白根地区

2020年10月14日 (水)

飯野専売支局敷地境界石

 こんにちは。
3611-2  白根地区飯野にある、富士川街道・倉庫町北交差点の北西部分にあたるブロックは、明治時代に当市域の主産業であった煙草産業の中心地でした。

その場所には、明治時代から大正時代のはじめに、山梨県内の農家で収穫された葉煙草が集められる飯野専売支局が置かれていたのです。そのため、乾燥した葉煙草を納める倉庫が立ち並ぶ様子から、倉庫町と呼ばれるようになりました。


 先日、周辺を〇博踏査した際に、飯野専売支局敷地の四隅にあったと考えられる境界石の現状を確認してきましたので、ご報告します。


←飯野専売局敷地の境界石。かつて4つあったと伝えられるうちの一つ。(令和2年10月5日撮影)


361197-7 ←飯野専売支局敷地の境界石の裏書。「明治三十五年十月建之」とある。(令和2年10月2日撮影)

境界石は今年で118歳!ということですね。

 


361197-3←境界石の上部に刻まれた十字マーク。(令和2年10月2日撮影)

361197-6  飯野専売支局の敷地は、大正6年以降に区画が細分されて民間に払い下げられました。現在は何軒もの家々が建ち並ぶ住宅地となっていますが、ちょうど旧敷地内の真ん中あたりに、地区の公会堂があり、飯野専売支局敷地境界石の一つが、その前の花壇の花々に囲まれるようにして立ち、保存されています。


←飯野専売支局旧敷地内のほぼ中央部にあたる飯野第十一区公会堂前の花壇に、境界石の一つが移設され遺されています。(令和2年10月2日撮影)


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←「明治36年3月に専売局から上八田の小野元二郎氏に支給された月俸十二円の証書」 (南アルプス市文化財課所蔵・上八田小野家資料より)小野元二郎氏は旧百田村に明治三年生まれと記録がある人物です。

 

 明治37年以降に、当地での煙草産業が衰退しはじめ、大正6年以降は煙草倉庫はなくなった倉庫町でしたが、その後は蚕糸業の隆盛とともに、周辺に数多くの大製糸場ができ、繭倉庫や大工場が並び、活気は昭和50年代までそのままでした。


 これまでに、南アルプス市域が、木綿→たばこ→蚕糸→果樹へと産業を進展させてきた歴史のうち、たばこ産業時代の一ページを、明治時代から100年以上、ずっと同じ敷地内に立ち、静かに物語る飯野専売支局敷地境界石です。 手入れの行き届いた花壇で、美しい花々に囲まれ、地域の人々に大切にされている情景に、心和んだ〇博調査員でした。

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←かつての飯野専売支局敷地東端一帯。手前の道は富士川街道(令和2年10月2日撮影)


3611 ←かつての飯野専売支局敷地西南角より倉庫町北交差点に向かう道。(令和2年10月5日撮影)※タップすると画像が少し拡大します。

※参考年表
明治29年 :葉煙草専売法施行。
明治30年 :葉煙草専売官制公布。
明治35年 :官制改正で東京専売局飯野出張所建設。
    葉煙草収納倉庫建てられ倉庫町といわれるようになった。
明治37年 :最盛期(作付反別526町7に達する)日本中部における重要産地になっていた。
明治37年 :煙草製造工場が国営になる。
大正5年 :葉煙草耕作も禁止。
大正6年 :倉庫町出張所も廃止。

2020年10月 9日 (金)

巨摩高校前駅・倉庫町駅・甲斐飯野駅

こんにちは。
2_20201009161301  今月に入ってから、コミュニティバスを利用して、在家塚から小笠原までの富士川街道沿い周辺を踏査しています。
 その途中で、ボロ電の駅跡の場所をいくつか撮影していたので、古い写真と比較しながらご覧いただきたいと思います。
 ボロ電に関する古写真については、撮影者の岡部禹雄氏の御子孫より、17点の現画像・3点の画像データを昨年度に南アルプス市文化財課にご寄贈くださいましたので、今回、活用させていただきます。

 通称「ボロ電」は、昭和5年(1930)~昭和37年(1962)までの32年間、甲府から南アルプス市域を経由して現在の富士川町にあった甲斐青柳駅まで、およそ20キロメートルを結んだ路面電車のことです。32年間のうちにこの鉄道の名称は、運営会社の買収や改名などにより、甲府電気鉄道→山梨電気鉄道→峡西電気鉄道→山梨交通と移行しています。
戦後になると、車社会の進展により利用者が減り、質素な小屋のような駅舎やところどころに草の生えた線路の状況に、いつしか「ボロ電」の愛称でよばれるようになりました。
 
 2_20201009161101  では、まず、「巨摩高校前駅」のあった場所からご紹介しましょう(令和2年10月2日撮影)。

←巨摩高校前駅跡を北から南方面に撮影(令和2年10月2日撮影)


 巨摩高校前駅跡に行くには、南アルプス市のコミュニティバス発着の起点となっている市立美術館バス停から、ボロ電廃軌道を南に歩いていきます。さらに、春仙美術館南交差点をさらに少し南に歩くと、左手に巨大なジャングルジムみたいな東京電力明穂変電所の構造物が見えてきます。そのあたりが巨摩高校前駅のあった場所です。ちょうどコミュニティバスの富士見町バス停のある場所ですよ。 

4_20201009161101 ←巨摩高校前駅跡を南から北方面に撮影(令和2年10月2日撮影)


002img20190909_16282430 ←岡部禹雄氏撮影の昭和30年代撮影の巨摩高校前駅(南アルプス市教育委員会文化財課所蔵)


8 現在の写真と見比べてみてください。 

←旧巨摩高校前駅(令和2年10月2日撮影


002img20190909_13150474 ←岡部禹雄氏撮影の昭和37年頃撮影の巨摩高校前駅(岡部家所蔵)

6_20201009161201 ←この場所では、ホームの痕跡も見つけることができるのですよ!ホーム部分と思われる場所の東側にまわってみると、下部に石積みのようなものが見えます。


10 ←ここはかつてホームを降りる階段があった場所だと思われます。


 3686  こちらは、倉庫町駅跡周辺です。シラネパックさんの敷地あたりが駅だったといわれています。ちょうど現在の桃園交差点の北西部分にあたります。この倉庫町駅周辺には、泰平館・石原・甲西社・天行館・グンゼ飯野工場・斉藤・巨摩社などの大製糸場がボロ電操業期間に存在したので、そこに働いた多くの工女さんたちもこの倉庫町駅を利用したのではないでしょうか。

 ちなみに、巨摩高校前駅と倉庫町駅の間にあった桃園駅は、現在の桃園神社敷地南東交差点脇にあり、駐車場にかわっています。この場所については、桃園地区踏査の際にしっかり撮影したいと思います。

34375-2  ←こちらはかつて甲斐飯野駅があったあたりです。赤で記したところにホームがあったのだと思います。


002img20190909_15135817 ←岡部禹雄氏撮影の昭和30年代撮影の甲斐飯野駅(南アルプス市教育委員会文化財課所蔵)


開業からずっと飯野驛とよばれた駅は、昭和25年9月から、国鉄との連帯運輸開始に伴い、駅名が「甲斐飯野駅」に改名されました。


甲斐飯野駅から甲府へ向かう次の駅は在家塚駅ですが、現在は、道の駅しらねの場所になり、そこは、コミュニティバスのバス停「JA在家塚支所」でもあります。


 Photo_20201009161301 実は、昭和23年に製造されたボロ電の車両が、現在走っているコミュニティバスの塗装でよみがえっています。

ですから、コミュニティバスに乗って市内を走ると、50年以上前に走っていたボロ電にホントに乗ってる気分になって、効率よく懐かしのボロ電駅ツアーができてしまうという素晴らしさ!を実感した〇博調査員です。

今後の小笠原や曲輪田方面への調査でも、コミュニティバスが大活躍しそうです。

ボロ電塗装車は他に青色バージョンもあるので、今度乗車する日が楽しみです。

2020年8月 7日 (金)

農間渡世は棉商い

こんにちは。
Dsc_0379  Dsc_0395  連日の猛暑ですが、みなさまお変わりなくお過ごしでしょうか?

←伝承館2階のベランダで種から育てている綿は、梅雨が明け後のこの猛暑を待ちわびていたかのように力強くなり、どんどん実をつけはじめました。

そして、すでにその実もはちきれんばかりに大きく膨らんできています。お日様の力は偉大ですね!

 さて、綿の実といえば、最近、農業の合間に綿商いを渡世(稼業)としていた在家塚(白根地区)の八百助さんという人が、仕事で現在の韮崎市方面に出かけた帰り道に、大変なトラブルに巻き込まれてしまった事件に関する、江戸時代(嘉永五年・1852)の文献を読みました。 ご紹介したいと思います。


この文献は、具体的なトラブルの内容も野次馬根性的な好奇心を満たすに十分な内容なのですが、それ以上に、原七郷で江戸時代に行われた綿産業の実態が、八百助さんという一人の「農間綿商人」の活動を通して垣間見ることができるということが素晴らしいです。


 原七郷の産業の中で、養蚕以前では、綿は、煙草・藍と並んで根幹をなすものでした。甲州の西郡綿が、江戸時代の終わり頃に、在地の人々によって、どのような仕組みや過程をもって流通され、商売として成り立っていたのかを知ることができそうです。


 では、読んでみます。

(※画像をタップすると拡大できます)
Photo_20200807140101在家塚中込茂家所蔵資料 「文献72 鯛兵衛一件」

『     乍恐以書付奉願上候

巨摩郡在家塚村百姓卯右衛門幷弟八百助一
同奉申上候 右八百助儀者 卯右衛門同居罷在越農間
棉商ひいたし 近村々へ日々買出し罷越し
渡世相励み 尤買入候種木綿目附相頼繰綿と
いたし 所々へ売捌罷在候 然ル処右商ひいたし
河原部村緒方有之 去ル三日同所罷越 夫々届集メ
帰宅の途中 下條東割村平四郎後家ひなと申物ハ
去ル嘉永申(嘉永4年)綿繰御座候度ニ相頼ミ候ものニ付 当年
之渡と相附□ 右ハ八百助義ひな方へ寄候処 酒を振

Photo_20200807140102 舞 夜に入四ッ時頃(午後十時)同人宅表裏ゟ兼テ見知候
同村百姓鯛兵衛多右衛門霜多郎祖代吉亀太郎
米吉弁次郎儀兵衛倅栄吉浅七倅幸吉嘉蔵
弟賢吉金兵衛倅和重郎其外不躰不知名者
壱両人(ひとりふたり)一同立入 理不尽不法 八百助を打擲に
および且同人所持罷有候甲金壱分文金弐両
壱分弐朱銭壱貫三百文程財布侭幷紬絹羽織縮緬の
頭巾拵附脇差とも奪取 其上鯛兵衛多右衛門
重て藁縄を以縛り猶打擲ニおよび候ニ付 苦痛ニ

 

 

Photo_20200807140103 絶兼声立候處 追々隣家の者とも寄集り
縄解呉候所不法の始末同村役許へ申出調□□
心得候得ども右様大胆のもの共に付同所罷在候□ハ
如何様儀出来候も難計 早速其場を引取り
帰宅いたし前条の次第(在家塚村の)村役許へ訴出候處
直様(すぐさま)下条東割村名主許へ掛合および候得ども
不取(首)尾挨拶いたし心外至極に難捨置 不顧恐
奉出訴候 何卒格別之以御慈悲ヲ前出名前者共
一同被召出右躰不法の働いたし候始末 厳重の
御吟味被成下 被奪取候品々差戻し以来右躰の

 

Photo_20200807140104 働キ不仕様被仰付被下置度此段偏ニ
奉願上候
右の通御聞済被成下置候ハバ偏難有仕合ニ
奉存候以上

願主 卯右衛門
幷弟 八百助
組合 伊三郎
親類 三蔵
名主代 仙助

市川 御役所様 』

 

以下は、〇博調査員の超訳まではいかない意訳です。(注※まじめになり過ぎずに読んでください)
Dsc_1078「在家塚に住む卯右衛門の弟の八百助は農業の合間に棉商をしている。
具体的には、近村農家で木綿(収穫した綿の実)を買い入れて、別の農家へ種を取り除く作業を依頼し「繰綿」にして、それを売りさばくという渡世(稼業)をしていた。
ある日、河原部村(現韮崎市街)の緒方(篠巻をつくる作業場か、もしくは糸を紡ぐ作業場か?)へ繰綿を売りに行った帰りに、事件は起きた!
 Dsc_1071 ←綿繰り作業の様子。ハンドルで上下に重なるローラーを回し、その間に綿実を通すと、手前に種が落ち、綿と種を分けることができる。


(注※続きのここからはどうしても、おばさんの噂話風口調になりますが、お許しください)
 韮崎(河原部村)で綿の商売がうまくいって、懐も温まったところで八百助さんの気も緩んだんでしょうかねぇ?
まっすぐ家に帰ればいいものを、よせばいいのにねぇ~、
 八百助さんは、帰り道の駿信往還沿いにある下條東割村の、未亡人のひなさんの家に寄ったんだよぉ~。
どうやら前年の嘉永4年の秋に繰綿を頼んだことがあるもんだからその支払いもあってのことだったようだけどさぁ~。
でも、酒をふるまってもらった上に、夜中の十時頃迄ひなさんの家でくつろいでいたんだから・・・。ひなさんってきっと美人だったに違いないよね(おばさんの個人的見解)。

 そんなところへ様子をかぎつけた、鯛兵衛はじめ15・6人の上條東割の若者たちが、ひなと八百助のいる家にどっと入ってきた! そして、なんと、八百助を、『理不尽不法』に『打擲(ちょうちゃく)』、コテンパンにやっつけちゃったんだってよ~!
 さらにひどいことに、八百助の所持金(『甲金壱分文金弐両壱分弐朱銭壱貫三百文程』を財布ごと奪ったほか、身に着けていた絹の羽織や縮緬の頭巾、脇差(わきざし)までも取り上げて、荒縄で縛り上げてボッコボコにしたらしいんだよぉっ~!! 
 可哀そうに、縄で縛られたまま大勢に痛めつけられた八百助さんは、あまりの苦痛に大声で泣き叫んで助けを求めるしかなかったそうなんだよ。そうしたら近所の人がやってきて助けてくれたらしいんだけど・・・・・。

 八百助さんは、帰宅して在家塚の村役に相談して、すぐさま下條東割村の名主さんに掛け合ってもらったけれど、「ぜんぜ~ん誠意が感じられなかったので怒りが収まりません(『不首尾挨拶いたし心外至極に難捨置』)」ということで、市川の代官所に吟味をするように訴える文書を出したってことさ。
(※〇博調査員おばさん口調風訳は、以上で終わり)」

 西郡綿は、煙草とともに駿信往還を経て、長野県の諏訪・松本・南佐久方面に多く移出され、繰綿(種やごみを取り除いた綿の実)として、または冬の農閑期を利用して糸に紡ぎ布にして広く販売されました。
 この文献では、はじめの記述で当時の西郡綿の商いの実態がコンパクトにまとめられており、とても興味深いです。
その内容から、①在家塚の近村農家では江戸時代終わり頃に木綿栽培が多く行われていたということ。②原七郷で生産された「綿を各農家から買い取って→農家へ綿(実)繰り作業の依頼をし→収集して繰綿の売買を行う」というような商品作物として綿を流通させる仕事を持つ人が在家塚に居たということ。③韮崎に「緒方」と呼ばれる、繰綿を売りに行く場所があったということ。④御勅使川を渡った現韮崎市の下條東割村の住人にも綿繰り作業を頼んでいたこと。が判ります。
 しかし、そもそも「緒方」という場所がどのような作業を行う場所だったのかが不明です。当時甲府には、糸車で糸を紡ぐ前段階としての綿の形態である「篠巻」を売る店が数多くあった(甲州文庫の「甲府買物独案内」に多く登場)ようですが、韮崎のいわゆる「篠巻屋」さんと「緒方」と呼ばれる場所との関係はどうなのか?については、今後調査を深めたいと考えています。

 さらに、面白いのは、下條東割の鯛兵衛をはじめとして次々と名前の挙がる15人ほどの若者から、寄ってたかって打ちくじかれて奪い取られたものの記述を見ると、基本は農民であるはずの八百助の、上等な服装や所持品がわかり、たいへんなおしゃれさんであった人物像も想像できるところです。たぶん、八百助さんは、界隈で歩いていても目立つ人でしたよね。綿商いする人は羽振りがよかったのでしょうか?
八百助さんはきっとおしゃれな美男子で、韮崎の若者たちが普段から「気障でいけ好かない男」だと、敵対視するほどの人物だったに違いない!と想像してしまいます。
 でも、「ちょっと懲らしめてやろう」としたところが、下條東割村の鯛兵衛さんたちは、いくらなんでもひどくやりすぎてしまいましたね。
 結局、在家塚の名主を通して市川の代官所にまで訴えられてしまって大ごとになってしまったようです。

Photo_20200807140106 Photo_20200807140105  ←この一件に関する文書が、実はもう一点、同じ文書資料群(在家塚中込茂家所蔵資料 文献70)にもあります。
 こちらは、在家塚八百助側が市川代官所に訴えた文書(中込茂家資料 文献72)を受けて出されたもので、訴えられた下條東割村名主が、問題を起こした鯛兵衛を含めた11人の記名捺印をもって、被害に遭わせた在家塚村八百助と家長で兄の卯右衛門宛に謝罪文を送ったものです。在家塚村に近い飯野村の長百姓・長右衛門に証人なってもらい、事を収めたということでしょう。 年記は嘉永五子年二月七日(1852)となっています。

 このころは、在家塚出身の若尾逸平が、最初の結婚で婿に入った小笠原の常盤屋を立て直し、近隣でその力量がみとめられはじめた頃です。八百助さんの家は、若尾逸平生家とご近所さんですから、後に甲州財閥となる逸平さんとは顔見知りだったでしょうね。そんなことも考えると、石ころだらけのやせた土地の広がる原七郷のど真ん中にある農村であっても、商才にあふれた人物たちが自信満々に闊歩する在家塚村の風土が想像できるような気がします。その二年ほど後に、ご近所さんの若尾家は、甲府へ、横浜へと出て、甲州財閥に成長していくわけです。
Photo_20200807140002 Photo_20200807140001  ←明治30年代以降になると、八百助さんの家である在家塚中込家には、糸繭商や煙草栽培を行ったことが判る資料がみえます。

←在家塚中込茂家所蔵資料

明治31年ころから外国綿花の輸入により、それまでの綿商いが立ち行かなくなり、取り扱う商品を繭糸や煙草にと、時代に合わせて次々代えていったようです。


 〇博で調査した在家塚中込家資料の中に、綿に関しては買入帳のようなものは残されていなかったのですが、この「鯛兵衛一件」のような事件が起こったことにより交わされた文書が残されていたため、江戸時代の在家塚村綿商の活動を示す資料の発見となりました。

事件後に即、市川代官所に訴えた在家塚村としては、同じく綿商を営む村民が不利益を被らないためにも、商売上で関わる近隣村者との争いに対しては、早期の対応と解決が求められたのだと思います。

P.S.(※今日の本題から外れてしまいますけれども・・・)
 それにしても、中込茂家資料・文献72文中の『不取(首)尾挨拶いたし心外至極に難捨置』というくだり。
八百助をはじめとして、これをしたためた在家塚村の人々の気持ちがなんだかすごく伝わってきます。 潔いくらいに直球な物言い! 参考にしたくなりました。 うん、わたしも、今度、夫婦喧嘩の書き置きに使ってみよう!

2020年6月30日 (火)

養蚕の錦絵を愉しむ

こんにちは。
 昨日までの大雨から一転、今日は梅雨の晴れ間。ジリジリ照り付ける太陽の光の強さに、「そうだ、6月下旬からは夏蚕(なつご)の季節であった!」ということを思い出しました。
 収蔵資料の中には、養蚕に関する資料がもちろんたくさんあるのですが、今日はその中から、うっとうしい梅雨の気分を払って晴れやかな気持ちにさせてくれる、パッと色鮮やかな養蚕の錦絵をご紹介します。


002img20200623_13155284←「養蚕図絵第三 にわの休 : 梅堂国政筆 」飯野新田石原家資料より


 女性たちが家の中で飼っているカイコに桑の葉を与えている場面ですね。外には蚕の守り神でもある馬が、桑の葉を背に付けて運んで来ました。


  題名にある「にわ(庭)の休」とは、金色姫伝説に起因する江戸時代における蚕の飼育期を指す言葉で、蚕が繭を作るまでに4回脱皮するうちの、4回目の脱皮前休眠状態期(四眠)のことを示していると思われます。

※蚕は、卵からふ化してから繭を作るまで、4回の脱皮を繰り返して成長します。脱皮ごとに成長期は1齢・2齢・3齢・4齢・5齢の区分で表記しますが、伝統的に養蚕地帯では、1齢を「獅子」→2齢を「鷹(竹)」→3齢を「船」→4齢を「庭」と表現していました。
 これは、先人たちが養蚕守護のために信仰していた茨城県つくば市に本社とする蚕影神社の縁起にある「金色姫(こんじきひめ)伝説」に由来します。
 ざっくりとこの伝説のあらすじを言うと、「継母に疎まれて4度も命を狙われるも、その度に救出された金色姫は、最終的に蚕に生まれ変わり養蚕をもたらした」というものです。
 その中に、「姫は継母に、一度目は獅子などの猛獣がいる山に捨てられ、2度目は鷹などの怖い鳥がいる山かもしくは竹藪に置き去りに、3度目は船に閉じ込められて海に流され、4度目は庭に埋められるのですが、その度に助け出されて生き返る」という文脈があり、この姫の受難は、「死んだようにしばらく眠った後に起きて脱皮することを4回繰り返す、蚕の生育過程」を示しているとされています。

 ↑右端の女性が持つ平かごのカイコが、ちょうど「庭の休み=四眠」なのでしょうか? 
刻んでいない桑の葉をかごに入れて立つ女性が、「もうそろそろ起きたかい?」と声を掛けたのに答えて、かごを持ってカイコの状態を見た右端の女性が「いや、全部起きてないから、桑付けは、まだおあづけだねぇ~」と答えているような気がします。

この錦絵には、「金色姫伝説」と並んで、日本における有名なもう一つの養蚕起源説である「馬娘婚姻譚(捜神記)」に由来する「馬」が登場しているところも興味深いです。馬は養蚕と関係の深い動物として、養蚕具に意匠として施されたり、養蚕繁盛の信仰対象になったりもしました。養蚕の文化は奥深いです。

次の錦絵もご覧ください。
002img20200623_13232575 ←「蚕養草:国利」飯野新田石原家資料より

この絵の蚕はかなり大きく太っていますので、たぶん、繭を作る直前の5齢期だと思います。

枝をかごに入れているところを見ると、そろそろ糸を吐き始めるころなのでしょう。

養蚕はこの時期が一番忙しいので、子を背負った母の表情にもその余裕のなさが出ている気がします。また、母の気持ちを少しでも自分に手繰り寄せようとする、子のけなげな手の表現にも惹きつけられます。


 題名左の文には、
『かいこおおねむり
 おきしてのちは
 くわの葉をくるる
 ことおおくして猶
 なたねのしべなどを
 入てすをつくる也』
と書いてあると思います。

すなわち、先に1枚目でご紹介した「にわの休み」後の、「五齢」以降の蚕の飼育要領を示した文言だといえます。

「蚕が大眠り(四眠・にわの休み)から起きた後は、桑の葉を多く与えて、その後は菜種の実を採った後の枝や藁の穂の芯などを入れると、す(繭)をつくる」という意味でしょう。

 

では続いて3枚目の錦絵もご覧くださいませ。
 002img20200623_13113006 ←「養蚕図絵 第五 あがりの図 : 梅堂国政」飯野新田石原家資料より


 この絵は、粗朶(そだ)につくらせた繭を吊るしてかけて置き、十日ほど経ったところで収穫している場面です。

乾燥中の繭はネズミの大好物ですから、赤い首輪の猫様がちゃんと見張っていますね。

収繭と並行して、繭を茹で、手回しの座繰り器で糸を繰る作業を行っているところも興味深いです。江戸時代は乾繭技術が未発達でしたから、各家では、繭中のさなぎが羽化する前に煮て糸を繰る作業が必要でした。

うまく繭が仕上がって満足そうな女性たちの笑顔が印象的ですね。

 

 

 以上3点の養蚕の錦絵はいずれも出版人が「堤吉兵衛 日本橋吉川町五番地」とあり、養蚕図絵2枚の出版届出が「明治二十年九月七日」となっていました。堤吉兵衛は元は浮世絵の版元であったのが、明治時代からは錦絵や絵草紙の問屋になったようです。


 江戸時代の浮世絵文化を引き継いだ錦絵は、あでやかな色彩や構図で現代の私たちを美術的に楽しませてくれるだけでなく、特に養蚕の様子を描いたものは、当時の様々な情報を視覚的に伝えてくれる貴重な資料だと実感しました。今度、養蚕について勉強する子供たちにも見てもらおうと思います。

久しぶりに絵を細部までじっくり鑑賞しました。あ~、たのしかった!

2020年5月 1日 (金)

西郡で見つかった「おかぶと」

こんにちは。 もうすぐ端午の節句ですね!
Dsc_0423   

←白根地区桃園K家所蔵の「おかぶと」


 おかぶと(かなかんぶつ)は、江戸時代から明治時代までに甲府の細工物問屋で独自に作られた端午の節句飾りです。明治時代頃まで、山梨各地で飾られていました。

Photo_20200501170901 しかし、明治時代以降、全国的に流通した節句の室内飾りの台頭により作られなくなりました。このおかぶとが飾られていたことを記憶する人も現在ではいらっしゃらないとおもいます。

←明治以降急速に普及した端午の節句の室内飾り(櫛形地区中野山王家資料より)


 昨年の安藤家住宅では南アルプス市文化財課所蔵のおかぶと10点を一挙公開展示致しましたが、今年は疫病流行の関係で端午の節句に関連する展示活動ができません。

Dsc_0043_20200501170601 ←令和元年5月の南アルプス市重要文化財安藤家住宅での端午の節句「おかぶと」展示の様子

残念ですが仕方ないので、過去一年間の○○博物館の調査で訪問したお宅で出会ったおかぶとたちを撮影した画像をご覧いただきたいと思います。


Dsc_0425  櫛形地区桃園にあるお宅に伺った際には、お蔵で大切に保管されていた、亡きおじいさまの初節句に贈られたおかぶとを見せていただたきました。

 

Dsc_0424 ←白根地区桃園K家所蔵の「おかぶと」 Img20180424_13554205←おかぶとはかつて、このような飾り方をされていました(上野晴朗「やまなしの民俗」による)

通常、飾り方の図にあるような、「まえだち」の部分を構成する「おうしょう」「くわがた」の部品には、なかなかお目にかかれませんが、このお宅では「まえだち」の部品が一緒に保管されていました。さらに、「たれ」の部分の保存状態もとてもすばらしかったです。

 

次は、甲西地区湯沢のお宅からご寄付いただいたおかぶとの面2点です。モチーフは信玄と勝頼か源氏の大将でしょうか?

Photo_20200501170701←甲西地区湯沢依田家資料

以下は、文献に残されている「おかぶと」の画像です。 
1957 3_20200501170801 Img20180424_13535639 ←左から、

・西沢笛畝「日本の人形と玩具」1957 、
・山田徳兵衛「新編日本人形史」1961、

・上野晴朗「山梨の民俗上巻」1973 

 

 

 

 

 

 

 

 ここ数年の〇博の調査で、甲州西郡(にしごおり)の南アルプス市内各地区でも、甲府の細工物問屋がつくった「おかぶと」という甲州独特の節句飾りを購入して飾っていたということがわかってました。


来年こそは、ふるさと文化伝承館で「西郡のおかぶと展」を開催できるようになっていてほしいと願う〇博調査員です。

2020年3月 4日 (水)

令和最初の上八田西小路百万遍講

こんにちは。
Dsc_1658  令和最初の上八田西小路の百万遍講は1月14日午後3時から、道祖神場に集合して始まりました。

新しく作られた梵天飾りを置き、お参りしてから、正月飾りや昨年の百万遍の飾りをその前で燃します。


つづいて、午前中に切紙で飾りつけした百万遍の当番家に移動して、お念仏を皆で唱えます。

その具体的な様子は昨年の当ブログ記事の白根地区カテゴリーの中の「上八田西小路百万遍」の前・後編2019年1月23・24日の記事をご覧になって参考にしてください。


Dsc_1667  上八田の百万遍は、地域の人々が集まって鉦(かね)と太鼓を鳴らしながら念仏を唱えることで、疫病退散や家内安全を願う行事です。

年に一度の百万遍講は地区内の当番の家(当家・とうや)の座敷を斎場として、一年ごとに順に各家を回って行われています。

その年の斎場となった家では、座敷内に縄張りがされ、オシンメイ(お注連)や御札、提灯が飾られます。


Dsc_1638 Dsc_1636  昨年までは上八田内の薬師小路・大下小路・西小路でそれぞれ百万遍を開催していましたが、令和となった今年からは西小路のみが例年通り行ったようです。

朝早くから人々が当番の家に集まり、独特の切紙飾りをつくって会場を異空間に整える様や、当番の家での接待に手料理の腕を振るう女性たちの頼もしさに、昨年の取材ではたいへん感動させられたので、正直、少し寂しく感じてしまいました。

 

4083← 南アルプス市文化財課〇博調査で収蔵した平成31年の「上八田西小路百万遍講お飾り」の民俗資料

そのため、より一層、この百万遍に伴う文化を少しでも多く記録に残しておこうという気持ちがおこり、西小路の昨年の切紙飾りを、○博調査に伴う資料として南アルプス市文化財課で収蔵させていただくことにしました。

 

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今年は飾り作りの際に、ばっちり〇博調査員も参加させてもらったので、切り方・折り方も教わりましたよ。

いつか、ふるさと文化伝承館での展示に活用できたらいいなと思っています。


  西小路の百万遍は、昭和48年発刊された「やまなしの民俗・下巻」上野晴朗 でも、阿弥陀信仰の中の念仏講に強く結びついた例として紹介されており、その当時の行事内容の記述もあります。昭和40年代と現在では、また少しちがうところもあるようですから、その部分をご紹介しておきたいと思います。
『・・・念仏講そのものを単に百万遍と呼んでいるところも多い。白根町上八田西小路の百万遍などその例で、ここでは一月十四日の晩に講中の集まりがあるという。当番の家が斎場となり、天井に注連を張り提灯を吊し、正面の床の間に南無阿弥陀仏の掛けものを掛け、団子をあげ、御幣を立てて、太鼓を叩きながら、弥陀の名号を唱えるのであった。その際、昔は大きな百万遍の数珠を用いたという。(上野晴朗「やまなしの民俗・下巻」昭和48年より)』

002img20200219_12133705 ←『上八田の百万遍(念仏講の姿である)』上野晴朗「やまなしの民俗・下巻」昭和48年より


写真も付されていたので、斎場の切紙飾りを伴う飾りつけは、現在と同じことがわりますが、記述にあるような団子はいまは作っていません。また、念仏講が現在行われている日中ではなく晩からであったことと、数珠はすでに昭和40年代には失われていたということがわかりました。

Dsc_1670 Dsc_1647 このように、先輩の遺してくれた記述はたとえほんの一部であってもたいへん参考になります。私も日々見習いたいと思っています。

 

←令和2年1月14日午後3時頃撮影の西小路百万遍

2019年9月20日 (金)

西野にあった菓子屋の引札

こんにちは。
 このたび所有していらした方から、〇博の資料として活用して欲しいという、ありがたいお申し出をいただき、南アルプス市にゆかりの引札(ひきふだ)16点をご寄贈いただきました。
 引札とは、江戸時代からはじまった広告の一種で、商店の所在地と取扱商品が記されたいわゆるチラシ(フライヤー)のことです。浮世絵の技術を応用した多色刷りで色鮮やかな広告絵は庶民の楽しめる手軽な美術品としても好まれました。新聞の折り込みチラシに取って代わられる大正時代中ごろまで流布したようです。
Dsc_0697  新収蔵の16点のうち7点が菓子商のもので、今回はその中から、白根地区西野にあった菓子製造所のものを2枚、飯野にあった1軒、小笠原にあった1軒の計4点をご紹介したいと思います。
 南アルプス市域 は江戸時代より駿信往還沿いに菓子文化の栄えた地域であったことは今までの文化財課の調査や展示活動で明らかになってきていましたが、高尾街道沿いにあたる西野にあった菓子店の存在は不明でした。
←菓子型

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←西野の菓子製造所引札「紅葉と娘二人」
 鼓を打つ娘に合わせてもう一人が扇子を持って踊っています。二人の背後にはもみじが美しく紅葉していますね。
 年記:なし 商業種:菓子製造所 ヤマにエ
 地所:中巨摩郡西野村
 名:笹本永作
001img20190625_14434349 ←西野の菓子製造所引札「スミレの花と姉妹」
 美しい姉妹二人の背景にはスミレの花があり、姉妹と背景の間に雪景色の情景が写し出された「こま絵」と呼ばれる画像が挟み込まれています。正月に配った引札に春を待ちわびる気持ちを託したのかもしれませんね。
 年記:なし
 商業種:菓子製造所 ヤマにエ
 地所:中巨摩郡西野村
 名:笹本永作
 発行所:明治四十年七月十日印刷同年八月三十日発行印刷兼発行者大阪市東区備後町三丁目二十七番屋敷平民古島竹次郎
このたび、秋と春のバージョン違いで2枚の引札が見つかったことで、西野にも明治時代の終わり頃には菓子製造所があったという証拠になりました。
Dsc_0674西野在住の郷土史大家である小野さんにも見てもらい情報提供をお願いしたところ、かつて菓子屋という屋号で呼ばれていたお宅の所在が南アルプス市西野池之端辺りだと判り、この引札を配った菓子店が大正時代か昭和初期まで営業していたらしいという近所の方の証言もいただきました。
←西野の菓子屋について調べてくださった小野カツオさん。ありがとうございます!
 正月に配られることの多かった引札にはその年の暦や郵便料金が添付されたものもありますので次にご覧ください。店の名前を忘れずに一年間活用してもらえるようにとの工夫が感じられます。
001img20190625_14482297 ←飯野の菓子製造所の引札「応挙色紙持った女学生と牡丹に桃の絵馬風」
 袴姿の女学生が応挙と銘のある宝珠が描かれた色紙をもっています。その前には美しい牡丹の花が配され、明治時代になり颯爽と出現した女学生という憧れの生き方とファッションを華やかに彩ります。この引札には暦と郵便小包の料金表が添付されており、店の名前を忘れずに一年間活用してもらえるように工夫されていることが判ります。現代でも正月前にひいきの商店から配られているカレンダーに通じますね。
 年記他:明治38年の暦入り・小包賃金表入り
 商業種:菓子製造卸小売 ヤマにカ
 地所:飯野村
 名:椚嘉七
 印刷所:明治三十七年七月十日印刷同年八月三十日発行印刷兼発行者大阪市東区備後町三丁目二十七番屋敷平民古島竹次郎
001img20190625_14234615-2 ←小笠原の菓子製造所引札「笑う門に福きたる」
恵比寿が訪れている洋館に、美女が大黒様を連れてきたという場面。お正月らしいたいへんおめでたい図柄ですね。明治33年の暦も添付されており、一年間家人の眼の付く場所に張っておくのにふさわしい、晴れやかな気持ちになる図柄ですね。
年記:明治三十三年略暦入り
商業種:蒸菓子製造所
地所:小笠原驛二丁目
名:松風軒 恵吉
遺された引札の存在は、かつて明治大正期に地域の人々が利用した各商店の存在を証明するものです。その美しい図柄(各店が通販カタログから好みの図柄を選び、発注した枚数を印刷所から取り寄せた)を眺めるだけでも充分楽しめますが、往時の流行や風俗のみならず、店の所在地や販売品の種類、販売者の名前等ふるさとの情報の詰まった引札は、明治大正期の地域情報を知る重要資料の一つです。
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 この度ありがたいことに、南アルプス市ふるさと○○博物館のプロジェクトにご賛同いただいた市外在住の所有者のご厚意で、これらの引札は故郷の現南アルプス市に里帰りすることができました。これから文化財課で活用させていただき、〇博アーカイブの地図上にも示す予定です。感謝申し上げます。
←ちなみに、ふるさと文化伝承館にただいま展示中のドーナツ焼き器とワッフル焼き器

 今回ご紹介した引札以外にも魚屋、足袋商、荒物、呉服太物、酒屋、綿屋、煙草屋、肥料、石油など様々な品を売る数々の店の引札が収蔵されました。明治大正期の時代観、特産物や町の様子も読み取ることができそうですので、順にご紹介していきたいと思っています。

2019年3月28日 (木)

猩々の人形と疱瘡神

こんにちは、みづほです。
Dsc_0541  安藤家住宅では、2019年は、4月8日まで貴重な横沢びなを50体ほど見られる「安藤家住宅ひなまつり」が絶賛開催中です。


横沢雛には童子をモデルとした人形が一番多いのですが、他に、成人女性や男性、妊婦、長生きの象徴としての老夫婦、七福神などの神様などモチーフに多くのバリエーションがあります。

 

その中でも、ひときわ異質な一点、赤い髪の中国の伝説の妖怪、猩々(しょうじょう)さんのお人形がいましたので、特別にご紹介したいと思います。

Photo   猩々は、能の演目にも真っ赤な装束で登場する中国の伝説上の生き物。赤毛で、人間のような容姿をしており、酒を好むとされます。赤いものを嫌う疱瘡神を追い払うという伝承もあり、子供の健やかな成長を願って送られたものと思われます。


 疱瘡とは、天然痘のことで、南アルプス市域では、嘉永3年(1850)に幕末に藤田村の広瀬家によって予防接種が行われるようになり、終息するまではたいへん怖い病でした。


 安藤家住宅で展示中の猩々の人形は、おそらく明治か大正時代に作られたものでしょうが、、子供の命を奪う天然痘の脅威がまだ人々の記憶に新しい時代であったのでしょう。

 

 

591  白根地区百々には、弘化三年三月(1846)に奉られたという疱瘡神の石造物があります。南アルプス市に種痘がもたらされるわずか4年前、この地で疱瘡が流行したのでしょうか?
 日本では昭和31年に撲滅された天然痘という病ですが、種痘が広まりはじめた明治期以降にも、撲滅するまで幾度かの流行があったようです。
591-9  当時の人々は、最も恐れる疫病の一つであった疱瘡を神格化し、対抗するためのアイテムとして赤髪の猩々を飾ったり、石造物として具現化することでこれを鎮めようとしたのですね。 自分たちの体に入り込むときにその姿や正体の見えない脅威対象に、昔の人はどう戦ってきたのか?
 南アルプス市に遺る、節句飾りの中に紛れ込んでいた猩々の人形と疱瘡神の石造物が、科学以前の対処法やその戦法を物語ってくれます。

 

←疱瘡神の石造物のある百々第一区公会堂の広場

2019年3月26日 (火)

上八田の葱苗出荷

こんにちは、みづほです。
Dsc_0908 苗の栽培と販売は、以前の記事でも書きましたが、白根地区上八田の伝統的な産業です。今回は、その葱苗の栽培者である小野さんにお会いできましたので、ご報告したいと思います。

白根地区上八田西小路の小野のりかずさんは、御年84才で、葱苗づくりこの道六十年!
Dsc_0909  のりかずさんの葱苗畑は上八田地内に三カ所あり、撮影は平成31年3月20日、スモモのサマーエンジェルの下に植えられた出荷直前の葱苗栽培地です。葱の種は、前の年の9月から10月のはじめに蒔いたそうです。
Dsc_0905 画像のように、一つのブロックで苗は6畝となっていますが、これは6本歯の専用の「ジョウレン(鋤簾)」で6つの筋をつけて、ちょうどよい量の小さな種をのりかずさんの熟練の手加減でまいていくとのこと。「葱の種まきは結構難しい」と教えてくれましたが、その量は手が憶えていて、のりかずさんは暗くても蒔けるのだそうです。
また、1ブロックが6畝の理由は、ブロックの両脇から世話をする際や、その間の草を抜く時にも、ちょうど手が届きやすいからだそうです。試してみると、脇から3畝までは、ばっちり、ちょうど手が届きます。なるほど!
Dsc_0895  上八田の葱苗売りは、毎年、三月上旬から五月中頃までの間に行われており、昭和30年代から50年代が最盛期だったそうです。平成に入ると、皆が葱苗栽培をやめていき、現在はのりかずさんくらいしか上八田では栽培していないとのこと。しかし、のりかずさんの栽培する葱苗は、毎年、富士五湖周辺の二つの農協と大口の取引があり、水はけの良い御勅使川扇状地で栽培する上八田の葱苗の質の高さは今も評判がよいそうです。
 
 親の代からやっていた葱苗栽培を引き継いだとのことですが、14才くらいから自転車で、山梨県じゅうに売りに行きました。県内でも、地域によって葱苗を植え始める時期がちがうので、これに合わせて暖かくなる順に、南巨摩(みなみこま)→東郡(ひがしごおり)→北巨摩(現在の北杜・韮崎)と地域を代えて葱売りにでかけます。 自転車には、前のかごに5貫目(18・75㎏)の葱苗、後ろの荷台に同じく5貫目入りのかごを2つ付けて、売りに出たそうです。(全部で56.25㎏!スゴイ!)北巨摩方面に売りに行くときには長い坂を時間をかけて上り、清里まで4時間ほどかかりました。
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目的の集落に着くと、「葱苗いりませんか~」といって、一軒ずつ訪問して売ったそうです。のりかずさんの談によると、「よく売れて楽しかった」とのことですから、たぶんたいへん上手な売り手だったのでしょうネ。 しかし、以前、上八田地区で同じように中学生時代に葱苗売の経験をしたという人にお話を伺った際には、「知らない地域で声を掛けて葱苗を売るのは思春期の中学生にはとても辛くて、全然売れずに・・・・・」という話も聞いていたので、葱苗を売る人にもそれぞれ悲喜こもごもあったのだなぁと興味深いです。「西郡の葱苗根性」なる言葉も生み出された背景にも想い馳せられます。(当ブログ2019年1月10日(木)記載記事「上八田で葱苗栽培現場発見」も合わせてごらんください)
 オーラルヒストリーは、同じ事柄やテーマについて、一人だけでなく複数の人から採集することによって、より奥行きのある捉え方ができるようになることを実感しました。この経験は今後の調査にも生かしていきたいと思います。

2019年3月 7日 (木)

白根に地上絵か?謎の図像を追ってみた

こんにちは、みづほです。
 ○○博物館で作成している〇博アーカイブを見ていて、いつも航空地図上で気になる場所があるんです。
Dsc_0858_2  個人的に、ナスカの地上絵ならぬ「白根の地上絵、竪櫛の図!」と勝手に名づけて目印にしています。
アーカイブ上で白根地区をズームして見ると、御勅使川扇状地の中央付近に、その図をみつけることができます。
飯野方面から東方に延びる黒い線が、南北にはしる県道(駿信往還)にぶつかるあたりできれいに5本の筋に分かれ、さらに東へと、ほぼ等間隔に延びていきます。まるで竪櫛のように見える場所!
(※竪櫛(たてぐし)とは、髪飾りとしても使われた縦長の古代の挿し櫛です。)
Dsc_0858  ←〇博アーカイブ上では、このように見えます。(〇博アーカイブ:archives.maruhakualps.jp)
 一体何がこの竪櫛のような地上絵に見えるのでしょうか?
今回、現地を調べてみることにしました。
Dsc_0847 まずは、山梨県道42号韮崎南アルプス富士川線沿いの飯野新町交差点付近にある現地に向かいます。
ここは、竪櫛の歯の根元にあたる場所です。この場所から東方面へと5本の歯が延びていきます。
そして、現場ではこのような水門を発見!
←現場にあった水門の西側から東方面に向けて撮影(平成31年3月6日)。水門より東には果樹耕地が広がっている。
やはり、地図上の黒い線は水路だったのですね。
ここは、飯野の西部から続く水路(セギ)に水門が設置されている場所のようです。
Dsc_0852 ←水門から西側の飯野方面、上流方向を撮影。この先に取水元の徳島堰がある。
Dsc_0846  飯野の西部へと、水路の上流を〇博アーカイブ地図上でたどると、徳島堰から取水されたものでした。(※徳島堰は水に乏しい御勅使川扇状地の扇央部を潤すために江戸時代に開鑿された、現在の韮崎市から南アルプス市にわたる全長17キロにも及ぶ農業用水路です。)
←飯野新町交差点側より東方向にあるタガシラを撮影。
  
飯野で徳島堰から分岐して、東へと流れてきた水はこの地点で5本に分けられているようですね。
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←『タガシラ』 在家塚にやってきた徳島堰の水が、水門とセギ(堰)の分岐で5方向に分かれる地点。(平成31年3月6日撮影)
 事務室に戻って文献を調べてみると、この水路は『タガシラセギ』と呼ばれ、水が5つにわかれる地点を『タガシラ(田頭)』というのだということが、山梨県の発行した「在家塚の民俗」という本に書かれていました。
Dsc_0857
江戸時代以降、扇状地のど真ん中に位置する在家塚での新田開発を可能にしたこのタガシラセギは、明治・大正・昭和と水田用の灌漑施設として使われ、その後の産業の移り変わりとともに、桑栽培、果樹栽培用へと使用され続けています。
1996_2 ←「在家塚の民俗ー中巨摩郡白根町ー」より 山梨県史民俗調査第三集 1996年3月発行
 また、タガシラで5つに分かれた水路には、それぞれ名前があるそうです。
北から『テイドウ』、『ジョウセギ(上堰)』、『チュウセギ(中堰)』、『ゲセギ(下堰)』、『ヤブセギ(藪堰)』と呼ぶそうです。
在家塚の北部に刻まれた竪櫛の地上絵は、水の乏しい扇央部に住む人々が、17キロも遠くの韮崎からやってくる水を引きこんで耕地を獲得していくという、江戸時代から続く営みが積み重なって出来上がった図像だったのですね。