蚕糸業関連

2020年7月22日 (水)

豊村には乾繭場があった

こんにちは。
Dsc_4171  南アルプス市櫛形地区吉田には、昭和40年代まで操業していた乾繭場(かんけんじょう)の倉庫建物が現存しています。

→2018年11月27日撮影 豊乾繭場倉庫跡 (文化財課職員H氏によると、この倉庫内に残されていた棟札から昭和4年築と判るそうです。この建物は、もうすでに90歳を超えているのですね)
 乾繭場とは、養蚕農家から集めた生繭を熱風で乾燥させ、中のさなぎが羽化して出てくる前に刹蛹(さつよう)し、さらに水分を除去することでカビが生えたりするのを防ぎ、長期間の保存に耐えるよう処理をする工場のことです。


002img20200622_11283036  豊乾繭農協(豊乾繭場)は、山梨市にあった乾繭施設を昭和32年5月に198万円譲りうけて豊農協構内に設立されたものでした。「田端式」という乾燥機が一機配備されていたと櫛形町誌に記されています。

→「豊乾繭農協」櫛形町誌(昭和41年刊)より  現在残るトタン張りの倉庫は、写真の中央の屋根の真ん中に櫓の付いていた建物なのでしょうか?現在、煙突は撤去されていますし、位置関係がよくわかりません。今後の踏査では、この写真を持ち歩いて、当時のことが分かる人を探したいと思います。




 乾繭場は製糸工場内に設けられる場合もありますが、こちらの豊乾繭場は、特定の製糸場の専用の施設というものはなく、豊乾繭組合(農協)が、この乾繭場で周辺農家から集めた繭を乾燥して倉庫に貯蔵し、近隣に多数あった製糸工場に供給していたようです。

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 →2019年1月27日撮影 豊乾繭場倉庫跡(建設された昭和4年からこの倉庫は「豊第二農業倉庫」といわれていたそうです。もともとあった建物を改装して、昭和32年に乾繭繭の倉庫として整備したのかもしれません。)


2_20200722150401 Photo_20200722150401  山梨蚕糸業概史に載っている昭和33年調べ製糸場一覧をみると、現在の南アルプス市域に当時存在した製糸工場はなんと19カ所もありました。

→「豊乾繭場内部」豊村誌(昭和35年刊)

しかもより 周辺は昭和40年代まで大養蚕地帯でもあったので、それら蚕糸業の中心地たる櫛形地区豊に製糸場と養蚕農家をつなぐための、組合組織の乾繭場があって不思議はありません。

逆にこの頃には、この乾繭施設を手放した山梨市(東郡地域)での蚕糸業はすでに漸次衰退していたということを示すのでしょう。

→「乾繭場全影」豊村誌(昭和35年刊)より


 
 3993  →豊乾繭場跡に残されていた和紙製繭袋

さて、こちらは、豊乾繭場で乾燥した繭を入れていた袋です。文化財課が所蔵しています。
この袋は木綿ではなく、丈夫で吸湿性のある厚手の和紙を貼り合わせたもので、その大きさはだいたい84㎝×150㎝です。口紐はついていないタイプです。
 3993-3 乾燥させた繭は生繭のおよそ半分の重さになるので、軽くなったぶん、一袋にたくさんの量を入れることができます。そのため、生繭を入れて運搬する木綿の繭袋(油単ゆたん)よりも、乾繭貯蔵用袋は大きいものになります。


 以前に、石和で蚕糸包装資材一式を製造販売していた宮方商店の関係者に、製造していた繭袋についてお聞きしたことがあるのですが、「和紙製の繭袋は特注品の厚手の紙を仕入れ、職人が手でよく揉んで柔らかくしてから糊で貼り合わせて作っていた。木綿袋よりも高級品で、乾繭貯蔵用袋としての注文が多かった」と聞いています。


 ←この和紙製繭袋には、「豊乾繭組合」の上に「〇マルに木」の屋号がプリントされています。屋号は取引した製糸場のものでしょうか?今後調査を進めたいと思います。


 〇博調査員は、2018年に、豊乾繭場倉庫跡の道を挟んだすぐ目の前にある豊小学校の子供たちと一緒に、倉庫跡を見学させていただいたことがあります。

内部はすでに空っぽで、田端式乾燥機の跡形もありませんでしたが、2階部分に上がると、床の所どころに四角い穴が開けられていて、想像力を掻き立てられました。その際、子供達には、岡谷蚕糸博物館さんの発行した冊子の中の乾繭場内部の古写真等を見てもらい、「こんな感じにたくさん繭が積み上げられていたり、ベルトコンベアーがあったのかなぁ?」などと一緒に話したのを憶えています。

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→2018年11月27日撮影 昭和レトロな建物を維持しているJA南アルプス豊支所の敷地に豊乾繭場倉庫跡の建物が立っています。


 2018年当時のJA南アルプス市豊支所の方にうかがった記憶では、特に利用されていない様子でしたが、いまも存在感を放って立つ豊乾繭場倉庫跡建物の存在そのものが、いかにこの地に蚕糸業が発達していたかを、私たちにしずかに語ってくれています。

 

2020年6月30日 (火)

養蚕の錦絵を愉しむ

こんにちは。
 昨日までの大雨から一転、今日は梅雨の晴れ間。ジリジリ照り付ける太陽の光の強さに、「そうだ、6月下旬からは夏蚕(なつご)の季節であった!」ということを思い出しました。
 収蔵資料の中には、養蚕に関する資料がもちろんたくさんあるのですが、今日はその中から、うっとうしい梅雨の気分を払って晴れやかな気持ちにさせてくれる、パッと色鮮やかな養蚕の錦絵をご紹介します。


002img20200623_13155284←「養蚕図絵第三 にわの休 : 梅堂国政筆 」飯野新田石原家資料より


 女性たちが家の中で飼っているカイコに桑の葉を与えている場面ですね。外には蚕の守り神でもある馬が、桑の葉を背に付けて運んで来ました。


  題名にある「にわ(庭)の休」とは、金色姫伝説に起因する江戸時代における蚕の飼育期を指す言葉で、蚕が繭を作るまでに4回脱皮するうちの、4回目の脱皮前休眠状態期(四眠)のことを示していると思われます。

※蚕は、卵からふ化してから繭を作るまで、4回の脱皮を繰り返して成長します。脱皮ごとに成長期は1齢・2齢・3齢・4齢・5齢の区分で表記しますが、伝統的に養蚕地帯では、1齢を「獅子」→2齢を「鷹(竹)」→3齢を「船」→4齢を「庭」と表現していました。
 これは、先人たちが養蚕守護のために信仰していた茨城県つくば市に本社とする蚕影神社の縁起にある「金色姫(こんじきひめ)伝説」に由来します。
 ざっくりとこの伝説のあらすじを言うと、「継母に疎まれて4度も命を狙われるも、その度に救出された金色姫は、最終的に蚕に生まれ変わり養蚕をもたらした」というものです。
 その中に、「姫は継母に、一度目は獅子などの猛獣がいる山に捨てられ、2度目は鷹などの怖い鳥がいる山かもしくは竹藪に置き去りに、3度目は船に閉じ込められて海に流され、4度目は庭に埋められるのですが、その度に助け出されて生き返る」という文脈があり、この姫の受難は、「死んだようにしばらく眠った後に起きて脱皮することを4回繰り返す、蚕の生育過程」を示しているとされています。

 ↑右端の女性が持つ平かごのカイコが、ちょうど「庭の休み=四眠」なのでしょうか? 
刻んでいない桑の葉をかごに入れて立つ女性が、「もうそろそろ起きたかい?」と声を掛けたのに答えて、かごを持ってカイコの状態を見た右端の女性が「いや、全部起きてないから、桑付けは、まだおあづけだねぇ~」と答えているような気がします。

この錦絵には、「金色姫伝説」と並んで、日本における有名なもう一つの養蚕起源説である「馬娘婚姻譚(捜神記)」に由来する「馬」が登場しているところも興味深いです。馬は養蚕と関係の深い動物として、養蚕具に意匠として施されたり、養蚕繁盛の信仰対象になったりもしました。養蚕の文化は奥深いです。

次の錦絵もご覧ください。
002img20200623_13232575 ←「蚕養草:国利」飯野新田石原家資料より

この絵の蚕はかなり大きく太っていますので、たぶん、繭を作る直前の5齢期だと思います。

枝をかごに入れているところを見ると、そろそろ糸を吐き始めるころなのでしょう。

養蚕はこの時期が一番忙しいので、子を背負った母の表情にもその余裕のなさが出ている気がします。また、母の気持ちを少しでも自分に手繰り寄せようとする、子のけなげな手の表現にも惹きつけられます。


 題名左の文には、
『かいこおおねむり
 おきしてのちは
 くわの葉をくるる
 ことおおくして猶
 なたねのしべなどを
 入てすをつくる也』
と書いてあると思います。

すなわち、先に1枚目でご紹介した「にわの休み」後の、「五齢」以降の蚕の飼育要領を示した文言だといえます。

「蚕が大眠り(四眠・にわの休み)から起きた後は、桑の葉を多く与えて、その後は菜種の実を採った後の枝や藁の穂の芯などを入れると、す(繭)をつくる」という意味でしょう。

 

では続いて3枚目の錦絵もご覧くださいませ。
 002img20200623_13113006 ←「養蚕図絵 第五 あがりの図 : 梅堂国政」飯野新田石原家資料より


 この絵は、粗朶(そだ)につくらせた繭を吊るしてかけて置き、十日ほど経ったところで収穫している場面です。

乾燥中の繭はネズミの大好物ですから、赤い首輪の猫様がちゃんと見張っていますね。

収繭と並行して、繭を茹で、手回しの座繰り器で糸を繰る作業を行っているところも興味深いです。江戸時代は乾繭技術が未発達でしたから、各家では、繭中のさなぎが羽化する前に煮て糸を繰る作業が必要でした。

うまく繭が仕上がって満足そうな女性たちの笑顔が印象的ですね。

 

 

 以上3点の養蚕の錦絵はいずれも出版人が「堤吉兵衛 日本橋吉川町五番地」とあり、養蚕図絵2枚の出版届出が「明治二十年九月七日」となっていました。堤吉兵衛は元は浮世絵の版元であったのが、明治時代からは錦絵や絵草紙の問屋になったようです。


 江戸時代の浮世絵文化を引き継いだ錦絵は、あでやかな色彩や構図で現代の私たちを美術的に楽しませてくれるだけでなく、特に養蚕の様子を描いたものは、当時の様々な情報を視覚的に伝えてくれる貴重な資料だと実感しました。今度、養蚕について勉強する子供たちにも見てもらおうと思います。

久しぶりに絵を細部までじっくり鑑賞しました。あ~、たのしかった!

2020年6月19日 (金)

バス停の名は『上今井稚蚕飼育所』

こんにちは。
327_20200619114201 327_20200619114202   南アルプス市内に鉄道は通っていませんが、運賃100円のコミュニティバスが市内を巡っていて便利です。

その南アルプス市コミュニティバスの停留所のひとつに、現在ではたいへんレアな懐かしい名称があったので、櫛形地区上今井の現場に見に行ってきました!


その名も『上今井稚蚕飼育所』。


 南アルプス市役所交通政策室の発行している令和2年3月1日改正コミュニティバス時刻表によると、この停留所を通るバスは、4号車櫛形・白根線で、市立美術館を起点に櫛形・白根地区を各所を1時間ほどかけて8便が循環しています。

327-3 稚蚕飼育所(ちさんしいくじょ)というのは、養蚕における、稚蚕期の飼育のために造られた施設のことです。

蚕は卵をふ化させてから十日以内の稚蚕期が最も飼育が難しく、寒さに弱く病気になりやすいため、日ごとの生育に合わせた給餌と温湿度の管理などの飼育技術が必要となります。


そのため、昭和20年代以降、集落ごとに24時間管理で稚蚕を飼育するための共同施設が多く建設されました。

327-2 上今井稚蚕飼育所を北側を撮影。(令和2年6月16日撮影)手前右角の部屋は調理室になっている模様。各地の稚蚕飼育所には寝泊まりして世話する人のために、調理場や風呂などがある場合が多いです。


もともと出荷繭の集積所ともなっていた地域の公民館を増改築して転用する例も多くありましたし、また、現在公民館など地域のつどいの場になっている建物が、昭和40年代までかつて集落の稚蚕飼育所として使用されていた例が数多くあります。


 上今井稚蚕飼育所については櫛形町誌などに特に記録がありませんでしたので、こちらの飼育所がいつごろからあり、いつまで使われていたかは、これからの聴き取り調査で調べていかなければなりませんが、バス停の前にあるこちらの昭和レトロな建物が飼育所跡であることはまちがいなさそうです。


 327_20200619114203 外観をパッと見ると、南側には採光の抜群に良さそうなガラス窓が全面にあり、大きな間口を3か所設けています。基礎との境の部分には通気口もたくさん見えますので、稚蚕所特有の地下室があったのかもしれません。内部の構造も大変気になるところです。今後の取材活動によって判明いたしましたら、お知らせしますね。

←上今井稚蚕飼育所を南側を撮影。(令和2年6月16日撮影)


 ちなみに、稚蚕所は使用する地域住民が選択した稚蚕の飼育法によって、大部屋構造と小部屋構造のどちらかのタイプの建物に分類されます。山梨県の施設でよく見られるのは、群馬県発祥の「土室育(どむろいく)」を行う大部屋構造と長野県発祥の「天竜育(てんりゅういく)」を行う小部屋構造の2方式に大別されると思います。 上今井の養蚕組合がどちらを採用していたかも興味があります。

現在は、バス停の名とは異なりますが、稚蚕飼育所は「上今井老人いこいの家」として使用されており、この施設が稚蚕所としての役目を終えてから少なくとも三十年ほど経っているのに、「よくぞいままでバス停の名称を変えずにいてくださいました!」と、〇博としては、地域の方々へのリスペクトと感謝の気持ちでいっぱいです。 
36img20190213_09221113 369img20190213_09193284  以下、〇博でこれまでに収集した稚蚕飼育所の画像をご覧ください。

 ←昭和36年に竣工され、甲西地区古市場にあった大部屋構造の土室稚蚕飼育所の概観と内部の画像(古市場杉田家資料より)。このほか土室育は櫛形地区風新居地区でも採用されていました。左の写真の左右の壁際に蚕飼育用の土室の扉が写っています。


 Photo_20200619114201 ←地下室への入り口が見える八田地区六科稚蚕飼育所跡。平成時代まで利用されていた。
 Photo_20200619114202 ←飯野の稚蚕飼育所(白根写真集夢より)
 

2020年4月20日 (月)

蚕の種紙でつくった足袋型紙

こんにちは。
 昨今の疫病流行の影響でフィールドワークが難しい状況なので、その代わりに、文化財収蔵庫の資料整理を集中的に行っています。
台帳を見て気になっていた資料の実物を出して観察もできるので、あらたな気づきが多くあり、今後の企画展のヒントになりそうなものをピックアップ出来て、思いがけず良いこともあるものです。
 今日はそんな新たな発見の中から一つご紹介いたします。
Dsc_0562 ←こちらの資料名は「足袋型紙」で、甲西地区東南湖 小沢家から平成時代初めに寄贈されたものです。

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実物を出してみると、再利用した三越の贈答品箱の中に、子供から大人までの足袋の型紙が13組入っていました。

Dsc_0575 そして、寄贈者のメモに『戦時中各家庭で作った足袋形です』とあります。


 戦争中は物資不足でしたから、足袋もお母さんが家庭で手作りでしたし、型紙用の紙も何かの再利用であったのは当然だったと思いますが、お蚕好きな〇博調査員の目は、型紙の端に切れぎれに遺されているある痕跡に釘付けになりました! そして、紙の表面に触れると指先にサメ肌のような「ザラザラ」を感じます。

これは、2年前の八田地区調査でも出会った戦時中の「蚕の種紙リサイクル」です!所どころに蚕種屋の名と住所、蚕品種の属性等を読み取ることもできました。

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 当時の甲西地区東南湖の農家では、どのようなところから蚕種を買っていたのか興味が湧いたので、16枚の蚕種紙のうち、判読できる限りの蚕種屋さんを書き出してみました。そうすると、山梨県の蚕種屋が3軒、福井県が1軒、岐阜県が1軒がありました。
以下が、判読できた蚕種屋5軒です

①齋藤孝 山梨県南巨摩郡増穂村長澤107番地
②□澤曝□ [山梨県南巨摩郡増穂村]天神中条[ ]
③吉野屋・角田賀雄 山梨県[            ]
④越前蚕種合名会社 福井県今立郡中滝村[ ]上村大野14
  製造場所:福井県今立郡北中山村磯部第二号十九番地荻野三郎右衛門
⑤株式会社勝野蚕種部 岐阜県恵那郡中津町駒場六三七番地
 その他、蚕種は、国蚕支107号×国蚕日111号などの日支交雑種が多く、すべて白色繭でした。

Dsc_0570_20200420115501  種紙の形態や以上のような情報から、この種紙が購入されたのは昭和初期頃だと考えられます。
 さらに、山梨県内蚕種屋のものには不越年との記載があるものが多い上にすべて産卵日が6月でしたが、福井県と岐阜県の蚕種屋のものは8月中旬産卵や9月製造とありました。この傾向はどのようなことを意味するのでしょうね。いずれの種紙も低温庫や風穴で保管されていたものだと思いますが、おもしろいです。


(当ブログ蚕糸業関連カテゴリーの2018年3月25日記事「蚕の種紙リサイクル」でも、野牛島地区で昭和20年に記された管理米台帳の表紙に使用されていた例をご紹介しています)

2019年11月23日 (土)

十日市場の養蚕碑と養蚕家屋

こんにちは。
 若草地区では十日市場に、2カ所の養蚕に関する記念碑が建っています。

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 若草地区では、三恵村の矢崎新三郎と河西亀之助が明治14年に100釜以上の設備を持つ製糸場を相次いで設立した頃から養蚕が盛んになったことが判っています。そして、若草地区で最後まで操業していた十日市場の石川製糸場が終業したのは、昭和55年3月3日です。およそ100年もの間、若草地区で営まれていた蚕糸業を支えた養蚕の痕跡を現地で確認してきました。ご覧ください。

1906-5 ←十日市場稚蚕飼育所跡碑 
 この碑は十日市場の地域福祉公園東端に建っています。昭和62年9月7日建立とあり、裏に歴代組合長の名が刻まれています。

1845-2_20191123113701 1845-2 ←十日市場公会堂前頌徳碑
こちらの公会堂は昭和6年築で、その後昭和50年代に改築して公民館になったようですが、その敷地の東の奥に、加藤孝之助氏の頌徳碑があります。

この碑は、河西豊太郎豪額 矢崎源之助撰文とあり、十日市場養蚕組合創立30周年の節目にあたる昭和11年4月5日に建立されたようです。

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 頌徳碑の文字を読んでみると、加藤孝之助氏は明治12年11月18日生まれで、明治40年に養蚕組合をつくったこと、昭和6年5月には皇居の「紅葉山御養蚕所拝観の栄に浴す」など、養蚕業の功労者だったことが刻まれています。昭和8年6月15日に急逝されたようです。


 加藤孝之助氏については、若草町誌にも記述があり、温和でまじめな人柄から人望が厚く、多くの人々から敬慕された氏は、養蚕技術の研究と実践を重ね、繭の品評会を開くなどして、十日市場の養蚕組合、山梨県の養蚕業界に多大な貢献をした人物だと紹介されています。


 十日市場の所属した三恵村では、大正五年の「中巨摩郡町村取調書」の記録によると、畑地の約78%が桑園だったとあり、大正初期から昭和初期にかけては、250釜を設備した鏡中條の山梨製糸株式会社や近隣の甲西地区に次々と100釜以上の大規模製糸場が設立され、原料繭の需要が伸び、農家のほとんどが養蚕に携わるようになっていました。

加藤孝之助氏は十日市場の主要栽培作物が煙草と綿の栽培から養蚕へとシフトした時期に大活躍した人物だったわけですね。

 

 

2039-2 ←十日市場にある養蚕家屋
 十日市場の集落を歩いてみると、かっこいい養蚕家屋にも出会えました。こちらのお宅は、2階の屋根の上に、換気用の2つ櫓をのせた養蚕に適したつくりになっています。昭和初期に建築された民家に特徴的な卵の黄身もようなあざやかな黄色の壁も部分的に残されていて、柱の黒色とのコントラストがとても美しいですね。

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 今日は、養蚕をテーマに十日市場の集落を歩いてみました。当地の蚕糸業が消滅してからすでに40年ほど経ましたが、その痕跡を見つけることができてゴキゲンな〇博調査員です。

 

2019年11月21日 (木)

志村盛養蚕飼育場と太郎さん

こんにちは。
収蔵庫の整理をしていて、最近こちらの写真資料を見ました。

Photo_20191121142001下今井志村家資料より「鏡中條村下今井・志村盛養蚕飼育場」昭和10年前後に撮影か

若草地区の下今井に住む志村家では、釜無川対岸の左岸(現甲斐市の玉幡地区)に養蚕飼育場を持っていたそうです。

桑畑の中にテントを張って飼育棚を組み、蚕を飼っています。当時「櫓飼い」と呼ばれていた飼育法です。

 

画像をよく見ると、テントの前では人々が藁の蔟(まぶし)から出来上がった繭を手でもぎとって収穫しています。蔟は蚕に繭を作らせるための場所とする道具ですが、この後すぐに藁製からボール紙の回転蔟に変わっていきます。
 この写真が撮影されたと思われる昭和初期の山梨県では、9年に県内製糸生産量が歴代最大を記録しており、アメリカへの輸出向けに日本の蚕糸業が隆盛を誇っていたときでした。養蚕の道具も技術もどんどん変化し、向上していった時代です。
 しかし、それもつかの間、この志村家の広大な養蚕飼育場があった土地は、昭和13年には玉幡飛行場建設のために陸軍航空本部へ売却せざるをえませんでした。
そして、大東亜戦終戦間際には、現南アルプス市域に20カ所以上もあった製糸工場は軍需の繰繭短繊維工場として7カ所に統合され、中には、落下傘のパラシュート製造に関わった製糸場(白根地区飯野にあった生糸販売組合甲西社)もありました。


2_20191121142001下今井志村家資料より「志村盛養蚕飼育場」

こちら2枚目の写真で、下今井志村家の養蚕場の桑畑で佇んでいる男性は、志村太郎さんという方です。

志村家より資料寄贈いただいた際に伺ったお話によると、この写真の太郎さんは昭和8年に17歳で農林学校を卒業後、父のもと22歳まで養蚕業に従事しましたが、玉幡飛行場への土地売却後は昭和13年9月より陸軍航空本部に雇入れられ、設計部員として北方のアリューシャン列島に位置するキスカ島や空襲の激しかった大阪などに配属された後、昭和20年6月からは地元でロタコと呼ばれた御勅使河原飛行場の建設に携わられたようです。

 

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 養蚕経営に力を尽くそうと志ざした青年が、戦争という時代に置かれた身ゆえに、分野違いの設計部員として北方で飛行場を建設するために働くことになった苦労と努力、さらにそれさえも志半ばで命からがら潜水艦で脱出した経験、さらに、日本に帰ってからは・・・・。

 

←下今井志村太郎氏資料「キスカ島陸軍部隊銭湯指令所前にたつ志村太郎氏」昭和17か18年の撮影。

←下今井・志村太郎氏資料の一部。「従軍日誌など」

平成28年に南アルプス市教育委員会文化財課に寄贈された約20点の志村太郎さん(昭和59年御逝去)の遺品は、それまで大切に保管されてこられた奥様のお力もあり、大変説得力のあるストーリーをまとった資料群となっています。
今後ふるさと文化伝承館で企画展示ができるように、調査を深めています。

 

←下今井志村太郎氏資料「アリュート人と鮭を運ぶ」キスカ島にて昭和18年頃の撮影。

2019年11月18日 (月)

若草地区蚕糸業の痕跡(製糸場編)

 

こんにちは。

  今日はまず、文献 などから判っている若草地区の製糸業の変遷をさらってみます。

 山梨県では、甲府に250人もの工女が働く山梨勧業製糸場が甲府で操業開始した明治7年から、蚕糸業が盛んになりました。その後、昭和40年代後半まで県の主要産業の一つでした。


 南アルプス市域では、明治14年に三恵村で矢崎製糸場・河西製糸場が設立されたのを皮切りに、明治20年代初期には鏡中條村にも次々と製糸場が設立され、若草地区が現南アルプス市域における製糸業の先駆地でした。

明治時代の若草地区では、三恵村で6カ所、鏡中條村で5カ所の製糸場が存在した記録が残っています。


Photo_20191118110401  中でも、明治34年6月に鏡中條の釜無川河畔に創業した山梨製糸株式会社は、明治37年の調査記録によると、444人の従業員数で蒸気機関を用いて稼働する最新設備を備えた県内最大規模の製糸場だったようです。

そのため、小規模な製糸場は山梨製糸株式会社に統合・集約されていき、大正時代になると、三恵村十日市場にあった石川製糸場との2社の名が若草地区に存在した製糸場として、山梨県蚕糸業慨史という書籍に見ることができます。

← 山梨製糸株式会社(撮影時期不明・若草町誌より)

 


 昭和時代になると大正時代の前記2社に加えて、鏡中條村に設立された内田製糸場が加わり、若草地区には戦前まで計3か所の製糸場がありました。

  9641 ←鏡中條内田製糸のあった場所。現在建っているこの倉庫との関係は不明です。

その中でも若草地区で戦後昭和50年代まで存続したのは十日市場にあった石川製糸場のみです。(十日市場石川製糸場は昭和55年3月3日より休業したと山梨県蚕糸課の記録にあります)

十日市場の方からの聴き取りによると、昭和40年代終わりくらいまで、養蚕して生産した繭を石川製糸場に持ち込んで売った記憶があると証言してくれました。

今後もまだまだ周辺の聴き取り調査を行って、昭和期迄行われていた若草地区の蚕糸業についての記録を増やしていきたいと思っています。

2019年11月 1日 (金)

鏡中條で見つけた煙突のあるお蔵は?

こんにちは。
625  鏡中條で、屋根の上に2本の煙突をのせた土蔵に出会いました。

625_20191101164901 ちょっとかわいい♡と思って反対側にまわると、土蔵の奥に住居スペースとなっている母屋がみえました。

628-43 屋根にわざわざおしゃれな煙突を二つも付けたお蔵をこの辺りでは見ることがなかったので、何に使っていた建物か気になって、お住いの方を訪ねることにしました。

628-40 「こんにちは~」と玄関に足を踏み入れると、そこは突き固められた土間でした。

←さらに入り口付近には、木づちで藁打ちをした際に台となった石がはめ込まれています。

この土間で家族総出で夜なべ仕事をしたのでしょう。昭和前期までの農家の住空間がここに遺されていました!


628-15_20191101170601   住人の方にご挨拶をして、明治時代に建てられたという家の中をよく見せてもらうと、あらゆる農作業の工程や進ちょく状況などが鉛筆で土壁のところどころに走り書きされています。ワァ~!! 〇博調査員としては、素晴らしく気分の上がる光景に出くわしたわけです。しかし、プライバシーを侵害する恐れのある母屋の取材は限定的にさせていただき、煙突のある土蔵の中を見せていただくことにします。


628-7 628-10628-44   いまは往時の目的での使用ではなく、ただの倉庫として使っているそうですが、この土蔵はやはり養蚕を行うことを目的に明治末期か大正時代初めに建てられたものだということでした。

628-14 そういえば、母屋にある壁のメモ書きに、春蚕と夏蚕の掃立て量や飼育日誌的な記述もありました。

628-13  煙突の土蔵内に入れてもらうと、内部の柱には養蚕用の温湿度計が掛ったままになっていて、この土蔵が蚕室だったことを物語っています。


 このお宅のすぐ近くには明治34年6月に当時山梨県下最大規模の山梨製糸株式会社が設立されており、大正期の近隣地域には養蚕業への機運が高まっていたはずです。

 さらに、大正時代は日本の高度な養蚕技術理論が確立される時期にあり、生産する繭の品質向上のため、飼育経過ごとに異なる温湿度管理が重視されるようになっていました。気温が下がる時には養蚕用の火鉢を蚕棚の間に多数置いて室内温度を上げましたが、それに伴って蚕のエサの桑葉や糞などから立ち上る湿気を外に効率的に排出することも必要でした。

 特に上蔟期(蚕が糸を吐いて繭を作っている時)の高湿度は繭の品質にかなりの悪影響を与えることが中央学会で認知されはじめたころで、この土蔵を建てた先人は当時の最新の養蚕技術の知識をもとに、換気用の煙突を付けたものと推測します。


 このたびは、100年以上も前の農家とその生業の様子が垣間見える貴重な建築物を、産まれた時からずっと今までお暮らしになっておられるおじいさまに、直接ご案内いただく機会に恵まれたことは、たいへんな感激でした。感謝いたします。

2019年3月29日 (金)

白根地区蚕糸業の痕跡1

こんにちは、みづほです。

明治20年代よりはじまり、現在まで果樹栽培を産業の大きな柱としている山梨県南アルプス市の白根地区ですが、明治30年代までは果樹よりも煙草の栽培の中心地として有名であり、その後、昭和40年代初めまでは養蚕も多く行われ、製糸業も盛んな地でした。
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 今回はその中でも、もっとも忘れ去られそうで、マイナーな白根地区に遺る蚕糸業の痕跡をいくつかご紹介したいと思います。


まず一つ目は、百々の宮内に遺る「蚕神」。百々諏訪神社の少し南に道祖神とともに祀られています。


1369 ←「駒嶽摩利支天 ・ 奥山半僧坊 ・・ 大嶽蚕玉山」と刻まれ、全国的に信仰を集める聖地三カ所が列記されています。

ちなみに、「甲斐駒ヶ岳の摩利支天  浜松にある奥山半僧坊大権現  山梨市三富にある大嶽山那賀都神社」のことだと思われます。大嶽山に(長野県ではポピュラーな)蚕玉様という養蚕の神様が祀られていたのでしょうか?


 また、明治二十一年と刻まれており、まだこの地が煙草栽培中心であった頃に立てられていることも興味深いです。たばこの葉の発するニコチンが蚕の成長を阻害するため、この地域での養蚕はまだ盛んではなかったはずです。


 しかし、碑の建てられたのと同じ明治21年には、白鳳社という製糸工場が中澤五三郎によって隣の飯野村に設立された記録(「工場通覧」明治37年版)がありますから、養蚕の需要が見込める状況にあったのでしょう。

さらに、煙草全盛期といわれながらも、明治25年に百々地域に設立された秋山製糸場の名も明治37年版「工場通覧」のリストに載っています。明治21年からこの地で蚕糸業への本格的な取り組みが始まったことは間違いないでしょう。


 
残念ながら、白鳳社と秋山製糸場の存在した住所はリストに記載されていなかったのでわからないのですが、昭和16年版の「全国工場通覧21」に載っていた浅利製糸場は場所がわかりました。

浅利製糸場は昭和4年7月に創業とあり、住所は源村飯野新田。
Img20180706_18342384-3 ←工場通覧のリストとは別で、昭和6年に作られた「大日本職業別明細図(昭和6年)」にも記載されていました。
Dsc_0699  ←こちらが浅利製糸場があった場所の現在の様子です。いまは何の面影も残っていませんが、この場所は徳島堰のすぐ横にあり、水を多く必要とする製糸場の立地にふさわしい場所だなと納得しました。

念のため、近所にある大正時代創業八重森理髪店の昭和8年生まれのおばあちゃまに聴き取りをし、記憶にある浅利製糸場の場所を確認すると一致しましたので、間違いないと思います。

あとは、どこかにかつての浅利製糸場の様子を写した写真があるとよいのですが・・・、今後の出会いに期待したいと思います。

 


最後に、
Dsc_2796「有野の蚕具洗い場」を紹介したいと思います。

こちらはもう使われていませんが、いまも人々が行き交う道脇の水路に現存しています。


 白根地区内でも特に養蚕が盛んだった有野では、棚や飼育篭など比較的大きな蚕具でも洗いやすいように、水路から水を引き込む洗い場がコンクリートで広めに区画されています。
養蚕の歴史を知らなければ、無駄に大きい行水場のようで、不思議です。


 昭和40年代までは、1年に2~4回ほどの飼育期ごとに家前の水路で、蚕具を洗う作業が見られました。蚕はウイルスや細菌にたいへん弱い生き物ですから、飼育の始まる直前には、御勅使川から取水した四ヶ町堰の豊富できれいな水を利用して、養蚕に使う様々な道具を洗浄しました。
Dsc_2804 ←この施設は白根地区では、一番水の豊富な有野でしか見られないものだと思います。
大きく仕切られた長方形のプールでは、蚕棚や飼育篭など大物の蚕具も楽々、たっぷりの水を使って洗えそうです。

白根地区では昭和40年代を境に養蚕は行われなくなり、それから50年経ちましたが、注意深く歩き回ると、まだその痕跡は見つかるものですね。

2018年3月25日 (日)

蚕の種紙をリサイクル

こんにちは、八田うし子です。

 

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野牛島地区の方から昭和20年度の管理米台帳を見せていただきました。

 

 

 

内容は集落内の各戸の米供出量を食糧管理事務取扱員が算出したものでした。

 

 

 

昭和20年当時の野牛島集落内各戸の家族構成や年齢、健康状態、家庭状況などの詳細な個人情報をもとに、家族一人一人の年間の米消費量が調べ上げられていました。

 

 

 

さらに、米の収穫予定量から家族全体の消費量を差し引き計算したものを各戸の責任供出量として赤字で記しています。

 

 

 

Dsc_0973戦争最末期ですから、各戸に対して、蔵のネズミの食べる分もないほどに徹底的な供出強要が行われたことを想像させます。

 

 

 

今回、記載内容については個人情報の観点から公開は避けることにしますが、この台帳の表紙の裏に面白い痕跡が残っていました!この台帳の表紙について語らせてください。

 

Dsc_0975_2そのしっかりとした厚手紙をめくるとその裏はボコボコしていて、ざらざら!手触りはまるでサメ肌。わさびおろしを触っているみたいです。

 

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右端には、『品種名:交雑 国蚕支
107号×国蚕日111号  系統:日支交雑種  繭色:白  産卵月日:八月十八日 紙量:十三瓦(g) 卵:十三瓦(g) 卵秤量月日:八月十九日 富山県東砺波郡井波町藤橋二十五番地 扶桑館 藤澤五三郎 蚕種製造場所 同町井波2912番地』との記述がありました。

 

 

 

 

 

これはまさしく蚕の種紙(たねがみ)です。

 

 

 

昭和初期位まで蚕の卵は厚手で上質な紙に貼り付けた状態で販売されました。

 

 

 

 

 

Dsc_0528蚕種郵送容器 中央市豊富郷土資料館蔵

 

購入方法は飼育開始直前に各戸が業者に好みの品種と量を注文すると、このような卵(種)の貼りついた紙(種紙)が、筒状の専用容器に入り、輸送されてくるというものでした。

 

 

 

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この種紙が台帳を記した人物の家で注文したものかは定かではありませんが、山梨の人がわざわざ蚕種を取り寄せた富山県砺波市の「扶桑館」という蚕種製造業者は、少し調べると江戸時代から全国的に著名な「たねや」だったようです。

 

 

 

この種紙に年代は記載されていませんが、品種名が「交雑」となっているので、大正5年頃以降であり、種紙の形態から昭和初期にかけての資料と考えられます。

 

 

 

種紙の再利用はよく行われていたようで、ざらざらな面を生かして、機織りの緒巻(おまき)のはじめに巻き付けて滑らないようにしていた事例が福島県や群馬県ではよく見られます。

 

 

 

また、江戸時代末期にヨーロッパに輸出された種紙は、和紙という未知の素材に遭遇した西欧の人々に珍重され、大切な聖書を覆うブックカバーに使用されたりもしました。

 

 

 

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確かに、種紙を陽にかざすと毛蚕(けご)の抜け出た後の卵殻が光を反射して和紙の上でキラキラと金色に輝きます。じっくり見つめなおしてみると、意外と美しいものです。

 

 

 

物資不足の戦争末期に、野牛島地域の人々の暮らしを左右する重要な台帳の表紙とするため、大事にとっておいた種紙を取り出し用いたその人の複雑な心持ちを垣間見るようで、なんだか心が揺さぶられます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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