甲西地区

2025年10月23日 (木)

大正・昭和時代の国勢調査員たち

こんにちは。

今年の秋は国勢調査が行われましたね。ということで、今回は国勢調査にかかわる資料をご紹介していこうと思います。

国勢調査は、日本に住むすべての人と世帯を対象に、5年ごとに行う統計調査です。日本で初めて国勢調査が行われたのは、大正9年(1920)のことです。始まってからもう100年以上が経過しています。

まずは、大正九年に行われた第一回時の国勢調査員たちが残した資料をから見ていきましょう。

J06t120221 ←大正12年2月21日中巨摩郡第一回国勢調査員宮城拝観記念  湯沢依田家資料(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

J326 ←大正12年2月21日中巨摩郡第一回国勢調査員宮城拝観記念  古市場藤巻家蔵

 初めての国家的大規模調査の最前線を担った中巨摩郡の国勢調査員たちを慰労するためなのか、大正12年に皇居(宮城)を拝観する旅行が行われたようです。第一回調査から2年余りが経過し、国としては、次の大正14年に行う第二回国勢調査が2年後に迫った頃で、次回の調査も協力を頼みますよ、というような意味合いもあって行われた行事だったのでしょうか? 

 ほかの地区ではどうだったのかと少し調べてみると、同じ山梨県の東山梨郡第一回国勢調査員宮城拝観は中巨摩郡が拝観した翌日の大正12年2月22日だった他、ネット検索だけでも、岩手県種市村では同年6月14日、神奈川県大磯町では同年8月27日などの宮城拝観日の記念写真や記録が出てきますので、どうやら、大正12年に第一回国勢調査員の皇居拝観が全国的に行われたようですね。

 また、第一回の調査員に授与された記念品も収蔵資料にありましたので、ご紹介しておきます。

M4949 ←第一回国勢調査記念品:朱塗りの三重木盃で、金色の鵄(とび)が止まった弓を持つ神武天皇が描かれている。沢登斎藤(昭)家資料 (南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 

Photo_20251023162601 ←大正14年10月1日西野村第二回国勢調査記念  西野芦澤質屋家資料(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 大正14年の第二回国勢調査では、国勢調査で唯一、集計までを地方で行ったのだそうです。

 

戦後の高度成長期に入り、人々の暮らしや家族の在り方が大きく変化していく昭和30年代の国勢調査員の残した資料も収蔵しています。

Dsc_1533 ←昭和30年第8回国勢調査員資料 上今諏訪手塚家資料 (南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

Dsc_1536 ←昭和35年第9回国勢調査員資料 上今諏訪手塚家資料 (南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 令和時代の調査ではインターネット回答が推奨され普及してきました。

 国勢調査によって、時代とともに次々と変化していく日本の国の有り様を把握する意義は大きいですが、近年はプライバシー意識の高まりなどに伴って、回収率は低下している模様です。国勢調査員の職務の難しさはますます高まっていくのでしょうね。

2025年10月17日 (金)

バス停で(野牛島・小笠原下仲町・鮎沢)

こんにちは。

今回は、南アルプス市ふるさと○○博物館が市民の皆様のご協力により収蔵した古写真のデータの中から、昭和20~30年代のバス停前でのスナップをご紹介します。

111 112_20251017093401 ←「小笠原下仲町バス停」昭和20年代末頃 吉田名取家蔵

Photo_20251017093401 ←「野牛島バス停(矢崎商店)」昭和20年代末頃 野牛島金丸家蔵

110 ←「バスでお出かけ」昭和30年代頃 吉田名取家蔵

159 ←「鮎沢バス停」昭和30年代半ば 古市場藤巻家蔵

 昭和30年代まではまだ自家用乗用車は普及しておらず、自宅から鉄道駅や周辺の繁華街に出かけるための交通手段は、自転車か路線バスでした。マイカー時代が到来するのは昭和40年代に入ってからです。

 現在は、特に地方都市では、成人一人に一台の体制で車を保有する家庭も多く、路線バスを利用する機会がほとんどないという方もいらっしゃるかもしれませんね。

 でも、昭和時代のバス停前の風景をみると、人々が挨拶しあったり、会話したり、バスを一緒に待つ時間にきっとここでいろいろな出会いもあって、心が豊かになるような出来事もあったのだろうなぁと想像して、古い写真が伝えてくれる当時のワクワク楽しげな空気感に癒されるのでした。いつもは車を運転して行ってしまう博物館に、今度の休日には、久しぶりに路線バスに乗って行ってみようかな!

 

2025年9月 5日 (金)

大明・飯野国民学校で行われた供出と勤労奉仕・動員(国民学校日誌を読む2)

こんにちは。

前回に引き続き、南アルプス市ふるさと文化伝承館令和7年度第1回テーマ展「ぼこんとうとせんそう」より、国民学校日誌に記載された内容から読み解くシリーズを続けたいと思います。

※学校日誌とは教師が書き記す日誌のことです。各学校で生徒や教職員の出欠状況、その日の出来事などが毎日記載されます。現在の学校においても行われています。基本的に5年間の保存期間でよいとされていますが、南アルプス市内では過去の古い日誌が断片的に遺され発見された学校がいくつかあり、通報いただいた場合それらを文化財課で収蔵しておりました。2025年7月現在、南アルプス市教育委員会文化財課では、五明学校、大明尋常小学校・大明尋常高等小学校・大明国民学校・大明小学校・大明農業補習学校・大明夜学会、鮎沢学校、飯野尋常高等小学校・飯野国民学校・飯野小学校・巨摩第一小学校、鏡中條国民学校の日誌を計133冊収蔵しており、その中から戦時下にあたる昭和16年から20年にかけての国民学校時代のものを、個人情報に配慮した上で現在開催中のテーマ展で展示しています。学校教練や訓話の内容、空襲、疎開、学徒の勤労動員など戦時下特有の様子が記録されています。

 

 今回は戦争のために学校で供出した物の内訳や献金、勤労奉仕についてみていこうと思います。

Dsc_1374←国民学校日誌(南アルプス市教育委員会文化財課蔵の一部)

 まずは、国民学校時代のものがすべて揃っている大明国民学校と飯野国民学校の日誌から供出と勤労奉仕・動員に関わる箇所を以下に抄出してみます。

 

「大明・飯野国民学校で行われた供出・勤労奉仕・動員年表(抜粋)」

昭和16年

大明「7月7日支那事変4周年記念式 前線将兵と義勇軍宛の慰問袋作成」

大明「7月29日峡西電鉄路線除草勤労奉仕・桑皮供出」

12月8日真珠湾攻撃 太平洋戦争開始

昭和17年

大明「6月8日より5日間桑皮採集の増産運動」

大明「7月7日支那事変記念式・債券購入1円券310枚5円券(額面7円50銭)63枚を職員児童にて購入セリ」

大明「10月4日軍人援護として慰問文発送各家庭に軍人援護の習字を清書シ添付ス」

飯野「11月9日金属供出(七輪3ケ花瓶1ケ火薬銃1ケ鉄砲丸1ケ供出)」

昭和18

21日ガダルカナル島撤退

529日アッツ島玉砕

飯野「6月11日~5日間増産協力全学年普通授業を廃シ増産運動に協力す」

大明「6月25日職員一同にて中庭に晩豆の播種行う」

大明6月25日砲弾等の特別金属の供出なす」

大明「7月1・2・5日校庭などに豆蒔」

大明「7月26日桑皮集荷」

大明「7月・8月滝沢川堤の草刈り(堆肥にするため)

大明「8月8日弾丸切手155枚購入」

大明「11月29日ウサギ二頭を供出ス」

大明「12月8日国防費67円41銭を献金」

大明「12月20日麦踏」

昭和19

大明「3月10日藁草履作成競技会開催」

大明「3月24日玉幡飛行場石拾い」

7月7日サイパン島陥落

大明「10月7日両村出身兵士全員に対し慰問文ヲ発送ス」

10月25日レイテ沖海戦で日本海軍敗北・神風特攻隊初出撃

大明「11月29日どんぐり及すすきノ穂採集のため野之瀬村方面に出動す・どんぐりの紙芝居を全校児童鑑賞ス※紙芝居「どんぐりの出征」

昭和20

飯野「1月4日勤労動員として高二女児は本日より峡西社へ」

大明「1月15日大井五明両村一斉麦踏実施ニツキ初3以上午後より勤労奉仕ヲナス」

飯野「2月28日初五以上軍工事勤労作業はじまる」

3月10日東京大空襲 13日大阪大空襲 22日硫黄島日本軍全滅 

3月26日沖縄に米軍上陸

大明「3月17日~源村飛行場建設工事勤労奉仕」

大明「4月14日初5以上野之瀬村に薪取りに出動」

飯野「4月21日滑走路の石拾い」

大明「4月18日他高1男女子排水工事出動・初5以上薪取り・柳の皮むき(薬用サリチル酸抽出用か?」

飯野「5月1日以降高2男は白根工場・女は日本蚕糸へ学徒動員」

大明「5月1日食用山野草採取のため全校出動」

飯野「5月18日1高一誘導路葱・19日大豆播種29日防空壕、滑空路施肥料作業」

大明「5月5日より高1女全員日蚕大井第一工場通年動員開始」

飯野「5月14日野草採集」

飯野「6月19日21日野草のアカザの採集について訓話」

飯野「6月19日除草石拾い防空壕の整理」

飯野「6月20日防諜図画習字綴方・アカザの採集・桑皮の採集について訓話」

6月23日沖縄戦終了

大明「7月26日桑園の芽カキ初4以上」

大明「8月9日臨時休業・食料山野草薬草採集ヲ全職員で行フ」

大明「9月6日放課後藁草履を全職員ニテ製作ス」

大明「8月21日□□工場ニ出勤中ノ学徒ノ解散式ヲ行フ」

大明「8月23日笠原製糸工場動員ノ児童本日をもって解散ス」

大明「8月29日非農家児童高1高2女33名笠原工場に本日より出勤ス」

大明「9月29日日蚕大井工場出動中の高1・2女本日に限り復員」

 

 以上に抄出した年表を詳細に見ていくと、昭和16年の夏頃より子どもたちによる勤労奉仕や供出が行われており、太平洋戦争が開始する前から日本は勤労人材や物資が不足した状態であったことがわかります。

 飛行機を増産するために、国策紙芝居においても強く供出を呼びかけられた金属は、飯野国民学校では昭和17年11月9日に「七輪3ケ花瓶1ケ火薬銃1ケ鉄砲丸1ケ供出」、大明国民学校では昭和18年6月25日に「砲弾等の特別金属を供出」とあります。昭和19年以降には金属供出は見られません。もう学校備品を含めても出せる金属はなくなってしまったのでしょうか。

17119 ←昭和17年11月9日飯野国民学校日誌「七輪3ケ花瓶1ケ火薬銃1ケ鉄砲丸1ケ供出ス」

 また、金銭を介しておこなう戦争協力として、昭和17年大明国民学校では「7月7日支那事変記念式・債券購入1円券310枚5円券(額面7円50銭)63枚を職員児童にて購入セリ」、昭和18年には「8月8日弾丸切手155枚購入」大明「12月8日国防費67円41銭を献金」が見られ、軍事費を賄うための戦時国債や「弾丸切手」と呼ばれた戦時郵便貯金切手の購入や献金なども学校で組織的に行われたことが示唆されます。

S1777 ←昭和17年7月7日大明国民学校日誌「債券購入1円券310枚5円券(額面7円50銭)63枚を職員児童にて購入セリ」

S1888 ←昭和18年8月8日大明国民学校日誌「弾丸切手購入 弾丸切手百五拾五枚の購入」

 

戦場にいかない子どもたちが学校ぐるみで行った戦争協力として、兵隊に送る慰問の手紙やはがきの作成がありました。

 学校では、軍人援護の教育として慰問文の綴り方が指導され、慰問文その他を入れた慰問袋をつくって前線の将兵や満蒙開拓青少年義勇軍個人に宛て送るということが行われています。

1_20250905162701 ←昭和15年1月1日号少女倶楽部付録「少女の慰問文画帖」(南アルプス市教育委員会文化財課蔵):少女たちが戦地で戦う兵士たちに送る慰問文の例文集。文画帖とあるとおり、慰問袋に同封する絵の例も掲載される。「戦地のお父さんへ」など兵士へ送るもの、「出征兵士の留守宅へ」といった内地でやりとりするものなど様々な例文と解説が並んでいる。

 

Photo_20250905162701 ←慰問葉書(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)昭和19年に豊国民学校の子どもたちが満洲の部隊に所属する卒業生の一人に送ったもの。その兵士の遺品として親族に届いた慰問袋の中に入っていた。

 

 次に、学校ぐるみで行う戦争協力活動として、子どもたちが採集・製作した末に供出されたモノを見ていこうと思います。品目としては、藁草履・桑皮・ドングリの実・ススキの穂・ヤナギの皮・アカザ・薪、校内で飼っていたであろうウサギ二頭が日誌の記述から拾えました。これらは、子どもたちによる採集や製作、飼育の末に供出されるものです。しかし、藁草履や薪は別として、日誌の記述だけでは供出された後どのように活用されたかを知ることができません。そこで、一般的にはどのようであったか調べてみると、以下のような利用方法が考えられました。

  桑の皮 ⇒ 繊維を取り出して  ⇒ 衣服を作る

 ドングリ ⇒ アルコールを製造 ⇒ 飛行機や戦車や自動車に使うガソリンの代用

 ドングリ ⇒ タンニンの抽出  ⇒ 皮をなめすのに使う

 ススキの穂⇒ 掃除するための箒(ほうき)でも作ったのでしょうか?

 ヤナギの皮⇒ 煎じ薬にする   ⇒ 鎮痛剤となる

 アカザ  ⇒ 若葉を摘む    ⇒ 食用とする

 アカザ  ⇒ 煎じ薬にする   ⇒ 強壮剤や鎮痛剤となる

 ウサギ    ⇒ 毛皮をとる     ⇒ 兵隊用の防寒着に使用

※アカザは北海道から沖縄まで日本列島に広く分布する1年生の野草で、葉を茹でてよく水に晒してからおひたしやみそ汁の具などにして食用とするほかに、乾燥させた後煎じると『強壮、健胃、歯の痛み止め、毒虫刺され(外用)など』に効能のある薬草となるようです。参考文献:『見つけて食べて愉しむ季節の薬用植物150種』森昭彦 株式会社秀和システム 2023 『食べられる草ハンドブック』森昭彦 株式会社自由国民社 2021

Img_4405 Dsc_1512 ←成長したアカザ(2025年9月7日山梨県中央市にて栽培されているのを発見し撮影。アカザは秋まで成長させて杖の材料として使用するのだそうです。新芽を食用や薬用とするだけでない、とても有用な植物なのですね!

市内国民学校日誌には、教師たちが昭和19年春に野草食料植物研究会等出席のため甲府や近隣学校に出張した記録があり、各学校での教育や活動に生かされたものと考えられます。

国民学校で常々、自分たちが倹約や勤労に励んで少しでも戦争のお役に立てば、勝ち抜くことができると教えられていた当時の子どもたちは、勉強をしないで教室を出て一生懸命に野草までも集めて供出したのでしょうね。

2025年6月26日 (木)

軍神広瀬武夫の幟旗

こんにちは。
本日は、南アルプス市ふるさと文化伝承館で開催中のテーマ展「ぼこんとうとせんそう」より資料紹介をしたいと思います。
Dsc_1401   ←「広瀬中佐の幟旗(69㎝×867㎝)昭和10年代 峡西古市場井上染物店制作」(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 こちらは、日露戦争において活躍した軍神、広瀬中佐を端午の節句飾りである幟旗に描いたものです。子どもの初節句のお祝いに贈られました。
日露戦争旅順港閉塞作戦において明治37年3月27日に戦死した広瀬武夫は、死後30年ほど経った昭和10年頃に軍神とされた人物です。旅順港閉塞作戦とは、古い艦船を旅順港の湾口に数隻沈め、港の入り口を閉塞させ、ロシアの艦隊を海上封鎖する作戦でした。第一次閉塞作戦につづき第二次閉塞作戦に参加した広瀬武夫は沈みゆく船から部下の杉野孫七上等兵曹が脱出してこないのを心配し、自ら船に戻って三度も探すが見つけられず、あきらめて脱出用のボートに乗りうつります。ところが、そこで広瀬の頭にロシア軍の砲弾が直撃して亡くなってしまいました。彼のこの最期は、「勇猛である一方で、人一倍優しく部下思いであった上司の鑑」として称えらました。
Dsc_1356 Dsc_1353 ←ロシア旅順港口付近の荒波の中、甲板に立つ軍神広瀬武夫を中心に緑色と青色の軍服を着た人物が描かれています。広瀬が自分の命を犠牲にしてまで探した杉野孫七上等兵曹がここに描かれているのかどうかはわかりません。そして下部をよく観ると、広瀬の乗る船にめがけて右方向から砲弾が飛んできている様が見えますので、もしかしたら彼がこの絵で乗っている船は脱出用で、この場面の直後にその砲弾が彼の頭に直撃したとも考えられます。
 今回はスペースの都合上、8メートル以上にもなるこの資料の上部の絵柄を観ていただくように展示することができなかったのですが、見えていない上部にはサーチライトで照らしながら日本軍を探すように航行するロシア船のようなものも描かれています。
 しかし、明治37年に戦死した広瀬武夫を軍神として祀る神社が建てられたり、その逸話が文部省唱歌の題材となる動きが盛んになったのは昭和11年のことです。日中戦争を始める前のタイミングでの広瀬中佐の軍神化は、国民の戦意高揚のためのヒーローつくりの一環であったのではないかと言われています。
当然のことながら軍神のモチーフは昭和20年の終戦後には全く作られませんので、以上のことから、この幟旗は昭和11年頃から太平洋戦争が開始して物資不足となる前の昭和16年までくらいの短い期間にのみ作られた題材ではないかと考えられます。
 ちなみに、この広瀬武夫の幟旗を制作した井上染物店は現在でもこいのぼりや幟旗を市内古市場で製作販売していますが、戦後、幟旗の主要モチーフは戦国時代の武将たちで、とりわけ甲州では郷土の英雄武田信玄の登場する川中島の戦いが一番の人気のようです。

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 このたびのテーマ展「ぼこんとうとせんそう」では、戦時体制の影響が子どもたちの身の回りにある品々にどのように表れるのかを見ていただく資料の一つとして、地元染物店で製作された初節句の祝い品である幟旗を展示しています。

Dsc_1407 節句飾りの幟旗は、子どもの健やかな成長を願い、親の期待する成長像を投影した人物が登場する逸話をモチーフとした絵が描かれますが、戦時体制下には、そのモチーフに国民の戦意高揚に利用されていた「軍神」が登場したわけです。生まれたばかりの子供の世界にも戦時体制特有の空気感が否応なく満たされていった状況を想像できます。

2024年11月25日 (月)

腸チフス予防唱歌とコレラ注意報!!

こんにちは。
先週くらいから急に寒くなって、やっぱり今年も冬が来るのだと実感しました。寒くなって空気が乾燥してくると、また風邪などの伝染病が流行する季節にもなりますね。
 今回は、大正10年頃に山梨県衛生課が高等小学校に配った「チブス予防唱歌」のリーフレットと、コレラ注意報として配布された「虎軍隣県を襲ふ!! 本県は危険状態にあり!!」のチラシをご紹介したいと思います。

 大正10年頃に山梨県衛生課は「チブス予防唱歌」というものを作成して小学生に配ったようです。小学校の生徒に毎日見てもらえるように、二つ折りにして時間割を記入できるような欄も設ける工夫がされています。

25102 ←山梨県衛生課チブス予防唱歌(表)(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
  まず表紙では『チブス?』の項でこの病気の原因と感染経路、病状などを説明し、感染予防対策の方法や罹患した場合の対処について簡潔に記しています。 一般的には「チフス」という呼び名の方が聞き慣れているのですが、かつては「窒扶斯」という漢字を当てたようなので大正時代には「チブス」と濁音にして読んでいたこともよくあったのかもしれません。 記載内容を読んでみると、紹介されているチブスという病気が現代日本で言うところの「腸チフス」であることがわかります。
 また、この面を山折りに二つ折りにすると裏になる部分に、名前や時間割を書く欄があったり、ギリシャとイギリス、日本の俚諺(りげん)が3つ記され、健康の大切さを表したことわざも教えてくれています。

25101 ←山梨県衛生課チブス予防唱歌(裏)(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
  見開きページには、真ん中にチブス予防唱歌の歌詞と楽譜(数学譜)があり、これをぐるっと囲むように明治13年~大正9年までの山梨県内腸チフス患者及び死亡者累年表が記されています。
『チブス予防唱歌
 【一】山川清き山梨に 悪疫チブスは蔓これり 人々互ひに警めて 此の病毒を絶やせかし
 【二】飲食ひものに附着して チブスの病毒は口に入る 味ひよくも生魚や 生の野菜は食すなよ
 【三】まして生水や氷水 使ひ水にも注意して 食事前には手を洗ひ 暴飲暴食せぬ様に
 【四】蠅を駆除して食器には 蓋する事を忘るゝな 家の内外掃除して 身体衣服も清潔に
 【五】予防注射も早く受け 患者を見舞う事勿れ 熱病む人のある時は 醫者を迎えよ直ぐ様に
 【六】かくて縣民一斉に 心協せて豫防せば 流石に猛き腸チブス 忽ち跡を絶ちぬべし      』
 この予防唱歌を歌っていれば、表紙にあったようなチフス対策を万全に覚えられるようなっています。すばらしいですね!

 予防唱歌の周りにある、山梨県下における腸チフス患者及び死亡者数の推移の方を見ていくと、明治14年に大流行があり、明治25年にもまた流行したことが判ります。 しかし、明治30年に伝染病予防法にて法定伝染病に指定されたことが功を奏しようで、明治31年~40年代はじめまでの山梨県内の腸チフス患者数は劇的に減少しています。その後は、明治44年と大正9年に流行がみられます。今回の資料は、大正9年の流行に接し、前回の流行年からおよそ10年ほどで緩んできた感染対策を特に経験のない子供たちに徹底・注意喚起するように対象者を絞って山梨県が配布したものだったのではないでしょうか。
 明治30年以降、腸チフスは感染対策を徹底することで罹患リスクを減らすことができることが実証されていたので、大正元年頃から実施が増えてきた腸チフスワクチン注射とあわせて、流行終息を目指したものと考えられます。
 なお、平成11年に施行された感染症法により、現在、法定伝染病は家畜に関して定められるものになり、腸チフスは「3類感染症」と分類されているそうです。

つづいては、チブス予防唱歌の資料と同じく山梨県衛生課作成のチラシですが、これはコレラに対する注意喚起するものです。前記の大正10年のチフスに関するもの同じ資料群にありました。この資料ではコレラを「虎軍」と表現していますが当時は「虎狼狸」「虎列刺」とも表記することがあったようです。
252 ←山梨県衛生課コレラ予防チラシ「虎軍隣県を襲ふ!! 本県は危険状態にあり!!」(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 また、コレラの流行の歴史について少し調べてみると、インドからはじまったパンデミックにより日本では江戸時代(安政年間)から明治大正期にかけて幾度もの流行が起こりましたが、大正9年に神戸市から発生したものを最後に全国的な流行は起きていないようなので、この資料は大正9年から10年頃に配布されたものと推定できます。
 『虎軍隣県を襲ふ!! 本県は危険状態にあり!!』と喧伝し、『流行地ヨリ来リシ者ニ注意スルコト』『コレラ流行地ヘ行カヌコト』などの文言からはじまるところは、つい数年前の令和初めに起こった新型コロナウイルスのパンデミックにおいて、都道府県をまたぐ不要不急の移動の自粛が私たちに求められた状況を思い起こさせます。
 命はもとより国の経済・社会の仕組みにまで影響を与える感染症の急襲は、病原や感染経路が解明され、ある程度の治療体制を持つようになった近代以降においても、人々がその脅威を忘れて緩むたびに繰り返されています。

2024年11月19日 (火)

大正9年落合小学校秋季運動会次プログラム

こんにちは。
今回は、大正9年10月24日午前7時から行われた、落合尋常高等小学校の第三十七回秋季大運動会のプログラムをご紹介いたします。

       ※いづれの画像もタップすると少し拡大します

23602 ←大正九年落合尋常高等小学校第三十七回秋季運動会次第(表紙・裏表紙)(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 南アルプス市ふるさと○○博物館資料収集活動において、今まで大正5年の榊小学校、大正15年の西野小学校の運動会プログラムを教育委員会文化財課で収蔵してこちらのブログやMなび、〇博アーカイブなどでご紹介してきました。
 今回は新たに市の南部に属する甲西地区で収集した落合小学校の大正9年のものを見ていただきます。
 裏表紙の記載から、このプログラムの作成・配布については、小笠原にある山扇印刷所の寄付によって行われたようです。しかしながら、現在も市内小笠原で営業している株式会社山扇印刷さんのHPによると、大正14年10月に創業とありますから、その前身の印刷所だったのかどうかについては不明です。

23601 ←大正九年落合尋常高等小学校第三十七回秋季運動会案内状(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
23603 ←大正九年落合尋常高等小学校第三十七回秋季運動会次第(午前之部・午後之部)(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 つづいて、運動会の演目について見ていきますと、午前之部27種目の後、30分という短い午餐休憩をはさんで、午後之部は25種目行うという、かなりタイトなスケジュールとなっています。それに、『爆裂弾』『陣地占領』『砲弾輸送』など、戦闘を想起させるなにやら物騒な演目が所々にありますね。
 中でも、午前之部の最後の演目として全校男子で行う『軍歌行進』と午後之部で高等小学校男子全員で行う『執銃訓練』は、軍隊の基礎を学ぶはじめの一歩としての訓練のようです。

 いままでに収蔵した資料と比較してみると、大正5年の榊小学校の運動会プログラムにはあまり軍事的な演目は見られませんでしたが、大正15年の西野小学校のものには軍歌行進が行われています(当ブログ2020年9月16日「大正5年の榊小学校運動会プログラム」、2021年9月29日「大正5年榊小学校と大正15年西野小学校の運動会プログラム」もご覧ください) 。 校風の違いもあったでしょうが、落合小学校の資料の場合、大正9年頃は第一次世界大戦が終わり、将来起こるであろう次の戦争に向けて、その準備が平時から必要との認識が学校教育にも芽生えてきていた頃なのかもしれません。
M12902 ←木銃(長さ167㎝ 川上滝沢家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵):※この資料が運動会等で使用されたかどうかは不明です

23603_20241119164001←大正九年落合尋常高等小学校第三十七回秋季運動会次第(午前之部・午後之部)(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 一方、女子については、午後之部終盤において「主婦の務(つとめ)」という演目の題名がまず目を引きます。高学年の女子が行ったこの演目の具体的な内容こそわかりませんが、その題名だけで当時の女子教育が目指していたものをダイレクトに示しています。近年、ジェンダフリー社会の実現を目指して小中学校で行われているジェンダー教育とはまさに対極となるものですね。

 また、同じく女子種目の『タンツラインゲン』というドイツ語風の外来種目名に興味をひかれたのでしらべてみると、『タンツ=ライゲン(Tanz reigen)』という言葉がヒットしました。連舞の一種で、数人が一列に並んで曲に合わせて行進しながら、いくつかの振り付けを行うダンスだそうです。戦前の運動会では、「タンツライゲン」という名称で女子の演目として全国的によく披露されたものだということです。

 以上のように、大正時代の運動会プログラムを観察すると、現代の小中学校とは教育目標が異なるので、演目に違和感を覚えるような点もいくつか見られます。時代を表していると一言で言ってしまえばそれまでですが、当時の社会的背景や運動会そのものの教育的意義などを推し量ってみると、いまではありえないような種目が存在していた理由も理解することができて興味深いです。
今後もまた、市内の小中学校の運動会プログラムは継続的に収集していきたいと思っています。

2024年11月13日 (水)

保寿社牛乳タイムス大正14年掲載のケーキレシピ

こんにちは。
 保壽社牛乳店が毎月一回発行していた冊子「保壽社牛乳タイムス」をご覧いただきます。

2371223719   ←保寿社タイムス10月号表裏紙 大正14年10月1日(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)※タップすると少し拡大します
保壽社牛乳店については前回、南アルプス市教育員会文化財課で収蔵した大正時代の領収書からの情報から、大正9年から10年の間に牛乳1本が6円から10円に値上がりしたことや、当時の販売用牛乳瓶の姿などをご紹介しましたが、今回は大正14年10月1日発行とある「保壽社牛乳タイムス十月号」について観ていきたいと思います。
 前回でもご紹介しました通り、保寿社は明治20年12月に土屋忠平が西山梨郡稲門村(現甲府市)の千秋橋南方に開業し、のちに甲府市伊勢町に移転して昭和15年までの50年以上営業していた、県内酪農における草分け的業者のひとつだったようです。文献にも『甲府市の三大搾乳業者』と記されています。

23713 ←保寿社タイムス10月号 大正14年10月1日 2.3ページ(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 この冊子「保壽社牛乳タイムス」の構成は、全5ページで4項目の記事で構成されています。
 表紙をめくるとまずは「家庭日記」という項目で、襟や靴の手入れやネクタイの洗濯の仕方など主に洋装の手入れ方法が掲載されています。牛乳を毎日飲むような先進的な家庭の主婦には知りたい情報だったのかもしれません。


 次の3.4ページには「牛乳の威力」という題で、農学士大川石松氏による寄稿があります。なんでも、「マツカラム博士によって証明された人類の生命に欠くことのできない溶油性ヴヰタミンと水溶性ヴヰタミンの二要素を摂取するには、バター脂を含む乳製品の摂取が適している」というようなことが書かれています。また、「『我国乳児の死亡率は世界一』であることと『我国の牛乳使用率は世界の文明国中で一番少量』であることには深い関係がある」と説いており、『牛乳は人類の生存に必要な総ての要素を完全に、具有している』と、牛乳を飲むことを推奨しています。つづく同じページの残りの部分には、「ほんとの両親」という小話が穴埋め的に掲載されています。

23714 ←保寿社タイムス10月号 大正14年10月1日 4.5ページ(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 最後の5ページ目には「おやつのごちそう」という魅力的なレシピ集が掲載されています。メニューは、2種の『グリッドルケーク』と『芋よんかん』『バタいも』です。興味深いそのレシピを以下に書き出しますと、

『グツリドルケーキ(原文ママ):メリケン粉 コップ三杯、牛乳 コップ二杯、ベーキングパウダー 大匙一杯半、玉子 一個、塩 茶匙半杯、バタ 大匙二杯、砂糖 コップ四分の一
メリケン粉、塩、砂糖、ベーキングパウダーをまぜ合して篩にかけ、玉子をよく泡立てせて加へ、牛乳をそろそろと加へてよく泡立て器でかきまはし、バタと融して加へます。フライパンにバタをひいてそのなかへまぜ合した材料を少しづつ流し込んで、まはりが焼けて来て真中が泡だらけになったらひつくり返して焼きます。鍋に引いたバタが少ないとこげつきます。かうして何枚も焼いて、焼きたてにバタをつけ、メープルシロップ(蜜のようなもので紅葉の葉の砂糖をとかしたもの)を上からかけて食べます。メープルシロップの代りに砂糖をかけてもよいので、これはハイカラなボツタラ焼のようなもので、朝食の代り、おやつには最も適してゐます。』
※「グツリドルケーキ」と原文に記載があるが、以降のレシピに(その二)とあるので、「グリッドルケーキ」が正しく誤植であると考えられる)

『グリツドルケーキ(その二):牛乳 コップ一杯、玉子 2個、御飯の温かいの コップ一杯、融かしたバタ 大匙一杯、塩 茶匙半杯、メリケン粉 コップ八分の七
  御飯と塩との上に牛乳を注ぎ込み玉子の黄味をレモン色になるまでよくかきまぜて泡立たせて加えます。それへとかしたバタ及メリケン粉を加へ、玉子の白味を泡立てゝ加へたものを第一と同様にして焼きます。』

『芋ようかん:砂糖七十匁、さつまいも百匁、塩小匙半分
  先づお芋の皮をむいて二分位の輪切りにし、水につけてあくをぬきます。鍋にはたっぷりの湯を煮たたせておきごく強い火でお芋の切ったのを、軟らかくなるまで煮、煮へたらザルにあけて湯を切ります。次に鍋の湯をあけてそれへお芋の煮たのを入れ、塩と砂糖を入れ、シャモジで芋をつぶしながらよくねり合わせ、指をふれてみてつかなくなったら重箱その他適宜な器に布をしいて、その上へねつた材料を入れ、上に布をかぶせて、その器のなかへはいるだけの板をおき、上から強い重しをかけ二時間ほどおくとかたくなります。それを取り出して適宜の大きさにきるのです。』

『バタいも:
フライパンにラードを引き、二三分の厚みに輪切りにした芋を両面から焼き、焼けたらバタをぬり砂糖をふりかけます。』

 以上のように、この「おやつのごちそう」で紹介されている4つのレシピをみてみると、大正14年に一般家庭で材料をそろえて作るのが難しい憧れレベルの一品から、牛乳屋さんの紹介するレシピなのに乳製品すら使わなくて済むような庶民的なおやつまで4種類のものが紹介されています。

23714_20241113134701 ←保寿社タイムス10月号 5ページ「おやつのごちそう」(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 中でも材料の異なる二種類が紹介がされているグリッドルケークなるものですが、検索してみると、「griddle cake(グリドルケーキ)」というものがヒットし、いわゆるパンケーキないしはホットケーキのことだとありました。パンケーキやホットケーキのようなものは、明治時代に日本に伝わったようですが、大正12年に日本橋の三越デパートでバターとメープルシロップを添えて提供されはじめたのが本格的な上陸だったようです。この大正14年10月号の「牛乳タイムス」でも、焼きたてにバタとメープルシロップを上からかけるとあるので、まさに当時の最先端かつ憧れのおやつレシピが載せられていたことになるのですね! 当時のほとんどの甲州人には未知の食材であったであろうメープルシロップは『紅葉の葉の砂糖をとかしたもの』と微妙な解説があって微笑ましいです。さらに明治期にドイツで開発されたばかりのベーキングパウダーもあって、きっと「このナンチャラパウダーっちゅう薬は何でぇ?」という感じだったのではないでしょか? 庶民に出来上がりを想像しやすいようにか『これはハイカラなボッタラ焼のようなもので・・・』とも記されています。


 そのためか、グリッドルケーキ(その二)では、手に入りやすい材料ばかりでつくれるようなレシピが紹介されています。材料だけを見ると、甲州人にもなじみ深い「うすやき」の亜流みたいな感じがするのですが、作り方を読むと最後に卵の白味を泡立てたものを加えて焼くとあるので、ふんわり感を出すようにちゃんと工夫したレシピなんだなぁと感心!実際に作ってみたくなった〇博調査員でした♡

2024年11月 1日 (金)

大正時代の牛乳瓶の姿(保壽社牛乳店)

こんにちは。
最近整理調査の終わった紙資料群の中から、大正9年から10年にかけての牛乳屋さんの領収書を9点発見しました。どうやら甲西地区に住んでいた人が大正9年から10年にかけて甲府市錦町(現平和通り沿いの中央1丁目11辺り)にあった山梨県病院に入院していた際に、保壽社牛乳店から受け取った領収書のようです。
23701 ←「保壽社牛乳店 甲府市伊勢町二千四百九十五番 (電話二〇八番) Dairy.C.Tsuchiya.Isecho.Kofu.Japan. HOJUSHA & Co」の発行した領収書と冊子」

 「保壽社」という牛乳屋について文献で調べてみると、昭和初期から40年代にかけて山梨県酪農の指導的立場にあったし秋山作太郎氏が著した書籍の中に、昭和45年に調査し「(明治中期以降の)搾乳業者一覧表」としてまとめたものがあり大変参考になりましたので、そちらの内容を引用しながらご紹介したいと思います。
 保壽社は明治20年12月に土屋忠平が西山梨郡稲門村(現甲府市)の千秋橋南方に開業し、のちに甲府市伊勢町に移転して昭和15年までの50年以上営業していた、県内酪農における草分け的業者のひとつだったようです。文献にも『甲府市の三大搾乳業者』と記されています。

 それでは、保寿社の牛乳配達表と領収書を観察していきましょう。
 真ん中にきりとり線が入っていてその左側に「牛乳配達表」があり、右半分はイラスト入りの領収書になっています。
23710   ←保壽社牛乳店大正10年6月牛乳配達表領収書(牛乳1本10円)(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 まずは、大正10年6月分について配達した牛乳の本数と代金の集計に注目しましょう。29本で290円とありますから、大正10年当時の販売価格は牛乳1本10円だったとわかります。ちなみに大正9年9月分の場合は30本で180円とあります。どうやら大正9年までは1本6円だったようですね。
23707   ←保壽社牛乳店大正9年9月牛乳配達表領収書(牛乳1本6円)(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
23706 ←保壽社牛乳店大正10年7月牛乳配達表領収書(牛乳1本10円)(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 また、四角く囲った枠の中に①『山梨県病院御用』②『新鮮生バタ』③『切手調進』といった謎の文言がありますが、順に読み解いていくと、①保壽社が山梨県病院の病棟に出入りして入院患者に販売していた事実を示すものであり、②保寿社牛乳店は新鮮な生バタ―も販売しており、③『切手調進』とは「保寿社牛乳製品を贈り物等に使用できる商品券もご用意しております」ということだと考えられます。
23711   ←保壽社牛乳店大正10年9月牛乳配達表領収書(牛乳1本10円)(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 そして右半分のいわゆる領収書部分ですが、大正時代当時の牛乳瓶とバター販売容器と牛たちが可愛らしく配置されたデザインになっています。当時の牛乳販売容器がどんなものであったかがよくわかるイラストで興味深いですな。このイラストにある牛乳販売容器は、ガラス製の瓶で口に陶器製の栓をして金属製の留め金で閉めた後で未開封と分かるように瓶と栓のつなぎ目に保壽社銘入りの未開封シールが貼られています。
23711_20241101132701 ←保壽社牛乳店大正10年9月牛乳配達表領収書より「機械口牛乳瓶部分」(湯沢依田家資料・南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 気になって上記の秋山作太郎氏の著作『山梨の酪農』を読み返してみますと、牛乳販売容器の変遷についても記述がありました。
 東京では明治22年頃に初めてガラスの容器が用いられたそうですが、最初は口に紙を巻いたり張ったりして蓋としていたのが、明治33年頃になると「機械口」と当時言われた、瀬戸物(陶製)やニッケル、コルクで蓋をして止め金で留めるものが登場したようです。そして、昭和3年くらいになると瓶は無色で統一され、王冠口になったとありました。
一方、山梨では明治36・37年頃までは、大半の牛乳屋は手提げ牛乳缶と木枡に柄を付けたもので売り歩き、家の軒先で客の丼や茶碗に写して量り売りしていたそうですが、甲府中心部などでは同じころでも東京と同じような機械口で、瀬戸物でできた栓の瓶売り容器で売られていたとあります。
以上のような牛乳販売容器の変遷史を踏まえても、大正9・10年に保壽社が瀬戸物の機械口のガラス瓶で甲府中心街において牛乳を販売していたことに矛盾はなく、このイラストが当時の牛乳瓶の姿を視覚的に伝えてくれていてうれしいです。

※参考引用文献
「山梨の酪農」秋山作太郎 平成二年発行 非売品 :令和6年11月現在は山梨県立図書館で借りられます。

2024年10月29日 (火)

荊沢にあった商店の大正時代の包装紙

こんにちは。
今回は文化財課収蔵資料の中から、南アルプス市甲西地区荊沢にあった商店の包装紙をご紹介いたします。
115 ←「松寿軒長崎包装紙(電話荊沢二十番」(湯沢依田家資料)(南アルプス市教育委員会文化財課蔵」
 松寿軒長崎は明治から平成時代まで 駿信往還の宿場町である荊沢において営業した菓子商です。ちょうど道が鍵の手のようにクランクする「かねんて」と呼ばれる箇所の西側に、現在も登録有形文化財として、その建物が遺されています。
 松の意匠の帯デザインの中に、店名と電話番号が記されており、この包装紙がいつごろから使用されていたかが判ります。甲西地区では大正9年11月26日に電話が個人宅や商店に開通し、1から41番の荊沢局電話加入者がいました。ですから、この包装紙は大正9年以降に使用されたものだと判断できます。また、その電話加入者一覧を甲西町誌(昭和48年刊)で見ることができますが、20番は『内藤伝吉 菓子商』とありました。
319 ←南アルプス市荊沢319に建つ松寿軒長崎(2021年10月8日撮影)
こちらの建物については、登録有形文化財として南アルプス市HPでの文化財情報や地図上で見る〇博アーカイブ、Mなび等でご紹介していますので興味のある方はご覧くださいませ。

つづいては、荊沢の商店包装紙二軒目のご紹介です。
116 ←「荊沢麻野屋呉服店包装紙(電話番号三五番)」(湯沢依田家資料)(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
麻の葉模様がさわやかなこちらの包装紙も、大正9年の電話番号一覧で記されている35番をみてみると、『あさのや入倉小三郎 呉服商』とありました。
Photo_20241029160201 ←「荊沢麻野屋のあった辺り」(2021年9月29日文化財課撮影)

昭和初期には、「せきや麻野屋呉服店」として、白根地区倉庫町交差点に包装紙にあるのと同じ屋号(「ヤマに中」)の店が存在していましたので、支店を出していたようですね。
002img20220705_15062833_20241029160201 ←「倉庫町関屋にあったせきや麻野屋呉服店のチラシ」(西野功刀幹浩家資料)(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)

 また、荊沢には麻野屋商店という名の店がもう一軒あり、そちらは茶問屋で茶器や食器なども販売していました。場所もちょうど同じ「かねんて」付近で呉服の麻野屋さんが駿信往還の東側にあるのに対して、茶問屋である麻野屋商店(屋号は「カネに麻」)は中野姓で西側に店を構えていました。 南アルプス市教育委員会文化財課収蔵資料や市内の旧家の蔵などで保存箱として使われている茶箱にこの麻野屋商店の文字をよく見かけます。
Img_1097 ←「雛人形の保管に使用されていた荊沢御銘茶所麻野屋商店の茶箱」(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
〇博調査的に、先人の遺したチラシや包装紙のストックは、かつて存在した商店の情報や地域ごとに異なるお買い物事情を知る手掛かりになるので重要視しています。

2024年8月20日 (火)

明治大正期の商店の引札

こんにちは。
今回は、最近、櫛形地区上今井にお住いの方よりご寄贈いただき、収蔵した明治大正期の引札(ひきふだ)をご紹介したいと思います。 
 引札は明治大正期の商店の広告チラシのようなものですが、色鮮やかでデザイン性に富み美しいので、お正月の初売りなどにおまけとして客に配られました。
J600dpi22 ←「米穀食塩石油荒物和洋酒罐詰諸帳簿其他雑貨 小笠原金丸商店 引札26×37.2㎝(上今井津久井家資料明治・大正時代)」(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
 こちらは、明治大正昭和初期には西郡地区一の繁華街であった小笠原にあった金丸商店の引札です。金のなる木に登って小判をザクザク集めている男女に日の出、鶴亀というような、いかにも縁起と羽振りのよい図柄です。この商店で売っているものは「米穀食塩石油荒物和洋酒罐詰諸帳簿その他雑貨」とかいてあります。屋号は「ヤマに〇」
4_20240820150701 ←南アルプス市役所本庁舎東にある旧金丸商店跡(2020年2月13日撮影)
 小笠原にはもう一店同じ名の金丸商店があり、こちらの引札は当ブログ2020年5月8日記事『小笠原の金丸商店』にてご紹介しておりますのでご覧になってみてください。明治35年頃のもので、名前は同じですが、屋号や販売品も「カネに丸」「呉服太物類幷和洋綿糸染糸類」で異なっています。場所はヤマに〇屋号の金丸商店の北に隣り合って軒を連ねていたようですよ!
2_20240820150701 J600dpi22_20240820150601 ←旧金丸商店跡の瓦に残る屋号は引札と同じ「ヤマに〇」(2020年2月13日撮影)
 今回ご紹介している引札の「ヤマに〇」の屋号を持つ金丸商店は、現在は閉店されているようですが、平成15年頃の住宅地図を見てみると、『金丸砂糖店』という表記になっていますので、明治時代末から平成時代まで営業されていたのです。

 次は甲西地区にあった商店の引札をご覧ください。
J600dpi32   ←「諸国銘茶並質屋業 五明村功刀琴四郎 引札」26×37.7㎝(上今井津久井家資料・明治・大正時代)(南アルプス市教育委員会文化財課蔵)
全体的に黒を基調とした落ち着いた色合いで、これもまた素敵ですね。
引札に記された文字情報によると、功刀琴四郎商店はお茶屋さんの看板を上げながら質屋も営んでいた模様です。引札の左端には明治34年7月10日印刷と記されています。五明村は現在の甲西地区になりますので、当時の櫛形地区上今井に住む人の買物圏を知る手掛かりになります。

J600dpi32_20240820150901 明治大正期に数多く出回った引札は、図柄にこそ地域性はあまりないのですが、そこに記された商店の文字情報によって当時の商店の所在や販売品、それらを利用した人々の動きや生活が復元できる文化財的価値の高いものです。 市民の皆さまが処分を予定している明治大正昭和初期の紙資料の中にも、この引札が紛れ込んでいる可能性があります。何か気になることがありましたら、是非〇博調査員にご一報いただきたいと思います。

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