若草地区

2020年8月24日 (月)

加賀美最後の瓦窯元であった神山家

こんにちは。
Dsc_0364_20200824110101  先日、瓦製造が盛んだった若草地区加賀美で、最後まで操業していた神山家工房跡を見せていただく機会を得ました。

加賀美は、最盛期の昭和初期には40軒以上もの瓦窯が密集する地域でした。

その中でも、この神山家はこの地で最後まで瓦を焼いていた家です。

 

Dsc_0357_20200824110101 昭和初め頃から平成2年まで操業し、最後の数年は夫に先立たれた神山とめ子さんが近所の瓦製造経験者たちに助けてもらいながら、ひとりで工房を継続したのだそうです。

←昭和初期から平成2年まで操業した神山家の瓦製造工房内

今は亡きとめ子さんの娘さんとお孫さんが、工房内に残されていた道具類を見せてくださり、一部は文化財課に寄贈していただくことになりました。


Dsc_0376_20200824110201←こちらは瓦を成形する型枠ですね。石のろくろとセットで使うのだと実際の使い方を見せてくださいました。


_dsc0595_20200824110101以前に、同じ加賀美にあった澤登瓦店の作業風景画像にも同じような道具が写っているのをみていたので、今回はその実物資料を収蔵する運びとなって、大変ありがたかったです。

←加賀美の澤登瓦店の昭和40年代末の瓦製造風景。神山家に残されていたのと同じ道具を使っている。

 


P8170344 P8170345P8180352←体験工房等で使用したと思われる鬼瓦に関連した型の数々。 また、神山家工房の終末期には、体験工房としてお客さんに瓦の置物等をつくってもらう取り組みもなさっていたようで、それらの体験用の備品が残されていました。

Dsc_0369 Dsc_0370_20200824110201  工房の外に出てみると、前庭の駐車場の一部がコンクリートブロックで囲われて一段高くなっているのを見つけました。

うかがってみると、この区画内には、かつて成型した瓦を干すための棚が設けられていたということでした。

↑庭の一部がコンクリートブロックで区画され、一段高くなっている。この区画上に瓦を干す台が設けられた。

一段高くなっているのは、大雨が降った際に、上に掛けたシートから流れ落ちる水を素早く流すためだったそうです。

002 Photo_20200824110201 ←八田町誌と若草町誌にある、瓦干し場の様子。


加賀美は南アルプス市の田方(たがた:原七郷にしみ込んだ水が豊富に湧き出る地域)にありますので、家によっては、このような工夫をする必要があったのですね。教えていただいて初めて知りました。

 加賀美の瓦産業については、まだまだ聞き取り調査や関連資料を増やしていきたいと考えています。


今回ご案内してくださった方には、帰り際に、神山家工房での作業風景や加賀美最後の瓦職人であったとめ子さんの画像のご提供をお願いしてまいりました。次回、見せていただくのを心待ちにしている〇博調査員です。

 

2020年8月14日 (金)

太郎さんの持ち帰った伝単「桐一葉」

こんにちは。
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 本日は、太平洋戦争中に陸軍航空本部技手であった志村太郎さんが、太平洋北部のアリューシャン列島にあるキスカ(鳴神)島で拾ったという、伝単「桐一葉」をご紹介します。

この「桐一葉」は南アルプス市文化財課が平成28年に若草地区下今井の志村家よりご寄贈いただき、収蔵する資料中にあります。

←伝単「桐一葉」表面「桐一葉 落つるは軍権必滅の凶兆なり散りて悲哀と不運ぞ積るのみ」とあり。


 伝単とは、戦争において、敵の国民や兵士に降伏をうながしたり、戦意を喪失させる意図で、空から撒いたり街に掲示したりする、宣伝謀略用の印刷物(ビラ)のことです。


 この「桐一葉」は、戦場で数多くばらまかれた伝単の中でも、ひときわ芸術性・文学性が高いものです。  
 色と形が桐の葉そっくりに作られているだけでなく、当時有名だった歌舞伎の演目「桐一葉」の内容を想起させる格調高い短文を付して、日本兵に軍部の衰退と滅亡を予感させています。
桐一葉はもとは坪内逍遥作の豊臣家の没落をテーマにした戯曲で、その中で詠われた台詞「桐一葉落ちて天下の秋を知る」は、片桐且元が豊臣家と自分の悲運を嘆く場面で発する有名な句でした。
「桐一葉」の伝単は、1942年(昭和17年)6月にニューヨークで在米日本人が関与して製作されたそうです。(※一ノ瀬俊也著「戦場に舞ったビラー伝単で読み直す太平洋戦争ー」2007年刊より)。

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 この「桐一葉」の伝単を北方アリューシャン列島のキスカ島で拾ったという志村太郎さんは、昭和13年9月に陸軍航空本部へ技手として雇入れられ、昭和17年にキスカ島に配属されました。

志村氏の書き遺した資料には、昭和17年11月10日20時に鳴神島(キスカ島)に上陸し、土木班として飛行場の建設に従事したと記されています。そして、翌、昭和18年6月18日に伊二号潜水艦で撤収とありましたので、その間の7か月間のキスカ島生活の中で、拾う機会があったものと考えられます。

←伝単「桐一葉」裏面「春再び来る前、降るアメリカの爆弾は、梧桐の揺落する如く、悲運と不幸を来すべし」との文言。


 当時、敵国からの伝単を所持することは固く禁じられていましたので、小さく折り畳んだその折目痕を見ると、見つからないように注意して持ち帰った、彼の気持ちを推し量りたくなります。


 志村氏がキスカ島滞在中の昭和18年5月には、同じアリューシャン列島のアッツ島がアメリカ軍によって玉砕しており、その状況下でのキスカ島から脱出は、まさに命からがらだったということです。(*証言は資料寄贈時に、志村太郎氏妻の道子氏からの聴き取りによる)

3936201619_20200814143501←「アリューシャン作戦従軍記録」志村太郎氏が後年、書き記して記録したもの。(※画像すべてはタップすると拡大します)


3936201616  ←「鳴神(キスカ)飛行場計画平面図 昭和18年2月北海道守備隊司令部」

下今井志村家より寄贈された資料の中にあるキスカ島配属時のものには、上陸前半期の従軍日誌、まぼろしとなった鳴神飛行場計画平面図(昭和18年2月北海守備隊司令部)、現地アリュート人との交流を写した写真等も残されています。

1718_20200814143501  志村家よりうかがったお話によると、太郎さんは昭和8年に17歳で農林学校を卒業後、父のもと22歳まで養蚕業に従事しましたが、昭和13年に、志村家の広大な養蚕飼育場があった土地を、玉幡飛行場建設のために陸軍航空本部へ売却せざるをえなくなったため、太郎氏は陸軍航空本部に雇入れられることになったそうです。

←「船上にて」左が志村太郎さんと推測される。


1718_20200814143503 その後、設計部員として北方のアリューシャン列島に位置するキスカ島や空襲の激しかった大阪などに配属された後、昭和20年6月からは地元でロタコと呼ばれた御勅使河原飛行場の建設に携わりました。

←「アリュート人と鮭を運ぶ」キスカ島にて昭和17・18年頃の撮影。


 太郎氏は昭和59年に68歳で亡くなられましたので、もう直接にその証言を聴くことは叶わないのですが、26歳で思いがけず流氷浮かぶベーリング海を臨む孤島に連れていかれた若者の心境、その地で「桐一葉」を拾った時の心情はどんなものだったのでしょうか? そして拾った伝単を、決死のキスカ島撤退を経て、太郎さんは内緒で生まれ故郷まで持ち帰ってくださいました。そして、彼が亡くなった後はご家族が大切に保管されていました。
1718_20200814143502  戦争の時代に生きるということはどういうことだったのか?志村太郎さんの遺品や文書、写真、その一生から、なんらかの答えがもらえそうな気がしています。

 

←「アリュート人と我が勇姿(太郎氏本人の裏書きによる)」キスカ島にて昭和18年頃の撮影。 
 勇姿というにはあまりにも優しく清らかな太郎氏の笑顔に子供たちとの関係性がにじみ出ていると思います。

2020年5月12日 (火)

甲斐の富士に「農おとこ」現る!

こんにちは。きょうは暑くなりましたね。
南アルプス市から見える富士山の雪がどんどんと溶けてきています。
この時期になると、私は、毎日、ある男が現れるのをいまかいまかと待ちわびるのです。その男は「甲斐の農男」と呼ばれ、富士山の雪形として現れます。
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 甲府盆地から見える雪形にこの「農男(のうおとこ)」が出現すると、人々は田植えを始めたと伝えられています。
 今朝(令和2年5月11日の朝)、私は確認できました!

←2020年5月11日午前9時頃、八田ハッピーパークから撮影の「甲斐の農男」


雪が解けた黒い部分の形が農具を持った人の形に見えます。 ここ数年は男の足の部分の雪が先に溶けてしまっていて、足が確認できない状態が続いています。今年は股上から見えます。

←さて、富士山の雪形に「農男」を探してみよう!超難問ですね。

 

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2018年は上半身しか見ることができませんでした。

 ←2018年4月26日、八田ハッピーパークから撮影の「甲斐の農男」

←足がないけどわかるかしら? 判りにくいですね。


13_20200512113401 こちらの平成13年の画像(写真集「夢白根百年の回想」より)には、ばっちり足先まで見えていたのですけれどね。

←平成13年(2001年)の「甲斐の農男」(写真集「夢白根百年の回想」より)

←赤丸の中に、左手に鍬を持って、傘をかぶった男が見える!と思う。

 

  この富士山の雪形に見える「甲斐の農男」の伝承についての最も古い手がかりは、現南アルプス市若草地区藤田に住んだ江戸時代の俳人、五味可都里(ごみかつり)が天明八年(1788)の五月に編んだ俳句選集「農おとこ」にみることができます。

その中に「のうおとこのことば」という題の文章があり、その伝承を説明しています。

002img20200512_11253487 ここで、五味家蔵の五味可都里・蟹守資料集である『可都里と蟹守』池原錬昌編を読んでみると、

『俳諧農男集 のうおとこのことば
 天の原不尽の高嶺しいつはあれど、田長鳥の声まち、麦かり初る頃ほひしも、
そがひの雪のむら消のこりたるくまびに、ひさかたの天のたくみのおのづからなる人がたの、
さすがにかしらには、小笠と見ゆるものなんうちかゝぶり、真手には鍬やうのものとりもたらむさま、ほのかに顕はるゝなりけり。
 其あらはるゝときぞ、田をうゝるにときをうるとて、それを此さとらのならはせに、農男となん、いとふるきよぞいひ継もてはやしける。
 実やとよどしのみつぎもの。望月のたらばひゆかんさいつ祥をしもこの高嶺のみゆきにたぐひ、称へいふ事にかはあるにこそありけめ。
(『可都里と蟹守』五味家蔵 五味可都里・蟹守資料集 編者/池原錬昌 発行/2004年 発行者/五味秀子より)』とあります。

 「麦を刈りはじめるころに、富士山の雪形に、頭に笠をかぶって手に鍬をもった人が現れると、田植えをするのが習わしなので、この里の人々は「農男」と呼んで伝承している」といったような内容です。五味可都里は若草地区藤田に住んでいましたから、「この里の人々」というのは、江戸時代に現在の南アルプス市域に生きていた、私たちのご先祖様たちということになります。

Photo_20200512113501  その後、葛飾北斎が天保六年(1835)頃の作とされる富嶽百景三編に、「甲斐の不二 濃男」という作品を遺しています。

←葛飾北斎 富嶽百景三編「甲斐の不二 濃男」(国立国会図書館デジタルアーカイブより)


 私は、ここに描かれた農(濃)男の形が、180年以上を経た、現南アルプス市内からこの時期に富士の山肌に見ることのできる農男の姿と同じであることに、感動しています。
 北斎の作品の題材となった魅力的な「甲斐の農男」の伝承が、俳人として江戸でも知られたという、若草地区藤田(とうだ)の五味可都里の功績であったのなら、とてもおもしろいのですけれど・・・。 
 
 現在の南アルプス市域では、残念ながらこの「甲斐の農男」のことを知る人は少ないです。
五味可都里が書き記し、北斎の浮世絵の題材にもなった、春に富士山に見える農男。年に一度、江戸時代から変わらぬ姿で、現在の私たちにも、富士の山肌に、期間限定で見せてくれています。

Dsc_1863  〇博調査員はここ数年、この「甲斐の農男」の姿を、南アルプス市の誇る絶景のひとつ「中野の棚田」越しの富士に見たいと願っています。

←2018年5月6日、櫛形地区中野の棚田越しに撮影の富士山(甲斐の農男は見えない)来年こそ、この場所から「甲斐の農男」拝みたい!

しかし、去年も今年もうまくいきませんでした。

「甲斐の農男」と「中野の棚田」のコラボを来年こそは!と周囲の人々に喧伝する今日この頃です。

2020年4月 1日 (水)

昭和の加賀美・瓦製造画像

こんにちは。
_dsc0595  若草地区加賀美の瓦産業の調査を〇博で進めるうちに、当地の瓦製造の様子をおさめた画像の存在を知りました。

←加賀美区集落の南端にあった沢登瓦店さんでの作業風景です。

昭和時代に撮影されたもので、持ち主の澤登家所蔵のフィルムから接写して画像をいただいたもののようです。数年前に文化財課職員が収蔵していました。

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_dsc0623 171797-7 ←この瓦窯と作業場があった場所を、昨年の10月に加賀美踏査した時に撮った写真の中に探してみると、この画像と同じ場所かしら?と思う一枚を見つけました。右の写真が昨年10月の写真ですけれど、どうでしょうかね? 煙突は出ていないので、この作業場の中にあった瓦窯は現在は撤去されているようですね。

_dsc0633 _dsc0654 _dsc0659 _dsc0626 この場所で正解であれば、現在の澤登家の住宅の、道を挟んだ向かい側にある建物の中に、かつて瓦を焼く窯があった模様です。さらに瓦窯北側に作業場が存在したようですね。


住所も確認し、前回の記事でもご紹介した文献、『生産遺跡分布調査報告書(窯業遺跡)1990 山梨県教育委員会』で加賀美瓦窯跡群の項を調べると、その地番には当時、「カネにト」の屋号の澤登(一秀)家が、大正時代初め~昭和55年に操業していたと記録されていました。


加賀美の瓦製造は、江戸時代(天保期1835年頃から)、甲府城に使用する瓦生産を農閑期に行ったのをはじまりに、昭和50年代初めまで行われました。

最も盛んに行われたのは明治中頃から昭和40年代末くらいまでの100年間ほどですが、作業風景を写した画像や記録は少ないです。

 

_dsc0721 _dsc0665 _dsc0655 _dsc0624 南アルプス市文化財課で収蔵している、加賀美の沢登瓦店カネトの瓦製造画像は88点あり、製造環境や道具・工程なども全般的に撮影されているので、たいへん貴重な資料だと思います。おそらく昭和40年代末以降に撮影されたものだと思われます。

これからも〇博の大切な資料群の一つとして今後積極的に活用させていただきたいと考えています。


 ふるさと○○博物館では、ひきつづき、瓦製造を行った経験のある方々の証言資料や瓦製造の実際を物語る資料の収集をおこなっておりますので、情報を寄せていただければ幸いです。

2020年3月31日 (火)

明治時代に加賀美で作られた瓦

こんにちは。
 Dsc_1400 こちらは、南アルプス市文化財課の収蔵庫で保管している若草地区加賀美で明治時代に作られた瓦の資料です。瓦本体の刻印には『特製瓦 甲州加賀美 澤登八十八』とあります。

396715 Dsc_1399 寄贈された際に添付したと思われる紙には、『明治時代に作られたもの 加賀美の土瓦 特製瓦甲州ヤマヤ(屋号) 製造主澤登八十八と記す』、もう一点には、刻印の写しとともに『孫八十春 現在戸主利秋』と記されていました。


 この手掛かりを頼りに、文献を調べてみますと、『生産遺跡分布調査報告書(窯業遺跡)1990 山梨県教育委員会』に 加賀美瓦窯跡群の項があり、明治時代以降現代( 平成初め)にいたる加賀美の瓦屋のリストが記載されていたので、大変参考になりました。

これによると、ヤマにヤの屋号で澤登八十春さんの名があり、昭和50年くらいまで操業していた瓦屋だとわかりました。

早速、リストにある番地を訪ねてみましたが、いまその地番には瓦屋であったらしき建物や痕跡は残されていませんでした。

 


 しかし、昭和時代まで40か所以上の瓦製造所があった若草地区加賀美を歩くと、まだ瓦製造の街だった痕跡をそこここに見つけることができます。


1810 ←奥城瓦工業跡(令和元年10月23日撮影)Photo_20200331110702 ←「若草町誌」1990にみえる奥城瓦工業生産の様子
363468-4 ←青柳瓦工業(令和元年10月23日撮影)

 上記の『生産遺跡分布調査報告書』の当該部分を執筆した末木健先生の『山梨県に於ける近世瓦窯について 1994 山梨県考古学協会 山梨考古学論集Ⅲ』の論文によると、
加賀美での瓦製造については、瓦窯の創始を示すと思われる享保元年(1716)の伝承がありますが、積極的に商売として甲府城に瓦を納入したのは天保五年(1834)頃からだとのことです。
 それでも、江戸時代は農閑期に瓦生産を行う程度であったようです。甲府城などで瓦が必要になると、施主が現在の愛知県三河地方から瓦製造職人を招聘し、甲斐の国で瓦を焼くための良質な粘土が採取できる場所に釜を築きました。そして、その地域に住む農民を雇用して焼き上げた地のひとつに、現在の南アルプス市若草地区加賀美(かがみ)がありました。必要量を焼き上げると、職人たちは釜を放棄して三河に帰ったので、この技術を身に着けた加賀美の農民(地域有力者)たちは自立して瓦屋をはじめたのだと想定されています。
 しかし、明治中期になるまでは、一般の住宅の多くは藁ぶきで、瓦屋根は寺院や役所、城など特別な建物にしか普及しておらず、明治初期までの加賀美での瓦製造は産業というほどではなく、技術のあるものが農業の合間に行う程度でした。したがって、加賀美の瓦産業は、明治中期以降に発達したものとされています。
 その後、若草地区の瓦製造地は瓦粘土の分布した加賀美区より北部の、寺部区や鏡中條区・下今井区にまで広がりを見せ、戦後の原料粘土は八田地区野牛島から採掘したものも含まれました(若草町誌)。
Photo_20200331110701 ←現在、南アルプス市市内では、唯一、八田地区榎原にあった旧中沢瓦店さんの敷地に瓦窯跡が残されている。325301  

 加賀美の瓦製造の歴史は伝承では約300年前から、文書の記録が残っているものとしては180年ほど前からであり、生業として成り立っていたのは今からは130年ほど前(明治時代中期)から約30年前(昭和50年代おわり)までということになります。加賀美の瓦産業の隆盛期は100年間ほどであったということですね。

←斉藤瓦工業(令和元年10月23日撮影)

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←石川瓦工業(令和元年10月23日撮影)


 令和になった加賀美区では、瓦製造を行う工業所がなくなったかわりに、そのノウハウを生かして、愛知県のメーカーから仕入れた瓦で修理や瓦葺き工事を行う会社が現在も集中しています。いまも加賀美区が瓦の街であることに変わりはありません。歩いてみると、会社の敷地に積み上げられた瓦をあちこちで見かけますし、民家の屋根に、目を引く意匠を凝らした立派な鬼瓦を見つけると、「さすが加賀美、瓦の街だな」と納得しています。

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甲州加賀美瓦屋の動向(『山梨県に於ける近世瓦窯について1994 山梨県考古学協会』より)
天保八年(1837):加賀美村瓦屋新左衛門、甲府八日町、秤所御用人と瓦の取引を行う。
弘化二年(1846):鏡村弥一右衛門、瓦問屋銅屋庄左衛門に瓦を納入。
嘉永四年(1851):加賀美村、弥一右衛門、甲府御破損方役所へ、甲府城補修用の瓦値段表を提出。
慶応四年(1868):加賀美で70年以上前から瓦商売を行い、瓦土を採取していたことが記されている。
明治3年(1870):加賀美法善寺過去帳に、農間瓦焼家業の弥市右衛門の名がみえる。

←野呂瀬瓦店(令和元年10月23日撮影)

 

2020年3月 3日 (火)

十日市の豆知識Q&A

Dsc_0063 こんにちは。  
南アルプス市若草地区十日市場で、安養寺の縁日である十日市が行われ、今年も多くの人出でにぎわいました。


南アルプス市十日市場で毎年2月10日・11日に行われてきた「十日市(とおかいち)」は、時期的に『甲府盆地に春を告げる・・・』とか品数が豊富で何でもそろう盛大な祭りということで『売ってないものは猫のたまごと馬の角」というような上手いキャッチフレーズで多くの人々を集める有名なイべントです。


 でも、「どれくらい昔からやってるの?」「なんでここでやってるの?」とか、「2月にやるのはどうしてで~?」などの基本的なことをいま一度知りたいと思いました。十日市の取材に行って、安養寺の鼻採地蔵にお参りして、お堂の中で行われていた護摩焚きを見せていただく中で、周りの人から質問されたからです。今回は、Q&A方式で簡単にまとめてみたいと思います。

 

ではまず、

Q「十日市はどれくらい昔からやっているの?」

Photo_20200303114102 Photo_20200303114201 A:十日市の歴史は古く、少なくとも戦国時代から約500年も続いていることがわかっています。

←法幢院の入り口 令和元年10月撮影

このことは、法幢院(ほうどういん)というお寺にある中世の木造を納める厨子の造立に関する銘文に「天文3年(1534)」の年号と「十日市場」の村名があることから、戦国時代のその頃にはすでに十日市が開かれていたことがわかるのです。
法幢院は、十日市の店が並ぶ沿道を安養寺より西に進んだところにあるお寺です。

法幢院の本堂内の左から3番目が厨子入地蔵菩薩坐像:厨子の銘文に天文三年・十日市場の語がある。 令和元年10月撮影

 
Dsc_0065Q「なんで昔からこの場所で十日市は開かれるの?」

←十日市「北の宿」の庭先に並べられた名物の杵と臼


A:十日市が開かれる十日市場は、物流や文化の交差点だったからです。
十日市場は、静岡方面から富士川を遡ってくる文化と長野方面から富士川を下っていく文化の交差点に位置していて、古代から文化の交流拠点でした。
642-2 又、地形的にもちょうど、水に乏しい御勅使川扇状地と、水の豊かな地域との境界線にあり、それぞれの地域の産物を交換するのに都合の良い場所でもありました。そんな場所だからこそ、ここで十日市が開かれているのです。

Dsc_0058←十日市に来て安養寺に参拝する人々の列 令和2年2月11日撮影

Q「十日市に行くと、安養寺の鼻採地蔵(はなとりじぞう)に必ずお参りするのはなぜですか?」
Photo_20200303114101 A:「十日市は、十日市場にある安養寺(あんようじ)の門前で開かれます。十日市は、実は十日市場の安養寺に安置された鼻採地蔵(市神地蔵さん)の縁日に開かれてきた市なのです。

 安養寺には、「鼻採地蔵縁起」という巻物が伝えられています。この「縁起」は江戸の初めごろ、野呂瀬主税助(のろせちからのすけ)という十日市場出身の尾張(現在の愛知)藩士が書き故郷へ奉納したもので、十日市の様子なども記されています。


Dsc_0054 1841-6 「鼻採地蔵縁起」とは・・・
 ある時、田植え前の田んぼを平らにならす作業(代かき)の時に馬の鼻を取る人(馬の鼻先を竿で誘導する)が居なくて困っていると、安養寺のお地蔵様が童子に姿を変えて現れ、暴れる馬をなだめて田植えが出来るように手伝ってくれた、という伝説です。

この伝説から十日市場のお地蔵様は鼻採地蔵さんと呼ばれ、農業を助けてくれる仏様として信仰を集めています。


 十日市では、その鼻採地蔵さんが御開帳され、護摩焚きなどの供養や祭祀が行われる縁日に参詣する人々の賑わいを当て込んで、境内の外に多くの露店が並んだわけです。

←安養寺本堂の鼻採地蔵尊(市神地蔵尊・地蔵菩薩立像)令和元年10月撮影


 ちなみに、安養寺の鼻採地蔵尊(地蔵菩薩立像)は『鎌倉時代の作で、像高122・6センチ、寄木造りで玉眼を嵌入している。すらりとした長身にゆったりと衣をまとい、静かに両手を構えた姿は穏やかで、相貌は高貴な女性のように美しい』と評されています。※南アルプス市教育委員会が平成23年に刊した南アルプス市内仏像悉皆調査報告書「祈りのよこがお」に詳細が載っています。
「十日市に行ったら、安養寺の鼻採地蔵さんにも是非お参りしてくださいね!」

 

Q「かつて十日市は夏にも開かれていたって本当ですか?」
A:本当ですよ。かつての十日市は、春正月と秋七月の年2回行われていたことが、安養寺に伝わる鼻採地蔵縁起やその他江戸時代の文書に記されています。

Dsc_0055 ←安養寺本堂にて護摩焚の様子 令和2年2月11日撮影


鼻採地蔵縁起:寛永十七年(1640)野呂瀬主税介筆によると、
※十日市に関する部分読み下し
「十日市場と云う事 春正月十日十二日十四日市立始めり 国中の萬民出賣し 歳の始の用事を叶へ 穐秋七月も右の両三日市立てて 六親眷属の盆祭の用事をも此処にて叶へ侍りぬ 誠に春正月は現世の用事を営み 秋七月は盂蘭盆聖霊祭の用事を叶へ現世後生名誉の巷なり・・・」
 上記の文書によると、江戸時代の十日市は、旧暦の1月の10・12・14日と7月の10・12・14日の年に2回、合計6日開催していたことがわかります。さらに、1月の十日市は、お正月の用事や春の農作業の準備のため、7月の十日市は先祖を迎えるお盆の用事を足すために行われたとのこと。そのため、春正月の十日市はこの世の人のため、秋七月の十日市はあの世(先祖)の人のために開かれたとも記されています。 春と秋にそれぞれ三日間も立つ市の日付が一日おきになっているのは、その間に商品の仕入れや調達をするためだといわれています。古くからたくさんの人々が集い、多くの売り買いが行われた盛大な市だったことが想像できます。しかし、いつの頃からか、7月の十日市はすたれてしまったのですね。
 近年では(令和2年も)、2月10・11日に開催されています。これは、旧暦の1月10日が新暦の2月10日辺りにあたることから、2月に行われています。

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 以上のようなわけで、十日市はかつては春を呼ぶだけではなく秋も招いていたり、十日にだけやっていただけでなかったりと・・・、毎年楽しみに出かけているけど、知っているようで知らなかった十日市の素朴な疑問を少しひも解いてみました。来年の十日市をもっと愉しむネタにしていただければ幸いです。

←今も昔も十日市で売られる縁起物のダルマは、かつては綿と繭の豊産を願って白いものがよく売れたという。「やまなしの民俗」上巻 昭和48年 上野晴朗著より

2020年1月20日 (月)

探し物の出てくる神様(十日市場神明石動神社)

 こんにちは。
 Photo_20200120144102 先日、十日市場の小池さんに製糸場のあった場所を教えてもらいに行ったときに、縄をかけて拝むと、探し物が出てくるという神様の存在を教えてもらいました。


3_20200120144101 4 その神様は、山梨県指定天然記念物の「十日市場の大ケヤキ」のある神明石動神社(地元では「正一位(しょういちい)さん」と呼ぶ)の境内にあります。

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神社を取り巻く石垣は、製糸場で働く工女たちが神聖な神社の敷地を安易に近道として通り抜けしないように囲ったものだとのこと。(小池さん談)

 


988_20200120144101 ← 河西製糸場が明治・大正時代にあった場所。

こちらの神社の西隣りにあった河西製糸場とヤマキ石川製糸場の場所を小池さんが実際に歩きながら案内してくださった時のこと。

先のとがったこの石造物の前にやってくると、「いまではここに、このありがたい神さんがあることなんて、誰ももう知らんようになってしまったなぁ」と残念そうに教えてくれたのです。

 昭和4年生まれの小池さんが子供の頃、無くし物が見つからなくて困っていると、おばあさんが「正一位さんに行って、探し物の神さんに藁縄をかけてお参りしておいで」と教えてくれたそうです。「昔はここに来ると、縄の輪っかがいつもこの先に何本もかかっていて、無くし物が見つからんで困っている人が、ここに探し物の神さんがおることを誰かに教えてもらって来ただなぁと思ったよ」と話してくれました。


Dsc_1466  常日頃から必要なものの行方がよくわからなくなる私ですが、加齢とともに最近とみにひどくなり、無くし物をしたということにさえ気が付かないほどの物忘れを伴う症状に見舞われることもあり、油断のならない生活を強いられているので、ひと時の心の安寧を得るためにも、この探し物の神様に改めてお参りに伺おうと考えている所存です。

 

ー後日さっそくー

←お参りする時の「縄の輪っか」って、こんな感じでいいのかしら。まずは二つの事と物について個人的にお願いしてきました。元のように戻ったり、帰ってくるといいなぁ。

2020年1月17日 (金)

どんど焼きのだんごはどう刺すか?

こんにちは。
Dsc_1607_20200117165501  小正月にどんど焼き巡りを楽しんだ〇博調査員は、各区の住民たちが持ってくるお団子(繭玉)にも着目し、大変興味をもって観察しました。仮に、どんど焼き初心者がはじめて参加するにあたって、「お団子はどのように棒に刺して持っていくか」ということが一番気になるのではないかと考えたからです。


 思い出すは、いまはむかし・・・、どんど焼きが盛んでない県外地域から嫁に来た私は、15年ほど前に、当時地域で行われていたどんど焼きに参加したいと幼い息子にせがまれ、繭玉(おだんご)づくりに取りかかったのですが、苦戦した思い出があります。お団子の作り方は調べればすぐに分かりましたので楽勝でした。しか~し、その後、これをどのように棒に刺して子供に持たせたらよいのかがわからなかったのです。近所で枝をもらえるような人脈もまだなかったので、ホームセンターに探しに行きましたが、どんど焼き用の枝なんてどこにも売っていませんでした。困ってしまって、細めの角材を買ってみたものの、そこに直列に2個ほどでっかい繭玉を刺したらたいへん不格好で、息子に「こんなものは持っていけないよ」と一蹴された敗北感が今も心の奥底にくすぶっています。

それはさておき・・・、令和最初の若草地区のどんど焼きおだんご(繭玉)コレクションを刺し方ごとに分類してご覧いただきましょう。

Dsc_1605 つりざお(直列)型:繭玉を通した針金の片方を棒にくくりつけたもの。火の中に投じ、焼きあがったところで吊り上げるタイプ。


 ←今年、藤田のどんど焼きで、30個もの繭玉を一直列につなげた人をみつけてびっくりしました。調査員がいままでに目撃した直列タイプの中ではまちがいなく最も長いものです。これを観られただけでも今年はさいさき良さそうな気がします。さらに、地面に引きずりそうな先っぽに近い5個くらいにはアルミホイルが巻いてあるところに細やかな配慮が感じられますね。

Dsc_1574 ←こちらは、よく見かける普通の長さのつりざお型。藤田で撮影。

Dsc_1525 Dsc_1480 ネックレス型:棒に繭玉を通した針金の両端をくくりつけ、ネックレスのように吊るすタイプ。Dsc_1543

←繭玉のピンクと白の配色が美しいですね。

Dsc_1577 ←こちらの白で統一されたものはまるで大粒の真珠のネックレスのようですわ。

Dsc_1576 Dsc_1532 Dsc_1481 伝統的な枝刺し型:果樹栽培の盛んな南アルプス市域では、冬場に剪定した桃の枝を使うことが多いです。

Dsc_1527 Dsc_1572_20200117165401 枝刺しエボリューション型 角材や棒の先がまるで枝分かれしているかのように、団子を刺すための針金を何本か装着しています。団子を刺した枝が焦げ落ちることもなく、美しさと機能性を備えたまさに進化型ですね。

Dsc_1614 はい、そしてついに出ました!フライパンごときたーーー!!!! もはや棒に刺さないバージョン! 〇博調査員が初めて目にした形態です。
 
 以上のように、今回の観察ではおおまかに4型式を観ることができたわけですが、旧来の枝刺し型が年々減っているように感じました。代わりに数年前から目立ってきたネックレス型やつりざお型に加えて、枝刺し型の進化系が機能面でだけでなく美しさも兼ね備えていて感動しました。さらには、フライパン繭玉という新型にもお目にかかることができて、たまげましたよ。大変興味深かったです。
 鬼に笑われそうですが、来年のどんど焼き取材でもひきつづき、おだんごを刺す棒の観察はやめられそうにありません。

 

 

2020年1月16日 (木)

若草地区どんど焼き巡り

こんにちは。
 Dsc_1617 今年は比較的あたたかな小正月を迎えましたね。1月11日から14日にかけて、市内各地ではさまざまな小正月行事が行われました。


 〇博調査員は、今年度の重点調査地域である若草地区のどんど焼きを巡ってきましたので、まずはダイジェスト版でご紹介したいと思います。

←令和2年1月12日藤田のどんど焼き


 若草地区では、どんど焼きに先立って、「オコヤ」とか「ホコラ」と呼ばれる構造物を竹と稲わらで作ります。そして、役目を終えた正月飾りや御札・ダルマや破魔矢などの縁起物・その他習字した紙等が、各家庭より持ち寄られ、その中に詰めて燃します。


 確認できた各区の実施状況をお伝えしますと、

Photo_20200116110801  加賀美:令和2年1月11日(土) 朝9時45分集合 10時点火 「ホコラ」は2メートル四方、高さは4メートルで、竹と稲わらを使い、方形屋根付きタイプを前日につくる。加賀美遠光公廟所前広場にて法善寺住職により点火。 

Photo_20200116110802 残念ながら今回の取材では、点火前の「ホコラ」の撮影に間に合わなかったのですが、昨年のものの画像を見せていただきました。

加賀美区でも以前は夜にどんど焼きを行っていましたが、2年ほど前に強風にあおられて火の粉が高く舞い上がったことがあり、周辺住宅への影響が危惧されたため、比較的風量の少ない朝方に行うことになったといいます。

 

Photo_20200116111001← 鏡中條北部(上手村):令和2年1月11日(土) 夜6時に点火 「オコヤ」は約2.5メートル四方のものを竹と稲わらで作り、屋根を付けない。

 鏡中條上手村にある各小路(こうじ)が、それぞれの道祖神前でお参りしてから集合して合同で行います。

Photo_20200116111002 場所は鏡中條集落と県道南アルプス・甲斐線との間にある耕地(字村東)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Photo_20200116110803 ←寺部: 令和2年1月12日(日) 夕方5時に点火 「オコヤ」は2m四方を竹と稲わらで作り、屋根がないタイプ。 当日の3時過ぎに30分ほどで組み上げる。

Photo_20200116110804  ←地域の道祖神さんにお参りしてから集合して行っています。

 

 

 

 

 

 

Dsc_1566  Dsc_1590藤田: 令和2年1月12日(日) 午前に材料集め(八幡神社の隣の竹藪から調達)、午後に組み上げ、夕方6時半に点火。 

Dsc_1564 「オコヤ」は2.5高さ3mを竹と稲わらで作る。方形屋根を竹で骨組みし、藁ではなく、竹の葉(笹)を上にかぶせている。良く燃えるように内部は3階建てになっている。15人ほどで1時間で組み上げる。

Dsc_1600←場所は字村東にある藤田区有地ですが、この場所はリニア中央新幹線予定ルート上にあるので、今後開催場所が変更になる可能性があります。

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その他、聞き取り調査や状況判断のみの情報を記すと、

浅原: 令和2年1月12日(日) 夕方6時半に点火(午前中に藤田の八幡神社竹藪から調達) ここは立方体のオコヤではなく、ティピーのような左義長型のオコヤだとのこと。七面山のそばの空き地で行うそうです。(当日取材できず、聞き取り調査のみ)

下今井: 令和2年1月14日(火) 夕方6時ごろ点火 場所は下今井1085付近の段丘下。 6時過ぎに通りがかると、どんど焼きの火と、繭玉持った人々を見ました。オコヤは無いようでした。

Dsc_1572  藤田や鏡中條などは、以上に載せた「オコヤ」の情報以外にも、住民たちが焼くために持ってきたお団子のトレンドなども観察しましたので、別記事でご紹介する予定です。


 本年もどうぞよろしくお願いいたします。

2019年11月27日 (水)

寺部の「西きや」さんでお惣菜を買う

こんにちは。
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  巻きずしが有名な若草地区寺部の「西きや」さんは、現在の店主の小野タカヨシさんで3代目だそうです。

←「西きや」さんの店構えと入口

東北地方へ出向いて衣類などの行商をしていた1代目が昭和22年に店を開き、昭和46年までは道を挟んだすぐ前に鏡中條小学校があったので、食料品や日用品以外にも文房具などの学用品も売っていたようです。

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←ちょうど午後3時頃に伺ったので、夕方にやってくるお客さんに向けて、新鮮なお刺身や出来上がったばかりのお惣菜の数々が次々と並べられている途中でした。

現在も、仕出しの他、昼時や夕方に豊富に並べられる美味しいお惣菜を目当てに、近隣住民や仕事帰りの主婦たちでにぎわいます。

 

12393-14  昭和50年代終わりごろから、大手総合スーパーやショッピングセンターなどが進出し、毎日のお惣菜を近所の個人商店へ歩いて買いに行くという経験をしたことのない世代も増えてきました。さらに、ネットスーパーを利用して買物をするという人もいたり、お買い物状況も昭和の頃とはかなり変化しています。

12393-12 ←昭和40年生まれのタカヨシさんがおっしゃるには、「(鏡)中條銀座」と呼ばれた長遠寺から北へ向かう通りには、かつて呑み屋さんも何軒かあったし、和菓子屋さんや映画館や射的屋さんもあったそうです。

その中で、昭和20年代からずっと変わらず営業を続けている「西きや」さんのような商店の存在は、大変ありがたく、ご主人から地域のお買い物史を聞く事ができました。また、「西きや」は、ここに買い物に訪れる人以外にも、いつもその店前を行き来してきた地域の人々にとって共通に認識されてきた昭和時代から続く思い出の景観にもなっているはずです。

 

288 ←近所で3年ほど前まで営業していた和菓子屋の「昇仲軒」さんは、建物だけが残されています。
16 ←寺部では、前にもご紹介した「田中青果」さんも、宿通りで元気に営業中。

Dsc_0672 Dsc_0671  ←先日、こちらのお店特製の巻きずしをお昼に買って食べました。まろやかな酢加減とシンプルな具材との相性、さらに、ほわっと柔らかな巻き加減が絶妙でした。なるほど評判通り、口に含んだ時に何とも言えない口福感をもたらしてくれます。あ~、美味しかった!