蚕糸業関連

2023年12月19日 (火)

故郷に届いた出稼ぎ工女の葉書②

こんにちは。
今日は、明治終わりから昭和時代にかけて、県外の製糸場で働いていた女性たちが故郷に送った葉書がまとまって見つかりましたので、ご紹介したいと思います。今諏訪にあるお宅の蔵に眠っていた古い書簡の束からピックアップしたものですが、70通以上もありました。
こちらのブログでは、過去に西野村の相川ふくのさんという女性が明治31年から39年の間に武州入間豊岡町にあった石川製糸所から送った葉書をご紹介しましたが、今回は、今諏訪村の手塚家に30名ほどの村出身の女工が明治から昭和時代に掛けて送った80通もの葉書等を新資料として加えて、考察してみよう思います。
   002img20211020_10434640_20231219165801 ←明治31~39年埼玉への出稼ぎ工女からの葉書(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市文化財課蔵)
   Dsc_0523←明治41~45年埼玉・長野・山梨(諏訪村:現在の北都留郡上野原町)への出稼ぎ工女から届いた葉書(今諏訪手塚正彦家資料・南アルプス市文化財課蔵)

Dsc_0525_20231219165301←大正4~15年長野の諏訪岡谷への出稼ぎ工女からの葉書(今諏訪手塚正彦家資料・南アルプス市文化財課蔵)
Dsc_0526 ←昭和2~13年長野・滋賀・甲府の工女から届いた葉書(今諏訪手塚正彦家資料・南アルプス市文化財課蔵)

現在、南アルプス市域で確認している出稼ぎ工女からの葉書は、すべて白根地区の西野と今諏訪で収蔵したものですが、およそ80通をリスト化してみると、出身の少女たちの出稼ぎ先の年代的な傾向やその他興味深い事実が見えてきました。

Sk0120231220_09011682 ←白根地区出稼ぎ工女からの葉書リスト(南アルプス市ふるさと○○博物館調査員作成)

 いままでに南アルプス市域で見つかった出稼ぎ工女からの葉書でもっとも古いものは、明治31年のものです。出稼ぎ先は武州入間郡(現埼玉県入間市)の石川製糸所。
まだ中央線などの鉄道が存在しなかった頃ですから、御勅使川扇状地に住むにしごおりの人達は、当然、武州入間まで自分の足で歩いていくしか無かったはずです。まずは、今諏訪の渡しで釜無川を渡り、荒川を渡り、甲府の街を抜けた後、秩父往還に入り、険しい雁坂峠を越えてやっと秩父の町に降りたら、交差する武州街道を右に折れて入間に向かったと考えられます。糸取りの出稼ぎに向かう少女たちはいったいどれくらいの日数をかけて入間の石川製糸所に至ったのでしょうか?明治初期より生糸の輸送路として使用されていた秩父往還ですが、途中の雁坂峠越えはさぞ大変だったことでしょう。
同じように明治後期から大正期にかけて日本の近代化を支えた糸取り工女たちを語るうえで象徴的な「あゝ野麦峠(昭和54年公開)」という有名な映画がありますが、その主人公のモデルであった政井みねさんは明治36年~42年に、飛騨高山から信州諏訪の製糸所に出稼ぎに行っていました。甲州西野村から武州入間の石川製糸所に出稼ぎした相川ふくのさんは明治31年~39年の間に行っていますから、だいたい同時代のこととなりますね。そして、信州諏訪で百円工女となった政井みねさんが病気になり、引取りに行った兄の背中で『ああ、飛騨が見える』とつぶやいて息を引き取った場所というのが、有名な野麦峠です。
もしかしたら、野麦峠と同じようなエピソードが雁坂峠でもあったかもしれません。舞台が違えば、兄に背負われた乙女が「あゝ、甲州が見える」と云ったこともあったかも知れない。いや、文言は「あゝ富士が見える」だったでしょうか?雁坂峠から見える富士は格別ですから。(もっとも、工場の近くの入間駅からも富士山は見えるらしいのですけどね・・・・)
 武州石川製糸所の系列工場の川越工場には、 明治43年まで働いていた手塚はまのさんからの葉書が故郷今諏訪に届いており、明治30年代から40年代初めまでは、南アルプス市域からの工女の出稼ぎ先は武州(埼玉県)方面が主流であったといえます。
 しかし、明治44年以降にはじめて信州諏訪へ行くものが見られると、その後、大正時代の出稼ぎ地は諏訪湖周辺の平野村や長地村といった現在の岡谷市方面一択となります。この傾向は、昭和初期まで続いていきます。
 これは、中央線が明治36年に甲府まで開通、明治39年に岡谷まで開通、明治44年に全線開通(新宿から長野県塩尻駅を経由して名古屋駅まで)する動向に付随するものと考えられます。葉書を送った女性たちの故郷である西野・今諏訪の最寄り駅となる龍王駅は明治36年に開業していますから、その後の埼玉方面への出稼ぎには、八王子までは中央線を使っての移動も可能になりました。そして、明治44年に中央線が全線開通すると、出稼ぎ先が一気に長野方面へシフトするわけです。
 
 山梨県は明治7年より県営の山梨勧業製糸場が操業し、全国的にも早い段階で大規模器械製糸工場が栄えていましたので、先進地であるがゆえに次々と日本各地に勃興する大規模器械製糸場に熟練工女が高待遇で引き抜かれていくという憂き目にあいました。これは中央線の開通によりさらに加速し、大正期に入ると山梨県内の女性労働者たちの多数が県外の製糸場で働くようになりました。そのため、慢性的な人手不足に陥った山梨の製糸業は地位を落としたといわれています。今回の分析結果からも、当地の製糸工女供給地としての様相が、多数の葉書の存在と年代別に見た仕事場の住所の変遷から見て取れます。
 また、分析資料の大半を占める上今諏訪手塚家資料の葉書の宛名は、大正時代までは手塚正森さん宛になっていることが多いのですが、文面に、製糸場までの見送りを感謝する内容が多かったことから、この人物が製糸場の工女集めに関与する役目を担っていた可能性があると考えています。

 昭和時代に入っても長野方面への出稼ぎは続きますが、昭和9年に滋賀県の鐘紡製糸場に行くものが現れたり、逆に地元の豊村の花輪製糸や甲府の製糸場に行っている人の葉書もありました。
以前に、南アルプス市内八田地区榎原での聴き取りで、大正11年生まれで岡谷に糸繰りに行ったという女性にお会いしたことがあります。たいへんなこともあったようですが、楽しく印象に残る経験も多くあったと話してくれました。2年間岡谷に行った後は、家に帰って家の仕事をしながら通いで市内鏡中條にあった山梨製糸で働いたということですから、そのようなことも多かったのかもしれません。以下に、聴き取り時のメモを参考資料として貼っておきます。
201712511 ←八田地区杉山ナツエさん 2017年12月5日撮影聴き取り
「岡谷に製糸場に行った時こと」
杉山ナツエ(なつゑ)大正11年生(聴き取り時:95歳 現在:101歳)
「十六・七歳(昭和13・14年)の頃、2年間岡谷の製糸場で働いた。龍王駅から電車に乗っていった。他にもたくさんの山梨の人が岡谷に行って女子寮に入って女工をしていた」→女工時代は楽しい思い出がいっぱいある。(ごはん・寝るところ・厳しい検番(工女の監視をする男の人でしゃべっていたりよそ見をしているとすぐに飛んできて怒る)
「男女交際禁止だったので、夜に仲間の誰かがもらったラブレターを皆で内緒で読んだ(学校に行っていなかったので、字が読めない人のラブレターを字の読める人が読んでやって、皆で聴いたり見たりして字や手紙の書き方、男の人との付き合い方等いろいろ学んだ)」
「製糸会社でも裁縫や勉強(習字)などを教えてくれた。」
「ふだんの休みの時には岡谷の街に映画を見に行ったり、買い物に行ったりした。帰る時間に遅れて門限を過ぎてしまうと、寮の門番に名前を書くように言われたので、いつもうそをついて女優の名前「スガヌマシズエ」を書いたりしていたがばれなかった。」
「お盆には休みはなく、お正月にしか休めなかったが、実家に帰る前には家族が喜ぶお土産をいっぱい買い込んで、満員電車に乗って中央線で龍王駅に降り立った。岡谷の製糸会社で働いている山梨の人は多かったので、会社の中でも同郷同士かたまって仲良くしていた。また、正月で帰る電車の中は、岡谷の他の会社で工女となっている人とも一緒になって、地元の知り合いだらけだったし、駅もごったがえしていた。」
「正月に実家に帰ると、両親がよく頑張ってくれたと言って新しい着物の反物をかっておいてくれた(あんまりうれしくなかったけど)」
「私は、優等工女でもなく、出来が悪いわけでもなく、いつも平均の成績で糸を取っていたので、新しい繭が入荷すると繭の質を見るために、どれくらいの糸目でとれるか試す役にされた。繭の品質で糸目はすごく違った。よい(解除率の良い)繭はすぐに糸口が見つかるが悪い繭はなかなか見つからずに無駄がいっぱい出てしまって糸目が少なくなった」
「お母さんもおばあさんも岡谷に糸を取りに行った」
「岡谷から帰ったあと、鏡中條の山梨製糸に行って25歳くらいまで働いた。家からの通いになったので、岡谷にいた時ほどの自由はなく通勤などちょっとたいへんになった。」

2022年11月28日 (月)

昭和14年の福引き一等商品は何?

 こんにちは。
 今日は昭和14年(1939)のお正月に配られた宣伝広告チラシをご紹介します。

002img20220705_15062833 ←「昭和14年倉庫町麻野屋呉服店引札」(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市文化財課所蔵):このチラシには電話番号が記載されているので 、白根地区で昭和3年4月11日から電話交換事務が開始されたことを勘案して、卯年の昭和14年のチラシと判断した。
 今回ご紹介する資料は、80年以上前に現在の南アルプス市飯野の倉庫町交差点の北にあった、麻野屋呉服店さんの配ったもので、主に旧正月の二日から五日までの四日間に開催する福引きについてのチラシです。

Photo_20221128161901 ←「昭和6年倉庫町大日本諸企業別明細図にある麻野屋呉服店の場所」(南アルプス市文化財課所蔵)
 昭和14年の旧正月は西暦だといつなのか調べてみますと、西暦の1939年2月19日が旧暦の元日でしたので、福引きが開催されたのは西暦でいうと、1939年の2月20日~23日までということになります。
 ちょうど来年の2023年も卯年ですからね。「84年前の福引きかぁ。おばあちゃんの生まれた年くらいだなぁ」などと、興味深く字面を読むと、景品の種目がなんとなんと、面白いこと!

002img20220705_15062833-2 ←「昭和14年倉庫町麻野屋呉服店旧正月福引き景品種目」
書き出してみますと、

昭和14年福引景品種目
 □一等  蚕籠 五十枚づつ   2本
 □二等  桑籠 一個づつ    30本
 □三等  ふくさ 一本づつ   100本
 □四等  商品券金二十銭   200本
 □五等  商品券金十五銭   300本
 □六等  商品券金十銭    残全部

以上の品々が福引きの商品なんですが・・・・・?

 皆さま、一等と二等の商品のビジュアルって、すぐ思い浮かびますか? 養蚕に必要な用具ですね。
それでは、古写真と収蔵品の画像からご確認くださいませ。

Img181 Img181-2 ←蚕籠と桑籠の古写真画像

M2574 ←収蔵庫にある蚕籠:蚕を飼育する平かご(南アルプス市文化財課蔵)

M4419 ←収蔵庫にある桑籠:摘んだ桑を入れるかご(南アルプス市文化財課蔵)

 山梨県では、明治7年に甲府錦町に県営の近代的な勧業製糸場が建設されて以降、明治12年頃には、甲府を中心に器械製糸工場が県下に80ヶ所以上続出し、蚕糸業への関心が高まりました。全国的にも蚕糸業は国の殖産興業政策の筆頭格でした。

 しかし、もともと江戸時代より煙草産業の盛んであった西郡(にしごおり)地域では、蚕に有毒であるニコチン成分を発する煙草と、蚕の食する桑葉の栽培が共存できないため、山梨県の中では蚕糸業への進出が後れていた感があります。旧南アルプス市域(にしごおり)で養蚕が本格的に盛んになるのは国の専売化によって当地の煙草産業が解体されていく明治37年以降です。

 福引きの行われた昭和14年当時のにしごおりでは30カ所以上の製糸場が操業しており、近隣の村々では最も養蚕が盛んに行われていた時期です。麻野屋呉服店のあった倉庫町周辺にも、甲西社・サスイチ斉藤製糸場・有限会社在家塚生糸利用販売・巨摩郡是製糸場(郡是製糸山梨製糸)などの大製糸場がありましたので、麻野屋呉服店さんの店前には、それらの製糸場に通う工女さんたちが行き交っていたことでしょう。

 昭和14年は第二次世界大戦が勃発する年ですが、まだまだ戦争の影響はそれほど無く、福引きで養蚕道具が当たったとすれば、大喜びで家族のみんなに褒められ、感謝されたのではないでしょうか?ですから、蚕籠(平かご)50枚も当たってしまっても、大丈夫だったのだと思います。しかし、この後昭和16年暮れになると、日本は太平洋戦争に突入し、最大の生糸輸出国であったアメリカを敵国としたので、蚕糸業及び養蚕は急激に縮小していってしまうのですけれど・・・・・。

002img20220705_15062833-3

 ところで、「かいこ」という温度にも湿度にも敏感で繊細な虫を育てる養蚕は、女の人の仕事という観念が江戸時代からありました。ですから、呉服店という女性が多く利用する店での景品という点でも、この引札の記載内容はたいへん興味深いものです。
 今回ご覧いただいた引札に書かれている福引き目玉景品は、昭和14年当時のにしごおりに住んでいた女性たちが、何を一番欲しがっていたのかを示す資料だと思います。 その憧れの商品が養蚕道具であったとは!!

 昭和40年代生まれの〇博調査員が福引き上位の商品として思い浮かぶのは、ハワイ旅行とか、テレビとか、自転車なんですが、平成時代半ば以降生まれの今の二十代くらいの人は何でしょうかね?そもそも福引きなんてしてないんでしょうか? 100年経つと、ホントにずいぶん、人の欲しがるものって変化しますね。

Dsc_0055_20221129091201 ←「麻野屋呉服店で販売された「横沢びな」」(上今井五味家資料・南アルプス市文化財課蔵)

2022年8月26日 (金)

昭和29 年と30 年の武川村萬休院舞鶴松と蚕雌雄鑑別のお嬢さん

こんにちは。
〇博で最近収蔵したアルバムデータを見ていて、「この写真、前にも見たことあるなぁ」と思うことがたまにあります。

12323 ←昭和29年6月9日 山梨蚕種協同組合武川村分場鑑別記念(今諏訪手塚正彦家資料より)

こちらの、たいそう立派で見事な松の前で撮影された集合写真も、以前に見たことのある写真とそっくりでしたので気になり、一昨年に収蔵した画像データを見返してみました。そうしましたら、やっぱり同じ場所で撮影した写真がでてきました。
3067 ←昭和30年6月7日 山梨蚕種協同組合武川村分場鑑別記念(個人蔵)

でも、撮影年や撮影方向がちょっと違うようですね。
2枚の写真ともに、「山梨県蚕種協同組合武川村分場鑑別記念」とあります。

 それではまず、撮影場所から。
 武川村(現北杜市)で、有名な松のあった場所をさがしてみますと、萬休院というお寺にかつて、舞鶴松と呼ばれた樹高9メートルの巨木があり、国の天然記念物に指定されていたそうです。なんでも、ツルが大きく羽を広げた姿に似ていたとかで、樹齢450年の赤松ということで昭和9年に記念物の指定を受けました。残念ながら松くい虫の被害で枯死してしまい、指定解除となり平成20年に伐採されてしまったようです。
 
 次に、山梨蚕種協同組合とは、昭和27年3月1日に山梨県蚕種協同組合と峡南蚕種協同組合が合併して一本化された「山梨県蚕種協同組合(山梨社)」のことです。現在南アルプス市内で、当時は飯野村だった倉庫町には山梨社の営業所がありました。
この組合は、八ヶ岳山麓にある武川村分場の他に、優良種繭を生産するために富士川沿岸の南部や富士山麓の高燥清涼地、遠く奄美諸島にも分場を設けて蚕種を生産していました。 

写真は、「鑑別記念」とありますので、組合がその年の蚕種採取用の蚕の雌雄鑑別作業が終了した記念に撮影したものではないかと考えています。


といいいますのも、昭和30年の方の写真をご提供くださった、昭和9年生まれの坂本さんが、「この写真を撮った時のことは覚えていないが、普段は増穂青柳にあった輝国館深澤製糸で糸をとる仕事をし、原材料の繭が入らなくて製糸場での仕事のない時には、山梨社の増穂支社から(職員として)、一週間くらい連日、山梨県内各地の養蚕農家へ、蚕種の雌雄鑑別作業に派遣された」と話してくれたからです。

Dsc_0960 ←蚕糸業に従事していた頃の聴き取り調査にご協力いただいた坂本さん(2020年11月12日撮影)

 効率的で品質のよい蚕種を採取するには、繭になる前の5齢の幼虫の段階でオスとメスを分ける必要があります。具体的な見分け方は、「蚕の幼虫をひっくり返して尻尾(尾脚)の付け根にある点(斑点の数の違い)でわかる」そうです。

オスを青いお盆に、メスを赤いお盆に分けたんですって!

002img20201126_10565176 ←昭和30年頃の坂本さん
 どの農家に行っても、「鑑別のお嬢さんたちが来てくれた」といって歓迎され、美味しい昼食やおやつをごちそうになったのだとか。

 また、「(組合が用意した)行き帰りのバスの中では、若い男性の養蚕教師も同乗していて、若い女子たちはちょっと胸キュン。みんなで当時流行り曲の替えうたを歌ったりして楽しかった!!」という思い出話を聞きました。

 雌雄鑑別に関連した面白い替え歌もあったそうですよ!そして、坂本さんは、「歌詞に『赤いカルトン、青いカルトン、小脇に抱えて今日もゆくゆく~♪ 』というのがあったのを思い出したわ」といって少し歌ってくださったのでした。(※カルトンとはフランス語で、上蔟等の時に蚕を乗せて運ぶお盆の事)

Photo_20220826105901 ←昭和30年頃 輝国館深澤製糸場の従業員で行った海水浴(個人蔵)

619 ←増穂町(現富士川町)にあった輝国館深澤製糸場の生糸商標(中央市豊富郷土資料館蔵)
 昭和20~30年代の昭和の蚕糸業全盛期には、製糸場や蚕種製造会社、養蚕関連組合等の職に就いていた、にしごおりの女性たちがたくさんいらしたと思います。蚕糸業が身近になくなったいま、断片的に思い出した事柄でもいいので、私たち(〇博調査員)に話してくれたらうれしいです。

2022年8月12日 (金)

関屋のさくらまつりのチラシ

 こんにちは。
 昭和40年代中頃に、関屋という場所でおこなわれた「さくらまつり」のチラシを今日はご紹介します。

13_20220812163801 ←関屋のさくらまつりのチラシ(昭和40年代)(南アルプス市文化財課蔵)

 「関屋」とは現在の倉庫町交差点の辺りの場所のことをいいます。この関屋を中心に、飯野・在家塚・沢登・桃園の4区が接し、ちょうどこの交差点の南北で、旧白根町と旧櫛形町と境をなします。それだけでなく、関屋は駿信往還と高尾街道が交わる地点でもあります。

 チラシでは、「さくらまつり」参加店の位置と店構えの様子がイラスト化されてわかりやすく、また、各店の紹介コメントも興味深いです。 

 たとえば、平成11年頃に廃業した斉藤製糸場の『今はオートメイションになっている。秋田から可愛い子チャンが働いている』とありますが、このチラシが配られたと思われる昭和40年代の製糸場の様相を的確に語っています。というのも、生糸の生産は昭和30年代半ば頃より自動繰糸機が全国に急速に普及しましたので、たくさんの工女が繰糸鍋の前に座って一斉に糸をとる光景はなくなっていました。そして、斉藤製糸場敷地内には女子寮も完備され、『秋田の可愛い子チャン』がたくさんこの地に働きに来ていたのは確かで、春繭が入る前の閑散期にあたるサクランボの収穫期には、近隣の農場に手伝いに出ていたという話もよく聞きます。さらに、彼女たちの中には結婚相手を見つけて現在、南アルプス市民としてこの地に根付いている方もいらっしゃるようですよ。

 それでは、このチラシに描かれているお店の場所が、いまどうなっているか見にいった時の画像を、昭和40年代当時のチラシに書かれているコメントとともに、お楽しみください。

2_20220812163801 ←法界さん(関屋の題目塔)『ごりやくあるよ 大きな石碑』(2020年10月2日撮影)
36735 ←寿しユニオン 『味で勝負、気ップ千両 一度たべたら忘れられない味』(2020年10月2日撮影)
36741 ←明治牛乳店 『シボりたての牛乳がいつでも安くのめる』(2020年10月2日撮影)
367313674-2 ←斉藤製糸場跡 『今はオートメイションになっている。秋田から可愛い子チャンが働いてる』(2020年10月2日撮影)
Photo_20220812163801 ←旅館南角や 『100年の歴史を持つ旅館。家族的なサービスで東京、大阪の営業マンが多い』(2020年10月2日撮影)
36754 ←中込時計店 『時計・貴金属・メガネ サービス最高。ご主人がサービス良い』(2020年10月2日撮影)

 今から50年ほど前のチラシですが、当時の関屋商店街の様子がわかるとてもよい資料です。

このチラシも雛人形の箱に梱包材として入っていたものです。見つけた時には、やっぱり、「やったー、ラッキー」と、はしゃいでしまった〇博調査員です。

2021年10月28日 (木)

戸田の蚕神さま他

 朝晩寒くなってきた南アルプス市から、こんにちは。
 〇博調査員の家では、昨晩、十日夜(とおかんや)を待つことができずに、今秋初めてストーブ点火しました。
甲西地区戸田近辺を踏査した昨日は、風もなく、青空の広がる気持ちの良い秋晴れだったので、夜は放射冷却現象というやつでしょうか?ぐっと気温が下がりました。


 さて今回は、踏査中の戸田で出会った石造りの蚕神さまをご紹介します。


366 こちらは、南アルプス市甲西地区戸田にあります神明社です。

同じ敷地の中に御崎稲荷神社もありました。その他、道祖神他様々な石造物が祀られています。場所は、市川往還が滝沢川にかかる戸田橋に至る手前を、北方向に少し入ったところです。
366_20211028160101  まずは敷地西にある戸田神明社にご挨拶してから、敷地内に踏み入らせていただくと、神明社の東隣に御崎稲荷社があり、さらにその東隣に高さ70センチほどの女人像が、道祖神さんらと並んで立っていました。

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366_20211028160201  頭にお馬さんの顔が無いので、〇博調査員は「馬頭観音さんではないのねぇ~」と呟きながらもう少し近づいて観察すると、手に「桑の葉」を持っていらしたので、すぐに蚕の神様だとわかりました。

そうすると、頭の上の筒の様なものは、「巻絹(まきぎぬ)」だと思います。


 さっそく仕事場に戻って『中巨摩の石造文化財 平成7年発行』を調べましたら、「戸田の蚕神」として載っていました。 

が!しかし、その解説文中に『馬頭観音らしい』との記述が・・・・・?!。

←「戸田の蚕神様」(頭に巻絹を載せ、桑の葉を抱えている)戸田神明社敷地内

 もともと蚕と馬は、中国伝来の「馬娘婚姻譚」という伝説によって深い結びつきがあるので、いつからか、地域住民にとって、両方の願いを込めた信仰対象になっていったのかもしれませんね。

江戸時代は、すぐそばを、市川大門の代官所に行くためにたくさんの往来のあった、市川往還が通っていましたからね。


Dsc_0775  ←櫛形地区上宮地風新居公会堂内で祀られている、たいへん美しい蚕影大神さま立像

 南アルプス市市域では甲西地区戸田のほかに、櫛形地区上宮地風新居公会堂内で、大変うつくしい蚕影大神立像と、如意輪観音を蚕神として描いた掛軸が祀られています。
 しかし、山梨県の蚕の神様は「蚕神」とか「蠶影山(神)」などの文字を石に刻んであるものがほとんどですから、偶像化されているのは県内では大変珍しいです。そのため、西郡(南アルプス市内)で3例目も確認できたことは興味深いことです。


Photo_20211028160101 3_20211028160101 ←駿信往還東の路地にある下宮地の蠶影神(山梨でよくあるタイプ)

 櫛形地区上宮地風新居の蚕の神様は、また改めて記事にしたいと考えていますが、昨年からの疫病流行で残念ながら取材が進んでいません。来春の公開日には是非またお会いして、蚕影大神様の山梨県随一のお美しいお姿を皆様にお伝えできたらと思っている〇博調査員です。

2021年10月20日 (水)

明治31年10月、武州石川組製糸女工福乃が故郷西野に送った葉書

 急に寒くなってきましたね。
棚の上のブドウの葉が紅く色づきはじめた南アルプス市から、こんにちは。

002img20211020_10434640  きょうは、今から120年以上も前のいま頃、明治31年10月23日に、埼玉県の製糸場に出稼ぎに行っていた女性が、故郷の西野村に書き送った葉書をご紹介します。

←「明治31年から39年記武州石川組製糸場女工より葉書表(西野功刀幹弘家資料より南アルプス市文化財課所蔵)
  
 明治31年ころは、生糸のアメリカ向けの輸出増大で、日本中に大規模製糸場が次々と建設されていた時代です。


 山梨県は、明治7年に県営勧業製糸場が創業(富岡製糸場は明治5年創業)したことで、蚕糸業萌芽期の先進地の一つとして、明治20年代には甲府の製糸家が全国的に台頭するほどまでになっていました。
そのため、地元で器械繰糸技術を習得した山梨県内の女工たちが、次々と県外に新しく建設される製糸場から引き抜かれ、出稼ぎに行きました。


002img20211020_10421226  明治30年以降は長野県の諏訪湖畔地域の製糸家が急成長するので、山梨から長野県への出稼ぎも増えてきた頃です。

さらに、明治36年には中央線が甲府まで開通、明治38年には岡谷まで開通したことにより、山梨県の製糸工女の流失がさらに加速して、甲州出身の女性たちが日本各地の製糸場で活躍しました。


 ←「明治31年から39年記武州石川組製糸場女工より葉書裏(西野功刀幹弘家資料より南アルプス市文化財課所蔵)


 さて、今回ご覧いただく葉書を書いたのは、相川福乃さんという女性です。現南アルプス市白根地区西野から、現埼玉県入間市にあった石川組製糸に出稼ぎに行っていたようです。

文化財課が所蔵している相川ふくのさんが石川組製糸から贈った葉書は、明治31年のものが2枚、明治39年2枚の併せて4枚があります。ですから、甲州中巨摩郡西野村出身の相川福乃さんは、中央線が開通する前から、武州入間郡豊岡町にあった石川組製糸に行ったわけです。当時の福乃さんが10歳代後半から20歳代の女性だったと考えると、彼女が感じた故郷からの距離はかなり遠く、ホームシックになったり仕事で辛いことがあっても容易に帰ることはできないという覚悟が必要だったと想像できます。

Photo_20211020111701 39
 

 

 

  石川組製糸は明治26年に武州入間で創業し、

昭和12年の終業までに日本全国に10カ所の製糸工場をもつ大会社になりました。

 

 

 

現入間市の発行する石川組製糸の資料を読むと、

相川福乃さんは、その石川組製糸がはじめて器械製糸場として豊岡町に建設した本店(第一)工場で、

明治31年8月から39年8月の少なくとも足かけ8年間は働きに行っていたと考えてよいと思います。 

 

 

 

 

 

 

それでは、4枚のはがきの内の1枚、明治31年10月23日に福乃さんが書いた葉書の内容を少し見せてもらいましょう。


M311024 ←「明治31年10月23日記武州石川組製糸場女工より葉書表(西野功刀幹弘家資料より南アルプス市文化財課所蔵)
  「山梨県中巨摩郡西野村 功刀七右衛門様 
  武州入間郡豊岡町 石川製糸場内 相川福乃拝
  十月廿三日』

M311023

 

←「明治31年10月23日記武州石川組製糸場女工より葉書裏(西野功刀幹弘家資料より南アルプス市文化財課所蔵)

 とても簡単に内容を言うと、「冬用の着物と薬を大至急送ってくださ~い」ということのようで、10月下旬の急な冷え込みに耐えかねたのでしょうか。はやく実家に知らせて武州に送らせてくださいと隣家の功刀家に頼んでいます。その他、「リュウマチの良い薬があれば」と書いてありますので、寒くなって手足に痛みを感じ、製糸場での仕事を辛く感じていたのかもしれませんね。

入間市博物館のHP「いるま歴史ガイド」 を読むと、石川組製糸場本店工場の繰糸女工の出身者は山梨出身の者が多く、『工場では甲州弁を話さなくては通用しませんでした』とあります。また、石川組製糸は、甲府に女工や繭を集めるための出張所を置いていました。福乃さんの他にもたくさんの甲州の女工たち集められ、故郷を遠く離れた石川組製糸の運営する各製糸工場に出稼ぎに行っていたのですね。

 山梨県では、明治36年の中央線開通以降、県外製糸募集員によって山梨県内製糸場いたるところで優秀女工争奪戦が展開されるようになり、明治20年代迄全国的にその生産量と質でリードしていた山梨県の蚕糸業は、明治30年代以降には慢性的女工不足に陥り、長野や埼玉、群馬県に本拠地を置く製糸家たちに水をあけられていくのです。少し時代は後ですが大正9年の記録では、4602人もの甲州の女性たちが埼玉県へ出稼ぎに行っています(山梨県蚕糸業概史より)。
 ときは、日露戦争に向けての富国強兵政策の真っただ中、日本は「生糸を輸出して軍艦を買って」いました。相川福乃さんをはじめ、日本各地に出稼ぎした甲州出身女工たちの働きは、故郷の親元に送るお金で山梨の経済を潤しただけでなく、生糸輸出による外貨獲得によって日本経済も支えていたといってよいでしょう。

 〇博調査員は、武州入間の石川組製糸場跡をいつか見に行きたいなと思っています。なんと、西野村出身の福乃さんが働いていた本店工場の隣にあった、石川組製糸の迎賓館である「旧石川組製糸西洋館」が現在も遺され、公開されているようなのです。
 福乃さんが女工としてどんな生活をしていたのか、現地に行っていろいろと知りたくなりました。まだ東京から甲府まで鉄道が開通していない明治31年に、福乃さんはどのようなルートで何日かかって武州入間に移動したのでしょうか? これからも少しずつ調べていきたいと思っています。

2021年10月 5日 (火)

西野の蚕種屋「甲蠶館」で使用された検尺器と顕微鏡

 こんにちは。
先日、〇博調査員のもとに、白根地区西野でかつて種屋とよばれた蚕種家で使用されていたという道具が持ち込まれました。 みたところ、検尺器と顕微鏡であると判りましたが、お預かりしてもう少し詳しく調べることにしました。

 その前に、この道具を使用した蚕種家についてですが、山梨県蚕糸業概史に記載されている大正14年蚕種製造業者調べによると、山梨県には大正14年に370の蚕種製造業者があり、そのうち現南アルプス市域が含まれる中巨摩郡には23の業者があったようです。さらに、当時の主な製造業者の内、現南アルプス市域の町村のものを調べ出すと、6名の名前がありました。

「大正14年に現南アルプス市域の主な蚕種家(山梨県蚕糸業概史・昭和34年刊より)
 三恵村寺部(若草地区):塚原水次郎
 鏡中條村(若草地区):名取保吉
 豊村(櫛形地区):河野豊佐
 豊村(櫛形地区):斉藤応武
 西野村(白根地区):長谷部長七
 御影村(八田地区):清水元治郎

このなかに、西野村長谷部長七の名があります。〇博調査員に検尺器と顕微鏡を託してくださった白根地区にお住いの郷土史家小野氏からの情報からも、これらの道具を使用していたのは、白根地区西野の長谷部家であることを知らされています。
大正時代の西野には、長谷部長七さんという、山梨県下で著名な蚕種家がいたのですね。

 このほか、前出の山梨県蚕糸業概史には、昭和3年調べの大規模蚕種業者名も記されていますが、残念ながらこの中に西野村の長谷部長七氏の名はありませんので、おそらく明治20年代から大正時代を中心に活躍した蚕種家だったと考えられます。 

「昭和3年に一万から三万枚を製造していた大規模蚕種業者(山梨県蚕糸業概史・昭和34年刊より)
三恵村寺部:塚原水次郎
豊村:河野豊佐
五明村 塩沢薫太郎

もっとも、地域の蚕種業者が活躍できたのは昭和初期までのようです。『昭和11年頃には蚕種の自家製造と配給を随伴した他県大資本製糸会社(郡是・鐘紡・片倉・東英語・昭栄)の特約取引の進出により(山梨県内の蚕種業者は)古くからの得意先を奪われ壊滅的に』なったとのことで、ちょうどこの頃に、西郡で最も大規模で有名な蚕種家であった、三恵村の塚原水次郎も休業したもようです(昭和5年生まれの若草地区寺部在住者からの聴き取り等による).


 Dsc_0274_20211005161001 Dsc_0277_20211005162201 それでは、まず蚕種家、長谷部家の検尺器から見ていただきましょう。
 一般的に検尺器は、製糸会社が使用する場合は生糸の繊度(太さ)を測定するため用いることが多い(450mの生糸が0.05グラムの時、糸の太さが1デニールという単位となる)のですが、蚕種業者が使用する場合は、繭質についての検査に使用するわけですから、主に、繭糸長(1粒の繭から得られる繭糸の長さ)をや生糸量歩(一定量の繭を繰糸して得られる生糸量の歩合)を検尺器を使用して調べていたと考えられます。
 検尺器の枠は一周で112.5㎝と決まっており、100回、200回と回転計によってベルが鳴り、停止させることができるようになっています。
Dsc_0276 ←こちらの検尺器には、製造した日本蚕業株式会社の社名プレートが付けられています。


つづいては、顕微鏡が2点あります。
 蚕病にかかっていない蚕種を製造販売するために、顕微鏡は蚕種製造者にとって必需品でした。江戸時代にヨーロッパの蚕糸業に壊滅的な打撃を与えていた蚕の病気(微粒子病)が、明治以降の開国で、日本国内にも脅威が拡がっていたからです。

イタリアでは、明治14年ごろには、卵を産んだ母蛾の感染を顕微鏡で発見することで、微粒子病を予防することに成功しており、日本では明治19年に蚕種検査規則が公布されました。
山梨県でも明治20年には体制が整い(山梨県蚕糸業概史より)、『蚕種製造業者は必ず、産卵した雌蛾について経卵伝染する微粒子病胞子の存在有無を顕微鏡検査し、合格した無毒の蚕種のみを市販する(「日本の養蚕技術」井上元2007年 繊維と工業Vol.63,No.8 )』ようになりました。

しかし、明治20年頃から蚕種屋で必要になった顕微鏡も、国産のものがまだ開発されておらず、高価な輸入品を手に入れるしかなかったようです。

 さらに、明治44年になると「蚕糸業法」という法律が制定され、蚕糸業者には母蛾検査が明確に義務付けられ、日本国内におけるの微粒子病対策が徹底されるようになった流れがあります。

Dsc_0281 Dsc_0290 Dsc_0279  まずこちらの顕微鏡ですが、明治時代のドイツのErnst Leitz(エルンスト・ライツ)社製のもので、箱裏に書かれていた墨書から明治43年に購入したものだと判りました。「蚕糸業法」の制定された前年に購入していますね。

ちなみに、Ernst Leitz社は、あのカメラで有名な、ドイツのライカ社の前身の社名であり、顕微鏡メーカーです。もともとは、「Ernst Leitz(エルンスト・ライツ)社の製造したカメラ」という意味で、「ライツのカメラ」=「ライカ」となり、カメラ部門が分かれて社名になったようですよ。

 


 顕微鏡の箱の中には、一緒にカードも入っていましたが、ここに「Wetzlar」という文字もあったので、辞書で調べると、ドイツの地名で、どうやら、Ernst Leitz(エルンスト・ライツ)社の創業地のようです。

 

Dsc_0286  日本では、高千穂製作所(のちのオリンパス)が大正9年に完成させるまで、顕微鏡はドイツのツァイス社かエルンスト・ライツ社等の輸入品を購入するしかありませんでした。

顕微鏡を販売する代理店なようなものが甲府にもあったのでしょうね?今度、「山梨蚕桑時報」のような古い蚕糸業界雑誌にのっている広告覧を調べてみたいと思います。若尾銀行の隣にあった大きな蚕具屋さん(丸亀商店)で取り扱っていたかもしれません・・・。


 少なくとも、この顕微鏡の存在から、西野村にあった長谷部長七が経営する蚕種製造販売会社は、明治時代から(43年には)営業していたことがわかりました。そして、微粒子病をもった種を販売しないために、この顕微鏡で母蛾の検査を行っていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Dsc_0299_20211005162701  こちらのものは、大正時代の日本のオリンパス製の解剖顕微鏡です。

Dsc_0301_20211005162701 箱裏の墨書から大正10年9月に購入されたものであることがわかります。

Dsc_0300_20211005162701 高千穂製作所は大正10年よりオリンパスの商標になりますので、この顕微鏡にもその刻印が見えます。

こちらの解剖顕微鏡では、微粒子病の検査ではなく、蚕の卵やふ化直後の様子、その他蚕体器官の観察を主に行っていたのではないかと〇博調査員は考えています。蚕種屋では、卵の成熟具合を観察したり、蚕が成虫になる前に幼虫の段階で現れる斑紋を鑑別して雄雌を分けておくこともします。微粒子病の病原体を探し出す目的以外にも顕微鏡はよく利用されたのではないかと思っています。

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 箱裏の墨書には購入年以外にも情報が書かれていたので読んでみますと、『大正十年九月
胚子調査器求之 甲蠶館』とあります。西野の長谷部長七経営の蚕種製造販売社の名は「甲蠶館」と称していたことが判りました。

 西郡(にしごおり)では、明治38年頃から煙草産業が衰退し、蚕糸業へと産業が移っていきますので、「甲蠶館」は、この時期から昭和10年頃にかけて活躍した蚕種家であったと言えると思います。

こののち昭和40年代まで西郡蚕糸業は栄えました。その萌芽期を支えた、蚕種家長谷部長七氏の道具を見出すことができ、たいへんうれしい〇博調査員です。

2021年9月10日 (金)

西野村と山繭

こんにちは。
現在、〇博調査員は、山梨県に適用中の「まん延防止等重点措置」に従い、フィールドワークは行わず、ひたすら文書資料の整理作業に没頭しています。
作業中の資料群は、南アルプス市白根地区西野のさる旧家からご寄贈いただいた古文書群で、近世から現代にいたる千点以上に及ぶ文書を見ていくうちに、〇博的に様々な論点が浮かび上がり、まん防措置下であってもそれなりに有意義な調査を行っています。
さて、今日は、それらの文書資料の中から、いままで注目されてこなかった明治初期の原七郷の産業の一つを知ることができた文書の存在をご報告します。
その産業とは、現在も生産量が少なく最高級織物の原料として「繊維のダイヤモンド」と称されている山繭の生産です!
 山繭とは、ヤママユガのつくった鮮やかな緑色の繭のことで、緑色の美しい糸をとることができます。ヤママユガは、人為的に生み出され、桑の葉を食べるカイコとは別の種で、幼虫はブナ科のクヌギやナラの木の葉っぱを食べて育ちます。現在も天蚕(てんさん)と呼ばれ、カイコとは別の飼育方法と技術が日本各地で受け継がれているんですよ。天蚕は昨秋に産み付けたヤママユガの卵を、手入れしたクヌギ林内の枝に孵化前に分散して付け(「山付け」という)、幼虫や繭を食べにくる外敵から人間が保護して守り育てます。

 ではまず、明治8年5月12日に西野村の山蚕飼養人8人が山梨県令藤村紫朗宛に出願した文書をご覧ください。この文書を読むと山蚕(=天蚕)を飼養したクヌギ林の広さと山付け(掃立て)した卵の量、飼養時期や期間などが判ります。
 では、読んでみましょうか。
1_20210910163001 ←「山蚕飼養ニ付小鳥威発砲願」明治8年 南アルプス市所蔵西野功刀幹浩文書

 

「山蚕飼養ニ付小鳥威発砲願」
御書付ヲ奉願上候
   巨摩郡第廿六区
    西野村山蚕飼養人
    農
    中込善右衛門
      外七人
森林分内
一 林反別六町壱反四分
   此掃立種子壱斗三升五合

         右林受威銃持主 
一 玉目三匁      芦澤重左エ門

          猟師休業銃持主
一 玉目二匁壱分    手塚和重郎

          千七百三拾二番休業銃持主
一 玉目二匁      笹本用蔵

 

Photo_20210910163001

前書之場所江山蚕飼養仕候
ニ付 蚕発生日ヨリ来ル七月廿五日迄
日数七十四日之間小鳥威として前
書之人員相雇ヒ空発砲致度
候間何卒御聞届ケ被下置(度)候 此
段奉願上候以上

 明治八年第五月十二日 右飼養人 
                   中込善左衛門
                   笹本用蔵
                   笹本三四郎
                   功刀七右衛門
                   功刀太郎右衛門
                   功刀彦蔵
                   手塚和重郎
                   手塚松右衛門

 

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前書之通出願ニ付奥印仕候以上

明治八年第五月十二日  右戸長 長谷部守本

書面聞届乃事
    明治八年五月十二日

山梨県令  藤村紫朗殿

 

 内容は、「西野村の山蚕(ヤママユガ)飼養人中込善右衛門他7人は、村内の約6ヘクタールの林に20㎏(2万個位かな?)ほどの山蚕の種子(卵)を付けて飼育しますので、孵化してから7月25日までの74日間、山蚕の天敵となる小鳥を威す目的で三人の鉄砲撃ちを雇って空へ発砲いたしたくお聞き届けください」というような感じでしょうか。
 飼養期間を74日間と明記しているところからみて、当時の西野村では山蚕の飼養技術がある程度確立したものであったことが判りますし、8家以上の農家が共同で組織的にクヌギ林を管理していた可能性も考えらると思います。もしかしたら、西野村の山蚕飼養は江戸時代から行われていたものかもしれませんね。
 それから、文中の「玉目三匁」というのは、使用する弾丸の一個の重さが3匁ということで、火縄銃の口径の大きさを表現しているのだそうです。

 それにしても、山蚕を守るために、人を雇って火縄銃による威嚇を行ったというのは驚きです。ヤママユガ(山蚕)に加害するものとしては、カラスなどを含む小鳥の他に、アリ、スズメバチ、ハエ、カエル、カマキリ、ネズミ、サルがありますが、それらの外敵を追い払うために銃を発砲するとは、他の農作物に比べても、厳重すぎる警戒行動のように感じます。当時の西野村で山繭生産がどれほどの経済的影響力を持つものだったかは不明ですので、江戸~明治初期の山繭生産はどれほど利益のあるものだったのか?今後の探求課題の一つとなりました。


 山繭生産に関する文書としては、上記の「山蚕飼養ニ付小鳥威発砲願」の前年の明治7年に記された「山繭窃盗に付申渡」という文書もありますのでご覧ください。

B00641 ←「山繭窃盗に付申渡」明治7年 南アルプス市所蔵西野功刀幹弘家文書
「山繭窃盗ニ付申渡」
甲戌九月九日
     申渡
       巨摩郡西野村農
        半左エ門養子
            ●●杉作

 其事儀金丸平甫外六人飼置ク
 山繭可盗取ト椚林へ立入り未タ取り
 得スト雖モ右科窃盗律ニ依り
 懲役四十日申付ル
        右村 戸長
右之通申渡付 □□□□人


 どうやら、明治7年に、西野村の椚林で生産していた山繭を盗み取ろうとした者がいて罰せられたようですね。この文書には、盗まれそうになった山繭を生産していたのは金丸平甫ほか6人とあります。金丸平甫さんは、後に「全進社」という動力水車による236釜の繰糸場を今諏訪村に完成させたり(明治21年の調べ「山梨県蚕糸業概史」)り、今諏訪村名主や戸長を歴任した人物です。ちなみに今諏訪村は西野村の東隣に接する村です。
 この文書からは、明治7年当時に、西野村に点在するクヌギ林を利用して山繭生産を行う人が隣村の住人にも存在したということと、山繭を生産するには、小鳥などの動物だけでなく、人間の窃盗行為にも気を配らなければならなかったことを教えてもらいました。
この場合は、窃盗未遂であったにもかかわらず、懲役40日を科されています。少し重すぎるような気もしますがどうでしょうか?(もっとも明治7年当時に村戸長が申し渡す懲役がどのようなものであったかを調べないと判らないですが・・・)いずれにしろ、山繭の窃盗行為が、村の利益を脅かすほどの許されない行為なのだと、当時の西野村や今諏訪村の人々が認識していた結果だと思います。
 もしかすると、翌年の明治8年の山繭飼育期間に行われた銃での発砲威しの対象は、表向きは小鳥ですが、真の相手は案外、泥棒(人間)だったのかもしれませんね。

只今資料分析中の「西野功刀幹浩家文書」からは、、西野村の近世から昭和にかけての産業構造の変化を追う分析ができそうです。「米の作れない原七郷では、木綿→煙草→養蚕→果樹と商品作物を変化させてきた」というような従来の大まかな認識の合間に、その他のいろいろな作物や産業を試していた先人たちの行動がもう少し付け加えられるのではないかという期待があります。山繭生産に関しては、近世からの綿と煙草栽培と並行して行われていた可能性が高まりました。今後さらに分析を深めたいと思います。まずは西野村の山繭生産に関しての文書発見のご報告と雑感まで。

2020年7月22日 (水)

豊村には乾繭場があった

こんにちは。
Dsc_4171  南アルプス市櫛形地区吉田には、昭和40年代まで操業していた乾繭場(かんけんじょう)として一時期使用したの倉庫建物が現存しています。

→2018年11月27日撮影 豊第2農業倉庫 (文化財課職員H氏によると、この倉庫内に残されていた棟札から昭和4年築と判るそうです。この建物は、もうすでに90歳を超えているのですね)
 乾繭場とは、養蚕農家から集めた生繭を熱風で乾燥させ、中のさなぎが羽化して出てくる前に刹蛹(さつよう)し、さらに水分を除去することでカビが生えたりするのを防ぎ、長期間の保存に耐えるよう処理をする工場のことです。


002img20200622_11283036  豊乾繭農協(豊乾繭場)は、山梨市にあった乾繭施設を昭和32年5月に198万円譲りうけて豊農協構内に設立されたものでした。「田端式」という乾燥機が一機配備されていたと櫛形町誌に記されています。

→「豊乾繭農協」櫛形町誌(昭和41年刊)より  現在残されていない建物




 乾繭場は製糸工場内に設けられる場合もありますが、こちらの豊乾繭場は、特定の製糸場の専用の施設というものはなく、豊乾繭組合(農協)が、この乾繭場で周辺農家から集めた繭を乾燥して倉庫に貯蔵し、近隣に多数あった製糸工場に供給していたようです。

Dsc_0481

 

 

 

 →2019年1月27日撮影 豊乾繭場倉庫跡(建設された昭和4年からこの倉庫は「豊第二農業倉庫」といわれていたそうです。もともとあった建物を改装して、昭和32年に乾繭繭の倉庫として整備したのかもしれません。)


2_20200722150401 Photo_20200722150401  山梨蚕糸業概史に載っている昭和33年調べ製糸場一覧をみると、現在の南アルプス市域に当時存在した製糸工場はなんと19カ所もありました。

→「豊乾繭場内部」豊村誌(昭和35年刊)

しかもより 周辺は昭和40年代まで大養蚕地帯でもあったので、それら蚕糸業の中心地たる櫛形地区豊に製糸場と養蚕農家をつなぐための、組合組織の乾繭場があって不思議はありません。

逆にこの頃には、この乾繭施設を手放した山梨市(東郡地域)での蚕糸業はすでに漸次衰退していたということを示すのでしょう。

→「乾繭場全影」豊村誌(昭和35年刊)より


 
 3993  →豊乾繭場跡に残されていた和紙製繭袋

さて、こちらは、豊乾繭場で乾燥した繭を入れていた袋です。文化財課が所蔵しています。
この袋は木綿ではなく、丈夫で吸湿性のある厚手の和紙を貼り合わせたもので、その大きさはだいたい84㎝×150㎝です。口紐はついていないタイプです。
 3993-3 乾燥させた繭は生繭のおよそ半分の重さになるので、軽くなったぶん、一袋にたくさんの量を入れることができます。そのため、生繭を入れて運搬する木綿の繭袋(油単ゆたん)よりも、乾繭貯蔵用袋は大きいものになります。


 以前に、石和で蚕糸包装資材一式を製造販売していた宮方商店の関係者に、製造していた繭袋についてお聞きしたことがあるのですが、「和紙製の繭袋は特注品の厚手の紙を仕入れ、職人が手でよく揉んで柔らかくしてから糊で貼り合わせて作っていた。木綿袋よりも高級品で、乾繭貯蔵用袋としての注文が多かった」と聞いています。


 ←この和紙製繭袋には、「豊乾繭組合」の上に「〇マルに木」の屋号がプリントされています。屋号は取引した製糸場のものでしょうか?今後調査を進めたいと思います。


 〇博調査員は、2018年に、豊乾繭場倉庫跡の道を挟んだすぐ目の前にある豊小学校の子供たちと一緒に、倉庫跡を見学させていただいたことがあります。

内部はすでに空っぽで、田端式乾燥機の跡形もありませんでしたが、2階部分に上がると、床の所どころに四角い穴が開けられていて、想像力を掻き立てられました。その際、子供達には、岡谷蚕糸博物館さんの発行した冊子の中の乾繭場内部の古写真等を見てもらい、「こんな感じにたくさん繭が積み上げられていたり、ベルトコンベアーがあったのかなぁ?」などと一緒に話したのを憶えています。

Dsc_0482_20200722150301

 

 

→2018年11月27日撮影 昭和レトロな建物を維持しているJA南アルプス豊支所の敷地に豊乾繭場倉庫跡の建物が立っています。


 2018年当時のJA南アルプス市豊支所の方にうかがった記憶では、特に利用されていない様子でしたが、いまも存在感を放って立つ豊乾繭場倉庫跡建物の存在そのものが、いかにこの地に蚕糸業が発達していたかを、私たちにしずかに語ってくれています。

 

2020年6月30日 (火)

養蚕の錦絵を愉しむ

こんにちは。
 昨日までの大雨から一転、今日は梅雨の晴れ間。ジリジリ照り付ける太陽の光の強さに、「そうだ、6月下旬からは夏蚕(なつご)の季節であった!」ということを思い出しました。
 収蔵資料の中には、養蚕に関する資料がもちろんたくさんあるのですが、今日はその中から、うっとうしい梅雨の気分を払って晴れやかな気持ちにさせてくれる、パッと色鮮やかな養蚕の錦絵をご紹介します。


002img20200623_13155284←「養蚕図絵第三 にわの休 : 梅堂国政筆 」飯野新田石原家資料より


 女性たちが家の中で飼っているカイコに桑の葉を与えている場面ですね。外には蚕の守り神でもある馬が、桑の葉を背に付けて運んで来ました。


  題名にある「にわ(庭)の休」とは、金色姫伝説に起因する江戸時代における蚕の飼育期を指す言葉で、蚕が繭を作るまでに4回脱皮するうちの、4回目の脱皮前休眠状態期(四眠)のことを示していると思われます。

※蚕は、卵からふ化してから繭を作るまで、4回の脱皮を繰り返して成長します。脱皮ごとに成長期は1齢・2齢・3齢・4齢・5齢の区分で表記しますが、伝統的に養蚕地帯では、1齢を「獅子」→2齢を「鷹(竹)」→3齢を「船」→4齢を「庭」と表現していました。
 これは、先人たちが養蚕守護のために信仰していた茨城県つくば市に本社とする蚕影神社の縁起にある「金色姫(こんじきひめ)伝説」に由来します。
 ざっくりとこの伝説のあらすじを言うと、「継母に疎まれて4度も命を狙われるも、その度に救出された金色姫は、最終的に蚕に生まれ変わり養蚕をもたらした」というものです。
 その中に、「姫は継母に、一度目は獅子などの猛獣がいる山に捨てられ、2度目は鷹などの怖い鳥がいる山かもしくは竹藪に置き去りに、3度目は船に閉じ込められて海に流され、4度目は庭に埋められるのですが、その度に助け出されて生き返る」という文脈があり、この姫の受難は、「死んだようにしばらく眠った後に起きて脱皮することを4回繰り返す、蚕の生育過程」を示しているとされています。

 ↑右端の女性が持つ平かごのカイコが、ちょうど「庭の休み=四眠」なのでしょうか? 
刻んでいない桑の葉をかごに入れて立つ女性が、「もうそろそろ起きたかい?」と声を掛けたのに答えて、かごを持ってカイコの状態を見た右端の女性が「いや、全部起きてないから、桑付けは、まだおあづけだねぇ~」と答えているような気がします。

この錦絵には、「金色姫伝説」と並んで、日本における有名なもう一つの養蚕起源説である「馬娘婚姻譚(捜神記)」に由来する「馬」が登場しているところも興味深いです。馬は養蚕と関係の深い動物として、養蚕具に意匠として施されたり、養蚕繁盛の信仰対象になったりもしました。養蚕の文化は奥深いです。

次の錦絵もご覧ください。
002img20200623_13232575 ←「蚕養草:国利」飯野新田石原家資料より

この絵の蚕はかなり大きく太っていますので、たぶん、繭を作る直前の5齢期だと思います。

枝をかごに入れているところを見ると、そろそろ糸を吐き始めるころなのでしょう。

養蚕はこの時期が一番忙しいので、子を背負った母の表情にもその余裕のなさが出ている気がします。また、母の気持ちを少しでも自分に手繰り寄せようとする、子のけなげな手の表現にも惹きつけられます。


 題名左の文には、
『かいこおおねむり
 おきしてのちは
 くわの葉をくるる
 ことおおくして猶
 なたねのしべなどを
 入てすをつくる也』
と書いてあると思います。

すなわち、先に1枚目でご紹介した「にわの休み」後の、「五齢」以降の蚕の飼育要領を示した文言だといえます。

「蚕が大眠り(四眠・にわの休み)から起きた後は、桑の葉を多く与えて、その後は菜種の実を採った後の枝や藁の穂の芯などを入れると、す(繭)をつくる」という意味でしょう。

 

では続いて3枚目の錦絵もご覧くださいませ。
 002img20200623_13113006 ←「養蚕図絵 第五 あがりの図 : 梅堂国政」飯野新田石原家資料より


 この絵は、粗朶(そだ)につくらせた繭を吊るしてかけて置き、十日ほど経ったところで収穫している場面です。

乾燥中の繭はネズミの大好物ですから、赤い首輪の猫様がちゃんと見張っていますね。

収繭と並行して、繭を茹で、手回しの座繰り器で糸を繰る作業を行っているところも興味深いです。江戸時代は乾繭技術が未発達でしたから、各家では、繭中のさなぎが羽化する前に煮て糸を繰る作業が必要でした。

うまく繭が仕上がって満足そうな女性たちの笑顔が印象的ですね。

 

 

 以上3点の養蚕の錦絵はいずれも出版人が「堤吉兵衛 日本橋吉川町五番地」とあり、養蚕図絵2枚の出版届出が「明治二十年九月七日」となっていました。堤吉兵衛は元は浮世絵の版元であったのが、明治時代からは錦絵や絵草紙の問屋になったようです。


 江戸時代の浮世絵文化を引き継いだ錦絵は、あでやかな色彩や構図で現代の私たちを美術的に楽しませてくれるだけでなく、特に養蚕の様子を描いたものは、当時の様々な情報を視覚的に伝えてくれる貴重な資料だと実感しました。今度、養蚕について勉強する子供たちにも見てもらおうと思います。

久しぶりに絵を細部までじっくり鑑賞しました。あ~、たのしかった!