果樹栽培関連

2023年5月16日 (火)

野売免許状の龍朱印

こんにちは。
   先日、〇博調査員は駆け込みセーフで山梨県立博物館で令和5年5月8日迄開催されていた企画展『印章 刻まれてきた歴史と文化』を観に行って参りました。展示解説も聴けてよかったです!

Dsc_0079←山梨県立博物館企画展『印章 刻まれてきた歴史と文化』の図録とショップで購入した「武田信玄の龍朱印せんべい」
お目当ての武田信玄が使用していた印、「龍朱印」もじっくり観て勉強することができ満足。それというのも、南アルプス市内で確認されている「菓もの類野うり免許状」という書状に押された印と信玄の本物の印とを見比べたいとかねがね思っておりましたので。

P1130201_20230516160001 ←1 「菓もの類野うり免許状 十五所澤登家所蔵」 天文10年8月
 こちらが市内の個人宅で今でも大切に保管されている「菓もの類野うり免許状」とよばれる文書です。信玄が出したものと云われ、天文10年(1541)8月と記され、龍をかたどった印、龍朱印が押されています。
 
 このような文書の類は、甲州の西郡(にしごおり)と呼ばれる地域(現在の南アルプス市市域)で武田信玄の野売免許状としてたびたび報告されてきた御朱印状です。文献等で報告されたものを数え上げると、これまでに市内で9点ほど見つかっています。しかし、残念ながらこれらの朱印状は信玄の活躍中に出されたものではなく、文化6年(1809)10月以降に作られ流布したものであるとの学術的判断がされています(詳しくは※2022年12月15日(木)当ブログ記事『にしごおり果物の軌跡は「柿の野売り」による行商活動からはじまった』または、南アルプス市ふるさと文化伝承館令和4年度テーマ展『にしごおり果物のキセキ』展示図録(100円で販売中)をご覧になってください)。
P1130662_20230516160001 ←令和4年度ふるさと文化伝承館テーマ展「にしごおり果物のキセキ」での 「菓もの類野うり免許状」等の展示状況
 偽文書であるとする理由として、①用紙が戦国時代のものではない ②永禄九年(1566)からしか見られない筈の奉者をもつ印判状が、天文十年(1541)に小幡山城を奉者として出ている ③全体の文言や書止文言が異様 なことの3点を笹本正治先生が論文(『甲州商人の特権伝説をめぐる一考察』昭和62年「甲斐路第59号」山梨郷土研究会)に書いておられます。しかし、そこに押された印についての言及はなかったので、さあ それでは、県立博物館での印章展から教えてもらい得られた情報を踏まえて、〇博調査員もいま一度、「信玄の野売り免許状」と対峙してみよう!と思いました。

 まずは、笹本先生の偽文書判定ポイントをである②永禄9年以降からしか見られない筈の書式 について確認してみましょう。このような書式は『奉書式朱印状』とよばれるものであることを実は今回の印章展解説で学んだ〇博調査員です。『奉書式朱印状』とは、信玄が永禄九年以降に改めた代表的な書式で、用紙を横半分に折らずに1枚をそのまま使い(竪紙)、印は日付の下に押され、その右わきにこの文書の担当者(奉者)の名前を記す形式をもちます。
002img20221209_16141860-2 ←1 「菓もの類野うり免許状 十五所澤登家所蔵(スキャン画像)」 天文10年8月 
 件の「菓もの類野うり免許状」はまさにこの『奉書式朱印状』の典型例で、『小幡山城 奉之』となっており、担当者(奉者)である小幡虎盛が免許状を発給したことを示しますが、龍を彫った信玄の印(龍朱印)が押されていることによって、この書状が信玄さまの命令をうけたまわって発給されたことを示しています。
 しかし、『奉書式朱印状』の書式を完璧に写して作成された書状も、そこに記された天文十年八月(1541)という、古過ぎる日付によって、偽文書だと判断できてしまったというわけです。県立博物館企画展には、二つ折りの紙に文章の冒頭に押された印がある形式の、天文十一年(1542)の信玄文書も展示されており、時代にの違いによる信玄文書の書式変化が理解できるようになっていたのでとっても勉強になりました。
 では次に、展示されていた天文十一年(1542)の信玄文書に押された印影を観察してみたのですが、どうやらこちらも違うようです。どちらかというと、展示されていた信玄文書のうちの1560年以降の印影に似ていました。やはり「菓もの類野うり免許状」に記された天文十年頃に押されていた印ではないようです。
Dsc_0080 ←山梨県立博物館のショップで購入してきた「武田信玄龍朱印せんべい」 1560年以降の印影がプリントされている。「菓もの類野うり免許状」に押された印もこのおせんべいと同じ印影を真似て作られたのでしょうね。

002img20221209_16141860_20230516160001 ←1 「菓もの類野うり免許状の印影 十五所澤登家所蔵」 天文10年8月 この印影は信玄が天文10年頃に使っていた印ではなく、その20年後くらいに使っていた印に似ているように見えます。
 
 今回は、甲州は西郡地域に伝わる信玄の「菓もの類野うり免許状」なるものが、なぜ江戸時代後期に作られた偽書であるといわれるのか?その着眼点を整理してみました。混み入った話にお付き合いどうもありがとうございまし
た。 今回の記事は〇博調査員の備忘メモのようなものになってしまいました。ごめんなさい。

2022年12月15日 (木)

にしごおり果物の軌跡は「柿の野売り」による行商活動からはじまった

 こんにちは。
今月21日迄開催しております南アルプス市ふるさと文化伝承館テーマ展「にしごおり果物のキセキ」において展示中の古文書について、きょうはご紹介したいと思います。

P1130663 ←南アルプス市ふるさと文化伝承館テーマ展「にしごおり果物のキセキ」より、柿売人に関する文献の展示コーナー
 展示ケース中にて、『菓もの類野うり免許状』2点、『曝柿直売免許状』1点、『原七郷議定書之事』1点を公開しています。いずれも、にしごおりの柿売人に関する文書です。
 これらの古文書の展示によって、にしごおり果物の軌跡が「柿の野売り」による行商活動からはじまっていることを知っていただきたいと思いました。

 古来より、砂、砂利、礫、粘土に覆われたにしごおりの原七郷では、その恵まれない自然条件下によるギリギリの土地利用のなかで、最大限の効果を挙げようと努力する人々の姿がありました。柿などの作物を加工したり、売る時期をずらすなどして、商品価値を高め、農閑期に村外まで売り歩く行商によって、村の生産力以上の人口を維持してきたのです。南アルプス市域で最も古くから盛んに作られた果物は、この行商用商品として加工するための柿でした。

古文献にも、西郡(にしごおり)の柿についての記述は見られ、

「裏見寒話巻之四」1754年宝暦4年 野田成方 「甲斐志料集成三 地理部2」昭和8年 甲斐志料刊行会・大和屋書店に収録の
甲斐料集成P226には『西郡晒柿 渋柿を藁灰にて晒して売る。此処は田畑なく、柿を売る事を免許されしといふ。』
甲斐料集成P229には『晒柿 渋柿を藁汁にて製して晒す。佳味也。西郡原方より出づ。』とあります。これらの記述から、にしごおりの人々が売り歩いた柿は渋柿を加工したもので、「晒柿(さわしがき・さらしがき)」と称されていたことがわかります。

 行商の商品として「にしごおり果物」を生産したことは、明治以降に当地で勃興するフルーツ産業に、様々なプラス作用を及ぼしました。商機があればどこにでも出かけていく、風の如く機敏なフットワークと開拓心によって磨かれた、にしごおり行商人たちの経済観念の強さは、市場の動向にもまた機敏な果物栽培を初期段階から実現し、現在の南アルプス市における独創的なフルーツ産業の在り方へとつながっています。

P1130201    ←1 「菓もの類野うり免許状 十五所澤登家所蔵」 天文10年8月 1541:七郷の者に与えられたという果物売りの行商免許(御朱印)状

 まずは、原七郷のの者どもへ武田信玄が出したという、いわゆる「野売り免許状」と呼ばれるたぐいのものを3点ご覧いただきます。
1 「菓もの類野うり免許状 十五所澤登家所蔵」 天文10年8月 1541
    七郷の者に与えられたという果物売りの行商免許(御朱印)状
『其村々より年々飼馬
献上致候段神妙之至
向後三郡九すし之内
菓もの類野うり糶売
免許之事

小幡山城 奉之

天文拾年    
  辛丑八月日 

          七郷之もの共』

P1130662 ←『1・2菓もの類野うり免許状』2点、『3曝柿直売免許状』1点、『5原七郷議定書之事』1点

2 「菓もの類野うり免許状 桃園区有文書55-16」 天文10年8月 1541
    七郷の者に与えられたという果物売りの行商免許(御朱印)状
『其村々より年々飼馬
献上致候段神妙之至
向後三郡九筋之内
菓もの類野売糶売
免許之事
小幡山城 奉之
天文十年辛丑八月日    
              七郷之 もの江』

3 「瀑柿直売免許状 桃園区有文書55-1」 天文18年8月 1549
    七郷の者に与えられたという柿売りの行商免許(御朱印)状
『巨摩郡西郡筋原七郷者
雖乾水場所他邦会戦之節
夫持軍役等無遅滞因
先功瀑柿直売并諸商令
免許之旨御下知不可有
相違弥以此趣軍用可相勤条
依執達如件

天文十八年酉八月十五日   小幡因幡守
                奉之

              巨摩郡
               原七郷者江』

 「野売り免許状」とは、「飼馬を献上した等の功績により、原七郷に住む者どもに、果物類、晒柿その他の野売、せり売が信玄により免許されたという御朱印状のことで、1の免許状(朱印状)は現在でも櫛形地区の個人宅で大切に保管されているものです。これまでに※文献等に紹介された、同様の野売り免許状を集成すると、天文10年から永禄11年迄で計9点が確認できますが・・・。しかし、現今では偽書であるとの判断がなされています。このような偽の信玄免許状が流布するようになるのは、文化6(1809)年10月に起きた市川大門柿売人との縄張り争い以降であるとされます。 ※文献3)4) 
 ちなみに、野売り免許状に記載されている「天文10年」は、6月に武田晴信(後の武田信玄)は父の信虎を追放して当主となり信濃侵攻を開始した年です。「小幡山城」とは、武田家の家臣で小幡虎盛という人物を指します。

※ 野売り免許状についての記述のある文献:
1)「豊村」 豊村役場 昭和35年
2)「行商人の生活」 塚原美村 雄山閣 昭和45年
3)「甲州商人の特権伝説をめぐる一考察」 笹本正治 山梨郷土研究会甲斐路第59号 昭和62年
4)「山梨県史資料編11近世4在方Ⅱ」 山梨県 平成12年

 それでは次に、以上1・2・3のような偽書といわれる「信玄の野売り免許状」が、つくられる契機となった文化6年のある事件についての文書をご紹介します。

Dsc_0860 ←4『4柿売一件』 桃園区有文書55-5 文化6年10月 1809


4「信玄の偽免許状発給のきっかけ事件」文化6年10月 1809 『4柿売一件』桃園区有文書55-5
:八代郡東油川村で起きた市川大門とにしごおりの柿売人との間に起きた縄張り争いを巡る喧嘩についての文書
にしごおり柿売人が絡んだ争いの、最古の記録とされる。 ※文献1)3)

『八代郡市川大門村惣右衛門吉右衛門御訴訟奉申
上候趣意ハ祐助安五郎外五人者共晩十六日
八代郡東油川村近辺江柿売ニ罷出候処同商
売之もの原方七郷之者之よし申之大勢
理不尽難題申懸勇助安五郎両人之柿籠
奪取候間外立会候者共種々懸合候所一向
不取用小人数御座候得ハ大勢ニ而悪口申募
られ理非不相分両人之者共西郡原方ヘ一同
右連申候ニ付外五人之者共罷帰右両人親々江
相話し候ニ付右之始末御吟味奉請度段御訴訟
奉申上候儀之小笠原村江御出役様御越
被遊御吟味可被為極候処隣村之義故気の毒ニ
奉存江原村察右衛門御吟味延奉願小笠原村
安五郎十五所村八五郎右両人供場ニ而引
合候由承候ニ付右始末相尋候処右両人
申候ニハ其方共何れも相尋候間西郡原方より
相咎候得ハ西郡者笛吹より東ハ入込申
間敷と申私共柿籠ふみつふし以来
西郡者ハ差留メ申候間此段相心得可申与
申候間急度差押候ハバ其段書付差出し
可申間申候得ハ途中之事故此者両人遣候間
其地ニ而相糺可申与申候間無拠一同仕申
候由申之候右之趣多方申争ひ御吟味
奉請候而者不宣奉存双方異見差加ヘ内済
仕候起ハ

一 原七郷村々柿野売之義ハ往古より申奉も
有之作間渡世堅目籠ニ而手広之仕来ニ
御座候野売致候義ハ原方ニ限リ近郷ニ而茂
相弁ひ罷有候市川大門村之義ハ柿籠を以商い
渡来リ候段申之以来相互ニ馴合柿在売之義
迄者双方共故障申間敷候右之趣双方得心
仕相済申候且又此度申争ひ其外憤リ所ハ
扱人貰請重而意趣遺恨無ニ趣和融之上
内済仕候右之通双方并引合之者共迄一同
内済仕候ニ付何卒御慈悲を以テ内済御聞済
御下置願書御下ヶ被下置候様奉願上候然上ハ
右一件ニ付重而御願ヶ間敷義も願無御座候
誠ニ御威光ト有難仕合ニ奉存候之一同連印
を以御願下ゲ済口差上申処如件         』

文書の内容: 原七郷の柿売人が八代郡東油川村へ出向いたところ、市川大門の柿売りと鉢合わせて、縄張り争いとなる。市川大門の柿売り達が、「西郡者は笛吹川を越えて売りに来てはならない」といって、柿籠を踏みつぶして大喧嘩となったのだ。その折、小笠原村の安五郎たちは、けんか相手の市川大門の2人を西郡に連れて帰ってしまったので、市川大門方は代官所に訴えた。結果、仲裁人が入り、「西郡者は堅目籠を用い、市川大門方は柿籠を使って、互いに紛らわしくないようにして商売するよう」に決めて一応の決着をみた。

 この事件は、原七郷の人々に、生活基盤の一つである野売り商いの将来的なあり方への危機感を煽ることとなりました。そのため、この事件を契機として、信玄の野売り免許状なるものの流布が見られるようになったと考えられています。 ※文献3)

Img20180810_13302518_20221215143901 ←柿の野売りに使用された籠(南アルプス市文化財課蔵):この籠のタイプが文化6年当時に「竪目籠」とよばれたものかは不明。

 よその土地に商売に出かけていくということには、相応の勇気と商才が必要です。信玄以前には「勅使による商売許可」というものもあり、「武田信玄の野売免許」とあわせた、それらの伝説の醸成した原七郷の特権意識は、西郡の行商人を精神的に支えました。

次の文書は、行商の特権意識を持つにしごおりの村々が団結して自衛する動きを示すものです。

P1130664 ←『5原七郷議定書之事』桃園区有文書55-22 文化6年10月 1809
5「野売免許状を持つ原七郷の村々九村で商いの組合をつくった」文化6年10月 1809 『原七郷議定書之事』 桃園区有文書55-22
 内容:4の市川大門柿売人との縄張り争いの事件を受けて、危機感の募った原七郷の柿売人たちが、「野売免許状を持つ原七郷の村々九村」として、商いの組合をつくり、作間稼ぎの野売に関する決め事を記した。
『文化六巳十月柿売一件取極書 桃園村
原七郷糶定書之事
一 従御公儀様被仰渡候御法度之
  義者不及申何事によらす諸商ひ
  等ニ罷出候節随分相慎ミがさつ
  かましき義仕間敷別而
  御朱印等申立候義者重き御義ニ
  候間此旨得与相弁可申事
一 柿野売場先ニ而何事ニよらす何れ之
  村方より一件差発候節ハ組合村評議之上
  品ニより諸入用等組合割ニ司仕事
一 柿商売仕候者共江一村限り得与申聞置
場先ニ而御朱印を申立かさつ
成始末并不埒之取計仕候者
有之者詮議之上諸入用共者
壱人懸リ品により組合入用迄かけ
可申事
右之通組合付相談之上取極候上ハ
一村限り小前壱人別ニ申聞麁略無之様ニ
可仕若不埒之村方有之候ハ組合村ニテ
申立作間稼之商ひ一村差留メ可申候
為其組合連印為取替諠定書
仍如件
      文化六巳十月      在家塚村 
                    名主 林右衛門
                  上八田村
                    名主 幸右衛門
                  上今井村
                    名主 庄左衛門
                  桃園村
                    名主 庄八 
                  小笠原村
                    名主 源左衛門
                  吉田村
                    名主 清左衛門
                  飯野村
                    名主 忠左衛門
                  十五所村
                    名主 作右衛門
                  西野村
                   名主 佐治兵衛
端裏書
  文化六巳十月柿売一件取極書 桃園村        』

 その他、にしごおりの柿売人に関する文書について、文献等に既出のものを数え上げると、江戸期から明治初年頃にかけてのもので27点になりました。信玄の免許状だけでも9点ありました。いかに柿(果物類)の野売りによる利益がにしごおりの人々の生活に欠かせないものであったかが理解できると思います。

Dsc_0861 ←柿売人の登場する文献のリスト(展示中)(南アルプス市○博担当作成)
 江戸期に活発に行われていたにしごおりの人々による柿の野売りは、明治期に甲府に青物市場が整備されるまで続きました。
 野売りが行われなくなった後も、この行商文化で磨いたにしごおりの人々の売り込み精神や商才は、進取の気性・卓越した経済観念としてその心に宿り続け、現在まで続く当地の独創的なとフルーツ産業の発展に貢献しているのです。

2022年11月25日 (金)

大正期の園芸講習会修了証

こんにちは。
きょうは、大正時代に白根地区西野村の若者が、愛知県に温室栽培を学びに行き、手にした園芸講習会の終了証をご紹介します。

002img20220705_15275421   ←「大正14年第十七回園芸講習会修了書」(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市文化財課所蔵)
002img20220705_15254022 ←「大正15年第十八回園芸講習会修了書」(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市文化財課所蔵)
 この終了証を受けた功刀七内氏は、南アルプス市にはじめてガラス温室栽培を導入した人物です。
 彼が自ら執筆した白根町誌(昭和44年刊)には、「大正13年初秋に愛知県の清州試験場に温室栽培を学びに出かけ、その1か月余りの研修中に、温室葡萄栽培に着目し、清州試験場に新築されたガラス温室を設計図に作成して帰宅した。翌大正14年3月には西野村字池尻の桑畑にに30坪のガラス温室をはじめて建てた。」とあります。しかし、この終了証に記載されている年月日は、大正14年8月と15年7月となっていますので、すでに西野村において初めての硝子温室が功刀家によって建設された後の授与です。そのため、第16回は愛知県で行われたとしても、第17回と第18回の日本園芸会による講習会が、どこで行われたものであるかは残念ながら記載がないので不明です。

Img20180810_13305110 ←「昭和初期の西野功刀家のガラス温室群」(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市文化財課所蔵)
 今回は、第18回の講習会で行われた科目名に注目してみましょう。
 『硝子室ブドウ栽培・蔬菜促成栽培・蔬菜軟化栽培・硝子室メロン栽培・マッシュルーム茸栽培・硝子室切花栽培』の6科目を受講したことがわかりますね。
いずれも、露地栽培から脱却し、特殊な設備を必要とする、近代的な栽培技術の習得を目指してものであったことがわかります。外気を遮断し日光を取り入れて温度管理できる硝子室や、「アスパラ」や「うど」などを育てる軟化栽培技術に必要な日光を遮断する施設、マッシュルームの人工栽培など、未知の新しい農業の導入に意欲的に学んだ、西野村の七内青年の姿が浮かび上がります。

Photo_20221125154101 ←「昭和初期ガラス温室内の葡萄苗木(外には積雪がみえる)」(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市文化財課所蔵)
 彼の当初の最大の目的は、「硝子室による葡萄栽培の技術取得」だったそうです。しかし、この講習会で同時に受講した「メロン栽培の技術」が、その後の昭和初期のにしごおり果樹産業において大きな恩恵をもたらしたのでした。

Photo_20221125154201 ←「大正14年葡萄苗の間に置かれたさんま樽で試作した初期メロン栽培」(白根町誌より)
 第17回園芸講習会の終了証が授与された大正14年には、すでに実家のある西野村では、前年の3月に建設したガラス温室でブドウの苗木を植えており、その樹間にさんまの樽を置いてメロンの栽培もすぐに開始することができたというわけです。

002img20220926_11230584 ←「葡萄苗の間に置かれたさんま樽で育成した初期メロン栽培」(西野芦澤家資料)

 当初のメロン栽培導入は、温室ぶどう栽培を目指す過程で結実するまでに2~3年かかる間の収入を補うための臨時導入でしたが、その利益率の高いことがすぐに判明して、西野村での硝子室栽培が葡萄ではなくメロンが主体になっていく発端となりました。

七内氏が園芸講習でぶどうと同時に学んだメロン栽培技術を即時に生かせたことが、商機を呼んだのでしょう。

2022年11月21日 (月)

昭和16年 桜桃用保障紙使用許可申請書

こんにちは。

 きょうは、昭和16年頃に西野村の果実農家が使用した「出荷用ラベル」をご紹介します。

002img20220705_15232640 ←「昭和15年 桜桃用保障紙」(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市文化財課蔵)

 果物出荷木箱一つ一つに貼られた、生産地や生産者が記名されたラベルは、出荷品の質を保障するもので、昭和16年当時は「保障紙」と云っていたのですね。工業製品で言えば商標のようなものですから、そのデザインには目を引くような美しさがあります。

002img20220705_15194861 ←「昭和16年 桜桃用保障紙使用許可申請書 1頁目」(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市文化財課蔵)

 昭和16年と云えば、日本は戦時体制の物資不足で、そろそろ出荷木箱に貼っていた紙ラベルも作れなくなり、急ごしらえの摺り版(金型)にかまどの底の煤を集めて印字した時期がはじまる頃です(当ブログ2022年10月4日「戦争と摺り版」もご覧ください)。

P1130406_20221121152901 ←「南アルプス市ふるさと文化伝承館で展示中の摺り版」(在家塚中込家、野牛島藤巻家資料・南アルプス市文化財課蔵)

 そんな昭和16年5月5日に、「さくらんぼの出荷用ラベルを3000枚、使用を許可して欲しい」という申請を、保証責任西野信用販売購買利用組合が山梨県農産物検査所に提出しています。どういうことかと、その「事由」の項をみると、『前年度使用残物整理ノタメ』とありました。なるほど! 

 「戦時体制に歯向かっているわけではありませんが、ラベルの在庫がたくさんあって困るので、今年もまた使用したいのですがよろしいでしょうか?」とお伺いをたてたわけですね。

 この申請書の頁をめくると、見本として、そのラベルが添付してありました。

002img20220705_15210411 ←「昭和16年 桜桃用保障紙使用許可申請書 2頁目・3頁目」(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市文化財課蔵)

 甲州を象徴する美しいシルエットの富士山をバックに、枝先の真っ赤なさくらんぼが5粒。とても美しいラベル絵ですね。紙の地色がこれまたレトロな感じのする温かみのある黄色で枠線のグリーンもステキ! 

 生産者名と『音羽園』という屋号も記されていましたので、〇博調査員で見当を付けてお電話してみましたところ、ラベルに記された名の方は「うちのおじいさんで、「きよつぐ」と読むのですよ」と教えてくださいました。私からは、「現在、ふるさと文化伝承館のテーマ展『にしごおり果物のキセキ』で展示いたしております」とお伝えしました。

P1130578 ←「南アルプス市ふるさと文化伝承館で展示中のラベルたち」(南アルプス市文化財課蔵)

 現在も果実農家をなさっている音羽園さんでは、オリジナルラベルはもう使用されていないとのことでしたが、おじいさまの名が記されたこの美しい戦前のラベルを、機会があれば是非ご覧になっていただきたいなぁと思いました。いま当地の果樹農家では柿の加工生産がまだ忙しいと思うので、これの落ち着く年明けごろの農閑期に入ったら、このラベルの複製を持ってお礼に伺えたらいいなと考えている〇博調査員です。

2022年10月 3日 (月)

柿の野売り籠

こんにちは。
P1130396
  南アルプス市ふるさと文化伝承館では、テーマ展「にしごおり果物のキセキ」が開催中です。

開期は令和4年12月21日(水)までです。

展示では、南アルプス市の基幹産業の一つである果樹産業が、江戸時代に盛んに行われていた柿の野売りにはじまり、明治以降、どのような歩みを持って、独創的な発展を遂げたかを振り返ります。


さて、このテーマ展が始まって2か月が経ちました。

展示を観に来てくださった地元の方々から、資料を前に様々な聴き取りができ、オーラルヒストリーの採取や関連資料のさらなる収集を行うことができています。

 

 


  今回ご紹介する資料、「柿の野売り籠」もその一つです。

「柿の野売り籠」は南アルプス市の果物産業史における重要なキーアイテムなのですが、テーマ展開催時には文化財課に収蔵がなく、画像をもとに地域の竹細工アーティスト(伝承館スタッフ)に制作を依頼した参考品を展示していました。

P1130398←野売り籠のミニチュア再現品(伝承館スタッフ作成)

Img20180810_13302518←柿の野売り籠の画像(西野功刀幹浩家所蔵)
 9月に入り、市内櫛形地区十五所のお宅の蔵に、柿の野売り籠一対が素晴らしい状態で保管されていることをお知らせいただき、寄贈いただきました。

Img_0826←令和4年9月に寄贈された「柿の野売り籠」のクリーニング作業
 大きさは、口径41cm・底径45cm・高さ43cmで、行商人は、天秤棒で二つのかごを同時に肩に担いで売り歩きました。とてもしっかりとした丈夫な作りで、底部は平ら、籠の中は付着した柿渋で真っ黒です。

P1130394
 ←「柿 野売り籠(かき のうりかご)」 
 にしごおりの人々が、渋抜きした柿を入れ、担いで売り歩いた際に使用した籠。籠の内部は、柿の渋が染みて黒くなっている。
 大正時代のはじめまでは、秋になると、渋抜きした柿を籠に入れて担いで、釜無川や笛吹川を渡って行商に出た。そして、稲刈りをしているところに行って、柿を売ったり、籾と交換することで、生活を支えた。

←展示された柿の野売り籠((天秤棒なし)十五所澤登家より寄贈・南アルプス市文化財課所蔵

 

 

 その後、市内白根地区にお住まいの小野さん(昭和10年代生まれ)から、大正時代までに地域で行われていた、一般的な柿渋の抜き方や、野売りに使用された柿の種類についてなど教えていただきました。

 『野売り籠に入れて売り歩いた柿は小粒の渋柿だったので、渋抜きをしなければならなかった。味噌桶に柿を八分目か九分目位きれいに並べて詰めるのと並行して、42~45℃の大量の湯を風呂樽を使って沸かした。
そして、柿を並べた味噌桶の中に湯を一気にかぶるくらいに入れ、上に木の蓋をしてから蓋の上や周りを菰(こも)や布団で覆って保温すると、1日か2日間で渋が抜けて、柔らかすぎずにちょうどよい舌触りの小粒で甘い柿になった。(西野小野捷夫氏談)

002img20220926_11444294←江戸時代から大正初期までのにしごおりの行商人が野売りした柿の品種(西野小野捷夫氏撮影)
 『かつて、西郡の行商人が売った柿は、みな小ぶりの渋柿品種で、「イチロウ」「ミズガキ」「イチカワビラ」「カツヘイ」などだった。小さな子供が手に持って食べるおやつにちょうど良く、甲州百目のような大きな柿でも渋を抜いて作ることはできたが、小さな渋柿を加工したものがよく売れた。(西野小野捷夫氏談)とのことです。
 勝平(カツヘイ)という品種は白根地区西野の芦澤家に原木(現在は無い)があった現在の南アルプス市固有の品種です。
 大正時代に入り、果実の出荷組合が結成されたり、甲府に青果市場が整備されてくると、籠を担いだ行商人による野売りは急速に無くなりました。そして、行商用の100~150gの小さな柿の栽培も衰退しました。
 現在の南アルプス市で栽培されている加工用の渋柿は刀根早生(トネワセ)、平核無柿(ヒラタネナシカキ)、甲州百目(コウシュウヒャクメ)、大和百目(ヤマトヒャクメ)など比較的大きな柿が主流ですから、野売りという販売形態の終焉とともに、商品となる柿の大きさや品種も大きく変化して現在に至る点は興味深いですね。

 西郡果物の軌跡は「柿の野売り」による行商活動が出発点です。
古来より、砂、砂利、礫、粘土に覆われたにしごおりの原七郷(桃園・沢登・十五所・上今井・吉田・西野・在家塚・飯野・上八田・百々・小笠原)では、その恵まれない自然条件下によるギリギリの土地利用のなかで、最大限の効果を挙げようと努力する人々の姿がありました。
柿などの作物を加工したり、売る時期をずらすなどして、商品価値を高め、農閑期に村外まで売り歩く行商によって、村の生産力以上の人口を維持してきたのです。
南アルプス市域で最も古くから盛んに作られた果物は、この行商用商品として加工するための柿でした。
 行商の商品として「にしごおり果物」を生産したことは、明治以降に当地で勃興するフルーツ産業に、様々なプラス作用を及ぼしました。商機があればどこにでも出かけていく、風の如く機敏なフットワークと開拓心によって磨かれた、にしごおり行商人たちの経済観念の強さは、市場の動向にもまた機敏な果物栽培を初期段階から実現し、現在の南アルプス市における独創的なフルーツ産業の在り方へとつながっています。

P1130395 ←柿渋が染みて内部が真っ黒になっている展示中の野売り籠(十五所澤登家より寄贈・南アルプス市文化財課所蔵)

 ふるさと文化伝承館でのテーマ展示をきっかけとしてつながった所有者様から資料調査や寄贈の打診をいただいたことで、今回も、成長する展示が実現しています。地域博物館での身近な歴史をテーマ展示する意義を、実感する毎日です。

2022年9月 1日 (木)

「イタリア」という名の欧州種葡萄

こんにちは。

P1130327 ←大正期の果実売立葉書の一部(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市文化財課蔵)
 白根地区西野村功刀家資料の整理で文書箪笥の中から大正初期(大正3年~昭和10年)の果物出荷に関する書簡が多数(130枚)見つかりました。表に打ち込んでみると、特に大正5年と7年に、販売先の問屋とやり取りした葉書(以降、「果実売立葉書」と称す)がまとまっており、その年の出荷の動向を見ることができるものでした。
 この地域で、大正5年に甲州中巨摩果実組合は発足していましたが、基本的に大正12年に西野果実組合ができるまでは、販路拡大と出荷は個々の家と問屋との、直接交渉・取引で、なされていたものと考えられます。

 
 Photo_20220901110801  ←西野功刀家宛果実売立書簡リスト(南アルプス市文化財課作成)①
果実売立葉書を表にしてみると、大正時代も現在の南アルプス市域の農家と同じく多種栽培で、春から秋まで期間を開けずに次々と出荷している様子がわかります。山梨県外の市場へと、5月から6月の半ばくらいまではさくらんぼ、7月に入るとモモが8月の半ばまで毎日のように出荷され、8月のお盆過ぎ頃からブドウの品種を変えて9月下旬まで1日か2日おきに次々と出荷しています。

Photo_20220901110802 ←西野功刀家宛果実売立書簡リスト(南アルプス市文化財課作成)②

 今回は、大正期に西野村から出荷されたブドウの品種に注目して、見ていきたいと思ます。
というのも、多数の売立葉書に記されている「イタリア」という名のぶどうの存在が気になったからです。

  大正5年と7年における西野功刀家が出荷したブドウの品種の記載を見てみると、明らかに「デラ」と「イタリア」が二大看板であったことがわかります。

Photo_20220901110803 ←西野功刀家宛果実売立書簡リスト(南アルプス市文化財課作成)③

 「デラ」とは、デラウェアという現在も日本で多く食されている紫で小粒の、人気のブドウのことですね。
昭和50年に書かれた、『山梨の果樹』という冊子を読むと、『日本へは、明治15年にアメリカから導入され、山梨へは明治18年に山梨郡奥野田村(現在の甲州市塩山)の雨宮竹輔氏が試作をはじめた』とあります。同じ冊子の中に「イタリア」のことは書いていないかと探しましたが記載はなく、『生食用としては、昭和前期まで、「甲州」と「デラウェア」が主力であった(「山梨の園芸」より)』と書かれていました。

 一体、それでは、功刀家が「デラ」の収穫時期と入れ替わりにたいへん多く出荷している、山梨県内で主力でなかった「イタリア」という名のブドウは、どんなブドウなのでしょうか?
 以前調査した、功刀家と同じ西野村の、芦澤家資料の、大正11年と12年の売立葉書もリスト化してあるのですが、そこにも「イタリア」というぶどうを出荷した記録がありました。
ですから、大正期の西野村では、ある程度まとまった量の「イタリア」を生産していたのではないかと思うのです。

P1130328 ←大正7年9月「イタリア」の売立葉書(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市文化財課蔵)
 「イタリア」というぶどうの名を探して、次は、白根町誌における果樹栽培の導入期の項を読み返してみましたが、『明治から大正初期に作られたぶどうは、甲州、デラウェア、アジロンダック、コンコード、ダルマ』といったいずれも米国種の名がばかりが記されていました。「イタリア」の名はここでも登場しません。
うーん、米国種ではなく、いかにも欧州種であろう名の「イタリア」とは、どんな葡萄なのか?さらに突き止めたくなります。

 そういう時は、山梨のワイン史の第一人者でもある、博学のあの先生に訊いてみよう!ということで、、甲州市の文化財課、小野正文先生に電話してお聴きすると、『生食で江戸時代から出荷されているのは「甲州」という葡萄だが、外国種が入ってきた明治以降の出荷時には、「日本ぶどう」とか「本ぶどう」と言って外国種と区別していた』。そして、『甲州市では、大正期に「イタリア」という葡萄を生産や出荷をしていた記録はない』こと、『明治以降に海外から導入され、日本で実際に栽培された苗木のほとんどは、米国種ばかりで、欧州種は湿気の多い日本では根付きにくかったたようだ』とも教えてくださいました。

 その後、小野先生を通して、甲州市塩山の機山洋酒工業株式会社の土屋幸三さんにも訊いていただき、とても有り難いことに、「イタリア」という品種のブドウについての情報を教えていただくことができました!!
 しかも、この「イタリア」というぶどう、現在でも甲府の苗木屋さんで販売中(株式会社植原葡萄研究所HP)とのこと!!! その情報を得て、急いで、その甲府の苗木屋さんのHP(株式会社植原葡萄研究所 品種リスト 令和4年8月現在)をみると、黄緑色で大粒の房の画像が載っており、解説にも、『欧州種としては栽培容易で、露地栽培も可能』とあります。小野先生から、「買って自分で育てたらどうだ」といわれてしまいましたよ。

P5 ←「イタリア」の画像 「「実験 葡萄栽培新説 増補版」 昭和55年1月 土屋長男 山梨県果樹園芸会」より
 機山洋酒工業の土屋さんの送ってくださった文献「実験 葡萄栽培新説 増補版」 昭和55年1月 土屋長男 山梨県果樹園芸会 には、「イタリア」の項目があって詳しく解説がありました。『1911年に交配し1927年に伊太利の国名をとってイタリアと命名』『この品種はピローヴァノの品種中最も優れたもので、イタリー政府専門委員会において政府奨励の輸出用生食葡萄に採用した有名な品種である。』とあり、樹勢はとても丈夫で、薬害や病害に強く、温室栽培すると果房がとても大きくなる、とも書かれています。巨大な粒は黄白色で食味が良好なのだそうです。しかし、この文献では、現在販売中の上記苗木屋さんの解説に反して、『露地については栽培が困難である。』と記しています。いまとむかし(昭和50年代)とは意見が違いますね。

 ここで、大正期に西野村で、上記の文献に載る欧州種の「イタリア」が生産・出荷されていたとして、気になる論点がいくつか出て来たので整理しておこうと思います。
①日本で根付きにくかった湿気に弱い欧州種がなぜ西野村では栽培できたのか?
②明治44年(1911)に交配、昭和2年(1927)に命名された(文献「実験 葡萄栽培新説 増補版」 )という、誕生したばかりの品種の苗木を日本で購入することができたのか?
③「イタリア」を温室栽培した可能性はあるのか?
 以上3点について、周辺史料も交えて、以下に考察し、今後の調査方針を考えてみます。

論点①日本で根付きにくかった湿気に弱い欧州種がなぜ西野村では栽培できたのか?
 西野村は、水の乏しい御勅使川扇状地上にあって、さらに扇状地の末端に位置する、もっとも砂礫が厚く堆積した場所です。そのため、湿気の多い日本にあっては特異なほど、水はけの良い乾燥土壌ですので、、山梨県東部では無理であった欧州種の露地栽培が成功したのではないか?という仮説が思いつきますが・・・・・。→現在の南アルプス市で「イタリア」を栽培されている農家がないか、探しあてることができたら、栽培実感を訊いてみようと思います。

論点②明治44年(1911)に交配、昭和2年(1927)に正式命名されたという、誕生したばかりの品種の苗木を日本で購入することができたのか?
  功刀家資料にある、大正1年(1912)10月28日付、現甲府市の甲運村横根にあった若林国松商店からのはがきに「和洋葡萄苗木の2・3年生のもの400本から500本、ご注文の品届きました』(文化財課蔵)というのがあり、品種名の記載はないのですが、この時に「イタリア」の苗木を購入した可能性が考えられます。

002img20220729_16043470_20220901110801 002img20220729_16071491 ←大正元年10月28日付、苗木屋若林國松店からのはがき(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市文化財課所蔵):イタリアの苗を買ったのでしょうか?
 ちなみに、同家ではその前年の明治44(1911)年12月13日にも、同じ甲府市横根から「甲州150本、デラ(デラウェア)600本」の苗木を買ったことを日記に記しています(「白根町誌」)が、「イタリア」を購入した記載はありません。
 しかしながら、まだ名前も正式に決定していなかったイタリア産の新品種のブドウ苗を、母国で誕生した翌年に、日本で(しかも甲府で)500本も手に入れることが可能だったのか?という疑問はつきまといます。でも、やはり、大正4年には「イタリア」の名で功刀家で出荷している売立葉書があるのですから、「イタリア」の苗木を大正元年頃ににしごおりの地に植えつけたことは間違いないのです。インターネットもなく、海外での園芸情報の伝達速度など、現代とは比べ物にならないと思う明治時代末期に、優良新品種の苗をすぐに何百本も取り寄せ買い求めた西野村の先人たちの行動力には、びっくり!尊敬しかありません。

論点③「イタリア」を温室栽培した可能性はあるのか?
西野村でガラス温室がつくられるようになったのは大正14年からです。温室栽培用品種のマスカットオブアレキサンドリアを作りたくて、功刀家が前年の秋に愛知県の清州試験場に温室栽培を学びに行き、大正14年3月に30坪のガラス温室を建てたのがはじまりです(「白根町誌」より)。ですから、この「イタリア」という葡萄を盛んに出荷している大正7年頃にはまだ、功刀家はガラス温室は持っていなかったことになります。
 しかし、この珍しい緑色のヨーロッパ系大粒のぶどうが市場競争に強いことを大正初期に実感した功刀家が、より高品質な緑色系の欧州種を育てたいがために、大正末期に設備投資の必要なガラス温室栽培を目指した可能性も考えられます。

 その後、功刀家が当地に導入したガラス温室栽培は、葡萄だけでなく、メロン、スイカの栽培にも成功して、
昭和時代のにしごおりの果樹栽培を支えていくことになりました。

以上、今回の調べで、ブドウ栽培の導入期(明治から大正期まで)に、南アルプス市で生食用に栽培された葡萄の品種のうち、日本産の「甲州」、米国種の「デラウェア」、欧州種の「イタリア」の3品種を確定できました。

P1130331 ←大正7年9月「イタリア」の売立葉書(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市文化財課蔵)
 いままで山梨県に於ける外国産葡萄の導入期は、米国種のみだと考えられ記載されてきたようですが、西野村の大正期の売立葉書の分析から、「イタリア」という欧州種も栽培・出荷されていた事実を知ることができました。うれしいです。
 俄かに、「イタリア」という葡萄の実を食べてみたくなってしまった〇博調査員です。
知り合いの農家さんに南アルプス市で作っている人がいないか訊いてみましたが、難しそうです。
やっぱり苗木を買って育ててみるしかないかなぁ? どなたか、南アルプス市内で「イタリア」栽培中の方がいらしたら、文化財課までお知らせくださいませ。 まずはお写真撮らせてください。そして、可能なら、南アルプス市葡萄栽培史上、最も古い欧州種の味を確かめるべく、買って食べてみたいです。夢が叶うといいなぁ。
ちなみに、機山洋酒工業株式会社の土屋さんが送ってくださった文献「Wine Grapes 2013」にもイタリアは載っていて、ワイン醸造に使用されることもあるようです。 

 最後に、「イタリア」について、いろいろとご教示くださった、甲州市文化財課の小野正文先生と機山洋酒工業株式会社の土屋幸三様には、心より感謝申し上げます。

※参考文献
「山梨の果樹」昭和50年2月 山梨県農政部園芸農産課
「白根町誌」昭和44年12月 白根町
「実験 葡萄栽培新説 増補版」 昭和55年1月 土屋長男 山梨県果樹園芸会
株式会社植原葡萄研究所HP品種リスト 令和4年8月現在 
「Wine Grapes 2013」Jancis Robinson

P1130388 追記:
 令和4年9月22日に白根地区西野の小野捷夫さんが「イタリア」の大きな実を届けてくださいました。このイタリアの実は出荷用ではなく、品種改良用に葡萄園の一角にとってある木に実ったものだそうです。 「シャインマスカットより味は薄いよ」と捷夫さんはおっしゃっておられましたが・・・?
 ワクワクの味見をすると、「さっぱりしてるけど、充分甘いよ!おいし~い!! ちゃんとマスカット系の匂いもするよ! 」 ふるさと文化伝承館のスタッフたちにもたいへん好評でした。 翌23日に行われた当館館長トーク第11回「葡萄とワインの起源ー世界編ー」の講演終了後においても、参加者の皆様に南アルプス市におけるブドウ栽培初期に作られた品種としてご紹介できました。
 こんなに大粒で、緑色で、見栄えもして甘いぶどうでしたら、大正初期においては市場でも珍しく、好評だったのではなかろうか、これは当時売れたんじゃないの?というのが、今回、イタリアの実を食べてみた私たちの感想です。 
 改めて、〇博調査員の希望を叶えてくださった小野捷夫さんに感謝いたします。〇博は地域の皆様に支えられていることを今回もしみじみと実感しております。ありがとうございました。

2022年8月12日 (金)

関屋のさくらまつりのチラシ

 こんにちは。
 昭和40年代中頃に、関屋という場所でおこなわれた「さくらまつり」のチラシを今日はご紹介します。

13_20220812163801 ←関屋のさくらまつりのチラシ(昭和40年代)(南アルプス市文化財課蔵)

 「関屋」とは現在の倉庫町交差点の辺りの場所のことをいいます。この関屋を中心に、飯野・在家塚・沢登・桃園の4区が接し、ちょうどこの交差点の南北で、旧白根町と旧櫛形町と境をなします。それだけでなく、関屋は駿信往還と高尾街道が交わる地点でもあります。

 チラシでは、「さくらまつり」参加店の位置と店構えの様子がイラスト化されてわかりやすく、また、各店の紹介コメントも興味深いです。 

 たとえば、平成11年頃に廃業した斉藤製糸場の『今はオートメイションになっている。秋田から可愛い子チャンが働いている』とありますが、このチラシが配られたと思われる昭和40年代の製糸場の様相を的確に語っています。というのも、生糸の生産は昭和30年代半ば頃より自動繰糸機が全国に急速に普及しましたので、たくさんの工女が繰糸鍋の前に座って一斉に糸をとる光景はなくなっていました。そして、斉藤製糸場敷地内には女子寮も完備され、『秋田の可愛い子チャン』がたくさんこの地に働きに来ていたのは確かで、春繭が入る前の閑散期にあたるサクランボの収穫期には、近隣の農場に手伝いに出ていたという話もよく聞きます。さらに、彼女たちの中には結婚相手を見つけて現在、南アルプス市民としてこの地に根付いている方もいらっしゃるようですよ。

 それでは、このチラシに描かれているお店の場所が、いまどうなっているか見にいった時の画像を、昭和40年代当時のチラシに書かれているコメントとともに、お楽しみください。

2_20220812163801 ←法界さん(関屋の題目塔)『ごりやくあるよ 大きな石碑』(2020年10月2日撮影)
36735 ←寿しユニオン 『味で勝負、気ップ千両 一度たべたら忘れられない味』(2020年10月2日撮影)
36741 ←明治牛乳店 『シボりたての牛乳がいつでも安くのめる』(2020年10月2日撮影)
367313674-2 ←斉藤製糸場跡 『今はオートメイションになっている。秋田から可愛い子チャンが働いてる』(2020年10月2日撮影)
Photo_20220812163801 ←旅館南角や 『100年の歴史を持つ旅館。家族的なサービスで東京、大阪の営業マンが多い』(2020年10月2日撮影)
36754 ←中込時計店 『時計・貴金属・メガネ サービス最高。ご主人がサービス良い』(2020年10月2日撮影)

 今から50年ほど前のチラシですが、当時の関屋商店街の様子がわかるとてもよい資料です。

このチラシも雛人形の箱に梱包材として入っていたものです。見つけた時には、やっぱり、「やったー、ラッキー」と、はしゃいでしまった〇博調査員です。

2022年7月29日 (金)

西野果実郷の父・小野要三郎直筆の手紙

こんにちは。
002img20220705_15100589 本日は、南アルプス市ふるさと文化伝承館令和4年度テーマ展「にしごおり果物のキセキ」に関連したレポートを書いておきたいと思います。 一年ほど前、 西野功刀家より寄贈いただいた文書箪笥の中に、西野果実郷の父・小野要三郎直筆の手紙を発見しました。文書内容も調べて確認していたのですが、残念ながら、今回のテーマ展には、展示スペース等の関係もあり、出場していただくことができませんでしたので、ここでご紹介したいと思います。

←小野要三郎直筆功刀家宛書簡 明治45年1月17日 西野功刀幹浩家資料南アルプス市文化財課所蔵

「小野要三郎直筆功刀家宛書簡」  西野功刀幹浩家資料E-0-2-7-1

拝啓 謹言  昨日 上高砂小沢
伊ハ我承 是桃九十七代ト し
テ 委細ヲ入 金四百円ニテ 買
取呉候様申候 又 四五日
内之 又承知候ハ申付 無高
一寸申入候也
 四十五年一月十七日
            清水
             小野要三郎
功刀七右衛門殿

 

 南アルプス市域の果実郷では、その景観を作り上げた父と呼ばれる、小野要三郎という人物がいます。
 石ころだらけで水のない不毛な御勅使川扇状地の土壌に、明治時代後半から次々と様々な果樹を県外から大量に取り寄せては植えて試作し、原七郷を多種栽培を基本とする果実郷に生まれ変わらせた中心人物です。

Photo_20220729164201 ←小野要三郎氏(西野芦澤家資料より・南アルプス市文化財課所蔵)
 安政元年(1854)10月に現南アルプス市西野の地主の家に生まれた小野要三郎は、明治26年頃から牡丹杏や梨、桃などの果樹栽培を試みるようになり、明治40年~44年にかけて西野・清水にあったカラマツ林を開墾して、50アールに本格的に生業として果樹を植えました。この地の桃栽培は軌道に乗り、南アルプス市の果樹栽培の黎明期を象徴するものとなります。
ちょうどその直後、明治45年1月17日に小野要三郎が同じ西野村に住む功刀七右衛門に宛てて書いた手紙をご紹介しています。 


 手紙と云いましても、この資料は、走り書きのような伝言のようなものですし、この手紙内容の意味する行動の前後は判りません。そのため、文面を読んでも、桃の苗木を功刀家が上高砂の小沢さんに売るのを、小野要三郎が仲介したのか?もしくは、上高砂の小沢さんを介して桃の苗木を功刀家が買ったのか?これだけの情報では判明しないことをご了承いただきたいのですが、 明治45年に桃の苗木を100本ほど植えるのに、だいたい400円かかったということを知ることができる内容は、史料価値をさらに高めていると思います。

 文中には、「桃」とあるだけで、苗木の文字は見えませんが、この手紙にある日付が1月17日の真冬であることから、実ではなく苗木の取引だと判難しました。また、文中に見える「清水」という名の地は、小野要三郎が明治40年頃から本格的に果樹栽培に最初に着手した地です。かつて、小野要三郎宅があったこの場所には、いまも開園記念の碑が建っています。

Dsc_3020 ←白根地区西野の清水にある開園記念碑(2018年8月2日撮影)

 さらに、400円というのは、当時どれほどの大金であったか?少し調べてみました。「値段史年表明治大正昭和 ・週刊朝日編」という本から、明治45年に400円と同じくらいの値段のものをまず探してみますと、ダイヤモンド1カラット450円とか銀座の地価1坪300円などが見つかりました。が、う~ん。次にもっと、庶民的なもの値段を探してみますと、明治45年のもりそば3銭、天丼15銭、明治40年の白米10キロで1円56銭とかありましたが、なかなか、ピンとくるようなちょうどよい比較が難しいですね。それでも、当時の400円がいかに高額であったか、何となく想像してみてください。 果樹栽培を生業として一からはじめるには、資材や設備の投資に相当額が必要であったことがわかりますね。
そのため、西野村では、小野要三郎家や功刀家、その他、芦澤家、手塚家、中込家等のような、江戸時代に煙草や木綿などの商品作物で蓄財した、進取の気性を持つ村役たちが、地域の発展を願って率先して新産業に投資した姿が見えてきます。

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 同じ功刀家資料の中には、明治45年と同じ年の大正1年10月下旬に(明治45年は7月30日明治天皇崩御以降が大正元年となった)、西山梨郡甲運村横根(現甲府市横根町)にあった若林國松商店という苗木屋から『和洋葡萄苗木の 2・3年生のモノを400本から500本ご希望のご用意ができましたから、至急ご注文ください』とある書簡がありました。

いまから110年前の西野村で、小野要三郎家だけでなく、西野村全体ではじまった果樹産業進出への大規模投資の一端が見えます。

 

←現在の甲府横根町にあった苗木屋若林國松店からのはがき(西野功刀幹浩家資料より・南アルプス市文化財課所蔵)

2022年7月 8日 (金)

木箱プリント型が語る、にしごおり果物を特徴づける多品目栽培の歴史

こんにちは。
P1130288 ふるさと文化伝承館では、現在、テーマ展「にしごおり果物のキセキ」が開催中です。開期は令和4年12月21日(水)までです。


 南アルプス市の基幹産業の一つである果樹産業が、江戸時代に盛んに行われていた柿の野売りにはじまり、明治以降、どのような歩みを持って、独創的な発展を遂げたかを振り返ります。

 

 

 

P1130281    今回は、展示資料の中から果実を出荷した木箱にプリントするための金型をご紹介します。
P1130285 P1130291 この資料の展示数は20点以上あり、メロン、もも、かき、さくらんぼ、りんご、などの品種名のほか、出荷した家の屋号やかつての村名、出荷組合の名称や記号も見られます。

にしごおりでの果物産業が、多品目を組み合わせて栽培することで成り立ってきた、という特徴を示す良い事例の一つだと思い、入口のブロックにまとめて展示しました。

Dsc_0699_20220708142601 Dsc_0698_20220708142601八田地区藤巻家より発見収蔵時の昭和初期御影村時代の金型「甲州名産 御影 藤巻農場 十五キロ」「甲州 メロン 甲州御影村和多や農場」


 これらの資料が使用されたのは、昭和30年代終わり頃までです。昭和39年頃になると、果実の出荷は木箱からダンボールへ移行しました。 ダンボールにはすでに果実名やブランド名、栽培地などがすでに印刷されているので、この金型は使われなくなりました。
 それまでは、製材所から組み立てる前の箱の部品を調達して、家の土間や作業小屋で、出荷までに釘を打って組み立て、一つ一つの面に金型を置いて墨で印字したり、ラベルを貼りつけたりする作業を、家族で夜なべしてやっていたんですよね。たいへんなことだったと思います。この木箱印字用の金型は、いまその往時を物語る貴重な資料となりました。

R040414 Dsc_0707八田藤巻家より金型と同時収蔵の出荷用のラベル付木箱や段ボール

 P1130247 金型一つ一つをじっくり見ると、すべてがおしゃれでかわいらしく、工夫を凝らしたデザインです。

P1130246  一方で、金型の端の始末などのやり方を観察すると、ブリキの切れ端を使って農作業の合間にゆるりと楽しんで作られたのではないか、と想像させるような民具の放つ魅力も存分です!

P1130284 どうぞ、注目してご覧になってみてください。

2022年5月27日 (金)

夏りんごの人工着色していた頃

こんにちは。
 きょうは、昭和40年代までは、市内白根地区の果樹地帯でも多く出荷されていた、「りんご」について、書き留めておきたいと思います。

232  ←「りんごの人工着色」の作業風景と装置(今諏訪手塚家データ資料より・昭和36年撮影) 
126 ←同じアルバムに入っていたリンゴ畑の様子。当時のホンダ・スーパーカブにまたがった少年のバックには、たわわに実ったりんご畑が広がっている。(今諏訪手塚家データ資料より・昭和36年撮影)
 先日、今諏訪の手塚家に訪問調査に伺わせていただき、昭和30年代のアルバムを見せていただいた折に、以前から市内各地での調査で話には聞いていた、「夏りんごの人工着色」の様子がわかる写真をみつけました。人工着色といっても、着色料や科学的な薬品を使って赤くするわけではありません。温度と日光の加減を人為的に調節して、収穫した果実を赤く発色させていました。
 21     ←子供の遊び場にもなった「りんごの人工着色」の装置(今諏訪手塚家データ資料より・昭和36年撮影)
 南アルプス市域では、危険分散思想による果樹の多種栽培が伝統的に引き継がれ、現在でも「さくらんぼ、すもも、桃、ぶどう、かき」の5種が、主要栽培品目となっています。そのような大正時代からつづく多品目栽培の歴史の中で、一時期のみで今はあまり作られなくなってしまった種目もあります。「メロンやネクタリン、キウイ」と並んで、りんごもその一つです。
 りんごは、昭和40年代までは多く出荷されていました。○○博物館の取り組みによって得られた果樹栽培関係資料の中にも、当時栽培されていたりんごの品種名のスタンプや、木箱に印字するための金属製型が多数見られます。
Dsc_0829 Dsc_0832 →りんごの出荷木箱用印字型とハンコ:8月に「祝」、9月に「旭」10月に「スターキング」「ゴールデン・デリシャス」を出荷していたのでしょう。(在家塚中込家資料他)
 そして、〇博調査員は、「りんごを並べて水をかけて冷やし、青いりんごを赤くして出荷した」という昭和時代の思い出話を何人もの人から聞いていました。東北や信州などの大産地よりも少しでも早く色づかせて、高値で売るための戦略だったと考えられます。「筵の上にりんごを並べて、水をかけて冷やしながら日光に当てることで、樹上になっているよりも早く、しかも均一に赤く着色させて、とにかく見た目第一で出荷した」という話もききました。
 画像を提供していただいた白根地区今諏訪の手塚家のお父様にこの写真についてお尋ねすると、「砂を敷いて夏りんごを並べ、赤くして出荷していた」記憶があるとのこと。さらに、〇博調査員は、この写真に撮影月日が昭和36年8月25日と記載されていたので、並べられているりんごの品種はおそらく、「祝」か「旭」なのだと推測しています。
 74 231 ←「りんごの人工着色」の装置:(今諏訪手塚家データ資料より・昭和36年撮影)
 この手塚家の画像を見ると、右後ろに、砂をふかふかに敷いた地面の上にりんごを並べているのが見えますね。その上には、簾を広げるための竹を組んだ装置があります。水はすぐそばにある井戸から汲んで、広げた簾の上から撒いたのでしょうか。そうすれば、りんごに直接水がかかることはなく、簾をつたってゆっくり落ちていくので、効率的にりんごの表面温度を冷やすことができたのではないでしょうか? 
りんごの人工着色の手法には、まだいくつか不明な点があり、〇博調査員の推測が入っています。今後、この画像を持参して聴き込む調査で詰めていきたいと思います。
92  ←子供たちが座っている「りんごの人工着色」の装置:すぐそばには井戸が見える。(今諏訪手塚家データ資料より・昭和36年撮影)

ところで、この着色作業は、りんごが熟さないうちに採ってしまうせいもあって、見かけは赤くてきれいだけれども、その割にあまり美味しくないりんごだったそうですよ。 まだ残暑厳しい時期に、季節を先取りした真っ赤なりんごを市場に高値で出荷するという売り方は、やっぱり、「『にしごおり果物』の伝統的販売戦略だよね!」と納得させられます。
アルバム写真のデータをご提供くださった手塚家には訪問調査にご協力いただき、昭和30年代のりんご栽培に関して以外にも、今諏訪の御柱祭りや、甲府の松米商店で購入した横沢びなについて等、多数の資料をご提供いただきました。 今後も調べが進みましたら、順次まとめて、ご紹介していきたいと思います。手塚家の皆様には心より感謝申し上げます。 

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