○博日誌

2025年10月23日 (木)

大正・昭和時代の国勢調査員たち

こんにちは。

今年の秋は国勢調査が行われましたね。ということで、今回は国勢調査にかかわる資料をご紹介していこうと思います。

国勢調査は、日本に住むすべての人と世帯を対象に、5年ごとに行う統計調査です。日本で初めて国勢調査が行われたのは、大正9年(1920)のことです。始まってからもう100年以上が経過しています。

まずは、大正九年に行われた第一回時の国勢調査員たちが残した資料をから見ていきましょう。

J06t120221 ←大正12年2月21日中巨摩郡第一回国勢調査員宮城拝観記念  湯沢依田家資料(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

J326 ←大正12年2月21日中巨摩郡第一回国勢調査員宮城拝観記念  古市場藤巻家蔵

 初めての国家的大規模調査の最前線を担った中巨摩郡の国勢調査員たちを慰労するためなのか、大正12年に皇居(宮城)を拝観する旅行が行われたようです。第一回調査から2年余りが経過し、国としては、次の大正14年に行う第二回国勢調査が2年後に迫った頃で、次回の調査も協力を頼みますよ、というような意味合いもあって行われた行事だったのでしょうか? 

 ほかの地区ではどうだったのかと少し調べてみると、同じ山梨県の東山梨郡第一回国勢調査員宮城拝観は中巨摩郡が拝観した翌日の大正12年2月22日だった他、ネット検索だけでも、岩手県種市村では同年6月14日、神奈川県大磯町では同年8月27日などの宮城拝観日の記念写真や記録が出てきますので、どうやら、大正12年に第一回国勢調査員の皇居拝観が全国的に行われたようですね。

 また、第一回の調査員に授与された記念品も収蔵資料にありましたので、ご紹介しておきます。

M4949 ←第一回国勢調査記念品:朱塗りの三重木盃で、金色の鵄(とび)が止まった弓を持つ神武天皇が描かれている。沢登斎藤(昭)家資料 (南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 

Photo_20251023162601 ←大正14年10月1日西野村第二回国勢調査記念  西野芦澤質屋家資料(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 大正14年の第二回国勢調査では、国勢調査で唯一、集計までを地方で行ったのだそうです。

 

戦後の高度成長期に入り、人々の暮らしや家族の在り方が大きく変化していく昭和30年代の国勢調査員の残した資料も収蔵しています。

Dsc_1533 ←昭和30年第8回国勢調査員資料 上今諏訪手塚家資料 (南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

Dsc_1536 ←昭和35年第9回国勢調査員資料 上今諏訪手塚家資料 (南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 令和時代の調査ではインターネット回答が推奨され普及してきました。

 国勢調査によって、時代とともに次々と変化していく日本の国の有り様を把握する意義は大きいですが、近年はプライバシー意識の高まりなどに伴って、回収率は低下している模様です。国勢調査員の職務の難しさはますます高まっていくのでしょうね。

2025年10月17日 (金)

バス停で(野牛島・小笠原下仲町・鮎沢)

こんにちは。

今回は、南アルプス市ふるさと○○博物館が市民の皆様のご協力により収蔵した古写真のデータの中から、昭和20~30年代のバス停前でのスナップをご紹介します。

111 112_20251017093401 ←「小笠原下仲町バス停」昭和20年代末頃 吉田名取家蔵

Photo_20251017093401 ←「野牛島バス停(矢崎商店)」昭和20年代末頃 野牛島金丸家蔵

110 ←「バスでお出かけ」昭和30年代頃 吉田名取家蔵

159 ←「鮎沢バス停」昭和30年代半ば 古市場藤巻家蔵

 昭和30年代まではまだ自家用乗用車は普及しておらず、自宅から鉄道駅や周辺の繁華街に出かけるための交通手段は、自転車か路線バスでした。マイカー時代が到来するのは昭和40年代に入ってからです。

 現在は、特に地方都市では、成人一人に一台の体制で車を保有する家庭も多く、路線バスを利用する機会がほとんどないという方もいらっしゃるかもしれませんね。

 でも、昭和時代のバス停前の風景をみると、人々が挨拶しあったり、会話したり、バスを一緒に待つ時間にきっとここでいろいろな出会いもあって、心が豊かになるような出来事もあったのだろうなぁと想像して、古い写真が伝えてくれる当時のワクワク楽しげな空気感に癒されるのでした。いつもは車を運転して行ってしまう博物館に、今度の休日には、久しぶりに路線バスに乗って行ってみようかな!

 

2025年10月 3日 (金)

講堂にはミシンがズラーっと!軍服のポケットを縫った巨摩高女時代

こんにちは。

7月の終わりに、南アルプス市内生まれ在住で昭和5年生まれ(94歳)のユキエさんに、戦時の記憶をお聴きしました。きっかけは、ふるさと文化伝承館で令和7年6~8月に開催していたテーマ展「ぼこんとうとせんそう」に、ユキエさんがご家族と見学にいらしてくださったことでした。

Kimg6598   ←南アルプス市上市之瀬生まれ在住で昭和5年生まれ(94歳)のユキエさん

その際解説した伝承館スタッフに、ユキエさんがご自分の戦時体験を少し話してくださったのです。興味深い内容だったので、オーラルヒストリーとして記録させていただきたいと考え、改めてお越しいただき録画しながらお聴きすることにしました。あわせて、アルバムに残るユキエさんの足跡も同時にデータ収蔵させていただくことにご同意いただきました。ユキエさんとそのご家族のご協力に、心より感謝申し上げます。

Img_1866 Img_1867 ←2025年7月29日南アルプス市ふるさと文化伝承館にて聴き取り。 調査時にはご長女とご長男が同席してくださった。

 ユキエさんは、昭和5年に市内上市之瀬に生まれ、野々瀬国民学校から山梨県立巨摩高等女学校へと進学しました。

210 ←野々瀬国民学校初等科五学年集合写真(おそらく妙了寺で撮影)

ユキエさん『国民学校時代に行ったロタコ(南アルプス市で戦争末期に建設されていた飛行場での作業)では、飛行機を隠すために大人が掘っていた横穴壕から掘り出される土を袋に詰めて捨てに行く作業をしました。子供ながらに、子どもだからこんな少しづつしか運べないのに、(飛行場はほんとに完成するのだろうか?日本は)大丈夫なんだろうか?と思いました』とのこと。国民学校では、ロタコ以外にも、川向こうの玉幡飛行場での石拾い(砂利運び)にも駆り出されたそうです。

222 215 ←巨摩高等女学校生当時のユキエさんと同級生

 巨摩高等女学校に進学すると、『講堂にミシンがズラーっと並べて置いてあって、軍服のポケットの上蓋にあたる部分を積み上げるほど毎日ひたすら縫う時間があった。その際、軍服を着た監視の人が座席の間の通路を歩いてずっと監視していたから、何か嫌だった思い出がある。』といいます。戦争中は授業などほとんど受けずに勤労動員ばかりさせられていたようです。

その他にユキエさんが話してくださった、巨摩高等女学生の頃の思い出を聴き取りメモより以下に列記しておきます。同じ巨摩高等女学校に戦争中に通っていた2歳年上のお姉さんが軍需工場で働いていた時の話、学校の校庭の防空壕に隠れた話のほか、うれしかった女学校時代の思い出、戦後の天皇御巡幸の様子など興味深い話題です。

『体育の時間には、校庭の固い土を耕してさつまいもを植えた。農業の先生としてハナワ先生という人が来て教えてくれた。』

『2歳年上の姉(タツミさん)も巨摩高女だった。姉は女学校のそばにある2階建ての寄宿舎にいて、そこから近くの花輪製糸の工場に動員されていた。パラシュートの部品をつくったことを聞いている。』

『昭和20年7月6日の甲府空襲の時には、野々瀬から甲府方面がとても明るくなっているのを山の間に見た。甲府空襲の夜は姉のタツミさんは巨摩高女の寄宿舎にいたので心配だった。』

『荊沢空襲のあった時(昭和20年7月30日)には在校時で、校庭の周りに植えてあるサクラの木の根元に掘った防空壕に入った。学校には爆撃されなかったが、防空壕に入る前にすごい低空飛行で米軍機が通り過ぎるのを見た。その翌日か数日後に、荊沢のあたりで子どもの犠牲者が出たことを聞いた。』

『在学時に学校から甲府の貢川の方向に行くマラソン大会があって、お姉さんのタツミさんが1位で、ユキエさんが10位だった。1位のお姉さんへの賞品は体操着で、10位の幸枝さんには運動靴がもらえた。実際には引換券がもらえて、後に小笠原の商店へ行って実物をもらうスタイルだった。』

『戦後に昭和天皇が戦後巡幸で(1947年10月14日)巨摩高等女学校にいらしたときは、校庭の土の上に額を押し付けるようにしてひれ伏して迎えた記憶がある。何も考えずその時は先生に言われるままそうしたね。』

213_20251003103401 ←巨摩高等女学校華道部 昭和23年3月 :戦後とはいえ、セーラー服の上衣にモンペと草履であわせているのがかわいらしい。

 以上のように、ユキエさんからは貴重なオーラルヒストリーの数々を収蔵させてさせていただきました。本当にありがたいです。

 これに加えて、もし山梨県立巨摩高等女学校の戦時期の学校日誌が存在するのであれば、ユキエさんの過ごした戦時・終戦直後の女学校生活の実態がもっと明らかになる可能性がありますよね。特に製糸工場でパラシュート製造に動員された事実については、今後もっと情報や証言が収集できるといいなと思いました。今後の史料発見に期待しましょう。

2025年9月 5日 (金)

大明・飯野国民学校で行われた供出と勤労奉仕・動員(国民学校日誌を読む2)

こんにちは。

前回に引き続き、南アルプス市ふるさと文化伝承館令和7年度第1回テーマ展「ぼこんとうとせんそう」より、国民学校日誌に記載された内容から読み解くシリーズを続けたいと思います。

※学校日誌とは教師が書き記す日誌のことです。各学校で生徒や教職員の出欠状況、その日の出来事などが毎日記載されます。現在の学校においても行われています。基本的に5年間の保存期間でよいとされていますが、南アルプス市内では過去の古い日誌が断片的に遺され発見された学校がいくつかあり、通報いただいた場合それらを文化財課で収蔵しておりました。2025年7月現在、南アルプス市教育委員会文化財課では、五明学校、大明尋常小学校・大明尋常高等小学校・大明国民学校・大明小学校・大明農業補習学校・大明夜学会、鮎沢学校、飯野尋常高等小学校・飯野国民学校・飯野小学校・巨摩第一小学校、鏡中條国民学校の日誌を計133冊収蔵しており、その中から戦時下にあたる昭和16年から20年にかけての国民学校時代のものを、個人情報に配慮した上で現在開催中のテーマ展で展示しています。学校教練や訓話の内容、空襲、疎開、学徒の勤労動員など戦時下特有の様子が記録されています。

 

 今回は戦争のために学校で供出した物の内訳や献金、勤労奉仕についてみていこうと思います。

Dsc_1374←国民学校日誌(南アルプス市教育委員会文化財課蔵の一部)

 まずは、国民学校時代のものがすべて揃っている大明国民学校と飯野国民学校の日誌から供出と勤労奉仕・動員に関わる箇所を以下に抄出してみます。

 

「大明・飯野国民学校で行われた供出・勤労奉仕・動員年表(抜粋)」

昭和16年

大明「7月7日支那事変4周年記念式 前線将兵と義勇軍宛の慰問袋作成」

大明「7月29日峡西電鉄路線除草勤労奉仕・桑皮供出」

12月8日真珠湾攻撃 太平洋戦争開始

昭和17年

大明「6月8日より5日間桑皮採集の増産運動」

大明「7月7日支那事変記念式・債券購入1円券310枚5円券(額面7円50銭)63枚を職員児童にて購入セリ」

大明「10月4日軍人援護として慰問文発送各家庭に軍人援護の習字を清書シ添付ス」

飯野「11月9日金属供出(七輪3ケ花瓶1ケ火薬銃1ケ鉄砲丸1ケ供出)」

昭和18

21日ガダルカナル島撤退

529日アッツ島玉砕

飯野「6月11日~5日間増産協力全学年普通授業を廃シ増産運動に協力す」

大明「6月25日職員一同にて中庭に晩豆の播種行う」

大明6月25日砲弾等の特別金属の供出なす」

大明「7月1・2・5日校庭などに豆蒔」

大明「7月26日桑皮集荷」

大明「7月・8月滝沢川堤の草刈り(堆肥にするため)

大明「8月8日弾丸切手155枚購入」

大明「11月29日ウサギ二頭を供出ス」

大明「12月8日国防費67円41銭を献金」

大明「12月20日麦踏」

昭和19

大明「3月10日藁草履作成競技会開催」

大明「3月24日玉幡飛行場石拾い」

7月7日サイパン島陥落

大明「10月7日両村出身兵士全員に対し慰問文ヲ発送ス」

10月25日レイテ沖海戦で日本海軍敗北・神風特攻隊初出撃

大明「11月29日どんぐり及すすきノ穂採集のため野之瀬村方面に出動す・どんぐりの紙芝居を全校児童鑑賞ス※紙芝居「どんぐりの出征」

昭和20

飯野「1月4日勤労動員として高二女児は本日より峡西社へ」

大明「1月15日大井五明両村一斉麦踏実施ニツキ初3以上午後より勤労奉仕ヲナス」

飯野「2月28日初五以上軍工事勤労作業はじまる」

3月10日東京大空襲 13日大阪大空襲 22日硫黄島日本軍全滅 

3月26日沖縄に米軍上陸

大明「3月17日~源村飛行場建設工事勤労奉仕」

大明「4月14日初5以上野之瀬村に薪取りに出動」

飯野「4月21日滑走路の石拾い」

大明「4月18日他高1男女子排水工事出動・初5以上薪取り・柳の皮むき(薬用サリチル酸抽出用か?」

飯野「5月1日以降高2男は白根工場・女は日本蚕糸へ学徒動員」

大明「5月1日食用山野草採取のため全校出動」

飯野「5月18日1高一誘導路葱・19日大豆播種29日防空壕、滑空路施肥料作業」

大明「5月5日より高1女全員日蚕大井第一工場通年動員開始」

飯野「5月14日野草採集」

飯野「6月19日21日野草のアカザの採集について訓話」

飯野「6月19日除草石拾い防空壕の整理」

飯野「6月20日防諜図画習字綴方・アカザの採集・桑皮の採集について訓話」

6月23日沖縄戦終了

大明「7月26日桑園の芽カキ初4以上」

大明「8月9日臨時休業・食料山野草薬草採集ヲ全職員で行フ」

大明「9月6日放課後藁草履を全職員ニテ製作ス」

大明「8月21日□□工場ニ出勤中ノ学徒ノ解散式ヲ行フ」

大明「8月23日笠原製糸工場動員ノ児童本日をもって解散ス」

大明「8月29日非農家児童高1高2女33名笠原工場に本日より出勤ス」

大明「9月29日日蚕大井工場出動中の高1・2女本日に限り復員」

 

 以上に抄出した年表を詳細に見ていくと、昭和16年の夏頃より子どもたちによる勤労奉仕や供出が行われており、太平洋戦争が開始する前から日本は勤労人材や物資が不足した状態であったことがわかります。

 飛行機を増産するために、国策紙芝居においても強く供出を呼びかけられた金属は、飯野国民学校では昭和17年11月9日に「七輪3ケ花瓶1ケ火薬銃1ケ鉄砲丸1ケ供出」、大明国民学校では昭和18年6月25日に「砲弾等の特別金属を供出」とあります。昭和19年以降には金属供出は見られません。もう学校備品を含めても出せる金属はなくなってしまったのでしょうか。

17119 ←昭和17年11月9日飯野国民学校日誌「七輪3ケ花瓶1ケ火薬銃1ケ鉄砲丸1ケ供出ス」

 また、金銭を介しておこなう戦争協力として、昭和17年大明国民学校では「7月7日支那事変記念式・債券購入1円券310枚5円券(額面7円50銭)63枚を職員児童にて購入セリ」、昭和18年には「8月8日弾丸切手155枚購入」大明「12月8日国防費67円41銭を献金」が見られ、軍事費を賄うための戦時国債や「弾丸切手」と呼ばれた戦時郵便貯金切手の購入や献金なども学校で組織的に行われたことが示唆されます。

S1777 ←昭和17年7月7日大明国民学校日誌「債券購入1円券310枚5円券(額面7円50銭)63枚を職員児童にて購入セリ」

S1888 ←昭和18年8月8日大明国民学校日誌「弾丸切手購入 弾丸切手百五拾五枚の購入」

 

戦場にいかない子どもたちが学校ぐるみで行った戦争協力として、兵隊に送る慰問の手紙やはがきの作成がありました。

 学校では、軍人援護の教育として慰問文の綴り方が指導され、慰問文その他を入れた慰問袋をつくって前線の将兵や満蒙開拓青少年義勇軍個人に宛て送るということが行われています。

1_20250905162701 ←昭和15年1月1日号少女倶楽部付録「少女の慰問文画帖」(南アルプス市教育委員会文化財課蔵):少女たちが戦地で戦う兵士たちに送る慰問文の例文集。文画帖とあるとおり、慰問袋に同封する絵の例も掲載される。「戦地のお父さんへ」など兵士へ送るもの、「出征兵士の留守宅へ」といった内地でやりとりするものなど様々な例文と解説が並んでいる。

 

Photo_20250905162701 ←慰問葉書(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)昭和19年に豊国民学校の子どもたちが満洲の部隊に所属する卒業生の一人に送ったもの。その兵士の遺品として親族に届いた慰問袋の中に入っていた。

 

 次に、学校ぐるみで行う戦争協力活動として、子どもたちが採集・製作した末に供出されたモノを見ていこうと思います。品目としては、藁草履・桑皮・ドングリの実・ススキの穂・ヤナギの皮・アカザ・薪、校内で飼っていたであろうウサギ二頭が日誌の記述から拾えました。これらは、子どもたちによる採集や製作、飼育の末に供出されるものです。しかし、藁草履や薪は別として、日誌の記述だけでは供出された後どのように活用されたかを知ることができません。そこで、一般的にはどのようであったか調べてみると、以下のような利用方法が考えられました。

  桑の皮 ⇒ 繊維を取り出して  ⇒ 衣服を作る

 ドングリ ⇒ アルコールを製造 ⇒ 飛行機や戦車や自動車に使うガソリンの代用

 ドングリ ⇒ タンニンの抽出  ⇒ 皮をなめすのに使う

 ススキの穂⇒ 掃除するための箒(ほうき)でも作ったのでしょうか?

 ヤナギの皮⇒ 煎じ薬にする   ⇒ 鎮痛剤となる

 アカザ  ⇒ 若葉を摘む    ⇒ 食用とする

 アカザ  ⇒ 煎じ薬にする   ⇒ 強壮剤や鎮痛剤となる

 ウサギ    ⇒ 毛皮をとる     ⇒ 兵隊用の防寒着に使用

※アカザは北海道から沖縄まで日本列島に広く分布する1年生の野草で、葉を茹でてよく水に晒してからおひたしやみそ汁の具などにして食用とするほかに、乾燥させた後煎じると『強壮、健胃、歯の痛み止め、毒虫刺され(外用)など』に効能のある薬草となるようです。参考文献:『見つけて食べて愉しむ季節の薬用植物150種』森昭彦 株式会社秀和システム 2023 『食べられる草ハンドブック』森昭彦 株式会社自由国民社 2021

Img_4405 Dsc_1512 ←成長したアカザ(2025年9月7日山梨県中央市にて栽培されているのを発見し撮影。アカザは秋まで成長させて杖の材料として使用するのだそうです。新芽を食用や薬用とするだけでない、とても有用な植物なのですね!

市内国民学校日誌には、教師たちが昭和19年春に野草食料植物研究会等出席のため甲府や近隣学校に出張した記録があり、各学校での教育や活動に生かされたものと考えられます。

国民学校で常々、自分たちが倹約や勤労に励んで少しでも戦争のお役に立てば、勝ち抜くことができると教えられていた当時の子どもたちは、勉強をしないで教室を出て一生懸命に野草までも集めて供出したのでしょうね。

2025年7月 8日 (火)

学校が軍の予備校になった(国民学校日誌を読む1)

こんにちは。
今日は、南アルプス市ふるさと文化伝承館令和7年度第1回テーマ展「ぼこんとうとせんそう」より学校日誌という資料をご紹介していきたいと思います。
           
 学校日誌は教師が書き記す日誌のことで、各学校で生徒や教職員の出欠状況、その日の出来事などが毎日記載されます。現在の学校においても行われています。基本的に5年間の保存期間でよいとされていますが、南アルプス市内では過去の古い日誌が断片的に遺され発見された学校がいくつかあり、通報いただいた場合それらを文化財課で収蔵しておりました。
 2025年7月現在、南アルプス市教育委員会文化財課では、五明学校、大明尋常小学校・大明尋常高等小学校・大明国民学校・大明小学校・大明農業補習学校・大明夜学会、鮎沢学校、飯野尋常高等小学校・飯野国民学校・飯野小学校・巨摩第一小学校、鏡中條国民学校の日誌を計133冊収蔵しており、その中から戦時下にあたる昭和16年から20年にかけての国民学校時代のものを、個人情報に配慮した上で現在開催中のテーマ展で展示しています。
Img_8137   ←南アルプス市ふるさと文化伝承館テーマ展「ぼこんとうとせんそう」での学校日誌展示状況
 
 国民学校時代の日誌には、学校教練や訓話の内容、空襲、疎開、学徒の勤労動員など戦時下特有の様子が記録されていますので、まずは尋常小学校・尋常高等小学校から国民学校初等科高等科に変わった時点から順にピックアップしてみていこうと思います。
 
 昭和16年4月1日より、それまで尋常小学校・高等小学校と呼ばれていた学制が変更され、国民学校初等科・高等科と呼ばれるようになりました。現在の小学校1年生から中学校2年生までの期間にあたります。国民学校に変わるにあたっては、昭和12年に発刊された「國體の本義(こくたいのほんぎ)」という書物の内容が指針となりました。
P6142744 Img_8152 ←「國體の本義」(南アルプス市教育委員会文化財課蔵):昭和12年(1937)に、「日本とはどのような国か」を明らかにするために当時の文部省が学者たちを結集して編纂した書物。神勅や万世一系が冒頭で強調され、共産主義や無政府主義、民主主義や自由主義も国体にそぐわないものとした。この内容と思想を学生や生徒に教育するために、教員採用試験にも多く採用され、昭和16年3月1日に公布された国民学校令により尋常小学校は国民学校として再編成された。
 
 国民学校では、子どもたちには自分たちの国を守るために戦うこと、戦地で働く人々のために倹約に努め、銃後の守りを整えることといった、国家総動員精神での戦時体制を担う国民を作るという教育方針を強化していきました。国民学校令第一条には、『國民學校󠄁ハ皇國ノ道󠄁ニ則リテ初等普通󠄁敎育ヲ施シ國民ノ基礎的󠄁鍊成ヲ爲スヲ以テ目的󠄁トス』とあり、戦時体制下にあっては学校が軍の予備校としての役割も果たすことになりました。
例えば、子どもたちが楽しみにしている遠足行事は、『(大明国民学校)昭和16年10月31日心身鍛錬を目標トセル秋季遠足ヲ行フ』『(大明国民学校)昭和18年10月25日軍事訓練目的の遠足実施』というように心身鍛錬や軍事訓練の目的のためと明記されるようになりました。
さらには軍の予備校としての役割を果たすため『(鏡中條国民学校)2月3日雪中行軍雪合戦ヲ行フ』『(飯野国民学校)昭和19年8月22日酷暑行軍訓練行フ』『(大明国民学校)昭和20年1月20日耐寒心身鍛錬ノタメ少年団全員増穂南湖方面に行軍ヲ行フ』といった行事も行われています。他にも、『(大明小学校)昭和18年10月22日空襲避難訓練』『(大明国民学校)昭和19年5月18日空襲時における登下校の避難訓練実施』などが行われるようになり、空襲が身近にある中での学校生活を感じさせられます。
16_20250708110701 1641 ←「飯野国民学校日誌昭和16年4月1日「記事:本日ヨリ飯野国民学校ト改称ス」
 授業では新たに武道も取り入れられ、男子には学校教練において木製の銃型を使った訓練、女子には薙刀の訓練が取り入れられました。昭和19年4月17.18日の飯野国民学校日誌には「職員の薙刀講習」の記述が見られます。そのほかの武道では、『(大明国民学校)昭和18年1月30日銃剣道の耐寒練成会』『(大明国民学校)昭和19年9月7日ヨリ三日間相撲道講習会』などの記述もあります。

1929 117 ←飯野国民学校日誌昭和19年4月17日「職員出張:小笠原国民学校内薙刀講習へ 宿直記事:青年学校生銃剣道修練」
Dsc_1411 ←南アルプス市ふるさと文化伝承館テーマ展「ぼこんとうとせんそう」での木銃・薙刀展示状況
P6192876 ←木製薙刀(長さ183㎝)(南アルプス市教育委員会文化財課蔵):薙刀の訓練に使う木製の薙刀。昭和16年の国民学校令台12条によって女児に薙刀の授業が課された。女子武道として、体力向上、精神力倍増等の目的で授業に採用された。展示品は女学校か高等小学校用の長さ。
 木銃(長さ167㎝)(南アルプス市教育委員会文化財課蔵):銃剣術という武道の訓練で使用するもの。銃剣術とは、近接戦闘で相手を突き刺す武器を操るための訓練として生まれた武道。実戦では歩兵銃に短剣をつけて戦う。子どもたちに兵隊になるための訓練を行う学校教練で使用された。
 
 上記のような流れで軍の予備校としての役割をもたされてしまった学校の様子を、次回からも国民学校日誌に記載された内容から読み解いていきたいと思います。

 

2025年7月 1日 (火)

国策紙芝居によるプロパガンダ

こんにちは。
 今日も開催中のテーマ展「ぼこんとうとせんそう」より資料をご紹介いたします。
Dsc_1408 Dsc_1409 ←南アルプス市ふるさと文化伝承館テーマ展「ぼこんとうとせんそう」より 2025年7月1日撮影
南アルプス市教育委員会文化財課では、アジア太平洋戦争中に使用された紙芝居6点と、これらを読み聞かせるために使用された紙芝居の枠も展示しております。
 国策紙芝居は、戦時下に許された数少ない娯楽で、子供たちに限らず大人たちも夢中にさせました。特別な設備を必要とせず、いつでもどこにでも持ち運べる扱いやすさで普及し、国策のための戦中マスメディアとして有効に利用されたのです。
 南アルプス市では、三恵小学校(現若草小に統合)の郷土資料室に残されていた、7点の紙芝居と紙芝居を読み聞かせる際に使用した木製の枠を収蔵しています。そのうち、戦時体制下での国民の模範的意識や行動を示したりや戦意高揚を目的とする内容のもの6点を展示しています(展示していない1点は「小さな灯明」という作品です)。日本教育紙芝居協会が戦争に協力する国民教化を目的とした紙芝居を盛んに制作し、それを国が買い上げて全国に配布しました。
1_20250701140101 ←「あかるい門出」表紙 昭和16年発行
1_20250701140102 15_20250701140101 ←「軍神の母」表紙他 昭和17年発行
1_20250701140201 ←「家」表紙 昭和18年発行
 展示資料はいづれもアジア太平洋戦争中の昭和16年から18年の発行で、全滅を玉砕・戦死者を軍神と呼び変えて表現しています。本来は子どもの心を守るべき読み聞かせの題材を、戦争の悲惨さを覆い隠してさらなる戦意高揚に利用することで、子供にまで最後の一人になっても戦うことを強要したわけです。国は迫る本土決戦を見据えていたのでしょう。
 ここで、6点の国策紙芝居の内容をそれぞれざっと一言で申しますと、「あかるい門出」は傷痍軍人の再起を「軍神の母」は軍神(真珠湾攻撃九軍神上田定)の母の慎ましさとあるべき姿を「家」は当時の理想的家族の在り方を「中澤挺身隊」「玉砕・軍神部隊」「爪文字」はそれぞれの戦場で敢闘し玉砕してゆく軍人たちの様子と銃後の支援の重要性を説いています。
1_20250701140202 ←「中沢挺身隊(ガダルカナル島血戦記)」表紙 昭和18年発行
1_20250701140203 ←「玉砕軍神部隊」表紙 昭和18年発行
1_20250701140204 ←「爪文字」表紙 昭和18年発行
 一緒に展示作業をしていた身近なスタッフたちとこれらの紙芝居を読んだ感想は、「良民の情緒を揺さぶるように計算されたなんて卑劣な物語だ」というもので、怒りを覚えるほどでした。今を生きている私たちには到底受け入れられる内容ではありません。自由な創作的活動をすべて取り上げられてしまった当時の一流クリエイターたちが、発注元である戦時体制下の国の意思に忠実に答えようとすると、このように優秀なプロパガンダ作品が生み出されてしまうのだということに恐怖を感じました。
 この紙芝居を観た当時の人々がすべての内容をすんなりと受け入れていたとは考えにくいのですが、世相に感化されて熱狂した人、心にある様々な思いを打ち消して受け入れた人もあったでしょう。
 
 何度かこの紙芝居を読んで公開する機会を持てないものかと検討したのですが、読み手も聞き手も疲弊してしまうようなすごい内容です。戦争プロパガンダとしてとてもよくできた作品ですので、たとえ時代背景などの解説付きであったとしても、惹き込まれる人がいるのではないかと考え、恐ろしくて読めません。
 展示してある国策紙芝居のもう少し詳しい内容をお知りになりたい方は、当館テーマ展にいらして展示キャプションや複製品をじっくり見て解説員の話を聞いてただくか、文献としては「『国策紙芝居から見る日本の戦争』神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター 勉誠出版株式会社 2018年2月28日」等をお読みになるとよいと思います。

Dsc_1410 ←テーマ展展示の国策紙芝居キャプションの一部

2025年6月26日 (木)

軍神広瀬武夫の幟旗

こんにちは。
本日は、南アルプス市ふるさと文化伝承館で開催中のテーマ展「ぼこんとうとせんそう」より資料紹介をしたいと思います。
Dsc_1401   ←「広瀬中佐の幟旗(69㎝×867㎝)昭和10年代 峡西古市場井上染物店制作」(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 こちらは、日露戦争において活躍した軍神、広瀬中佐を端午の節句飾りである幟旗に描いたものです。子どもの初節句のお祝いに贈られました。
日露戦争旅順港閉塞作戦において明治37年3月27日に戦死した広瀬武夫は、死後30年ほど経った昭和10年頃に軍神とされた人物です。旅順港閉塞作戦とは、古い艦船を旅順港の湾口に数隻沈め、港の入り口を閉塞させ、ロシアの艦隊を海上封鎖する作戦でした。第一次閉塞作戦につづき第二次閉塞作戦に参加した広瀬武夫は沈みゆく船から部下の杉野孫七上等兵曹が脱出してこないのを心配し、自ら船に戻って三度も探すが見つけられず、あきらめて脱出用のボートに乗りうつります。ところが、そこで広瀬の頭にロシア軍の砲弾が直撃して亡くなってしまいました。彼のこの最期は、「勇猛である一方で、人一倍優しく部下思いであった上司の鑑」として称えらました。
Dsc_1356 Dsc_1353 ←ロシア旅順港口付近の荒波の中、甲板に立つ軍神広瀬武夫を中心に緑色と青色の軍服を着た人物が描かれています。広瀬が自分の命を犠牲にしてまで探した杉野孫七上等兵曹がここに描かれているのかどうかはわかりません。そして下部をよく観ると、広瀬の乗る船にめがけて右方向から砲弾が飛んできている様が見えますので、もしかしたら彼がこの絵で乗っている船は脱出用で、この場面の直後にその砲弾が彼の頭に直撃したとも考えられます。
 今回はスペースの都合上、8メートル以上にもなるこの資料の上部の絵柄を観ていただくように展示することができなかったのですが、見えていない上部にはサーチライトで照らしながら日本軍を探すように航行するロシア船のようなものも描かれています。
 しかし、明治37年に戦死した広瀬武夫を軍神として祀る神社が建てられたり、その逸話が文部省唱歌の題材となる動きが盛んになったのは昭和11年のことです。日中戦争を始める前のタイミングでの広瀬中佐の軍神化は、国民の戦意高揚のためのヒーローつくりの一環であったのではないかと言われています。
当然のことながら軍神のモチーフは昭和20年の終戦後には全く作られませんので、以上のことから、この幟旗は昭和11年頃から太平洋戦争が開始して物資不足となる前の昭和16年までくらいの短い期間にのみ作られた題材ではないかと考えられます。
 ちなみに、この広瀬武夫の幟旗を制作した井上染物店は現在でもこいのぼりや幟旗を市内古市場で製作販売していますが、戦後、幟旗の主要モチーフは戦国時代の武将たちで、とりわけ甲州では郷土の英雄武田信玄の登場する川中島の戦いが一番の人気のようです。

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 このたびのテーマ展「ぼこんとうとせんそう」では、戦時体制の影響が子どもたちの身の回りにある品々にどのように表れるのかを見ていただく資料の一つとして、地元染物店で製作された初節句の祝い品である幟旗を展示しています。

Dsc_1407 節句飾りの幟旗は、子どもの健やかな成長を願い、親の期待する成長像を投影した人物が登場する逸話をモチーフとした絵が描かれますが、戦時体制下には、そのモチーフに国民の戦意高揚に利用されていた「軍神」が登場したわけです。生まれたばかりの子供の世界にも戦時体制特有の空気感が否応なく満たされていった状況を想像できます。

2024年12月13日 (金)

昭和26年のきみ子ちゃんの絵日記を読む4

こんにちは。
 今日も、前回からの続きで小学三年生のきみ子ちゃんの日記から、昭和26年6月29~7月1日までのものと最後のページにある先生の講評をご紹介します。
 お父さんとお母さん、そしてお兄さんと弟との5人家族に育ったきみ子ちゃんは、何かしらの家の手伝いを毎日しているしっかりものの女の子です。この絵日記は昭和26年(1951)6月16日から7月1日まで毎日欠かさず書かれたもので、紐で一冊に綴じられていました。6月後半の2週間は麦刈りや田植えの行われる時期ですからちょうど農繁期休みの期間であったと考えられ、ほぼ毎日、家の仕事に勤しんでいる姿が事細かに絵に表現され、その下段に文章がしたためられています。
 また、この絵日記には、昭和26年の櫛形地区の中野の風景や人々の暮らしを物語る細かいデティールが、きみ子ちゃんという、絵の上手な女の子によって素晴らしく表現されています。この資料によって、私たちは、小学3年生の彼女の目や心のフィルターを通して、昭和26年の南アルプス市域におけるネカタ(根方)の生活というものを知り、その時代の子供の気持ちを追体験することができるような気がするのです。
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←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月29日(金)雨雲晴」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 絵は、麦扱きの様子ですね。
お母さんが、ベルトで発動機とつないだ脱穀機に麦束をすべらせて、麦扱きをしています。麦扱きとは、刈った麦の穂を藁からこき落とす作業のことです。きみ子ちゃんは麦の束を両手いっぱいに抱えて、脱穀機のところまで運ぶお手伝いをしています。
「朝起きて少し経つと、雨が降ってきた。お母さんが今日はこれでは麦扱きができないねといった。」そのうちに、雨がやんできて晴れになったので、手伝いのおばさんが二人来てくれて麦扱きができたようです。「私は麦を運んだ」と文にあります。
 山梨県の郷土食といわれるほうとうも小麦粉でつくります。米と同様に麦も大切な作物でした。この日もきみ子ちゃんは頑張ったんだね!
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←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月30日(土)晴」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 きみ子ちゃんが背負子(しょいこ)にかごをくくり付けて歩いています。
 「昼休みをしてからお母さんとはるえさんと東の畑の所のじゃがいもを掘りに行きました。私が背負子(しょいこ)にかごを縛って、芋を運んだ。背負子が大きいので、上手くおしりの所へいって歩けなかった。おかあさんが芋をこいでから、お母さんも運んだ。そのうちにサイレンが鳴った。」
 昔は子供も結構重たいものを運ぶ機会があったのですよね。ふるさと文化伝承館では、小学校三年生の子供たちが学習する昔の暮らしの授業で背負子を体験してもらうのですが、ちょうど同じような学年の子供たちがこんな風に背負子でジャガイモを運んでいたことをこの日記を見て知ってもらいたいです。 
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←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・7月1日(日)雲晴」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 この日の絵は、家の中のようすですね。障子戸の外に見えるのは、山々の頂です。きみ子ちゃんの家がどのような場所に建っていて、周辺の景観はどんな感じだったかがわかります。そう、櫛形地区中野は大変見晴らしの良い場所なのです。そんな家の中で、きみ子ちゃんはランドセルに学校で使うものを入れて準備しています。
「私が明日学校へ行くだからと言って、かばんの中に学校で使うものをしまっていると、今夜、道祖神祭りだから、ジャガイモをふかしてくれと言ったので、整理をしてからお母さんが言ったことをしてやった。そして晩、道祖神へ行って楽しくとびあいってきた。」
 いよいよ今日で農繁期休みは終わりなのですね。小学3年生で一人で、かまどで火を焚いてジャガイモをふかすことを任されるなんてすごいなぁ! 最終日の夜は、楽しい道祖神祭りの日でよかったです。「ぞうそりん(道祖神)」へ行って「とびあいってきた」という最後の甲州弁の一文が、きみ子ちゃんの楽しさに弾む心の度合いをよく表していると思います。※甲州弁で「とびあいってきた」とは、「忙しく走り回ってきた」という意味。走ることを飛ぶといい、歩くを「あいく」という。
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←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・教師講評」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 最後の空白のページには、赤いインクでその時の担任の先生であった秋山正美先生の講評が書かれています。雨宮キミコさんによると、まだ若い男の先生だったそうですよ。
「お休み中公子はよくお手伝いをしましたね。そして毎日絵日記がとても丁寧に書いてあります。公子が買って来たたばこ、おとうさんは本当においしくのむ事でしょう。 公子が両手にお茶をつるして田に行く姿が思はれました。 杉の木にカニがおったなどとてもうまく書けています 秋山正美」
 これまで、4回の記事をわたって、昭和26年6月に櫛形地区中野で、小学3年生の農繁期休みの出来事を綴ったきみ子ちゃんの日記をご紹介しました。
 この絵日記にあるきみ子ちゃんのお手伝いの数々をみてまず驚くのは、今の小学校低学年の子供たちが普段頼まれているようなお手伝いに比べ、かなり高レベルな作業内容だということです。
 例えば、「芋をふかしておく」という作業は、畑で芋を掘って、屋外の水路で洗ってから、台所のかまどで火を起こしてお湯を沸かして調理します。現代と違って何倍もの工程と労力が必要になり作業内容も高度です。でもきみ子ちゃんはこの一連の作業を全部ひとりでできます。もちろん、毎回その作業を最初からすべて行うわけではありませんが、現在の私たちがスーパーで買ってきたジャガイモにラップをかけてチンするだけとは訳が違います。これはもはやお手伝いというレベルではなく、家事の一部を小学校低学年でガッツリ担っているといった感じです。この家はきみこちゃんがいなければ回っていかないのではないだろうかと思われるほどです。もちろん、時代的にも、社会的にも状況が全く違いますので、現代の子供たちに同じようなことが要求される事態はあり得ません。
 しかし、昭和20年代では、子供たち一人一人が家族の一員であるという強い自覚とともに、その経営の一部を担っているという感覚や責任感を強く持っていたのだと想像させられます。
Dsc_1009 ←「キミコさんからの聴き取り調査の様子(2024年11月7日撮影)」
 聞き取り調査で雨宮キミコさんが話してくれたのですが、きみ子ちゃんが小学一年生くらいの頃から、お父さんは病気で体調の悪い日が多かったそうです。そのため、この日記の絵には、お父さんの気配はあれども姿が描かれていなかったことが理解できました。
 そこで、〇博調査員が「お母さんを助けようと、きみ子ちゃんは人一倍頑張っていたのでしょうね」というと、意外にも、雨宮さんは「いや、そんなことは特に思った記憶はないです。みんなどの家の子もそれくらいのお手伝いはしてたと思う」とおっしゃっていらしたのが印象的でした。
3164 ←「中野上田家絵日記資料一括」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 南アルプス市○○博物館活動では、このような子供たちの絵日記も大切な地域の文化や生活を物語る資料として大切に収蔵し、保管・活用を進めています。

2024年12月12日 (木)

昭和26年のきみ子ちゃんの絵日記を読む3

こんにちは。
 今日も、前回からの続きで小学三年生のきみ子ちゃんの日記から、昭和26年6月25~28日のものをご紹介します。
 お父さんとお母さん、そしてお兄さんと弟との5人家族に育ったきみ子ちゃんは、何かしらの家の手伝いを毎日しているしっかりものの女の子です。この絵日記は昭和26年(1951)6月16日から7月1日まで毎日欠かさず書かれたもので、紐で一冊に綴じられていました。6月後半の2週間は麦刈りや田植えの行われる時期ですからちょうど農繁期休みの期間であったと考えられ、ほぼ毎日、家の仕事に勤しんでいる姿が事細かに絵に表現され、その下段に文章がしたためられています。
 また、この絵日記には、昭和26年の櫛形地区の中野の風景や人々の暮らしを物語る細かいデティールが、きみ子ちゃんという、絵の上手な女の子によって素晴らしく表現されています。この資料によって、私たちは、小学3年生の彼女の目や心のフィルターを通して、昭和26年の南アルプス市域におけるネカタ(根方)の生活というものを知り、その時代の子供の気持ちを追体験することができるような気がするのです。
100010 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月25日(月)雲雨」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 絵の中で、昔から坂道ばっかりの櫛形地区中野の集落の中をきみ子ちゃんがすたすたと歩いています。右手に何か四角いモノを持っていますが何でしょう?文を読んでみましょうね。
 朝十時から書き取りの勉強をしていた聡明なきみ子ちゃんですが、お父さんからハガキを出しに行ってくださいと頼まれたので、勉強を中断して、ポストに向かったようです。その帰りに校長先生に会い、おはようございますと挨拶したことが書いてあります。ポストのある野々瀬郵便局は小学校の向かいにあったので、先生と出会う確率も高かったのでしょう。
100011 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月26日(火)はれ」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 今日は、草取りをしているきみ子ちゃんの絵です。
 文には「朝起きると、お母さんが今朝は土がやっこいからみんなで家の下の草を取って下さいといったので、すすむ(弟)が学校へ行くとすぐ、草とりをはじめました。兄さんは、前の河原でどっかのおじさんが水を止めていたので、兄さんは早々飛んで行った。お母さんが今年は水が貴いといった」とあります。おそらく前日に降った雨も畑を少し湿らす程度で水が不足しがちな日和が続いていたのでしょう。
100012 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月27日(水)晴」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 この日は石と板と本の絵ですね。
 「今日、私は池でたまねぎを洗っていると、つつじが咲いていたのを見て押し葉にしたくなってつつじを採った。池の所と家の前の所のを採って押し葉にした。それから家の前の所へ行ってきれいな花を採って来た」
 いつも家のお手伝いをしていて忙しい中にも、きれいな花を見て、その心のときめきを押し花にして残そうとする小学三年生のきみ子ちゃんの心意気に、愛しさあふれてたまらないです。
100013 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月28日(木)雲晴」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 畑の上の電線につばめが三羽いるのを見上げているきみ子ちゃん。畑の土には備中ぐわが刺さっており、作業の途中だと言うことがわかります。
 今日のきみ子ちゃんは午後の昼休みの後、おかあさんと一緒に畑の畝づくりをしたようです。頭の上でつばめが鳴いていたので立ってみていると、電線でつばめたちが飛び上がったりして楽しく遊んでいたのだそうです。
 青い空をバックに木の電柱、そして電線に遊ぶつばめたち。そしてそれを見上げるきみ子ちゃんと備中ぐわ。開放感があって明るい絵なのだけれども、つばめたちの賑やかな鳴き声も聞こえてくるのだけれども、なぜかほんの少しばかりの寂寥感も感じさせるような・・・。とても魅力的な構図ですね。
 
今日はここまでで。
昭和26年6月29日から7月1日までの日記は次回にご紹介します。

 

2024年12月11日 (水)

昭和26年のきみ子ちゃんの絵日記を読む2

こんにちは。
 今日も、前回からの続きで小学三年生のきみ子ちゃんの日記から昭和26年6月20~24日のものをご紹介します。
 お父さんとお母さん、そしてお兄さんと弟との5人家族に育ったきみ子ちゃんは、何かしらの家の手伝いを毎日しているしっかりものの女の子です。この絵日記は昭和26年(1951)6月16日から7月1日まで毎日欠かさず書かれたもので、紐で一冊に綴じられていました。6月後半の2週間は麦刈りや田植えの行われる時期ですからちょうど農繁期休みの期間であったと考えられ、ほぼ毎日、家の仕事に勤しんでいる姿が事細かに絵に表現され、その下段に文章がしたためられています。
 また、この絵日記には、昭和26年の櫛形地区の中野の風景や人々の暮らしを物語る細かいデティールなどが、きみ子ちゃんという、絵の上手な女の子によって素晴らしく表現されています。この資料によって、私たちは、小学3年生の彼女の目や心のフィルターを通して、昭和26年の南アルプス市域におけるネカタ(根方)の生活というものを知り、その時代の子供の気持ちを追体験することができるような気がするのです。
10005 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月20日(水)曇晴」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 この絵は、きみ子ちゃんがお風呂を沸かしている様子です。
 夕方に弟が頼まれた風呂焚きの途中で眠ってしまったので、きみ子ちゃんが代わりに湯を沸かすことになったようです。文の最後に「松葉だから、けむ(煙)がたくさん出た」と書いてあります。
 絵をよく見ると、水を入れた木樽の五右衛門風呂に薪ボイラーが取り付けてあり、奥納戸の前できみ子ちゃんが木っ端にちょこんと腰かけて、燃料の枝を差し入れている場面ですね。ボイラーの煙突からはもうもうと煙があがっており、このすごい煙の原因は松葉を燃したからだったのですね。煙突から出た灰が湯船に落ちないように、五右衛門風呂には大きな木の蓋もかぶせてあります。湯温を調整するためなのか、水を入れた桶も横に置いてありますよ。きみ子ちゃんの絵のおかげで昔のお風呂の支度の様子がよくわかります。きっと松葉の煙が目に沁みてチクチク痛かっただろうなぁとか、〇博調査員だったら涙がポロポロ出ちゃったに違いない、なんて思いました。いまはお風呂を沸かすのに、スイッチ一つでよいことに心より感謝申しまする。
10006 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月21日(木)晴」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 この日のきみ子ちゃんは、水路で何やら洗い物でしょうか? 文によると、お母さんに頼まれてジャガイモを畑でとって庭の水路で洗っている場面のようです。ところが、洗っている最中にジャガイモを一つ流してしまったので拾いに行ったところ、滑ってしまい、履いていたゴム草履ごと川に入ってしまったそうですが、柿の木のところまで流れて行ってしまったジャガイモは無事に拾えたようですね。ちなみに、濡れたゴム草履は石の上に干しておいたとのこと。
 もう一度このきみ子ちゃんの記述を踏まえて絵をみると、水路の中を大きなでこぼこのジャガイモが一個流れていくのがわかりますし、ジャガイモを拾うことができた場所にある柿の木も描かれています。
 また、文中にはありませんでしたが、右奥にある大きな建物が水を引き揚げるポンプ小屋であることを、成長したきみ子ちゃん(雨宮キミコさん)からの証言で確認しています。
Dsc_1008←「キミコさんからの聴き取り調査の様子(2024年11月7日撮影)」

10007 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月22日(金)晴雨」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
やかんと風呂敷包を持って田舎道を歩くきみ子ちゃん。現在も櫛形地区中野にはこの絵のような棚田風景が遺されており、この絵の中からも観る人に心地よい風が運ばれてくるようです。
 きみ子ちゃんは「おちゃごし」と呼ばれる野良で働く人たちの休憩のために、お茶と食べ物を田んぼに持って行く役をお母さんに頼まれたようですね。その帰り道にある杉の木にいたカニを3つ獲って、家のヒヨコに与えました。そうすると、ヒヨコたちは「とりっこ」して喜んで食べたみたいです。子供の日常の空気感が伝わる生き生きとした絵と内容にワクワクさせてもらいました。
10008 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月23日(土)晴」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 次の日の日記も棚田の中を歩いているきみ子ちゃんの絵です。でも、手にはやかんと風呂敷ではなくて、あぜ道を稲苗の束を両手に持って運んでいます。文によると、この日のきみ子ちゃんは、朝は植木に水をやってから、田植えのために苗代にあった苗を田んぼまで運ぶ仕事をしたようです。文中に、小学生らしく「ねえ」=苗、「持ちに行った」=取りに行った等、甲州の方言の音そのままに書かれているのが微笑ましいです。
10009 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月24日(日)」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 この絵は、ほおずきの実を描いたもののようですよ。
 今日のきみ子ちゃんは、田に水をかけに行くお手伝いの途中で、ほおずきの青い実がたくさんなっているのを見て、その2つをもいで帰ってきたのだそうです。家に帰ってから「ほおずきをこしらえて鳴らしてみた」とあります。これはどういうことかと調べてみると、ほおずきの実を覆っているガクを剥いて外して、ミニトマトみたいな実を取り出した後さらにその中の果肉を取り除いてミニトマトの皮だけの風船みたいになったものを口の中に入れて鳴らすと、ギュッギュッとカエルの鳴き声のような音が鳴るのだそうです。きみ子ちゃんは「ならしてみたら、口の中が苦かった」そうです。絵にあるほおずきはまだ青いので熟していなくて果肉も苦かったのでしょうか?昔の子供の遊びの一つを教えてもらえて、うれしくなった〇博調査員です。
 
今日はここまでで。
昭和26年6月25日からの日記は次回にご紹介します。

 

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