○博日誌

2026年4月 6日 (月)

昭和24年火災発生時に描かれた「野々瀬村大火」

こんにちは。

今からちょうど77年前、市内櫛形地区の根方(ねかた)で、大火災が発生しました。「野之瀬村の大火」として南アルプス市で語り継がれる大規模災害です。

先日、その火災の様子を描いた絵を所有されていた甲府市高畑の高源寺様からご寄贈いただき、文化財課で収蔵いたしましたので、ご紹介したいと思います。

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J←「野之瀬村大火」昭和24年4月8日 雨宮幸男画(南アルプス市教育委員会文化財課蔵

 戦後間もない昭和24年4月8日午後3時頃、メガネの行商を終え甲府へ帰宅しようとしていた雨宮幸男氏は、小笠原下町の峡西電鉄停留所で電車を待っていました。ふと、ホームから見える西の山々を眺めると、妙了寺のあたりから真っ赤な火柱が出て濛々と煙が立っているのが見えるではありませんか、火事だ! 強風によって火種が飛び、みるみるうちに燃え広がる様子に目を離すことができず、電車を何本も見送って、持っていたカバンの中にあった官製はがきに火災の動向を描き留めました。ボロ電を何本も見送って、右一枚目の画にある火元の妙了寺から、市之瀬川を火種が飛び越えて4時頃には上野・中野の集落を延焼させ(中央画)、その1時間後には画左手にある隣村落合村の山々に飛び火する様子(左画)を次々と3枚の葉書に描きました。

 実は雨宮さんは、昭和のはじめ、東京上野の黒田記念館内東京国立文化財研究所に在職し、美術にたいへん造詣が深い人物でした。山梨に帰ってからは後に山梨造形美術会会員となり県内の美術活動に貢献します。

 その雨宮氏が遭遇したこの火事は、後に「野々瀬村大火」と呼ばれ、多くの人々が住む家を失うこととなった(90戸以上が焼失)大災害だったのです。

Img_4662←高源寺では額に入れられ、保管されていた。

Photo_20260406170201 ←額の中に入っていた雨宮幸男氏によるメモ
 「野々瀬村大火」とは、昭和24年4月8日午後2時35分に、中巨摩郡野々瀬村(現南アルプス市櫛形地区)上市之瀬にある妙了寺春祭りにおいて発生した火が強風に煽られ拡大した大火災です。原因は、寺の春祭りで行われる午後の催し物の合図として上げた花火でした。不発花火が竹藪に落下し爆発、火災が発生。この火が強風にあおられ茅葺屋根に引火、瞬く間に野々瀬集落および近隣地域まで拡大し、大火災となりました。

 火災発生の3日後(昭和24年4月12日)に出された『中巨摩郡野々瀬村大火調査報告書(山梨県総務部地方課)』によると、鎮火は4月8日午後7時25分となっています。同報告書によると、焼失98世帯、罹災者553名、この時点では死者はありませんでしたが、人事不省を含む重傷者は3名、90戸が全焼し、焼失区域は12897坪(42634.71平方メートル)とあります。

Img_4659 ←「高源寺が妙了寺の隠居寺であることを伝える碑」高源寺にて2025年12月16日撮影

 この絵は、大火で燃えた妙了寺にゆかりのある甲府市高畑町にある高源寺(室町時代はじめより妙了寺の隠居寺であった)の斎藤陽子氏が昭和50年代に雨宮幸男氏から購入して保管していました。斎藤さんは今は亡き義父が生前に、野之瀬村大火によって焼失した妙了寺本堂他の再建に尽力する姿を見ており、縁を感じたのだといいます。購入時には雨宮氏から描いた当時の状況や感想を聴き取っていてくださいましたので、斎藤さんを介しての伝聞を今回の○博調査員の記事作製に活用させていただきました。感謝申します。

Img_4672 ←「高源寺にて斎藤陽子氏より聴き取り調査」2025年12月16日撮影

 

令和8年のことしも、4月8日がやってきます。今回は水曜日ですね。火事に気を付けたいと思います。

2026年4月 3日 (金)

大正・昭和期のハイカラレシピ

こんにちは。

Dsc_1728 南アルプス市ふるさと文化伝承館で開催中のテーマ展「にしごおりのお勝手道具」(令和8年5月13日(水)まで開催)より、明治大正期の料理レシピについて、資料紹介したいと思います。

Dsc_1729 ←こちらの展示ケースでは、以下①~③の観点で3点の資料を展示しています。

①大正時代になると地方の農村でも牛乳やバターを容易に手に入れることができるようになり、乳製品を使ったおやつや献立が提案されていること。   →展示資料:大正14年「保寿社牛乳タイムス」

②昭和時代に入ると、婦人雑誌で和洋中の多彩なレシピが紹介されるようになり、明治以降の外国との交流で取り入れられた食材や調味料の充実にともない、新しい調理法や調理技術が一般家庭に普及していく様がみてとれること。  →展示資料:昭和初期「料理レシピ集」婦人誌付録

③昭和10年代に入ると、外国から取り入れた食材や調理法を一般家庭の主婦たちが自由自在に使いこなし、栄養面での科学的な観点も踏まえたうえで、和風の献立の中にいままでになかった新しい味を取り入れて進化させていく過程が察知できること。戦時体制に突入していく前の昭和13年の幼児向けのレシピカードは、現代の私たちとっても興味深い充実のレシピ集。   →昭和13年「実物大子ども献立カード」婦人之友新年号付録

 それでは、順にケース内資料をご紹介していきます。展示の意図とともにご覧いただければ幸いです。

23701_20260403110401←①大正14年「保寿社牛乳タイムス・保寿社領収書」(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

『保壽社は、明治20年12月に土屋忠平が西山梨郡稲門村(現甲府市)の千秋橋南方に開業した牛乳搾乳販売業者である。のちに甲府市伊勢町に移転して昭和15年までの50年以上営業していた、山梨県内酪農における草分け的業者のひとつ。

「保寿社牛乳タイムス」は、保寿社が毎月一回発行していた販売促進目的の冊子。大正14年10月号では、全5ページで4項目の記事で構成され、主に家庭の主婦向けに洋装の手入れの仕方や乳幼児の牛乳摂取の有用性、その他、「おやつのごちそう」という項目では、2種のグリッドルケーキ(ホットケーキ)のレシピを紹介している。

 大正期に山梨県内の一般家庭でも、牛乳やバターなどの乳製品が食卓に取り入れられるようになり、食卓に新しい洋風のおかずやおやつが登場したことだろう。』 

3_20260403110701 2_20260403110601  8_20260403110701 ←②昭和初期「料理レシピ集(一部分)」婦人誌付録(加賀美遠藤家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 『昭和初期と考えられる婦人雑誌の付録の料理レシピ集。和洋中の多彩なレシピが「変り飯・冷飯利用変り飯・煮物・焼物・麺類」の項目別に分けて紹介され、ところどころに魚のさばき方など具体的な調理技法のイラストが挿入されている。また、あいだには「豊年油・コーソ・カレーモナーカ」などの興味深い広告も配置されている。資料の一部が切り取られていたため明確ではないが、100種以上のレシピが掲載されていたことは確実である。昭和8年の資料群に当該資料が含まれるため、それ以前の昭和初期のものと比定できる。』

8_20260403110801 ←興味のそそられた「カレーモナーカ」の広告について検索すると、S&BのHPにある「S&Bカレールウの歴史」という項に、『1959.8 モナカカレー:即席カレー史上、ネーミング・形態・発想、すべての点で最大のユニーク賞品。』との紹介がありました。この商品は昭和34年8月発売とのことですから、資料にあるスヰートカレー本舗の「カレーモナーカ」の方が戦前ですから先に発売されていた可能性がありますね!びっくり!

2_20260403110801 2_20260403111001 8_20260403111001 8_20260403111002 ←③昭和13年「実物大子ども献立カード(一部分)」婦人之友新年号付録(野牛島柳沢家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 『32枚の幼児向けレシピカードは主婦向け雑誌「婦人之友」の付録。発育に必要な栄養素にも気配り、同じ食材の和洋両方のレシピを紹介、子どもが食べやすく、健康に配慮した調理法が明るくポップな絵とともに記されている。それまでの日本で培われてきた伝統的な調味料と調理法を子供向けにアレンジするだけでなく、明治時代終わりころから一般にも普及し始めた新しい食材を取り入れたホワイトソース、トマト煮、マヨネーズ等を使った味付けがあり、分量やカロリーも明確に示され、現代の私たちにも通用するレシピである。

 パスタやマカロニなどの代用としてうどんを使用する「うどんトマト炒め」「グラタン」といったレシピも興味深い。また、平成・令和人にとっても新鮮味のある「オートミール」「オイルサーディン」「ウサギ肉」「フィッシュチャウダー」「フルーツサラダ」「クリームソース」「ぶりのてんぽろ」のレシピなど、興味は尽きない。

 また、ロールキャベツにたくあんの千切りを、クリームシチューに福神漬けを添えるなど、洋風のおかずで和風の副菜を加えてご飯を食べるといった、現代の一般家庭の献立が昭和初期において取り入れられていたことも理解できる。

 明治から昭和10年代前半までには、一般の家庭においても洋風の新しい食材や調理法が取り入れられる素地があり、現代の日本の食文化にもつながる豊かな食卓広がっていたのである。』

Dsc_1732  以上、戦時体制に突入していく前の昭和13年までのレシピカードの展示をご紹介いたしました。展示ケース内だけではご覧いただけないレシピたちが惜しいので、複製をご用意して自由に手に取ってご覧いただけるコーナーも設置しております。

 ご来館の際はどうぞ♡

2026年1月30日 (金)

十日市といったら、安養寺の鼻採地蔵さんでしょう! ~収蔵写真(画像)紹介シリーズ~

こんにちは。

もうすぐ2026年の十日市祭典が行われるので、南アルプス市ふるさと○○博物館収蔵写真から昭和時代の祭りの様子をお伝えしたいと思います。ちなみに令和8年は2月7(土)8(日)日に行われます。

 まずは、皆様お忘れがちですけれども、十日市が十日市場にある安養寺(あんようじ)におわします鼻採地蔵さんが御開帳される縁日に開かれてきたということを思い起こさせてくれる昭和48年の写真からご覧ください。十日市で買ったダルマなどの縁起物を手にした人々が安養寺の参道を埋め尽くし、列をなしてお参りする順番を待っています。(鼻採地蔵さんが戦国時代のころから地域の人たちより熱い信仰を集めてきた歴史はどうぞ、「南アルプス市Mなび」等でご覧ください)

J2141973 J2091973 J2101973 J2111973 ←「安養寺の縁日に開かれた十日市(昭和48年)」(古市場藤巻家所蔵・データ収蔵南アルプス市文化財課)

人が集まる時と場所には自然と市が立つようになり、縁日に安養寺の鼻採地蔵さんを拝みにやってきた人々には、その参道や周辺に集まる露天商から縁起物のだるまや、臼や杵、梯子などの木工品、ざるや味噌漉しなどの竹細工、様々な食べ物を買う愉しみがありました。かつては、『甲州に春を告げ、売っていないものは猫の卵と馬の角』といわれたくらい数多くの露店が並びました。

J7201_20260130153901 ←「昭和20年代の十日市で売られていた縁起物」(西野芦澤家資料より 南アルプス市文化財課蔵)

J17730 J17630 ←「昭和30年代の十日市の露店で売られていたもの」古市場藤巻家所蔵・データ収蔵南アルプス市教育委員会文化財課)

J2071973 J2151973 J2081973 ←「十日市の風船売り(昭和48年)」(古市場藤巻家所蔵・データ収蔵南アルプス市教育委員会文化財課)

こうやって十日市の様子のわかる収蔵写真を時系列で並べてみると、現在でも定番のだるま以外に、縁起物が多数ぶら下がった巨大なビラビラかんざしのような飾り物が、昭和20~40年代の露店で売られていたことがわかります。とても素敵なのですが、最近の十日市では見かけませんね。

今年(令和8年)の十日市は、2月10日に近い土日に開催となり、いよいよ安養寺の門前での露店は無くなり、近くの商業施設に近接した場所で行われることになりました。例年のやり方とは異なる運営になるようです。十日市に集う人々の熱気はいまだに変わりませんが、時代の流れとともに市で売られる品物やその他が変化するのと同じように、集う目的も変容していくようです。

でも、ちょっと足を延ばして十日市場の交差点を西に渡って、安養寺の鼻採地蔵さんにご挨拶してからだと、もっと楽しいお買い物ができるんじゃないかなぁと、○博調査員は思うのですけれど。

安養寺さんの御開帳も2月7・8日に令和8年十日市祭典に合わせて行ってくださるようですから、ぜひ訪れることをおすすめいたします。鼻採地蔵縁起とはどんな説話なのかも知ることができると思います。

2026年1月27日 (火)

昭和11年甲府中学と歩兵第四十九連隊(甲府連隊)航空写真 ~収蔵写真紹介シリーズ~

こんにちは。

こちらは昭和11年3月に配られた甲府中学の卒業記念帳です。その中に、甲府中学の全景を撮った航空写真があったのですが、よく見るとその奥に、甲府連隊の敷地がまる見えではありませんか!! 甲府中学と相川を挟んで西側には練兵場があったそうですが、この写真ではその東側の端っこがちょっと見えているという感じでしょうか。思いがけず発見したので、今日のこの一枚としてご紹介しようと思います。

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 ←「甲府中学と甲府連隊の航空写真」山梨県立甲府中学校第47回卒業記念帳 昭和11年3月より(西野芦澤家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 まずはこの写真の主役である甲府中学校について知ろうと、経緯を現在の山梨県立甲府第一高等学校HPを見ましたところ、明治39年から昭和23年の学制改革で改称するまで山梨県立甲府中学校と称しており、昭和3年(1928)に甲府城内から西山梨郡千塚村(写真と同じ現在地:甲府市美咲二丁目)に新校舎を竣工し、移転していたことも、同校HP掲載の年表からわかりました。

 

 一方、陸軍の歩兵第四十九連隊(甲府連隊)は、甲府中学がこの地に移転する20年ほど前となる明治42年(1909)4月に、現甲府市街地北西部に置かれていました。連隊区司令部・衛戍病院・兵営・練兵場・射撃場等を備えるものでした。そして、この十万坪にも及ぶ用地を買収寄付したのは、現南アルプス市在家塚出身の甲州財閥、若尾逸平です。

 いま、この連隊跡は、山梨大学付属小・中学校、国立甲府病院、福祉プラザなどになっています。

2025年10月23日 (木)

大正・昭和時代の国勢調査員たち

こんにちは。

今年の秋は国勢調査が行われましたね。ということで、今回は国勢調査にかかわる資料をご紹介していこうと思います。

国勢調査は、日本に住むすべての人と世帯を対象に、5年ごとに行う統計調査です。日本で初めて国勢調査が行われたのは、大正9年(1920)のことです。始まってからもう100年以上が経過しています。

まずは、大正九年に行われた第一回時の国勢調査員たちが残した資料をから見ていきましょう。

J06t120221 ←大正12年2月21日中巨摩郡第一回国勢調査員宮城拝観記念  湯沢依田家資料(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

J326 ←大正12年2月21日中巨摩郡第一回国勢調査員宮城拝観記念  古市場藤巻家蔵

 初めての国家的大規模調査の最前線を担った中巨摩郡の国勢調査員たちを慰労するためなのか、大正12年に皇居(宮城)を拝観する旅行が行われたようです。第一回調査から2年余りが経過し、国としては、次の大正14年に行う第二回国勢調査が2年後に迫った頃で、次回の調査も協力を頼みますよ、というような意味合いもあって行われた行事だったのでしょうか? 

 ほかの地区ではどうだったのかと少し調べてみると、同じ山梨県の東山梨郡第一回国勢調査員宮城拝観は中巨摩郡が拝観した翌日の大正12年2月22日だった他、ネット検索だけでも、岩手県種市村では同年6月14日、神奈川県大磯町では同年8月27日などの宮城拝観日の記念写真や記録が出てきますので、どうやら、大正12年に第一回国勢調査員の皇居拝観が全国的に行われたようですね。

 また、第一回の調査員に授与された記念品も収蔵資料にありましたので、ご紹介しておきます。

M4949 ←第一回国勢調査記念品:朱塗りの三重木盃で、金色の鵄(とび)が止まった弓を持つ神武天皇が描かれている。沢登斎藤(昭)家資料 (南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 

Photo_20251023162601 ←大正14年10月1日西野村第二回国勢調査記念  西野芦澤質屋家資料(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 大正14年の第二回国勢調査では、国勢調査で唯一、集計までを地方で行ったのだそうです。

 

戦後の高度成長期に入り、人々の暮らしや家族の在り方が大きく変化していく昭和30年代の国勢調査員の残した資料も収蔵しています。

Dsc_1533 ←昭和30年第8回国勢調査員資料 上今諏訪手塚家資料 (南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

Dsc_1536 ←昭和35年第9回国勢調査員資料 上今諏訪手塚家資料 (南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 令和時代の調査ではインターネット回答が推奨され普及してきました。

 国勢調査によって、時代とともに次々と変化していく日本の国の有り様を把握する意義は大きいですが、近年はプライバシー意識の高まりなどに伴って、回収率は低下している模様です。国勢調査員の職務の難しさはますます高まっていくのでしょうね。

2025年10月17日 (金)

バス停で(野牛島・小笠原下仲町・鮎沢)

こんにちは。

今回は、南アルプス市ふるさと○○博物館が市民の皆様のご協力により収蔵した古写真のデータの中から、昭和20~30年代のバス停前でのスナップをご紹介します。

111 112_20251017093401 ←「小笠原下仲町バス停」昭和20年代末頃 吉田名取家蔵

Photo_20251017093401 ←「野牛島バス停(矢崎商店)」昭和20年代末頃 野牛島金丸家蔵

110 ←「バスでお出かけ」昭和30年代頃 吉田名取家蔵

159 ←「鮎沢バス停」昭和30年代半ば 古市場藤巻家蔵

 昭和30年代まではまだ自家用乗用車は普及しておらず、自宅から鉄道駅や周辺の繁華街に出かけるための交通手段は、自転車か路線バスでした。マイカー時代が到来するのは昭和40年代に入ってからです。

 現在は、特に地方都市では、成人一人に一台の体制で車を保有する家庭も多く、路線バスを利用する機会がほとんどないという方もいらっしゃるかもしれませんね。

 でも、昭和時代のバス停前の風景をみると、人々が挨拶しあったり、会話したり、バスを一緒に待つ時間にきっとここでいろいろな出会いもあって、心が豊かになるような出来事もあったのだろうなぁと想像して、古い写真が伝えてくれる当時のワクワク楽しげな空気感に癒されるのでした。いつもは車を運転して行ってしまう博物館に、今度の休日には、久しぶりに路線バスに乗って行ってみようかな!

 

2025年10月 3日 (金)

講堂にはミシンがズラーっと!軍服のポケットを縫った巨摩高女時代

こんにちは。

7月の終わりに、南アルプス市内生まれ在住で昭和5年生まれ(94歳)のユキエさんに、戦時の記憶をお聴きしました。きっかけは、ふるさと文化伝承館で令和7年6~8月に開催していたテーマ展「ぼこんとうとせんそう」に、ユキエさんがご家族と見学にいらしてくださったことでした。

Kimg6598   ←南アルプス市上市之瀬生まれ在住で昭和5年生まれ(94歳)のユキエさん

その際解説した伝承館スタッフに、ユキエさんがご自分の戦時体験を少し話してくださったのです。興味深い内容だったので、オーラルヒストリーとして記録させていただきたいと考え、改めてお越しいただき録画しながらお聴きすることにしました。あわせて、アルバムに残るユキエさんの足跡も同時にデータ収蔵させていただくことにご同意いただきました。ユキエさんとそのご家族のご協力に、心より感謝申し上げます。

Img_1866 Img_1867 ←2025年7月29日南アルプス市ふるさと文化伝承館にて聴き取り。 調査時にはご長女とご長男が同席してくださった。

 ユキエさんは、昭和5年に市内上市之瀬に生まれ、野々瀬国民学校から山梨県立巨摩高等女学校へと進学しました。

210 ←野々瀬国民学校初等科五学年集合写真(おそらく妙了寺で撮影)

ユキエさん『国民学校時代に行ったロタコ(南アルプス市で戦争末期に建設されていた飛行場での作業)では、飛行機を隠すために大人が掘っていた横穴壕から掘り出される土を袋に詰めて捨てに行く作業をしました。子供ながらに、子どもだからこんな少しづつしか運べないのに、(飛行場はほんとに完成するのだろうか?日本は)大丈夫なんだろうか?と思いました』とのこと。国民学校では、ロタコ以外にも、川向こうの玉幡飛行場での石拾い(砂利運び)にも駆り出されたそうです。

222 215 ←巨摩高等女学校生当時のユキエさんと同級生

 巨摩高等女学校に進学すると、『講堂にミシンがズラーっと並べて置いてあって、軍服のポケットの上蓋にあたる部分を積み上げるほど毎日ひたすら縫う時間があった。その際、軍服を着た監視の人が座席の間の通路を歩いてずっと監視していたから、何か嫌だった思い出がある。』といいます。戦争中は授業などほとんど受けずに勤労動員ばかりさせられていたようです。

その他にユキエさんが話してくださった、巨摩高等女学生の頃の思い出を聴き取りメモより以下に列記しておきます。同じ巨摩高等女学校に戦争中に通っていた2歳年上のお姉さんが軍需工場で働いていた時の話、学校の校庭の防空壕に隠れた話のほか、うれしかった女学校時代の思い出、戦後の天皇御巡幸の様子など興味深い話題です。

『体育の時間には、校庭の固い土を耕してさつまいもを植えた。農業の先生としてハナワ先生という人が来て教えてくれた。』

『2歳年上の姉(タツミさん)も巨摩高女だった。姉は女学校のそばにある2階建ての寄宿舎にいて、そこから近くの花輪製糸の工場に動員されていた。パラシュートの部品をつくったことを聞いている。』

『昭和20年7月6日の甲府空襲の時には、野々瀬から甲府方面がとても明るくなっているのを山の間に見た。甲府空襲の夜は姉のタツミさんは巨摩高女の寄宿舎にいたので心配だった。』

『荊沢空襲のあった時(昭和20年7月30日)には在校時で、校庭の周りに植えてあるサクラの木の根元に掘った防空壕に入った。学校には爆撃されなかったが、防空壕に入る前にすごい低空飛行で米軍機が通り過ぎるのを見た。その翌日か数日後に、荊沢のあたりで子どもの犠牲者が出たことを聞いた。』

『在学時に学校から甲府の貢川の方向に行くマラソン大会があって、お姉さんのタツミさんが1位で、ユキエさんが10位だった。1位のお姉さんへの賞品は体操着で、10位の幸枝さんには運動靴がもらえた。実際には引換券がもらえて、後に小笠原の商店へ行って実物をもらうスタイルだった。』

『戦後に昭和天皇が戦後巡幸で(1947年10月14日)巨摩高等女学校にいらしたときは、校庭の土の上に額を押し付けるようにしてひれ伏して迎えた記憶がある。何も考えずその時は先生に言われるままそうしたね。』

213_20251003103401 ←巨摩高等女学校華道部 昭和23年3月 :戦後とはいえ、セーラー服の上衣にモンペと草履であわせているのがかわいらしい。

 以上のように、ユキエさんからは貴重なオーラルヒストリーの数々を収蔵させてさせていただきました。本当にありがたいです。

 これに加えて、もし山梨県立巨摩高等女学校の戦時期の学校日誌が存在するのであれば、ユキエさんの過ごした戦時・終戦直後の女学校生活の実態がもっと明らかになる可能性がありますよね。特に製糸工場でパラシュート製造に動員された事実については、今後もっと情報や証言が収集できるといいなと思いました。今後の史料発見に期待しましょう。

2025年9月 5日 (金)

大明・飯野国民学校で行われた供出と勤労奉仕・動員(国民学校日誌を読む2)

こんにちは。

前回に引き続き、南アルプス市ふるさと文化伝承館令和7年度第1回テーマ展「ぼこんとうとせんそう」より、国民学校日誌に記載された内容から読み解くシリーズを続けたいと思います。

※学校日誌とは教師が書き記す日誌のことです。各学校で生徒や教職員の出欠状況、その日の出来事などが毎日記載されます。現在の学校においても行われています。基本的に5年間の保存期間でよいとされていますが、南アルプス市内では過去の古い日誌が断片的に遺され発見された学校がいくつかあり、通報いただいた場合それらを文化財課で収蔵しておりました。2025年7月現在、南アルプス市教育委員会文化財課では、五明学校、大明尋常小学校・大明尋常高等小学校・大明国民学校・大明小学校・大明農業補習学校・大明夜学会、鮎沢学校、飯野尋常高等小学校・飯野国民学校・飯野小学校・巨摩第一小学校、鏡中條国民学校の日誌を計133冊収蔵しており、その中から戦時下にあたる昭和16年から20年にかけての国民学校時代のものを、個人情報に配慮した上で現在開催中のテーマ展で展示しています。学校教練や訓話の内容、空襲、疎開、学徒の勤労動員など戦時下特有の様子が記録されています。

 

 今回は戦争のために学校で供出した物の内訳や献金、勤労奉仕についてみていこうと思います。

Dsc_1374←国民学校日誌(南アルプス市教育委員会文化財課蔵の一部)

 まずは、国民学校時代のものがすべて揃っている大明国民学校と飯野国民学校の日誌から供出と勤労奉仕・動員に関わる箇所を以下に抄出してみます。

 

「大明・飯野国民学校で行われた供出・勤労奉仕・動員年表(抜粋)」

昭和16年

大明「7月7日支那事変4周年記念式 前線将兵と義勇軍宛の慰問袋作成」

大明「7月29日峡西電鉄路線除草勤労奉仕・桑皮供出」

12月8日真珠湾攻撃 太平洋戦争開始

昭和17年

大明「6月8日より5日間桑皮採集の増産運動」

大明「7月7日支那事変記念式・債券購入1円券310枚5円券(額面7円50銭)63枚を職員児童にて購入セリ」

大明「10月4日軍人援護として慰問文発送各家庭に軍人援護の習字を清書シ添付ス」

飯野「11月9日金属供出(七輪3ケ花瓶1ケ火薬銃1ケ鉄砲丸1ケ供出)」

昭和18

21日ガダルカナル島撤退

529日アッツ島玉砕

飯野「6月11日~5日間増産協力全学年普通授業を廃シ増産運動に協力す」

大明「6月25日職員一同にて中庭に晩豆の播種行う」

大明6月25日砲弾等の特別金属の供出なす」

大明「7月1・2・5日校庭などに豆蒔」

大明「7月26日桑皮集荷」

大明「7月・8月滝沢川堤の草刈り(堆肥にするため)

大明「8月8日弾丸切手155枚購入」

大明「11月29日ウサギ二頭を供出ス」

大明「12月8日国防費67円41銭を献金」

大明「12月20日麦踏」

昭和19

大明「3月10日藁草履作成競技会開催」

大明「3月24日玉幡飛行場石拾い」

7月7日サイパン島陥落

大明「10月7日両村出身兵士全員に対し慰問文ヲ発送ス」

10月25日レイテ沖海戦で日本海軍敗北・神風特攻隊初出撃

大明「11月29日どんぐり及すすきノ穂採集のため野之瀬村方面に出動す・どんぐりの紙芝居を全校児童鑑賞ス※紙芝居「どんぐりの出征」

昭和20

飯野「1月4日勤労動員として高二女児は本日より峡西社へ」

大明「1月15日大井五明両村一斉麦踏実施ニツキ初3以上午後より勤労奉仕ヲナス」

飯野「2月28日初五以上軍工事勤労作業はじまる」

3月10日東京大空襲 13日大阪大空襲 22日硫黄島日本軍全滅 

3月26日沖縄に米軍上陸

大明「3月17日~源村飛行場建設工事勤労奉仕」

大明「4月14日初5以上野之瀬村に薪取りに出動」

飯野「4月21日滑走路の石拾い」

大明「4月18日他高1男女子排水工事出動・初5以上薪取り・柳の皮むき(薬用サリチル酸抽出用か?」

飯野「5月1日以降高2男は白根工場・女は日本蚕糸へ学徒動員」

大明「5月1日食用山野草採取のため全校出動」

飯野「5月18日1高一誘導路葱・19日大豆播種29日防空壕、滑空路施肥料作業」

大明「5月5日より高1女全員日蚕大井第一工場通年動員開始」

飯野「5月14日野草採集」

飯野「6月19日21日野草のアカザの採集について訓話」

飯野「6月19日除草石拾い防空壕の整理」

飯野「6月20日防諜図画習字綴方・アカザの採集・桑皮の採集について訓話」

6月23日沖縄戦終了

大明「7月26日桑園の芽カキ初4以上」

大明「8月9日臨時休業・食料山野草薬草採集ヲ全職員で行フ」

大明「9月6日放課後藁草履を全職員ニテ製作ス」

大明「8月21日□□工場ニ出勤中ノ学徒ノ解散式ヲ行フ」

大明「8月23日笠原製糸工場動員ノ児童本日をもって解散ス」

大明「8月29日非農家児童高1高2女33名笠原工場に本日より出勤ス」

大明「9月29日日蚕大井工場出動中の高1・2女本日に限り復員」

 

 以上に抄出した年表を詳細に見ていくと、昭和16年の夏頃より子どもたちによる勤労奉仕や供出が行われており、太平洋戦争が開始する前から日本は勤労人材や物資が不足した状態であったことがわかります。

 飛行機を増産するために、国策紙芝居においても強く供出を呼びかけられた金属は、飯野国民学校では昭和17年11月9日に「七輪3ケ花瓶1ケ火薬銃1ケ鉄砲丸1ケ供出」、大明国民学校では昭和18年6月25日に「砲弾等の特別金属を供出」とあります。昭和19年以降には金属供出は見られません。もう学校備品を含めても出せる金属はなくなってしまったのでしょうか。

17119 ←昭和17年11月9日飯野国民学校日誌「七輪3ケ花瓶1ケ火薬銃1ケ鉄砲丸1ケ供出ス」

 また、金銭を介しておこなう戦争協力として、昭和17年大明国民学校では「7月7日支那事変記念式・債券購入1円券310枚5円券(額面7円50銭)63枚を職員児童にて購入セリ」、昭和18年には「8月8日弾丸切手155枚購入」大明「12月8日国防費67円41銭を献金」が見られ、軍事費を賄うための戦時国債や「弾丸切手」と呼ばれた戦時郵便貯金切手の購入や献金なども学校で組織的に行われたことが示唆されます。

S1777 ←昭和17年7月7日大明国民学校日誌「債券購入1円券310枚5円券(額面7円50銭)63枚を職員児童にて購入セリ」

S1888 ←昭和18年8月8日大明国民学校日誌「弾丸切手購入 弾丸切手百五拾五枚の購入」

 

戦場にいかない子どもたちが学校ぐるみで行った戦争協力として、兵隊に送る慰問の手紙やはがきの作成がありました。

 学校では、軍人援護の教育として慰問文の綴り方が指導され、慰問文その他を入れた慰問袋をつくって前線の将兵や満蒙開拓青少年義勇軍個人に宛て送るということが行われています。

1_20250905162701 ←昭和15年1月1日号少女倶楽部付録「少女の慰問文画帖」(南アルプス市教育委員会文化財課蔵):少女たちが戦地で戦う兵士たちに送る慰問文の例文集。文画帖とあるとおり、慰問袋に同封する絵の例も掲載される。「戦地のお父さんへ」など兵士へ送るもの、「出征兵士の留守宅へ」といった内地でやりとりするものなど様々な例文と解説が並んでいる。

 

Photo_20250905162701 ←慰問葉書(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)昭和19年に豊国民学校の子どもたちが満洲の部隊に所属する卒業生の一人に送ったもの。その兵士の遺品として親族に届いた慰問袋の中に入っていた。

 

 次に、学校ぐるみで行う戦争協力活動として、子どもたちが採集・製作した末に供出されたモノを見ていこうと思います。品目としては、藁草履・桑皮・ドングリの実・ススキの穂・ヤナギの皮・アカザ・薪、校内で飼っていたであろうウサギ二頭が日誌の記述から拾えました。これらは、子どもたちによる採集や製作、飼育の末に供出されるものです。しかし、藁草履や薪は別として、日誌の記述だけでは供出された後どのように活用されたかを知ることができません。そこで、一般的にはどのようであったか調べてみると、以下のような利用方法が考えられました。

  桑の皮 ⇒ 繊維を取り出して  ⇒ 衣服を作る

 ドングリ ⇒ アルコールを製造 ⇒ 飛行機や戦車や自動車に使うガソリンの代用

 ドングリ ⇒ タンニンの抽出  ⇒ 皮をなめすのに使う

 ススキの穂⇒ 掃除するための箒(ほうき)でも作ったのでしょうか?

 ヤナギの皮⇒ 煎じ薬にする   ⇒ 鎮痛剤となる

 アカザ  ⇒ 若葉を摘む    ⇒ 食用とする

 アカザ  ⇒ 煎じ薬にする   ⇒ 強壮剤や鎮痛剤となる

 ウサギ    ⇒ 毛皮をとる     ⇒ 兵隊用の防寒着に使用

※アカザは北海道から沖縄まで日本列島に広く分布する1年生の野草で、葉を茹でてよく水に晒してからおひたしやみそ汁の具などにして食用とするほかに、乾燥させた後煎じると『強壮、健胃、歯の痛み止め、毒虫刺され(外用)など』に効能のある薬草となるようです。参考文献:『見つけて食べて愉しむ季節の薬用植物150種』森昭彦 株式会社秀和システム 2023 『食べられる草ハンドブック』森昭彦 株式会社自由国民社 2021

Img_4405 Dsc_1512 ←成長したアカザ(2025年9月7日山梨県中央市にて栽培されているのを発見し撮影。アカザは秋まで成長させて杖の材料として使用するのだそうです。新芽を食用や薬用とするだけでない、とても有用な植物なのですね!

市内国民学校日誌には、教師たちが昭和19年春に野草食料植物研究会等出席のため甲府や近隣学校に出張した記録があり、各学校での教育や活動に生かされたものと考えられます。

国民学校で常々、自分たちが倹約や勤労に励んで少しでも戦争のお役に立てば、勝ち抜くことができると教えられていた当時の子どもたちは、勉強をしないで教室を出て一生懸命に野草までも集めて供出したのでしょうね。

2025年7月 8日 (火)

学校が軍の予備校になった(国民学校日誌を読む1)

こんにちは。
今日は、南アルプス市ふるさと文化伝承館令和7年度第1回テーマ展「ぼこんとうとせんそう」より学校日誌という資料をご紹介していきたいと思います。
           
 学校日誌は教師が書き記す日誌のことで、各学校で生徒や教職員の出欠状況、その日の出来事などが毎日記載されます。現在の学校においても行われています。基本的に5年間の保存期間でよいとされていますが、南アルプス市内では過去の古い日誌が断片的に遺され発見された学校がいくつかあり、通報いただいた場合それらを文化財課で収蔵しておりました。
 2025年7月現在、南アルプス市教育委員会文化財課では、五明学校、大明尋常小学校・大明尋常高等小学校・大明国民学校・大明小学校・大明農業補習学校・大明夜学会、鮎沢学校、飯野尋常高等小学校・飯野国民学校・飯野小学校・巨摩第一小学校、鏡中條国民学校の日誌を計133冊収蔵しており、その中から戦時下にあたる昭和16年から20年にかけての国民学校時代のものを、個人情報に配慮した上で現在開催中のテーマ展で展示しています。
Img_8137   ←南アルプス市ふるさと文化伝承館テーマ展「ぼこんとうとせんそう」での学校日誌展示状況
 
 国民学校時代の日誌には、学校教練や訓話の内容、空襲、疎開、学徒の勤労動員など戦時下特有の様子が記録されていますので、まずは尋常小学校・尋常高等小学校から国民学校初等科高等科に変わった時点から順にピックアップしてみていこうと思います。
 
 昭和16年4月1日より、それまで尋常小学校・高等小学校と呼ばれていた学制が変更され、国民学校初等科・高等科と呼ばれるようになりました。現在の小学校1年生から中学校2年生までの期間にあたります。国民学校に変わるにあたっては、昭和12年に発刊された「國體の本義(こくたいのほんぎ)」という書物の内容が指針となりました。
P6142744 Img_8152 ←「國體の本義」(南アルプス市教育委員会文化財課蔵):昭和12年(1937)に、「日本とはどのような国か」を明らかにするために当時の文部省が学者たちを結集して編纂した書物。神勅や万世一系が冒頭で強調され、共産主義や無政府主義、民主主義や自由主義も国体にそぐわないものとした。この内容と思想を学生や生徒に教育するために、教員採用試験にも多く採用され、昭和16年3月1日に公布された国民学校令により尋常小学校は国民学校として再編成された。
 
 国民学校では、子どもたちには自分たちの国を守るために戦うこと、戦地で働く人々のために倹約に努め、銃後の守りを整えることといった、国家総動員精神での戦時体制を担う国民を作るという教育方針を強化していきました。国民学校令第一条には、『國民學校󠄁ハ皇國ノ道󠄁ニ則リテ初等普通󠄁敎育ヲ施シ國民ノ基礎的󠄁鍊成ヲ爲スヲ以テ目的󠄁トス』とあり、戦時体制下にあっては学校が軍の予備校としての役割も果たすことになりました。
例えば、子どもたちが楽しみにしている遠足行事は、『(大明国民学校)昭和16年10月31日心身鍛錬を目標トセル秋季遠足ヲ行フ』『(大明国民学校)昭和18年10月25日軍事訓練目的の遠足実施』というように心身鍛錬や軍事訓練の目的のためと明記されるようになりました。
さらには軍の予備校としての役割を果たすため『(鏡中條国民学校)2月3日雪中行軍雪合戦ヲ行フ』『(飯野国民学校)昭和19年8月22日酷暑行軍訓練行フ』『(大明国民学校)昭和20年1月20日耐寒心身鍛錬ノタメ少年団全員増穂南湖方面に行軍ヲ行フ』といった行事も行われています。他にも、『(大明小学校)昭和18年10月22日空襲避難訓練』『(大明国民学校)昭和19年5月18日空襲時における登下校の避難訓練実施』などが行われるようになり、空襲が身近にある中での学校生活を感じさせられます。
16_20250708110701 1641 ←「飯野国民学校日誌昭和16年4月1日「記事:本日ヨリ飯野国民学校ト改称ス」
 授業では新たに武道も取り入れられ、男子には学校教練において木製の銃型を使った訓練、女子には薙刀の訓練が取り入れられました。昭和19年4月17.18日の飯野国民学校日誌には「職員の薙刀講習」の記述が見られます。そのほかの武道では、『(大明国民学校)昭和18年1月30日銃剣道の耐寒練成会』『(大明国民学校)昭和19年9月7日ヨリ三日間相撲道講習会』などの記述もあります。

1929 117 ←飯野国民学校日誌昭和19年4月17日「職員出張:小笠原国民学校内薙刀講習へ 宿直記事:青年学校生銃剣道修練」
Dsc_1411 ←南アルプス市ふるさと文化伝承館テーマ展「ぼこんとうとせんそう」での木銃・薙刀展示状況
P6192876 ←木製薙刀(長さ183㎝)(南アルプス市教育委員会文化財課蔵):薙刀の訓練に使う木製の薙刀。昭和16年の国民学校令台12条によって女児に薙刀の授業が課された。女子武道として、体力向上、精神力倍増等の目的で授業に採用された。展示品は女学校か高等小学校用の長さ。
 木銃(長さ167㎝)(南アルプス市教育委員会文化財課蔵):銃剣術という武道の訓練で使用するもの。銃剣術とは、近接戦闘で相手を突き刺す武器を操るための訓練として生まれた武道。実戦では歩兵銃に短剣をつけて戦う。子どもたちに兵隊になるための訓練を行う学校教練で使用された。
 
 上記のような流れで軍の予備校としての役割をもたされてしまった学校の様子を、次回からも国民学校日誌に記載された内容から読み解いていきたいと思います。

 

2025年7月 1日 (火)

国策紙芝居によるプロパガンダ

こんにちは。
 今日も開催中のテーマ展「ぼこんとうとせんそう」より資料をご紹介いたします。
Dsc_1408 Dsc_1409 ←南アルプス市ふるさと文化伝承館テーマ展「ぼこんとうとせんそう」より 2025年7月1日撮影
南アルプス市教育委員会文化財課では、アジア太平洋戦争中に使用された紙芝居6点と、これらを読み聞かせるために使用された紙芝居の枠も展示しております。
 国策紙芝居は、戦時下に許された数少ない娯楽で、子供たちに限らず大人たちも夢中にさせました。特別な設備を必要とせず、いつでもどこにでも持ち運べる扱いやすさで普及し、国策のための戦中マスメディアとして有効に利用されたのです。
 南アルプス市では、三恵小学校(現若草小に統合)の郷土資料室に残されていた、7点の紙芝居と紙芝居を読み聞かせる際に使用した木製の枠を収蔵しています。そのうち、戦時体制下での国民の模範的意識や行動を示したりや戦意高揚を目的とする内容のもの6点を展示しています(展示していない1点は「小さな灯明」という作品です)。日本教育紙芝居協会が戦争に協力する国民教化を目的とした紙芝居を盛んに制作し、それを国が買い上げて全国に配布しました。
1_20250701140101 ←「あかるい門出」表紙 昭和16年発行
1_20250701140102 15_20250701140101 ←「軍神の母」表紙他 昭和17年発行
1_20250701140201 ←「家」表紙 昭和18年発行
 展示資料はいづれもアジア太平洋戦争中の昭和16年から18年の発行で、全滅を玉砕・戦死者を軍神と呼び変えて表現しています。本来は子どもの心を守るべき読み聞かせの題材を、戦争の悲惨さを覆い隠してさらなる戦意高揚に利用することで、子供にまで最後の一人になっても戦うことを強要したわけです。国は迫る本土決戦を見据えていたのでしょう。
 ここで、6点の国策紙芝居の内容をそれぞれざっと一言で申しますと、「あかるい門出」は傷痍軍人の再起を「軍神の母」は軍神(真珠湾攻撃九軍神上田定)の母の慎ましさとあるべき姿を「家」は当時の理想的家族の在り方を「中澤挺身隊」「玉砕・軍神部隊」「爪文字」はそれぞれの戦場で敢闘し玉砕してゆく軍人たちの様子と銃後の支援の重要性を説いています。
1_20250701140202 ←「中沢挺身隊(ガダルカナル島血戦記)」表紙 昭和18年発行
1_20250701140203 ←「玉砕軍神部隊」表紙 昭和18年発行
1_20250701140204 ←「爪文字」表紙 昭和18年発行
 一緒に展示作業をしていた身近なスタッフたちとこれらの紙芝居を読んだ感想は、「良民の情緒を揺さぶるように計算されたなんて卑劣な物語だ」というもので、怒りを覚えるほどでした。今を生きている私たちには到底受け入れられる内容ではありません。自由な創作的活動をすべて取り上げられてしまった当時の一流クリエイターたちが、発注元である戦時体制下の国の意思に忠実に答えようとすると、このように優秀なプロパガンダ作品が生み出されてしまうのだということに恐怖を感じました。
 この紙芝居を観た当時の人々がすべての内容をすんなりと受け入れていたとは考えにくいのですが、世相に感化されて熱狂した人、心にある様々な思いを打ち消して受け入れた人もあったでしょう。
 
 何度かこの紙芝居を読んで公開する機会を持てないものかと検討したのですが、読み手も聞き手も疲弊してしまうようなすごい内容です。戦争プロパガンダとしてとてもよくできた作品ですので、たとえ時代背景などの解説付きであったとしても、惹き込まれる人がいるのではないかと考え、恐ろしくて読めません。
 展示してある国策紙芝居のもう少し詳しい内容をお知りになりたい方は、当館テーマ展にいらして展示キャプションや複製品をじっくり見て解説員の話を聞いてただくか、文献としては「『国策紙芝居から見る日本の戦争』神奈川大学日本常民文化研究所非文字資料研究センター 勉誠出版株式会社 2018年2月28日」等をお読みになるとよいと思います。

Dsc_1410 ←テーマ展展示の国策紙芝居キャプションの一部

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