八田地区六科・野牛島・上高砂

2019年8月14日 (水)

「生盆」てなんだろう?

こんにちは。
Dsc_0669    一般的に今日8月13日から各家々で盆行事がはじまります。ここ南アルプス市(山梨県)では、お墓を掃除した後、座敷や居間に盆棚を設け、夏の収穫物と「あべかわ」と呼ばれるきな粉と黒蜜をかけた餅、茄子馬などを作って飾ります。我が家でも夜には家の前で迎え火を焚きます。
 

 さて、お盆といえば最近「生盆」という言葉が気になっていたところでした。当ブログでその興味深い内容をたびたびご紹介している野牛島の要助さんの日記の、天保5年7月12日の箇所に「生盆」なる行事が記されていたのです。
47こちらが江戸時代後期に書かれた要助さんの日記の「生盆」についての記述部分です。
同(七月)十二日晩
 生盆として極□のもの東組之内江
 祝ひ出し候分

 米京壱升  定吉
 米大升五合 野兵衛
 米京壱升 □左衛門
 米壱升  喜三郎母
 米大升五合 平兵衛
 米大枡五合 吉五郎
 48 米京壱升  栄吉
 米京壱升 龍助倅
 米大升五合 兵吉
 米京壱升 文右衛門
 米京壱升 喜三郎
 米京壱升 善右衛門
 米京壱升 彦蔵
 米大升五合 宇兵衛
 米京壱升  勇吉
 米京壱升 清之丈
 米大升五合  利兵衛
 米京壱升  惣之丈
 米京壱升 政兵衛
 米京壱升 清兵衛  』
生盆の贈り物として米を近所の東組の人々に配ったようで、その20人の配布先とそれぞれに贈った米の量がリストアップされています。
 
今も私たちが慣れ親しんでいる亡くなった人をお迎えして祀るといった、いわゆるふつうの「お盆」とはちがうものなのでしょうか?「生盆」について調べてみました。文献に見つかった事例を順にご紹介していきます。
 ①昭和初期に民俗学者折口信夫が著した「たなばたと盆祭りと」という文献によると、『七夕から盆へ続く間には、「生き盆」すなわち「いきみたま」の祭りが以前は盛んに行われていた(抜粋)』そうです。要助さんの生きた江戸時代後期の甲州でも一般的な行事だったのでしょう。しかし、折口信夫はこの文章を発表した昭和4年当時において「生き盆」という行事は『聞く事甚稀になった』と書いており、昭和時代のはじめまでには、ほとんど忘れられた民俗だったこともわかりました。
 ②ちょうど手許にあった広辞苑第二版昭和44年発行を開いてみると、「生盆(いきぼん・しょうぼん)」は「いきみたま」と同じとあり、『旧暦の七月八日から十三日までの間に、児女が、生存している父母・尊長者に祝物を贈りまたは饗応した儀式・行事。』と記されています。
 要助は所属する東組の人々へ、元気でこれからも過ごして欲しいという願いを込めて、祝いの米を贈ったということでしょうか。なるほど生盆で行われる贈り物は、生きている人の魂(いきみたま)を供養していると理解できますね。
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 ③山梨県内の他の文献中に「生盆」の事例はあるかどうか探してみると、山梨県史資料編10近世3在方Ⅰに、現在の笛吹市春日居町国府にあった江戸時代からの医家、辻家の文書「辻家年中覚(年月日未詳)」に生盆の項を発見しました。
 生盆のために、七月に入ったら肴類を(盆礼用に)調達しておくとして、麺、しらす、鰹節、年魚(鮎)が書き連ねられています。そしてそれぞれの送り先として15名ほどの名がリストアップされていました。
これにより、野牛島要助家があった山梨県の西郡とおなじように、辻家のあった東郡地域でもかつて生盆が行われていたことが確認できました。
 辻家では小麦を使った麺と「なまぐさもの」とよばれた魚類を用意しているところが、米のみを配った野牛島要助家とは異なりますが、やはり東郡でも生盆に際して、食物の贈り物は必須だったことはわかりました。
④昭和56年に発行された山梨郷土研究会発行の学術誌「甲斐路第41号」では山梨の盆行事が特集されており、その巻頭論考にも生盆を『7月13日以前に行った盆礼の古い姿である』と書かれています。さらに県内各地域での盆行事の様相を示した記述部分では、県内各地でそうめんや小麦粉・米などを親族や知人友人に贈答する盆礼(中元)が盛んに行われており、忍野村には「生盆まいり」という言葉がかろうじて残り、同じく忍野村と都留市では、「13日の晩には生臭いもの(魚)を食べないと仏さまに口を吸われる」との言い伝えを遺している様子が報告されていました。昭和の終わり頃だと、まだ生盆の痕跡を追うことができたようです。
 今回、野牛島要助さんの日記から、生盆という言葉を知り、かつて日本では、死者のみならず生者も同様に持っている魂(たましい)を平等に供養する民俗があったことを知りました。

 祖先の霊を迎える前に生きている人の魂を供養するという生盆。
 現在では「生盆」が「盆」の行事に集約され、その言葉は忘れ去られてしまったけれど、いまでも7月半ばになるとかつての盆礼である中元を親しい人に贈ります。そして、仕事を休んで、帰省ラッシュに見舞われながらも故郷に帰り、刺し身や寿司などの生臭ものの盆のごちそうを親類たちと一緒に食べて体と心を休めて楽しむのは、実は「生盆」からの習慣だったのだと理解できました。
30
 ←昭和30年代 盆踊り(在家塚中込家資料)

 魂は亡くなった人にだけあるものでなく、当然生きている人の中にも存在する。だから、「生盆」を行って、まずは頑張って生きている自分たちの魂にもご褒美をあげ、慰労しよう!そして、すっきりした心と体で今度はあの世から戻っていらっしゃるご先祖さまや身近な亡き人の御魂(御霊)を盆供養しよう。
野牛島の要助さんの日記にあった生盆という文字がきっかけとなって、先人たちが行った盆行事の内容やその意味の一端を知るに至りました。民俗学者の折口信夫のいう生盆風にするならば、今年も無事にお盆を迎えられたことを祝して「おめでとう」と身近な人とおめでた詞(ごと)を伝え合いたくなるわけです。
文献:「去申年此方用気控帳より天保五年七月十二日の記」要助 野牛島中島家資料
   「たなばたと盆祭りと」折口信夫 民俗学第一巻第一号 昭和4年7月
   「辻家年中覚」山梨県史 資料編10近世3在方Ⅰ 平成14年10月
   「甲斐路 第41号 特集山梨の盆行事」 山梨郷土研究会 昭和56年6月
   「盆行事の輪郭」清水茂夫 甲斐路第41号 昭和56年6月

2019年7月19日 (金)

雨よ止め!天保七年御嶽山雨留五穀成就御祈祷の記録

こんにちは。
いま令和元年の七月、南アルプス市では日照不足が果樹栽培者を悩ませています。昨日も土砂降りの雨がふりましたね。つづく曇天に雨雲よ去っておくれと、窓の外を見るたびに祈ります。
 そのような毎日を過ごしているうち、ふと、江戸時代(天保七年)に甲州御嶽山にて行われた「雨留めと五穀成就祈祷」について記した資料の存在を思い出しました。いまから180年以上も前、「雨よ止んでおくれ」と同じように願った先人たちの行動が記録されていたのです。野牛島の要助さんが書き残してくれていました。
7626img20180320_09511328-2雨留五穀成就祈願の記録(野牛島中島家資料・表題「去申年此方用気控帳」より)
 要助さんは現在の南アルプス市八田地区野牛島に生まれ、江戸時代の文政天保期に巨摩郡の惣代などを務めた人物です。この資料は平成29年に行った野牛島中島家資料の調査の折に収蔵し、調査をすすめてきたものです。
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 この日記の表紙には「文政七年 去申年此方用気控帳 十二月書初印 久保中氏」とあり、中身を見ると、要助さんが文政七年十二月から天保九年四月までの14年間のうちに体験し見聞きした出来事(家族の話題や民俗事例も含む)が、甲斐国内外の経済、社会情勢とともに断片的に書き留められて、綴られていました。
  
←要助さんの日記の表紙
    野牛島中島家資料より、「去申年此方用気控帳」表紙
      「文政七年
             去申年此方用気控帳
       十二月書初印
       久保中氏  」久保は、要助さんの家の屋号「おくぼ」に由来するもの 。
7626img20180320_09511328それでは、本題の江戸時代に行われた「雨留め」の祈祷の記録についてご紹介します。
 
この画像は要助さんの日記のうち、天保七年六月二十六日から七月一日の部分の記述です。

読み下すと、

「一 六月廿六日より七月朔日 迄御嶽山にて 御役所へ神主願上げ、雨留五穀成就御祈祷五ツ日之内七月数日は太々神楽御座候御役所よりも御触御廻情村々へ相廻り候」とあり、

意味は、

「(天保7年)6月26日より7月1日まで、御嶽山にて、役所へ神主が願い上げ、雨止めと五穀成就の祈祷を五日間、7月に入って数日は太々神楽を奉納した。役所からも御触書(おふれがき)や回覧文書で村々に知らせた」

とあります。
 天保七年六月二十六日は西暦に直すと1836年8月8日です。
御嶽山とは、長野と山梨の県境に位置する蔵王権現を祀る金峰山のことで、山頂にそびえ立つ五丈岩が水や耕作に係わる信仰のシンボルとされています。
その山へ行き、「雨が止んで、穀物が育ちますように」と祈祷を行い、さらに数日にわたって、おそらくふもとの金桜神社の神楽殿で大々的に神楽が奉納されたのでしょう。
 日記によると、天保七年は旧暦の五月より『春から雨が多く、六月になっても小麦の刈り干しにも困るくらいに寒く、七月二十一日二十二日には富士山に雪が降り八合目まで大雪となった』とあり、冷害が懸念されたことでついに巨摩郡役所挙げての御嶽山祈願が行われたようです。
 しかし、収穫期にもかかわらず米価の値上がりは止まらず、飢饉に対する甲斐の民衆の不安感はその直後に爆発し、江戸幕府をも揺るがした天保騒動が八月十七日(西暦だと10月5日)から勃発しました。 
 この天保騒動前後の要助の日記を順に読むと、その流れがよく理解できます。
珍しい雨止め祈願を行わせるほどの尋常ではない天候不順があって、収穫期に米価の高騰→騒動が起きたという事情を理解させてくれました。
 さらに、旧暦の九月一日(西暦では10月10日)には「霜が降り畑麦の種まきが難しい」とあり、冷夏のまま秋も気づかぬうちに、冬の寒さがやってきてしまったようなのです。
 令和元年は、はやくに日照不足が解消され、作物のためにもこれから暑い夏がやってくることを願ってやみません。
 
 日記は私的な文書なので、脱字も多く読み取るには難しい部分もあるのですが、季節や時間の流れとともに記される日々の暮らしととともに、身近に起こった大事件の臨場感あふれる描写が、要助をはじめ当時の人々が感じた緊迫感をダイレクトに伝えてくれるような気がします。
 さらに、この日記の記された期間は、彼が巨摩郡の御目鑑惣代(おめがねそうだい)を務めた時期と重なっており、幕府の役人でもなく一介の農民でもない、要助の目線による記述は興味深いです。
 緊迫感に包まれながらも天保騒動について、総代としての責任感を持って情報収集・記録した要助の日記の部分に関しては、これから順にご紹介していく予定です。
 
 
62img20180320_13331700_20190719140601←御嶽山には天保六年の春先にも御嶽入りの村々が金峰山に行き雨乞いをおこなったようです。同じ時に、野牛島村でも飲水に困るほどだったと書いてあります。(野牛島中島家資料・表題「去申年此方用気控帳」より)
 
     これまで、原七郷の村々における水に関する願い事は、八田長谷寺と苗敷山周辺の大笹池に収れんするものと想定していたので、八田地区の野牛島村が御嶽山(金峰山)にも頼ることがあることを、要助さんの日記から教えてもらい、目からうろこの心持です。
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 しかしながら、雨乞いに関しては、やはりまずは上八田榎原の長谷寺観音様にお願いすることが慣例だったようで、日記中幾カ所もその記述があります。これもまた雨乞いの実態の記述が興味深いので、今後お伝えしていきたいと思っています。
←天保五年七月九日から十八日にかけて行われた榎原上八田の長谷寺での雨乞いの様子。
野牛島中島家資料、表題「去申年此方用気控帳」より。

2019年5月24日 (金)

野牛島で能蔵稲荷講

こんにちは、八田うし子です。
Dsc_0119    野牛島の能蔵池のほとり、北東にある能蔵稲荷は五月三日に祭礼が行われます。
稲荷は稲を象徴する穀霊神・農耕神であり、もとは「稲成り」の意味であったそうです。(日本民俗宗教辞典より)。中世から近世にかけて商工業が発達するにつれて穀霊神から商売繁昌や福の神などへと稲荷の神観念が変貌していったようです。

 この能蔵稲荷が鎮座する場所は、御勅使川扇状地の扇端部で湧水する能蔵池のほとりにあり、そのすぐ南側は釜無川によって浸食された崖になっています。崖下には一面の水田が広がっていました。
Photo_2こちらは昭和35年頃に共同で地区の田んぼの消毒をした時の一枚です。差入れの握り飯を楽しそうに食べている皆が座っているのは、ちょうど能蔵稲荷のすぐ東の崖下あたりだそうです。
なるほど、かつて、能蔵稲荷の立つ場所は水田を見守る穀物神というにぴったりのロケーションであったのです。
  
Dsc_0110 Dsc_0113 Dsc_0126 朝八時頃から社周辺の清掃が行われ、二年に一度新調される幟の取り換えが行われました。続いて祭典用の提灯や入口の幟が午前中のうちに当番の男の人たちによって準備されていきます。
Dsc_0146
Dsc_1608 準備終了後の休憩を挟んで、 

午後五時より、能蔵稲荷の社に、同じ池のほとりの南東にある曹洞宗の寺院・桃岳院に普段は鎮守神として安置されている「宇賀神さん」が社に運び込まれ、祭典が行われました。
人頭蛇身(おじいさんの顔に体は蛇)で、とぐろを巻く形で表される宇賀神さんは、かつてはここ能蔵稲荷の場所に祀られていました。一見グロテスクなビジュアルですが、宇賀神は穀物の神である宇迦之御魂神(うかのみたま)とつながる神として信仰される一方で、蛇神・龍神の化身とされることもあったといい、能蔵池周辺の神秘性を象徴するお姿ともいえます。
Dsc_0131  名入りの提灯はその前の年に地区に仲間入りした新生児たちの親がつくるもので、ちょうど取材した際にも、今年初めて飾られた提灯に名が記されている赤ちゃんを横抱きにした若いお父さん、そのすぐ傍らで、もう少し年長の女の子がその手を引くお母さんとともに自分の名の提灯を探す家族の姿に出会いました。野牛島の稲荷講が後世に伝えられていくステキな光景をこの目で見ることができて感動しました。
Dsc_0741  衣装缶の中に大切に保管されている野牛島能蔵稲荷講の資料を見せていただいたことがあります。明治二十六年のものからありました。
 

 
Dsc_0168  現在、野牛島の水田はかなり減りましたが、
江戸時代に八田地区随一の石高を誇った野牛島村の歴史を穀物の神である能蔵稲荷と宇賀神さんの存在が、これからも後世に物語ってくれることでしょう。
うし子

2018年8月 6日 (月)

九頭龍(くずりゅう)さんのオコヤ作り

お久しぶりです。八田うし子です。

Dsc_2988  南アルプス市八田地区上高砂区には、洪水除けの神様として勧進された九頭龍神の祠が神明川沿いに3箇所あります。
平成30年7月29日(日)に、これらの場所で夕方からお祭りが行われました。
←大粒の雨の中、オコヤ作りをする上高砂区上組の人たち。
そのうち、一番北に位置する江戸時代に勧進された上組講中の九頭龍さん(北端の庚申塔のそば)では、現在も、当日の午前中に当該地域の人が集まって、九頭竜神の石造物を覆うオコヤを新調する行事が受け継がれています。
今回は、そのオコヤ作りの様子を見せていただきましたので、レポートします。
Dsc_2886  ここのオコヤは、骨組みは木で、側壁や屋根は麦わらで作られます。
2家族単位で当番となってオコヤ作りを担いますが、当日は当番でない方もたくさん手伝いに出ていらしていました。
Dsc_2897 まずは、側壁用4枚、屋根用2枚の麦わらでできたパネルを作成します。広げたわら束を2~3箇所で、二つに割った竹の間にはさみ、針金で端を締めて固定します。
Dsc_2922 ←オコヤで覆われていない状態のレアな九頭龍さんのお姿はコチラ。「九頭龍大権現」と刻まれています。裏にも年記は無いのですが、八田村誌によると、天竜川に祀られている九頭龍権現を文政年間に分祀したものであるとされています。
Dsc_2930←オコヤの骨組みの高さに合うようにカットして調整します。
Dsc_2900 ←骨組みには防腐剤を塗っておきます。
Dsc_2947 正面と背面の壁がつきました。正面には窓が切り抜いてあります。
Dsc_2966 側面の壁を取り付け終えたら、4隅の柱を隠すようにわら束をくくりつけてから、いよいよ屋根をのせます。
Dsc_2985 ←最後に棟にわら束をのせて完成! このときは九頭龍さんが喜んでくれたのか、大粒の雨が落ちてきました。
Dsc_3018 オコヤの四隅に笹竹を立てて縄を張り、おしんめいをつけました。
Dsc_3020 飾りつけが終わると、先ほどの土砂降りが晴れ、ピッカピカな日の光がオコヤに差してまるで照明が当たったように美しかったです。
また、この伝統的な作業を終えた皆さんの笑顔も一段とまぶしかったです。
しかし、年々、材料となる麦わらの調達が難しくなっていることや、当番の負担が重いこと等が問題になっているそうです。
神明川沿いの他の2か所の九頭龍神さんと同じように、上組でもオコヤつくりをやめて、恒久的な素材による九頭竜神を覆う小屋の設置が計画されているようです。
1710_2 918_2 ←上高砂区神明川沿い、上組以外の2か所九頭龍さん。
Dsc_2997 消えゆく地域の伝統作業の様子やその手順を、ふるさと○○博物館に記録する機会を与えていただき、上高砂区上組の皆さんには深く感謝しております。
うし子。

2018年4月14日 (土)

野牛島の人と韮崎大公寺の杉

こんにちは、八田うし子です。

Photo
←韮崎の大公寺

 桜がまだ咲いていた
4月のはじめに、韮崎市旭町上條南割の大公寺に行ってきました。

観応元年(1350)に開かれたという古いお寺です。

南アルプス市八田地区とは御勅使川を挟んで対岸にあたる場所にあるのですが、八田村誌にある野牛島の江戸時代の文献(宗門改帳・宝暦酉31753)年)をみると、野牛島村民の25パーセントがこちらの大公寺の所属でした

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←大公寺の総門

同じく韮崎市にある宗源院というもう一つのお寺にも多くの野牛島村民が所属していたようです。八田の野牛島と韮崎の上條南割のあたりは、現在は御勅使川で分断されていますが、かつて御勅使川流路がもっと南にあったころ(大公寺が開かれたころ?)には、ひとかたまりの地域であった可能性が考えられます。

野牛島中島家文書の天明6年(1786)の記録には、大公寺の杉を切って新築家屋の材としたとの記述があり、川で分断された後にも、野牛島と韮崎とのつながりが続いていきます。

以下が、その箇所と読み下し。

『八田野牛島中島家資料:「天明六年家作普請入用帳」より』

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一 金弐朱

この銀四匁四分

これは大公寺様より杉一本申し請け候に付き、上ル右杉十壱玉右を引き割りそうらえば、

百六拾枚に成し、それは残らず、

杉戸板敷へも使う。

 

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一 杉

但し、1人に積もり、十一玉

この引き割り板、百六拾枚

この板は大あらまし杉戸に仕り候。餘り板は、奥の間

板敷に用ひ申し候。木引(木挽き)浅右衛門

大公寺様より申し請け候。

 

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「野牛島の中島家では、家普請の際に、大公寺にあった杉
1本を買い、木挽きに頼んで、輪切りにして11玉にしてもらった。さらにこの11玉をそれぞれ引き割って160枚の板にした。これらの板はほとんどを杉戸にし、余った板は奥の間の板敷に用いた。この仕事をした木挽きは浅右衛門であった」という内容だと思います。他の箇所に、木挽きの浅右衛門は御勅使川最上流の芦倉村沓澤の人であると記されています。

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 現在の大公寺にも杉の大木がいくつもそびえ立っていました。

その間には切り株があり、その前に佇むと、江戸時代の文献の中にあった木挽きが働く姿を想像できるような気がしました。

Dsc_1182天明6年の野牛島中島家の家普請には、身延から下山大工9人がやってきて行われ、屋根の茅(麦わら)は有野村や築山村・六科村など周辺各地から集め、左官は甲府の連雀町から、棟祭りの祈祷は上八田の諏訪神社の神主に頼んでいます。そのほか、家を建てるのに必要な、ありとあらゆるモノや人、お金が周辺地域から集められていました。




中島家当主にとって、力量を試されるような大変な事業だったことでしょう。しかも、普請の途中でこの中島家は火事に遭っているようなのです。そのような状況の中でよくぞ家を完成させたものだと感心します。

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野牛島中島家の家作普請入用帳の内容については折々にこのブログで興味深いトピックをご紹介していきたいと思います。

うし子

2018年3月25日 (日)

蚕の種紙をリサイクル

こんにちは、八田うし子です。

 

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野牛島地区の方から昭和20年度の管理米台帳を見せていただきました。

 

 

 

内容は集落内の各戸の米供出量を食糧管理事務取扱員が算出したものでした。

 

 

 

昭和20年当時の野牛島集落内各戸の家族構成や年齢、健康状態、家庭状況などの詳細な個人情報をもとに、家族一人一人の年間の米消費量が調べ上げられていました。

 

 

 

さらに、米の収穫予定量から家族全体の消費量を差し引き計算したものを各戸の責任供出量として赤字で記しています。

 

 

 

Dsc_0973戦争最末期ですから、各戸に対して、蔵のネズミの食べる分もないほどに徹底的な供出強要が行われたことを想像させます。

 

 

 

今回、記載内容については個人情報の観点から公開は避けることにしますが、この台帳の表紙の裏に面白い痕跡が残っていました!この台帳の表紙について語らせてください。

 

Dsc_0975_2そのしっかりとした厚手紙をめくるとその裏はボコボコしていて、ざらざら!手触りはまるでサメ肌。わさびおろしを触っているみたいです。

 

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右端には、『品種名:交雑 国蚕支
107号×国蚕日111号  系統:日支交雑種  繭色:白  産卵月日:八月十八日 紙量:十三瓦(g) 卵:十三瓦(g) 卵秤量月日:八月十九日 富山県東砺波郡井波町藤橋二十五番地 扶桑館 藤澤五三郎 蚕種製造場所 同町井波2912番地』との記述がありました。

 

 

 

 

 

これはまさしく蚕の種紙(たねがみ)です。

 

 

 

昭和初期位まで蚕の卵は厚手で上質な紙に貼り付けた状態で販売されました。

 

 

 

 

 

Dsc_0528蚕種郵送容器 中央市豊富郷土資料館蔵

 

購入方法は飼育開始直前に各戸が業者に好みの品種と量を注文すると、このような卵(種)の貼りついた紙(種紙)が、筒状の専用容器に入り、輸送されてくるというものでした。

 

 

 

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この種紙が台帳を記した人物の家で注文したものかは定かではありませんが、山梨の人がわざわざ蚕種を取り寄せた富山県砺波市の「扶桑館」という蚕種製造業者は、少し調べると江戸時代から全国的に著名な「たねや」だったようです。

 

 

 

この種紙に年代は記載されていませんが、品種名が「交雑」となっているので、大正5年頃以降であり、種紙の形態から昭和初期にかけての資料と考えられます。

 

 

 

種紙の再利用はよく行われていたようで、ざらざらな面を生かして、機織りの緒巻(おまき)のはじめに巻き付けて滑らないようにしていた事例が福島県や群馬県ではよく見られます。

 

 

 

また、江戸時代末期にヨーロッパに輸出された種紙は、和紙という未知の素材に遭遇した西欧の人々に珍重され、大切な聖書を覆うブックカバーに使用されたりもしました。

 

 

 

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確かに、種紙を陽にかざすと毛蚕(けご)の抜け出た後の卵殻が光を反射して和紙の上でキラキラと金色に輝きます。じっくり見つめなおしてみると、意外と美しいものです。

 

 

 

物資不足の戦争末期に、野牛島地域の人々の暮らしを左右する重要な台帳の表紙とするため、大事にとっておいた種紙を取り出し用いたその人の複雑な心持ちを垣間見るようで、なんだか心が揺さぶられます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2018年2月17日 (土)

昭和11年の中島商店通帳

こんにちは、うし子です。

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整理中の八田野牛島中島家(屋号:お久保)資料に、昭和11年の通帳(かよいちょう)がありました。

この通帳は同じ野牛島のすぐ近所にある中島商店で発行されたものでした。

しかもなんと、中島商店さんは現在も営業中です!

少量ずつですが、魚やお肉、野菜、果物、お菓子に日用雑貨、子供向けの駄菓子もありますし、電化製品だって売っています。

毎日開いているし、まさに地域に不可欠な商店です。

昔(昭和30年代初期くらいまで)は、お店で買い物をする際に現金を持っていかずに、このような通帳を持っていきました。

買ったものの日付や商品名、値段を記入してもらい、盆暮れやお米や繭の収穫時、月末などにまとめて代金を払えばよいのです。

Photo_2←野牛島諏訪神社向かいにある現在の中島商店

現在の店主に確認したところ、この通帳の表紙に中島栄七商店とあるのは、2代目の店主だそうです。

はっきりは分かりませんが大正時代からの創業で、場所は変わらず苗敷道(ないしきみち)通り沿いにある諏訪神社の向かい、初代は丑松→2代目栄七→3代目章一郎→現在の店主の4代目は電気屋さんもはじめた洋雄氏です。

ではちょっと中を見てみましょう。

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←この年最初の買い物は
118日・23銭・うむどん(うどん)。

酒や焼酎、線香、マッチなど当時の物価もだいたいわかりますね。

Photo_4←頁をめくると、4月末に相済の印があり、合わせて314銭の支払いをしたことがわかります。

その他、8月のお盆の時期にきなこと蜜を買っていることから、現在でも受け継がれている山梨のお盆の習慣が見えてきます。

この日、お久保の中島家では「安倍川(餅を搗いてきなこと黒蜜をかけたもの)」を食べたと想像できますよね。

通帳からそんな日常生活も垣間見えて、面白いです。

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そもそも、通帳での買い物は店と客の信頼関係がないと成り立たない仕組みです。

当時、日本社会でひろく通帳制度が行われていたことを考えると、人々の心の豊かさは現代よりも上だったのではないかとも思えます。

八田うし子

2018年2月16日 (金)

野牛島の文化祭

こんにちは、八田うし子です。

去る211日(日)に野牛島地区の自治会・公民館主催の文化祭が、野牛島集落センターに於いて行われました。

そのプログラムにあった副題は「新しいふるさとを語ろう」。会場では朝から書道や短歌、手芸、盆栽などの展示の他、ステージ発表の部には舞踊や歌唱などに交じって、午前と午後に講演が一つずつありました。

午前は有名なあの五緒川先生、そして午後はわが文化財課の齋藤氏が「野牛島(八田)地区の歴史と文化Ⅴ」という演題で行いました。

今回はうし子もちょっとだけアシスタントをさせてもらいました。

野牛島限定の超ローカルな内容ながらも、今回が5回目とは思えない新情報満載の連続で、みなさんとても興味深そうに前のめりで聞いてくださっている様子でした。

Dsc_0942。←講演のはじまる前に、野牛島出土の須恵器を丁寧に見てくださっている焼き物作家の中島さん。

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冒頭の話題は、現在野牛島の隣の、韮崎市龍岡台地崖下で発掘されている大規模な須恵器作りの窯跡群(御座田遺跡)での発見についての情報と関連させた内容でした。

すでに野牛島地域内での遺跡調査で見つかっている須恵器の実物と比較しながら、今後の野牛島地域の歴史新発見の展望が齋藤氏により熱く語られました。

Dsc_0957←熱く語る南アルプス市文化財課の齋藤氏 


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さらに現在、南アルプス市高尾に窯をお持ちで、焼き物作家としてご活躍中の中島さんにも資料を見ていただき、窯の中でどのように配置されて焼かれた個体か等、かなり専門的なお話も会場の皆さんと興味深くきかせてもらいました

その他、江戸時代から昭和時代の能蔵池の様子を振り返ることのできる資料をご紹介したり、

当地域に現在もお住まいの方の家から最近ご提供いただいた昭和時代の病気見舞いや出産祝いの記録、近所への買い物に使用した通帳などをみていただき、昭和という時代の暮らしがいかに変化してきたかを振り返っていただきました。

 さらに、ふるさと○○博物館のオーラルヒストリー収集にご協力いただいている野牛島の仲良し4人組おばあちゃんにもご登場いただました。

Photo←こちらは今年のどんど焼きの時に撮影した野牛島仲良し4人組おばあちゃん。

いつもよりちょっと緊張させてしまいましたが、能蔵池をめぐる楽しい思い出話を魅力的に語ってくださいました。

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 家に眠るゴミと思っていたような何げない日常の様子を物語るメモや日記、思い出話を積極的に収集・資料化することの大切さ。

そして、この作業こそが未来のふるさとに向けて伝えていくべき地域資料を生みだしていくのだということを、会場の皆さんが実感してくださったのではないかと、その反応から感じました。

 今回の野牛島地区文化祭のキャッチフレーズ「新しいふるさとを語ろう」に、ふるさと○○博物館の精神や理念がピッタリだったわぁ!とお手伝いのうし子もうれしくなったのでした。

←おまけ:能蔵池って書いてあるのに気づきました? 野牛島のみなさんにはすぐ正解されてしまいました~♪

うし子

2018年2月 5日 (月)

六科のイラスト

平成3021日(木)

 

こんにちは、八田うし子です。


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今日は平成のはじめころに六科の笹本正孝さんが記した六科文化史(平成4年~9年・第1集~4集)という冊子をよむことができました。

八田村誌平成15年版には、この冊子から多箇所の引用があったので、図書館司書の方々にも協力していただき、原版を探していました。

笹本正孝著「六科文化史」より

実際に見ることができたのは断片的な下書きのコピーでしたが、六科で生まれ育った笹本氏の身の回りにあった消えゆく風景の数々を記録した貴重な資料です。

原稿用紙に書かれた手書きの文章に、素直な筆致のイラストが添えられています。Img20180131_10021324

「こんな風に身の回りの日常風景や思い出を書き留めておいてくれた人がいたなんて、すごいなぁ、助かるなぁ」とこの冊子に出会えたことに感謝しました。

Img20180110_16340731昭和20年代に八田じゅうの人が買い物にやってきたという「だるまや百貨店」の店先のイラストは先月やっと入手できた写真と比べても、看板がそっくりで、「大きなダルマが付いていた」という当時を知る人々の心象風景を的確にスケッチしていることに感心します。

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←同じく六科交差点付近にあって繁盛していたという精米所や清水肥料店のイラストもあり、写真資料が現存しない実情を考えると、大変価値のある資料です。

Img20180201_17273345山梨の民俗研究に欠かせない資料となっている『甲斐の落葉』という明治時代に書かれた本があります。

山梨に牧師としてやってきた山中共古という人が日常に見聞きした山梨の風景を落葉をかき集めるようにまとめたというもので、簡潔な文章にゆる~い感じの絵なのだけれど的確にその特徴をとらえたイラストをふんだんに配しています。

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 うし子はふるさと〇〇博物館の資料を日々収集する中で、古い引き出しや箱の底に敷いてある新聞・チラシやメモ書きの隅々にも注目しています。

意外と、何かの余白にさっと書き込んだような絵や文の中に当時の人々の日常や心情が色濃く反映されている場合があるからです。

 そう考えると、例えば小学生の絵日記のようなものも昭和30年代のものであれば、重要な資料になりうるのではないでしょうか。

あなたの家に眠っている地域の行事や風景、家庭生活の様子を描いた絵(落書き)・日記も、100年ほど経てば貴重な文化資料になります。

昔の「夏休みの友」でもいいですから残っているのを発見したら、すぐ捨てないで!

ふるさと文化伝承館にいる(℡0552827408)うし子にもちょっと見せてくださいな♪

うし子 

2018年1月31日 (水)

なぞの道標

こんにちは、うし子です。

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八田地区内を歩いてみると道祖神さんや蚕神、庚申塔や富士塚、お地蔵さんや観音様、各種供養塔その他いろいろな石造物に出会えますが、道標もいくつかあります。

車社会になってからは必要でなくなってしまいましたが、地図もあまり無く移動手段が徒歩であった時代の旅人には、石の道標はさぞかし心強い存在であったにちがいありません。

そんな風に古に思いを馳せて歩いてみれば、なおさら、いまは風化して肉眼では判読不明になってしまっている道標に出会うと、その石には何という字が刻まれているのか、どうしても知りたい気持ちになります。

だいたいの道標はその場で読めなくても、事務室に帰ってから、『八田村誌(昭和47年刊・平成15年刊)』や『中巨摩の石造文化財(平成7年発行)』をみればわかります。

しかし、今までの調査から漏れてしまっていたようで、どうしても刻まれている文字がわからない道標がありました。

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気になって仕方がないので、拓本を取ってみることにしました。

問題の道標は上高砂集落内の小さな交差点にあります。「左甲府」とわかるのですが、「右???」が読めません。

置かれた方向から考えると、韮崎?かとも思ったのですが、どうも字が違うようなんですよね。

拓本を取らせていただくにあたっては、道標を汚したり破損するようなことがあってはならないのはもちろんですし、前もって区長さんをはじめ、周辺にお住いの方々に承諾を得てから行いました。

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道標に和紙をのせ、その上から霧吹きで水を吹きかけてから布巾や刷毛、綿で押さえつけるようにはりつけた後、その上からタンポで軽くポンポンと拓本用の墨をのせ、文字を写し取りました。

だんだん文字がみえてきて判りましたよ!

「左 甲府」「右 小笠■」と読めませんか? 

「原」の字の半分がアスファルトに埋まっていますが、「小笠原」で間違いなさそうです。

でも、今ある位置では方向が違うので、別の場所から移動してきたとわかります。

では、今度はこの道標のもとあった場所がどこなのでしょうか?

上高砂地区でご存知の方を探して教えていただきましたところ、新しい道標を建てたために不要になったのでこの地に運んできたとわかりました。

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その場所とは、龍王から信玄橋をわたって上高砂地域にはいり、左側にあるスーパーオギノの手前を入る道の隅(上高砂の消防小屋の前)でした。

現在建っている道標を読むと、「昭和4317日に御影消防団第三部建」とありますので、その時からこの場を離れ、いまは上高砂集落内にひっそりと佇んでいたのです。

地図で見ると、釜無川を渡って旧道が下高砂方面に曲がる当たりの南側にあたり、位置的にも方向的にも矛盾がないことを確認できました。

Dsc_0384なぞの道標の元あった場所。現在は昭和4年建立の道標がある。

長い間路傍にあり、多くの人々の旅の安全を守りながら役に立ってきた道標を、新しいものができたからといってそのまま打ち捨ててしまうことができなかったのでしょう。当時の上高砂の人々の心情が時を超えて伝わります。

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12月の中旬の作業でしたので、うし子が拓本をとる理由を不思議そうに尋ねてきた近所の皆さんが、作業の途中であたたかい飲み物を差入れてくださったり、どんな字か判明して撤収するときには自慢のころ柿を箱いっぱいに下さったことも思い出です。

昔も今も変わらない上高砂集落の人々の温かい情に接した思いです。

うし子