伝承館企画展情報

2023年11月22日 (水)

信号機上を駆ける甲斐の黒駒

 こんにちは。
今日は、〇博調査員のお気に入りの信号をご紹介してもいいですか?

2_20231122154901 ←開国橋西交差点の信号(令和5年11月21日撮影)
釜無川右岸沿いの道を通勤路にしている〇博調査員にとって、毎日心癒されるステキな通過ポイントが2カ所あります。なんと、カッコいいお馬さんがデザインされた信号機があるんですよ!
 まず、1ヶ所目は南アルプス市今諏訪にある開国橋西交差点にある信号機です。

3_20231122154901 4_20231122154901←開国橋西交差点にある、「御勅使川扇状地を疾走する甲斐の黒駒」デザインの信号機(令和5年11月21日撮影)


ほら、信号機の上をお馬さんが駆けているでしょ。
 設置者に確認したわけではないですが、絶対にこれ、「甲斐の黒駒」ちゃんだと思うんですよね。
 古代甲斐国は、「甲斐の黒駒」の名で知られた名馬の産地でした。特に南アルプス山麓の御勅使川扇状地では、鎌倉時代に『八田牧』と呼ばれた牧場があったことが知られています。さらに、近年の考古学的調査からは、平安時代にさかのぼる牛馬生産の存在が示されています。まさに文化的にピッタリの場所にデザインされたクールな信号機なのです!


 では、市内若草地区の浅原橋西交差点にあるもう1ヶ所のお馬さん信号機をみてください。

Photo_20231122155101 Photo_20231122155102←浅原橋西交差点にある、「御勅使川扇状地に放牧される甲斐の黒駒の親子?」デザインの信号機(令和5年11月21日撮影)



よーく見ると、ほらぁ~、仔馬ちゃんがうまれてますよ~!「チュッ」てしてるみたいで可愛いですね♡ 八田牧で放牧されている親子でしょうか?
通る機会があったら、ちょっと気にしてみてくださいな。

 ちなみに、南アルプス市ふるさと文化伝承会で開催中のテーマ展『南アルプス山麓の古代牧』は令和5年12月20日(水)までの会期でございまーす。

Dsc_0522←令和5年12月20日(水)まで南アルプス市ふるさと文化伝承館で開催のテーマ展『南アルプス山麓の古代牧』


 展示をご覧にいらっしゃる行き帰りに、どうぞこのお馬さんの信号機を探してみて下さい。
古代には、この地に甲斐の黒駒たちが雄大な山々をバックに駆けまわる景観があったことを想像していただけたなら幸いです。

 ところで、同じ釜無川に架かっている市内八田地区にある信玄橋西交差点の信号はこんな感じです。残念ながらお馬さんはいないですから、お間違えなく~。

Photo_20231122155201 ←信玄橋西交差点の信号機にはお馬さんはいませんよ~(平成30年12月27日撮影)

2023年8月 3日 (木)

牛と馬の道具

 こんにちは。
只今、南アルプス市ふるさと文化伝承館ではテーマ展『南アルプス山麓の古代牧』を開催中です。会期は令和5年12月20日までです。 今日は、その中の民具展示コーナーをご紹介します。
 Dsc_0285 Dsc_0286_20230803142601 ←『南アルプス山麓の古代牧』展における民具コーナー 
展示している実物大写真の馬の種類は木曽馬です。古代の伝承にある「甲斐の黒駒」の画像はさすがにご用意できませんので、巨摩地域で飼育されてきた実績のある木曽馬の実物大画像を置いています。体高130㎝ほどの低身で頭が低く、お腹が大きくちょっとぷっくりしていて、太く短い首と耳が木曽馬の特徴的な体型です。また、丈夫で、引く力が強く、繁殖力もつよいという長所もありました。 南アルプス市有野で昭和25年頃に撮影された馬耕の様子の画像に写る馬もこの木曽馬だと思われます。
Photo_20230803142801 ←「南アルプス市有野で昭和25年頃撮影の馬耕の様子」(名取栄一氏蔵 平成13年白根町発行『夢』より)
M2534 M3426 ←荷鞍(にぐら):馬・牛の背に荷物をのせるための鞍。枠木の内側に厚さ20センチほどの藁を芯に畳表や布でくるんだ鞍床を左右に結いつけている。街道を運ぶときは、1駄(40貫=150㎏)、山道で32貫=120㎏)ほど一頭で運べたという。


Dsc_0289-2 ←蹄鉄(ていてつ):馬の蹄(ひづめ)の底に打ち付けて蹄を保護し、滑りを防ぐための金具。

Dsc_0289 Dsc_0291 ←ハミ・轡(くつわ):馬の口にはめる金具で、手綱(たづな)を付けて馬を操るのに必要な道具。口の中にくわえさせる銜(はみ)、その両端に付ける鉄鐶で構成される。古墳時代から使われてきた道具。


Dsc_0292 Dsc_0293 ←「胸繋(ハモ)」商品名のプレートには『角田式 製造元祖 萬年牛馬鞍 岡山角田農具製作所』とある。
胸繋(ハモ):木材やそりなどの重い荷や、馬耕作業用の道具を引く際に、荷重のかかる馬の首の皮膚への負担を軽減するために用いる装着具。U字型に馬の首に装着する。


Photo_20230803142901 ←「ハモを装着時の拡大図」(名取栄一氏蔵 平成13年白根町発行『夢』より)


M4156 ←尻枷(しりかせ):ハモから引いた引綱を両端に縛って牛馬の後方に位置させ、犂(すき)などの農具に取り付ける棒。具体的には、首にU字型に取り付けたハモの左右両側についている金属製の環のそれぞれに引綱を結び、後方に尻枷を装着する。さらに、尻枷の真ん中にある金属製のカギに引っかけて連結した荷や農具などを引かせる仕組み。


M2609 M2605 ←メコ(鐶):くさび部分を木材の端に打ち込み、材木を山から引き出したり、牛馬を柱につなぐときに用いる。


Dsc_0290_20230803142701 ←「尻枷にメコを連結した様子」メコの楔状部品を木材の端に打ち込めば、山から木材を運び出すことができる。

 令和5年度の今テーマ展では、御勅使川扇状地での牧(牧場)の存在が平安時代にさかのぼる可能性を示す百々遺跡出土資料の紹介を主眼にご覧いただいていますが、江戸時代以降も続いた牛馬利用の伝統についても言及しています。
そのため、文献資料や出土牛馬骨の分析資料だけでなく、もっと身近に最近まで行われていた牛馬と市民との関わり示す民具も観ていただこうと、昭和30年代頃まで市内で使われていた牛馬に関わる道具も展示致しております。 どうぞ、いらしてください。

2023年5月17日 (水)

ハエ捕り棒とハエ捕り瓶とハイトリック

こんにちは。

令和5年6月21日(水)まで開催しておりますテーマ展「ナニコレ!昔の道具」展に展示中の「ハエ捕り瓶」と「ハエ捕り棒」「ハイトリック」について、今日はご紹介したいと思います。

Dsc_0082←展示中のハエ捕り棒とハエ取り瓶

このテーマ展は、懐かしくて、新鮮な驚きを与えてくれる、昭和時代まで使われていた生活道具を300点以上展示しており、様々な展示資料を前に来館者様と当館スタッフとが和やかに会話する場面が多くみられます。

〇博調査員も、展示資料に付随する思い出話や使用実感などをお客様から直に採取できる貴重な機会をいただけたと感謝しております。

このたび、多数の来館者様とのこのようなやり取りの中にご縁ができ、是非収蔵をしたいと思っていたガラス製の「ハエ捕り棒」を市民の方より寄贈していただきました。

家の中で養蚕が盛んに行われていた昭和30年代までは、殺虫剤を家屋内で使用することは少なく、現代よりも家の中にハエ等が入り込むことが多くありました。薬剤を使用せずに害虫を捕獲する器具をテーマ展でも展示しております。

Dsc_0087_20230517161501 ←「ハエ捕り棒」:天井に止まったハエを捕まえる、ガラス製の棒。ラッパ形の口で天井に止まっているハエを閉じ込めると、逃げようとしたハエは硝子の内側に当たり、管を滑り落ちて、下の丸い部分に入れておいた水に落ちる。明治時代から昭和時代にかけて使われた。(伝承館スタッフ熱演!)

002img20230510_13120685 ←ハエ捕り棒の使い方図(伝承館スタッフ作画・モデルはピース!)

このハエ捕り棒はガラス製の上、ハエを捕獲するために部屋の中を持ち歩くので破損することも多く、昭和時代以降のものにはラッパ形の口や最下部の水をためておく部分が金属製やゴムになり着脱可能になったものや、胴部がプラスチック製に代わったものもあったようです。そのため、この度収蔵させていただいた初期型のガラス製ハエ捕り棒がまったくの無傷であるだけでなく、実際にハエを捕まえた実績のある使用痕跡が観察できるところに、〇博調査員は感銘を受けたのでした。

 次に、ハエ取り棒を寄贈いただくきっかけをとなった展示資料、「ハエ捕り瓶」をご覧ください。

Dsc_0094 ←「ハエ捕り瓶」:ハエをおびき寄せて退治するガラス製の道具。瓶の中央に開いている穴の下に煮干しの頭などのハエの餌をのせた紙を置き、容器の中には水を入れ、瓶の口の蓋をしめる。においに誘われ餌を食べに来たハエは飛び立とうとすると瓶の中に入ってしまい、出られなくなり、やがて水に落ちる仕組み。

こちら展示中のハエ捕り瓶は収蔵時には既に蓋が無くなっておりましたが、気泡の入る緑がかった昔のガラスの質感と美しいフォルムに魅了されます。壊れやすいものを日常に使う心構えや丁寧な扱いや動作を実践する暮らしをしていた先人たちに尊敬の念を覚えます。とはいえ、ガラス製の蓋も健在のハエ捕り瓶とのご縁も希望いたしておりますm(__)m。

002img20230510_13131921 ←ハエ捕り瓶の使い方図(伝承館スタッフ作画)

集蠅力を上げるために、瓶の中に入れる水には酢や酒砂糖などを混ぜたり、米のとぎ汁を使用することもあったようです。瓶の下のエサに惹かれてもぐりこんだハエは、お腹はいっぱいになりますが、上に飛び上がる事しかできないので瓶の中から脱出できずに、そのうち力尽きて水の中に落ちてしまいます。インテリアとしても美しいフォルムとは裏腹に、ハエの習性を利用した科学的でさらに冷酷な面もある道具なんですね。

次に、こちらのハエ捕り装置もご覧ください。

Dsc_0093_20230517161501 Img_1244 ←「ハイトリック」:ハエや蚊を捕る器械。ゼンマイで回転する四角柱に酒や酢・砂糖などを混ぜたものを塗っておくと、においに誘われた虫が止まっている間にゆっくりと箱の中に運ばれて行き、捕まえる仕組み。捕まったハエは、箱から光の差す隣の収容かごに通って移動する。殺虫剤を使用せずに虫を生捕りできるので、捕獲した虫は魚の餌にもなった。

 こちらの装置は名古屋の時計屋さんが大正2年に特許を取って製造販売されるようになった有名なハエ捕り器で、捕獲したハエの姿が外から見えないですし、捕まえたハエをかごに誘導する為の採光窓部分にステンドグラスのような装飾をしたり、模様入りの摺りガラスを使用してあり見た目がおしゃれで、料理屋さんや病院の待合室や会社の応接室などによく置かれていたようです。つい先日も、かつて料亭を経営されていた市内の方よりゼンマイのねじも健在の資料を寄贈していただいたばかりです。

Dsc_0095 伝承館のテーマ展示等に使用する資料のほとんどは市民の皆様からのご寄贈品です。今回の民具に関するテーマ展開催をきっかけとして、文化財としての活用の期待される貴重な資料がまた多数収蔵できました。展示を観てくださった方々、ご寄贈くださった市民の方々に深く感謝申します。

2023年3月 3日 (金)

ごはんに関わる民具あれこれ

こんにちは。
P1306333  今日も伝承館には、小学3年生の子供たちが昔の道具の学習のためにたくさん来館してくれています。


スタッフ総出で、主に、①農具、②家の中の生活道具、③地域の産業であった綿と藍の道具の3パートを順に紹介・体験するパターンで主にご案内しています。

 

 

 〇博調査員はだいたい②家の中の生活道具の説明を担当しているので、今回の記事は、ご飯を炊いてから食べるまで入れておく道具のお話をしたいと思います。


P1130714  電気やガスが使われていなかった時代は、「かまど」に薪を燃やしてご飯を炊きました。展示されているかまどの前には「付け木」と「マッチ」「火吹き竹」もセットしておきましたよ。
 竈(かまど): 鍋・釜をのせて煮炊きに使用する場所。「くど」「へっつい」ともいいます。
 火吹き竹: 息を吹き込んで火力を上げるために使う竹筒。
 付木(つけぎ): ヒノキ・スギ・マツなどの薄片の先端に硫黄をぬったもので、火種や囲炉裏の炭火などから薪や       灯心などに火を移す時に使いました。

P1130720  かまどに据えて使うのに便利なのは、「羽釜」です。
羽釜(はがま): 胴部の周りにぐるりとつばがついているかまど専用の鍋。かまどにつばの部分がひっかかって設置するようになっていて、下から吹き上がる火力を無駄にすることがありません。
 羽釜では湯も沸かしますが、飯炊きの場合は、上にのせた分厚い木蓋が炊きあがったご飯を十分に蒸らす役目もします。関東より北では、囲炉裏で自在かぎに吊るした鍋で「米を煮る」という文化もあったようですが、昭和30年代電気炊飯器が普及するまで、炊飯はかまどに羽釜で行っていました。
「はじめちょろちょろ、中ぱっぱ、ぶつぶつ吹いたら(ジュージュー吹いたら)火をひいて、赤子泣いても蓋とるな、最後に藁を一握りパッと燃えたちゃ、出来上がり」とは、釜炊飯の火加減の目安をたとえた言葉。
「はじめは釜の底だけ熱が加わって炊きムラが起きないように緩やかに火を入れ始め、中ぱっぱでは強火、吹きこぼれはじめたら火を弱くして、蓋をとらないようにしてしっかり蒸らした後、最後に余分な水分を飛ばすために藁を一握りいれる」と解釈すればよいでしょうかね。

P1130712 Img20181221_11552419  羽釜で炊きあがったご飯は「おひつ」に入れ替えて食事をする部屋に運びます。

P1130722 P1130715 冬の間はお櫃に入れただけではすぐに冷めてしまうので、さらに藁を編んで作った「お櫃入(おひついれ)」(いづめ)にいれて保温しました。お母さんが忙しい時には、赤ちゃんを入れておいたこともよくあったようですよ!

P1130713 P1306334 夏の間は逆にお櫃に入れると蒸れて腐りやすくなるので、「飯籠(めしかご)」の中に布巾を敷いて入れ、晩までとっておくにはすえてしまわないように、風通しの良い日陰の軒先に吊るしておいたりもしました。

P1130724 P1130733  ご飯は炊いた時から時間がたつにつれて、粘り気がなくパサパサになり、まずくなります。おまけに暑い夏の間は朝炊いたご飯が晩にはすえてしまうこともあります。ごはんは、炊き立てが一番おいしいことを弥生時代から日本人は知っています。ですから、お母さんは一日に一回は飯炊きをしなければなりませんでした。しかも、飯炊きは火の調整が随時必要で、ふきこぼれたり焦げ付かぬよう釜から目が離せません。
 いまは自動炊飯器のタイマー機能を使えば、朝晩2回に分けてごはんを炊くことも苦になりませんね。そもそも、かまども羽釜もお櫃もお櫃入も飯籠の機能もすべてを持つ電気自動炊飯器が、主婦のやっていたかまどの火の世話や炊けたご飯の移し替えなどの労力も無くしているわけですからすごいことです。
 でも、やっぱり、かまどに羽釜で炊いたご飯にあこがれがあるんですよねぇ? 生まれた時から自動炊飯器のごはんで育ったくせに、「昔ながらのかまど炊きを再現」とかいう文言に弱いのは、きっと日本人としての文化的な背景があるからなんでしょうね。

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2023年2月17日 (金)

『せんごく』と呼んでいた唐箕

こんにちは。
 令和5年2月から南アルプス市ふるさと文化伝承館では、「ナニコレ!昔の道具」展を開催し、懐かしくて、新鮮な驚きを与えてくれる、昭和時代まで使われていた生活道具たちを展示しています。ちょうどこの時期をピークに多数訪れてくれる小学校三年生の「昔の暮らし」の民具学習に対応した企画でもあります。
 総点数300点越えの展示民具のなかでも、稲作の道具に関しては、市南部の田方(たがた)地域で使用された収蔵民具から特に、脱穀から精米までの流れが理解できるように農具を配置しました。

P1130679 ←2023年2月現在開催中の南アルプス市ふるさと文化伝承館テーマ展「ナニコレ!昔の道具」展における稲作の道具エリアの一部

鎌(稲刈り) → 扱箸・千歯扱き・足踏み回転脱穀機(脱穀) → 唐箕(地域名:せんごく)(藁くずと選別) → 摺臼(地域名:するす)(もみすり) → 唐箕(地域名:せんごく)・万石通し(籾殻と選別) → 搗臼(精米) → 万石通し・ふるい(糠と選別) → やっと、白米に!
 以上のような流れを、使用する道具をを動かしながら子供たちに説明すると、稲刈りしてから白いお米になるまでに、想像した以上にいくつもの工程と道具が必要であることに驚かれます。 
P1130680 ←脱穀用具(扱箸・千歯扱き・足踏み回転脱穀機) ※最上段は麦穂と麦の脱穀に使う「鬼歯」を展示
扱箸(こきばし):2本の竹棒の片箸を藁で結んだその間に稲の穂先を挟んで籾を挟んで扱き落とす道具
千歯扱き(ぜんばこき):木製の台木に鉄の歯を櫛状に並べて固定したもので、歯と歯のすきまに稲や麦の穂を差し込んで引っ張ることで実を落とす(扱く)」
足踏み回転脱穀機:踏み板を踏むと金具が表面に装着された扱胴が回転するので、そこに手に持った稲束の穂を当てると、籾がはじけ飛んで落ちる仕組み

 少し詳しく脱穀の道具の時代的変遷をご紹介しますと、
 田んぼから「鎌(かま)」で刈った稲から、まず穂の部分だけを取り外して集める際にかつては一本一本の穂を「扱箸(こきばし)」でしごき落としていましたが、江戸時代になると「千歯扱き(ぜんばこき)」という鉄製の歯が櫛の目のように並んだ道具に稲束をくぐらせることで籾だけを集めるようになります。さらに、大正時代になると、
「足踏み回転脱穀機」使用するようになりました。

しかし、集めた籾にはまだ藁くずなどが混ざっていますので、「唐箕(とうみ)」と呼ばれる道具で風を起こし、吹き飛ばしてきれいにします。
P1130687 P1130686 ←せんごく(唐箕(とうみ):風の力を使って穀物を選別する道具。全国的には唐箕(とうみ)と称するが、山梨では「せんごく」と呼ぶ人が多い。南アルプス市域では、梅の実のゴミ飛ばしにも昭和後期まで使用された。

 さて、この唐箕(とうみ)という名の選別用具ですが、我が南アルプス市周辺地域では「せんごく」と呼んでいました。使った経験のある50 歳代くらいまでの市周辺出身の方に、この道具の名前は何ですか?と質問すると、みなさん、「せんごく!」とお答えくださいます。釜無川を挟んだ東側の中央市や南部の市川三郷町付近の人からも「せんごく」の名を聞きました。山梨全県域で聞き取り調査をしたわけではないので断言はできないのですが、山梨県域内に、唐箕のことを「せんごく」呼ぶ文化が存在していたことは確かです。ですから、見学に来てくれた子供たちが、おじいちゃんおばあちゃんの家にあるこの道具について話をする際に混乱しないよう、「教科書には『唐箕(とうみ)』と書いてあるけど、山梨のこのあたりでは『せんごく』と呼ぶ人が多いのだよ!」と必ず伝えるようにしています。
 一方、全国的に「千石(せんごく)とおし」と呼ばれることも多いこちらの選別器具については、当地では「万石とおし」と呼んでいます。だいぶ紛らわしいですね!
 
P1130684 ←するす(摺臼すりうす):籾摺りをする木製のうす。二人で上うす側面につけてある紐をそれぞれ持って時計回りにぐるぐるすると、上臼と下臼の間から籾殻と剥けた玄米がともに出てくる。
 するすの上には、左から順に、籾→籾殻・玄米→糠・白米という精米過程の状態がわかるようにペットボトルに詰めておきましたのでご覧ください。

P1130685   ←万石通し(まんごくとおし):選別用具。斜めに固定した網の上をすべり落とすことで、籾摺りした後の玄米とそれに混ざっているまだ籾摺りされていない籾とをより分けたり、精白中の白米から糠(ぬか)やくず米を分離する。籾と糠のそれぞれを選別するため、目の大きさの違う網を付け替えて使用できるように網部分は着脱可能になっている。江戸時代の元禄[ゲンロク](1688‐1704)のころ発明された。また、全国的に「千石(せんごく)とおし」と呼ばれることも多いが、当地では「万石とおし」と呼んでいる。

 また、展示では、精米の過程で取り除かれる藁や藁くず、籾殻、糠が生活必需品として利用されてきた例を紹介しています。
 P1130681_20230217150201 ←展示中の蓑(みの)と草履(ぞうり)
・藁(わら)は蓑や草履お櫃入など藁を編んで様々な製品にうまれかわる。
・藁くずは馬や牛のエサになる他、紙などの資源に.。
・籾殻(もみがら)はプラスチック製品がなかった時代の緩衝材として広く使われましたし、もみがら燻炭にすれば田に撒くことで土壌改良に役立つ。
P1130683 ←籾殻を詰めた箱に入ったりんごとすもも

296-6_20230217150301 ←2021年12月甲西地区東南湖で行われていた燻炭づくりのようす。
さらに、
・糠(ぬか)は漬物を作るぬか床になったり、タケノコや山菜の灰汁をとるためにゆで汁に一緒に入れるのに使ったり、石鹸の代用品にも。

 ほんとうに様々な使用用途があったことを紹介しています。
 精米工程は大変なようだけれども、昔の米作りには何一つゴミは出ない.その過程で排出されるものはすべて生活に必要なものだったのです。

2022年12月15日 (木)

にしごおり果物の軌跡は「柿の野売り」による行商活動からはじまった

 こんにちは。
今月21日迄開催しております南アルプス市ふるさと文化伝承館テーマ展「にしごおり果物のキセキ」において展示中の古文書について、きょうはご紹介したいと思います。

P1130663 ←南アルプス市ふるさと文化伝承館テーマ展「にしごおり果物のキセキ」より、柿売人に関する文献の展示コーナー
 展示ケース中にて、『菓もの類野うり免許状』2点、『曝柿直売免許状』1点、『原七郷議定書之事』1点を公開しています。いずれも、にしごおりの柿売人に関する文書です。
 これらの古文書の展示によって、にしごおり果物の軌跡が「柿の野売り」による行商活動からはじまっていることを知っていただきたいと思いました。

 古来より、砂、砂利、礫、粘土に覆われたにしごおりの原七郷では、その恵まれない自然条件下によるギリギリの土地利用のなかで、最大限の効果を挙げようと努力する人々の姿がありました。柿などの作物を加工したり、売る時期をずらすなどして、商品価値を高め、農閑期に村外まで売り歩く行商によって、村の生産力以上の人口を維持してきたのです。南アルプス市域で最も古くから盛んに作られた果物は、この行商用商品として加工するための柿でした。

古文献にも、西郡(にしごおり)の柿についての記述は見られ、

「裏見寒話巻之四」1754年宝暦4年 野田成方 「甲斐志料集成三 地理部2」昭和8年 甲斐志料刊行会・大和屋書店に収録の
甲斐料集成P226には『西郡晒柿 渋柿を藁灰にて晒して売る。此処は田畑なく、柿を売る事を免許されしといふ。』
甲斐料集成P229には『晒柿 渋柿を藁汁にて製して晒す。佳味也。西郡原方より出づ。』とあります。これらの記述から、にしごおりの人々が売り歩いた柿は渋柿を加工したもので、「晒柿(さわしがき・さらしがき)」と称されていたことがわかります。

 行商の商品として「にしごおり果物」を生産したことは、明治以降に当地で勃興するフルーツ産業に、様々なプラス作用を及ぼしました。商機があればどこにでも出かけていく、風の如く機敏なフットワークと開拓心によって磨かれた、にしごおり行商人たちの経済観念の強さは、市場の動向にもまた機敏な果物栽培を初期段階から実現し、現在の南アルプス市における独創的なフルーツ産業の在り方へとつながっています。

P1130201    ←1 「菓もの類野うり免許状 十五所澤登家所蔵」 天文10年8月 1541:七郷の者に与えられたという果物売りの行商免許(御朱印)状

 まずは、原七郷のの者どもへ武田信玄が出したという、いわゆる「野売り免許状」と呼ばれるたぐいのものを3点ご覧いただきます。
1 「菓もの類野うり免許状 十五所澤登家所蔵」 天文10年8月 1541
    七郷の者に与えられたという果物売りの行商免許(御朱印)状
『其村々より年々飼馬
献上致候段神妙之至
向後三郡九すし之内
菓もの類野うり糶売
免許之事

小幡山城 奉之

天文拾年    
  辛丑八月日 

          七郷之もの共』

P1130662 ←『1・2菓もの類野うり免許状』2点、『3曝柿直売免許状』1点、『5原七郷議定書之事』1点

2 「菓もの類野うり免許状 桃園区有文書55-16」 天文10年8月 1541
    七郷の者に与えられたという果物売りの行商免許(御朱印)状
『其村々より年々飼馬
献上致候段神妙之至
向後三郡九筋之内
菓もの類野売糶売
免許之事
小幡山城 奉之
天文十年辛丑八月日    
              七郷之 もの江』

3 「瀑柿直売免許状 桃園区有文書55-1」 天文18年8月 1549
    七郷の者に与えられたという柿売りの行商免許(御朱印)状
『巨摩郡西郡筋原七郷者
雖乾水場所他邦会戦之節
夫持軍役等無遅滞因
先功瀑柿直売并諸商令
免許之旨御下知不可有
相違弥以此趣軍用可相勤条
依執達如件

天文十八年酉八月十五日   小幡因幡守
                奉之

              巨摩郡
               原七郷者江』

 「野売り免許状」とは、「飼馬を献上した等の功績により、原七郷に住む者どもに、果物類、晒柿その他の野売、せり売が信玄により免許されたという御朱印状のことで、1の免許状(朱印状)は現在でも櫛形地区の個人宅で大切に保管されているものです。これまでに※文献等に紹介された、同様の野売り免許状を集成すると、天文10年から永禄11年迄で計9点が確認できますが・・・。しかし、現今では偽書であるとの判断がなされています。このような偽の信玄免許状が流布するようになるのは、文化6(1809)年10月に起きた市川大門柿売人との縄張り争い以降であるとされます。 ※文献3)4) 
 ちなみに、野売り免許状に記載されている「天文10年」は、6月に武田晴信(後の武田信玄)は父の信虎を追放して当主となり信濃侵攻を開始した年です。「小幡山城」とは、武田家の家臣で小幡虎盛という人物を指します。

※ 野売り免許状についての記述のある文献:
1)「豊村」 豊村役場 昭和35年
2)「行商人の生活」 塚原美村 雄山閣 昭和45年
3)「甲州商人の特権伝説をめぐる一考察」 笹本正治 山梨郷土研究会甲斐路第59号 昭和62年
4)「山梨県史資料編11近世4在方Ⅱ」 山梨県 平成12年

 それでは次に、以上1・2・3のような偽書といわれる「信玄の野売り免許状」が、つくられる契機となった文化6年のある事件についての文書をご紹介します。

Dsc_0860 ←4『4柿売一件』 桃園区有文書55-5 文化6年10月 1809


4「信玄の偽免許状発給のきっかけ事件」文化6年10月 1809 『4柿売一件』桃園区有文書55-5
:八代郡東油川村で起きた市川大門とにしごおりの柿売人との間に起きた縄張り争いを巡る喧嘩についての文書
にしごおり柿売人が絡んだ争いの、最古の記録とされる。 ※文献1)3)

『八代郡市川大門村惣右衛門吉右衛門御訴訟奉申
上候趣意ハ祐助安五郎外五人者共晩十六日
八代郡東油川村近辺江柿売ニ罷出候処同商
売之もの原方七郷之者之よし申之大勢
理不尽難題申懸勇助安五郎両人之柿籠
奪取候間外立会候者共種々懸合候所一向
不取用小人数御座候得ハ大勢ニ而悪口申募
られ理非不相分両人之者共西郡原方ヘ一同
右連申候ニ付外五人之者共罷帰右両人親々江
相話し候ニ付右之始末御吟味奉請度段御訴訟
奉申上候儀之小笠原村江御出役様御越
被遊御吟味可被為極候処隣村之義故気の毒ニ
奉存江原村察右衛門御吟味延奉願小笠原村
安五郎十五所村八五郎右両人供場ニ而引
合候由承候ニ付右始末相尋候処右両人
申候ニハ其方共何れも相尋候間西郡原方より
相咎候得ハ西郡者笛吹より東ハ入込申
間敷と申私共柿籠ふみつふし以来
西郡者ハ差留メ申候間此段相心得可申与
申候間急度差押候ハバ其段書付差出し
可申間申候得ハ途中之事故此者両人遣候間
其地ニ而相糺可申与申候間無拠一同仕申
候由申之候右之趣多方申争ひ御吟味
奉請候而者不宣奉存双方異見差加ヘ内済
仕候起ハ

一 原七郷村々柿野売之義ハ往古より申奉も
有之作間渡世堅目籠ニ而手広之仕来ニ
御座候野売致候義ハ原方ニ限リ近郷ニ而茂
相弁ひ罷有候市川大門村之義ハ柿籠を以商い
渡来リ候段申之以来相互ニ馴合柿在売之義
迄者双方共故障申間敷候右之趣双方得心
仕相済申候且又此度申争ひ其外憤リ所ハ
扱人貰請重而意趣遺恨無ニ趣和融之上
内済仕候右之通双方并引合之者共迄一同
内済仕候ニ付何卒御慈悲を以テ内済御聞済
御下置願書御下ヶ被下置候様奉願上候然上ハ
右一件ニ付重而御願ヶ間敷義も願無御座候
誠ニ御威光ト有難仕合ニ奉存候之一同連印
を以御願下ゲ済口差上申処如件         』

文書の内容: 原七郷の柿売人が八代郡東油川村へ出向いたところ、市川大門の柿売りと鉢合わせて、縄張り争いとなる。市川大門の柿売り達が、「西郡者は笛吹川を越えて売りに来てはならない」といって、柿籠を踏みつぶして大喧嘩となったのだ。その折、小笠原村の安五郎たちは、けんか相手の市川大門の2人を西郡に連れて帰ってしまったので、市川大門方は代官所に訴えた。結果、仲裁人が入り、「西郡者は堅目籠を用い、市川大門方は柿籠を使って、互いに紛らわしくないようにして商売するよう」に決めて一応の決着をみた。

 この事件は、原七郷の人々に、生活基盤の一つである野売り商いの将来的なあり方への危機感を煽ることとなりました。そのため、この事件を契機として、信玄の野売り免許状なるものの流布が見られるようになったと考えられています。 ※文献3)

Img20180810_13302518_20221215143901 ←柿の野売りに使用された籠(南アルプス市文化財課蔵):この籠のタイプが文化6年当時に「竪目籠」とよばれたものかは不明。

 よその土地に商売に出かけていくということには、相応の勇気と商才が必要です。信玄以前には「勅使による商売許可」というものもあり、「武田信玄の野売免許」とあわせた、それらの伝説の醸成した原七郷の特権意識は、西郡の行商人を精神的に支えました。

次の文書は、行商の特権意識を持つにしごおりの村々が団結して自衛する動きを示すものです。

P1130664 ←『5原七郷議定書之事』桃園区有文書55-22 文化6年10月 1809
5「野売免許状を持つ原七郷の村々九村で商いの組合をつくった」文化6年10月 1809 『原七郷議定書之事』 桃園区有文書55-22
 内容:4の市川大門柿売人との縄張り争いの事件を受けて、危機感の募った原七郷の柿売人たちが、「野売免許状を持つ原七郷の村々九村」として、商いの組合をつくり、作間稼ぎの野売に関する決め事を記した。
『文化六巳十月柿売一件取極書 桃園村
原七郷糶定書之事
一 従御公儀様被仰渡候御法度之
  義者不及申何事によらす諸商ひ
  等ニ罷出候節随分相慎ミがさつ
  かましき義仕間敷別而
  御朱印等申立候義者重き御義ニ
  候間此旨得与相弁可申事
一 柿野売場先ニ而何事ニよらす何れ之
  村方より一件差発候節ハ組合村評議之上
  品ニより諸入用等組合割ニ司仕事
一 柿商売仕候者共江一村限り得与申聞置
場先ニ而御朱印を申立かさつ
成始末并不埒之取計仕候者
有之者詮議之上諸入用共者
壱人懸リ品により組合入用迄かけ
可申事
右之通組合付相談之上取極候上ハ
一村限り小前壱人別ニ申聞麁略無之様ニ
可仕若不埒之村方有之候ハ組合村ニテ
申立作間稼之商ひ一村差留メ可申候
為其組合連印為取替諠定書
仍如件
      文化六巳十月      在家塚村 
                    名主 林右衛門
                  上八田村
                    名主 幸右衛門
                  上今井村
                    名主 庄左衛門
                  桃園村
                    名主 庄八 
                  小笠原村
                    名主 源左衛門
                  吉田村
                    名主 清左衛門
                  飯野村
                    名主 忠左衛門
                  十五所村
                    名主 作右衛門
                  西野村
                   名主 佐治兵衛
端裏書
  文化六巳十月柿売一件取極書 桃園村        』

 その他、にしごおりの柿売人に関する文書について、文献等に既出のものを数え上げると、江戸期から明治初年頃にかけてのもので27点になりました。信玄の免許状だけでも9点ありました。いかに柿(果物類)の野売りによる利益がにしごおりの人々の生活に欠かせないものであったかが理解できると思います。

Dsc_0861 ←柿売人の登場する文献のリスト(展示中)(南アルプス市○博担当作成)
 江戸期に活発に行われていたにしごおりの人々による柿の野売りは、明治期に甲府に青物市場が整備されるまで続きました。
 野売りが行われなくなった後も、この行商文化で磨いたにしごおりの人々の売り込み精神や商才は、進取の気性・卓越した経済観念としてその心に宿り続け、現在まで続く当地の独創的なとフルーツ産業の発展に貢献しているのです。

2022年11月21日 (月)

昭和16年 桜桃用保障紙使用許可申請書

こんにちは。

 きょうは、昭和16年頃に西野村の果実農家が使用した「出荷用ラベル」をご紹介します。

002img20220705_15232640 ←「昭和15年 桜桃用保障紙」(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市文化財課蔵)

 果物出荷木箱一つ一つに貼られた、生産地や生産者が記名されたラベルは、出荷品の質を保障するもので、昭和16年当時は「保障紙」と云っていたのですね。工業製品で言えば商標のようなものですから、そのデザインには目を引くような美しさがあります。

002img20220705_15194861 ←「昭和16年 桜桃用保障紙使用許可申請書 1頁目」(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市文化財課蔵)

 昭和16年と云えば、日本は戦時体制の物資不足で、そろそろ出荷木箱に貼っていた紙ラベルも作れなくなり、急ごしらえの摺り版(金型)にかまどの底の煤を集めて印字した時期がはじまる頃です(当ブログ2022年10月4日「戦争と摺り版」もご覧ください)。

P1130406_20221121152901 ←「南アルプス市ふるさと文化伝承館で展示中の摺り版」(在家塚中込家、野牛島藤巻家資料・南アルプス市文化財課蔵)

 そんな昭和16年5月5日に、「さくらんぼの出荷用ラベルを3000枚、使用を許可して欲しい」という申請を、保証責任西野信用販売購買利用組合が山梨県農産物検査所に提出しています。どういうことかと、その「事由」の項をみると、『前年度使用残物整理ノタメ』とありました。なるほど! 

 「戦時体制に歯向かっているわけではありませんが、ラベルの在庫がたくさんあって困るので、今年もまた使用したいのですがよろしいでしょうか?」とお伺いをたてたわけですね。

 この申請書の頁をめくると、見本として、そのラベルが添付してありました。

002img20220705_15210411 ←「昭和16年 桜桃用保障紙使用許可申請書 2頁目・3頁目」(西野功刀幹浩家資料・南アルプス市文化財課蔵)

 甲州を象徴する美しいシルエットの富士山をバックに、枝先の真っ赤なさくらんぼが5粒。とても美しいラベル絵ですね。紙の地色がこれまたレトロな感じのする温かみのある黄色で枠線のグリーンもステキ! 

 生産者名と『音羽園』という屋号も記されていましたので、〇博調査員で見当を付けてお電話してみましたところ、ラベルに記された名の方は「うちのおじいさんで、「きよつぐ」と読むのですよ」と教えてくださいました。私からは、「現在、ふるさと文化伝承館のテーマ展『にしごおり果物のキセキ』で展示いたしております」とお伝えしました。

P1130578 ←「南アルプス市ふるさと文化伝承館で展示中のラベルたち」(南アルプス市文化財課蔵)

 現在も果実農家をなさっている音羽園さんでは、オリジナルラベルはもう使用されていないとのことでしたが、おじいさまの名が記されたこの美しい戦前のラベルを、機会があれば是非ご覧になっていただきたいなぁと思いました。いま当地の果樹農家では柿の加工生産がまだ忙しいと思うので、これの落ち着く年明けごろの農閑期に入ったら、このラベルの複製を持ってお礼に伺えたらいいなと考えている〇博調査員です。

2022年10月 4日 (火)

戦争と摺り版(果実出荷木箱印字用金型)

こんにちは。
南アルプス市ふるさと文化伝承館では、テーマ展「にしごおり果物のキセキ」の会期がはじまって、2カ月が経過しました。展示資料と同じ種類のものがこの地域で盛んに使われていた昭和時代を知る来館者様から、様々なお話を聞く事ができましたので、ご紹介したいと思います。

P1130406←テーマ展で展示中の「摺り版(果実出荷木箱印字用金型)」
今回のテーマ展で23点も展示している「果実出荷木箱印字用金型」についてです。
この資料は収蔵時に台帳に登録する際に、名称を何と記そうか悩んだ資料です。というのも、これを実際に使った人からのご寄贈ではなかったため、この道具が使用者の間で何と呼ばれていたかが不明だったからです。  
このため、仕方なく、使用用途がわかるようにと、調査員が長ったらしい名付けをしてしまいました。

 ところが、つい先日、80歳になられるというお客様から、使用時の呼び名は『摺り版(すりばん)」であると教えていただきました。

Dsc_0698_20221004131901←昭和16年から20年の間に作られた「摺り版」
 そして、この『摺り版が登場したのは昭和16年以降だった。戦争体制のもと物資不足で、出荷木箱に貼っていた紙ラベルがつくれなくなり、仕方なくあり合わせのブリキやトタンの切れ端を切り抜いて作った摺り版を使うようになった。戦後も物資不足が続いたから、昭和25、6年頃までは皆使っていたし、昭和30年代を過ぎてもそのまま使う家もあった』とのこと。

Dsc_3082 Img20180831_13251850 Img20180831_13271854 ←戦前に(昭和15年くらいまで)使われていた紙ラベル(戦前のものは文字が右から左へと読める)

 そして、印字するための墨はどうやって手に入れたか?の質問については、『かまどに杉の葉などの煤の出やすい植物を燃し、なべ釜の底にこびりついた煤を刷毛とたわしで集めて水に溶いて使った』という人、『煙突掃除をして集めた煤を使った』という方がいらっしゃいました。

P1130403←墨の跡の残る摺り版

  「摺り版」は、戦争によって起こった未曾有の物資不足を生活の知恵で乗り越えた先人の姿を物語る資料でもあったのですね。

P1130400←戦前に出荷されたメロンの印字のある木箱と戦後の「西野の桃」のラベル付きの木箱

2022年10月 3日 (月)

柿の野売り籠

こんにちは。
P1130396
  南アルプス市ふるさと文化伝承館では、テーマ展「にしごおり果物のキセキ」が開催中です。

開期は令和4年12月21日(水)までです。

展示では、南アルプス市の基幹産業の一つである果樹産業が、江戸時代に盛んに行われていた柿の野売りにはじまり、明治以降、どのような歩みを持って、独創的な発展を遂げたかを振り返ります。


さて、このテーマ展が始まって2か月が経ちました。

展示を観に来てくださった地元の方々から、資料を前に様々な聴き取りができ、オーラルヒストリーの採取や関連資料のさらなる収集を行うことができています。

 

 


  今回ご紹介する資料、「柿の野売り籠」もその一つです。

「柿の野売り籠」は南アルプス市の果物産業史における重要なキーアイテムなのですが、テーマ展開催時には文化財課に収蔵がなく、画像をもとに地域の竹細工アーティスト(伝承館スタッフ)に制作を依頼した参考品を展示していました。

P1130398←野売り籠のミニチュア再現品(伝承館スタッフ作成)

Img20180810_13302518←柿の野売り籠の画像(西野功刀幹浩家所蔵)
 9月に入り、市内櫛形地区十五所のお宅の蔵に、柿の野売り籠一対が素晴らしい状態で保管されていることをお知らせいただき、寄贈いただきました。

Img_0826←令和4年9月に寄贈された「柿の野売り籠」のクリーニング作業
 大きさは、口径41cm・底径45cm・高さ43cmで、行商人は、天秤棒で二つのかごを同時に肩に担いで売り歩きました。とてもしっかりとした丈夫な作りで、底部は平ら、籠の中は付着した柿渋で真っ黒です。

P1130394
 ←「柿 野売り籠(かき のうりかご)」 
 にしごおりの人々が、渋抜きした柿を入れ、担いで売り歩いた際に使用した籠。籠の内部は、柿の渋が染みて黒くなっている。
 大正時代のはじめまでは、秋になると、渋抜きした柿を籠に入れて担いで、釜無川や笛吹川を渡って行商に出た。そして、稲刈りをしているところに行って、柿を売ったり、籾と交換することで、生活を支えた。

←展示された柿の野売り籠((天秤棒なし)十五所澤登家より寄贈・南アルプス市文化財課所蔵

 

 

 その後、市内白根地区にお住まいの小野さん(昭和10年代生まれ)から、大正時代までに地域で行われていた、一般的な柿渋の抜き方や、野売りに使用された柿の種類についてなど教えていただきました。

 『野売り籠に入れて売り歩いた柿は小粒の渋柿だったので、渋抜きをしなければならなかった。味噌桶に柿を八分目か九分目位きれいに並べて詰めるのと並行して、42~45℃の大量の湯を風呂樽を使って沸かした。
そして、柿を並べた味噌桶の中に湯を一気にかぶるくらいに入れ、上に木の蓋をしてから蓋の上や周りを菰(こも)や布団で覆って保温すると、1日か2日間で渋が抜けて、柔らかすぎずにちょうどよい舌触りの小粒で甘い柿になった。(西野小野捷夫氏談)

002img20220926_11444294←江戸時代から大正初期までのにしごおりの行商人が野売りした柿の品種(西野小野捷夫氏撮影)
 『かつて、西郡の行商人が売った柿は、みな小ぶりの渋柿品種で、「イチロウ」「ミズガキ」「イチカワビラ」「カツヘイ」などだった。小さな子供が手に持って食べるおやつにちょうど良く、甲州百目のような大きな柿でも渋を抜いて作ることはできたが、小さな渋柿を加工したものがよく売れた。(西野小野捷夫氏談)とのことです。
 勝平(カツヘイ)という品種は白根地区西野の芦澤家に原木(現在は無い)があった現在の南アルプス市固有の品種です。
 大正時代に入り、果実の出荷組合が結成されたり、甲府に青果市場が整備されてくると、籠を担いだ行商人による野売りは急速に無くなりました。そして、行商用の100~150gの小さな柿の栽培も衰退しました。
 現在の南アルプス市で栽培されている加工用の渋柿は刀根早生(トネワセ)、平核無柿(ヒラタネナシカキ)、甲州百目(コウシュウヒャクメ)、大和百目(ヤマトヒャクメ)など比較的大きな柿が主流ですから、野売りという販売形態の終焉とともに、商品となる柿の大きさや品種も大きく変化して現在に至る点は興味深いですね。

 西郡果物の軌跡は「柿の野売り」による行商活動が出発点です。
古来より、砂、砂利、礫、粘土に覆われたにしごおりの原七郷(桃園・沢登・十五所・上今井・吉田・西野・在家塚・飯野・上八田・百々・小笠原)では、その恵まれない自然条件下によるギリギリの土地利用のなかで、最大限の効果を挙げようと努力する人々の姿がありました。
柿などの作物を加工したり、売る時期をずらすなどして、商品価値を高め、農閑期に村外まで売り歩く行商によって、村の生産力以上の人口を維持してきたのです。
南アルプス市域で最も古くから盛んに作られた果物は、この行商用商品として加工するための柿でした。
 行商の商品として「にしごおり果物」を生産したことは、明治以降に当地で勃興するフルーツ産業に、様々なプラス作用を及ぼしました。商機があればどこにでも出かけていく、風の如く機敏なフットワークと開拓心によって磨かれた、にしごおり行商人たちの経済観念の強さは、市場の動向にもまた機敏な果物栽培を初期段階から実現し、現在の南アルプス市における独創的なフルーツ産業の在り方へとつながっています。

P1130395 ←柿渋が染みて内部が真っ黒になっている展示中の野売り籠(十五所澤登家より寄贈・南アルプス市文化財課所蔵)

 ふるさと文化伝承館でのテーマ展示をきっかけとしてつながった所有者様から資料調査や寄贈の打診をいただいたことで、今回も、成長する展示が実現しています。地域博物館での身近な歴史をテーマ展示する意義を、実感する毎日です。

2022年7月29日 (金)

西野果実郷の父・小野要三郎直筆の手紙

こんにちは。
002img20220705_15100589 本日は、南アルプス市ふるさと文化伝承館令和4年度テーマ展「にしごおり果物のキセキ」に関連したレポートを書いておきたいと思います。 一年ほど前、 西野功刀家より寄贈いただいた文書箪笥の中に、西野果実郷の父・小野要三郎直筆の手紙を発見しました。文書内容も調べて確認していたのですが、残念ながら、今回のテーマ展には、展示スペース等の関係もあり、出場していただくことができませんでしたので、ここでご紹介したいと思います。

←小野要三郎直筆功刀家宛書簡 明治45年1月17日 西野功刀幹浩家資料南アルプス市文化財課所蔵

「小野要三郎直筆功刀家宛書簡」  西野功刀幹浩家資料E-0-2-7-1

拝啓 謹言  昨日 上高砂小沢
伊ハ我承 是桃九十七代ト し
テ 委細ヲ入 金四百円ニテ 買
取呉候様申候 又 四五日
内之 又承知候ハ申付 無高
一寸申入候也
 四十五年一月十七日
            清水
             小野要三郎
功刀七右衛門殿

 

 南アルプス市域の果実郷では、その景観を作り上げた父と呼ばれる、小野要三郎という人物がいます。
 石ころだらけで水のない不毛な御勅使川扇状地の土壌に、明治時代後半から次々と様々な果樹を県外から大量に取り寄せては植えて試作し、原七郷を多種栽培を基本とする果実郷に生まれ変わらせた中心人物です。

Photo_20220729164201 ←小野要三郎氏(西野芦澤家資料より・南アルプス市文化財課所蔵)
 安政元年(1854)10月に現南アルプス市西野の地主の家に生まれた小野要三郎は、明治26年頃から牡丹杏や梨、桃などの果樹栽培を試みるようになり、明治40年~44年にかけて西野・清水にあったカラマツ林を開墾して、50アールに本格的に生業として果樹を植えました。この地の桃栽培は軌道に乗り、南アルプス市の果樹栽培の黎明期を象徴するものとなります。
ちょうどその直後、明治45年1月17日に小野要三郎が同じ西野村に住む功刀七右衛門に宛てて書いた手紙をご紹介しています。 


 手紙と云いましても、この資料は、走り書きのような伝言のようなものですし、この手紙内容の意味する行動の前後は判りません。そのため、文面を読んでも、桃の苗木を功刀家が上高砂の小沢さんに売るのを、小野要三郎が仲介したのか?もしくは、上高砂の小沢さんを介して桃の苗木を功刀家が買ったのか?これだけの情報では判明しないことをご了承いただきたいのですが、 明治45年に桃の苗木を100本ほど植えるのに、だいたい400円かかったということを知ることができる内容は、史料価値をさらに高めていると思います。

 文中には、「桃」とあるだけで、苗木の文字は見えませんが、この手紙にある日付が1月17日の真冬であることから、実ではなく苗木の取引だと判難しました。また、文中に見える「清水」という名の地は、小野要三郎が明治40年頃から本格的に果樹栽培に最初に着手した地です。かつて、小野要三郎宅があったこの場所には、いまも開園記念の碑が建っています。

Dsc_3020 ←白根地区西野の清水にある開園記念碑(2018年8月2日撮影)

 さらに、400円というのは、当時どれほどの大金であったか?少し調べてみました。「値段史年表明治大正昭和 ・週刊朝日編」という本から、明治45年に400円と同じくらいの値段のものをまず探してみますと、ダイヤモンド1カラット450円とか銀座の地価1坪300円などが見つかりました。が、う~ん。次にもっと、庶民的なもの値段を探してみますと、明治45年のもりそば3銭、天丼15銭、明治40年の白米10キロで1円56銭とかありましたが、なかなか、ピンとくるようなちょうどよい比較が難しいですね。それでも、当時の400円がいかに高額であったか、何となく想像してみてください。 果樹栽培を生業として一からはじめるには、資材や設備の投資に相当額が必要であったことがわかりますね。
そのため、西野村では、小野要三郎家や功刀家、その他、芦澤家、手塚家、中込家等のような、江戸時代に煙草や木綿などの商品作物で蓄財した、進取の気性を持つ村役たちが、地域の発展を願って率先して新産業に投資した姿が見えてきます。

002img20220729_16043470

 同じ功刀家資料の中には、明治45年と同じ年の大正1年10月下旬に(明治45年は7月30日明治天皇崩御以降が大正元年となった)、西山梨郡甲運村横根(現甲府市横根町)にあった若林國松商店という苗木屋から『和洋葡萄苗木の 2・3年生のモノを400本から500本ご希望のご用意ができましたから、至急ご注文ください』とある書簡がありました。

いまから110年前の西野村で、小野要三郎家だけでなく、西野村全体ではじまった果樹産業進出への大規模投資の一端が見えます。

 

←現在の甲府横根町にあった苗木屋若林國松店からのはがき(西野功刀幹浩家資料より・南アルプス市文化財課所蔵)