櫛形地区

2024年12月13日 (金)

昭和26年のきみ子ちゃんの絵日記を読む4

こんにちは。
 今日も、前回からの続きで小学三年生のきみ子ちゃんの日記から、昭和26年6月29~7月1日までのものと最後のページにある先生の講評をご紹介します。
 お父さんとお母さん、そしてお兄さんと弟との5人家族に育ったきみ子ちゃんは、何かしらの家の手伝いを毎日しているしっかりものの女の子です。この絵日記は昭和26年(1951)6月16日から7月1日まで毎日欠かさず書かれたもので、紐で一冊に綴じられていました。6月後半の2週間は麦刈りや田植えの行われる時期ですからちょうど農繁期休みの期間であったと考えられ、ほぼ毎日、家の仕事に勤しんでいる姿が事細かに絵に表現され、その下段に文章がしたためられています。
 また、この絵日記には、昭和26年の櫛形地区の中野の風景や人々の暮らしを物語る細かいデティールが、きみ子ちゃんという、絵の上手な女の子によって素晴らしく表現されています。この資料によって、私たちは、小学3年生の彼女の目や心のフィルターを通して、昭和26年の南アルプス市域におけるネカタ(根方)の生活というものを知り、その時代の子供の気持ちを追体験することができるような気がするのです。
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←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月29日(金)雨雲晴」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 絵は、麦扱きの様子ですね。
お母さんが、ベルトで発動機とつないだ脱穀機に麦束をすべらせて、麦扱きをしています。麦扱きとは、刈った麦の穂を藁からこき落とす作業のことです。きみ子ちゃんは麦の束を両手いっぱいに抱えて、脱穀機のところまで運ぶお手伝いをしています。
「朝起きて少し経つと、雨が降ってきた。お母さんが今日はこれでは麦扱きができないねといった。」そのうちに、雨がやんできて晴れになったので、手伝いのおばさんが二人来てくれて麦扱きができたようです。「私は麦を運んだ」と文にあります。
 山梨県の郷土食といわれるほうとうも小麦粉でつくります。米と同様に麦も大切な作物でした。この日もきみ子ちゃんは頑張ったんだね!
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←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月30日(土)晴」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 きみ子ちゃんが背負子(しょいこ)にかごをくくり付けて歩いています。
 「昼休みをしてからお母さんとはるえさんと東の畑の所のじゃがいもを掘りに行きました。私が背負子(しょいこ)にかごを縛って、芋を運んだ。背負子が大きいので、上手くおしりの所へいって歩けなかった。おかあさんが芋をこいでから、お母さんも運んだ。そのうちにサイレンが鳴った。」
 昔は子供も結構重たいものを運ぶ機会があったのですよね。ふるさと文化伝承館では、小学校三年生の子供たちが学習する昔の暮らしの授業で背負子を体験してもらうのですが、ちょうど同じような学年の子供たちがこんな風に背負子でジャガイモを運んでいたことをこの日記を見て知ってもらいたいです。 
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←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・7月1日(日)雲晴」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 この日の絵は、家の中のようすですね。障子戸の外に見えるのは、山々の頂です。きみ子ちゃんの家がどのような場所に建っていて、周辺の景観はどんな感じだったかがわかります。そう、櫛形地区中野は大変見晴らしの良い場所なのです。そんな家の中で、きみ子ちゃんはランドセルに学校で使うものを入れて準備しています。
「私が明日学校へ行くだからと言って、かばんの中に学校で使うものをしまっていると、今夜、道祖神祭りだから、ジャガイモをふかしてくれと言ったので、整理をしてからお母さんが言ったことをしてやった。そして晩、道祖神へ行って楽しくとびあいってきた。」
 いよいよ今日で農繁期休みは終わりなのですね。小学3年生で一人で、かまどで火を焚いてジャガイモをふかすことを任されるなんてすごいなぁ! 最終日の夜は、楽しい道祖神祭りの日でよかったです。「ぞうそりん(道祖神)」へ行って「とびあいってきた」という最後の甲州弁の一文が、きみ子ちゃんの楽しさに弾む心の度合いをよく表していると思います。※甲州弁で「とびあいってきた」とは、「忙しく走り回ってきた」という意味。走ることを飛ぶといい、歩くを「あいく」という。
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←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・教師講評」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 最後の空白のページには、赤いインクでその時の担任の先生であった秋山正美先生の講評が書かれています。雨宮キミコさんによると、まだ若い男の先生だったそうですよ。
「お休み中公子はよくお手伝いをしましたね。そして毎日絵日記がとても丁寧に書いてあります。公子が買って来たたばこ、おとうさんは本当においしくのむ事でしょう。 公子が両手にお茶をつるして田に行く姿が思はれました。 杉の木にカニがおったなどとてもうまく書けています 秋山正美」
 これまで、4回の記事をわたって、昭和26年6月に櫛形地区中野で、小学3年生の農繁期休みの出来事を綴ったきみ子ちゃんの日記をご紹介しました。
 この絵日記にあるきみ子ちゃんのお手伝いの数々をみてまず驚くのは、今の小学校低学年の子供たちが普段頼まれているようなお手伝いに比べ、かなり高レベルな作業内容だということです。
 例えば、「芋をふかしておく」という作業は、畑で芋を掘って、屋外の水路で洗ってから、台所のかまどで火を起こしてお湯を沸かして調理します。現代と違って何倍もの工程と労力が必要になり作業内容も高度です。でもきみ子ちゃんはこの一連の作業を全部ひとりでできます。もちろん、毎回その作業を最初からすべて行うわけではありませんが、現在の私たちがスーパーで買ってきたジャガイモにラップをかけてチンするだけとは訳が違います。これはもはやお手伝いというレベルではなく、家事の一部を小学校低学年でガッツリ担っているといった感じです。この家はきみこちゃんがいなければ回っていかないのではないだろうかと思われるほどです。もちろん、時代的にも、社会的にも状況が全く違いますので、現代の子供たちに同じようなことが要求される事態はあり得ません。
 しかし、昭和20年代では、子供たち一人一人が家族の一員であるという強い自覚とともに、その経営の一部を担っているという感覚や責任感を強く持っていたのだと想像させられます。
Dsc_1009 ←「キミコさんからの聴き取り調査の様子(2024年11月7日撮影)」
 聞き取り調査で雨宮キミコさんが話してくれたのですが、きみ子ちゃんが小学一年生くらいの頃から、お父さんは病気で体調の悪い日が多かったそうです。そのため、この日記の絵には、お父さんの気配はあれども姿が描かれていなかったことが理解できました。
 そこで、〇博調査員が「お母さんを助けようと、きみ子ちゃんは人一倍頑張っていたのでしょうね」というと、意外にも、雨宮さんは「いや、そんなことは特に思った記憶はないです。みんなどの家の子もそれくらいのお手伝いはしてたと思う」とおっしゃっていらしたのが印象的でした。
3164 ←「中野上田家絵日記資料一括」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 南アルプス市○○博物館活動では、このような子供たちの絵日記も大切な地域の文化や生活を物語る資料として大切に収蔵し、保管・活用を進めています。

2024年12月12日 (木)

昭和26年のきみ子ちゃんの絵日記を読む3

こんにちは。
 今日も、前回からの続きで小学三年生のきみ子ちゃんの日記から、昭和26年6月25~28日のものをご紹介します。
 お父さんとお母さん、そしてお兄さんと弟との5人家族に育ったきみ子ちゃんは、何かしらの家の手伝いを毎日しているしっかりものの女の子です。この絵日記は昭和26年(1951)6月16日から7月1日まで毎日欠かさず書かれたもので、紐で一冊に綴じられていました。6月後半の2週間は麦刈りや田植えの行われる時期ですからちょうど農繁期休みの期間であったと考えられ、ほぼ毎日、家の仕事に勤しんでいる姿が事細かに絵に表現され、その下段に文章がしたためられています。
 また、この絵日記には、昭和26年の櫛形地区の中野の風景や人々の暮らしを物語る細かいデティールが、きみ子ちゃんという、絵の上手な女の子によって素晴らしく表現されています。この資料によって、私たちは、小学3年生の彼女の目や心のフィルターを通して、昭和26年の南アルプス市域におけるネカタ(根方)の生活というものを知り、その時代の子供の気持ちを追体験することができるような気がするのです。
100010 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月25日(月)雲雨」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 絵の中で、昔から坂道ばっかりの櫛形地区中野の集落の中をきみ子ちゃんがすたすたと歩いています。右手に何か四角いモノを持っていますが何でしょう?文を読んでみましょうね。
 朝十時から書き取りの勉強をしていた聡明なきみ子ちゃんですが、お父さんからハガキを出しに行ってくださいと頼まれたので、勉強を中断して、ポストに向かったようです。その帰りに校長先生に会い、おはようございますと挨拶したことが書いてあります。ポストのある野々瀬郵便局は小学校の向かいにあったので、先生と出会う確率も高かったのでしょう。
100011 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月26日(火)はれ」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 今日は、草取りをしているきみ子ちゃんの絵です。
 文には「朝起きると、お母さんが今朝は土がやっこいからみんなで家の下の草を取って下さいといったので、すすむ(弟)が学校へ行くとすぐ、草とりをはじめました。兄さんは、前の河原でどっかのおじさんが水を止めていたので、兄さんは早々飛んで行った。お母さんが今年は水が貴いといった」とあります。おそらく前日に降った雨も畑を少し湿らす程度で水が不足しがちな日和が続いていたのでしょう。
100012 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月27日(水)晴」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 この日は石と板と本の絵ですね。
 「今日、私は池でたまねぎを洗っていると、つつじが咲いていたのを見て押し葉にしたくなってつつじを採った。池の所と家の前の所のを採って押し葉にした。それから家の前の所へ行ってきれいな花を採って来た」
 いつも家のお手伝いをしていて忙しい中にも、きれいな花を見て、その心のときめきを押し花にして残そうとする小学三年生のきみ子ちゃんの心意気に、愛しさあふれてたまらないです。
100013 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月28日(木)雲晴」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 畑の上の電線につばめが三羽いるのを見上げているきみ子ちゃん。畑の土には備中ぐわが刺さっており、作業の途中だと言うことがわかります。
 今日のきみ子ちゃんは午後の昼休みの後、おかあさんと一緒に畑の畝づくりをしたようです。頭の上でつばめが鳴いていたので立ってみていると、電線でつばめたちが飛び上がったりして楽しく遊んでいたのだそうです。
 青い空をバックに木の電柱、そして電線に遊ぶつばめたち。そしてそれを見上げるきみ子ちゃんと備中ぐわ。開放感があって明るい絵なのだけれども、つばめたちの賑やかな鳴き声も聞こえてくるのだけれども、なぜかほんの少しばかりの寂寥感も感じさせるような・・・。とても魅力的な構図ですね。
 
今日はここまでで。
昭和26年6月29日から7月1日までの日記は次回にご紹介します。

 

2024年12月11日 (水)

昭和26年のきみ子ちゃんの絵日記を読む2

こんにちは。
 今日も、前回からの続きで小学三年生のきみ子ちゃんの日記から昭和26年6月20~24日のものをご紹介します。
 お父さんとお母さん、そしてお兄さんと弟との5人家族に育ったきみ子ちゃんは、何かしらの家の手伝いを毎日しているしっかりものの女の子です。この絵日記は昭和26年(1951)6月16日から7月1日まで毎日欠かさず書かれたもので、紐で一冊に綴じられていました。6月後半の2週間は麦刈りや田植えの行われる時期ですからちょうど農繁期休みの期間であったと考えられ、ほぼ毎日、家の仕事に勤しんでいる姿が事細かに絵に表現され、その下段に文章がしたためられています。
 また、この絵日記には、昭和26年の櫛形地区の中野の風景や人々の暮らしを物語る細かいデティールなどが、きみ子ちゃんという、絵の上手な女の子によって素晴らしく表現されています。この資料によって、私たちは、小学3年生の彼女の目や心のフィルターを通して、昭和26年の南アルプス市域におけるネカタ(根方)の生活というものを知り、その時代の子供の気持ちを追体験することができるような気がするのです。
10005 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月20日(水)曇晴」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 この絵は、きみ子ちゃんがお風呂を沸かしている様子です。
 夕方に弟が頼まれた風呂焚きの途中で眠ってしまったので、きみ子ちゃんが代わりに湯を沸かすことになったようです。文の最後に「松葉だから、けむ(煙)がたくさん出た」と書いてあります。
 絵をよく見ると、水を入れた木樽の五右衛門風呂に薪ボイラーが取り付けてあり、奥納戸の前できみ子ちゃんが木っ端にちょこんと腰かけて、燃料の枝を差し入れている場面ですね。ボイラーの煙突からはもうもうと煙があがっており、このすごい煙の原因は松葉を燃したからだったのですね。煙突から出た灰が湯船に落ちないように、五右衛門風呂には大きな木の蓋もかぶせてあります。湯温を調整するためなのか、水を入れた桶も横に置いてありますよ。きみ子ちゃんの絵のおかげで昔のお風呂の支度の様子がよくわかります。きっと松葉の煙が目に沁みてチクチク痛かっただろうなぁとか、〇博調査員だったら涙がポロポロ出ちゃったに違いない、なんて思いました。いまはお風呂を沸かすのに、スイッチ一つでよいことに心より感謝申しまする。
10006 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月21日(木)晴」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 この日のきみ子ちゃんは、水路で何やら洗い物でしょうか? 文によると、お母さんに頼まれてジャガイモを畑でとって庭の水路で洗っている場面のようです。ところが、洗っている最中にジャガイモを一つ流してしまったので拾いに行ったところ、滑ってしまい、履いていたゴム草履ごと川に入ってしまったそうですが、柿の木のところまで流れて行ってしまったジャガイモは無事に拾えたようですね。ちなみに、濡れたゴム草履は石の上に干しておいたとのこと。
 もう一度このきみ子ちゃんの記述を踏まえて絵をみると、水路の中を大きなでこぼこのジャガイモが一個流れていくのがわかりますし、ジャガイモを拾うことができた場所にある柿の木も描かれています。
 また、文中にはありませんでしたが、右奥にある大きな建物が水を引き揚げるポンプ小屋であることを、成長したきみ子ちゃん(雨宮キミコさん)からの証言で確認しています。
Dsc_1008←「キミコさんからの聴き取り調査の様子(2024年11月7日撮影)」

10007 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月22日(金)晴雨」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
やかんと風呂敷包を持って田舎道を歩くきみ子ちゃん。現在も櫛形地区中野にはこの絵のような棚田風景が遺されており、この絵の中からも観る人に心地よい風が運ばれてくるようです。
 きみ子ちゃんは「おちゃごし」と呼ばれる野良で働く人たちの休憩のために、お茶と食べ物を田んぼに持って行く役をお母さんに頼まれたようですね。その帰り道にある杉の木にいたカニを3つ獲って、家のヒヨコに与えました。そうすると、ヒヨコたちは「とりっこ」して喜んで食べたみたいです。子供の日常の空気感が伝わる生き生きとした絵と内容にワクワクさせてもらいました。
10008 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月23日(土)晴」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 次の日の日記も棚田の中を歩いているきみ子ちゃんの絵です。でも、手にはやかんと風呂敷ではなくて、あぜ道を稲苗の束を両手に持って運んでいます。文によると、この日のきみ子ちゃんは、朝は植木に水をやってから、田植えのために苗代にあった苗を田んぼまで運ぶ仕事をしたようです。文中に、小学生らしく「ねえ」=苗、「持ちに行った」=取りに行った等、甲州の方言の音そのままに書かれているのが微笑ましいです。
10009 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月24日(日)」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 この絵は、ほおずきの実を描いたもののようですよ。
 今日のきみ子ちゃんは、田に水をかけに行くお手伝いの途中で、ほおずきの青い実がたくさんなっているのを見て、その2つをもいで帰ってきたのだそうです。家に帰ってから「ほおずきをこしらえて鳴らしてみた」とあります。これはどういうことかと調べてみると、ほおずきの実を覆っているガクを剥いて外して、ミニトマトみたいな実を取り出した後さらにその中の果肉を取り除いてミニトマトの皮だけの風船みたいになったものを口の中に入れて鳴らすと、ギュッギュッとカエルの鳴き声のような音が鳴るのだそうです。きみ子ちゃんは「ならしてみたら、口の中が苦かった」そうです。絵にあるほおずきはまだ青いので熟していなくて果肉も苦かったのでしょうか?昔の子供の遊びの一つを教えてもらえて、うれしくなった〇博調査員です。
 
今日はここまでで。
昭和26年6月25日からの日記は次回にご紹介します。

 

2024年12月10日 (火)

昭和26年のきみ子ちゃんの絵日記を読む1

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←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・表紙」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 こんにちは。
 今日は、収蔵資料から、昭和26年に野之瀬小学校三年生だった当時9歳のきみ子ちゃんが書いた絵日記をご紹介します。野之瀬小学校は現在の櫛形西小学校です。
 お父さんとお母さん、そしてお兄さんと弟との5人家族に育ったきみ子ちゃんは、何かしらの家の手伝いを毎日しているしっかりものの女の子です。この絵日記は昭和26年(1951)6月16日から7月1日まで毎日欠かさず書かれたもので、紐で一冊に綴じられていました。6月後半の2週間は麦刈りや田植えの行われる時期ですからちょうど農繁期休みの期間であったと考えられ、ほぼ毎日、家の仕事に勤しんでいる姿が事細かに絵に表現され、その下段に文章がしたためられています。
 この絵日記には、昭和26年の櫛形地区の中野の風景や人々の暮らしを物語る細かいデティールなどが、きみ子ちゃんという絵の上手な女の子によって素晴らしく表現されています。この資料によって、私たちは、小学3年生の彼女の目や心のフィルターを通して、昭和26年の南アルプス市域におけるネカタ(根方)の生活というものを知り、その時代の子供の気持ちを追体験することができるような気がするのです。
 
 では、昭和26年6月16日から順にきみ子ちゃんの絵日記を見せてもらいましょう。
10001 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月16日(土)雨」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 雨の中、長靴をはいて和傘を持ってお出かけする様子か描かれています。文章によると、「絵日記をかく図画紙を買いに行き、帰ってきてから帳面に作りました」とあります。洋傘にはない、和傘に特徴のカッパと呼ばれる頭紙が頂部のろくろに縛り付けられている様をきみ子ちゃんは忠実に絵で描きあらわしていますね!

10002 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月17日(日)晴」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
Dsc_1190_20241210095201  ←「回転蔟」
 これは養蚕のお手伝いの絵ですね。回転蔟(かいてんまぶし)とよばれる、蚕に繭を作らせた格子状の道具から、繭を手でもぎ取って収穫する様子を描いています。文にも「お母さんに頼まれて朝から繭もぎ(原文:「めえもぎ」)の手伝いをした。お茶休憩になって飴をもらった」とかいてあります。
 昭和20年代にこの地域で養蚕が行われていたこと、絵にあるような道具を使って蚕に繭を作らせていたこと、6月の半ばに春蚕が収穫できたことなど様々な当時の養蚕に関する情報を伝えてくれています。現在、私たちの身近なところになく想像しがたい養蚕という生業をこのきみ子ちゃんの絵と文で私たちは知ることができます。とても興味深いです。

10003 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月18日(月)晴」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
こちらは女の子3人で立ち話をしている絵ですね。きみ子ちゃんのお家は中野の棚田の最上部に近い所にありますから、バックには青い空にぽかんと浮かぶ白い雲、その下に舌状の市之瀬台地が、さらに下に甲府盆地を見下ろす風景が広がっています。
 そして、3人の女の子たちの話題は、「今夜蛍を採りに行く約束について」だったようです。お友達の名はとみこさんとやすみさんですが、残念なことに、ご飯を食べてやすみさんを迎えに行くと頭が痛いと言って行かないことになってしまっったようです。そこで、結局きみ子さんのお兄さんも誘ってとみこさんと3人で蛍採りにでかけました。昭和26年当時の中野の棚田には夜になると蛍がいっぱい飛んでいて、お星さまのようにきれいだったことでしょうね!

10004 ←「昭和26年公子ちゃんの絵日記・6月19日(火)晴」(中野上田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 この絵は昭和26年当時に売られていた「ききょう」と「光り」という銘柄の煙草の箱の絵です。おかあさんとおばさんとで小麦を刈って、きみ子ちゃんとお兄さんでその小麦を運ぶお手伝いをしていたようですが、その後、きみ子ちゃんはお父さんに頼まれて、上市之瀬のタバコ屋さんに「ききょう」と「光り」を買いに行きました。彼女らしい繊細な観察眼で煙草のパッケージデザインを模写しています。
Dsc_1189 ←「ききょう」の箱(南アルプス市教育委員会文化財課収蔵資料)

 今日はここまでで。
 つづきの6月29日以降の日記は次回以降で順にご紹介してまいりますよ。

2024年11月19日 (火)

大正9年落合小学校秋季運動会次プログラム

こんにちは。
今回は、大正9年10月24日午前7時から行われた、落合尋常高等小学校の第三十七回秋季大運動会のプログラムをご紹介いたします。

       ※いづれの画像もタップすると少し拡大します

23602 ←大正九年落合尋常高等小学校第三十七回秋季運動会次第(表紙・裏表紙)(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 南アルプス市ふるさと○○博物館資料収集活動において、今まで大正5年の榊小学校、大正15年の西野小学校の運動会プログラムを教育委員会文化財課で収蔵してこちらのブログやMなび、〇博アーカイブなどでご紹介してきました。
 今回は新たに市の南部に属する甲西地区で収集した落合小学校の大正9年のものを見ていただきます。
 裏表紙の記載から、このプログラムの作成・配布については、小笠原にある山扇印刷所の寄付によって行われたようです。しかしながら、現在も市内小笠原で営業している株式会社山扇印刷さんのHPによると、大正14年10月に創業とありますから、その前身の印刷所だったのかどうかについては不明です。

23601 ←大正九年落合尋常高等小学校第三十七回秋季運動会案内状(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
23603 ←大正九年落合尋常高等小学校第三十七回秋季運動会次第(午前之部・午後之部)(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 つづいて、運動会の演目について見ていきますと、午前之部27種目の後、30分という短い午餐休憩をはさんで、午後之部は25種目行うという、かなりタイトなスケジュールとなっています。それに、『爆裂弾』『陣地占領』『砲弾輸送』など、戦闘を想起させるなにやら物騒な演目が所々にありますね。
 中でも、午前之部の最後の演目として全校男子で行う『軍歌行進』と午後之部で高等小学校男子全員で行う『執銃訓練』は、軍隊の基礎を学ぶはじめの一歩としての訓練のようです。

 いままでに収蔵した資料と比較してみると、大正5年の榊小学校の運動会プログラムにはあまり軍事的な演目は見られませんでしたが、大正15年の西野小学校のものには軍歌行進が行われています(当ブログ2020年9月16日「大正5年の榊小学校運動会プログラム」、2021年9月29日「大正5年榊小学校と大正15年西野小学校の運動会プログラム」もご覧ください) 。 校風の違いもあったでしょうが、落合小学校の資料の場合、大正9年頃は第一次世界大戦が終わり、将来起こるであろう次の戦争に向けて、その準備が平時から必要との認識が学校教育にも芽生えてきていた頃なのかもしれません。
M12902 ←木銃(長さ167㎝ 川上滝沢家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵):※この資料が運動会等で使用されたかどうかは不明です

23603_20241119164001←大正九年落合尋常高等小学校第三十七回秋季運動会次第(午前之部・午後之部)(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 一方、女子については、午後之部終盤において「主婦の務(つとめ)」という演目の題名がまず目を引きます。高学年の女子が行ったこの演目の具体的な内容こそわかりませんが、その題名だけで当時の女子教育が目指していたものをダイレクトに示しています。近年、ジェンダフリー社会の実現を目指して小中学校で行われているジェンダー教育とはまさに対極となるものですね。

 また、同じく女子種目の『タンツラインゲン』というドイツ語風の外来種目名に興味をひかれたのでしらべてみると、『タンツ=ライゲン(Tanz reigen)』という言葉がヒットしました。連舞の一種で、数人が一列に並んで曲に合わせて行進しながら、いくつかの振り付けを行うダンスだそうです。戦前の運動会では、「タンツライゲン」という名称で女子の演目として全国的によく披露されたものだということです。

 以上のように、大正時代の運動会プログラムを観察すると、現代の小中学校とは教育目標が異なるので、演目に違和感を覚えるような点もいくつか見られます。時代を表していると一言で言ってしまえばそれまでですが、当時の社会的背景や運動会そのものの教育的意義などを推し量ってみると、いまではありえないような種目が存在していた理由も理解することができて興味深いです。
今後もまた、市内の小中学校の運動会プログラムは継続的に収集していきたいと思っています。

2024年9月25日 (水)

明治7年、西郡に共栄医療組合医院できる

こんにちは。

Jpeg3 ←「共栄利用組合診療券」(上八田小野家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

こちらは、いまから90年以上前に西郡で発行された診療券です。この券で受診できる病院は、「共栄利用組合医院」といって、昭和7年5月に地域の産業組合が共同出資して建設された病院でした。

Jpeg4 ←「共栄利用組合医院規程」昭和7年(1932)5月15日より実施す :『本組合員及その家族の保険に努め疾患の際は之を軽減し以て生存の平安を得しむる為め診察所を付設し左記規程を設置す』」(上八田小野家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)※タップすると拡大します

 この共栄利用組合医院規程を読んでみると、出資している組合員とその家族は、組合の発行した診療券を持っていけば基本的に無料で診察を受けることができました。ただ、処方する薬や手術、注射料、往診料は利用料として別途請求された模様です。

 昭和初期は未だ国民健康保険法はなかったので、もちろん健康保険証など無い時代であり、一般的に体の調子が悪くても医療を受けることは、現代とは比べ物にならないほどハードルの高い行動でした。ちょうどこの頃は世界恐慌の影響による生糸の暴落が養蚕に現金収入を頼っていた農村を疲弊・窮乏させ、乳幼児の死亡率の増加や感染症の罹患率を高めていました。政府も兵力の供給源である農村の医療確保策として後押したこともあり、産業組合が共同して病院を建てるという取り組みがこの時期に全国に広まっていました。まさにこれらの流れの中で、件の共栄利用組合医院は一部組合員家庭のみですが、はじめての地域医療体制を昭和7年に西郡に発足させたわけです。

Jpeg2 ←「共栄利用組合之章」(上八田小野家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 さらに、、組合医院規程を順にみていきましょう。内科や外科などの専門科に分かれての医師の配置はなかった様子ですが、産婆料に係わる項目が第九条から十一条に明記されていることが判ります。助産の歴史の転換期である昭和初期に、欧米スタイルの教育を受けて国家資格を持った産婆たちがどのように活躍したのか?あるいは、都市部で一部行われていたような入院分娩がこの組合医院でもあったのか?など興味がつきないところです。

「白根町誌」昭和44年刊 p977の記述には、『巨摩共立病院:昭和7年(1932)5月12日、飯野・源・在家塚・小笠原・桃園・豊・曲輪田の7産業組合によって櫛形町桃園地内の白根町境に明穂共栄医療組合病院が設立され、峡西病院と称した。昭和18年10月には、山梨県農業会に移管され、第一厚生病院と改称し経営者も変わり、昭和40年1月における病院の患者の収容力は、一般患者25名、結核患者40名であった。昭和40年9月には、山梨県勤労者医療協会に移管され、巨摩共立病院となる。昭和43年の患者収容能力は、一般患者57名、結果右患者44名であった。目下のところ内科、小児科、外科、整形外科、産婦人科の診療にあたっている。』とあります。

いまから92年前に地域の産業組合主導ではじまった西郡の本格医療体制は、その後、山梨県農業会など経営母体を交代させながら、にしごおりの地域医療を担ってきました。 昭和36年(1961)には国民皆保険となって国民すべてが健康保険証を持つことができるようになったため、組合員だけしか受診できない病院というのではなくなりました。昭和40年からは山梨県勤労者医療協会に経営が移管され、現在もその名称で続く巨摩共立病院となっています。

Jpeg_20240925163701 ←巨摩共立病院(「白根町誌」昭和44年刊より)

巨摩共立病院は西郡地域の地域医療に貢献し続けている当該施設は、令和6年現在、公益財団法人山梨勤労者医療協会巨摩共立病院という正式名でそのHPによると、診療科は一般内科、専門内科、小児科、外科、整形外科、眼科、人工透析科、リハビリテーション科という内訳です。

2024年8月20日 (火)

明治大正期の商店の引札

こんにちは。
今回は、最近、櫛形地区上今井にお住いの方よりご寄贈いただき、収蔵した明治大正期の引札(ひきふだ)をご紹介したいと思います。 
 引札は明治大正期の商店の広告チラシのようなものですが、色鮮やかでデザイン性に富み美しいので、お正月の初売りなどにおまけとして客に配られました。
J600dpi22 ←「米穀食塩石油荒物和洋酒罐詰諸帳簿其他雑貨 小笠原金丸商店 引札26×37.2㎝(上今井津久井家資料明治・大正時代)」(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 こちらは、明治大正昭和初期には西郡地区一の繁華街であった小笠原にあった金丸商店の引札です。金のなる木に登って小判をザクザク集めている男女に日の出、鶴亀というような、いかにも縁起と羽振りのよい図柄です。この商店で売っているものは「米穀食塩石油荒物和洋酒罐詰諸帳簿その他雑貨」とかいてあります。屋号は「ヤマに〇」
4_20240820150701 ←南アルプス市役所本庁舎東にある旧金丸商店跡(2020年2月13日撮影)
 小笠原にはもう一店同じ名の金丸商店があり、こちらの引札は当ブログ2020年5月8日記事『小笠原の金丸商店』にてご紹介しておりますのでご覧になってみてください。明治35年頃のもので、名前は同じですが、屋号や販売品も「カネに丸」「呉服太物類幷和洋綿糸染糸類」で異なっています。場所はヤマに〇屋号の金丸商店の北に隣り合って軒を連ねていたようですよ!
2_20240820150701 J600dpi22_20240820150601 ←旧金丸商店跡の瓦に残る屋号は引札と同じ「ヤマに〇」(2020年2月13日撮影)
 今回ご紹介している引札の「ヤマに〇」の屋号を持つ金丸商店は、現在は閉店されているようですが、平成15年頃の住宅地図を見てみると、『金丸砂糖店』という表記になっていますので、明治時代末から平成時代まで営業されていたのです。

 次は甲西地区にあった商店の引札をご覧ください。
J600dpi32   ←「諸国銘茶並質屋業 五明村功刀琴四郎 引札」26×37.7㎝(上今井津久井家資料・明治・大正時代)(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
全体的に黒を基調とした落ち着いた色合いで、これもまた素敵ですね。
引札に記された文字情報によると、功刀琴四郎商店はお茶屋さんの看板を上げながら質屋も営んでいた模様です。引札の左端には明治34年7月10日印刷と記されています。五明村は現在の甲西地区になりますので、当時の櫛形地区上今井に住む人の買物圏を知る手掛かりになります。

J600dpi32_20240820150901 明治大正期に数多く出回った引札は、図柄にこそ地域性はあまりないのですが、そこに記された商店の文字情報によって当時の商店の所在や販売品、それらを利用した人々の動きや生活が復元できる文化財的価値の高いものです。 市民の皆さまが処分を予定している明治大正昭和初期の紙資料の中にも、この引札が紛れ込んでいる可能性があります。何か気になることがありましたら、是非〇博調査員にご一報いただきたいと思います。

2024年8月16日 (金)

月賦商店の通帳

こんにちは。
こちらの資料は、櫛形地区上今井の功刀松太郎商店が大正時代に顧客向けに発行した帳簿です。「通帳(かよいちょう)」といって、江戸時代から昭和40年代初期くらいまで、日常の買い物の際によく使っていた帳簿です。近所にある馴染みの店で日用品や食料を買う時は、その店が発行したこの通帳を持って行けば、キャッシュレスで品物を購入することができました。買ったものの日付や商品名、値段を記入してもらい、その代金は、月末や盆暮れ、コメや繭の収穫時などのまとまったお金が入る時期に支払います。
Dsc_0845_20240816163501 Dsc_0846_20240816163501←「功刀松太郎商店通帳(大正)表・裏」(上今井津久井家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
112_20240816163601←櫛形地区上今井にある功刀松太郎商店(2020年6月16日撮影)
 それでは、通帳の頁をめくっていきましょう。
Dsc_0852_20240816163601 Dsc_0851_20240816163601←「功刀松太郎商店 通帳(大正7年~8年)」(上今井津久井家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 購入品目として米や酢・煮干し・鱒(マス)等食料品のほかに、下駄やチリ紙・付け木などの雑貨消耗品が列記されています。値段も書かれているので、大正時代の物価を知ることができます。また、季節ごとに異なる購入品目の違いから、日常の様子や様々な年中行事等に伴う生活の実態もうかがい知ることができます。
 また、現金で支払いをした日付には店の印が押されています。掠れていて見難いですが、この印からは、大正時代当時の功刀松太郎商店の情報を得られそうです。この通帳のところどころに押された印を見比べて、文字を読み取って行こうと思います。
Dsc_0849 Dsc_0848_20240816163701 Dsc_0847←「功刀松太郎商店 通帳印 『呉服太物本□瓦月賦商 証貸 中巨摩郡豊村上今井(大正7・8・9年)」(上今井津久井家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

通帳内に押されたいくつもの印影を並べてみると、掠れて読めずにいた箇所がある程度判りました。まずは外枠にある文字を右から左に読んでいくと、『呉服太物本□瓦月賦商 中巨摩郡豊村上今井』とあります。□の一文字はどうしても読めないのですが、『証』という字かもしれません。真ん中には、屋号の下に『功刀商店 証貸』とあります。
 ここで、『月賦商』『証貸』という聞き慣れない言葉を調べてみたいと思います。
 月賦商(げっぷしょう)とは、代金を一度に払わずに、分割して月ごとに支払うことを条件にした販売方法をとる店のことをいいます。先に代金を支払う前払い式と後から代金を支払う方式があり、明治時代以降に普及したようです。
また、証貸とは、証書貸付の意味で、店が借用証書をとってお金を貸すこと(融資すること)です。
 このように印影の文字情報からは、この功刀松太郎商店が食品も扱うよろず屋さん的な商売以外に、銀行のような貸付業務も行っていたことがわかりました。
 この通帳を使っていた津久井家の場合は、店印の押された箇所に、『〇〇円御預り申事』と記されており、買った商品の代金とは関係なく、お金が入った時にまとまった額を預けておいて、その預金から購入商品の代金を引き落としてもらっていたようです。いまの私たちが電子マネーで買い物をするのと同じですね。
 さらに功刀松太郎商店は、証貸業務もしているということですから、預け入れてある金額を超過するような買物をしたい時や融資を頼みたい時は今の銀行のように対応してもらえたということですね。
 今回は、この通帳をじっくり観察したことで、上今井にあった功刀松太郎商店が銀行業務も併せて行っていたことが判りました。
Dsc_0847-2 ←「功刀松太郎商店 通帳(大正7年)」(上今井津久井家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 豊村は明治38年にそれまでの主産業であった煙草産業から蚕糸業へと転換を図り、大正時代には、一般家庭でも新規にはじめる養蚕の設備や器具等への投資で幾らかの資金が必要になる状況があったと考えられます。そのような情勢の中で、起業家や投資家などが使用する大手銀行とは別に、近所の雑貨店が比較的些少な金額を融資する証貸業務も行っているのは、とても便利なことだったと思います。

 

2024年8月 9日 (金)

曽我物語の引札

 こんにちは。

 先日、櫛形地区上今井にお住まいの方より、蔵に保管されていた文書類とともに明治大正期の引札(ひきふだ)のご寄贈がありました。 

 引札は明治大正期の商店の広告チラシのようなものですが、色鮮やかでデザイン性に富み美しいので、お正月の初売りなどにおまけとして客に配られました。

文化財としても、明治大正期に存在した地域商店の名前や販売品、所在地などを知る手掛かりとなり、当時の人々の生活を復元する上で価値の高いものです。今日はその中から曽我物語をデザインした一点をご覧いただきたいと思います。

1-jpeg ←「雑貨商上今井大和屋商店引札38×52㎝(明治・大正時代)」(上今井津久井家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 こちらの引札は曽我兄弟の物語を題材としたデザインとなっており、右上部分には『最新流行浪花節』として、なんと!物語のあらすじが文章で添付されている比較的珍しいタイプです。浪花節とも呼ばれる浪曲(ろうきょく)は明治時代にはじまった話芸で、三味線を伴奏に独特の節回しで義理人情などを語るもので、明治大正時代には人気の娯楽でした。

600dpi103 ←曽我物語のあらすじ『最新流行浪花節』の部分

 曽我物語は鎌倉時代初期に起きた「曽我兄弟の仇討ち」を題材としたお話です。「曽我物(そがもの)」と一括りで呼ばれるほど、この題材は能や歌舞伎、読み物や話芸、浮世絵や人形など多くの演目や媒体に広がりが見られます。そのため、引札が配られた明治大正期、昭和初期までは誰もがよく知るドラマティックストーリーでした。

 600dpi105 ←富士の巻狩場の曽我兄弟:「群千鳥」の着物で右に立つ兄の曽我十郎祐成(そがじゅうろうすけなり)と蝶の模様の入った着物の弟の曽我五郎時宗(そがごろうときむね)が討ち入ろうとする場面

600dpi104 ←虎御前:兄の祐成の愛妾の遊女。南アルプス市芦安地区の伝承では、虎御前は「芦安安通の生まれで伊豆大磯の富豪の養女となった」とある。また、安通の伊豆神社跡近くには虎御前が鏡を立てて化粧をしたという「虎御前の鏡立石」がある。さらに、恋人同士であった曽我十郎と虎御前の木像が伊豆神社から移されて大曽利の諏訪神社に保管されており、市の文化財に指定されている。

  また、静岡県や神奈川県などに多い曽我物語にゆかりの史跡ですが、ここ南アルプス市芦安地区と八田地区野牛島にもいくつか点在しており、西郡の先人たちには特になじみ深いお話だったと思います。ですから、当時流行りだった浪曲風に語ることのできる曽我物語が印刷されている引札となれば、充分な宣伝効果が得られたのではないかと思います。

600dpi106 ←「山にト」の屋号の豊村上今井大和屋商店

961-5 961 ←上今井大和屋商店(2020年7月2日撮影):屋号が「山に平」であり、引札にある屋号と異なっている。これは、現在の店主家が昭和初期に隣家にあった引札の屋号の店から営業権を購入してはじめたためだとのことである。(津久井家聴き取りによる2022年7月)

2023年12月28日 (木)

南プスの岩船地蔵さんめぐり

こんにちは。

237-16 237-8  ←1芦安地区芦倉237「お船地蔵さん」(令和5年12月14日撮影)

先日、芦安地区で大切に祀られている「お船地蔵さん」をお訪ねしました。立派な木堂の中で他の石造物とともに赤い頭巾と前掛けをつけておられます。その中でも船乗り地蔵さんは、一番右端にいらっしゃいます。お堂前の急な階段を上って、前掛けの布の下をよく見ると、一躰だけ御舟の上に蓮座があり、そこに立っておられるので、すぐにわかりますよ。「お船地蔵さん」の脇には丸石も置かれていて、この地蔵堂は甲州伝統の丸石信仰も見ることができます。

 このような御舟に乗ったお地蔵様は、「岩船地蔵」と呼ばれることも多く、享保四年(1719)造立のものが大多数なのだそうです。岩船地蔵の造立は、江戸時代の享保四年に関東地方西部から中部地方東部にかけて流行した岩船地蔵信仰に由来するからです。

 岩船地蔵信仰とは、現在の栃木県栃木市岩舟町にある岩船山高勝寺から、その周辺の岩を材料に造られた岩船地蔵が送り出され、村から村へ巡っていくうちに信仰を伝えていくもので、『岩船地蔵が送られてきた村では、それを迎えて華やかな服装をし、にぎやかに囃し立て、念仏をし、近隣の村々まで巡った(県文化財ガイドHP「上積翠寺の岩船地蔵」より)』とあります。そして、『岩船地蔵が巡ってきた村々では、その記念として石造の岩船地蔵を造り、路傍の仏として祀った。』のだそうです。山梨県内では65躰の舟に乗ったお地蔵さまがあるそう(上記県文化財ガイドHPより)で、当地での流行の勢いが凄まじいものであったことが判っています。南アルプス市内では9躰を確認しています。

1146-4   ←2白根地区在家塚 薬王寺内 (令和5年12月14日撮影)

208-4_20231228152001      ←3白根地区在家塚 紺屋村舟乗地蔵(令和2年10月5日撮影)

208-3_20231228152101 ←4・5櫛形地区小笠原 源然寺の2躰(令和2年10月29日撮影)

1140-6 1140-5 ←6櫛形地区上宮地 長昌院内 (令和5年12月14日撮影)

Sk0120231221_16284572→『中巨摩の石造文化財』平成7年 中巨摩郡文化協会連合会郷土研究部 には、まだ破損していない状態の長昌院内船乗り地蔵さんの画像がある

594-7 ←7・8甲西地区秋山 光昌寺前の2躰(令和3年12月20日撮影 左奥のお地蔵さまは舟から落ちた状態)

23-6_20231228153001 ←9甲西地区湯沢 「船乗り地蔵さん」(令和3年12月3日撮影)

 岩船地蔵(船乗り地蔵)さんは、造られた年が享保四年とそれに続く数年と限られていることから、その形を見ただけで、およそ300年前のものとすぐわかる興味深い石造物です。

 文献(1999岡野「山梨県の岩船地蔵」)によると、甲府盆地内に存在する岩船地蔵に刻まれた銘文の年記を分析した結果、甲斐国への主要な伝来ルートとして、享保4年3月下旬に信州から北巨摩地域に流入し、甲府周辺には享保4年7月に届き、順次甲府周辺の各村に広まったことがわかるそうです。

南アルプス市の9躰の場合、年記が判明しているのは小笠原源然寺の享保4年6月24日と上宮地長昌院の享保4年10月●日の2地点です。6月と10月ですから、享保4年3月以降に信州からの流入で岩船信仰が広まったという説に矛盾はありません。

 

 また、南アルプス市域は水害の多かった地域ですので、御舟にのったお地蔵さんは水難除けとしての願望も受け、岩船信仰の流行が終わった後も当地の民に長く親しまれてきました。さらに、湯沢の船乗り地蔵さんのように、病気平癒や旅の安全を願う対象としても大切にされてきた経緯があります。

 南アルプス市ふるさと○○博物館では、市内に岩船地蔵さんが何躰あるのか?どこにいらっしゃるのか? 過去の調査資料とフィールドワークで集成をしました。

Sk0120231220_16231221 ←「南アルプス市の岩船地蔵(舟乗り地蔵)一覧表」南アルプス市文化財課 〇博調査員作成

どうぞ、デジタル地球儀を使って地図上で場所も確認できる「南アルプス市ふるさと○○博物館『〇博アーカイブ』をご利用いただき、その所在分布なども愉しんでいただけると幸いです。

参考文献:

『中巨摩の石造文化財』平成7年 中巨摩郡文化協会連合会郷土研究部

『山梨県の岩船地蔵』1999 岡野秀典 山梨考古学論集Ⅳ

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