白根地区

2024年11月19日 (火)

大正9年落合小学校秋季運動会次プログラム

こんにちは。
今回は、大正9年10月24日午前7時から行われた、落合尋常高等小学校の第三十七回秋季大運動会のプログラムをご紹介いたします。

       ※いづれの画像もタップすると少し拡大します

23602 ←大正九年落合尋常高等小学校第三十七回秋季運動会次第(表紙・裏表紙)(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 南アルプス市ふるさと○○博物館資料収集活動において、今まで大正5年の榊小学校、大正15年の西野小学校の運動会プログラムを教育委員会文化財課で収蔵してこちらのブログやMなび、〇博アーカイブなどでご紹介してきました。
 今回は新たに市の南部に属する甲西地区で収集した落合小学校の大正9年のものを見ていただきます。
 裏表紙の記載から、このプログラムの作成・配布については、小笠原にある山扇印刷所の寄付によって行われたようです。しかしながら、現在も市内小笠原で営業している株式会社山扇印刷さんのHPによると、大正14年10月に創業とありますから、その前身の印刷所だったのかどうかについては不明です。

23601 ←大正九年落合尋常高等小学校第三十七回秋季運動会案内状(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
23603 ←大正九年落合尋常高等小学校第三十七回秋季運動会次第(午前之部・午後之部)(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 つづいて、運動会の演目について見ていきますと、午前之部27種目の後、30分という短い午餐休憩をはさんで、午後之部は25種目行うという、かなりタイトなスケジュールとなっています。それに、『爆裂弾』『陣地占領』『砲弾輸送』など、戦闘を想起させるなにやら物騒な演目が所々にありますね。
 中でも、午前之部の最後の演目として全校男子で行う『軍歌行進』と午後之部で高等小学校男子全員で行う『執銃訓練』は、軍隊の基礎を学ぶはじめの一歩としての訓練のようです。

 いままでに収蔵した資料と比較してみると、大正5年の榊小学校の運動会プログラムにはあまり軍事的な演目は見られませんでしたが、大正15年の西野小学校のものには軍歌行進が行われています(当ブログ2020年9月16日「大正5年の榊小学校運動会プログラム」、2021年9月29日「大正5年榊小学校と大正15年西野小学校の運動会プログラム」もご覧ください) 。 校風の違いもあったでしょうが、落合小学校の資料の場合、大正9年頃は第一次世界大戦が終わり、将来起こるであろう次の戦争に向けて、その準備が平時から必要との認識が学校教育にも芽生えてきていた頃なのかもしれません。
M12902 ←木銃(長さ167㎝ 川上滝沢家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵):※この資料が運動会等で使用されたかどうかは不明です

23603_20241119164001←大正九年落合尋常高等小学校第三十七回秋季運動会次第(午前之部・午後之部)(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 一方、女子については、午後之部終盤において「主婦の務(つとめ)」という演目の題名がまず目を引きます。高学年の女子が行ったこの演目の具体的な内容こそわかりませんが、その題名だけで当時の女子教育が目指していたものをダイレクトに示しています。近年、ジェンダフリー社会の実現を目指して小中学校で行われているジェンダー教育とはまさに対極となるものですね。

 また、同じく女子種目の『タンツラインゲン』というドイツ語風の外来種目名に興味をひかれたのでしらべてみると、『タンツ=ライゲン(Tanz reigen)』という言葉がヒットしました。連舞の一種で、数人が一列に並んで曲に合わせて行進しながら、いくつかの振り付けを行うダンスだそうです。戦前の運動会では、「タンツライゲン」という名称で女子の演目として全国的によく披露されたものだということです。

 以上のように、大正時代の運動会プログラムを観察すると、現代の小中学校とは教育目標が異なるので、演目に違和感を覚えるような点もいくつか見られます。時代を表していると一言で言ってしまえばそれまでですが、当時の社会的背景や運動会そのものの教育的意義などを推し量ってみると、いまではありえないような種目が存在していた理由も理解することができて興味深いです。
今後もまた、市内の小中学校の運動会プログラムは継続的に収集していきたいと思っています。

2024年10月29日 (火)

荊沢にあった商店の大正時代の包装紙

こんにちは。
今回は文化財課収蔵資料の中から、南アルプス市甲西地区荊沢にあった商店の包装紙をご紹介いたします。
115 ←「松寿軒長崎包装紙(電話荊沢二十番」(湯沢依田家資料)(南アルプス市教育委員会文化財課蔵」
 松寿軒長崎は明治から平成時代まで 駿信往還の宿場町である荊沢において営業した菓子商です。ちょうど道が鍵の手のようにクランクする「かねんて」と呼ばれる箇所の西側に、現在も登録有形文化財として、その建物が遺されています。
 松の意匠の帯デザインの中に、店名と電話番号が記されており、この包装紙がいつごろから使用されていたかが判ります。甲西地区では大正9年11月26日に電話が個人宅や商店に開通し、1から41番の荊沢局電話加入者がいました。ですから、この包装紙は大正9年以降に使用されたものだと判断できます。また、その電話加入者一覧を甲西町誌(昭和48年刊)で見ることができますが、20番は『内藤伝吉 菓子商』とありました。
319 ←南アルプス市荊沢319に建つ松寿軒長崎(2021年10月8日撮影)
こちらの建物については、登録有形文化財として南アルプス市HPでの文化財情報や地図上で見る〇博アーカイブ、Mなび等でご紹介していますので興味のある方はご覧くださいませ。

つづいては、荊沢の商店包装紙二軒目のご紹介です。
116 ←「荊沢麻野屋呉服店包装紙(電話番号三五番)」(湯沢依田家資料)(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
麻の葉模様がさわやかなこちらの包装紙も、大正9年の電話番号一覧で記されている35番をみてみると、『あさのや入倉小三郎 呉服商』とありました。
Photo_20241029160201 ←「荊沢麻野屋のあった辺り」(2021年9月29日文化財課撮影)

昭和初期には、「せきや麻野屋呉服店」として、白根地区倉庫町交差点に包装紙にあるのと同じ屋号(「ヤマに中」)の店が存在していましたので、支店を出していたようですね。
002img20220705_15062833_20241029160201 ←「倉庫町関屋にあったせきや麻野屋呉服店のチラシ」(西野功刀幹浩家資料)(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 また、荊沢には麻野屋商店という名の店がもう一軒あり、そちらは茶問屋で茶器や食器なども販売していました。場所もちょうど同じ「かねんて」付近で呉服の麻野屋さんが駿信往還の東側にあるのに対して、茶問屋である麻野屋商店(屋号は「カネに麻」)は中野姓で西側に店を構えていました。 南アルプス市教育委員会文化財課収蔵資料や市内の旧家の蔵などで保存箱として使われている茶箱にこの麻野屋商店の文字をよく見かけます。
Img_1097 ←「雛人形の保管に使用されていた荊沢御銘茶所麻野屋商店の茶箱」(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
〇博調査的に、先人の遺したチラシや包装紙のストックは、かつて存在した商店の情報や地域ごとに異なるお買い物事情を知る手掛かりになるので重要視しています。

2024年10月 3日 (木)

大正時代の労働契約書

 こんにちは。
 まずは大正時代に交わされた、大工に関する労働契約書を2通ご紹介したいと思います。
    J7201_20241008145001  J7202 J7203 ←「弟子トシテ大工業修養セシムル契約書(大正13年竜王村花形富士吉)」(上八田小野家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
J7101 J7102 J7103 ←「弟子トシテ大工業修養セシムル契約書(大正15年百田村清水辰平)」(上八田小野家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 ご紹介する契約書は2通とも大正時代のもので、百田村に住む14歳と竜王村に住む15歳の少年が現在の白根地区上八田で大工を営む小野牛五郎に大工業(だいくぎょう)を教授してもらう4年間ほどの修養期間についての取り決めが記されています。その契約期間に雇われ人が使用する着物と大工道具一式は雇い主の牛五郎が用意し、年季明けにはそのまま給与されるとあります。また、修養途中で万が一雇われ人が失踪した場合は保証人が探して連れ戻し、雇用者の牛五郎に引き渡す事も記されています。労働の見返りに大工の技術を教授するので報酬は支払われなかった模様です。
 
 労働契約書のようなものは、江戸時代にも「奉公人請状」「奉公人手形」と呼ばれる書類として存在していました。しかし現在と大きく異なるのは、雇用主が雇われる側に提示するのではなく、雇われる側が保証人を通して奉公の期間や労働条件などを提出する作法にありました。今回ご紹介している大正時代の資料の場合も、大工業を修養予定の者がまだ未成年であるという理由ももちろんありますが、書面の契約者は弟子入りする本人ではなく、その父や保護者になっており、さらに保証人が立てられています。

 また、2通の契約書の内容の大筋は同じですが、2年違いで前後して契約した2人には待遇差があることがわかります。例えば、大正13年に竜王村から弟子入りした者には、4年間の修養後にさらに半年間の御礼奉公という無給期間があることを記していますが、大正15年に弟子入りしたものには御礼奉公期間というものが無くきっちり4年間で年季が終了するとあります。
さらに、大正15年に弟子入りの者にはその家庭事情を考慮して記された部分もあります。 牛五郎宅と同じ百田村内から弟子入りした清水辰平さんには、春蚕期に20日・夏秋蚕期にそれぞれ20日の年間60日間を実家での養蚕業務に従事することを許す文面があるのです。きっとこの弟子の実家は養蚕業で家計を支えており、養蚕繁忙期に大事な働き手を一人でも減らすことはできない事情を雇用主がよく理解しての判断だったのでしょう。2年の違いでずいぶん労働環境が改善していますね!

 大工は弟子入りすると、ほとんどの場合住み込みで、親方の家族と一緒に生活するのが普通であったようです。最初は家事手伝いや資材の運搬などをしながら道具の手入れの仕方や使い方を学んだようです。そして、親方と弟子との主従関係は生涯続いたといいます。
しかし、このように良くも悪くも伝統的な徒弟制度というようなものは、昭和時代の終わり頃にはほとんど消滅したようですね。

最後に、大正初期の大工以外の労働契約書も2点ご紹介しておこうと思います。
I81173t1 ←「雇人契約書(大正元年今諏訪村小林はまの)」(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
I81173t5 ←「雇人契約書(大正5年豊村澤登名取角太郎)」(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
こちらの2点の契約書も江戸時代からの作法にのっとり、雇われる側(保護者・保証人)が雇い主に契約書を提出する形式であり、最初に年給の額を提示し、着衣の給与要求と雇用期間を明記しています。さらに内金という名目で契約時に10円ほどの支給があったことも記されています。大工のような特別な技術を教授する場合とは、契約内容に異なる点が多少あるようです。

 大正時代は未成年である尋常小学校を卒業した10歳から高等小学校を卒業した14歳までの子供が親元を離れて雇い主宅に住み込み、休日もほとんどなく働く状況が多くありました。しかも、奉公に入る前に保護者がお金を受け取っている場合も多かったので立場も弱い上に、どんなに労働条件が厳しくても容易に逃げ出せないような文言が契約書に記されているのが普通でした。このように現代に比べて大正時代の労働条件が全く別物であったことにまちがいはないのですが、一方で、奉公先で親元に居た時よりも環境に恵まれ、学びの機会を得て数年後には成功者となるような、立身出世物語が多く生まれた時代であったのも確かなようです。

2024年9月25日 (水)

明治7年、西郡に共栄医療組合医院できる

こんにちは。

Jpeg3 ←「共栄利用組合診療券」(上八田小野家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

こちらは、いまから90年以上前に西郡で発行された診療券です。この券で受診できる病院は、「共栄利用組合医院」といって、昭和7年5月に地域の産業組合が共同出資して建設された病院でした。

Jpeg4 ←「共栄利用組合医院規程」昭和7年(1932)5月15日より実施す :『本組合員及その家族の保険に努め疾患の際は之を軽減し以て生存の平安を得しむる為め診察所を付設し左記規程を設置す』」(上八田小野家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)※タップすると拡大します

 この共栄利用組合医院規程を読んでみると、出資している組合員とその家族は、組合の発行した診療券を持っていけば基本的に無料で診察を受けることができました。ただ、処方する薬や手術、注射料、往診料は利用料として別途請求された模様です。

 昭和初期は未だ国民健康保険法はなかったので、もちろん健康保険証など無い時代であり、一般的に体の調子が悪くても医療を受けることは、現代とは比べ物にならないほどハードルの高い行動でした。ちょうどこの頃は世界恐慌の影響による生糸の暴落が養蚕に現金収入を頼っていた農村を疲弊・窮乏させ、乳幼児の死亡率の増加や感染症の罹患率を高めていました。政府も兵力の供給源である農村の医療確保策として後押したこともあり、産業組合が共同して病院を建てるという取り組みがこの時期に全国に広まっていました。まさにこれらの流れの中で、件の共栄利用組合医院は一部組合員家庭のみですが、はじめての地域医療体制を昭和7年に西郡に発足させたわけです。

Jpeg2 ←「共栄利用組合之章」(上八田小野家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 さらに、、組合医院規程を順にみていきましょう。内科や外科などの専門科に分かれての医師の配置はなかった様子ですが、産婆料に係わる項目が第九条から十一条に明記されていることが判ります。助産の歴史の転換期である昭和初期に、欧米スタイルの教育を受けて国家資格を持った産婆たちがどのように活躍したのか?あるいは、都市部で一部行われていたような入院分娩がこの組合医院でもあったのか?など興味がつきないところです。

「白根町誌」昭和44年刊 p977の記述には、『巨摩共立病院:昭和7年(1932)5月12日、飯野・源・在家塚・小笠原・桃園・豊・曲輪田の7産業組合によって櫛形町桃園地内の白根町境に明穂共栄医療組合病院が設立され、峡西病院と称した。昭和18年10月には、山梨県農業会に移管され、第一厚生病院と改称し経営者も変わり、昭和40年1月における病院の患者の収容力は、一般患者25名、結核患者40名であった。昭和40年9月には、山梨県勤労者医療協会に移管され、巨摩共立病院となる。昭和43年の患者収容能力は、一般患者57名、結果右患者44名であった。目下のところ内科、小児科、外科、整形外科、産婦人科の診療にあたっている。』とあります。

いまから92年前に地域の産業組合主導ではじまった西郡の本格医療体制は、その後、山梨県農業会など経営母体を交代させながら、にしごおりの地域医療を担ってきました。 昭和36年(1961)には国民皆保険となって国民すべてが健康保険証を持つことができるようになったため、組合員だけしか受診できない病院というのではなくなりました。昭和40年からは山梨県勤労者医療協会に経営が移管され、現在もその名称で続く巨摩共立病院となっています。

Jpeg_20240925163701 ←巨摩共立病院(「白根町誌」昭和44年刊より)

巨摩共立病院は西郡地域の地域医療に貢献し続けている当該施設は、令和6年現在、公益財団法人山梨勤労者医療協会巨摩共立病院という正式名でそのHPによると、診療科は一般内科、専門内科、小児科、外科、整形外科、眼科、人工透析科、リハビリテーション科という内訳です。

2024年7月12日 (金)

大正7年の白米廉売券と米騒動

こんにちは。
きょうは、最近の〇博収蔵作業で扱った資料の中からご紹介しようと思います。
R54img_20240712164501 ←「大正7年 白米廉売券」(南アルプス市教育委員会文化財課蔵):大正7年夏に山梨県が発行したお米の安売り券
 こちらの資料は、大正7年夏に山梨県が発行したお米の安売り券です。表側には、「山梨県中巨摩郡役所」の印が押されています。
この白米廉売券が発行された大正7年の夏は、全国各地で米騒動とよばれる暴動蜂起があった年です。8月2日に政府がシベリア出兵を宣言したため、その後急激に投機目的の米穀の買いや売り惜しみが起こった上に、前年産米の不作などの要因もあり、米価の急高騰が発生する中、日本各地で暴動事件が起きました。
 8月15日夜には、甲府でも舞鶴公園で行われようとしていた米価高騰抗議市民大会に刺激された群衆が、山田町13番地にあった若尾家前に集まり暴徒化し、若尾邸を焼き打ち壊すという事件が起きています。(甲府での米騒動が若尾邸焼き討ちに至るまでの様相は山梨県史通史編5近現代1に詳しくまとめられている)
R54img ←表側には「山梨県中巨摩郡役所」の印
 今回ご紹介している白米廉売券は、この大正7年夏に起きた米騒動対策として、山梨県から芦安村各戸に配られた米の安売り券だと考えられます。芦安村誌(平成6年発行)によると、『政府は三百万円の恩賜金を各府県に配布し、米価対策費一千万円を予算化した。芦安村はこれに基づき、恩賜金七五円三〇銭分の米の廉売券を交付した。対象は三七戸、一六二人。しかし、四戸が交付を辞退したので、その分を割り振りし直した。』とあります。
R54img-2 ←裏面には「一、本券ハ1枚二付 内地米1升又ハ外米2升二対シ金10銭ノ廉売二用ウルモノトス」「一、本券の使用期間ハ大勝7年9月30日迄トス」とある
この白米廉売券の裏面には、注意事項として『一、本券ハ1枚二付 内地米1升又ハ外米2升二対シ金10銭ノ廉売二用ウルモノトス』『一、本券の使用期間ハ大正7年9月30日迄トス』とあります。
では、その内容をかみ砕いて読んでみましょう。
「内地米1升又は外米2升に対し金10銭ノ廉売」ということですから、同じ値段で外米(当時の東南アジアの国々産の輸入米)は国産米の倍量買えたということですね。この時に外米を食べた人々の言葉として白根町誌(昭和44年刊)に『南京米を喰いやすと、わしゃやせる(南京米はラングーン米のことであるという注釈有)』というのが載っていました。ラングーン米というのを調べてみると、現在のミャンマー辺りでとれた細長い米粒の長粒種で、「食べ慣れないけど安いから食べているが痩せてしまう!」という不満が皆にあったということでしょう。
 しかしながら、米1升は1.5㎏ですから、この廉売券があれば、米30キロであったら金200銭=2円で国産米が買えたことになります。 ちなみに山梨県史によると米騒動中の大正7年8月8日が甲府の最高値で、米4斗入り1俵(60k)19円20銭とあります。30キロでは9円60銭支払うことになりますから、この廉売券で30キロを2円で買えたのはかなりの救済策だと思います。
Dsc_0840 ←旧芦安役場資料である白米廉売券は、多くが切り離されていない状態で綴られている(南アルプス市教育委員会文化財課所蔵)
 また、この資料は芦安役場にまとめて綴った状態で保存されていました。役場が廉売券を使って買う米を米問屋から事前に調達し、村民に購入させた可能性も考えられます。芦安村への恩賜金が75円30銭だったということですから、内地米であれば753升分=1102.5㎏の購入券配布となり、単純に戸数で割ると一戸当たり29.7㎏ですし、人数割りしてみると6.8㎏ですから、一ヶ月分くらい充分に食べられる量の米がこの白米廉売券を使用すれば問題なく買えたようですね。

米騒動は全国的にも8月下旬までには落ち着き、発生しなくなりました。この廉売券の使用期間にも、「9月30日迄」とありますので、おおよそそのような計算で算出された救済策だったのでしょう。

2024年4月 5日 (金)

昭和34年の甲西町水害画像

こんにちは。
南アルプス市教育委員会文化財課所蔵の昭和34年災害資料より、今回は現在南アルプス市南部に位置する甲西地区での被害状況写真をご覧いただきたいと思います。 甲西地区は市内に降った雨や湧き出た水が集中する場所で、西側には崩れやすく急峻な南アルプスの山々がせまることから、釜無川右岸のいくつもの天井川が集まる常習水害地帯でした。台風7号と15号が山梨県内全域に大きな被害をもたらした昭和34年においては、その前に到来した台風6号も甲西地区五明耕地をすでに冠水させていたようです。
10200 ←10「台風6号甲西町坪川決壊による五明耕地(宮沢前200町歩冠水状況)」(飯野東条家災害資料甲西町10~16南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

次に、甲西町誌にある台風7号記述から残された資料写真を時系列に並べてみていきましょう。
甲西町誌(昭和48年刊)
p1609
『昭和34年8月14日本町を襲った台風第七号・・・・・
14日午前0時ころ : 
・富士川は増水はなはだしく、増穂橋付近において、一面に逆流して来て、県道浅原ー増穂線は東南湖の南部地点  まで浸水し、交通不能の状態となった。 
・そのうち宮沢前は湖のようになった。
11_20240405130401 ←11「釜無川の逆流甲西町」(飯野東条家災害資料甲西町10~16南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
13200 ←13「滝沢川決壊南湖地区の200町歩冠水」(飯野東条家災害資料甲西町10~16南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

14日午前3時頃 :
・ 坪川は大明橋下でごうごうとしたすごい音をたてて五明耕地へ侵入した。続いて下流右岸が三カ所、左岸が二カ所欠壊し、見る影もない惨状に変わった。
14_20240405130501 ←14「坪川下流の決壊」(飯野東条家災害資料甲西町10~16南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

・秋山川も山梨交通軌道付近で決壊し、見るみるうちに、軌道敷は激流に削り取られ、施すすべもなく崩壊し、電車線路は、100mにわたってさらわれ、空中にぶら下がる惨状を見るに至った。 此の濁流は国道52号線を横断して、長沢部落および耕地一面に浸水した。
1215 ←12「7号台風時秋山川決壊により山交電車軌道も宙吊り」(飯野東条家災害資料甲西町10~16南アルプス市教育委員会文化財課蔵):甲西町誌にも掲載「秋山川の堤防決壊で宙吊りになった山交電車線路」

・堰野川は上流西新居部落に向って右岸が欠けくずれ、下流秋山川合流点付近でも左岸が決壊した。
・市之瀬川は、東落合の大橋が崩れ落ちた。
・井路縁川も満水、逆流し、西沼耕地などを湖のようにした。
15150 ←15「坪川上流決壊五明地区150町歩」(飯野東条家災害資料甲西町10~16南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

14日午前6時ころ : 和泉万年橋の下流800mの地点で左岸が欠壊して耕地に侵入した。その崩落した土砂はたちまち八糸川の水路を一挙にうずめ、此の濁流は富士川の逆水とともに東南湖・和泉・西南湖の広い耕地を濁水でおおい尽くした。
1615 ←16「15号台風時滝沢川状況」(飯野東条家災害資料甲西町10~16南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

14日午前9時 : 雨がやみ台風一過。60年来の大災害。人畜に被害はなかったが、天井川の中に位置する甲西町では、滝沢川・坪川・市之瀬川・堰野川等8カ所が大決壊し、埋没流失した耕地30町歩、浸冠水葯400町歩に及んだ。                                                                     』

甲西地区では、釜無川からの逆流による天井川の決壊を防ぐため、江戸時代から、より下流に合流点を付け替える「つきのべ工事」や、河川を立体交差させるためいくつもの樋門建設が行われてきました。昭和34年災害以降はその根本的改修と釜無川右岸土地改良工事がすすめられ、現在、2008年に完成した釜無川支流立体交差河川群(坪川・横川・滝沢川・五明川・長澤川・旧利根川)が甲西地区を逆流浸水から守っています。

2024年4月 3日 (水)

昭和34年災害と敷島町(現甲斐市)

こんにちは。 
南アルプス市教育委員会文化財課所蔵の昭和34年災害資料より、今回は敷島町(現甲斐市)の被害状況写真をご覧いただきたいと思います。昭和34年災害とは、大水害を起こした第7号台風と強大な暴風雨で県内の藁ぶき屋根の家々をことごとく吹き飛ばし破壊した第15号台風(伊勢湾台風)が立て続けに襲いかかり、昭和34年8月から9月にかけて甚大な被害をもたらした一連の災害のことを言います。
 敷島町でも暴風による家屋の倒壊被害が多く発生した模様です。昭和41年発行の敷島町誌には7号15号台風被害記述と写真が掲載されており、その中に今回〇博で収蔵したものと同じ画像が3点ありました。なお、南アルプス市文化財課収蔵資料には、敷島町誌に未掲載の敷島町被災画像が20点ほどあります。

51 5215 ←飯野東条家資料5-1・2「敷島町第15号台風被害状況」(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
511 ←1「隆興院(ここには5世帯入居していた)」飯野東条家資料5-1敷島町(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
: 地点は現甲斐市島上条1318 
512_20240403101301 ←2「笠屋神社(倒壊した神殿)」飯野東条家資料5-1敷島町(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
: 地点は現甲斐市中下条1290
513 ←3「敷島小学校(惨状を呈した)」飯野東条家資料5-1敷島町(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
: 地点は現甲斐市島上条212 敷島町誌によると、敷島小学校はこの時改築中で、上棟直後に15号台風の被害に遭ったということです。さらに町誌記述を引用すると、当時の『窪田町長はその倒壊を心配して一晩中その柱に抱きつかんばかりにして防護につとめた結果、幸いにも台風の難をのがれることができた』!!らしいです。
514 ←4「三和電線KK(機械工場が三棟倒壊した)」飯野東条家資料5-1敷島町(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
:地点は現甲府市荒川2丁目15-1(旧古川電工山梨工場跡→現聖教新聞山梨支局)
515 ←5「宝珠寺(吹き飛んだ屋根)」飯野東条家資料5-1敷島町(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
:地点は現甲斐市大下条1092

  昭和34年は今から65年前のことですので、現在70歳代以上の方でないとご記憶にないと思います。建物が吹き飛ばされるほどの強風を経験したことがない人が大半となり、台風被害の恐ろしさへの記憶が薄れる中で、自分たちの住んでいる場所が過去にこのような災害に見舞われたことを認識し、備えることは大切だと思います。

近いうちに、地図上で地点を確認しながらこれらの画像を見られる〇博アーカイブにも掲載しますので、ぜひそちらの方でもご覧になってみてください。

2024年4月 1日 (月)

昭和34年災害(伊勢湾台風)の養蚕被害

こんにちは。
昭和34年、山梨は大規模な台風災害に見舞われました。まずは、8月13日を中心に大水害を起こした第7号台風が、そして9月26日には強大な暴風雨で県内の藁ぶき屋根の家々をことごとく吹き飛ばし破壊した第15号台風(伊勢湾台風)が立て続けに襲いかかりました。まさにダブルパンチで甚大な被害をもたらしたため、「昭和34年災害」と呼ばれて語り継がれています。

815飯野東条家昭和34年災害資料8「十五号台風による玉穂村の惨状」より(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 先日、〇博の調査によって、南アルプス市内のお宅からその山梨県内各地の昭和34年災害資料がまとまって発見され、南アルプス市教育委員会文化財課にご寄贈いただきました。
今回は概報の一環として、その資料内に、昭和34年当時に県下で主要な産業の一つであった養蚕業の被害状況がわかる玉穂村(現中央市)の画像がいくつかありましたのでピックアップしてご紹介したいと思います。

888- 8養蚕ブームも風と共に去った桑園被害飯野東条家昭和34年災害資料8「十五号台風による玉穂村の惨状」より(南アルプス市教育委員会文化財課蔵):強風により、枝には引きちぎれた桑葉の残がいのみ。これでは葉のみ食べる蚕は育てられない。

815_20240401105801 8-15収穫寸前の蚕の惨状(玉穂村)飯野東条家昭和34年災害資料8「十五号台風による玉穂村の惨状」より(南アルプス市教育委員会文化財課蔵):蚕に繭を作らせる場所となる道具(回転蔟)が潰れた家の外に積み上げられているのがわかる。回転蔟の枠の中には白い繭がたくさん詰まっており、収穫寸前であったことがうかがえる。
9-2 9_20240401110201←9-玉穂村(飯野東条家昭和34年9月災害資料9「玉穂村台風15号被害状況(住宅)」より(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)):崩れた家から運び出された回転蔟


9-2_20240401110301 9_20240401110301←9-玉穂村(飯野東条家昭和34年災害資料9「玉穂村台風15号被害状況(住宅)」より(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)):家の外に運び出された回転蔟セット

9_20240401110302 9_20240401110303←9-玉穂村(飯野東条家昭和34年災害資料9「玉穂村台風15号被害状況(住宅)」より(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)):大風で2階の壁が吹き飛ばされ、藁屋根が捲りあがっており、吊り下げられた回転蔟がむき出しになってしまった。家の外では家族が集まって片付けの話し合いをしているのだろうか?)

9-2_20240401110302 9_20240401110401←9-玉穂村(飯野東条家昭和34年災害資料9「玉穂村台風15号被害状況(住宅)」より(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)):蚕を飼う平籠を乗せる蚕棚と回転蔟より古い形態の藁蔟が戸外に吹き飛ばされているのが見える)

 養蚕業への被害画像がみつかった玉穂村(現山梨県中央市)に伊勢湾台風が来たのは9月26日のことですが、その時期はまさに、貴重な現金収入となる晩秋蚕のちょうど収穫時であったはずです。必死に家の中で雨風から守って大切に育ててきた蚕まで家とともに台風に吹き飛ばされてしまうなんて、それまでの苦労が水の泡になるような落胆を人々に与えたに違いありません。
 これらの画像が貼られた資料には、
「十五号台風による玉穂村の惨状」 として、
『 人的被害 軽傷10人
 建物被害 全壊76戸 半壊91戸 非住宅全壊250棟
 農作物被害 水田冠水50町歩 水田倒伏300町歩 蔬菜60町歩 養蚕5500瓦』
と記載されています。
 『養蚕5500瓦』の瓦という単位は現在のg(グラム)のことですので、おそらく蚕種の掃き立て量で5500グラムの被害があったということだと考えられます。
 養蚕業そのものは昭和40年代中頃からどんどん衰退した産業ですが、昭和30年代は第2次世界大戦後もっとも蚕糸業が好調であった時代ですので、伊勢湾台風での養蚕被害状況画像が多くとりあげられているのは、当時の産業背景が反映されている結果だと思います。

 

 

2024年2月15日 (木)

昭和20年代の十日市と比べてみよう

こんにちは。
 山梨県南アルプス市十日市場で、2月10日を中心に開催されてきた十日市は、戦国時代にはすでに行われていた、歴史ある市です。十日市場にある安養寺に安置された鼻採地蔵さんの縁日に開かれてきました。縁起物のだるまや、臼や杵などの木工品、ざるや味噌漉しなどの竹細工、様々な食べ物の露店が並び、甲府盆地最大級のお祭りといわれています。かつては、『甲州に春を告げ、売っていないものは猫の卵と馬の角』といわれたくらい、数多くの露店が並びました。
Kimg1948 Kimg1949    ←十日市場安養寺の入り口(2024年2月10日撮影)

 今回は、収蔵資料の中から。昭和20年代に撮影された十日市を愉しんだ人々の様子をご紹介したいと思います。
7201 ←昭和20年代の十日市の様子と縁起物を売る露店 (西野芦澤家資料より 南アルプス市文化財課蔵)
こちらの画像では、縁起物が多数ぶら下がった巨大なビラビラかんざしのような飾り物が写っていますね。とても素敵なのですが、現在ではあまり見かけないような気がします。
Kimg1952 ←2024年2月10日十日市で売られていた飾り物
Kimg1954 Kimg1937 ←今も昔も十日市で売られる縁起物のダルマ。(2024年2月10日撮影)
Photo_20240215161401 ←かつては綿と繭の豊産を願って白いダルマがよく売れたという昭和40年代の十日市「やまなしの民俗」上巻 昭和48年 上野晴朗著より

7204 ←昭和20年代の十日市の様子(西野芦澤家資料より南アルプス市文化財課蔵) 
こちらの写真では、人混みの中、はしごを担いで歩いている男性がいます。かつての十日市では、山方に住んでいる人々が造った木工品を買うのを目的に来る人も多く、現在でも餅を搗く臼と杵は売られているのは目にします。しかし木製から金属製が主になったはしご等の多くの道具は販売されなくなったので見かけることもなくなりました。販売される木工品の種類が減っているのも現在の状況ですね。
Kimg1941 Kimg1945 ←2024年2月10日十日市で賑わう人々

7202_20240215161901 ←昭和20年代の十日市から歩いて家に帰る人々(西野芦澤家資料より 南アルプス市文化財課蔵) 
 昭和20年代のモノクロの写真にうつる方々は、お住まいだった白根地区西野から歩いて若草地区で行われる十日市に行ったようです。愉しそうに歩く人々の後ろには市之瀬台地がしっかり見えます。何も買わなかったのかもしれませんが、楽しかった十日市からの帰り道の一枚でしょう。みな洋服を着ているのに足元は草履か下駄なのが面白いですね。また、道は一面の桑畑の中を通っていて、養蚕がまだまだ盛んであった頃であるのを示しています。スプリンクラー網が南アルプス市に張り巡らされるのは昭和40年代初めですから、この写真では、果樹の姿は見えません。
Dsc_0047   ←コロナ自粛前(2020年2月11日撮影)
 現在でも人々は車をちょっと離れた駐車場に停めて歩いて十日市に向かうわけですが、その道の両脇には、桑畑ではなくて果樹園地が拡がっています。十日市に向かう人々のウキウキした気持ちは今も昔も変わらないのに、その背景には時代の変化がちゃんと写し出されていて興味深いです。

Dsc_0050 ←2024年2月10日十日市で賑わう人々

2023年12月28日 (木)

南プスの岩船地蔵さんめぐり

こんにちは。

237-16 237-8  ←1芦安地区芦倉237「お船地蔵さん」(令和5年12月14日撮影)

先日、芦安地区で大切に祀られている「お船地蔵さん」をお訪ねしました。立派な木堂の中で他の石造物とともに赤い頭巾と前掛けをつけておられます。その中でも船乗り地蔵さんは、一番右端にいらっしゃいます。お堂前の急な階段を上って、前掛けの布の下をよく見ると、一躰だけ御舟の上に蓮座があり、そこに立っておられるので、すぐにわかりますよ。「お船地蔵さん」の脇には丸石も置かれていて、この地蔵堂は甲州伝統の丸石信仰も見ることができます。

 このような御舟に乗ったお地蔵様は、「岩船地蔵」と呼ばれることも多く、享保四年(1719)造立のものが大多数なのだそうです。岩船地蔵の造立は、江戸時代の享保四年に関東地方西部から中部地方東部にかけて流行した岩船地蔵信仰に由来するからです。

 岩船地蔵信仰とは、現在の栃木県栃木市岩舟町にある岩船山高勝寺から、その周辺の岩を材料に造られた岩船地蔵が送り出され、村から村へ巡っていくうちに信仰を伝えていくもので、『岩船地蔵が送られてきた村では、それを迎えて華やかな服装をし、にぎやかに囃し立て、念仏をし、近隣の村々まで巡った(県文化財ガイドHP「上積翠寺の岩船地蔵」より)』とあります。そして、『岩船地蔵が巡ってきた村々では、その記念として石造の岩船地蔵を造り、路傍の仏として祀った。』のだそうです。山梨県内では65躰の舟に乗ったお地蔵さまがあるそう(上記県文化財ガイドHPより)で、当地での流行の勢いが凄まじいものであったことが判っています。南アルプス市内では9躰を確認しています。

1146-4   ←2白根地区在家塚 薬王寺内 (令和5年12月14日撮影)

208-4_20231228152001      ←3白根地区在家塚 紺屋村舟乗地蔵(令和2年10月5日撮影)

208-3_20231228152101 ←4・5櫛形地区小笠原 源然寺の2躰(令和2年10月29日撮影)

1140-6 1140-5 ←6櫛形地区上宮地 長昌院内 (令和5年12月14日撮影)

Sk0120231221_16284572→『中巨摩の石造文化財』平成7年 中巨摩郡文化協会連合会郷土研究部 には、まだ破損していない状態の長昌院内船乗り地蔵さんの画像がある

594-7 ←7・8甲西地区秋山 光昌寺前の2躰(令和3年12月20日撮影 左奥のお地蔵さまは舟から落ちた状態)

23-6_20231228153001 ←9甲西地区湯沢 「船乗り地蔵さん」(令和3年12月3日撮影)

 岩船地蔵(船乗り地蔵)さんは、造られた年が享保四年とそれに続く数年と限られていることから、その形を見ただけで、およそ300年前のものとすぐわかる興味深い石造物です。

 文献(1999岡野「山梨県の岩船地蔵」)によると、甲府盆地内に存在する岩船地蔵に刻まれた銘文の年記を分析した結果、甲斐国への主要な伝来ルートとして、享保4年3月下旬に信州から北巨摩地域に流入し、甲府周辺には享保4年7月に届き、順次甲府周辺の各村に広まったことがわかるそうです。

南アルプス市の9躰の場合、年記が判明しているのは小笠原源然寺の享保4年6月24日と上宮地長昌院の享保4年10月●日の2地点です。6月と10月ですから、享保4年3月以降に信州からの流入で岩船信仰が広まったという説に矛盾はありません。

 

 また、南アルプス市域は水害の多かった地域ですので、御舟にのったお地蔵さんは水難除けとしての願望も受け、岩船信仰の流行が終わった後も当地の民に長く親しまれてきました。さらに、湯沢の船乗り地蔵さんのように、病気平癒や旅の安全を願う対象としても大切にされてきた経緯があります。

 南アルプス市ふるさと○○博物館では、市内に岩船地蔵さんが何躰あるのか?どこにいらっしゃるのか? 過去の調査資料とフィールドワークで集成をしました。

Sk0120231220_16231221 ←「南アルプス市の岩船地蔵(舟乗り地蔵)一覧表」南アルプス市文化財課 〇博調査員作成

どうぞ、デジタル地球儀を使って地図上で場所も確認できる「南アルプス市ふるさと○○博物館『〇博アーカイブ』をご利用いただき、その所在分布なども愉しんでいただけると幸いです。

参考文献:

『中巨摩の石造文化財』平成7年 中巨摩郡文化協会連合会郷土研究部

『山梨県の岩船地蔵』1999 岡野秀典 山梨考古学論集Ⅳ

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