若草地区

2024年2月15日 (木)

昭和20年代の十日市と比べてみよう

こんにちは。
 山梨県南アルプス市十日市場で、2月10日を中心に開催されてきた十日市は、戦国時代にはすでに行われていた、歴史ある市です。十日市場にある安養寺に安置された鼻採地蔵さんの縁日に開かれてきました。縁起物のだるまや、臼や杵などの木工品、ざるや味噌漉しなどの竹細工、様々な食べ物の露店が並び、甲府盆地最大級のお祭りといわれています。かつては、『甲州に春を告げ、売っていないものは猫の卵と馬の角』といわれたくらい、数多くの露店が並びました。
Kimg1948 Kimg1949    ←十日市場安養寺の入り口(2024年2月10日撮影)

 今回は、収蔵資料の中から。昭和20年代に撮影された十日市を愉しんだ人々の様子をご紹介したいと思います。
7201 ←昭和20年代の十日市の様子と縁起物を売る露店 (西野芦澤家資料より 南アルプス市文化財課蔵)
こちらの画像では、縁起物が多数ぶら下がった巨大なビラビラかんざしのような飾り物が写っていますね。とても素敵なのですが、現在ではあまり見かけないような気がします。
Kimg1952 ←2024年2月10日十日市で売られていた飾り物
Kimg1954 Kimg1937 ←今も昔も十日市で売られる縁起物のダルマ。(2024年2月10日撮影)
Photo_20240215161401 ←かつては綿と繭の豊産を願って白いダルマがよく売れたという昭和40年代の十日市「やまなしの民俗」上巻 昭和48年 上野晴朗著より

7204 ←昭和20年代の十日市の様子(西野芦澤家資料より南アルプス市文化財課蔵) 
こちらの写真では、人混みの中、はしごを担いで歩いている男性がいます。かつての十日市では、山方に住んでいる人々が造った木工品を買うのを目的に来る人も多く、現在でも餅を搗く臼と杵は売られているのは目にします。しかし木製から金属製が主になったはしご等の多くの道具は販売されなくなったので見かけることもなくなりました。販売される木工品の種類が減っているのも現在の状況ですね。
Kimg1941 Kimg1945 ←2024年2月10日十日市で賑わう人々

7202_20240215161901 ←昭和20年代の十日市から歩いて家に帰る人々(西野芦澤家資料より 南アルプス市文化財課蔵) 
 昭和20年代のモノクロの写真にうつる方々は、お住まいだった白根地区西野から歩いて若草地区で行われる十日市に行ったようです。愉しそうに歩く人々の後ろには市之瀬台地がしっかり見えます。何も買わなかったのかもしれませんが、楽しかった十日市からの帰り道の一枚でしょう。みな洋服を着ているのに足元は草履か下駄なのが面白いですね。また、道は一面の桑畑の中を通っていて、養蚕がまだまだ盛んであった頃であるのを示しています。スプリンクラー網が南アルプス市に張り巡らされるのは昭和40年代初めですから、この写真では、果樹の姿は見えません。
Dsc_0047   ←コロナ自粛前(2020年2月11日撮影)
 現在でも人々は車をちょっと離れた駐車場に停めて歩いて十日市に向かうわけですが、その道の両脇には、桑畑ではなくて果樹園地が拡がっています。十日市に向かう人々のウキウキした気持ちは今も昔も変わらないのに、その背景には時代の変化がちゃんと写し出されていて興味深いです。

Dsc_0050 ←2024年2月10日十日市で賑わう人々

2023年11月22日 (水)

信号機上を駆ける甲斐の黒駒

 こんにちは。
今日は、〇博調査員のお気に入りの信号をご紹介してもいいですか?

2_20231122154901 ←開国橋西交差点の信号(令和5年11月21日撮影)
釜無川右岸沿いの道を通勤路にしている〇博調査員にとって、毎日心癒されるステキな通過ポイントが2カ所あります。なんと、カッコいいお馬さんがデザインされた信号機があるんですよ!
 まず、1ヶ所目は南アルプス市今諏訪にある開国橋西交差点にある信号機です。

3_20231122154901 4_20231122154901←開国橋西交差点にある、「御勅使川扇状地を疾走する甲斐の黒駒」デザインの信号機(令和5年11月21日撮影)


ほら、信号機の上をお馬さんが駆けているでしょ。
 設置者に確認したわけではないですが、絶対にこれ、「甲斐の黒駒」ちゃんだと思うんですよね。
 古代甲斐国は、「甲斐の黒駒」の名で知られた名馬の産地でした。特に南アルプス山麓の御勅使川扇状地では、鎌倉時代に『八田牧』と呼ばれた牧場があったことが知られています。さらに、近年の考古学的調査からは、平安時代にさかのぼる牛馬生産の存在が示されています。まさに文化的にピッタリの場所にデザインされたクールな信号機なのです!


 では、市内若草地区の浅原橋西交差点にあるもう1ヶ所のお馬さん信号機をみてください。

Photo_20231122155101 Photo_20231122155102←浅原橋西交差点にある、「御勅使川扇状地に放牧される甲斐の黒駒の親子?」デザインの信号機(令和5年11月21日撮影)



よーく見ると、ほらぁ~、仔馬ちゃんがうまれてますよ~!「チュッ」てしてるみたいで可愛いですね♡ 八田牧で放牧されている親子でしょうか?
通る機会があったら、ちょっと気にしてみてくださいな。

 ちなみに、南アルプス市ふるさと文化伝承会で開催中のテーマ展『南アルプス山麓の古代牧』は令和5年12月20日(水)までの会期でございまーす。

Dsc_0522←令和5年12月20日(水)まで南アルプス市ふるさと文化伝承館で開催のテーマ展『南アルプス山麓の古代牧』


 展示をご覧にいらっしゃる行き帰りに、どうぞこのお馬さんの信号機を探してみて下さい。
古代には、この地に甲斐の黒駒たちが雄大な山々をバックに駆けまわる景観があったことを想像していただけたなら幸いです。

 ところで、同じ釜無川に架かっている市内八田地区にある信玄橋西交差点の信号はこんな感じです。残念ながらお馬さんはいないですから、お間違えなく~。

Photo_20231122155201 ←信玄橋西交差点の信号機にはお馬さんはいませんよ~(平成30年12月27日撮影)

2022年10月 3日 (月)

柿の野売り籠

こんにちは。
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  南アルプス市ふるさと文化伝承館では、テーマ展「にしごおり果物のキセキ」が開催中です。

開期は令和4年12月21日(水)までです。

展示では、南アルプス市の基幹産業の一つである果樹産業が、江戸時代に盛んに行われていた柿の野売りにはじまり、明治以降、どのような歩みを持って、独創的な発展を遂げたかを振り返ります。


さて、このテーマ展が始まって2か月が経ちました。

展示を観に来てくださった地元の方々から、資料を前に様々な聴き取りができ、オーラルヒストリーの採取や関連資料のさらなる収集を行うことができています。

 

 


  今回ご紹介する資料、「柿の野売り籠」もその一つです。

「柿の野売り籠」は南アルプス市の果物産業史における重要なキーアイテムなのですが、テーマ展開催時には文化財課に収蔵がなく、画像をもとに地域の竹細工アーティスト(伝承館スタッフ)に制作を依頼した参考品を展示していました。

P1130398←野売り籠のミニチュア再現品(伝承館スタッフ作成)

Img20180810_13302518←柿の野売り籠の画像(西野功刀幹浩家所蔵)
 9月に入り、市内櫛形地区十五所のお宅の蔵に、柿の野売り籠一対が素晴らしい状態で保管されていることをお知らせいただき、寄贈いただきました。

Img_0826←令和4年9月に寄贈された「柿の野売り籠」のクリーニング作業
 大きさは、口径41cm・底径45cm・高さ43cmで、行商人は、天秤棒で二つのかごを同時に肩に担いで売り歩きました。とてもしっかりとした丈夫な作りで、底部は平ら、籠の中は付着した柿渋で真っ黒です。

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 ←「柿 野売り籠(かき のうりかご)」 
 にしごおりの人々が、渋抜きした柿を入れ、担いで売り歩いた際に使用した籠。籠の内部は、柿の渋が染みて黒くなっている。
 大正時代のはじめまでは、秋になると、渋抜きした柿を籠に入れて担いで、釜無川や笛吹川を渡って行商に出た。そして、稲刈りをしているところに行って、柿を売ったり、籾と交換することで、生活を支えた。

←展示された柿の野売り籠((天秤棒なし)十五所澤登家より寄贈・南アルプス市文化財課所蔵

 

 

 その後、市内白根地区にお住まいの小野さん(昭和10年代生まれ)から、大正時代までに地域で行われていた、一般的な柿渋の抜き方や、野売りに使用された柿の種類についてなど教えていただきました。

 『野売り籠に入れて売り歩いた柿は小粒の渋柿だったので、渋抜きをしなければならなかった。味噌桶に柿を八分目か九分目位きれいに並べて詰めるのと並行して、42~45℃の大量の湯を風呂樽を使って沸かした。
そして、柿を並べた味噌桶の中に湯を一気にかぶるくらいに入れ、上に木の蓋をしてから蓋の上や周りを菰(こも)や布団で覆って保温すると、1日か2日間で渋が抜けて、柔らかすぎずにちょうどよい舌触りの小粒で甘い柿になった。(西野小野捷夫氏談)

002img20220926_11444294←江戸時代から大正初期までのにしごおりの行商人が野売りした柿の品種(西野小野捷夫氏撮影)
 『かつて、西郡の行商人が売った柿は、みな小ぶりの渋柿品種で、「イチロウ」「ミズガキ」「イチカワビラ」「カツヘイ」などだった。小さな子供が手に持って食べるおやつにちょうど良く、甲州百目のような大きな柿でも渋を抜いて作ることはできたが、小さな渋柿を加工したものがよく売れた。(西野小野捷夫氏談)とのことです。
 勝平(カツヘイ)という品種は白根地区西野の芦澤家に原木(現在は無い)があった現在の南アルプス市固有の品種です。
 大正時代に入り、果実の出荷組合が結成されたり、甲府に青果市場が整備されてくると、籠を担いだ行商人による野売りは急速に無くなりました。そして、行商用の100~150gの小さな柿の栽培も衰退しました。
 現在の南アルプス市で栽培されている加工用の渋柿は刀根早生(トネワセ)、平核無柿(ヒラタネナシカキ)、甲州百目(コウシュウヒャクメ)、大和百目(ヤマトヒャクメ)など比較的大きな柿が主流ですから、野売りという販売形態の終焉とともに、商品となる柿の大きさや品種も大きく変化して現在に至る点は興味深いですね。

 西郡果物の軌跡は「柿の野売り」による行商活動が出発点です。
古来より、砂、砂利、礫、粘土に覆われたにしごおりの原七郷(桃園・沢登・十五所・上今井・吉田・西野・在家塚・飯野・上八田・百々・小笠原)では、その恵まれない自然条件下によるギリギリの土地利用のなかで、最大限の効果を挙げようと努力する人々の姿がありました。
柿などの作物を加工したり、売る時期をずらすなどして、商品価値を高め、農閑期に村外まで売り歩く行商によって、村の生産力以上の人口を維持してきたのです。
南アルプス市域で最も古くから盛んに作られた果物は、この行商用商品として加工するための柿でした。
 行商の商品として「にしごおり果物」を生産したことは、明治以降に当地で勃興するフルーツ産業に、様々なプラス作用を及ぼしました。商機があればどこにでも出かけていく、風の如く機敏なフットワークと開拓心によって磨かれた、にしごおり行商人たちの経済観念の強さは、市場の動向にもまた機敏な果物栽培を初期段階から実現し、現在の南アルプス市における独創的なフルーツ産業の在り方へとつながっています。

P1130395 ←柿渋が染みて内部が真っ黒になっている展示中の野売り籠(十五所澤登家より寄贈・南アルプス市文化財課所蔵)

 ふるさと文化伝承館でのテーマ展示をきっかけとしてつながった所有者様から資料調査や寄贈の打診をいただいたことで、今回も、成長する展示が実現しています。地域博物館での身近な歴史をテーマ展示する意義を、実感する毎日です。

2022年8月24日 (水)

野牛島要助さんが日記に書いた天保騒動

 こんにちは。
 今日は令和8月24日、いまから186年前の天保7年(1836年)、山梨県では天保騒動という大規模な騒乱のさ中で、ちょうど現在の南アルプス市域が被害をこうむった日です。
 天保騒動は、江戸時代後期の天保7年(1836)8月17日に郡内白野村での百姓一揆からはじまった騒動です。しかし、山梨郡熊野堂村の米穀商打ちこわしという当初の目的を果たした郡内の百姓たちが帰村した8月22日頃になると、騒動に乗じて参加した無宿人らが暴徒化して、大規模な強盗集団となり、国中(甲府盆地内部の村々)を暴れまわって、甲州の人々を恐怖に陥れました。

※ 画像はタップすると少し拡大します。

Photo_20220824114801〇博で整理している八田地区野牛島中島家文書の中に、要助さんという当時名主を務めた人物の日記帳(「去申用気帳」)があります。

002img20220824_11411518 002img20220824_11413166  ←この資料は文政7年暮れから天保9年4月までの期間のことが記されており、興味深いので、日付ごとに冒頭文章のインデックスを付けて見やすい様にしてみたり、天気・災害、米などの値段、要助家族、周辺情報、祭り民俗、不思議体験と分類して、内容を整理して読み返しています。

 今日はその中から天保騒動についての記録をご紹介しておきたいと思います。

68 天保7年8月17日~24日
『 一 八月十七日初め郡内白野村与五兵衛野田尻嘉助猿橋武七右三人之者共騒動大□郡内村々之者乱暴人数凡七百人斗ニ而笹尾峠(笹子峠)ニ登りのろしを上げ時こえ上げ谷村ゟ酒屋穀屋油屋其外売買家打潰し先勝沼宿かぎ屋ハこんや質屋穀屋致候家ニせんたい諸賄致潰し不申候』
69  
『同廿二日騒動成等々力村亀屋熊野堂村奥ゟ石和宿沢田屋外ニ宿中火をかけ壱町田中酒屋数多く潰し御陣屋おし入人不残拂 山崎へ押寄甲府勤番頭弐タ頭山崎口へ出張与力同心百姓番非人えたそのひ建打くずし城内へ入』
 70『八月廿三日込一条町潰し本町へ入近習町和泉や作右衛門を潰し家道り諸帳面金きぬ糸衣類宿へ出し火かけもやし申候其外壱弐軒潰し猥(緑)町竹藤潰し其外町中二文字屋若松屋十一屋 大黒屋せんたいを出し酒肴飯にしめ差出し故か外ハ潰さず新町松田屋こもとや 嶋だや かじや 右四軒潰し龍王へ差向丹沢ニ而諸賄飯酒せんたい 東へ富竹新田迄出し北南へ出ス龍王村中米壱俵づつ残り候籾三斗弐升ニ而売出可申候と申置候 』

71  『同廿三日晩龍王新町半六質屋伊左衛門潰し下今井穂阪酒屋と伊左衛門を潰し韮崎宿ヘ登り嶋や塩惣伊勢や外ニ拾七軒潰し是ゟ南手之方印(す) 壱と手西八幡村
同廿三日晩勘蔵同別家西清五郎右三軒打潰し火をかけ下中郡河東中島成島花輪西東乙黒西条河東大田和逸迄市川村々ニ而壱村ニ付四五軒づつ潰し申候 』

72 『 同廿四日鰍沢ゟ宿通青柳十日市場長沢荊沢鮎沢小笠原鰍沢文蔵 西(最)勝寺酒屋小笠原ニ而四五軒潰し人数は殊外有申候 騒動人斗り
 廿四日飯野長右衛門桃園村伊助飯野平助百々村幸左衛門西ノ油屋幸蔵右五人家戸障子天ん上なく茶がま衣類書物等不残潰し家も建皆致し御損じ潰され申候油醤油穀不残こぼされ申候百々村人数弐人手負三人西郡之手ハ是ニ而留ル 』

73  『西郡武川逸見筋西通台ケ原手負切ころし 十四五人同村酒潰し教来石村九郎次潰し同中之産ニ而古渕沢(小淵沢)へ甲府寄力同心かけ付騒動人九拾三人取 諏訪御城内ゟ御出張 野(西)山が原(台が原)出陣有江東原へ御出陣ゟ甲州へ御出張人数御□所 弐拾人取手百六拾人やり持弐百人ニ而御向龍王村ニ而御陣取御座候其外ハ国人足遣此取人七拾人余召とる』

77 天保7年8月23日~25日
『一 八月廿三日乱防共甲府をあらし弐(ふ)た手に別れ壱手は西八幡へうつり後一と手は龍王村ならや西古手や西丹沢乱防之上衣類を盗夫ゟ信州や中下今井村保阪や乱防之上毀し吉田村幸左衛門乱防し夫より

 廿四日韮崎宿塩や惣八伊勢や嶋や布や田助其外拾七軒乱防之上衣類等焼拂夫ゟ逸見筋教来石九郎次を乱防之上強盗いたし夫ゟ

  同廿五日産ケ原村酒やこわし夫より小淵沢村乱防し 此節一国乱防ニ付御嶽山ゟ究竟(屈強)之御師弐拾人甲府御陣や願出右乱防御取静御補助仕度旨申出国中へ入渡り右賊盗共を搦捕既ニ逸見筋小淵沢ニ而ハ賊人六拾人余も生捕候風聞候』

78  『  其外此逸ニ而も六科水防所ニ而も壱人搦捕髻(もとどり)ニ疵を負わせ 当村十兵衛前より池田に下りそれより早く甲府御役所差出候趣御座候
右賊盗衣類は小紋股引島縮緬之小袖弐つ着し 其上皮羽織帯刀ニ而金子弐三両持ち居候と噺しきく

 

78-2  天保騒動の記録は、山梨県史に網羅されていますので読み比べてみると、暴徒集団の動向等の要助さんの記述は、それらと矛盾ないので、野牛島の名主要助が当時集めた最新情報はとても正確なものだったと言えると思います。


 目新しい論点はないのかもしれませんが、要助さんは、自分の住む西郡(にしごおり)内の被害状況を詳しく聴き取りし、近所の六科で暴徒集団の一味を捕らえた状況やその服装、持ち物まで、まるで現場を見て来たかのように細かく記しており、悪党どもが大暴れして怖くて大変だった、天保騒動の状況がよく伝わってきます。


←それにしても、要助さんの近所の、六科の水防所で捕らえられた悪党が「小紋の股引きに、縞縮緬の小袖を2枚も着て、その上に、皮の羽織を着て、刀を持っていた」なんて! 古い映画で見たような、いかにも悪党らしい派手な装いだったんですね!


 九月一日の記述には、天保騒動を取り鎮めるために駿州沼津城主水野出羽守が出張してきたという情報がある中、 当時、野牛島村惣代であった要助さんは、同じ西郡の曲輪田新田村惣代・徳兵衛とともに、天保7年九月三日に、「天保騒動による乱暴狼藉を江戸表へご注進のため、出府した」と日記にあります。


九月二十五日には石和宿に江戸より乱暴取締役が到着したことをその人物たちと役職名をそれぞれ詳細に記しています。


 電話もカメラも郵便もない時代に、当時の村名主レベルの人々の情報収集能力にただ感服するばかりです。

2022年3月 4日 (金)

地方病と溝渠のコンクリート化

こんにちは。
きょうは、前回に引き続き、地方病に関する資料をご紹介します。今日は、仇敵ミヤイリガイとの攻防編です。
(※画像はすべてタップすると少し拡大します)
6_20220304120301 ←「仇敵 宮入貝とはどんなものか?」『恐ろしい地方病を一刻も早くなくすために』ポスターより部分(南アルプス市文化財課所蔵) 
 山梨で明治20年頃から「地方病」と呼ばれはじめた病は、日本住血吸虫症というのが正式名で、お腹に水がたまり死に至る恐ろしい病気でした。この地方病との闘いが終息したと山梨県が宣言したのは、平成8年のことです。この病を克服する作戦が本格的にはじまって、100年以上もかかったのです。
2_20220304120301 ←「☆地方病はどうしてうつるでしよう?」『恐ろしい地方病を一刻も早くなくすために』ポスターより部分(南アルプス市文化財課所蔵) 
 じつは、大正の初めころには、「地方病をやっつけるには、日本住血吸虫をその体内で生育・媒介するミヤイリガイを撲滅することが最も良い方策である」ということが判明していました。しかし、生息地域の広い山梨県では、戦後になってもなかなか駆除が進みませんでした。
 ミヤイリガイを駆除するために、様々な刹貝方法が試みられたのは大正時代初期からです。米粒のように小さなミヤイリガイを拾い集めて焼くことが行われたり、刹貝剤となる石灰を撒いたりしました。
7_20220304120301 ←「☆地方病を退治する最も良い方法は?」「現在実施している予防対策は?」『恐ろしい地方病を一刻も早くなくすために』(昭和30年代)ポスターより部分(南アルプス市文化財課所蔵) 
 戦後には、火炎焼却機で貝を焼き殺したり、「ピ-シーピー」と呼ばれた薬剤を使って、溝やあぜ、田んぼの中のミヤイリガイを殺す事業が積極的に行われました。「ピーシーピー」というのは、「ペンタクロロフェノールナトリウム」という名の薬剤のことで、昭和20年代終わり頃から石灰に代わり刹貝剤として使用されましたが、魚毒性が問題となり、昭和48年には使用されなくなっています。
Photo_20220304120601 ←「宮入貝殺貝作業に関する注意事項」山梨県厚生労働部予防課(昭和期年不明)
 その後も、様々な薬剤散布を試行したミヤイリガイの刹貝ですが、他県発生地に比べ有病地の広い山梨県では撲滅には至りません。
 結局、ミヤイリガイ対策として最も効果を上げたのは、撲滅できなくとも個体数を減らすために、生息に不向きな環境をつくることでした。有病地にコンクリートで塗り固めた地方病予防溝渠を張り巡らす事業を行ったのです。
 昭和24年から南アルプス市(白根地区飯野)で試験的に始まった用水路のコンクリート化は、ミヤイリガイの駆除に有効でした。溝をコンクリート化して直線化すると水の流れが速くなり、流れの穏やかな場所に生息するミヤイリガイを減らすことができました。
Photo_20220304120301 ←「地方病予防溝渠標準断面図 山梨県(昭和36年)」(南アルプス市文化財課所蔵)
  しかし、この、水路コンクリート化事業は、多額の財源も必要だったこと等から、政治家たちの力も得なければ実現できませんでした。
002img20200828_14312383 ←「地方病とのたたかい 1977」山梨地方病撲滅協力会より小野徹氏紹介部分
 なかでも、西郡地域の地方病治療の拠点でもあった若草地区鏡中條の小野洗心堂医院の小野徹氏は、医師として駆虫薬スチブナールによる地方病患者の治療にあたり、県医師会長・山梨地方病撲滅協力会初代会長等を歴任する傍ら、昭和24年から29年までは鏡中條村長の職にも就くなどして、地方病撲滅事業を、市町村・県・政府に重点施策とするよう説き、溝のコンクリート化実現を強力に推し進めました。
「地方病の撲滅は中間宿主のミヤイリガイ対策であること=そのために大規模な溝渠コンクリート化土木事業が必要である」という、この施策を、患者の苦しみを直に知る医師でもある立場からの発言として、政治に訴え、実現させた鏡中條洗心堂医院の小野徹氏は、地方病撲滅に非常に大きな功績を残した西郡の先人といえます。
1172-3_20220304120301 1172-2_20220304120301 ←甲西地区東南湖の地方病予防溝渠とそのプレート
 その結果、昭和31年にはコンクリート化事業が法制化され、国庫補助での事業が本格化し、昭和60年頃迄に累計100億円を突破する莫大な費用がかけられました。
9 昭和54年以降には新規患者は発見されなくなっており、平成8年の終息宣言への運びとなり、コンクリート化事業は終了しました。

地方病予防溝渠の県内総延長は、すごいことに、2000㎞にも及びます。 東京から石垣島くらいまでの距離らしいです。WoW!

←米粒みたいに小さいミヤイリガイの図『恐ろしい地方病を一刻も早くなくすために』(昭和30年代)ポスターより部分(南アルプス市文化財課所蔵) 

2022年2月28日 (月)

地方病とたたかうポスター

こんにちは。
きょうは、南アルプス市文化財課で昨年収蔵した、「地方病とたたかうポスター」をご覧にいただきたいと思います。

Photo_20220228144001 ←昭和30年代ころ 「『恐ろしい地方病を一刻も早くなくすために』ポスター(南アルプス市文化財課所蔵)
 山梨で明治20年頃から「地方病」と呼ばれはじめた病は、日本住血吸虫症というのが正式名で、お腹に水がたまり死に至る恐ろしい病気でした。この地方病との闘いが終息したと山梨県が宣言したのは、平成8年のことです。


山梨県が製作したこの地方病予防広報・啓発ポスターを見出し部分から読んでみますと、
『三百余年前から蝕ばまれ悩まされ続けて来た地方病 今こそ完全撲滅の絶好の機会!!
県政の重大施策としてとりあげてここに三年、有病地の指定解除、宮入貝の減少、患者の著減等々成果は上々である。 この好期をおいていつの世に根絶することができよう、みんなで力を併せて一挙に駆逐するよう今一段の努力をいたしましょう。』とあります。

このポスターには製作年が記載されていないのですが、見出しの文面と、「現在実施している予防対策」の項にPCBという薬剤によるミヤイリガイの刹貝と、コンクリート溝梁化工事に年間一億のお金をかけている」といった文言があること、当該資料の含まれる資料群全体の年代構成からかんがみて、この地方病対策ポスターは、だいたい昭和30年代後半に作られたものではないかと考えています。

3_20220228144001 ←上記ポスターより「☆罹るとどんな影響があるか?」の項
 順にみていくと、当時の山梨県では、まだ地方病に多くの人が県内の有病地で罹患していて、その検査方法や罹るとどんな症状が出るのか?どうして罹患するのか?罹患しないようにするにはどうしたらよいか? 治療法はどんなものか?など、地方病のすべてが解るように構成されています。
  
2_20220228144001 ←上記ポスターより「☆地方病はどうしてうつるでしよう?」の項:地方病の原因となる日本住血吸虫のライフサイクルを図示したもの。
 こわくない感じで、親しみやすいゆるめのイラストですが、宮入貝の体の中で、日本住血吸虫がミラジウムからセルカリアに成長して、人間の体の中に侵入する、というメカニズムがよくわかります。地方病と検索すると必ず出てくるあの有名な『日本住血吸虫の生活史』の図とはおもむきが違って、またよい図ですよね!
6_20220228144001 ←上記ポスターより「仇敵、宮入貝とはどんなものか?」「セルカリア(人間の皮フから侵入する)とはどんなものか?」
 宮入博士がミヤイリガイを発見し、さらに、「ミラジウムから人間の体に入り込むことのできるセルカリアへの変化は、ミヤイリガイの体中で起こる」という仕組みを解き明かせなかったら、日本住血吸虫病を予防したり、根絶することもできなかったんです。日本の感染症研究者たちの功績に感謝せずにはいられません。戦国時代より記録のある山梨の奇病、「地方病」が、このセルカリアが体に侵入することから起こるなんて、研究者無くして誰が想像できたでしょう。

 地方病の仕組みが完全に解明されていた昭和時代ですが、撲滅への道は長く厳しいものでした。結局昭和時代には、完全に打ち勝つことができませんでした。終息宣言という形での一応の勝ち名乗りを上げることができたのは、平成時代になってからでした。
それまでの間、恐ろしい地方病を一刻も早くなくすために、山梨の医師や県の予防課の職員たちは、多くの症例や実証実験、観察を積み重ねて、地方病撲滅の手立てを尽くしていったのです。

7_20220228144001 ←上記ポスターより「☆地方病を退治する最も良い方法は?」「現在実施している予防対策は?」の項

 なかでも、予防対策として最も効力を発揮した、有病地にある水路をすべてコンクリート化する、という途方もない事業は、多額の財源も必要だったこと等から、政治家たちの力も得なければ実現できませんでした。
 次回は、恐ろしい地方病をなくすためにおこなった地方病予防溝渠事業の資料をご紹介する予定です。

2021年11月 5日 (金)

防火水槽を跨ぐ清水の火の見櫓

こんにちは。最近、甲西地区をよく踏査している〇博調査員です。
304-2 304-3_20211105134401先日、甲西地区清水で、存在感のある火の見櫓に出会いました。

三差路の中心に、すっくと立つその姿に思わず惚れてしまったのでご紹介します。


304-4 304-3 こちらの火の見櫓はなんと蓋のない鯉の泳ぐ防火水槽を跨いでもいる!そして、櫓の下にも半鐘が設置されている!

304-6 少し離れたところから見てもカッコいいのですが、近づいてみても見どころ満載で、〇博調査員のテンションは上がりまくりです。


 日本全国のどこにでも存在する火の見櫓(ひのみやぐら)は、各地域の住民たち自らが建てた防災施設の一つです。

江戸時代以前の古くから見張り台としての目的を持ち、火災などの災害の早期発見をし、その上部に備え付けられた鐘を鳴らすことで地域に差し迫った危険を知らせたり、消防団員を招集するのに使用されてきました。

地域の持ち物として、コミュニティの中心場にあることの多い火の見櫓は、まち歩きの際の重要なチェックポイントであるとともに、集落を象徴する景観の中に溶け込み一体化していることが多いです。

 

←以上5点の画像は、甲西地区清水の火の見櫓(防火水槽上)

 


 〇博調査員が最近撮影した市内の火の見櫓画像コレクションから、いくつか貼っておきます。

おそらく昭和20~40年代に建てられ使用されてきた火の見櫓がほとんどだと思います。

私と同じように火の見櫓をみてテンション上がる人が、もしいらしたら嬉しいです。

9211 ←櫛形地区上今井の火の見櫓
1011 ←若草地区下今井の消防信号板
Photo_20211105135301 ←若草地区十日市場の火の見櫓
34291 34291_20211105135301 ←若草地区加賀美の火の見櫓
243 ←甲西地区和泉の火の見櫓
Photo_20211105135201 ←甲西地区鮎沢の火の見櫓
1252-2 ←甲西地区田島の火の見櫓
4385 ←甲西地区西南湖の火の見櫓



 

 

 

 

 

2021年9月27日 (月)

道子さん(100歳)の語り継ぐ太郎さんの戦争体験

会期が令和3年11月17日まで延長した「戦争と にしごおりの人々」展を開催中の南アルプス市ふるさと文化伝承館から、こんにちは。Dsc_0215  去る9月23日のお彼岸の日、現在開催中の企画展の中でご紹介させていただいている故志村太郎氏の戦争関連資料をご覧になりに、志村家の方々がご来館くださいました。


 この度の企画展で志村太郎氏の資料を活用させていただくにあたり、〇博調査員は、展示作業の途中に何度も、素晴らしい資料を扱えることの幸せを噛みしめ、志村太郎氏の妻の道子さんに対して、感謝の気持ちで胸がいっぱいになりました。

Dsc_0214 そのようなわけで、企画展が7月からはじまってから、一度は道子さんに観てもらえたらうれしいなぁと願っていたので、今日のこの日はほんとうに感激しました。

P9230544  戦時に飛行場建設技手としてアリューシャン列島のアッツ島とキスカ島に派遣された志村太郎氏(昭和59年逝去)の資料は、2016年11月に妻の道子さんより、南アルプス市教育委員会文化財課にご寄贈いただいたものです。
 50点以上にも及ぶこれらの資料は、奥様が76年以上にわたって丁寧にお手入れされてきたことがよくわかる大変すばらしいコンディションでした。
 そして何よりも、一つ一つの資料が語る戦争体験の明確なことが、出色の資料群です。これは、太郎氏が奥様の道子さんに寝物語に語った戦争の記憶(戦争体験のオーラルヒストリー)を色濃く纏っているからです。一つ一つの資料の来歴(どこでいつどのように使用したか?またその時の気持ち)が太郎氏から〇博調査員が直接譲り受けたかのように、確かなのです。

Photo_20210927150501  ←太郎氏の死後、道子さんは毎年、遺品の虫干しをして手入れを行うとともに、そのオーラルヒストリーを子供ら家族に語り継いでこられました。だからこそ、戦後76年も経過した太郎氏の資料が持つ戦争体験を、私たちは臨場感を持つ言霊で受け取ることができたのです。それらの太郎さんの言葉は、そのまま資料解説として展示しております。


さらに、道子さんが語る志村太郎氏のオーラルヒストリーの一部は、今回の来館時に、許可を得て動画として記録させていただきました。


 道子さんによると、太郎氏は生前中、近所の小学校から戦争の悲惨さを教えてほしいと頼まれても、「あまりにも壮絶な戦場体験を自ら話すことはどうしてもできない」と断っていたそうです。でも、奥様にだけでも伝えてくれていてよかった!


P9230557  そして、100歳の道子さんが、南アルプス市ふるさと○○博物館に太郎さんの資料とオーラルヒストリーを引き継いでくださったことにお礼を申し上げるとともに、この奇跡に感謝しています。このコロナ禍において、細心の準備と注意を払いながら、当館企画展に道子さんをお連れくださった志村家の皆様にも心より感謝申します。

 当日は〇博調査員が100歳の道子さんに、さらなるオーラルヒストリーを伺うことのできたと申しましたが、今回、道子さんとご長男夫妻と一緒に展示を観ていく中で、さらに新たな事実や視点が確認できました。
それを以下に箇条書きにするとこのとおりです。〇博調査員の備忘メモとして記しておくことにします。

 

 

002img20210927_16312097  アッツ島とキスカ島派遣時について


・太郎氏はアッツ島に派遣された後、より米国に近い位置にあるキスカ島へ移動となり、一度甲府に戻ってからキスカに赴任したとのこと。 移動の基準は、「妻帯者はアッツ島へ、単身者はより危険なキスカ島へ」ということだったと太郎氏からきいた。しかし、結果としては、アッツ島が逆に玉砕し、キスカ島が脱出に成功した。

3936201615-3_20210927150401←・伝単「桐一葉」を米軍は飛行機から、毎日、物凄くたくさんの枚数をばらまいていた」と太郎氏からきいた。

 

鉄兜の隙間に銃弾が通った時はタコツボに埋まり、軍医にもうだめかもと言われたこともあったが、生きて帰ってこられた。

 

 

 

太郎氏と道子さんの長男、ケンジさんからの聴き取り
191214←写真向って左が太郎さん。キスカ帰還後の昭和19年12月に広島の宮島で撮影(南アルプス市文化財課所蔵)

・太郎さんが雷を極度に怖がるのを息子のケンジさんは不思議だったが、「戦争で爆撃を経験したからだ」と周りの大人に教えられた。

Photo_20210927150401 ・写真にある養蚕のテントは戦後も家の庭で養蚕をする際に使用していた。昭和40年代頃に養蚕はやらなくなった。

20_20210927150501 20 20-3 ・釜無川に橋を架けるのは秋の稲刈り収穫の時に、村の勤労奉仕という感じで臨時の橋を架けた。

開国橋を渡るとなると往復一時間以上かかるところ、半分以下の時間で行き来できた。

ロタコの資材を利用して仮橋を毎秋かけていたのは昭和20年代終わりころまでで、コンバインが登場したら橋は架けなくなった。それまでは稲の収穫が終わると、橋は外して倉庫にしまっていた。長男ケンジ氏も仮橋の記憶がある。

戦後は玉幡の農地では、稲とリンゴをつくっていた。
 
以上です。

↑上画像3点は、釜無川にロタコの廃資材を利用して、下今井から玉幡へ仮橋をかけているところ。(南アルプス市文化財課所蔵)

 

 

Dsc_0219  

 

当日、 〇博調査員や伝承館の解説員は、道子さんにお礼の気持ちを伝えたい一心でおりましたのに、逆に、道子さんから、「(資料を文化財課に)もらってもらうときに、お嫁さんが3回もお茶を入れ換えるほど、(文化財課職員に)たくさん話を聞いてもらっただけでもうれしかったのに、こんなにしてもらってみなさんにも観ていただけるなんて、とてもうれしいです」という有難いお言葉をいただき、みんなで涙ぐんでしまいました。


 「それほど重要ではないと思いがちな、家や個人の歴史と記憶が、市全体の文化資源となり継承されていく過程や作業は、いまとこれからを生きる市民に、ある種の幸福感を伴う文化的財産をもたらす」、〇博プロジェクトの意義のうちの一つが、ここにあると思っています。


まゆこ

2021年8月10日 (火)

太郎さんとケーキの味

こんにちは。
Dsc_0034   昭和50年代終わりに亡くなられた市民、志村太郎さんの人生を振り返ることで、戦争について考えるテーマ展「戦争と にしごおりの人々」は、山梨県による新型コロナウィルス感染防止への臨時特別協力要請により、令和3年8月9日から8月22日まで、会場の南アルプス市ふるさと文化伝承館が休館しております。

←令和3年8月9日から8月22日まで休館中です。

 

 そのようなわけで、きょうは、展示中の資料の中から、太郎さんの鳴神島従軍日誌と、キスカ島で太郎さんが受け取った甲府高等女学校4年生からの慰問の手紙をご紹介したいと思います。
  
1718_20210810162001  太郎さんは、昭和17年10月23日に甲府を出発し、11月10日に極北のアリューシャン列島のキスカ島で上陸勤務を行い、昭和18年6月18日にキスカ島から帰還しました。その間、昭和17年11月3日から翌18年2月14日までを記載した従軍日誌があります。

志村太郎さん
3936201610 002img20210803_09475914 ←「鳴神島従軍日誌(昭和17年キスカ島飛行場設定要員トシ)」:陸軍技手志村太郎氏のキスカ島在任当時の日記。 昭和17年11月3日~18年2月14日の記述。「キスカでは3時起床で昼食は8時半、14時半に夕食」「飛行場位置には不発弾が幾個もある破片は一面に散っている」「方眼測量している。12月1日本日より飛行場着手する。鋤入式」「12月頃から敵機来襲激しくなる」「上等兵戦死す」など、具体的な日常や戦況が記されているばかりではなく、「一日も早く内地へ帰りたい」「澤田屋のケーキの味も思い出す」「キスカ富士は河口湖で眺める富士」等と、望郷の念を素直に若者らしく吐露する記述もある。(※閲覧用複製あり)

002img20210803_09540369  日誌を読むと、キスカ島では飛行場建設予定地に『不発弾が幾個も有る』『破片は一面に散って居る』状態でした。

加えて度重なる米軍の攻撃と天候不順の中、測量をすすめてくい打ちの作業を行い、12月1日にはどうにか鋤入式(本格的な飛行場建設着手を意味する儀式)にこぎつけます。

しかし、その後は激しくなる一方の米軍による空爆や建設要員不足の状況が記されることが増えます。そして、昭和18年2月15日以降は日誌を記すことさえ困難な状況に陥ったようです。

今回ご紹介するのは、この従軍日誌の昭和18年1月2日記載の一部です。

米軍からの爆撃が激化した年末を越え、キスカ島で新年を迎えた太郎氏は、4時に起床して鳴神神社に武運長久を祈願します。餅や酒も下給されつかの間の正月気分を味わっていました。久しぶりにゆっくりと休養できたそんな日に、太郎さんは、甲府で食べたケーキの味を思い出しました。

002img20210803_10394643太郎さんの従軍日誌より 昭和18年1月2日 雨曇
『日裕丸出発の予定なりしも天気悪く又暗礁に乗上て居る為出航不可能なり。其の為神崎技師の帰還も遅れたり。本日も休業す。今日は白米下給さる。白米の品は大変良い。
 本日は敵さんも来ず。一日ゆっくりと休養をなす。蓄音機を午後聞く。良いレコードも有りたり。湖畔の宿を聞いた時は甲府の澤田屋を思い出したり。澤田屋のケーキの味も思い出す。
内地は本日は初荷で大変の事と思ふ。我々は一日何をすることもなくすごしてしまった。』

太郎さんが極北のキスカ島で懐かしく想った澤田屋さんは、甲府市中央に現在も本店があり、銘菓くろ玉で有名な御菓子屋さんです。戦前も現在の本店と同じ場所でしたが、三階建てのビルで営業していました。菓子販売以外にも、毎週末にクラッシックコンサートが催され、洋食ディナーを賑まうレストランを併設していたそうなんです(澤田屋本店HPによる)。

きっと、太郎さんは山梨に居た時に澤田屋で開かれたコンサートに行って、ケーキを食べたことがあったのでしょうね。「湖畔の宿(昭和15年に発売)」をレコードで聞いた瞬間に、戦争とは無縁の優雅で楽しい故郷でのひと時を思い出したのでしょう。
 3936201625 ←「在鳴神島 在北千島 懐かしき故郷の便り」志村技手 :戦地の志村太郎氏宛に故郷の家族や友人、甲府高女などの女学生から送られた慰問の手紙を綴ったもの

では次に、太郎さんが戦地で受け取った慰問の手紙を綴った資料をご覧ください。その中に、山梨の女学生からの手紙がありました。戦時体制下の昭和18年当時の澤田屋のケーキの味について書いてあります。 
太郎さんは澤田屋の話を慰問の手紙を送ってくれた山梨の女学生への返事にも書いたようで、この女学生から志村さんのもとに、さらに返事が届いていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

002img20210803_10523607甲府高女4年生青柳さんが送った慰問の手紙
『兵隊さんのお手紙によると澤田屋の菓子の味が忘れられないってありましたけど際(最)近のお菓子、皆砂糖が使われてないの ケーキ甘くないのよ それにお菓子の配給が少しなもんだから 近頃口にした事がありませんの
 でも食べたいと言う気持ちは少しもありませんからとても結好(構)よ 兵隊さんは昔の味だけを覚えていらっしゃるから幸福ね。
 大部長々と書いてしまって、兵隊さんお解になるか知ら? よく味はって讀んでね。では呉々も御体を御大切にね 戦友の皆様によろしく さようなら』

 このおきゃんな女学生のお手紙、なんて可愛らしい口調と内容なんでしょう! 

「きれいに文化の、しみとおっているまち」と太宰治が当時描写した甲府の、一ばんにぎやかな桜町にあったおしゃれな澤田屋の存在が、戦前の山梨の人たちにとってどういうものであったかわかるような気がします。

そして、「食べたいという気持ちは少しもありません」と軍国少女ぶりながらも、「兵隊さんは昔の味だけを覚えていらっしゃるから幸福ね」と記した女学生の素直な本当の気持ちにホロッとさせられます。


 その後、澤田屋の三階建ビルは、昭和20年7月6日夜の甲府空襲で付近のハイカラだった街並みとともに焼失してしまいました。現在の澤田屋さんは、戦後昭和22年に再開して現在に至るそうです。


 今年の終戦記念日には、志村太郎さんと女学生のことを想ってケーキを味わい、そして、戦争と平和についてに少し、ゆっくり考えてみる時間が持てたらいいなぁと考えています。

 山梨県による新型コロナウィルス感染防止への臨時特別協力要請が終了する、8月23日以降に、是非一度、南アルプス市ふるさと文化伝承館まで観にいらしてください。このテーマ展は9月29日まで開催します。
まゆこ

2020年10月26日 (月)

瓦を焼いただるま窯

こんにちは。
Dsc_0588     先月、若草地区寺部で行われていた発掘調査で、昭和時代に瓦を焼いた窯跡が出土したというので、〇博調査員も見学させてもらいました。

Dsc_0586 Dsc_0576 詳細は、報告書の刊行を待たなければなりませんが、昭和40年代まで使われていたダルマ窯の一部が見つかったことは間違いないです。

←若草地区寺部のだるま窯の発掘現場(令和2年9月2日撮影)

Dsc_0566 ←若草地区寺部のだるま窯の発掘現場(令和2年9月2日撮影

 

 Photo_20201026113201 Photo_20201026113501  ←Imgp2451八田榎原中沢瓦店窯跡(2017年12月20日撮影)

 Imgp2426 製瓦業が大正から昭和時代にかけて盛んであった南アルプス市域ですが、現在、大正時代に造られただるま窯が原形をとどめて現存しているのは、唯一、八田地区榎原の中沢製瓦店跡のみです。

Imgp2428 ←八田榎原中沢瓦店窯跡 3点(2005年11月17日撮影)


 過去に2005年と2017年に写真を撮らせていただいていますが、

 

 

 

 

 

 

 

今月になって、前述の発掘調査の担当職員の手配で、所有者の方と連絡が取れまして、聞き取り調査と資料提供にご協力いただきましたので、ご報告したいと思います。

Dsc_0988  昭和40年代の終わりに愛知県の瓦技工の学校に行き、製瓦業の四代目としての勉強もしたというヨシナオさんは、だるま窯を使って焼かれるいぶし瓦の製造過程を、幼いころから見て育ちました。
 ヨシナオさんによると、中沢家でおそらく明治時代に製瓦業を営み始めたのは、ひいおじいさんで、場所は現在の韮崎市にある新府城の上あたりで行っていたそうです。
大正時代のはじめ頃になると、2代目に当たるおじいさんのヨシユキさんが、良い土を求めて、八田地区榎原の長谷寺のそばに、だるま窯を建造して製瓦店を移転しました。
3代目のお父様ヨシヒデさんの頃には、戦後の高需要に応えるため、昭和23年頃にもう一つだるま窯を増設して、二つの窯を交互に使用することで4日に1回の割合で瓦を焼いていたそうです。
瓦店の当主は専らだるま窯の火加減の担当であったそうで、瓦の成型は職人を雇って行っていました。そのため、4代目のヨシナオさんは、成型の様子よりも、だるま窯の火の見方をよく覚えておいででした。
だるま窯は昭和46・7年頃を最後に使わなくなり、その後は製瓦はせず、在庫等を利用して屋根瓦の修理や瓦葺きを請け負ってきたようです。

←中沢瓦店聞き取り調査。4代目ヨシナオさん。(令和2年10月6日)


Dsc_1005  昔から、だるま窯は、焼き物の歴史と技術の高い愛知県で作られる耐火煉瓦を積み上げて造るので、火の通りをよくするためのロストルや、二つの焚き口、瓦を出し入れするための両脇にある戸口、等の独特な構造は、同じく愛知から出張してもらった職人によって建造されました。そのため、製瓦業は設備投資する財産がないとはじめられない産業であったのとか。

 

Dsc_1004  実際にだるま窯に火が入るとどんな感じだったのかを、ヨシナオさんに聞くと、「 赤松を燃料として、はじめ二日間はどんどん焚き続けて窯の温度を上げていき、火の色が紫色になったら一旦、木をくべるのをやめる。その後1日間ほどは窯の中の壁土がオレンジ色をキープするように火加減する。さらにその後、釜の中が真空になるように焚口やだるま窯の横腹にある戸口をふさぎ、隙間には粘土を詰めて、『いぶす』。」とのことでした。

←だるま窯の建造に欠かせない耐火煉瓦(令和2年10月6日)

 

 

 

Imgp2433  また、だるま釜のすべての口を塞いで『いぶす』前に、掻き棒で取りだし置いた燃え残りの炭を、近所の人が買いに来たという話も伺い、3年前に〇博調査員が榎原のおばあちゃんから聴いた、「中沢瓦店に火鉢に入れる炭を買いに行った」との証言とも一致しました。

←八田榎原中沢瓦店窯跡(2005年11月17日撮影)

 今回の聞き取り調査ができるようにご案内くださった近所の方のお話でも、農作業の合間に谷あいにある中沢瓦店の煙突からいつも煙が上がっていたのを憶えているとの思い出話もいただき、小さなことでも、時間をかけて丹念に集めていると、それぞれのピースがつながって、史実として流れていくようになるのだと実感した次第です。