八田地区六科・野牛島・上高砂

2023年11月27日 (月)

高砂渡場橋梁渡船賃銭表(たかすなわたしばきょうりょうとせんちんせんひょう)

こんにちは。
秋も深まってお散歩するのが楽しい季節ですね。私は橋を渡って河川敷の遊歩道を歩くと、気分がスッとして好きです。ちょっとひんやり澄み切った空気を吸い込みながらテクテクする遊歩道は、だいたい川の堤防上にあるから小高くて、富士や南アルプス等の甲府盆地を取り囲む山々がぐるっと望めますし、またその背景になっている空もきれい!「私っていい所に住んでるよね~」って幸せを感じるひと時です。
 でも、いまから100年くらい前までは、気軽に橋を渡って川沿いに散歩することなんてできなかったんですよね。お金も必要だったようですし。
 たとえば、現在、南アルプス市八田地区に、昭和7年にコンクリート製の旧信玄橋が開通するまで、上高砂と龍王を隔てる釜無川を渡るには、「高砂渡し(たかすなのわたし)」を利用する必要がありました。その高砂の渡しには利用料も必要でした。しかも、釜無川の水量の状態や利用する人の条件によって料金が細かく設定されていました。
10_20231127114601 ←「大正5年頃の高砂の渡しの様子」(南アルプス市文化財課蔵)
Dsc_0422_20231127114701   Dsc_0417_20231127114701 ←「高砂渡場橋梁渡船賃銭表看板 大正7年」(南アルプス市文化財課所蔵):釜無川の右岸にある高砂と左岸側の竜王へと結ぶために運営されていた渡し場に掲げられていた料金表の看板

『 山梨県許可
 橋梁渡船賃銭表
 橋梁之部
人壱人  金二銭
牛馬一頭 金四銭
人力車一輌 金四銭
自転車一輌 金二銭
荷車一輌  金五銭 
客馬車一輌 金七銭
荷馬車一輌 金十銭

 渡船之部
 常水三尺以下二人越
人壱人  金三銭
牛馬一頭  金四銭
人力車一輌 金四銭
自転車一輌 金二銭
荷車一輌  金五銭
 増水三尺五寸以下三人越
人壱人  金四銭
牛馬一頭  金五銭
人力車一輌 金五銭
自転車一輌 金三銭
荷車一輌  金六銭
 増水四尺以下四人越
 人壱人  金五銭
牛馬一頭  金七銭
人力車一輌 金七銭
自転車一輌 金四銭
荷車一輌  金八銭
増水四尺五寸以下五人越
 人壱人  金六銭
牛馬一頭  金九銭
人力車一輌 金九銭
自転車一輌 金五銭
荷車一輌  金十二銭
増水五尺以下六人越
 人壱人  金七銭
牛馬一頭  金十一銭
人力車一輌 金十一銭
自転車一輌 金六銭
荷車一輌  金十四銭

備考荷車並荷馬車空車ナルトキハ総テ半額トス
右之通り
大正七年四月廿七日  高砂渡場     
          山梨県龍王警察署□印 』

Dsc_0419 ←「高砂渡場橋梁渡船賃銭表看板 大正7年」(南アルプス市文化財課所蔵):釜無川の右岸にある高砂と左岸側の竜王へと結ぶために運営されていた渡し場に掲げられていた料金表の看板
 ただの料金の羅列ですが、最初から最後まで頭を働かせながらゆっくり見ていくと、かなり面白い発見ができそうです。では、一緒に見ていきましょう!
 ①まず、全体の構成から見ると、橋梁の部と渡船の部に分けられていることに気がつきます。「橋があるのに、それよりも1銭も高く支払って船で渡るとはいかに?遊覧船でもあるまいし」と、不思議に思ってしまいますが、ここには理由があって、昭和7年にコンクリート製の永久橋である信玄橋が建設されるまで、橋は、冬期の水量の少ない時期にのみ存在するものでした。春から秋にかけての増水期には、橋は取り払われていました。橋梁の建築技術や素材が未熟だった明治大正期には、春から秋に起こる大雨によって流される危険性が高かったのでしょう。
 高砂の渡しの場合、舟が運航するのは5月頃から12月中旬までで、水の少ない12月から4月までは仮橋がかけられていたと八田村誌にあります。そのために、橋の通行料と渡船賃の両方が明記されていたというわけです。

10_20231127114603 ←「大正5年頃の高砂の渡しの様子」(南アルプス市文化財課蔵)
 毎年の橋の架け替えに必要な経費については、橋の通行人が支払うものとは別に、橋を多く利用する近隣村が分け合って負担していたようで、年末にまとめて村が支出していたことが、文化財課が保管する村入用夫銭帳などからわかっています。
12_20231127115201 Photo_20231127115301 ←「k-0-0-19-30 1862戌夫銭帳西野村」(南アルプス市文化財課蔵・西野功刀幹浩家資料より)
 上今諏訪の渡し(現在の開国橋あたり)に近い西野村でも、文久2年村入用夫銭帳にて12月に「上高砂 橋掛入用甲銀15匁を支出」の記載があります。この他の年でもだいたい同じような金額を12月にまとめて上高砂村に支払っているようですので、高砂の渡しで毎年建設する橋梁は上高砂村が管理運営していたということだと思います。

 ②それでは、次に橋梁の部と渡船の部の項目別の料金について見比べてみます。通行人だけでなく、牛馬や人力車、自転車、荷車などの乗り物別に料金設定が異なっている様子がわかりますが、客馬車と、荷馬車は渡船では無理だったようで、橋梁の存在する期間(12月から4月頃)に限って通行可能であったことがわかります。

Dsc_0421 ←「高砂渡場橋梁渡船賃銭表看板 大正7年」(南アルプス市文化財課所蔵):釜無川の右岸にある高砂と左岸側の竜王へと結ぶために運営されていた渡し場に掲げられていた料金表の看板

 ③さて、次に着目するのは、渡船賃料が、川の水深によって細分されているところです。
 三尺以下(90.9cm以下)、三尺五寸(106.1cm以下)、四尺以下(121.2cm以下)、四尺五寸(136.35cm以下)、五尺以下(151.5cm以下)の5段階となっています。このことから、5尺以上(水深151.5cm以上)で渡しは中止されたということが理解できます。
 三尺以下の常水では1人3銭であるのが、最も増水している時では一人7銭となり倍以上の料金がかかったということがわかります。

 ④面白いことに、馬や荷車に乗せた荷物の量や重さは料金に無関係だったようです。荷台はカラあっても満載でも1輌分の料金は変わらないということでしょうか。

10_20231127114602 ←「大正5年頃の高砂の渡しの様子」(南アルプス市文化財課蔵)

 ここで、大正初期当時の高砂の渡し利用状況を具体的にいろいろ想定して、料金を計算してみようと思います。
・夏に収穫した桃を詰めた籠を背負って、晴れた日に甲府の市場に行くために高砂の渡しを使う場合の料金
→3銭
・桃を荷車に積んで船で渡る場合 → 5銭
・甲府へ新春の初売りに行くために橋をわたるとき→ 2銭
・甲府の製糸場へ出荷するため、台風の翌朝に繭を荷車いっぱいに積んで船で渡るとき(釜無川は増水五尺)→14銭
・芦安で切り出した材木を12月に荷馬車で甲府に運ぶ場合→10銭

 川を渡るときのお金のかかり具合は、だいたいこんな感じでしょうかね。しかし、まだわからないというか、こんな時はどうなんだろうという場合もあります。たとえば、客馬車に乗っているお客さんからも一人当たりの橋梁渡賃2銭を徴収していたのか否か? 荷車の積載量を徴収しないのと同じように、客馬車代を7銭払ってあれば、のせている人の数は不問だったのでしょうか?気になるところです。

 こうしてみてみると、ひと1人で渡る時に一番安く川を渡れるのは、12月から4月までの橋の架かっている時期の2銭で、5月から11月の渡船でいかなくてはならない時期には1銭高くなったのですね。一番値段の高くなるのは、増水五尺で1人で7銭、荷車で渡るときは14銭とありますが、『六人越』とありますから、6人の渡し人を使って流れの速い釜無川に船を出すのですから、相当危険なこともあったと想像します。
7_20231127114701 ←「昭和7年信玄橋落成記念」(南アルプス市文化財課蔵・野牛島中島家資料より)

71115 ←昭和7年11月15日信玄橋開通記念:長さ460㍍、幅7メートルの鉄筋コンクリート製の永久橋が完成し、高砂の渡しは終了した。(南アルプス市文化財課蔵)

 高砂の渡しは、昭和7年にコンクリート製の永久橋が竣工すると終了したと考えられます。この永久橋が初代の信玄橋です。総長455.5m、幅員5.45mで、総工費は約12万円だったそうです。

Photo_20231127114601 ←昭和7年(1932)旧信玄橋のこの親柱には、頭部に橋灯が設置され夜間の通行の助けになっていたが、戦時中に撤去されたとのこと。(南アルプス市文化財課蔵)

Dsc_0461 Dsc_0464 ←現在の信玄橋と信玄橋上からみた高砂の渡しのあった辺り(令和5年11月16日撮影)

Dsc_0462 ←平成4年(1992)に竣工した2代目で現在の信玄橋の親柱には、武田菱がついている(令和5年11月16日撮影)

現在の信玄橋は平成4年に2代目として竣工したものですが、1代目と同じく、武田菱や武将の意匠が橋の所どころにデザインされた信玄橋の名にあやかったものとなっています。
 なお、役目を終えた1代目の信玄橋の親柱は、現在、八田児童館の敷地内に移されており、いつでも自由に見ることできるようになっていますよ。

Dsc_0484 Dsc_0482_20231127120201 ←「昭和7年竣工の旧信玄橋の親柱」八田児童館の敷地内に移されている。(令和5年11月16日)

 

2023年11月22日 (水)

信号機上を駆ける甲斐の黒駒

 こんにちは。
今日は、〇博調査員のお気に入りの信号をご紹介してもいいですか?

2_20231122154901 ←開国橋西交差点の信号(令和5年11月21日撮影)
釜無川右岸沿いの道を通勤路にしている〇博調査員にとって、毎日心癒されるステキな通過ポイントが2カ所あります。なんと、カッコいいお馬さんがデザインされた信号機があるんですよ!
 まず、1ヶ所目は南アルプス市今諏訪にある開国橋西交差点にある信号機です。

3_20231122154901 4_20231122154901←開国橋西交差点にある、「御勅使川扇状地を疾走する甲斐の黒駒」デザインの信号機(令和5年11月21日撮影)


ほら、信号機の上をお馬さんが駆けているでしょ。
 設置者に確認したわけではないですが、絶対にこれ、「甲斐の黒駒」ちゃんだと思うんですよね。
 古代甲斐国は、「甲斐の黒駒」の名で知られた名馬の産地でした。特に南アルプス山麓の御勅使川扇状地では、鎌倉時代に『八田牧』と呼ばれた牧場があったことが知られています。さらに、近年の考古学的調査からは、平安時代にさかのぼる牛馬生産の存在が示されています。まさに文化的にピッタリの場所にデザインされたクールな信号機なのです!


 では、市内若草地区の浅原橋西交差点にあるもう1ヶ所のお馬さん信号機をみてください。

Photo_20231122155101 Photo_20231122155102←浅原橋西交差点にある、「御勅使川扇状地に放牧される甲斐の黒駒の親子?」デザインの信号機(令和5年11月21日撮影)



よーく見ると、ほらぁ~、仔馬ちゃんがうまれてますよ~!「チュッ」てしてるみたいで可愛いですね♡ 八田牧で放牧されている親子でしょうか?
通る機会があったら、ちょっと気にしてみてくださいな。

 ちなみに、南アルプス市ふるさと文化伝承会で開催中のテーマ展『南アルプス山麓の古代牧』は令和5年12月20日(水)までの会期でございまーす。

Dsc_0522←令和5年12月20日(水)まで南アルプス市ふるさと文化伝承館で開催のテーマ展『南アルプス山麓の古代牧』


 展示をご覧にいらっしゃる行き帰りに、どうぞこのお馬さんの信号機を探してみて下さい。
古代には、この地に甲斐の黒駒たちが雄大な山々をバックに駆けまわる景観があったことを想像していただけたなら幸いです。

 ところで、同じ釜無川に架かっている市内八田地区にある信玄橋西交差点の信号はこんな感じです。残念ながらお馬さんはいないですから、お間違えなく~。

Photo_20231122155201 ←信玄橋西交差点の信号機にはお馬さんはいませんよ~(平成30年12月27日撮影)

2022年12月15日 (木)

にしごおり果物の軌跡は「柿の野売り」による行商活動からはじまった

 こんにちは。
今月21日迄開催しております南アルプス市ふるさと文化伝承館テーマ展「にしごおり果物のキセキ」において展示中の古文書について、きょうはご紹介したいと思います。

P1130663 ←南アルプス市ふるさと文化伝承館テーマ展「にしごおり果物のキセキ」より、柿売人に関する文献の展示コーナー
 展示ケース中にて、『菓もの類野うり免許状』2点、『曝柿直売免許状』1点、『原七郷議定書之事』1点を公開しています。いずれも、にしごおりの柿売人に関する文書です。
 これらの古文書の展示によって、にしごおり果物の軌跡が「柿の野売り」による行商活動からはじまっていることを知っていただきたいと思いました。

 古来より、砂、砂利、礫、粘土に覆われたにしごおりの原七郷では、その恵まれない自然条件下によるギリギリの土地利用のなかで、最大限の効果を挙げようと努力する人々の姿がありました。柿などの作物を加工したり、売る時期をずらすなどして、商品価値を高め、農閑期に村外まで売り歩く行商によって、村の生産力以上の人口を維持してきたのです。南アルプス市域で最も古くから盛んに作られた果物は、この行商用商品として加工するための柿でした。

古文献にも、西郡(にしごおり)の柿についての記述は見られ、

「裏見寒話巻之四」1754年宝暦4年 野田成方 「甲斐志料集成三 地理部2」昭和8年 甲斐志料刊行会・大和屋書店に収録の
甲斐料集成P226には『西郡晒柿 渋柿を藁灰にて晒して売る。此処は田畑なく、柿を売る事を免許されしといふ。』
甲斐料集成P229には『晒柿 渋柿を藁汁にて製して晒す。佳味也。西郡原方より出づ。』とあります。これらの記述から、にしごおりの人々が売り歩いた柿は渋柿を加工したもので、「晒柿(さわしがき・さらしがき)」と称されていたことがわかります。

 行商の商品として「にしごおり果物」を生産したことは、明治以降に当地で勃興するフルーツ産業に、様々なプラス作用を及ぼしました。商機があればどこにでも出かけていく、風の如く機敏なフットワークと開拓心によって磨かれた、にしごおり行商人たちの経済観念の強さは、市場の動向にもまた機敏な果物栽培を初期段階から実現し、現在の南アルプス市における独創的なフルーツ産業の在り方へとつながっています。

P1130201    ←1 「菓もの類野うり免許状 十五所澤登家所蔵」 天文10年8月 1541:七郷の者に与えられたという果物売りの行商免許(御朱印)状

 まずは、原七郷のの者どもへ武田信玄が出したという、いわゆる「野売り免許状」と呼ばれるたぐいのものを3点ご覧いただきます。
1 「菓もの類野うり免許状 十五所澤登家所蔵」 天文10年8月 1541
    七郷の者に与えられたという果物売りの行商免許(御朱印)状
『其村々より年々飼馬
献上致候段神妙之至
向後三郡九すし之内
菓もの類野うり糶売
免許之事

小幡山城 奉之

天文拾年    
  辛丑八月日 

          七郷之もの共』

P1130662 ←『1・2菓もの類野うり免許状』2点、『3曝柿直売免許状』1点、『5原七郷議定書之事』1点

2 「菓もの類野うり免許状 桃園区有文書55-16」 天文10年8月 1541
    七郷の者に与えられたという果物売りの行商免許(御朱印)状
『其村々より年々飼馬
献上致候段神妙之至
向後三郡九筋之内
菓もの類野売糶売
免許之事
小幡山城 奉之
天文十年辛丑八月日    
              七郷之 もの江』

3 「瀑柿直売免許状 桃園区有文書55-1」 天文18年8月 1549
    七郷の者に与えられたという柿売りの行商免許(御朱印)状
『巨摩郡西郡筋原七郷者
雖乾水場所他邦会戦之節
夫持軍役等無遅滞因
先功瀑柿直売并諸商令
免許之旨御下知不可有
相違弥以此趣軍用可相勤条
依執達如件

天文十八年酉八月十五日   小幡因幡守
                奉之

              巨摩郡
               原七郷者江』

 「野売り免許状」とは、「飼馬を献上した等の功績により、原七郷に住む者どもに、果物類、晒柿その他の野売、せり売が信玄により免許されたという御朱印状のことで、1の免許状(朱印状)は現在でも櫛形地区の個人宅で大切に保管されているものです。これまでに※文献等に紹介された、同様の野売り免許状を集成すると、天文10年から永禄11年迄で計9点が確認できますが・・・。しかし、現今では偽書であるとの判断がなされています。このような偽の信玄免許状が流布するようになるのは、文化6(1809)年10月に起きた市川大門柿売人との縄張り争い以降であるとされます。 ※文献3)4) 
 ちなみに、野売り免許状に記載されている「天文10年」は、6月に武田晴信(後の武田信玄)は父の信虎を追放して当主となり信濃侵攻を開始した年です。「小幡山城」とは、武田家の家臣で小幡虎盛という人物を指します。

※ 野売り免許状についての記述のある文献:
1)「豊村」 豊村役場 昭和35年
2)「行商人の生活」 塚原美村 雄山閣 昭和45年
3)「甲州商人の特権伝説をめぐる一考察」 笹本正治 山梨郷土研究会甲斐路第59号 昭和62年
4)「山梨県史資料編11近世4在方Ⅱ」 山梨県 平成12年

 それでは次に、以上1・2・3のような偽書といわれる「信玄の野売り免許状」が、つくられる契機となった文化6年のある事件についての文書をご紹介します。

Dsc_0860 ←4『4柿売一件』 桃園区有文書55-5 文化6年10月 1809


4「信玄の偽免許状発給のきっかけ事件」文化6年10月 1809 『4柿売一件』桃園区有文書55-5
:八代郡東油川村で起きた市川大門とにしごおりの柿売人との間に起きた縄張り争いを巡る喧嘩についての文書
にしごおり柿売人が絡んだ争いの、最古の記録とされる。 ※文献1)3)

『八代郡市川大門村惣右衛門吉右衛門御訴訟奉申
上候趣意ハ祐助安五郎外五人者共晩十六日
八代郡東油川村近辺江柿売ニ罷出候処同商
売之もの原方七郷之者之よし申之大勢
理不尽難題申懸勇助安五郎両人之柿籠
奪取候間外立会候者共種々懸合候所一向
不取用小人数御座候得ハ大勢ニ而悪口申募
られ理非不相分両人之者共西郡原方ヘ一同
右連申候ニ付外五人之者共罷帰右両人親々江
相話し候ニ付右之始末御吟味奉請度段御訴訟
奉申上候儀之小笠原村江御出役様御越
被遊御吟味可被為極候処隣村之義故気の毒ニ
奉存江原村察右衛門御吟味延奉願小笠原村
安五郎十五所村八五郎右両人供場ニ而引
合候由承候ニ付右始末相尋候処右両人
申候ニハ其方共何れも相尋候間西郡原方より
相咎候得ハ西郡者笛吹より東ハ入込申
間敷と申私共柿籠ふみつふし以来
西郡者ハ差留メ申候間此段相心得可申与
申候間急度差押候ハバ其段書付差出し
可申間申候得ハ途中之事故此者両人遣候間
其地ニ而相糺可申与申候間無拠一同仕申
候由申之候右之趣多方申争ひ御吟味
奉請候而者不宣奉存双方異見差加ヘ内済
仕候起ハ

一 原七郷村々柿野売之義ハ往古より申奉も
有之作間渡世堅目籠ニ而手広之仕来ニ
御座候野売致候義ハ原方ニ限リ近郷ニ而茂
相弁ひ罷有候市川大門村之義ハ柿籠を以商い
渡来リ候段申之以来相互ニ馴合柿在売之義
迄者双方共故障申間敷候右之趣双方得心
仕相済申候且又此度申争ひ其外憤リ所ハ
扱人貰請重而意趣遺恨無ニ趣和融之上
内済仕候右之通双方并引合之者共迄一同
内済仕候ニ付何卒御慈悲を以テ内済御聞済
御下置願書御下ヶ被下置候様奉願上候然上ハ
右一件ニ付重而御願ヶ間敷義も願無御座候
誠ニ御威光ト有難仕合ニ奉存候之一同連印
を以御願下ゲ済口差上申処如件         』

文書の内容: 原七郷の柿売人が八代郡東油川村へ出向いたところ、市川大門の柿売りと鉢合わせて、縄張り争いとなる。市川大門の柿売り達が、「西郡者は笛吹川を越えて売りに来てはならない」といって、柿籠を踏みつぶして大喧嘩となったのだ。その折、小笠原村の安五郎たちは、けんか相手の市川大門の2人を西郡に連れて帰ってしまったので、市川大門方は代官所に訴えた。結果、仲裁人が入り、「西郡者は堅目籠を用い、市川大門方は柿籠を使って、互いに紛らわしくないようにして商売するよう」に決めて一応の決着をみた。

 この事件は、原七郷の人々に、生活基盤の一つである野売り商いの将来的なあり方への危機感を煽ることとなりました。そのため、この事件を契機として、信玄の野売り免許状なるものの流布が見られるようになったと考えられています。 ※文献3)

Img20180810_13302518_20221215143901 ←柿の野売りに使用された籠(南アルプス市文化財課蔵):この籠のタイプが文化6年当時に「竪目籠」とよばれたものかは不明。

 よその土地に商売に出かけていくということには、相応の勇気と商才が必要です。信玄以前には「勅使による商売許可」というものもあり、「武田信玄の野売免許」とあわせた、それらの伝説の醸成した原七郷の特権意識は、西郡の行商人を精神的に支えました。

次の文書は、行商の特権意識を持つにしごおりの村々が団結して自衛する動きを示すものです。

P1130664 ←『5原七郷議定書之事』桃園区有文書55-22 文化6年10月 1809
5「野売免許状を持つ原七郷の村々九村で商いの組合をつくった」文化6年10月 1809 『原七郷議定書之事』 桃園区有文書55-22
 内容:4の市川大門柿売人との縄張り争いの事件を受けて、危機感の募った原七郷の柿売人たちが、「野売免許状を持つ原七郷の村々九村」として、商いの組合をつくり、作間稼ぎの野売に関する決め事を記した。
『文化六巳十月柿売一件取極書 桃園村
原七郷糶定書之事
一 従御公儀様被仰渡候御法度之
  義者不及申何事によらす諸商ひ
  等ニ罷出候節随分相慎ミがさつ
  かましき義仕間敷別而
  御朱印等申立候義者重き御義ニ
  候間此旨得与相弁可申事
一 柿野売場先ニ而何事ニよらす何れ之
  村方より一件差発候節ハ組合村評議之上
  品ニより諸入用等組合割ニ司仕事
一 柿商売仕候者共江一村限り得与申聞置
場先ニ而御朱印を申立かさつ
成始末并不埒之取計仕候者
有之者詮議之上諸入用共者
壱人懸リ品により組合入用迄かけ
可申事
右之通組合付相談之上取極候上ハ
一村限り小前壱人別ニ申聞麁略無之様ニ
可仕若不埒之村方有之候ハ組合村ニテ
申立作間稼之商ひ一村差留メ可申候
為其組合連印為取替諠定書
仍如件
      文化六巳十月      在家塚村 
                    名主 林右衛門
                  上八田村
                    名主 幸右衛門
                  上今井村
                    名主 庄左衛門
                  桃園村
                    名主 庄八 
                  小笠原村
                    名主 源左衛門
                  吉田村
                    名主 清左衛門
                  飯野村
                    名主 忠左衛門
                  十五所村
                    名主 作右衛門
                  西野村
                   名主 佐治兵衛
端裏書
  文化六巳十月柿売一件取極書 桃園村        』

 その他、にしごおりの柿売人に関する文書について、文献等に既出のものを数え上げると、江戸期から明治初年頃にかけてのもので27点になりました。信玄の免許状だけでも9点ありました。いかに柿(果物類)の野売りによる利益がにしごおりの人々の生活に欠かせないものであったかが理解できると思います。

Dsc_0861 ←柿売人の登場する文献のリスト(展示中)(南アルプス市○博担当作成)
 江戸期に活発に行われていたにしごおりの人々による柿の野売りは、明治期に甲府に青物市場が整備されるまで続きました。
 野売りが行われなくなった後も、この行商文化で磨いたにしごおりの人々の売り込み精神や商才は、進取の気性・卓越した経済観念としてその心に宿り続け、現在まで続く当地の独創的なとフルーツ産業の発展に貢献しているのです。

2022年10月 3日 (月)

柿の野売り籠

こんにちは。
P1130396
  南アルプス市ふるさと文化伝承館では、テーマ展「にしごおり果物のキセキ」が開催中です。

開期は令和4年12月21日(水)までです。

展示では、南アルプス市の基幹産業の一つである果樹産業が、江戸時代に盛んに行われていた柿の野売りにはじまり、明治以降、どのような歩みを持って、独創的な発展を遂げたかを振り返ります。


さて、このテーマ展が始まって2か月が経ちました。

展示を観に来てくださった地元の方々から、資料を前に様々な聴き取りができ、オーラルヒストリーの採取や関連資料のさらなる収集を行うことができています。

 

 


  今回ご紹介する資料、「柿の野売り籠」もその一つです。

「柿の野売り籠」は南アルプス市の果物産業史における重要なキーアイテムなのですが、テーマ展開催時には文化財課に収蔵がなく、画像をもとに地域の竹細工アーティスト(伝承館スタッフ)に制作を依頼した参考品を展示していました。

P1130398←野売り籠のミニチュア再現品(伝承館スタッフ作成)

Img20180810_13302518←柿の野売り籠の画像(西野功刀幹浩家所蔵)
 9月に入り、市内櫛形地区十五所のお宅の蔵に、柿の野売り籠一対が素晴らしい状態で保管されていることをお知らせいただき、寄贈いただきました。

Img_0826←令和4年9月に寄贈された「柿の野売り籠」のクリーニング作業
 大きさは、口径41cm・底径45cm・高さ43cmで、行商人は、天秤棒で二つのかごを同時に肩に担いで売り歩きました。とてもしっかりとした丈夫な作りで、底部は平ら、籠の中は付着した柿渋で真っ黒です。

P1130394
 ←「柿 野売り籠(かき のうりかご)」 
 にしごおりの人々が、渋抜きした柿を入れ、担いで売り歩いた際に使用した籠。籠の内部は、柿の渋が染みて黒くなっている。
 大正時代のはじめまでは、秋になると、渋抜きした柿を籠に入れて担いで、釜無川や笛吹川を渡って行商に出た。そして、稲刈りをしているところに行って、柿を売ったり、籾と交換することで、生活を支えた。

←展示された柿の野売り籠((天秤棒なし)十五所澤登家より寄贈・南アルプス市文化財課所蔵

 

 

 その後、市内白根地区にお住まいの小野さん(昭和10年代生まれ)から、大正時代までに地域で行われていた、一般的な柿渋の抜き方や、野売りに使用された柿の種類についてなど教えていただきました。

 『野売り籠に入れて売り歩いた柿は小粒の渋柿だったので、渋抜きをしなければならなかった。味噌桶に柿を八分目か九分目位きれいに並べて詰めるのと並行して、42~45℃の大量の湯を風呂樽を使って沸かした。
そして、柿を並べた味噌桶の中に湯を一気にかぶるくらいに入れ、上に木の蓋をしてから蓋の上や周りを菰(こも)や布団で覆って保温すると、1日か2日間で渋が抜けて、柔らかすぎずにちょうどよい舌触りの小粒で甘い柿になった。(西野小野捷夫氏談)

002img20220926_11444294←江戸時代から大正初期までのにしごおりの行商人が野売りした柿の品種(西野小野捷夫氏撮影)
 『かつて、西郡の行商人が売った柿は、みな小ぶりの渋柿品種で、「イチロウ」「ミズガキ」「イチカワビラ」「カツヘイ」などだった。小さな子供が手に持って食べるおやつにちょうど良く、甲州百目のような大きな柿でも渋を抜いて作ることはできたが、小さな渋柿を加工したものがよく売れた。(西野小野捷夫氏談)とのことです。
 勝平(カツヘイ)という品種は白根地区西野の芦澤家に原木(現在は無い)があった現在の南アルプス市固有の品種です。
 大正時代に入り、果実の出荷組合が結成されたり、甲府に青果市場が整備されてくると、籠を担いだ行商人による野売りは急速に無くなりました。そして、行商用の100~150gの小さな柿の栽培も衰退しました。
 現在の南アルプス市で栽培されている加工用の渋柿は刀根早生(トネワセ)、平核無柿(ヒラタネナシカキ)、甲州百目(コウシュウヒャクメ)、大和百目(ヤマトヒャクメ)など比較的大きな柿が主流ですから、野売りという販売形態の終焉とともに、商品となる柿の大きさや品種も大きく変化して現在に至る点は興味深いですね。

 西郡果物の軌跡は「柿の野売り」による行商活動が出発点です。
古来より、砂、砂利、礫、粘土に覆われたにしごおりの原七郷(桃園・沢登・十五所・上今井・吉田・西野・在家塚・飯野・上八田・百々・小笠原)では、その恵まれない自然条件下によるギリギリの土地利用のなかで、最大限の効果を挙げようと努力する人々の姿がありました。
柿などの作物を加工したり、売る時期をずらすなどして、商品価値を高め、農閑期に村外まで売り歩く行商によって、村の生産力以上の人口を維持してきたのです。
南アルプス市域で最も古くから盛んに作られた果物は、この行商用商品として加工するための柿でした。
 行商の商品として「にしごおり果物」を生産したことは、明治以降に当地で勃興するフルーツ産業に、様々なプラス作用を及ぼしました。商機があればどこにでも出かけていく、風の如く機敏なフットワークと開拓心によって磨かれた、にしごおり行商人たちの経済観念の強さは、市場の動向にもまた機敏な果物栽培を初期段階から実現し、現在の南アルプス市における独創的なフルーツ産業の在り方へとつながっています。

P1130395 ←柿渋が染みて内部が真っ黒になっている展示中の野売り籠(十五所澤登家より寄贈・南アルプス市文化財課所蔵)

 ふるさと文化伝承館でのテーマ展示をきっかけとしてつながった所有者様から資料調査や寄贈の打診をいただいたことで、今回も、成長する展示が実現しています。地域博物館での身近な歴史をテーマ展示する意義を、実感する毎日です。

2022年8月24日 (水)

野牛島要助さんが日記に書いた天保騒動

 こんにちは。
 今日は令和8月24日、いまから186年前の天保7年(1836年)、山梨県では天保騒動という大規模な騒乱のさ中で、ちょうど現在の南アルプス市域が被害をこうむった日です。
 天保騒動は、江戸時代後期の天保7年(1836)8月17日に郡内白野村での百姓一揆からはじまった騒動です。しかし、山梨郡熊野堂村の米穀商打ちこわしという当初の目的を果たした郡内の百姓たちが帰村した8月22日頃になると、騒動に乗じて参加した無宿人らが暴徒化して、大規模な強盗集団となり、国中(甲府盆地内部の村々)を暴れまわって、甲州の人々を恐怖に陥れました。

※ 画像はタップすると少し拡大します。

Photo_20220824114801〇博で整理している八田地区野牛島中島家文書の中に、要助さんという当時名主を務めた人物の日記帳(「去申用気帳」)があります。

002img20220824_11411518 002img20220824_11413166  ←この資料は文政7年暮れから天保9年4月までの期間のことが記されており、興味深いので、日付ごとに冒頭文章のインデックスを付けて見やすい様にしてみたり、天気・災害、米などの値段、要助家族、周辺情報、祭り民俗、不思議体験と分類して、内容を整理して読み返しています。

 今日はその中から天保騒動についての記録をご紹介しておきたいと思います。

68 天保7年8月17日~24日
『 一 八月十七日初め郡内白野村与五兵衛野田尻嘉助猿橋武七右三人之者共騒動大□郡内村々之者乱暴人数凡七百人斗ニ而笹尾峠(笹子峠)ニ登りのろしを上げ時こえ上げ谷村ゟ酒屋穀屋油屋其外売買家打潰し先勝沼宿かぎ屋ハこんや質屋穀屋致候家ニせんたい諸賄致潰し不申候』
69  
『同廿二日騒動成等々力村亀屋熊野堂村奥ゟ石和宿沢田屋外ニ宿中火をかけ壱町田中酒屋数多く潰し御陣屋おし入人不残拂 山崎へ押寄甲府勤番頭弐タ頭山崎口へ出張与力同心百姓番非人えたそのひ建打くずし城内へ入』
 70『八月廿三日込一条町潰し本町へ入近習町和泉や作右衛門を潰し家道り諸帳面金きぬ糸衣類宿へ出し火かけもやし申候其外壱弐軒潰し猥(緑)町竹藤潰し其外町中二文字屋若松屋十一屋 大黒屋せんたいを出し酒肴飯にしめ差出し故か外ハ潰さず新町松田屋こもとや 嶋だや かじや 右四軒潰し龍王へ差向丹沢ニ而諸賄飯酒せんたい 東へ富竹新田迄出し北南へ出ス龍王村中米壱俵づつ残り候籾三斗弐升ニ而売出可申候と申置候 』

71  『同廿三日晩龍王新町半六質屋伊左衛門潰し下今井穂阪酒屋と伊左衛門を潰し韮崎宿ヘ登り嶋や塩惣伊勢や外ニ拾七軒潰し是ゟ南手之方印(す) 壱と手西八幡村
同廿三日晩勘蔵同別家西清五郎右三軒打潰し火をかけ下中郡河東中島成島花輪西東乙黒西条河東大田和逸迄市川村々ニ而壱村ニ付四五軒づつ潰し申候 』

72 『 同廿四日鰍沢ゟ宿通青柳十日市場長沢荊沢鮎沢小笠原鰍沢文蔵 西(最)勝寺酒屋小笠原ニ而四五軒潰し人数は殊外有申候 騒動人斗り
 廿四日飯野長右衛門桃園村伊助飯野平助百々村幸左衛門西ノ油屋幸蔵右五人家戸障子天ん上なく茶がま衣類書物等不残潰し家も建皆致し御損じ潰され申候油醤油穀不残こぼされ申候百々村人数弐人手負三人西郡之手ハ是ニ而留ル 』

73  『西郡武川逸見筋西通台ケ原手負切ころし 十四五人同村酒潰し教来石村九郎次潰し同中之産ニ而古渕沢(小淵沢)へ甲府寄力同心かけ付騒動人九拾三人取 諏訪御城内ゟ御出張 野(西)山が原(台が原)出陣有江東原へ御出陣ゟ甲州へ御出張人数御□所 弐拾人取手百六拾人やり持弐百人ニ而御向龍王村ニ而御陣取御座候其外ハ国人足遣此取人七拾人余召とる』

77 天保7年8月23日~25日
『一 八月廿三日乱防共甲府をあらし弐(ふ)た手に別れ壱手は西八幡へうつり後一と手は龍王村ならや西古手や西丹沢乱防之上衣類を盗夫ゟ信州や中下今井村保阪や乱防之上毀し吉田村幸左衛門乱防し夫より

 廿四日韮崎宿塩や惣八伊勢や嶋や布や田助其外拾七軒乱防之上衣類等焼拂夫ゟ逸見筋教来石九郎次を乱防之上強盗いたし夫ゟ

  同廿五日産ケ原村酒やこわし夫より小淵沢村乱防し 此節一国乱防ニ付御嶽山ゟ究竟(屈強)之御師弐拾人甲府御陣や願出右乱防御取静御補助仕度旨申出国中へ入渡り右賊盗共を搦捕既ニ逸見筋小淵沢ニ而ハ賊人六拾人余も生捕候風聞候』

78  『  其外此逸ニ而も六科水防所ニ而も壱人搦捕髻(もとどり)ニ疵を負わせ 当村十兵衛前より池田に下りそれより早く甲府御役所差出候趣御座候
右賊盗衣類は小紋股引島縮緬之小袖弐つ着し 其上皮羽織帯刀ニ而金子弐三両持ち居候と噺しきく

 

78-2  天保騒動の記録は、山梨県史に網羅されていますので読み比べてみると、暴徒集団の動向等の要助さんの記述は、それらと矛盾ないので、野牛島の名主要助が当時集めた最新情報はとても正確なものだったと言えると思います。


 目新しい論点はないのかもしれませんが、要助さんは、自分の住む西郡(にしごおり)内の被害状況を詳しく聴き取りし、近所の六科で暴徒集団の一味を捕らえた状況やその服装、持ち物まで、まるで現場を見て来たかのように細かく記しており、悪党どもが大暴れして怖くて大変だった、天保騒動の状況がよく伝わってきます。


←それにしても、要助さんの近所の、六科の水防所で捕らえられた悪党が「小紋の股引きに、縞縮緬の小袖を2枚も着て、その上に、皮の羽織を着て、刀を持っていた」なんて! 古い映画で見たような、いかにも悪党らしい派手な装いだったんですね!


 九月一日の記述には、天保騒動を取り鎮めるために駿州沼津城主水野出羽守が出張してきたという情報がある中、 当時、野牛島村惣代であった要助さんは、同じ西郡の曲輪田新田村惣代・徳兵衛とともに、天保7年九月三日に、「天保騒動による乱暴狼藉を江戸表へご注進のため、出府した」と日記にあります。


九月二十五日には石和宿に江戸より乱暴取締役が到着したことをその人物たちと役職名をそれぞれ詳細に記しています。


 電話もカメラも郵便もない時代に、当時の村名主レベルの人々の情報収集能力にただ感服するばかりです。

2022年8月10日 (水)

昭和40年代の六科交差点周辺商店の紙袋と包装紙

Photo_20220810161805

こんにちは。
 先ごろ、野牛島の、さるお宅に調査にうかがった際、お蔵の中に置かれていた包装紙の束をその他の資料とともにご寄贈いただきました。

 
その束一括り30点は、だいたい昭和40年代くらいのもので、店の場所は、ほとんどが山梨県内のもので、韮崎市や甲府市の商店やデパート、現南アルプス市内各所の商店や菓子屋、鮨屋の折詰の掛け紙などバラエティーに富んでいました。


〇博調査資料としての包装紙は、かつて存在した商店の情報や、地域ごとに異なるお買い物事情を知る手掛かりになるので、いつごろ・どこにあった店なのかを地域ごとに分類整理したうえで、文化財課で保管しています。

 

 きょうはその中から、旧八田村の六科交差点付近に昭和40年代にあったお店の包装紙と紙袋をご紹介します。

 

 

 

Photo_20220810161801 ←宴会とお食事「中庄」の包装紙。図柄に鮨の文字が見えるが、その後、中華食堂になっていたらしいです。
 Photo_20220810161802 ←六科四ツ角 巨摩信用前 「卯花肉店」の紙袋。黒板にお店の商品を描いている、シッポくるりんのブタさんが、可愛らしさ満点の紙袋。「豚肉あげ物」の字を見て「ウワー」と叫んでいるのがまたシュール!
 Photo_20220810161803 ←生菓子・パン・御菓子「福井屋」の紙袋。六科交差点北にあったお菓子屋さんだそうです。
 Dsc_0286-2 Dsc_0286_20220810161801 ←六科の八幡神社の柵(地図上で神社は公園と表示されている)についていた平成時代の商店地図に、卯花肉店と中庄の場所があった!(2017年12月25日撮影)この地図の下にあるもっと古い地図もみてみたい・・・「福井屋」さんの場所も載っているかもね。

 Photo_20220810161804

 

 

←その他、上掲と同じ野牛島藤巻家資料の包装紙一括。


 昭和時代の包装紙って魅力的な柄や色のデザインが多くて、眺めるのが楽しいですね!


 お寿司屋さんにお肉屋さんにお菓子屋さん、お魚屋さんや八百屋さんなど販売品種の異なる個人商店が近所にいろいろと存在した昭和時代、買い物に行く人も買いたいものに合わせていろいろな場所に足を運んだ状況を、残された包装紙が教えてくれます。


 2024年に、市内に米国系の会員制大型量販店がオープンする計画があるそうです。令和時代の南アルプス市民のお買い物状況には、ますます変化がありそうです。

2022年7月 8日 (金)

木箱プリント型が語る、にしごおり果物を特徴づける多品目栽培の歴史

こんにちは。
P1130288 ふるさと文化伝承館では、現在、テーマ展「にしごおり果物のキセキ」が開催中です。開期は令和4年12月21日(水)までです。


 南アルプス市の基幹産業の一つである果樹産業が、江戸時代に盛んに行われていた柿の野売りにはじまり、明治以降、どのような歩みを持って、独創的な発展を遂げたかを振り返ります。

 

 

 

P1130281    今回は、展示資料の中から果実を出荷した木箱にプリントするための金型をご紹介します。
P1130285 P1130291 この資料の展示数は20点以上あり、メロン、もも、かき、さくらんぼ、りんご、などの品種名のほか、出荷した家の屋号やかつての村名、出荷組合の名称や記号も見られます。

にしごおりでの果物産業が、多品目を組み合わせて栽培することで成り立ってきた、という特徴を示す良い事例の一つだと思い、入口のブロックにまとめて展示しました。

Dsc_0699_20220708142601 Dsc_0698_20220708142601八田地区藤巻家より発見収蔵時の昭和初期御影村時代の金型「甲州名産 御影 藤巻農場 十五キロ」「甲州 メロン 甲州御影村和多や農場」


 これらの資料が使用されたのは、昭和30年代終わり頃までです。昭和39年頃になると、果実の出荷は木箱からダンボールへ移行しました。 ダンボールにはすでに果実名やブランド名、栽培地などがすでに印刷されているので、この金型は使われなくなりました。
 それまでは、製材所から組み立てる前の箱の部品を調達して、家の土間や作業小屋で、出荷までに釘を打って組み立て、一つ一つの面に金型を置いて墨で印字したり、ラベルを貼りつけたりする作業を、家族で夜なべしてやっていたんですよね。たいへんなことだったと思います。この木箱印字用の金型は、いまその往時を物語る貴重な資料となりました。

R040414 Dsc_0707八田藤巻家より金型と同時収蔵の出荷用のラベル付木箱や段ボール

 P1130247 金型一つ一つをじっくり見ると、すべてがおしゃれでかわいらしく、工夫を凝らしたデザインです。

P1130246  一方で、金型の端の始末などのやり方を観察すると、ブリキの切れ端を使って農作業の合間にゆるりと楽しんで作られたのではないか、と想像させるような民具の放つ魅力も存分です!

P1130284 どうぞ、注目してご覧になってみてください。

2022年3月 4日 (金)

地方病と溝渠のコンクリート化

こんにちは。
きょうは、前回に引き続き、地方病に関する資料をご紹介します。今日は、仇敵ミヤイリガイとの攻防編です。
(※画像はすべてタップすると少し拡大します)
6_20220304120301 ←「仇敵 宮入貝とはどんなものか?」『恐ろしい地方病を一刻も早くなくすために』ポスターより部分(南アルプス市文化財課所蔵) 
 山梨で明治20年頃から「地方病」と呼ばれはじめた病は、日本住血吸虫症というのが正式名で、お腹に水がたまり死に至る恐ろしい病気でした。この地方病との闘いが終息したと山梨県が宣言したのは、平成8年のことです。この病を克服する作戦が本格的にはじまって、100年以上もかかったのです。
2_20220304120301 ←「☆地方病はどうしてうつるでしよう?」『恐ろしい地方病を一刻も早くなくすために』ポスターより部分(南アルプス市文化財課所蔵) 
 じつは、大正の初めころには、「地方病をやっつけるには、日本住血吸虫をその体内で生育・媒介するミヤイリガイを撲滅することが最も良い方策である」ということが判明していました。しかし、生息地域の広い山梨県では、戦後になってもなかなか駆除が進みませんでした。
 ミヤイリガイを駆除するために、様々な刹貝方法が試みられたのは大正時代初期からです。米粒のように小さなミヤイリガイを拾い集めて焼くことが行われたり、刹貝剤となる石灰を撒いたりしました。
7_20220304120301 ←「☆地方病を退治する最も良い方法は?」「現在実施している予防対策は?」『恐ろしい地方病を一刻も早くなくすために』(昭和30年代)ポスターより部分(南アルプス市文化財課所蔵) 
 戦後には、火炎焼却機で貝を焼き殺したり、「ピ-シーピー」と呼ばれた薬剤を使って、溝やあぜ、田んぼの中のミヤイリガイを殺す事業が積極的に行われました。「ピーシーピー」というのは、「ペンタクロロフェノールナトリウム」という名の薬剤のことで、昭和20年代終わり頃から石灰に代わり刹貝剤として使用されましたが、魚毒性が問題となり、昭和48年には使用されなくなっています。
Photo_20220304120601 ←「宮入貝殺貝作業に関する注意事項」山梨県厚生労働部予防課(昭和期年不明)
 その後も、様々な薬剤散布を試行したミヤイリガイの刹貝ですが、他県発生地に比べ有病地の広い山梨県では撲滅には至りません。
 結局、ミヤイリガイ対策として最も効果を上げたのは、撲滅できなくとも個体数を減らすために、生息に不向きな環境をつくることでした。有病地にコンクリートで塗り固めた地方病予防溝渠を張り巡らす事業を行ったのです。
 昭和24年から南アルプス市(白根地区飯野)で試験的に始まった用水路のコンクリート化は、ミヤイリガイの駆除に有効でした。溝をコンクリート化して直線化すると水の流れが速くなり、流れの穏やかな場所に生息するミヤイリガイを減らすことができました。
Photo_20220304120301 ←「地方病予防溝渠標準断面図 山梨県(昭和36年)」(南アルプス市文化財課所蔵)
  しかし、この、水路コンクリート化事業は、多額の財源も必要だったこと等から、政治家たちの力も得なければ実現できませんでした。
002img20200828_14312383 ←「地方病とのたたかい 1977」山梨地方病撲滅協力会より小野徹氏紹介部分
 なかでも、西郡地域の地方病治療の拠点でもあった若草地区鏡中條の小野洗心堂医院の小野徹氏は、医師として駆虫薬スチブナールによる地方病患者の治療にあたり、県医師会長・山梨地方病撲滅協力会初代会長等を歴任する傍ら、昭和24年から29年までは鏡中條村長の職にも就くなどして、地方病撲滅事業を、市町村・県・政府に重点施策とするよう説き、溝のコンクリート化実現を強力に推し進めました。
「地方病の撲滅は中間宿主のミヤイリガイ対策であること=そのために大規模な溝渠コンクリート化土木事業が必要である」という、この施策を、患者の苦しみを直に知る医師でもある立場からの発言として、政治に訴え、実現させた鏡中條洗心堂医院の小野徹氏は、地方病撲滅に非常に大きな功績を残した西郡の先人といえます。
1172-3_20220304120301 1172-2_20220304120301 ←甲西地区東南湖の地方病予防溝渠とそのプレート
 その結果、昭和31年にはコンクリート化事業が法制化され、国庫補助での事業が本格化し、昭和60年頃迄に累計100億円を突破する莫大な費用がかけられました。
9 昭和54年以降には新規患者は発見されなくなっており、平成8年の終息宣言への運びとなり、コンクリート化事業は終了しました。

地方病予防溝渠の県内総延長は、すごいことに、2000㎞にも及びます。 東京から石垣島くらいまでの距離らしいです。WoW!

←米粒みたいに小さいミヤイリガイの図『恐ろしい地方病を一刻も早くなくすために』(昭和30年代)ポスターより部分(南アルプス市文化財課所蔵) 

2019年8月14日 (水)

「生盆」てなんだろう?

こんにちは。
Dsc_0669    一般的に今日8月13日から各家々で盆行事がはじまります。ここ南アルプス市(山梨県)では、お墓を掃除した後、座敷や居間に盆棚を設け、夏の収穫物と「あべかわ」と呼ばれるきな粉と黒蜜をかけた餅、茄子馬などを作って飾ります。我が家でも夜には家の前で迎え火を焚きます。
 

 さて、お盆といえば最近「生盆」という言葉が気になっていたところでした。当ブログでその興味深い内容をたびたびご紹介している野牛島の要助さんの日記の、天保5年7月12日の箇所に「生盆」なる行事が記されていたのです。
47こちらが江戸時代後期に書かれた要助さんの日記の「生盆」についての記述部分です。
同(七月)十二日晩
 生盆として極□のもの東組之内江
 祝ひ出し候分

 米京壱升  定吉
 米大升五合 野兵衛
 米京壱升 □左衛門
 米壱升  喜三郎母
 米大升五合 平兵衛
 米大枡五合 吉五郎
 48 米京壱升  栄吉
 米京壱升 龍助倅
 米大升五合 兵吉
 米京壱升 文右衛門
 米京壱升 喜三郎
 米京壱升 善右衛門
 米京壱升 彦蔵
 米大升五合 宇兵衛
 米京壱升  勇吉
 米京壱升 清之丈
 米大升五合  利兵衛
 米京壱升  惣之丈
 米京壱升 政兵衛
 米京壱升 清兵衛  』
生盆の贈り物として米を近所の東組の人々に配ったようで、その20人の配布先とそれぞれに贈った米の量がリストアップされています。
 
今も私たちが慣れ親しんでいる亡くなった人をお迎えして祀るといった、いわゆるふつうの「お盆」とはちがうものなのでしょうか?「生盆」について調べてみました。文献に見つかった事例を順にご紹介していきます。
 ①昭和初期に民俗学者折口信夫が著した「たなばたと盆祭りと」という文献によると、『七夕から盆へ続く間には、「生き盆」すなわち「いきみたま」の祭りが以前は盛んに行われていた(抜粋)』そうです。要助さんの生きた江戸時代後期の甲州でも一般的な行事だったのでしょう。しかし、折口信夫はこの文章を発表した昭和4年当時において「生き盆」という行事は『聞く事甚稀になった』と書いており、昭和時代のはじめまでには、ほとんど忘れられた民俗だったこともわかりました。
 ②ちょうど手許にあった広辞苑第二版昭和44年発行を開いてみると、「生盆(いきぼん・しょうぼん)」は「いきみたま」と同じとあり、『旧暦の七月八日から十三日までの間に、児女が、生存している父母・尊長者に祝物を贈りまたは饗応した儀式・行事。』と記されています。
 要助は所属する東組の人々へ、元気でこれからも過ごして欲しいという願いを込めて、祝いの米を贈ったということでしょうか。なるほど生盆で行われる贈り物は、生きている人の魂(いきみたま)を供養していると理解できますね。
Dsc_0668
 ③山梨県内の他の文献中に「生盆」の事例はあるかどうか探してみると、山梨県史資料編10近世3在方Ⅰに、現在の笛吹市春日居町国府にあった江戸時代からの医家、辻家の文書「辻家年中覚(年月日未詳)」に生盆の項を発見しました。
 生盆のために、七月に入ったら肴類を(盆礼用に)調達しておくとして、麺、しらす、鰹節、年魚(鮎)が書き連ねられています。そしてそれぞれの送り先として15名ほどの名がリストアップされていました。
これにより、野牛島要助家があった山梨県の西郡とおなじように、辻家のあった東郡地域でもかつて生盆が行われていたことが確認できました。
 辻家では小麦を使った麺と「なまぐさもの」とよばれた魚類を用意しているところが、米のみを配った野牛島要助家とは異なりますが、やはり東郡でも生盆に際して、食物の贈り物は必須だったことはわかりました。
④昭和56年に発行された山梨郷土研究会発行の学術誌「甲斐路第41号」では山梨の盆行事が特集されており、その巻頭論考にも生盆を『7月13日以前に行った盆礼の古い姿である』と書かれています。さらに県内各地域での盆行事の様相を示した記述部分では、県内各地でそうめんや小麦粉・米などを親族や知人友人に贈答する盆礼(中元)が盛んに行われており、忍野村には「生盆まいり」という言葉がかろうじて残り、同じく忍野村と都留市では、「13日の晩には生臭いもの(魚)を食べないと仏さまに口を吸われる」との言い伝えを遺している様子が報告されていました。昭和の終わり頃だと、まだ生盆の痕跡を追うことができたようです。
 今回、野牛島要助さんの日記から、生盆という言葉を知り、かつて日本では、死者のみならず生者も同様に持っている魂(たましい)を平等に供養する民俗があったことを知りました。

 祖先の霊を迎える前に生きている人の魂を供養するという生盆。
 現在では「生盆」が「盆」の行事に集約され、その言葉は忘れ去られてしまったけれど、いまでも7月半ばになるとかつての盆礼である中元を親しい人に贈ります。そして、仕事を休んで、帰省ラッシュに見舞われながらも故郷に帰り、刺し身や寿司などの生臭ものの盆のごちそうを親類たちと一緒に食べて体と心を休めて楽しむのは、実は「生盆」からの習慣だったのだと理解できました。
30
 ←昭和30年代 盆踊り(在家塚中込家資料)

 魂は亡くなった人にだけあるものでなく、当然生きている人の中にも存在する。だから、「生盆」を行って、まずは頑張って生きている自分たちの魂にもご褒美をあげ、慰労しよう!そして、すっきりした心と体で今度はあの世から戻っていらっしゃるご先祖さまや身近な亡き人の御魂(御霊)を盆供養しよう。
野牛島の要助さんの日記にあった生盆という文字がきっかけとなって、先人たちが行った盆行事の内容やその意味の一端を知るに至りました。民俗学者の折口信夫のいう生盆風にするならば、今年も無事にお盆を迎えられたことを祝して「おめでとう」と身近な人とおめでた詞(ごと)を伝え合いたくなるわけです。
文献:「去申年此方用気控帳より天保五年七月十二日の記」要助 野牛島中島家資料
   「たなばたと盆祭りと」折口信夫 民俗学第一巻第一号 昭和4年7月
   「辻家年中覚」山梨県史 資料編10近世3在方Ⅰ 平成14年10月
   「甲斐路 第41号 特集山梨の盆行事」 山梨郷土研究会 昭和56年6月
   「盆行事の輪郭」清水茂夫 甲斐路第41号 昭和56年6月

2019年7月19日 (金)

雨よ止め!天保七年御嶽山雨留五穀成就御祈祷の記録

こんにちは。
いま令和元年の七月、南アルプス市では日照不足が果樹栽培者を悩ませています。昨日も土砂降りの雨がふりましたね。つづく曇天に雨雲よ去っておくれと、窓の外を見るたびに祈ります。
 そのような毎日を過ごしているうち、ふと、江戸時代(天保七年)に甲州御嶽山にて行われた「雨留めと五穀成就祈祷」について記した資料の存在を思い出しました。いまから180年以上も前、「雨よ止んでおくれ」と同じように願った先人たちの行動が記録されていたのです。野牛島の要助さんが書き残してくれていました。
7626img20180320_09511328-2雨留五穀成就祈願の記録(野牛島中島家資料・表題「去申年此方用気控帳」より)
 要助さんは現在の南アルプス市八田地区野牛島に生まれ、江戸時代の文政天保期に巨摩郡の惣代などを務めた人物です。この資料は平成29年に行った野牛島中島家資料の調査の折に収蔵し、調査をすすめてきたものです。
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 この日記の表紙には「文政七年 去申年此方用気控帳 十二月書初印 久保中氏」とあり、中身を見ると、要助さんが文政七年十二月から天保九年四月までの14年間のうちに体験し見聞きした出来事(家族の話題や民俗事例も含む)が、甲斐国内外の経済、社会情勢とともに断片的に書き留められて、綴られていました。
  
←要助さんの日記の表紙
    野牛島中島家資料より、「去申年此方用気控帳」表紙
      「文政七年
             去申年此方用気控帳
       十二月書初印
       久保中氏  」久保は、要助さんの家の屋号「おくぼ」に由来するもの 。
7626img20180320_09511328それでは、本題の江戸時代に行われた「雨留め」の祈祷の記録についてご紹介します。
 
この画像は要助さんの日記のうち、天保七年六月二十六日から七月一日の部分の記述です。

読み下すと、

「一 六月廿六日より七月朔日 迄御嶽山にて 御役所へ神主願上げ、雨留五穀成就御祈祷五ツ日之内七月数日は太々神楽御座候御役所よりも御触御廻情村々へ相廻り候」とあり、

意味は、

「(天保7年)6月26日より7月1日まで、御嶽山にて、役所へ神主が願い上げ、雨止めと五穀成就の祈祷を五日間、7月に入って数日は太々神楽を奉納した。役所からも御触書(おふれがき)や回覧文書で村々に知らせた」

とあります。
 天保七年六月二十六日は西暦に直すと1836年8月8日です。
御嶽山とは、長野と山梨の県境に位置する蔵王権現を祀る金峰山のことで、山頂にそびえ立つ五丈岩が水や耕作に係わる信仰のシンボルとされています。
その山へ行き、「雨が止んで、穀物が育ちますように」と祈祷を行い、さらに数日にわたって、おそらくふもとの金桜神社の神楽殿で大々的に神楽が奉納されたのでしょう。
 日記によると、天保七年は旧暦の五月より『春から雨が多く、六月になっても小麦の刈り干しにも困るくらいに寒く、七月二十一日二十二日には富士山に雪が降り八合目まで大雪となった』とあり、冷害が懸念されたことでついに巨摩郡役所挙げての御嶽山祈願が行われたようです。
 しかし、収穫期にもかかわらず米価の値上がりは止まらず、飢饉に対する甲斐の民衆の不安感はその直後に爆発し、江戸幕府をも揺るがした天保騒動が八月十七日(西暦だと10月5日)から勃発しました。 
 この天保騒動前後の要助の日記を順に読むと、その流れがよく理解できます。
珍しい雨止め祈願を行わせるほどの尋常ではない天候不順があって、収穫期に米価の高騰→騒動が起きたという事情を理解させてくれました。
 さらに、旧暦の九月一日(西暦では10月10日)には「霜が降り畑麦の種まきが難しい」とあり、冷夏のまま秋も気づかぬうちに、冬の寒さがやってきてしまったようなのです。
 令和元年は、はやくに日照不足が解消され、作物のためにもこれから暑い夏がやってくることを願ってやみません。
 
 日記は私的な文書なので、脱字も多く読み取るには難しい部分もあるのですが、季節や時間の流れとともに記される日々の暮らしととともに、身近に起こった大事件の臨場感あふれる描写が、要助をはじめ当時の人々が感じた緊迫感をダイレクトに伝えてくれるような気がします。
 さらに、この日記の記された期間は、彼が巨摩郡の御目鑑惣代(おめがねそうだい)を務めた時期と重なっており、幕府の役人でもなく一介の農民でもない、要助の目線による記述は興味深いです。
 緊迫感に包まれながらも天保騒動について、総代としての責任感を持って情報収集・記録した要助の日記の部分に関しては、これから順にご紹介していく予定です。
 
 
62img20180320_13331700_20190719140601←御嶽山には天保六年の春先にも御嶽入りの村々が金峰山に行き雨乞いをおこなったようです。同じ時に、野牛島村でも飲水に困るほどだったと書いてあります。(野牛島中島家資料・表題「去申年此方用気控帳」より)
 
     これまで、原七郷の村々における水に関する願い事は、八田長谷寺と苗敷山周辺の大笹池に収れんするものと想定していたので、八田地区の野牛島村が御嶽山(金峰山)にも頼ることがあることを、要助さんの日記から教えてもらい、目からうろこの心持です。
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 しかしながら、雨乞いに関しては、やはりまずは上八田榎原の長谷寺観音様にお願いすることが慣例だったようで、日記中幾カ所もその記述があります。これもまた雨乞いの実態の記述が興味深いので、今後お伝えしていきたいと思っています。
←天保五年七月九日から十八日にかけて行われた榎原上八田の長谷寺での雨乞いの様子。
野牛島中島家資料、表題「去申年此方用気控帳」より。