櫛形地区

2020年10月13日 (火)

「斉藤テレビさんのアルバムより、メグロジュニア・ダットサントラック・トヨタスタウト・三菱360

こんにちは。
 〇博では、市民の方々から、保管されているアルバム写真をお借りし、文化財課でその画像をデジタルデータ化して、データのみをご提供いただき、資料化しております。
 その際、どのお宅のアルバムに貼られた写真もだいたいそうなのですが、必ずしも年代順に貼られているわけではありませんので、資料化するにあたっては、〇博調査員が画像の中のヒントを頼りに、前後関係を考えて並べなおしていきます。
54-30 同一人物を特定してその時系列を考えることも大きなヒントになりますが、その時代を象徴するモノや商品が写り込んでいないかを観察すると、年代をある程度絞り込むことができます。
 富士川街道に面する斉藤テレビさんからご提供いただいたアルバムデータの場合は、いろいろなバイクや車が店前に写り込んでいて、大変参考になりました。

 今日は、年代を知る大きなヒントを〇博調査員に与えてくれた昭和20年代から30年代に活躍した車やバイクを斉藤テレビさんのアルバムからご紹介します。(※当ブログ過去記事「沢登の斉藤ラジオ店」2020年9月25日記でもご紹介しています)


ダットサントラック6147型 昭和26年(1951)~発売 


 現在も櫛形地区沢登で営業中の斉藤テレビさんは、昭和22年9月1日にラジオ店をこちらの斉藤忠男氏が開いたのがはじまりだそうです。もともと、同じ場所で忠男氏の父の武さんが雑貨商を営んでおり、その半分を間借りして始めたのだそうです。

30_20201013114201ダットサントラック6147型 忠男氏は昭和27年に結婚し、ボンネットに座る女の子は昭和29年の生まれであるとのことです。


9833 31 12_20201013114201メグロジュニア 昭和25年から31年位に販売されたもののようです。女の子が2歳位なので一致します。このかっこいいバイクを販売した目黒製作所は、後に川崎重工業に吸収されたようですね。
1201955ダットサントラック120型 1955年昭和30年から発売されたもよう。ボンネットに座っているのは、忠男さんの長男で、現在の斉藤テレビ店主である、昭和31年生まれの忠彦さん。塗装されたマツダという文字に迷わされますが、ダットサンでした。
1038-2 ←こちらの画像には昭和38年夏の裏書きがありましたが、よく見ると、3台のスクーターや車が写っています。
順に見ていくと
36036三菱360は、昭和36年に発売開始。昭和38年夏、富士川街道にはこんな車が走っていたんですね。いったいどんなカラーだったのでしょうかね?
3438_20201013114301トヨタスタウト 昭和38年夏に撮影。
103834ホンダドリームベンリィ 昭和34年から販売。便利なベンリィ!
 以上、いろいろなメーカーの車種が写り込んでいたのを調べてみました。
360rk10038 昭和26年から発売された「ダットサントラック6147型」からはじまって、「メグロジュニア」、「ダットサントラック120型」、「三菱360」、「トヨタスタウト」、「ホンダドリームベンリィ」と、現在もポピュラーなメーカーであっても、〇博調査員の聞き慣れない名前の車ばかりで、車好きバイク好きの方々の協力を得ても、探し当てるのは、けっこう難しかったです。


今後も、まだ街道を走る車の交通量が少なかった時代の生活や、お店ではどんな商品を多く運んだかなど、いろいろと斉藤テレビさんに質問してみたいと思ってます。現在使用されている商用車も見せていただけたら嬉しいな♪

2020年10月 9日 (金)

巨摩高校前駅・倉庫町駅・甲斐飯野駅

こんにちは。
2_20201009161301  今月に入ってから、コミュニティバスを利用して、在家塚から小笠原までの富士川街道沿い周辺を踏査しています。
 その途中で、ボロ電の駅跡の場所をいくつか撮影していたので、古い写真と比較しながらご覧いただきたいと思います。
 ボロ電に関する古写真については、撮影者の岡部禹雄氏の御子孫より、17点の現画像・3点の画像データを昨年度に南アルプス市文化財課にご寄贈くださいましたので、今回、活用させていただきます。

 通称「ボロ電」は、昭和5年(1930)~昭和37年(1962)までの32年間、甲府から南アルプス市域を経由して現在の富士川町にあった甲斐青柳駅まで、およそ20キロメートルを結んだ路面電車のことです。32年間のうちにこの鉄道の名称は、運営会社の買収や改名などにより、甲府電気鉄道→山梨電気鉄道→峡西電気鉄道→山梨交通と移行しています。
戦後になると、車社会の進展により利用者が減り、質素な小屋のような駅舎やところどころに草の生えた線路の状況に、いつしか「ボロ電」の愛称でよばれるようになりました。
 
 2_20201009161101  では、まず、「巨摩高校前駅」のあった場所からご紹介しましょう(令和2年10月2日撮影)。

←巨摩高校前駅跡を北から南方面に撮影(令和2年10月2日撮影)


 巨摩高校前駅跡に行くには、南アルプス市のコミュニティバス発着の起点となっている市立美術館バス停から、ボロ電廃軌道を南に歩いていきます。さらに、春仙美術館南交差点をさらに少し南に歩くと、左手に巨大なジャングルジムみたいな東京電力明穂変電所の構造物が見えてきます。そのあたりが巨摩高校前駅のあった場所です。ちょうどコミュニティバスの富士見町バス停のある場所ですよ。 

4_20201009161101 ←巨摩高校前駅跡を南から北方面に撮影(令和2年10月2日撮影)


002img20190909_16282430 ←岡部禹雄氏撮影の昭和30年代撮影の巨摩高校前駅(南アルプス市教育委員会文化財課所蔵)


8 現在の写真と見比べてみてください。 

←旧巨摩高校前駅(令和2年10月2日撮影


002img20190909_13150474 ←岡部禹雄氏撮影の昭和37年頃撮影の巨摩高校前駅(岡部家所蔵)

6_20201009161201 ←この場所では、ホームの痕跡も見つけることができるのですよ!ホーム部分と思われる場所の東側にまわってみると、下部に石積みのようなものが見えます。


10 ←ここはかつてホームを降りる階段があった場所だと思われます。


 3686  こちらは、倉庫町駅跡周辺です。シラネパックさんの敷地あたりが駅だったといわれています。ちょうど現在の桃園交差点の北西部分にあたります。この倉庫町駅周辺には、泰平館・石原・甲西社・天行館・グンゼ飯野工場・斉藤・巨摩社などの大製糸場がボロ電操業期間に存在したので、そこに働いた多くの工女さんたちもこの倉庫町駅を利用したのではないでしょうか。

 ちなみに、巨摩高校前駅と倉庫町駅の間にあった桃園駅は、現在の桃園神社敷地南東交差点脇にあり、駐車場にかわっています。この場所については、桃園地区踏査の際にしっかり撮影したいと思います。

34375-2  ←こちらはかつて甲斐飯野駅があったあたりです。赤で記したところにホームがあったのだと思います。


002img20190909_15135817 ←岡部禹雄氏撮影の昭和30年代撮影の甲斐飯野駅(南アルプス市教育委員会文化財課所蔵)


開業からずっと飯野驛とよばれた駅は、昭和25年9月から、国鉄との連帯運輸開始に伴い、駅名が「甲斐飯野駅」に改名されました。


甲斐飯野駅から甲府へ向かう次の駅は在家塚駅ですが、現在は、道の駅しらねの場所になり、そこは、コミュニティバスのバス停「JA在家塚支所」でもあります。


 Photo_20201009161301 実は、昭和23年に製造されたボロ電の車両が、現在走っているコミュニティバスの塗装でよみがえっています。

ですから、コミュニティバスに乗って市内を走ると、50年以上前に走っていたボロ電にホントに乗ってる気分になって、効率よく懐かしのボロ電駅ツアーができてしまうという素晴らしさ!を実感した〇博調査員です。

今後の小笠原や曲輪田方面への調査でも、コミュニティバスが大活躍しそうです。

ボロ電塗装車は他に青色バージョンもあるので、今度乗車する日が楽しみです。

2020年9月30日 (水)

櫛形地区東吉田の稲荷社周辺で

296  こんにちは。

きょうは、櫛形地区東吉田を踏査した時に訪れた、刈穂稲荷神社周辺をご紹介します。

 

 

 

 


282 Photo_20200930163103 ←刈穂稲荷神社 (左:2020年9月1日撮影 右:昭和41年刊櫛形町誌画像)
玉垣の内に銅葺屋根の神殿をもつ刈穂稲荷神社には、かつて大正時代に女性の行者が居て奉仕していたそうです。

282-3 Photo_20200930163601 282-4 282-15    その東側には、隣接してさらに別の稲荷神社があり、その他、三峯神社の形跡など、いろいろな神を祀った石造物が多数存在している場所となっています。


←稲荷神社と狐(モノクロ画像は櫛形町誌画像):櫛形町誌には写っていない、足などが修復された狐が左右に置かれています。よく見ると愛らしいお狐ですよ。


282-5 Photo_20200930163801 ←三峯神社の水鉢(モノクロが画像は櫛形町誌):東吉田稲荷神社一帯の東入り口に置かれている。
 石造物や祈りの対象であった自然石については、豊村誌(昭和35年刊)と 櫛形町誌(昭和41年刊)に載る画像と現在の様子を照らし合わせてみてみましたが、それらを同定するのはとても難しいことに思えました。
Photo_20200930164501 ←シャクシバンバ(昭和35年刊豊村誌)
282-8_20201001101501  今後も聞き取り調査等を重ね、シャクシバンバと山之神の石造物だけでも、特定したいと考えています。シャクシバンバは、願掛けすると、咳や喉の病気によく効くと伝えられるしゃぶきばばあや姥神とおなじような民間信仰の対象となる石だったと思われます。
Photo_20200930164502 ←東吉田の山之神(昭和35年刊豊村誌)

282_20200930163101  282-9_20201001101501 282-6_20201001101401 東吉田に限らずどの地域でも、道路の拡幅や土地利用の変化などにより、願掛けや信仰の対象となっていた石造物や自然石も場所を移動したり、集められることがよくあります。


1229 それらの行方を探して歩くうちに、新興住宅地の一画にポツンと残るこんなものが目に入りました。果樹を潤す役目を終えたスプリンクラーのヘッドです。


350年前から、月夜でも焼けるこの土地を何とかしようと、先人たちが、はるばる韮崎市円野町より釜無川から取って、通してくれた水がここまで来ている。

こちらも先人たちが未来の私たちに残してくれた遺産の一つです。邪魔モノのようになってしまったヘッドをひっかけないように、横に置かれている切株がなんだか少し痛々しいですが、原七郷の土地利用の変化を今後もずっと記録していくのは、文化財課の仕事の一つです。

2020年9月25日 (金)

沢登の斉藤ラジオ店

こんにちは。
先月末に、櫛形地区沢登区を踏査しました。その際、富士川街道沿いの街並みを撮影しようと、「(株)斉藤テレビ」さんのお店前の様子も撮りました。
9292020827 ←沢登にある(株)斉藤テレビさん。(2020年8月27日撮影)


 この斉藤テレビさんのお宅からは、以前に昭和20年代末から40年代までのアルバム写真の画像データを文化財課にご提供いただいています。


 今日は、現在も多くの人や車が往来する富士川街道沿いで、地域の誰もが見知る街の電気屋さんの、昭和20年代末から30年代末までの変遷をアルバム写真データを、〇博調査員がおおまかな年順に整理して、ご紹介したいと思います。


1 ←昭和20年代末の「斉藤ラジオ店」(沢登斉藤家所蔵)


 斉藤家のアルバム中で、もっとも古いと考えられる店舗画像をよく見ると、看板にはテレビの文字はなく、「斉藤ラジオ店」とあります。

国産第一号のテレビは昭和28年の発売で、たいへん高価だったので一般家庭に普及せず、昭和34頃までは、街頭に設置されたテレビを見る時代でした。ですから、斉藤家でも、ラジオが看板商品だったようですね。

 さらによく見ると、右奥には斉藤商店が併設しており、たばこも販売していたようです。

その他、この写真に見えるいくつかの小看板から読み取ることのできた商品名を羅列すると、「日立真空管・ヒタチランプ・ラジオTEN真空管・岡田乾電池・ナショナルアイロン・NEC真空管」などで、当時の電気屋さんの売れ筋商品がわかります。


30_20200925091101 ←昭和30年頃撮影の斉藤テレビ店の商用車:ボンネットに乗っている赤ちゃんは昭和29年生まれの加恵子ちゃん。(沢登斉藤家所蔵)
 昭和30年代に入ると、一般家庭向けのテレビや冷蔵庫、洗濯機などが次々と発売されはじめるので、それらを配達するための大型の商用車が必要となったのでしょうね。幌をかぶせた荷台の側面にはラジオではなく「斉藤テレビ」の文字がペイントされています。


12_20200925091101 ←昭和31年か32年の斉藤テレビ商会:中央に立つ加恵子ちゃんの成長が、アルバム中の写真を年代順に並べる指標になります。(沢登斉藤家所蔵)


 この画像では、前輪カバーに斉藤テレビの銘が入った、かっこいい商用バイクにも目を奪われますが、 店前のいたるところに掲げられたちいさなホーロー看板の文字も、よく見ると情報がいろいろともらえます。

特に、吊り下げられた正方形のたばこ看板の下あたりに見える、「郡是製糸飯野工場指定店」の文字には、近隣の倉庫町で栄えていた蚕糸業の痕跡を見ることができますね。

 


32 ←昭和32年5月頃の斉藤テレビラジオ商会(沢登斉藤家所蔵)


 大きな「ナショナルテレビ」の縦型看板が目立ちます。右奥には、「サンヨーテレビ・ラジオ」の縦看板もありますね。

斉藤家では、ひきつつづきに日用雑貨店も併設していたようで、塩・たばこ・テンヨ武田(醤油)の文字も見えます。


112 ←昭和30年代半ばの斉藤テレビラジオ商会の店先(沢登斉藤家所蔵)

(※すべての画像は、タップすると少し拡大します。)


 こちらの画像では、園児くらいになった加恵子ちゃんの後ろにお店の商品の一部が見えます。

奥には洗濯機などの大物家電が、まだ舗装されていない富士川街道沿いの手前には、電灯の笠のような消耗品が並んでいますね。

そして、目を凝らすと、店内の装飾のれんに東芝の文字が見つけられます。


Photo_20200925091101 ←東芝ストアーとなった昭和30年代半ば1月の斉藤テレビ(沢登斉藤家所蔵)
 昭和30年代半ばに、斉藤家では店舗を改装し、東芝の家庭電気器具を売る特約店になったようですね。この画像では、昭和31年に生まれた忠彦さんがおばあちゃんの前に立っており、その後ろには、正月の初荷が積まれています。この画像では、富士川街道はまだ舗装されていません。
3438 ←昭和38年夏の斉藤テレビ(沢登斉藤家所蔵)


 こちらの画像にはしっかりと年記の裏書きがありました。

そして、店前の道がアスファルト舗装されており、商用車の車種も変わっています。

相変わらずたばこと塩も売っているようですが、店内の左寄り入り口近くには、電気炊飯器や電気ポットのようなものが棚に見え、冷蔵庫、テレビ、洗濯機の三種の神器以外にも、一般家庭に家電の種類がどんどん増えていく時分だったのだと理解できます。


 一般的に昭和30年代は各家庭にマイカーとともに、電化製品がいきわたっていく時代だったといわれています。のちの平成天皇ご成婚時のパレードを見るために、昭和34年には一般家庭のテレビ購入率が一気に上がりました。昭和30年代後半になると、二槽式で脱水槽のある洗濯機が爆発的に売れ、台所の氷冷蔵庫は製氷機付きの電気冷蔵庫に交代していきました。戦後の高度成長とともに急激に変化した社会生活に対応して、昭和の人々は新しい電化製品を家庭に導入し、その家電生活をもっと楽しむために一生懸命働いたのだと思います。

ふるさとの街の電気屋さんの、昭和30年代の店先の変化は、昭和時代の人々の生活の変化を端的に表しているといえます。

斉藤テレビさんからご提供いただいた家族アルバムの画像は、大変に貴重なふるさとの資料として、今後も○○博物館でたびたびに活用させていただく所存です。感謝申し上げます。願わくば、画像に付随した情報のさらなる肉付けを行うために、コロナ禍ですが、いつか訪問させていただくことが叶えばと思っております。

2020年9月16日 (水)

大正5年の榊小学校運動会プログラム

こんにちは。

101 本日は、〇博収蔵資料に中から、櫛形地区宮地にあった榊小学校の大正5年に行われた運動会のプログラムをご紹介したいと思います。

例年ならば、この時期に、地域の人々が集って盛大に開催される運動会ですが、今年は参観者の入場制限や種目数を減らすなどの対応をした上で、市内各小学校では9月末に多く行われるようですね。

大正5年榊尋常小学校運動会プログラム(表)(南アルプス市文化財課所蔵平岡河野家資料より)

日本で小学校の行事として運動会が行われるようになったのは、明治19年以降だといわれています。小学校や中学校では、体操おさらい会のような運動会が、体育教育の発展に有効だと判断した初代文部大臣の文部省令により、明治19年にはじまりました。

しかし、教育制度がはじまったばかりの当時では運動場の整っていない学校がほとんどで、地域の神社ら寺の敷地を借りて開催する場合も多かったようです。そのために、昭和時代までは、学区の人々も協力し、組ごとにお弁当を持ち寄って参観するような地域ぐるみの運動会の伝統が日本各地に残っていましたところが、現在では、都市部の学校など、児童の安全面への配慮から運動会自体を地域住民に公開しない場合も増えてきましたし、山梨県外の学校では、保護者とともにお弁当を食べるという習慣も失われはじめているようです。

特に今年は、南アルプス市市内の学校でもコロナ渦に対応した運動会の開催方法に苦慮ていると思いますが、今後運動会の在り方がどのように変わっていくのか気になりますね。

002img20200914_14373322  さて、本題の、「榊小学校の大正5年に行われた運動会のプログラム」ですが、今年の3月に、櫛形地区平岡の河野家よりご寄贈いただいた資料を、〇博で調査・整理するで発見しました。

「櫛形地区上宮地の八幡神社の下にあった榊小学校」中巨摩郡誌(昭和3年刊)

榊小学校は、現在の南アルプス市櫛形地区上宮地に存在した小学校でした。明治12年に榊村誕生とともに創設され、明治33年には榊尋常高等小学校となりました。場所は、上宮地の八幡神社東側のあたりになりますが、現在、建物等はありません(文化財課職員T氏の情報によると、旧敷地の門跡の石がまだ残っているそうです)。これは、昭和33年に小笠原第二小学校とともに統合されて櫛形北小学校ができ、廃校となったからです。

 

102  プログラムは残念ながら左の三分の一が切断されて無くなっており、午前の部の途中までしかわかりませんが、右から順に行う「演技名称」ごとに、「主目的」「学年」「回数」が列記されています。興味深い演技名などに目が釘付けになった〇博調査員は、このプログラムに載っている、大正時代に榊小学校で実際に行われた運動会を、いま見てきたかのように説明できたら、何てすばらしいだろうと想像してしまいました。

大正5年榊尋常小学校運動会プログラム(裏)(南アルプス市文化財課所蔵平岡河野家資料より)※タップすると画像が拡大します

最初に一年生が全員で行う『達磨落シ』の主目的は『沈着』、次の『旗送り』の目的は『規律、敏捷』。現在行われている小学校の種目や学習のねらいとは、ずいぶん風情が違いますね!

さらにこれこれ、その次の『珍無類』(ナンダソレ?)という演技の目的は『協同忍耐』だそうですよ!

ところで、この聞き慣れない『珍無類(ちんむるい)』という言葉の意味を調べてみると、他の例のないほどおかしくて変わっていること。また、そのさま。』とありました。そして、主目的は「協同で忍耐!」いったいどんな演技なのでしょう? 〇博調査員の頭の中で妄想がすごい勢いでふくらみます。

5_20200916151001 ためしに、〇博調査員の妄想でこの種目の説明を試みると、たとえば・・・、「珍無類という演技種目は、二組に分かれたチーム対抗戦で、一方が素っ頓狂な面白い姿を見せたり、笑わずにはいられないような寸劇を披露したりするのを、もう一方のチームが一生懸命に平静装って協同忍耐で笑うのをこらえる?!という競技。 チームの一人でも笑ったら負け!?」とかいう種目なのでしょうか? チーム皆で、おかしくておかしくてお腹が痛くなるくらいなのをこらえるのって、想像を絶する忍耐が必要ですよね!たぶん。 フィールドの外で見守る観客たちの無防備な笑い声や吹き出しは、この競技の勝負に致命的な邪魔になりますから、会場一体の空気感がもの凄いことになっていたはず。

でも、なんだか年末に大人気の、紅白歌合戦の裏番組に近いシチュエーションを想像してしまうのは、まったく、私の貧困な想像力のせいですね。失礼しました。

↑ 大正5年榊尋常高等小学校卒業生(南アルプス市文化財課所蔵平岡河野家資料より)

 しかしながら、みなさんもこのプログラムをご覧になったなら、大正五年にふるさとの先人たちが実際に行っていた地域の人々の集う盛大な祭りのような運動会の模様をその演技名称から想像して思い浮かべるうちに、実況アナウンサーのように解説してみたくなるに違いない!と思うのは〇博調査員だけでしょうか? このプログラム資料の存在で、大正時代の運動会が、女の子の出場種目が少なく、かけっこは男子のみだったようだ等の情報もくれますし、現在とはちょっと違う昔の運動会に思いはせることができます。プログラムと同じ大正5年の榊小学校のアルバム写真もありますが、全員の子供がまだ洋服を着ておらず着物に袴だったのを見ると、運動会の装いも洋服に靴ではなく、袴に運動足袋のようなものを履いていたことが想像できます。

7  来年開催予定の東京五輪・パラリンピック大会開催までに、〇博調査員は、さらに少しでも南アルプス市域における大正時代の運動会の実態がわかるよう、写真や記憶、文献資料の収集・調査に引き続き努めたいと思います。市民の皆様のご協力をお願いいたします。

大正7年榊尋常高等小学校卒業生(南アルプス市文化財課所蔵平岡河野家資料より)

本日は、〇博調査員の妄想を含んだ、大正時代の運動会地域資料発見のご報告でした。どうかご勘弁のほどを。

2020年9月 8日 (火)

沢登の瀬戸重さんのこと

こんにちは。
 去る、9月6日は、伝説の男「せとじゅうさん」の命日でした。
 櫛形町誌(昭和41年)に、地域で流行ったこんな地口(じぐち:言葉遊びのこと)が載っています。
『瀬戸じゅうやんじゃあねえけんど、ちっと「き」が足りん』
というもので、「き」を「木」と「気」にかけているだそうです。
Photo_20200908143101  そして、その解説に、『大正から昭和にかけて、沢登に瀬戸十さんと言う名物男があった。葬式があると尋ねていっては、各宗に応じたお経を読んで霊を慰めた。好んで子供と遊び、謎をかけて、自分から「瀬戸十やんとかけて、建てかけの普請と解くー心は、ちっときが足らん」と言った。この人は今、沢登の竜沢寺に瀬戸地蔵として祀られている。(櫛形町誌第三章p1722・昭和41年刊)』とあります。
地口は、せとじゅうさんが子供たちに発した謎かけがもとになっていたのですね。また、お地蔵さんにまでなっているなんて、すごい人物ですね。今日は、その名物男のことを探ってみたいと思います。
←櫛形町誌(昭和41年刊)の瀬戸地蔵画像。この地蔵は昭和24年12月6日に建立したという。


203-5先日、櫛形地区沢登区を踏査してきた際に、「せとじゅうさん」を偲んで造られた瀬戸地蔵さんのある龍沢寺の前を通りました。

←沢登の龍澤寺:平成23年造の瀬戸地蔵は門内の東側駐車場に面して鎮座している。2020年8月25日撮影

203-8 ←こちらが山門の脇にある瀬戸地蔵さんです。
台座のプレートには『風呂敷ひとつ 住む場所も名誉財産も求めず飄々と生きた 記憶力は抜群だが計算は出来なかった 知る人は、馬鹿といい 天才といい 無欲の聖人という 確かなのは純粋なひとであったということであろう』と刻まれています。
203-3 203-7  しかし、櫛形町誌に載っていたお地蔵さんの画像とは異なるもので、明らかに新しくピカピカで背景も違いますから、同一のものではないようです。
このお像の後ろに回ってみると、こちらは平成23年に造られたものだと判りました。 これは、「せとじゅうさん」という人が、死後60年以上経てもなお、地域の人々に語り継がれ慕われていた証拠ですから、〇博調査員はどんな人だったのかますます彼のことを知りたくなったわけです。

 

 そして、まずは文献をあたってみると
① 櫛形町誌第三章生活「いろいろな言いごと・地口」の項p1722 1966 昭和41年
② 甲州庶民伝「放浪の奇人 名取瀬戸重」 NHK甲府放送局編 日本放送出版会 1977 
③ えすぷりぬーぼー 創刊三号「瀬戸重」 山梨ふるさと文庫 1986 3月 
④ えすぷりぬーぼー 五号「あなたはせとじゅうを知っていますか」 山梨ふるさと文庫 1986 7月 
⑤ 喜劇 せとじゅうさん物語 石川武敏 山梨ふるさと文庫 1988 10月 
以上の5つがヒットしました。
 一番古い記述は、①櫛形町誌でした。そして、人物像について詳しく記されるようになるのは、②~④の文献ですが、そのすべてを岩崎征吾(正吾)さんという方が関わって執筆・編集されています。⑤は舞台用に脚本化されたせとじゅうの物語でした。

002img20200818_10383734

←④えすぷりぬーぼー五号(1986年7月1日発行)のせとじゅうの特集記事。

では、 岩崎正吾氏の手による文献をもとに、人物像をまとめてみますね。

『沢登のせとじゅうやん』と親しまれ、お地蔵さんにもなったこの伝説の人物は、名取瀬戸重という実在の人で、明治11年に沢登に生まれ、昭和23年に70才で亡くなりました。その人は、葬式があると、どこからともなく弔いに必ず現れ、大きな風呂敷包みから古い袈裟を取り出して着て、どんな宗派でも本物のお坊さんに合わせて朗々とお経をあげました。そして、唱え終わると、同じ風呂敷包みから茶碗と箸、あるいは重箱と風呂敷を取り出して、お葬式のご飯をもらって帰っていったそうです。その地域は、現在の韮崎市、甲府市、甲斐市、昭和町、中央市、市川三郷町、富士川町にまでおよびました。
昔はこういう人のことを「おこんじきぼうず」と呼んだこともあったようですが、せとじゅうさんがとりわけ地域の人に愛されたのには、その風貌と人柄に理由があったようです。
・お地蔵さんみたいなクリクリ坊主に、澄んだ眼が印象的で、親しみやすく、「あはははは」とよく笑う人。
・子供が好きで、蛙の真似をしてゲコゲコ言いながら四つん這いになってぴょんぴょん飛び跳ねてみせて楽しませる。
・礼節はきちんとわきまえていて、ご飯やおにぎりをくれた家には、お礼にと、モシキ(薪)をくくって持ってきたりする。
以上のような愛嬌のある風貌と人柄が記されている一方で、
・六尺(180㎝)近く背が高く、カリスマ性も持ち合わせていた。
・「瀬戸重の暗記力」といわれるほど有名な抜群の記憶力で、お経は宗派を問わず読め、一度聞いた戒名や命日、近所の子供たちの名前もすべて覚えていた。
といいます。
12904  夜はたいていお寺の本堂などで寝泊まりしていましたが、長逗留はせず、一晩だけで別のお寺に行って寝たので、どのお寺でも「せとじゅうさんは悪いことはしない」ということで安心して泊めていたそうです。

←鏡中條の常教寺妙音堂:瀬戸重さんが亡くなる一週間前(昭和23年8月末)に、このお堂で倒れたのだという。(2019年11月5日撮影)

  瀬戸重さんの死後、その生き方が「六波羅蜜を体現した人」とか、中国の伝説上の僧である「寒山拾得そのもの」などと評価する人が現れ、近隣では「沢登の良寛さん」とか、「瀬戸観音の申し子」などの愛称とともに語り継がれました。
 たぶん、生前から、特異な行動と才能だった故に、皆がよく知っている地方の有名人みたいな人だったんだと思います。瀬戸地蔵が、亡くなった翌年に建立されていることからも、生前から様々な物語性をもった人物であったことは間違いありません。だからこそ、瀬戸重さんが、どうしてそんな生き方をするようになったかを含めて、いろいろなうわさ話や世間話が流布していたのだと考えられます。
 彼の死後、さらに、この人の特異性が深められて都市伝説のように広まり、早い時期から口承文学に発展したのだと推測できます。そして、昭和時代のうちに、文芸作品にとどまらず、演劇にまで発展していった「沢登のせとじゅうやん」。

 〇博調査員の亡き義父(昭和9年生まれ)は、現在の中央市の田富で生まれ育った人で、子供の頃、「リアルせとじゅうさん」に会って、蛙の物真似をして楽しませてもらったことを憶えており、息子(〇博調査員の配偶者)に話し聞かせたそうです。少なくとも平成の世までは、口承文芸として、「せとじゅうさん」が生きていたのです。
 義父と同じくらいの年の方々はまだたくさん元気にいらっしゃいますから、もしかしたら現在でも、瀬戸重さん本人を知る人に出会う幸運があれば、話を聞く事ができるかもしれませんね。

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←瀬戸重さんの生家のあった沢登区の街並み。(2020年8月25日撮影)

〇博では民俗学的な見地から、生家のあった沢登周辺地域において、「せとじゅう」物語がどのような口承文化として過去から現在まで伝えられてきているのか? 令和の世に改めて調査できたらいいなと考えています。

2020年8月21日 (金)

パステルグリーンがレトロな旧野々瀬郵便局跡建物

こんにちは。
Dsc_0382_20200821111501 本日も、ふるさと文化伝承館では、テーマ展「開削350年 徳島堰」が絶賛開催中です。

←入口の展示資料に、「徳島兵左衛門俊正像」があります。
昭和32年に飯野新田の了円寺に寄進されたというそのお像を眺めていて思ったのは、「昭和30年代になっても、南アルプス市に住む人々にとって、この堰のもたらしてくれる恩恵の偉大さは衰えるどころか増す一方であったことをこの像は象徴しているのだなぁ」ということです。

像の作者で桃園の木彫家、長澤其山氏がこの像を完成させたのは昭和40年とのことですので、もちろん彼の想像のお姿ですが、この直後に、堰からの水を使って南アルプス市の原七郷一円に本格的なスプリンクラー網整備がされていくことを考えると、製作時期とその意図に興味が湧きます。


Dsc_4203   さらにもうひとつ思ったのは、「お着物のグリーンが目に爽やかできれいだなぁ」ということです。其山先生のお好みの色だったのでしょうか?黒く日焼けした逞しいお顔をあざやかなグリーンの縞の着物が引き立てています。

そういえば、昭和30年代から40年代はパステルグリーンというか、ミントグリーンのようなさわやかな緑色が、車や生活用具、家の塗装によく使われていたイメージがあります。


←そうそう、櫛形地区上市之瀬に昭和12年に開業した古い郵便局の建物を見せていただいたときにも、爽やかなパステルグリーンの扉や内装がレトロで素敵でしたっけ、と思い出しました。

今日は話題が飛躍して申し訳ありませんが、その上市之瀬の野々瀬郵便局跡建物をご紹介することにしますね。

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← 現在は営業していませんが、道に面した大きなパステルグリーンの観音扉が印象的なその野之瀬郵便局は、櫛形西小学校の向かいに、県道伊奈ヶ湖公園線を挟んで立っています。


006 野々瀬郵便局は、昭和12年12月1日に現存する建物が建てられ、「野之瀬郵便取扱所」として開業しました。

005_20200821111601 その後15年に郵便局として新たにスタートを切っています。


郵便局は昭和50年代とその後とで2度移転していますので、最初の建物は当時のまま、古写真に写る姿をとどめています。

001 現在も建物を所有する、初代野々瀬郵便局長山本氏のご子孫が、当時の画像と資料を2018年に文化財課に寄贈してくださいました。


1215002 ←この写真には「取扱所」の文字が見えるので昭和15年以前ということがわかります。
Dsc_4204 201881 ←扉を開けると内装は当時のままでパステルグリーンの昭和レトロな雰囲気を醸しています。
Dsc_2588 Dsc_2589 ←お客さんと事務所を隔てる格子窓の内側の木枠に「150」の表示があります。この数字は、もしも郵便局に強盗が入ってきた場合には、この身長150㎝の目印でもって、強盗犯の身長の目安を得るための工夫だそうです。
Dsc_2599 Dsc_2598 ←外観を眺めると、屋根のてっぺんの瓦に〒マークが入っているのを見つけることができます。
Dsc_2566  ←外側の窓枠にはめられていた鉄格子は戦争時に切って供出してしまったそうです。
Dsc_2579 Dsc_2581 ←建物内には、郵便局時代の備品もいくつか遺されていました。パステルグリーンの彩色は昭和40年頃に塗りなおしたものだそうです。やはり、この色味が流行った時期なのでしょうかね。

Dsc_4205  普段は個人のお宅なので公開はしていませんが、文化財課では上市之瀬を舞台としたまち歩きイベント等の機会に、所有者のご協力を得て見せていただいています。

この野々瀬郵便局跡建物の左隣にはJA南アルプス市野之瀬支所、消防倉庫を挟んで右隣には現在営業中の野々瀬郵便局があります。

野々瀬村では最初の郵便局ということもあり、この地域の皆さんの記憶に深く残る象徴的な建物なんです。

←2018年10月1日に行った、「〇博さんぽ上市之瀬中野編」の際に立ち寄った旧野々瀬郵便局跡建物。

2020年7月28日 (火)

葉煙草売買製造業KAWANO商店の看板

こんにちは。
南アルプス市教育委員会文化財課では、豊村にあったタバコ製造所の看板を所蔵しています。M4244
 

→「KAWANO-SHOTEN 葉煙草売買兼製造業 山梨県中巨摩郡豊村 河野伴右衛門商店」看板。 お店の入り口に掲げていたものでしょうか?


 櫛形地区豊は明治後期から昭和40年代まで蚕糸業が盛んな場所でしたが、明治37年以前は煙草製造と販売が主要な産業でした。
ちなみに豊村は、明治7年11月15日から、上今井・吉田・十五所・澤登の四ヶ村で発足し、昭和35年に櫛形町になるまで存続した村です。

 豊村誌(昭和35年刊)をみると、明治30年代に煙草製造と煙草草・製造煙草の仲買を含む会社が7社記載されており、その中に、明治27年1月創業 職工男女60人を抱えた河野商会の名がありました。当時の代表者名は看板と同じ河野伴右衛門さんですので、資料の看板も明治時代に作られたものであることが判ります。

「河野商店」の名は、同じく豊村誌の昭和33年7月の商業調査においても、煙草小売業リストに記載されています。しかし、この店が、明治27年創業の河野伴右衛門商店の流れを汲む商店であるのかは不明です。

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←「刻み煙草の製造道具」豊村誌より

「女は巻台の上で葉煙草を巻き付け、男は大きい庖丁細かく刻んで造った。巻煙草は明治20年前後から、輸入巻煙草に教えられて製造するようになった。」と豊村誌にあります。

 さて、現在の南アルプス市域で生産された西郡煙草は、江戸時代から明治・大正時代までの、豊村が含まれる原七郷(御勅使川扇状地上の水の乏しい地域)における重要な特産物でしたが、明治30年4月に葉煙草専売所官制が公布(葉煙草専売法は明治31年1月実施)され、「飯野葉煙草専売所」が山梨県全体を管轄として飯野周辺に設置されました。
 専売制とは、国が財政収入の増加や品質保証などを目的として、生産・流通・販売を全面的に管理下に置く制度のことで、国はそこから発生する利益を独占することができるようになります。

 その頃にあった豊地区の煙草産業を以下に見ると、豊村誌に7社が記載されています。

 豊村誌(昭和35年刊)記載の、明治30年代初期に存在した「煙草製造と煙草草・製造煙草の仲買を含む会社」(7社)
   ・煙草製造場一:明治15年創業 職工男10女29 斉藤才次郎
   ・煙草製造場二:明治17年5月創業 職工男11女20 保坂勇太郎
   ・豊保商会:明治20年1月創業 職工男10女18 保坂勇太郎
   ・煙草製造場三:明治20年6月創業 職工男12女40 中島勘七
   ・河野商会:明治27年1月創業 職工男10女50 河野伴右衛門
   ・竜王煙草合資会社:明治32年1月創業 職工男8女32 竜王煙草合資会社
   ・煙草製造場四:明治32年12月創業 職工男15女30 合名会社斉藤兄弟商会

明治32年5月には、「飯野専売支局」に昇格しました。
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←「明治32年年末に飯野専売支局を管轄する山梨県から、工場雇の小野元二郎氏に支給された勉励手当金(二円五十銭)の証書」 上八田小野家資料より

 明治35年10月には官制改正となり、飯野専売支局の建物が現白根地区飯野村に建設され、葉煙草収納倉庫が建てられたために、倉庫町と呼ばれる場所ができました。
山梨の煙草産業の中心地となった倉庫町は明治37年をピークに人が集まり、栄えました。


ちなみに、飯野専売支局の敷地境を示す境界石は今もひっそりと白根地区の倉庫町北交差点西の個人敷地内に残っています。

 


Img20180510_08525892 ←「明治36年3月に専売局から小野元二郎氏に支給された月俸十二円の証書」 上八田小野家資料より 小野元二郎氏は旧百田村に明治三年生まれと記録がある人物です。

 
 しかし、明治37年になると、日露戦争戦費調達の目的で、国が葉煙草の収穫から製品の輸入移入に至るまでのことごとくに専売の対象を広げたため、煙草製造工場がすべて国営に集約されてしまいました。
以来、豊村では委託製造という形で存続した工場もあったようですが急激にたばこ産業は衰退しました。

豊村村誌の、「明治44年末豊村内煙草製造会社調べ」によると、委託製造を請け負う会社のみの3社に減っています。
・合名会社竜王煙草:上今井 明治33年1月設立 煙草製造(委託製造)
・中島河野合名会社:上今井 明治41年4月設立 煙草製造(委託製造)
・斉藤花輪合名会社:沢登 明治41年4月設立 煙草製造(委託製造)

さらに、大正5年には政府が個人の煙草耕作までも禁止したので、倉庫町の出張所も大正6年には廃止となってしまったのです。
 
 以上のような経緯で、たばこ産業は明治37年を境に衰退・消滅の一途をたどるわけですが、厳しい自然環境のもと、原七郷の先人たちが育んできた西郡魂は、そこでへこたれるようなモノではありませんでした。ちゃんと次の手(蚕糸業への参入・切り替え)を計画的に進めていたのです。
それまで利水の面で難ありとされていた製糸場を設立することにはじまる、新たな基幹産業の創出を、明治37年から次々と行っていきます。
 さらに、大正5年までに耕作の禁止される煙草に代わって、ものすごい勢いで桑が植えられていきました。煙草耕作から養蚕業への転換です。
 明治37年以降の原七郷を、先人たちは、原料を供給するための養蚕業と、製品を生み出す製糸業のを両立させた産業(蚕糸業)を地域内で発達させることで、煙草産業に代わる雇用を生み出し、昭和40年代まで生き抜いていくのです。
 
 明治37年以降に櫛形地区で出現し、急速に拡大した製糸場については、その詳細を次回以降に記したいと思います。

2020年7月22日 (水)

豊村には乾繭場があった

こんにちは。
Dsc_4171  南アルプス市櫛形地区吉田には、昭和40年代まで操業していた乾繭場(かんけんじょう)の倉庫建物が現存しています。

→2018年11月27日撮影 豊乾繭場倉庫跡 (文化財課職員H氏によると、この倉庫内に残されていた棟札から昭和4年築と判るそうです。この建物は、もうすでに90歳を超えているのですね)
 乾繭場とは、養蚕農家から集めた生繭を熱風で乾燥させ、中のさなぎが羽化して出てくる前に刹蛹(さつよう)し、さらに水分を除去することでカビが生えたりするのを防ぎ、長期間の保存に耐えるよう処理をする工場のことです。


002img20200622_11283036  豊乾繭農協(豊乾繭場)は、山梨市にあった乾繭施設を昭和32年5月に198万円譲りうけて豊農協構内に設立されたものでした。「田端式」という乾燥機が一機配備されていたと櫛形町誌に記されています。

→「豊乾繭農協」櫛形町誌(昭和41年刊)より  現在残るトタン張りの倉庫は、写真の中央の屋根の真ん中に櫓の付いていた建物なのでしょうか?現在、煙突は撤去されていますし、位置関係がよくわかりません。今後の踏査では、この写真を持ち歩いて、当時のことが分かる人を探したいと思います。




 乾繭場は製糸工場内に設けられる場合もありますが、こちらの豊乾繭場は、特定の製糸場の専用の施設というものはなく、豊乾繭組合(農協)が、この乾繭場で周辺農家から集めた繭を乾燥して倉庫に貯蔵し、近隣に多数あった製糸工場に供給していたようです。

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 →2019年1月27日撮影 豊乾繭場倉庫跡(建設された昭和4年からこの倉庫は「豊第二農業倉庫」といわれていたそうです。もともとあった建物を改装して、昭和32年に乾繭繭の倉庫として整備したのかもしれません。)


2_20200722150401 Photo_20200722150401  山梨蚕糸業概史に載っている昭和33年調べ製糸場一覧をみると、現在の南アルプス市域に当時存在した製糸工場はなんと19カ所もありました。

→「豊乾繭場内部」豊村誌(昭和35年刊)

しかもより 周辺は昭和40年代まで大養蚕地帯でもあったので、それら蚕糸業の中心地たる櫛形地区豊に製糸場と養蚕農家をつなぐための、組合組織の乾繭場があって不思議はありません。

逆にこの頃には、この乾繭施設を手放した山梨市(東郡地域)での蚕糸業はすでに漸次衰退していたということを示すのでしょう。

→「乾繭場全影」豊村誌(昭和35年刊)より


 
 3993  →豊乾繭場跡に残されていた和紙製繭袋

さて、こちらは、豊乾繭場で乾燥した繭を入れていた袋です。文化財課が所蔵しています。
この袋は木綿ではなく、丈夫で吸湿性のある厚手の和紙を貼り合わせたもので、その大きさはだいたい84㎝×150㎝です。口紐はついていないタイプです。
 3993-3 乾燥させた繭は生繭のおよそ半分の重さになるので、軽くなったぶん、一袋にたくさんの量を入れることができます。そのため、生繭を入れて運搬する木綿の繭袋(油単ゆたん)よりも、乾繭貯蔵用袋は大きいものになります。


 以前に、石和で蚕糸包装資材一式を製造販売していた宮方商店の関係者に、製造していた繭袋についてお聞きしたことがあるのですが、「和紙製の繭袋は特注品の厚手の紙を仕入れ、職人が手でよく揉んで柔らかくしてから糊で貼り合わせて作っていた。木綿袋よりも高級品で、乾繭貯蔵用袋としての注文が多かった」と聞いています。


 ←この和紙製繭袋には、「豊乾繭組合」の上に「〇マルに木」の屋号がプリントされています。屋号は取引した製糸場のものでしょうか?今後調査を進めたいと思います。


 〇博調査員は、2018年に、豊乾繭場倉庫跡の道を挟んだすぐ目の前にある豊小学校の子供たちと一緒に、倉庫跡を見学させていただいたことがあります。

内部はすでに空っぽで、田端式乾燥機の跡形もありませんでしたが、2階部分に上がると、床の所どころに四角い穴が開けられていて、想像力を掻き立てられました。その際、子供達には、岡谷蚕糸博物館さんの発行した冊子の中の乾繭場内部の古写真等を見てもらい、「こんな感じにたくさん繭が積み上げられていたり、ベルトコンベアーがあったのかなぁ?」などと一緒に話したのを憶えています。

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→2018年11月27日撮影 昭和レトロな建物を維持しているJA南アルプス豊支所の敷地に豊乾繭場倉庫跡の建物が立っています。


 2018年当時のJA南アルプス市豊支所の方にうかがった記憶では、特に利用されていない様子でしたが、いまも存在感を放って立つ豊乾繭場倉庫跡建物の存在そのものが、いかにこの地に蚕糸業が発達していたかを、私たちにしずかに語ってくれています。

 

2020年7月 8日 (水)

上今井の天神の井をさがせ!

こんにちは。
002img20200703_16425310  先日、〇博調査員は櫛形地区上今井を踏査しました。

踏査では、地域性のにじみ出る古い建築物や景観等も記録しながらテクテクしています。事前に下調べしておいた史跡の現状もチェックします。

しかしその日は、チェックポイントの一つであった「天神の井」がどうしても見つかりません。

→「天神の井」 櫛形町誌より 昭和41年刊

327_20200708085601豊村誌には、「天神社の御手洗」であると記されていたので、社殿に拝礼し、上今井稚蚕所跡と接している天神社敷地周辺をウロウロしましたが、見つかりません。

→上今井天神社の鳥居


 「う~ん、どこにあるんじゃぁ~」と額に手を当てて考え込みながら立ち止まると、どこか遠くない場所から感じる視線!

急いで辺りを見回すと、塀の上からじっとこちらを凝視する黒い物体が!!

254-4 254-6よく見ると、塀に肘を掛けた黒いお犬様が。

→塀の上から鋭い視線を送る上今井のお犬様

「こんにちは」とご挨拶すると、お犬様は達観したような佇まいを漂わせながら、「ここら辺では見ない顔じゃが、何用ですかな?」とテレパシーを送ってこられました。

そこで、塀の下に駆け寄り、「はい、わたくし、上今井の地名の由来となった、旱魃にも涸れることがないと伝えられております「天神の井」を探しておりますっ」とお伝えすると、お犬様は口をぎゅっとつぐんだまま「己の道を信じて、すすめ!」と私に念を送られたあと、そのまま微動だにせず視線だけを逸らされました。

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 この言葉に勇気づけられた〇博調査員は、塀の上のお犬様の言う通り東方面に道を進み、敷地に筆塚のあるお宅を訪ね、「天神の井」の場所を教えていただくことができたのです。

→津久井七右衛門筆塚

  「天神の井」は、豊村誌と櫛形町誌によると、『別名「七ツ池」とも呼ばれ、昔、天神様が七才の童子の夢枕に立ち、その教えに従って之を掘った。後に天神宮を祀って天神の御手洗となった。この水は旱魃にも涸れることがないと言われる。』と記載されています。また、櫛形町誌には『上今井の地名も「神井」(かむい)からきているとも言われている』とも書かれています。


  さて、住民の方に案内していただいた「天神の井」は、なんとびっくり、現在、道路の下にありました。

2544 →「天神の井」へ近所の方に見せていただく。


 2544-14 井戸の上に鉄板を敷き、その上をアスファルトで覆って道にしたとのことですが、一部が開閉できる鉄蓋になっており、そこを開けていただくと、井戸の石積みと湧水が溜まっている様子を見ることができたのでした。

→道路上の天神の井の範囲


正直、櫛形町誌の写真とのあまりの変化に驚きましたが、小さな穴から中を覗くと、側面のきれいな石積みと真下にキラキラ輝く水面がみえました。

2544-3 2544-8 →天神の井の石積みがみえる。
案内してくださった方によると、いまでも地域の子供たちに、お年寄りが「天神の井」の伝説を教えてあげながら、蓋を開けて見せてあげることもあるようです。「月夜でも涸れる」といわれた原七郷にあっての貴重な湧水であった上今井の「天神の井」がこのように守り伝えられていることに安堵し、感謝した〇博調査員です。

天神の井にお導きくださった、お犬様とご近所の方にもお礼申します。

239_20200708090401 ちなみに、天神の井を見せてくださったご近所の方の庭にある「筆塚」は、正しくは「津久井七右衛門筆塚」といい、豊村誌によると、江戸時代に津久井七右衛門の開いた私塾跡に、筆子(塾生)が師を偲んで建てたものだそうです。

『七右衛門は性朴実にして儒学を好み多くの筆子を有した。碑は自然石で正面に筆塚、側面に嘉永七年甲寅秋筆子中とある。」と記載されています。

 もし、上今井の「天神の井」の場所に行ってみたい方は、この「津久井七右衛門筆塚」を目印にするとよいと思います。

2544-13  この筆塚から道なりにまっすぐ南へ50メートルほど先の、東へまがる道角の地下が「天神の井」の存在する場所ですよ。(ちなみに、お犬様には、筆塚前の道を左ヘ西方向に向かい、常泰寺門前をキョロキョロすると出会えるかもしれません)

 

 

 →「天神の井」を案内してくださったご近所の方が家に戻られる際のかっこいい後姿。ありがとうございました!