちがカメラ目線でバケツリレーする独特な構図の写真をよく見ます。女性も社会の一員として銃後の守りを遂行すべく防火訓練に励んでいる姿を記録、アピールしたものなのでしょう。

2023年5月25日 (木)

前御勅使川を封鎖した穴水朝次郎の報徳碑

こんにちは。
002img20230518_14060596←「錦洞翁報徳碑」平成15年八田村誌より
昨日、気になっていた石碑があって八田地区下高砂の広照寺さんに観に行ってきました。八田村誌に載っていたこの画像が手掛かりです。

Dsc_0108←「八田地区下高砂広照寺」(令和5年5月22日撮影)

下高砂の集落内にあるこの山門をくぐって進み、左手にある桜の木の横に大きな石碑が見えました。
Dsc_0097 Dsc_0101←「八田地区下高砂広照寺内にある錦洞翁報徳碑」(令和5年5月22日撮影)

近づいて目を凝らしてみると、『故錦洞翁報徳碑』と刻まれていますので、間違いなさそうです。
 この石碑は『錦洞翁』と称された穴水朝次郎(あなみずともじろう)という人物を讃えるために生家近くの菩提寺に建てられたものです。裏側にまわってみると、なにやら文字がいっぱい!でも大丈夫。どのような内容なのかはちゃんと八田村誌に書いてありますから確認することができます。
Photo_20230525114901←「穴水朝次郎画像」平成15年八田村誌より
甲斐で天保騒動が勃発した天保7年(1836)に生まれた彼は、国学者五百川巨川や江戸の平田篤胤に学んだ後に、明治期に山梨県区長総代等を務めました。その後、山梨県庁に入り、土木・勧業課長として辣腕を振るいます。特に明治9年以降は釜無川と御勅使川の築堤をはじめとする山梨の治水事業において多大な功績を遺しています。
Dsc_0126_20230525114801←「御影村明治29年水害状況絵図(南アルプス市教育委員会蔵・南アルプス市ふるさと文化伝承館展示)」:この明治29年の大水害が契機となり前御勅使川を封鎖する決定がなされた。
002img20230525_11163515←「明治29年水害図」平成15年八田村誌より
 なかでも、晩年の彼が、八田地区の釜無川に御勅使川が合流する地点にある水害地域を救うべく、増水時に現れる前御勅使川とよばれた流路を封鎖する「石縦堤」を明治31年に完成させた功績は大きく、水害を激減させました。
002img20230525_11142902←「石縦堤他御勅使川の治水事業図(南アルプス市教育委員会編集発行『堤の原風景Ver5』よりp2・3)」

明治33年9月2日、享年63歳で穴水朝次郎は病を得て亡くなります。徳島堰から六科将棋頭までに築かれた石縦堤によって前御勅使川は消滅しましたが、その旧河川路上には、東西に延びる真っすぐな道路がつくられています。その後、昭和7年にコンクリート製の信玄橋が完成したことにより、甲府へのアクセスが飛躍的に向上し現在に至ります。
002img20230518_14065148←「百々地区内の道路に変容した石縦堤跡」平成15年八田村誌より:現在では石縦堤も道路に変容され消滅している。

Dsc_0100 ←「錦洞翁報徳碑の碑文」(令和5年5月22日撮影)
報徳碑にも、『防堤を修築し道路を開鑿す。偉業歴々として徴すべし。』と刻まれています。穴水朝次郎の数ある偉業の中でも、特に、築堤によって前御勅使川を廃し道路を建設した功績は、時代が変わってもこの地域に安全に住むことができている人々が、穴水朝次郎を想い起こし確認すべき大事業であったということです。

この報徳碑には『明治壬子初春』とありますので、没後10年以上経った明治45年(1912)の1月頃に建てられたものです。同じく平田塾の門弟であった尾崎行雄の書による報徳碑の碑文は、朝次郎を敬慕していた身延町出身の政治家望月小太郎によって捧げらました。

2022年12月15日 (木)

にしごおり果物の軌跡は「柿の野売り」による行商活動からはじまった

 こんにちは。
今月21日迄開催しております南アルプス市ふるさと文化伝承館テーマ展「にしごおり果物のキセキ」において展示中の古文書について、きょうはご紹介したいと思います。

P1130663 ←南アルプス市ふるさと文化伝承館テーマ展「にしごおり果物のキセキ」より、柿売人に関する文献の展示コーナー
 展示ケース中にて、『菓もの類野うり免許状』2点、『曝柿直売免許状』1点、『原七郷議定書之事』1点を公開しています。いずれも、にしごおりの柿売人に関する文書です。
 これらの古文書の展示によって、にしごおり果物の軌跡が「柿の野売り」による行商活動からはじまっていることを知っていただきたいと思いました。

 古来より、砂、砂利、礫、粘土に覆われたにしごおりの原七郷では、その恵まれない自然条件下によるギリギリの土地利用のなかで、最大限の効果を挙げようと努力する人々の姿がありました。柿などの作物を加工したり、売る時期をずらすなどして、商品価値を高め、農閑期に村外まで売り歩く行商によって、村の生産力以上の人口を維持してきたのです。南アルプス市域で最も古くから盛んに作られた果物は、この行商用商品として加工するための柿でした。

古文献にも、西郡(にしごおり)の柿についての記述は見られ、

「裏見寒話巻之四」1754年宝暦4年 野田成方 「甲斐志料集成三 地理部2」昭和8年 甲斐志料刊行会・大和屋書店に収録の
甲斐料集成P226には『西郡晒柿 渋柿を藁灰にて晒して売る。此処は田畑なく、柿を売る事を免許されしといふ。』
甲斐料集成P229には『晒柿 渋柿を藁汁にて製して晒す。佳味也。西郡原方より出づ。』とあります。これらの記述から、にしごおりの人々が売り歩いた柿は渋柿を加工したもので、「晒柿(さわしがき・さらしがき)」と称されていたことがわかります。

 行商の商品として「にしごおり果物」を生産したことは、明治以降に当地で勃興するフルーツ産業に、様々なプラス作用を及ぼしました。商機があればどこにでも出かけていく、風の如く機敏なフットワークと開拓心によって磨かれた、にしごおり行商人たちの経済観念の強さは、市場の動向にもまた機敏な果物栽培を初期段階から実現し、現在の南アルプス市における独創的なフルーツ産業の在り方へとつながっています。

P1130201    ←1 「菓もの類野うり免許状 十五所澤登家所蔵」 天文10年8月 1541:七郷の者に与えられたという果物売りの行商免許(御朱印)状

 まずは、原七郷のの者どもへ武田信玄が出したという、いわゆる「野売り免許状」と呼ばれるたぐいのものを3点ご覧いただきます。
1 「菓もの類野うり免許状 十五所澤登家所蔵」 天文10年8月 1541
    七郷の者に与えられたという果物売りの行商免許(御朱印)状
『其村々より年々飼馬
献上致候段神妙之至
向後三郡九すし之内
菓もの類野うり糶売
免許之事

小幡山城 奉之

天文拾年    
  辛丑八月日 

          七郷之もの共』

P1130662 ←『1・2菓もの類野うり免許状』2点、『3曝柿直売免許状』1点、『5原七郷議定書之事』1点

2 「菓もの類野うり免許状 桃園区有文書55-16」 天文10年8月 1541
    七郷の者に与えられたという果物売りの行商免許(御朱印)状
『其村々より年々飼馬
献上致候段神妙之至
向後三郡九筋之内
菓もの類野売糶売
免許之事
小幡山城 奉之
天文十年辛丑八月日    
              七郷之 もの江』

3 「瀑柿直売免許状 桃園区有文書55-1」 天文18年8月 1549
    七郷の者に与えられたという柿売りの行商免許(御朱印)状
『巨摩郡西郡筋原七郷者
雖乾水場所他邦会戦之節
夫持軍役等無遅滞因
先功瀑柿直売并諸商令
免許之旨御下知不可有
相違弥以此趣軍用可相勤条
依執達如件

天文十八年酉八月十五日   小幡因幡守
                奉之

              巨摩郡
               原七郷者江』

 「野売り免許状」とは、「飼馬を献上した等の功績により、原七郷に住む者どもに、果物類、晒柿その他の野売、せり売が信玄により免許されたという御朱印状のことで、1の免許状(朱印状)は現在でも櫛形地区の個人宅で大切に保管されているものです。これまでに※文献等に紹介された、同様の野売り免許状を集成すると、天文10年から永禄11年迄で計9点が確認できますが・・・。しかし、現今では偽書であるとの判断がなされています。このような偽の信玄免許状が流布するようになるのは、文化6(1809)年10月に起きた市川大門柿売人との縄張り争い以降であるとされます。 ※文献3)4) 
 ちなみに、野売り免許状に記載されている「天文10年」は、6月に武田晴信(後の武田信玄)は父の信虎を追放して当主となり信濃侵攻を開始した年です。「小幡山城」とは、武田家の家臣で小幡虎盛という人物を指します。

※ 野売り免許状についての記述のある文献:
1)「豊村」 豊村役場 昭和35年
2)「行商人の生活」 塚原美村 雄山閣 昭和45年
3)「甲州商人の特権伝説をめぐる一考察」 笹本正治 山梨郷土研究会甲斐路第59号 昭和62年
4)「山梨県史資料編11近世4在方Ⅱ」 山梨県 平成12年

 それでは次に、以上1・2・3のような偽書といわれる「信玄の野売り免許状」が、つくられる契機となった文化6年のある事件についての文書をご紹介します。

Dsc_0860 ←4『4柿売一件』 桃園区有文書55-5 文化6年10月 1809


4「信玄の偽免許状発給のきっかけ事件」文化6年10月 1809 『4柿売一件』桃園区有文書55-5
:八代郡東油川村で起きた市川大門とにしごおりの柿売人との間に起きた縄張り争いを巡る喧嘩についての文書
にしごおり柿売人が絡んだ争いの、最古の記録とされる。 ※文献1)3)

『八代郡市川大門村惣右衛門吉右衛門御訴訟奉申
上候趣意ハ祐助安五郎外五人者共晩十六日
八代郡東油川村近辺江柿売ニ罷出候処同商
売之もの原方七郷之者之よし申之大勢
理不尽難題申懸勇助安五郎両人之柿籠
奪取候間外立会候者共種々懸合候所一向
不取用小人数御座候得ハ大勢ニ而悪口申募
られ理非不相分両人之者共西郡原方ヘ一同
右連申候ニ付外五人之者共罷帰右両人親々江
相話し候ニ付右之始末御吟味奉請度段御訴訟
奉申上候儀之小笠原村江御出役様御越
被遊御吟味可被為極候処隣村之義故気の毒ニ
奉存江原村察右衛門御吟味延奉願小笠原村
安五郎十五所村八五郎右両人供場ニ而引
合候由承候ニ付右始末相尋候処右両人
申候ニハ其方共何れも相尋候間西郡原方より
相咎候得ハ西郡者笛吹より東ハ入込申
間敷と申私共柿籠ふみつふし以来
西郡者ハ差留メ申候間此段相心得可申与
申候間急度差押候ハバ其段書付差出し
可申間申候得ハ途中之事故此者両人遣候間
其地ニ而相糺可申与申候間無拠一同仕申
候由申之候右之趣多方申争ひ御吟味
奉請候而者不宣奉存双方異見差加ヘ内済
仕候起ハ

一 原七郷村々柿野売之義ハ往古より申奉も
有之作間渡世堅目籠ニ而手広之仕来ニ
御座候野売致候義ハ原方ニ限リ近郷ニ而茂
相弁ひ罷有候市川大門村之義ハ柿籠を以商い
渡来リ候段申之以来相互ニ馴合柿在売之義
迄者双方共故障申間敷候右之趣双方得心
仕相済申候且又此度申争ひ其外憤リ所ハ
扱人貰請重而意趣遺恨無ニ趣和融之上
内済仕候右之通双方并引合之者共迄一同
内済仕候ニ付何卒御慈悲を以テ内済御聞済
御下置願書御下ヶ被下置候様奉願上候然上ハ
右一件ニ付重而御願ヶ間敷義も願無御座候
誠ニ御威光ト有難仕合ニ奉存候之一同連印
を以御願下ゲ済口差上申処如件         』

文書の内容: 原七郷の柿売人が八代郡東油川村へ出向いたところ、市川大門の柿売りと鉢合わせて、縄張り争いとなる。市川大門の柿売り達が、「西郡者は笛吹川を越えて売りに来てはならない」といって、柿籠を踏みつぶして大喧嘩となったのだ。その折、小笠原村の安五郎たちは、けんか相手の市川大門の2人を西郡に連れて帰ってしまったので、市川大門方は代官所に訴えた。結果、仲裁人が入り、「西郡者は堅目籠を用い、市川大門方は柿籠を使って、互いに紛らわしくないようにして商売するよう」に決めて一応の決着をみた。

 この事件は、原七郷の人々に、生活基盤の一つである野売り商いの将来的なあり方への危機感を煽ることとなりました。そのため、この事件を契機として、信玄の野売り免許状なるものの流布が見られるようになったと考えられています。 ※文献3)

Img20180810_13302518_20221215143901 ←柿の野売りに使用された籠(南アルプス市文化財課蔵):この籠のタイプが文化6年当時に「竪目籠」とよばれたものかは不明。

 よその土地に商売に出かけていくということには、相応の勇気と商才が必要です。信玄以前には「勅使による商売許可」というものもあり、「武田信玄の野売免許」とあわせた、それらの伝説の醸成した原七郷の特権意識は、西郡の行商人を精神的に支えました。

次の文書は、行商の特権意識を持つにしごおりの村々が団結して自衛する動きを示すものです。

P1130664 ←『5原七郷議定書之事』桃園区有文書55-22 文化6年10月 1809
5「野売免許状を持つ原七郷の村々九村で商いの組合をつくった」文化6年10月 1809 『原七郷議定書之事』 桃園区有文書55-22
 内容:4の市川大門柿売人との縄張り争いの事件を受けて、危機感の募った原七郷の柿売人たちが、「野売免許状を持つ原七郷の村々九村」として、商いの組合をつくり、作間稼ぎの野売に関する決め事を記した。
『文化六巳十月柿売一件取極書 桃園村
原七郷糶定書之事
一 従御公儀様被仰渡候御法度之
  義者不及申何事によらす諸商ひ
  等ニ罷出候節随分相慎ミがさつ
  かましき義仕間敷別而
  御朱印等申立候義者重き御義ニ
  候間此旨得与相弁可申事
一 柿野売場先ニ而何事ニよらす何れ之
  村方より一件差発候節ハ組合村評議之上
  品ニより諸入用等組合割ニ司仕事
一 柿商売仕候者共江一村限り得与申聞置
場先ニ而御朱印を申立かさつ
成始末并不埒之取計仕候者
有之者詮議之上諸入用共者
壱人懸リ品により組合入用迄かけ
可申事
右之通組合付相談之上取極候上ハ
一村限り小前壱人別ニ申聞麁略無之様ニ
可仕若不埒之村方有之候ハ組合村ニテ
申立作間稼之商ひ一村差留メ可申候
為其組合連印為取替諠定書
仍如件
      文化六巳十月      在家塚村 
                    名主 林右衛門
                  上八田村
                    名主 幸右衛門
                  上今井村
                    名主 庄左衛門
                  桃園村
                    名主 庄八 
                  小笠原村
                    名主 源左衛門
                  吉田村
                    名主 清左衛門
                  飯野村
                    名主 忠左衛門
                  十五所村
                    名主 作右衛門
                  西野村
                   名主 佐治兵衛
端裏書
  文化六巳十月柿売一件取極書 桃園村        』

 その他、にしごおりの柿売人に関する文書について、文献等に既出のものを数え上げると、江戸期から明治初年頃にかけてのもので27点になりました。信玄の免許状だけでも9点ありました。いかに柿(果物類)の野売りによる利益がにしごおりの人々の生活に欠かせないものであったかが理解できると思います。

Dsc_0861 ←柿売人の登場する文献のリスト(展示中)(南アルプス市○博担当作成)
 江戸期に活発に行われていたにしごおりの人々による柿の野売りは、明治期に甲府に青物市場が整備されるまで続きました。
 野売りが行われなくなった後も、この行商文化で磨いたにしごおりの人々の売り込み精神や商才は、進取の気性・卓越した経済観念としてその心に宿り続け、現在まで続く当地の独創的なとフルーツ産業の発展に貢献しているのです。

2022年10月 3日 (月)

柿の野売り籠

こんにちは。
P1130396
  南アルプス市ふるさと文化伝承館では、テーマ展「にしごおり果物のキセキ」が開催中です。

開期は令和4年12月21日(水)までです。

展示では、南アルプス市の基幹産業の一つである果樹産業が、江戸時代に盛んに行われていた柿の野売りにはじまり、明治以降、どのような歩みを持って、独創的な発展を遂げたかを振り返ります。


さて、このテーマ展が始まって2か月が経ちました。

展示を観に来てくださった地元の方々から、資料を前に様々な聴き取りができ、オーラルヒストリーの採取や関連資料のさらなる収集を行うことができています。

 

 


  今回ご紹介する資料、「柿の野売り籠」もその一つです。

「柿の野売り籠」は南アルプス市の果物産業史における重要なキーアイテムなのですが、テーマ展開催時には文化財課に収蔵がなく、画像をもとに地域の竹細工アーティスト(伝承館スタッフ)に制作を依頼した参考品を展示していました。

P1130398←野売り籠のミニチュア再現品(伝承館スタッフ作成)

Img20180810_13302518←柿の野売り籠の画像(西野功刀幹浩家所蔵)
 9月に入り、市内櫛形地区十五所のお宅の蔵に、柿の野売り籠一対が素晴らしい状態で保管されていることをお知らせいただき、寄贈いただきました。

Img_0826←令和4年9月に寄贈された「柿の野売り籠」のクリーニング作業
 大きさは、口径41cm・底径45cm・高さ43cmで、行商人は、天秤棒で二つのかごを同時に肩に担いで売り歩きました。とてもしっかりとした丈夫な作りで、底部は平ら、籠の中は付着した柿渋で真っ黒です。

P1130394
 ←「柿 野売り籠(かき のうりかご)」 
 にしごおりの人々が、渋抜きした柿を入れ、担いで売り歩いた際に使用した籠。籠の内部は、柿の渋が染みて黒くなっている。
 大正時代のはじめまでは、秋になると、渋抜きした柿を籠に入れて担いで、釜無川や笛吹川を渡って行商に出た。そして、稲刈りをしているところに行って、柿を売ったり、籾と交換することで、生活を支えた。

←展示された柿の野売り籠((天秤棒なし)十五所澤登家より寄贈・南アルプス市文化財課所蔵

 

 

 その後、市内白根地区にお住まいの小野さん(昭和10年代生まれ)から、大正時代までに地域で行われていた、一般的な柿渋の抜き方や、野売りに使用された柿の種類についてなど教えていただきました。

 『野売り籠に入れて売り歩いた柿は小粒の渋柿だったので、渋抜きをしなければならなかった。味噌桶に柿を八分目か九分目位きれいに並べて詰めるのと並行して、42~45℃の大量の湯を風呂樽を使って沸かした。
そして、柿を並べた味噌桶の中に湯を一気にかぶるくらいに入れ、上に木の蓋をしてから蓋の上や周りを菰(こも)や布団で覆って保温すると、1日か2日間で渋が抜けて、柔らかすぎずにちょうどよい舌触りの小粒で甘い柿になった。(西野小野捷夫氏談)

002img20220926_11444294←江戸時代から大正初期までのにしごおりの行商人が野売りした柿の品種(西野小野捷夫氏撮影)
 『かつて、西郡の行商人が売った柿は、みな小ぶりの渋柿品種で、「イチロウ」「ミズガキ」「イチカワビラ」「カツヘイ」などだった。小さな子供が手に持って食べるおやつにちょうど良く、甲州百目のような大きな柿でも渋を抜いて作ることはできたが、小さな渋柿を加工したものがよく売れた。(西野小野捷夫氏談)とのことです。
 勝平(カツヘイ)という品種は白根地区西野の芦澤家に原木(現在は無い)があった現在の南アルプス市固有の品種です。
 大正時代に入り、果実の出荷組合が結成されたり、甲府に青果市場が整備されてくると、籠を担いだ行商人による野売りは急速に無くなりました。そして、行商用の100~150gの小さな柿の栽培も衰退しました。
 現在の南アルプス市で栽培されている加工用の渋柿は刀根早生(トネワセ)、平核無柿(ヒラタネナシカキ)、甲州百目(コウシュウヒャクメ)、大和百目(ヤマトヒャクメ)など比較的大きな柿が主流ですから、野売りという販売形態の終焉とともに、商品となる柿の大きさや品種も大きく変化して現在に至る点は興味深いですね。

 西郡果物の軌跡は「柿の野売り」による行商活動が出発点です。
古来より、砂、砂利、礫、粘土に覆われたにしごおりの原七郷(桃園・沢登・十五所・上今井・吉田・西野・在家塚・飯野・上八田・百々・小笠原)では、その恵まれない自然条件下によるギリギリの土地利用のなかで、最大限の効果を挙げようと努力する人々の姿がありました。
柿などの作物を加工したり、売る時期をずらすなどして、商品価値を高め、農閑期に村外まで売り歩く行商によって、村の生産力以上の人口を維持してきたのです。
南アルプス市域で最も古くから盛んに作られた果物は、この行商用商品として加工するための柿でした。
 行商の商品として「にしごおり果物」を生産したことは、明治以降に当地で勃興するフルーツ産業に、様々なプラス作用を及ぼしました。商機があればどこにでも出かけていく、風の如く機敏なフットワークと開拓心によって磨かれた、にしごおり行商人たちの経済観念の強さは、市場の動向にもまた機敏な果物栽培を初期段階から実現し、現在の南アルプス市における独創的なフルーツ産業の在り方へとつながっています。

P1130395 ←柿渋が染みて内部が真っ黒になっている展示中の野売り籠(十五所澤登家より寄贈・南アルプス市文化財課所蔵)

 ふるさと文化伝承館でのテーマ展示をきっかけとしてつながった所有者様から資料調査や寄贈の打診をいただいたことで、今回も、成長する展示が実現しています。地域博物館での身近な歴史をテーマ展示する意義を、実感する毎日です。

2022年8月24日 (水)

野牛島要助さんが日記に書いた天保騒動

 こんにちは。
 今日は令和8月24日、いまから186年前の天保7年(1836年)、山梨県では天保騒動という大規模な騒乱のさ中で、ちょうど現在の南アルプス市域が被害をこうむった日です。
 天保騒動は、江戸時代後期の天保7年(1836)8月17日に郡内白野村での百姓一揆からはじまった騒動です。しかし、山梨郡熊野堂村の米穀商打ちこわしという当初の目的を果たした郡内の百姓たちが帰村した8月22日頃になると、騒動に乗じて参加した無宿人らが暴徒化して、大規模な強盗集団となり、国中(甲府盆地内部の村々)を暴れまわって、甲州の人々を恐怖に陥れました。

※ 画像はタップすると少し拡大します。

Photo_20220824114801〇博で整理している八田地区野牛島中島家文書の中に、要助さんという当時名主を務めた人物の日記帳(「去申用気帳」)があります。

002img20220824_11411518 002img20220824_11413166  ←この資料は文政7年暮れから天保9年4月までの期間のことが記されており、興味深いので、日付ごとに冒頭文章のインデックスを付けて見やすい様にしてみたり、天気・災害、米などの値段、要助家族、周辺情報、祭り民俗、不思議体験と分類して、内容を整理して読み返しています。

 今日はその中から天保騒動についての記録をご紹介しておきたいと思います。

68 天保7年8月17日~24日
『 一 八月十七日初め郡内白野村与五兵衛野田尻嘉助猿橋武七右三人之者共騒動大□郡内村々之者乱暴人数凡七百人斗ニ而笹尾峠(笹子峠)ニ登りのろしを上げ時こえ上げ谷村ゟ酒屋穀屋油屋其外売買家打潰し先勝沼宿かぎ屋ハこんや質屋穀屋致候家ニせんたい諸賄致潰し不申候』
69  
『同廿二日騒動成等々力村亀屋熊野堂村奥ゟ石和宿沢田屋外ニ宿中火をかけ壱町田中酒屋数多く潰し御陣屋おし入人不残拂 山崎へ押寄甲府勤番頭弐タ頭山崎口へ出張与力同心百姓番非人えたそのひ建打くずし城内へ入』
 70『八月廿三日込一条町潰し本町へ入近習町和泉や作右衛門を潰し家道り諸帳面金きぬ糸衣類宿へ出し火かけもやし申候其外壱弐軒潰し猥(緑)町竹藤潰し其外町中二文字屋若松屋十一屋 大黒屋せんたいを出し酒肴飯にしめ差出し故か外ハ潰さず新町松田屋こもとや 嶋だや かじや 右四軒潰し龍王へ差向丹沢ニ而諸賄飯酒せんたい 東へ富竹新田迄出し北南へ出ス龍王村中米壱俵づつ残り候籾三斗弐升ニ而売出可申候と申置候 』

71  『同廿三日晩龍王新町半六質屋伊左衛門潰し下今井穂阪酒屋と伊左衛門を潰し韮崎宿ヘ登り嶋や塩惣伊勢や外ニ拾七軒潰し是ゟ南手之方印(す) 壱と手西八幡村
同廿三日晩勘蔵同別家西清五郎右三軒打潰し火をかけ下中郡河東中島成島花輪西東乙黒西条河東大田和逸迄市川村々ニ而壱村ニ付四五軒づつ潰し申候 』

72 『 同廿四日鰍沢ゟ宿通青柳十日市場長沢荊沢鮎沢小笠原鰍沢文蔵 西(最)勝寺酒屋小笠原ニ而四五軒潰し人数は殊外有申候 騒動人斗り
 廿四日飯野長右衛門桃園村伊助飯野平助百々村幸左衛門西ノ油屋幸蔵右五人家戸障子天ん上なく茶がま衣類書物等不残潰し家も建皆致し御損じ潰され申候油醤油穀不残こぼされ申候百々村人数弐人手負三人西郡之手ハ是ニ而留ル 』

73  『西郡武川逸見筋西通台ケ原手負切ころし 十四五人同村酒潰し教来石村九郎次潰し同中之産ニ而古渕沢(小淵沢)へ甲府寄力同心かけ付騒動人九拾三人取 諏訪御城内ゟ御出張 野(西)山が原(台が原)出陣有江東原へ御出陣ゟ甲州へ御出張人数御□所 弐拾人取手百六拾人やり持弐百人ニ而御向龍王村ニ而御陣取御座候其外ハ国人足遣此取人七拾人余召とる』

77 天保7年8月23日~25日
『一 八月廿三日乱防共甲府をあらし弐(ふ)た手に別れ壱手は西八幡へうつり後一と手は龍王村ならや西古手や西丹沢乱防之上衣類を盗夫ゟ信州や中下今井村保阪や乱防之上毀し吉田村幸左衛門乱防し夫より

 廿四日韮崎宿塩や惣八伊勢や嶋や布や田助其外拾七軒乱防之上衣類等焼拂夫ゟ逸見筋教来石九郎次を乱防之上強盗いたし夫ゟ

  同廿五日産ケ原村酒やこわし夫より小淵沢村乱防し 此節一国乱防ニ付御嶽山ゟ究竟(屈強)之御師弐拾人甲府御陣や願出右乱防御取静御補助仕度旨申出国中へ入渡り右賊盗共を搦捕既ニ逸見筋小淵沢ニ而ハ賊人六拾人余も生捕候風聞候』

78  『  其外此逸ニ而も六科水防所ニ而も壱人搦捕髻(もとどり)ニ疵を負わせ 当村十兵衛前より池田に下りそれより早く甲府御役所差出候趣御座候
右賊盗衣類は小紋股引島縮緬之小袖弐つ着し 其上皮羽織帯刀ニ而金子弐三両持ち居候と噺しきく

 

78-2  天保騒動の記録は、山梨県史に網羅されていますので読み比べてみると、暴徒集団の動向等の要助さんの記述は、それらと矛盾ないので、野牛島の名主要助が当時集めた最新情報はとても正確なものだったと言えると思います。


 目新しい論点はないのかもしれませんが、要助さんは、自分の住む西郡(にしごおり)内の被害状況を詳しく聴き取りし、近所の六科で暴徒集団の一味を捕らえた状況やその服装、持ち物まで、まるで現場を見て来たかのように細かく記しており、悪党どもが大暴れして怖くて大変だった、天保騒動の状況がよく伝わってきます。


←それにしても、要助さんの近所の、六科の水防所で捕らえられた悪党が「小紋の股引きに、縞縮緬の小袖を2枚も着て、その上に、皮の羽織を着て、刀を持っていた」なんて! 古い映画で見たような、いかにも悪党らしい派手な装いだったんですね!


 九月一日の記述には、天保騒動を取り鎮めるために駿州沼津城主水野出羽守が出張してきたという情報がある中、 当時、野牛島村惣代であった要助さんは、同じ西郡の曲輪田新田村惣代・徳兵衛とともに、天保7年九月三日に、「天保騒動による乱暴狼藉を江戸表へご注進のため、出府した」と日記にあります。


九月二十五日には石和宿に江戸より乱暴取締役が到着したことをその人物たちと役職名をそれぞれ詳細に記しています。


 電話もカメラも郵便もない時代に、当時の村名主レベルの人々の情報収集能力にただ感服するばかりです。

2022年3月 4日 (金)

地方病と溝渠のコンクリート化

こんにちは。
きょうは、前回に引き続き、地方病に関する資料をご紹介します。今日は、仇敵ミヤイリガイとの攻防編です。
(※画像はすべてタップすると少し拡大します)
6_20220304120301 ←「仇敵 宮入貝とはどんなものか?」『恐ろしい地方病を一刻も早くなくすために』ポスターより部分(南アルプス市文化財課所蔵) 
 山梨で明治20年頃から「地方病」と呼ばれはじめた病は、日本住血吸虫症というのが正式名で、お腹に水がたまり死に至る恐ろしい病気でした。この地方病との闘いが終息したと山梨県が宣言したのは、平成8年のことです。この病を克服する作戦が本格的にはじまって、100年以上もかかったのです。
2_20220304120301 ←「☆地方病はどうしてうつるでしよう?」『恐ろしい地方病を一刻も早くなくすために』ポスターより部分(南アルプス市文化財課所蔵) 
 じつは、大正の初めころには、「地方病をやっつけるには、日本住血吸虫をその体内で生育・媒介するミヤイリガイを撲滅することが最も良い方策である」ということが判明していました。しかし、生息地域の広い山梨県では、戦後になってもなかなか駆除が進みませんでした。
 ミヤイリガイを駆除するために、様々な刹貝方法が試みられたのは大正時代初期からです。米粒のように小さなミヤイリガイを拾い集めて焼くことが行われたり、刹貝剤となる石灰を撒いたりしました。
7_20220304120301 ←「☆地方病を退治する最も良い方法は?」「現在実施している予防対策は?」『恐ろしい地方病を一刻も早くなくすために』(昭和30年代)ポスターより部分(南アルプス市文化財課所蔵) 
 戦後には、火炎焼却機で貝を焼き殺したり、「ピ-シーピー」と呼ばれた薬剤を使って、溝やあぜ、田んぼの中のミヤイリガイを殺す事業が積極的に行われました。「ピーシーピー」というのは、「ペンタクロロフェノールナトリウム」という名の薬剤のことで、昭和20年代終わり頃から石灰に代わり刹貝剤として使用されましたが、魚毒性が問題となり、昭和48年には使用されなくなっています。
Photo_20220304120601 ←「宮入貝殺貝作業に関する注意事項」山梨県厚生労働部予防課(昭和期年不明)
 その後も、様々な薬剤散布を試行したミヤイリガイの刹貝ですが、他県発生地に比べ有病地の広い山梨県では撲滅には至りません。
 結局、ミヤイリガイ対策として最も効果を上げたのは、撲滅できなくとも個体数を減らすために、生息に不向きな環境をつくることでした。有病地にコンクリートで塗り固めた地方病予防溝渠を張り巡らす事業を行ったのです。
 昭和24年から南アルプス市(白根地区飯野)で試験的に始まった用水路のコンクリート化は、ミヤイリガイの駆除に有効でした。溝をコンクリート化して直線化すると水の流れが速くなり、流れの穏やかな場所に生息するミヤイリガイを減らすことができました。
Photo_20220304120301 ←「地方病予防溝渠標準断面図 山梨県(昭和36年)」(南アルプス市文化財課所蔵)
  しかし、この、水路コンクリート化事業は、多額の財源も必要だったこと等から、政治家たちの力も得なければ実現できませんでした。
002img20200828_14312383 ←「地方病とのたたかい 1977」山梨地方病撲滅協力会より小野徹氏紹介部分
 なかでも、西郡地域の地方病治療の拠点でもあった若草地区鏡中條の小野洗心堂医院の小野徹氏は、医師として駆虫薬スチブナールによる地方病患者の治療にあたり、県医師会長・山梨地方病撲滅協力会初代会長等を歴任する傍ら、昭和24年から29年までは鏡中條村長の職にも就くなどして、地方病撲滅事業を、市町村・県・政府に重点施策とするよう説き、溝のコンクリート化実現を強力に推し進めました。
「地方病の撲滅は中間宿主のミヤイリガイ対策であること=そのために大規模な溝渠コンクリート化土木事業が必要である」という、この施策を、患者の苦しみを直に知る医師でもある立場からの発言として、政治に訴え、実現させた鏡中條洗心堂医院の小野徹氏は、地方病撲滅に非常に大きな功績を残した西郡の先人といえます。
1172-3_20220304120301 1172-2_20220304120301 ←甲西地区東南湖の地方病予防溝渠とそのプレート
 その結果、昭和31年にはコンクリート化事業が法制化され、国庫補助での事業が本格化し、昭和60年頃迄に累計100億円を突破する莫大な費用がかけられました。
9 昭和54年以降には新規患者は発見されなくなっており、平成8年の終息宣言への運びとなり、コンクリート化事業は終了しました。

地方病予防溝渠の県内総延長は、すごいことに、2000㎞にも及びます。 東京から石垣島くらいまでの距離らしいです。WoW!

←米粒みたいに小さいミヤイリガイの図『恐ろしい地方病を一刻も早くなくすために』(昭和30年代)ポスターより部分(南アルプス市文化財課所蔵) 

2020年10月26日 (月)

瓦を焼いただるま窯

こんにちは。
Dsc_0588     先月、若草地区寺部で行われていた発掘調査で、昭和時代に瓦を焼いた窯跡が出土したというので、〇博調査員も見学させてもらいました。

Dsc_0586 Dsc_0576 詳細は、報告書の刊行を待たなければなりませんが、昭和40年代まで使われていたダルマ窯の一部が見つかったことは間違いないです。

←若草地区寺部のだるま窯の発掘現場(令和2年9月2日撮影)

Dsc_0566 ←若草地区寺部のだるま窯の発掘現場(令和2年9月2日撮影

 

 Photo_20201026113201 Photo_20201026113501  ←Imgp2451八田榎原中沢瓦店窯跡(2017年12月20日撮影)

 Imgp2426 製瓦業が大正から昭和時代にかけて盛んであった南アルプス市域ですが、現在、大正時代に造られただるま窯が原形をとどめて現存しているのは、唯一、八田地区榎原の中沢製瓦店跡のみです。

Imgp2428 ←八田榎原中沢瓦店窯跡 3点(2005年11月17日撮影)


 過去に2005年と2017年に写真を撮らせていただいていますが、

 

 

 

 

 

 

 

今月になって、前述の発掘調査の担当職員の手配で、所有者の方と連絡が取れまして、聞き取り調査と資料提供にご協力いただきましたので、ご報告したいと思います。

Dsc_0988  昭和40年代の終わりに愛知県の瓦技工の学校に行き、製瓦業の四代目としての勉強もしたというヨシナオさんは、だるま窯を使って焼かれるいぶし瓦の製造過程を、幼いころから見て育ちました。
 ヨシナオさんによると、中沢家でおそらく明治時代に製瓦業を営み始めたのは、ひいおじいさんで、場所は現在の韮崎市にある新府城の上あたりで行っていたそうです。
大正時代のはじめ頃になると、2代目に当たるおじいさんのヨシユキさんが、良い土を求めて、八田地区榎原の長谷寺のそばに、だるま窯を建造して製瓦店を移転しました。
3代目のお父様ヨシヒデさんの頃には、戦後の高需要に応えるため、昭和23年頃にもう一つだるま窯を増設して、二つの窯を交互に使用することで4日に1回の割合で瓦を焼いていたそうです。
瓦店の当主は専らだるま窯の火加減の担当であったそうで、瓦の成型は職人を雇って行っていました。そのため、4代目のヨシナオさんは、成型の様子よりも、だるま窯の火の見方をよく覚えておいででした。
だるま窯は昭和46・7年頃を最後に使わなくなり、その後は製瓦はせず、在庫等を利用して屋根瓦の修理や瓦葺きを請け負ってきたようです。

←中沢瓦店聞き取り調査。4代目ヨシナオさん。(令和2年10月6日)


Dsc_1005  昔から、だるま窯は、焼き物の歴史と技術の高い愛知県で作られる耐火煉瓦を積み上げて造るので、火の通りをよくするためのロストルや、二つの焚き口、瓦を出し入れするための両脇にある戸口、等の独特な構造は、同じく愛知から出張してもらった職人によって建造されました。そのため、製瓦業は設備投資する財産がないとはじめられない産業であったのとか。

 

Dsc_1004  実際にだるま窯に火が入るとどんな感じだったのかを、ヨシナオさんに聞くと、「 赤松を燃料として、はじめ二日間はどんどん焚き続けて窯の温度を上げていき、火の色が紫色になったら一旦、木をくべるのをやめる。その後1日間ほどは窯の中の壁土がオレンジ色をキープするように火加減する。さらにその後、釜の中が真空になるように焚口やだるま窯の横腹にある戸口をふさぎ、隙間には粘土を詰めて、『いぶす』。」とのことでした。

←だるま窯の建造に欠かせない耐火煉瓦(令和2年10月6日)

 

 

 

Imgp2433  また、だるま釜のすべての口を塞いで『いぶす』前に、掻き棒で取りだし置いた燃え残りの炭を、近所の人が買いに来たという話も伺い、3年前に〇博調査員が榎原のおばあちゃんから聴いた、「中沢瓦店に火鉢に入れる炭を買いに行った」との証言とも一致しました。

←八田榎原中沢瓦店窯跡(2005年11月17日撮影)

 今回の聞き取り調査ができるようにご案内くださった近所の方のお話でも、農作業の合間に谷あいにある中沢瓦店の煙突からいつも煙が上がっていたのを憶えているとの思い出話もいただき、小さなことでも、時間をかけて丹念に集めていると、それぞれのピースがつながって、史実として流れていくようになるのだと実感した次第です。

2019年8月29日 (木)

八田山長谷寺の護摩と雨乞い

こんにちは。
Img_4961  令和元年八月二十日の午後7時から、榎原にある八田山長谷寺(ちょうこくじ)にて、恒例の夏祭りの護摩祈祷が行われました。
八田山長谷寺は、水が乏しく旱魃に悩まされてきた原七郷(上八田・西野・在家塚・上今井・吉田・小笠原・桃園の七つの村)にあっての湧水点の一つで、古来より雨乞いをする祈祷所でした。
←令和元年8月20日、榎原の八田山長谷寺。護摩壇の奥の前立て観音の、さらに奥の扉の向こうに、秘仏の十一面観音様がいらっしゃいます。
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そして所蔵する秘仏、木造十一面観音立像は原七郷の守り神として地域住民の信仰を集めてきました。
 
 現在では、毎年3月春と8月夏の祭礼に、榎原長谷寺本堂(観音堂)で護摩焚きが行われています。
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 この八田山長谷寺の護摩が古来から行われてきたことはまちがいなく、このブログでたびたび登場している江戸時代に書かれた野牛島要助さんの日記にも、雨乞として護摩を行った天保五年の記述があります。
←令和元年8月20日午後7時、榎原の八田山長谷寺で行われた護摩祈願。護摩とは、仏の智慧の火を以て苦の根元を焼きつくすことを表すそうです。

 今日はその護摩焚きを含めた長谷寺の雨乞い祈祷の箇所を確認してみたいと思います。

 野牛島に住む要助さんが文政七年十二月から天保九年四月までの14年間に記した中に、御嶽金峯山での雨乞いが1回ありましたが、それ以外の3回の雨乞いはすべて長谷寺で行われたものでした。
3717img20180320_13310606-2 ①天保三年七月十七日(1832年8月12日)『上八田村榎原村ニテ雨古い相初め』
5711img20180318_16504499 5711img20180318_16494156 ②天保五年七月九日~十八日(1834年8月13日~23日)『榎原村上八田村雨古い致申候飯野村在家塚西野沢登十五所吉田村上今井村々雨古い致申候』
57918img20180318_16520692_20190829170901 『榎原上八田村七月九日ゟ十六日迄観音様ニテ雨古いいたし相勤 同月十七日ニハ護摩 十八日同観音様御開帳御座候 両九ツ時ゟ曇り雨ふり 日暮迄夕立有 之申候我等儀参詣ニ仕候・・」
861926img20180320_10175130 ③天保八年六月十九日~二十六日(1837年7月21日~28日)『上八田榎原ニテ同月十九日ゟ観音様ニテ雨古い致し相勤十九日ゟ二十六日迄勤』
Img_4942   要助さんの日記にみえる、以上3か所の長谷寺雨乞いの記述ですが、やはりいずれも夏季に雨乞いが行われています。
Img_4989 特に、②の天保5年の雨乞いでは、長谷寺のある榎原村・上八田村をはじめ、原七郷のうち在家塚村・西野村・吉田村、さらに飯野村、沢登村、十五所村が挙って行い、
「まず観音堂で8日間の雨乞い祈願をしてダメで、次に護摩を行い、それでも雨が降らないので、ついに秘仏である観音様を特別に御開帳したところ、昼頃より曇って雨が降りだして日暮れまで夕立があった」とあります。
護摩の行われた八田山長谷寺観音堂(本堂)
観音様の力はすごいですね!