白根地区

2025年10月23日 (木)

大正・昭和時代の国勢調査員たち

こんにちは。

今年の秋は国勢調査が行われましたね。ということで、今回は国勢調査にかかわる資料をご紹介していこうと思います。

国勢調査は、日本に住むすべての人と世帯を対象に、5年ごとに行う統計調査です。日本で初めて国勢調査が行われたのは、大正9年(1920)のことです。始まってからもう100年以上が経過しています。

まずは、大正九年に行われた第一回時の国勢調査員たちが残した資料をから見ていきましょう。

J06t120221 ←大正12年2月21日中巨摩郡第一回国勢調査員宮城拝観記念  湯沢依田家資料(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

J326 ←大正12年2月21日中巨摩郡第一回国勢調査員宮城拝観記念  古市場藤巻家蔵

 初めての国家的大規模調査の最前線を担った中巨摩郡の国勢調査員たちを慰労するためなのか、大正12年に皇居(宮城)を拝観する旅行が行われたようです。第一回調査から2年余りが経過し、国としては、次の大正14年に行う第二回国勢調査が2年後に迫った頃で、次回の調査も協力を頼みますよ、というような意味合いもあって行われた行事だったのでしょうか? 

 ほかの地区ではどうだったのかと少し調べてみると、同じ山梨県の東山梨郡第一回国勢調査員宮城拝観は中巨摩郡が拝観した翌日の大正12年2月22日だった他、ネット検索だけでも、岩手県種市村では同年6月14日、神奈川県大磯町では同年8月27日などの宮城拝観日の記念写真や記録が出てきますので、どうやら、大正12年に第一回国勢調査員の皇居拝観が全国的に行われたようですね。

 また、第一回の調査員に授与された記念品も収蔵資料にありましたので、ご紹介しておきます。

M4949 ←第一回国勢調査記念品:朱塗りの三重木盃で、金色の鵄(とび)が止まった弓を持つ神武天皇が描かれている。沢登斎藤(昭)家資料 (南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 

Photo_20251023162601 ←大正14年10月1日西野村第二回国勢調査記念  西野芦澤質屋家資料(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 大正14年の第二回国勢調査では、国勢調査で唯一、集計までを地方で行ったのだそうです。

 

戦後の高度成長期に入り、人々の暮らしや家族の在り方が大きく変化していく昭和30年代の国勢調査員の残した資料も収蔵しています。

Dsc_1533 ←昭和30年第8回国勢調査員資料 上今諏訪手塚家資料 (南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

Dsc_1536 ←昭和35年第9回国勢調査員資料 上今諏訪手塚家資料 (南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 令和時代の調査ではインターネット回答が推奨され普及してきました。

 国勢調査によって、時代とともに次々と変化していく日本の国の有り様を把握する意義は大きいですが、近年はプライバシー意識の高まりなどに伴って、回収率は低下している模様です。国勢調査員の職務の難しさはますます高まっていくのでしょうね。

2025年9月 5日 (金)

大明・飯野国民学校で行われた供出と勤労奉仕・動員(国民学校日誌を読む2)

こんにちは。

前回に引き続き、南アルプス市ふるさと文化伝承館令和7年度第1回テーマ展「ぼこんとうとせんそう」より、国民学校日誌に記載された内容から読み解くシリーズを続けたいと思います。

※学校日誌とは教師が書き記す日誌のことです。各学校で生徒や教職員の出欠状況、その日の出来事などが毎日記載されます。現在の学校においても行われています。基本的に5年間の保存期間でよいとされていますが、南アルプス市内では過去の古い日誌が断片的に遺され発見された学校がいくつかあり、通報いただいた場合それらを文化財課で収蔵しておりました。2025年7月現在、南アルプス市教育委員会文化財課では、五明学校、大明尋常小学校・大明尋常高等小学校・大明国民学校・大明小学校・大明農業補習学校・大明夜学会、鮎沢学校、飯野尋常高等小学校・飯野国民学校・飯野小学校・巨摩第一小学校、鏡中條国民学校の日誌を計133冊収蔵しており、その中から戦時下にあたる昭和16年から20年にかけての国民学校時代のものを、個人情報に配慮した上で現在開催中のテーマ展で展示しています。学校教練や訓話の内容、空襲、疎開、学徒の勤労動員など戦時下特有の様子が記録されています。

 

 今回は戦争のために学校で供出した物の内訳や献金、勤労奉仕についてみていこうと思います。

Dsc_1374←国民学校日誌(南アルプス市教育委員会文化財課蔵の一部)

 まずは、国民学校時代のものがすべて揃っている大明国民学校と飯野国民学校の日誌から供出と勤労奉仕・動員に関わる箇所を以下に抄出してみます。

 

「大明・飯野国民学校で行われた供出・勤労奉仕・動員年表(抜粋)」

昭和16年

大明「7月7日支那事変4周年記念式 前線将兵と義勇軍宛の慰問袋作成」

大明「7月29日峡西電鉄路線除草勤労奉仕・桑皮供出」

12月8日真珠湾攻撃 太平洋戦争開始

昭和17年

大明「6月8日より5日間桑皮採集の増産運動」

大明「7月7日支那事変記念式・債券購入1円券310枚5円券(額面7円50銭)63枚を職員児童にて購入セリ」

大明「10月4日軍人援護として慰問文発送各家庭に軍人援護の習字を清書シ添付ス」

飯野「11月9日金属供出(七輪3ケ花瓶1ケ火薬銃1ケ鉄砲丸1ケ供出)」

昭和18

21日ガダルカナル島撤退

529日アッツ島玉砕

飯野「6月11日~5日間増産協力全学年普通授業を廃シ増産運動に協力す」

大明「6月25日職員一同にて中庭に晩豆の播種行う」

大明6月25日砲弾等の特別金属の供出なす」

大明「7月1・2・5日校庭などに豆蒔」

大明「7月26日桑皮集荷」

大明「7月・8月滝沢川堤の草刈り(堆肥にするため)

大明「8月8日弾丸切手155枚購入」

大明「11月29日ウサギ二頭を供出ス」

大明「12月8日国防費67円41銭を献金」

大明「12月20日麦踏」

昭和19

大明「3月10日藁草履作成競技会開催」

大明「3月24日玉幡飛行場石拾い」

7月7日サイパン島陥落

大明「10月7日両村出身兵士全員に対し慰問文ヲ発送ス」

10月25日レイテ沖海戦で日本海軍敗北・神風特攻隊初出撃

大明「11月29日どんぐり及すすきノ穂採集のため野之瀬村方面に出動す・どんぐりの紙芝居を全校児童鑑賞ス※紙芝居「どんぐりの出征」

昭和20

飯野「1月4日勤労動員として高二女児は本日より峡西社へ」

大明「1月15日大井五明両村一斉麦踏実施ニツキ初3以上午後より勤労奉仕ヲナス」

飯野「2月28日初五以上軍工事勤労作業はじまる」

3月10日東京大空襲 13日大阪大空襲 22日硫黄島日本軍全滅 

3月26日沖縄に米軍上陸

大明「3月17日~源村飛行場建設工事勤労奉仕」

大明「4月14日初5以上野之瀬村に薪取りに出動」

飯野「4月21日滑走路の石拾い」

大明「4月18日他高1男女子排水工事出動・初5以上薪取り・柳の皮むき(薬用サリチル酸抽出用か?」

飯野「5月1日以降高2男は白根工場・女は日本蚕糸へ学徒動員」

大明「5月1日食用山野草採取のため全校出動」

飯野「5月18日1高一誘導路葱・19日大豆播種29日防空壕、滑空路施肥料作業」

大明「5月5日より高1女全員日蚕大井第一工場通年動員開始」

飯野「5月14日野草採集」

飯野「6月19日21日野草のアカザの採集について訓話」

飯野「6月19日除草石拾い防空壕の整理」

飯野「6月20日防諜図画習字綴方・アカザの採集・桑皮の採集について訓話」

6月23日沖縄戦終了

大明「7月26日桑園の芽カキ初4以上」

大明「8月9日臨時休業・食料山野草薬草採集ヲ全職員で行フ」

大明「9月6日放課後藁草履を全職員ニテ製作ス」

大明「8月21日□□工場ニ出勤中ノ学徒ノ解散式ヲ行フ」

大明「8月23日笠原製糸工場動員ノ児童本日をもって解散ス」

大明「8月29日非農家児童高1高2女33名笠原工場に本日より出勤ス」

大明「9月29日日蚕大井工場出動中の高1・2女本日に限り復員」

 

 以上に抄出した年表を詳細に見ていくと、昭和16年の夏頃より子どもたちによる勤労奉仕や供出が行われており、太平洋戦争が開始する前から日本は勤労人材や物資が不足した状態であったことがわかります。

 飛行機を増産するために、国策紙芝居においても強く供出を呼びかけられた金属は、飯野国民学校では昭和17年11月9日に「七輪3ケ花瓶1ケ火薬銃1ケ鉄砲丸1ケ供出」、大明国民学校では昭和18年6月25日に「砲弾等の特別金属を供出」とあります。昭和19年以降には金属供出は見られません。もう学校備品を含めても出せる金属はなくなってしまったのでしょうか。

17119 ←昭和17年11月9日飯野国民学校日誌「七輪3ケ花瓶1ケ火薬銃1ケ鉄砲丸1ケ供出ス」

 また、金銭を介しておこなう戦争協力として、昭和17年大明国民学校では「7月7日支那事変記念式・債券購入1円券310枚5円券(額面7円50銭)63枚を職員児童にて購入セリ」、昭和18年には「8月8日弾丸切手155枚購入」大明「12月8日国防費67円41銭を献金」が見られ、軍事費を賄うための戦時国債や「弾丸切手」と呼ばれた戦時郵便貯金切手の購入や献金なども学校で組織的に行われたことが示唆されます。

S1777 ←昭和17年7月7日大明国民学校日誌「債券購入1円券310枚5円券(額面7円50銭)63枚を職員児童にて購入セリ」

S1888 ←昭和18年8月8日大明国民学校日誌「弾丸切手購入 弾丸切手百五拾五枚の購入」

 

戦場にいかない子どもたちが学校ぐるみで行った戦争協力として、兵隊に送る慰問の手紙やはがきの作成がありました。

 学校では、軍人援護の教育として慰問文の綴り方が指導され、慰問文その他を入れた慰問袋をつくって前線の将兵や満蒙開拓青少年義勇軍個人に宛て送るということが行われています。

1_20250905162701 ←昭和15年1月1日号少女倶楽部付録「少女の慰問文画帖」(南アルプス市教育委員会文化財課蔵):少女たちが戦地で戦う兵士たちに送る慰問文の例文集。文画帖とあるとおり、慰問袋に同封する絵の例も掲載される。「戦地のお父さんへ」など兵士へ送るもの、「出征兵士の留守宅へ」といった内地でやりとりするものなど様々な例文と解説が並んでいる。

 

Photo_20250905162701 ←慰問葉書(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)昭和19年に豊国民学校の子どもたちが満洲の部隊に所属する卒業生の一人に送ったもの。その兵士の遺品として親族に届いた慰問袋の中に入っていた。

 

 次に、学校ぐるみで行う戦争協力活動として、子どもたちが採集・製作した末に供出されたモノを見ていこうと思います。品目としては、藁草履・桑皮・ドングリの実・ススキの穂・ヤナギの皮・アカザ・薪、校内で飼っていたであろうウサギ二頭が日誌の記述から拾えました。これらは、子どもたちによる採集や製作、飼育の末に供出されるものです。しかし、藁草履や薪は別として、日誌の記述だけでは供出された後どのように活用されたかを知ることができません。そこで、一般的にはどのようであったか調べてみると、以下のような利用方法が考えられました。

  桑の皮 ⇒ 繊維を取り出して  ⇒ 衣服を作る

 ドングリ ⇒ アルコールを製造 ⇒ 飛行機や戦車や自動車に使うガソリンの代用

 ドングリ ⇒ タンニンの抽出  ⇒ 皮をなめすのに使う

 ススキの穂⇒ 掃除するための箒(ほうき)でも作ったのでしょうか?

 ヤナギの皮⇒ 煎じ薬にする   ⇒ 鎮痛剤となる

 アカザ  ⇒ 若葉を摘む    ⇒ 食用とする

 アカザ  ⇒ 煎じ薬にする   ⇒ 強壮剤や鎮痛剤となる

 ウサギ    ⇒ 毛皮をとる     ⇒ 兵隊用の防寒着に使用

※アカザは北海道から沖縄まで日本列島に広く分布する1年生の野草で、葉を茹でてよく水に晒してからおひたしやみそ汁の具などにして食用とするほかに、乾燥させた後煎じると『強壮、健胃、歯の痛み止め、毒虫刺され(外用)など』に効能のある薬草となるようです。参考文献:『見つけて食べて愉しむ季節の薬用植物150種』森昭彦 株式会社秀和システム 2023 『食べられる草ハンドブック』森昭彦 株式会社自由国民社 2021

Img_4405 Dsc_1512 ←成長したアカザ(2025年9月7日山梨県中央市にて栽培されているのを発見し撮影。アカザは秋まで成長させて杖の材料として使用するのだそうです。新芽を食用や薬用とするだけでない、とても有用な植物なのですね!

市内国民学校日誌には、教師たちが昭和19年春に野草食料植物研究会等出席のため甲府や近隣学校に出張した記録があり、各学校での教育や活動に生かされたものと考えられます。

国民学校で常々、自分たちが倹約や勤労に励んで少しでも戦争のお役に立てば、勝ち抜くことができると教えられていた当時の子どもたちは、勉強をしないで教室を出て一生懸命に野草までも集めて供出したのでしょうね。

2025年7月 8日 (火)

学校が軍の予備校になった(国民学校日誌を読む1)

こんにちは。
今日は、南アルプス市ふるさと文化伝承館令和7年度第1回テーマ展「ぼこんとうとせんそう」より学校日誌という資料をご紹介していきたいと思います。
           
 学校日誌は教師が書き記す日誌のことで、各学校で生徒や教職員の出欠状況、その日の出来事などが毎日記載されます。現在の学校においても行われています。基本的に5年間の保存期間でよいとされていますが、南アルプス市内では過去の古い日誌が断片的に遺され発見された学校がいくつかあり、通報いただいた場合それらを文化財課で収蔵しておりました。
 2025年7月現在、南アルプス市教育委員会文化財課では、五明学校、大明尋常小学校・大明尋常高等小学校・大明国民学校・大明小学校・大明農業補習学校・大明夜学会、鮎沢学校、飯野尋常高等小学校・飯野国民学校・飯野小学校・巨摩第一小学校、鏡中條国民学校の日誌を計133冊収蔵しており、その中から戦時下にあたる昭和16年から20年にかけての国民学校時代のものを、個人情報に配慮した上で現在開催中のテーマ展で展示しています。
Img_8137   ←南アルプス市ふるさと文化伝承館テーマ展「ぼこんとうとせんそう」での学校日誌展示状況
 
 国民学校時代の日誌には、学校教練や訓話の内容、空襲、疎開、学徒の勤労動員など戦時下特有の様子が記録されていますので、まずは尋常小学校・尋常高等小学校から国民学校初等科高等科に変わった時点から順にピックアップしてみていこうと思います。
 
 昭和16年4月1日より、それまで尋常小学校・高等小学校と呼ばれていた学制が変更され、国民学校初等科・高等科と呼ばれるようになりました。現在の小学校1年生から中学校2年生までの期間にあたります。国民学校に変わるにあたっては、昭和12年に発刊された「國體の本義(こくたいのほんぎ)」という書物の内容が指針となりました。
P6142744 Img_8152 ←「國體の本義」(南アルプス市教育委員会文化財課蔵):昭和12年(1937)に、「日本とはどのような国か」を明らかにするために当時の文部省が学者たちを結集して編纂した書物。神勅や万世一系が冒頭で強調され、共産主義や無政府主義、民主主義や自由主義も国体にそぐわないものとした。この内容と思想を学生や生徒に教育するために、教員採用試験にも多く採用され、昭和16年3月1日に公布された国民学校令により尋常小学校は国民学校として再編成された。
 
 国民学校では、子どもたちには自分たちの国を守るために戦うこと、戦地で働く人々のために倹約に努め、銃後の守りを整えることといった、国家総動員精神での戦時体制を担う国民を作るという教育方針を強化していきました。国民学校令第一条には、『國民學校󠄁ハ皇國ノ道󠄁ニ則リテ初等普通󠄁敎育ヲ施シ國民ノ基礎的󠄁鍊成ヲ爲スヲ以テ目的󠄁トス』とあり、戦時体制下にあっては学校が軍の予備校としての役割も果たすことになりました。
例えば、子どもたちが楽しみにしている遠足行事は、『(大明国民学校)昭和16年10月31日心身鍛錬を目標トセル秋季遠足ヲ行フ』『(大明国民学校)昭和18年10月25日軍事訓練目的の遠足実施』というように心身鍛錬や軍事訓練の目的のためと明記されるようになりました。
さらには軍の予備校としての役割を果たすため『(鏡中條国民学校)2月3日雪中行軍雪合戦ヲ行フ』『(飯野国民学校)昭和19年8月22日酷暑行軍訓練行フ』『(大明国民学校)昭和20年1月20日耐寒心身鍛錬ノタメ少年団全員増穂南湖方面に行軍ヲ行フ』といった行事も行われています。他にも、『(大明小学校)昭和18年10月22日空襲避難訓練』『(大明国民学校)昭和19年5月18日空襲時における登下校の避難訓練実施』などが行われるようになり、空襲が身近にある中での学校生活を感じさせられます。
16_20250708110701 1641 ←「飯野国民学校日誌昭和16年4月1日「記事:本日ヨリ飯野国民学校ト改称ス」
 授業では新たに武道も取り入れられ、男子には学校教練において木製の銃型を使った訓練、女子には薙刀の訓練が取り入れられました。昭和19年4月17.18日の飯野国民学校日誌には「職員の薙刀講習」の記述が見られます。そのほかの武道では、『(大明国民学校)昭和18年1月30日銃剣道の耐寒練成会』『(大明国民学校)昭和19年9月7日ヨリ三日間相撲道講習会』などの記述もあります。

1929 117 ←飯野国民学校日誌昭和19年4月17日「職員出張:小笠原国民学校内薙刀講習へ 宿直記事:青年学校生銃剣道修練」
Dsc_1411 ←南アルプス市ふるさと文化伝承館テーマ展「ぼこんとうとせんそう」での木銃・薙刀展示状況
P6192876 ←木製薙刀(長さ183㎝)(南アルプス市教育委員会文化財課蔵):薙刀の訓練に使う木製の薙刀。昭和16年の国民学校令台12条によって女児に薙刀の授業が課された。女子武道として、体力向上、精神力倍増等の目的で授業に採用された。展示品は女学校か高等小学校用の長さ。
 木銃(長さ167㎝)(南アルプス市教育委員会文化財課蔵):銃剣術という武道の訓練で使用するもの。銃剣術とは、近接戦闘で相手を突き刺す武器を操るための訓練として生まれた武道。実戦では歩兵銃に短剣をつけて戦う。子どもたちに兵隊になるための訓練を行う学校教練で使用された。
 
 上記のような流れで軍の予備校としての役割をもたされてしまった学校の様子を、次回からも国民学校日誌に記載された内容から読み解いていきたいと思います。

 

2024年11月19日 (火)

大正9年落合小学校秋季運動会次プログラム

こんにちは。
今回は、大正9年10月24日午前7時から行われた、落合尋常高等小学校の第三十七回秋季大運動会のプログラムをご紹介いたします。

       ※いづれの画像もタップすると少し拡大します

23602 ←大正九年落合尋常高等小学校第三十七回秋季運動会次第(表紙・裏表紙)(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 南アルプス市ふるさと○○博物館資料収集活動において、今まで大正5年の榊小学校、大正15年の西野小学校の運動会プログラムを教育委員会文化財課で収蔵してこちらのブログやMなび、〇博アーカイブなどでご紹介してきました。
 今回は新たに市の南部に属する甲西地区で収集した落合小学校の大正9年のものを見ていただきます。
 裏表紙の記載から、このプログラムの作成・配布については、小笠原にある山扇印刷所の寄付によって行われたようです。しかしながら、現在も市内小笠原で営業している株式会社山扇印刷さんのHPによると、大正14年10月に創業とありますから、その前身の印刷所だったのかどうかについては不明です。

23601 ←大正九年落合尋常高等小学校第三十七回秋季運動会案内状(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
23603 ←大正九年落合尋常高等小学校第三十七回秋季運動会次第(午前之部・午後之部)(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 つづいて、運動会の演目について見ていきますと、午前之部27種目の後、30分という短い午餐休憩をはさんで、午後之部は25種目行うという、かなりタイトなスケジュールとなっています。それに、『爆裂弾』『陣地占領』『砲弾輸送』など、戦闘を想起させるなにやら物騒な演目が所々にありますね。
 中でも、午前之部の最後の演目として全校男子で行う『軍歌行進』と午後之部で高等小学校男子全員で行う『執銃訓練』は、軍隊の基礎を学ぶはじめの一歩としての訓練のようです。

 いままでに収蔵した資料と比較してみると、大正5年の榊小学校の運動会プログラムにはあまり軍事的な演目は見られませんでしたが、大正15年の西野小学校のものには軍歌行進が行われています(当ブログ2020年9月16日「大正5年の榊小学校運動会プログラム」、2021年9月29日「大正5年榊小学校と大正15年西野小学校の運動会プログラム」もご覧ください) 。 校風の違いもあったでしょうが、落合小学校の資料の場合、大正9年頃は第一次世界大戦が終わり、将来起こるであろう次の戦争に向けて、その準備が平時から必要との認識が学校教育にも芽生えてきていた頃なのかもしれません。
M12902 ←木銃(長さ167㎝ 川上滝沢家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵):※この資料が運動会等で使用されたかどうかは不明です

23603_20241119164001←大正九年落合尋常高等小学校第三十七回秋季運動会次第(午前之部・午後之部)(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 一方、女子については、午後之部終盤において「主婦の務(つとめ)」という演目の題名がまず目を引きます。高学年の女子が行ったこの演目の具体的な内容こそわかりませんが、その題名だけで当時の女子教育が目指していたものをダイレクトに示しています。近年、ジェンダフリー社会の実現を目指して小中学校で行われているジェンダー教育とはまさに対極となるものですね。

 また、同じく女子種目の『タンツラインゲン』というドイツ語風の外来種目名に興味をひかれたのでしらべてみると、『タンツ=ライゲン(Tanz reigen)』という言葉がヒットしました。連舞の一種で、数人が一列に並んで曲に合わせて行進しながら、いくつかの振り付けを行うダンスだそうです。戦前の運動会では、「タンツライゲン」という名称で女子の演目として全国的によく披露されたものだということです。

 以上のように、大正時代の運動会プログラムを観察すると、現代の小中学校とは教育目標が異なるので、演目に違和感を覚えるような点もいくつか見られます。時代を表していると一言で言ってしまえばそれまでですが、当時の社会的背景や運動会そのものの教育的意義などを推し量ってみると、いまではありえないような種目が存在していた理由も理解することができて興味深いです。
今後もまた、市内の小中学校の運動会プログラムは継続的に収集していきたいと思っています。

2024年10月29日 (火)

荊沢にあった商店の大正時代の包装紙

こんにちは。
今回は文化財課収蔵資料の中から、南アルプス市甲西地区荊沢にあった商店の包装紙をご紹介いたします。
115 ←「松寿軒長崎包装紙(電話荊沢二十番」(湯沢依田家資料)(南アルプス市教育委員会文化財課蔵」
 松寿軒長崎は明治から平成時代まで 駿信往還の宿場町である荊沢において営業した菓子商です。ちょうど道が鍵の手のようにクランクする「かねんて」と呼ばれる箇所の西側に、現在も登録有形文化財として、その建物が遺されています。
 松の意匠の帯デザインの中に、店名と電話番号が記されており、この包装紙がいつごろから使用されていたかが判ります。甲西地区では大正9年11月26日に電話が個人宅や商店に開通し、1から41番の荊沢局電話加入者がいました。ですから、この包装紙は大正9年以降に使用されたものだと判断できます。また、その電話加入者一覧を甲西町誌(昭和48年刊)で見ることができますが、20番は『内藤伝吉 菓子商』とありました。
319 ←南アルプス市荊沢319に建つ松寿軒長崎(2021年10月8日撮影)
こちらの建物については、登録有形文化財として南アルプス市HPでの文化財情報や地図上で見る〇博アーカイブ、Mなび等でご紹介していますので興味のある方はご覧くださいませ。

つづいては、荊沢の商店包装紙二軒目のご紹介です。
116 ←「荊沢麻野屋呉服店包装紙(電話番号三五番)」(湯沢依田家資料)(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
麻の葉模様がさわやかなこちらの包装紙も、大正9年の電話番号一覧で記されている35番をみてみると、『あさのや入倉小三郎 呉服商』とありました。
Photo_20241029160201 ←「荊沢麻野屋のあった辺り」(2021年9月29日文化財課撮影)

昭和初期には、「せきや麻野屋呉服店」として、白根地区倉庫町交差点に包装紙にあるのと同じ屋号(「ヤマに中」)の店が存在していましたので、支店を出していたようですね。
002img20220705_15062833_20241029160201 ←「倉庫町関屋にあったせきや麻野屋呉服店のチラシ」(西野功刀幹浩家資料)(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 また、荊沢には麻野屋商店という名の店がもう一軒あり、そちらは茶問屋で茶器や食器なども販売していました。場所もちょうど同じ「かねんて」付近で呉服の麻野屋さんが駿信往還の東側にあるのに対して、茶問屋である麻野屋商店(屋号は「カネに麻」)は中野姓で西側に店を構えていました。 南アルプス市教育委員会文化財課収蔵資料や市内の旧家の蔵などで保存箱として使われている茶箱にこの麻野屋商店の文字をよく見かけます。
Img_1097 ←「雛人形の保管に使用されていた荊沢御銘茶所麻野屋商店の茶箱」(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
〇博調査的に、先人の遺したチラシや包装紙のストックは、かつて存在した商店の情報や地域ごとに異なるお買い物事情を知る手掛かりになるので重要視しています。

2024年10月 3日 (木)

大正時代の労働契約書

 こんにちは。
 まずは大正時代に交わされた、大工に関する労働契約書を2通ご紹介したいと思います。
    J7201_20241008145001  J7202 J7203 ←「弟子トシテ大工業修養セシムル契約書(大正13年竜王村花形富士吉)」(上八田小野家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
J7101 J7102 J7103 ←「弟子トシテ大工業修養セシムル契約書(大正15年百田村清水辰平)」(上八田小野家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 ご紹介する契約書は2通とも大正時代のもので、百田村に住む14歳と竜王村に住む15歳の少年が現在の白根地区上八田で大工を営む小野牛五郎に大工業(だいくぎょう)を教授してもらう4年間ほどの修養期間についての取り決めが記されています。その契約期間に雇われ人が使用する着物と大工道具一式は雇い主の牛五郎が用意し、年季明けにはそのまま給与されるとあります。また、修養途中で万が一雇われ人が失踪した場合は保証人が探して連れ戻し、雇用者の牛五郎に引き渡す事も記されています。労働の見返りに大工の技術を教授するので報酬は支払われなかった模様です。
 
 労働契約書のようなものは、江戸時代にも「奉公人請状」「奉公人手形」と呼ばれる書類として存在していました。しかし現在と大きく異なるのは、雇用主が雇われる側に提示するのではなく、雇われる側が保証人を通して奉公の期間や労働条件などを提出する作法にありました。今回ご紹介している大正時代の資料の場合も、大工業を修養予定の者がまだ未成年であるという理由ももちろんありますが、書面の契約者は弟子入りする本人ではなく、その父や保護者になっており、さらに保証人が立てられています。

 また、2通の契約書の内容の大筋は同じですが、2年違いで前後して契約した2人には待遇差があることがわかります。例えば、大正13年に竜王村から弟子入りした者には、4年間の修養後にさらに半年間の御礼奉公という無給期間があることを記していますが、大正15年に弟子入りしたものには御礼奉公期間というものが無くきっちり4年間で年季が終了するとあります。
さらに、大正15年に弟子入りの者にはその家庭事情を考慮して記された部分もあります。 牛五郎宅と同じ百田村内から弟子入りした清水辰平さんには、春蚕期に20日・夏秋蚕期にそれぞれ20日の年間60日間を実家での養蚕業務に従事することを許す文面があるのです。きっとこの弟子の実家は養蚕業で家計を支えており、養蚕繁忙期に大事な働き手を一人でも減らすことはできない事情を雇用主がよく理解しての判断だったのでしょう。2年の違いでずいぶん労働環境が改善していますね!

 大工は弟子入りすると、ほとんどの場合住み込みで、親方の家族と一緒に生活するのが普通であったようです。最初は家事手伝いや資材の運搬などをしながら道具の手入れの仕方や使い方を学んだようです。そして、親方と弟子との主従関係は生涯続いたといいます。
しかし、このように良くも悪くも伝統的な徒弟制度というようなものは、昭和時代の終わり頃にはほとんど消滅したようですね。

最後に、大正初期の大工以外の労働契約書も2点ご紹介しておこうと思います。
I81173t1 ←「雇人契約書(大正元年今諏訪村小林はまの)」(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
I81173t5 ←「雇人契約書(大正5年豊村澤登名取角太郎)」(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
こちらの2点の契約書も江戸時代からの作法にのっとり、雇われる側(保護者・保証人)が雇い主に契約書を提出する形式であり、最初に年給の額を提示し、着衣の給与要求と雇用期間を明記しています。さらに内金という名目で契約時に10円ほどの支給があったことも記されています。大工のような特別な技術を教授する場合とは、契約内容に異なる点が多少あるようです。

 大正時代は未成年である尋常小学校を卒業した10歳から高等小学校を卒業した14歳までの子供が親元を離れて雇い主宅に住み込み、休日もほとんどなく働く状況が多くありました。しかも、奉公に入る前に保護者がお金を受け取っている場合も多かったので立場も弱い上に、どんなに労働条件が厳しくても容易に逃げ出せないような文言が契約書に記されているのが普通でした。このように現代に比べて大正時代の労働条件が全く別物であったことにまちがいはないのですが、一方で、奉公先で親元に居た時よりも環境に恵まれ、学びの機会を得て数年後には成功者となるような、立身出世物語が多く生まれた時代であったのも確かなようです。

2024年9月25日 (水)

明治7年、西郡に共栄医療組合医院できる

こんにちは。

Jpeg3 ←「共栄利用組合診療券」(上八田小野家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

こちらは、いまから90年以上前に西郡で発行された診療券です。この券で受診できる病院は、「共栄利用組合医院」といって、昭和7年5月に地域の産業組合が共同出資して建設された病院でした。

Jpeg4 ←「共栄利用組合医院規程」昭和7年(1932)5月15日より実施す :『本組合員及その家族の保険に努め疾患の際は之を軽減し以て生存の平安を得しむる為め診察所を付設し左記規程を設置す』」(上八田小野家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)※タップすると拡大します

 この共栄利用組合医院規程を読んでみると、出資している組合員とその家族は、組合の発行した診療券を持っていけば基本的に無料で診察を受けることができました。ただ、処方する薬や手術、注射料、往診料は利用料として別途請求された模様です。

 昭和初期は未だ国民健康保険法はなかったので、もちろん健康保険証など無い時代であり、一般的に体の調子が悪くても医療を受けることは、現代とは比べ物にならないほどハードルの高い行動でした。ちょうどこの頃は世界恐慌の影響による生糸の暴落が養蚕に現金収入を頼っていた農村を疲弊・窮乏させ、乳幼児の死亡率の増加や感染症の罹患率を高めていました。政府も兵力の供給源である農村の医療確保策として後押したこともあり、産業組合が共同して病院を建てるという取り組みがこの時期に全国に広まっていました。まさにこれらの流れの中で、件の共栄利用組合医院は一部組合員家庭のみですが、はじめての地域医療体制を昭和7年に西郡に発足させたわけです。

Jpeg2 ←「共栄利用組合之章」(上八田小野家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 さらに、、組合医院規程を順にみていきましょう。内科や外科などの専門科に分かれての医師の配置はなかった様子ですが、産婆料に係わる項目が第九条から十一条に明記されていることが判ります。助産の歴史の転換期である昭和初期に、欧米スタイルの教育を受けて国家資格を持った産婆たちがどのように活躍したのか?あるいは、都市部で一部行われていたような入院分娩がこの組合医院でもあったのか?など興味がつきないところです。

「白根町誌」昭和44年刊 p977の記述には、『巨摩共立病院:昭和7年(1932)5月12日、飯野・源・在家塚・小笠原・桃園・豊・曲輪田の7産業組合によって櫛形町桃園地内の白根町境に明穂共栄医療組合病院が設立され、峡西病院と称した。昭和18年10月には、山梨県農業会に移管され、第一厚生病院と改称し経営者も変わり、昭和40年1月における病院の患者の収容力は、一般患者25名、結核患者40名であった。昭和40年9月には、山梨県勤労者医療協会に移管され、巨摩共立病院となる。昭和43年の患者収容能力は、一般患者57名、結果右患者44名であった。目下のところ内科、小児科、外科、整形外科、産婦人科の診療にあたっている。』とあります。

いまから92年前に地域の産業組合主導ではじまった西郡の本格医療体制は、その後、山梨県農業会など経営母体を交代させながら、にしごおりの地域医療を担ってきました。 昭和36年(1961)には国民皆保険となって国民すべてが健康保険証を持つことができるようになったため、組合員だけしか受診できない病院というのではなくなりました。昭和40年からは山梨県勤労者医療協会に経営が移管され、現在もその名称で続く巨摩共立病院となっています。

Jpeg_20240925163701 ←巨摩共立病院(「白根町誌」昭和44年刊より)

巨摩共立病院は西郡地域の地域医療に貢献し続けている当該施設は、令和6年現在、公益財団法人山梨勤労者医療協会巨摩共立病院という正式名でそのHPによると、診療科は一般内科、専門内科、小児科、外科、整形外科、眼科、人工透析科、リハビリテーション科という内訳です。

2024年7月12日 (金)

大正7年の白米廉売券と米騒動

こんにちは。
きょうは、最近の〇博収蔵作業で扱った資料の中からご紹介しようと思います。
R54img_20240712164501 ←「大正7年 白米廉売券」(南アルプス市教育委員会文化財課蔵):大正7年夏に山梨県が発行したお米の安売り券
 こちらの資料は、大正7年夏に山梨県が発行したお米の安売り券です。表側には、「山梨県中巨摩郡役所」の印が押されています。
この白米廉売券が発行された大正7年の夏は、全国各地で米騒動とよばれる暴動蜂起があった年です。8月2日に政府がシベリア出兵を宣言したため、その後急激に投機目的の米穀の買いや売り惜しみが起こった上に、前年産米の不作などの要因もあり、米価の急高騰が発生する中、日本各地で暴動事件が起きました。
 8月15日夜には、甲府でも舞鶴公園で行われようとしていた米価高騰抗議市民大会に刺激された群衆が、山田町13番地にあった若尾家前に集まり暴徒化し、若尾邸を焼き打ち壊すという事件が起きています。(甲府での米騒動が若尾邸焼き討ちに至るまでの様相は山梨県史通史編5近現代1に詳しくまとめられている)
R54img ←表側には「山梨県中巨摩郡役所」の印
 今回ご紹介している白米廉売券は、この大正7年夏に起きた米騒動対策として、山梨県から芦安村各戸に配られた米の安売り券だと考えられます。芦安村誌(平成6年発行)によると、『政府は三百万円の恩賜金を各府県に配布し、米価対策費一千万円を予算化した。芦安村はこれに基づき、恩賜金七五円三〇銭分の米の廉売券を交付した。対象は三七戸、一六二人。しかし、四戸が交付を辞退したので、その分を割り振りし直した。』とあります。
R54img-2 ←裏面には「一、本券ハ1枚二付 内地米1升又ハ外米2升二対シ金10銭ノ廉売二用ウルモノトス」「一、本券の使用期間ハ大勝7年9月30日迄トス」とある
この白米廉売券の裏面には、注意事項として『一、本券ハ1枚二付 内地米1升又ハ外米2升二対シ金10銭ノ廉売二用ウルモノトス』『一、本券の使用期間ハ大正7年9月30日迄トス』とあります。
では、その内容をかみ砕いて読んでみましょう。
「内地米1升又は外米2升に対し金10銭ノ廉売」ということですから、同じ値段で外米(当時の東南アジアの国々産の輸入米)は国産米の倍量買えたということですね。この時に外米を食べた人々の言葉として白根町誌(昭和44年刊)に『南京米を喰いやすと、わしゃやせる(南京米はラングーン米のことであるという注釈有)』というのが載っていました。ラングーン米というのを調べてみると、現在のミャンマー辺りでとれた細長い米粒の長粒種で、「食べ慣れないけど安いから食べているが痩せてしまう!」という不満が皆にあったということでしょう。
 しかしながら、米1升は1.5㎏ですから、この廉売券があれば、米30キロであったら金200銭=2円で国産米が買えたことになります。 ちなみに山梨県史によると米騒動中の大正7年8月8日が甲府の最高値で、米4斗入り1俵(60k)19円20銭とあります。30キロでは9円60銭支払うことになりますから、この廉売券で30キロを2円で買えたのはかなりの救済策だと思います。
Dsc_0840 ←旧芦安役場資料である白米廉売券は、多くが切り離されていない状態で綴られている(南アルプス市教育委員会文化財課所蔵)
 また、この資料は芦安役場にまとめて綴った状態で保存されていました。役場が廉売券を使って買う米を米問屋から事前に調達し、村民に購入させた可能性も考えられます。芦安村への恩賜金が75円30銭だったということですから、内地米であれば753升分=1102.5㎏の購入券配布となり、単純に戸数で割ると一戸当たり29.7㎏ですし、人数割りしてみると6.8㎏ですから、一ヶ月分くらい充分に食べられる量の米がこの白米廉売券を使用すれば問題なく買えたようですね。

米騒動は全国的にも8月下旬までには落ち着き、発生しなくなりました。この廉売券の使用期間にも、「9月30日迄」とありますので、おおよそそのような計算で算出された救済策だったのでしょう。

2024年4月 5日 (金)

昭和34年の甲西町水害画像

こんにちは。
南アルプス市教育委員会文化財課所蔵の昭和34年災害資料より、今回は現在南アルプス市南部に位置する甲西地区での被害状況写真をご覧いただきたいと思います。 甲西地区は市内に降った雨や湧き出た水が集中する場所で、西側には崩れやすく急峻な南アルプスの山々がせまることから、釜無川右岸のいくつもの天井川が集まる常習水害地帯でした。台風7号と15号が山梨県内全域に大きな被害をもたらした昭和34年においては、その前に到来した台風6号も甲西地区五明耕地をすでに冠水させていたようです。
10200 ←10「台風6号甲西町坪川決壊による五明耕地(宮沢前200町歩冠水状況)」(飯野東条家災害資料甲西町10~16南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

次に、甲西町誌にある台風7号記述から残された資料写真を時系列に並べてみていきましょう。
甲西町誌(昭和48年刊)
p1609
『昭和34年8月14日本町を襲った台風第七号・・・・・
14日午前0時ころ : 
・富士川は増水はなはだしく、増穂橋付近において、一面に逆流して来て、県道浅原ー増穂線は東南湖の南部地点  まで浸水し、交通不能の状態となった。 
・そのうち宮沢前は湖のようになった。
11_20240405130401 ←11「釜無川の逆流甲西町」(飯野東条家災害資料甲西町10~16南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
13200 ←13「滝沢川決壊南湖地区の200町歩冠水」(飯野東条家災害資料甲西町10~16南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

14日午前3時頃 :
・ 坪川は大明橋下でごうごうとしたすごい音をたてて五明耕地へ侵入した。続いて下流右岸が三カ所、左岸が二カ所欠壊し、見る影もない惨状に変わった。
14_20240405130501 ←14「坪川下流の決壊」(飯野東条家災害資料甲西町10~16南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

・秋山川も山梨交通軌道付近で決壊し、見るみるうちに、軌道敷は激流に削り取られ、施すすべもなく崩壊し、電車線路は、100mにわたってさらわれ、空中にぶら下がる惨状を見るに至った。 此の濁流は国道52号線を横断して、長沢部落および耕地一面に浸水した。
1215 ←12「7号台風時秋山川決壊により山交電車軌道も宙吊り」(飯野東条家災害資料甲西町10~16南アルプス市教育委員会文化財課蔵):甲西町誌にも掲載「秋山川の堤防決壊で宙吊りになった山交電車線路」

・堰野川は上流西新居部落に向って右岸が欠けくずれ、下流秋山川合流点付近でも左岸が決壊した。
・市之瀬川は、東落合の大橋が崩れ落ちた。
・井路縁川も満水、逆流し、西沼耕地などを湖のようにした。
15150 ←15「坪川上流決壊五明地区150町歩」(飯野東条家災害資料甲西町10~16南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

14日午前6時ころ : 和泉万年橋の下流800mの地点で左岸が欠壊して耕地に侵入した。その崩落した土砂はたちまち八糸川の水路を一挙にうずめ、此の濁流は富士川の逆水とともに東南湖・和泉・西南湖の広い耕地を濁水でおおい尽くした。
1615 ←16「15号台風時滝沢川状況」(飯野東条家災害資料甲西町10~16南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

14日午前9時 : 雨がやみ台風一過。60年来の大災害。人畜に被害はなかったが、天井川の中に位置する甲西町では、滝沢川・坪川・市之瀬川・堰野川等8カ所が大決壊し、埋没流失した耕地30町歩、浸冠水葯400町歩に及んだ。                                                                     』

甲西地区では、釜無川からの逆流による天井川の決壊を防ぐため、江戸時代から、より下流に合流点を付け替える「つきのべ工事」や、河川を立体交差させるためいくつもの樋門建設が行われてきました。昭和34年災害以降はその根本的改修と釜無川右岸土地改良工事がすすめられ、現在、2008年に完成した釜無川支流立体交差河川群(坪川・横川・滝沢川・五明川・長澤川・旧利根川)が甲西地区を逆流浸水から守っています。

2024年4月 3日 (水)

昭和34年災害と敷島町(現甲斐市)

こんにちは。 
南アルプス市教育委員会文化財課所蔵の昭和34年災害資料より、今回は敷島町(現甲斐市)の被害状況写真をご覧いただきたいと思います。昭和34年災害とは、大水害を起こした第7号台風と強大な暴風雨で県内の藁ぶき屋根の家々をことごとく吹き飛ばし破壊した第15号台風(伊勢湾台風)が立て続けに襲いかかり、昭和34年8月から9月にかけて甚大な被害をもたらした一連の災害のことを言います。
 敷島町でも暴風による家屋の倒壊被害が多く発生した模様です。昭和41年発行の敷島町誌には7号15号台風被害記述と写真が掲載されており、その中に今回〇博で収蔵したものと同じ画像が3点ありました。なお、南アルプス市文化財課収蔵資料には、敷島町誌に未掲載の敷島町被災画像が20点ほどあります。

51 5215 ←飯野東条家資料5-1・2「敷島町第15号台風被害状況」(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
511 ←1「隆興院(ここには5世帯入居していた)」飯野東条家資料5-1敷島町(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
: 地点は現甲斐市島上条1318 
512_20240403101301 ←2「笠屋神社(倒壊した神殿)」飯野東条家資料5-1敷島町(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
: 地点は現甲斐市中下条1290
513 ←3「敷島小学校(惨状を呈した)」飯野東条家資料5-1敷島町(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
: 地点は現甲斐市島上条212 敷島町誌によると、敷島小学校はこの時改築中で、上棟直後に15号台風の被害に遭ったということです。さらに町誌記述を引用すると、当時の『窪田町長はその倒壊を心配して一晩中その柱に抱きつかんばかりにして防護につとめた結果、幸いにも台風の難をのがれることができた』!!らしいです。
514 ←4「三和電線KK(機械工場が三棟倒壊した)」飯野東条家資料5-1敷島町(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
:地点は現甲府市荒川2丁目15-1(旧古川電工山梨工場跡→現聖教新聞山梨支局)
515 ←5「宝珠寺(吹き飛んだ屋根)」飯野東条家資料5-1敷島町(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
:地点は現甲斐市大下条1092

  昭和34年は今から65年前のことですので、現在70歳代以上の方でないとご記憶にないと思います。建物が吹き飛ばされるほどの強風を経験したことがない人が大半となり、台風被害の恐ろしさへの記憶が薄れる中で、自分たちの住んでいる場所が過去にこのような災害に見舞われたことを認識し、備えることは大切だと思います。

近いうちに、地図上で地点を確認しながらこれらの画像を見られる〇博アーカイブにも掲載しますので、ぜひそちらの方でもご覧になってみてください。

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