芦安地区

2024年7月18日 (木)

呪歌(まじないうた)

こんにちは。
芦安地区で収蔵した文書資料の中に、このような紙切れ(資料です!)が紛れ込んでいました。

R59img←「呪歌(まじないうた)書き留め(芦安役場資料)年不詳」南アルプス市教育委員会文化財課蔵

どうやら3つの「呪歌(まじないうた)」を書き留めたもののようです。順に調べながら見ていきましょう。

R59img_20240718155101 ←『蚖蛇及蝮蠍(ガンジャギュウフクカツ) 気毒煙火燃(ケドクエンカネン) 念彼観音力(ネンピカンノンリキ) 尋聲自回去(ジンジョウジエコ)』
 どうやら、観音経(観世音菩薩普門品かんぜおんぼさつふもんぼん)というお経の一節のようです。「蛇やまむし、さそりの毒が炎のように襲ってきても、観音力を念ずれば鎮まる」というような文言でしょうか?
山に入る時の蛇除けの呪文として、効力がありそうですね。

R59img-2『身カクレノ法:月山 シャリコー キンキンソワカー 四面童子ノ雲ワリテ ワガ身カクセヨ アビラウンケンソワカー』
 「アビラウンケンソワカー(阿毘羅吽欠娑婆可)」は大日如来に祈る時の呪文だそうです。
もし山の中で出会いたくないクマやイノシシ、落石などにあった際には、この身隠れの呪歌が有効かもしれません。 ちなみにアビラウンケンは「地水火風空」を表す意味で、ソワカーは「幸あれー」というように願いが叶うことを期待する文言のようです。〇博調査員的には、是非この部分だけでも覚えて唱えたいですね。現代の私たちの日常におけるちょっとしたメンタルヘルスに有効な気がします。

R59img-3『牛馬病ノ呪ノ歌:大阪や八坂坂中鯖一つ 行基にくれて 馬の腹やむ 古い行基弁ノ傳ト有り
こちらは、全国各地で伝承されている「馬の腹痛を治す呪歌」のようで、飛鳥時代から奈良時代にかけて仏教の普及に尽力し、東大寺の大仏造立の責任者でもあったことでも有名な行基(ぎょうき・ぎょうぎ)という高僧が、詠んだ歌とされています。これは鯖(さば)伝説と呼ばれる逸話の中にあります。
行基の鯖伝説:「大阪の八坂峠で、行基が塩鯖を積んだ馬子に鯖を一つ乞うが拒否されたので、『大阪や八坂坂中鯖一つ 行基にくれ 馬の腹病む』という呪歌を唱えると馬の腹が病んでしまった。馬子が鯖を渡すと行基は再び唱えて『大阪や八坂坂中鯖一つ 行基にくれ 馬の腹止む』というと、馬は元に戻った」という伝説です。
一文字音を変えるだけで「病む」と「止む」の掛詞になっており、正反対の目的を持つ呪歌になるところに凄味がありますね。この呪文を使って馬の腹痛を治したいときは、くれぐれも言い間違えに気を付けなければなりません。

 山梨県南アルプス市芦安地区は今も昔も日本の屋根ともいえる奥深い山々(南アルプス)への玄関口のひとつです。南アルプスとは、山梨県長野県静岡県にまたがる赤石山脈のことで、日本第二の高峰である北岳など、標高3000m級の山々が南北に連なっています。


 芦安地区の先人たちは昭和時代までは、山とともに暮らし、林業や鉱山、炭焼きなどの山仕事を生活の糧に暮らしていました。これら山仕事に有効な呪歌がいつ書き留められたものかは不明ですが、呪歌(呪文)を唱えることで、観音菩薩様や大日如来様、行基様などの威力を借りて、山中で起こりかねない禍や危険を回避したり、病を除くための手段としてきたのです。呪歌はほとんどが口伝で長い間引き継がれるものです。時代とともに呪歌に頼る必要性が薄れ、忘れ去られる前に、村のどなたかが書き留めておいてくれたのでしょう。このただの走り書きのような紙切れでも、芦安地区の先人たちの暮らしと意識を物語る重要な資料のひとつです。

2024年7月12日 (金)

大正7年の白米廉売券と米騒動

こんにちは。
きょうは、最近の〇博収蔵作業で扱った資料の中からご紹介しようと思います。
R54img_20240712164501 ←「大正7年 白米廉売券」(南アルプス市教育委員会文化財課蔵):大正7年夏に山梨県が発行したお米の安売り券
 こちらの資料は、大正7年夏に山梨県が発行したお米の安売り券です。表側には、「山梨県中巨摩郡役所」の印が押されています。
この白米廉売券が発行された大正7年の夏は、全国各地で米騒動とよばれる暴動蜂起があった年です。8月2日に政府がシベリア出兵を宣言したため、その後急激に投機目的の米穀の買いや売り惜しみが起こった上に、前年産米の不作などの要因もあり、米価の急高騰が発生する中、日本各地で暴動事件が起きました。
 8月15日夜には、甲府でも舞鶴公園で行われようとしていた米価高騰抗議市民大会に刺激された群衆が、山田町13番地にあった若尾家前に集まり暴徒化し、若尾邸を焼き打ち壊すという事件が起きています。(甲府での米騒動が若尾邸焼き討ちに至るまでの様相は山梨県史通史編5近現代1に詳しくまとめられている)
R54img ←表側には「山梨県中巨摩郡役所」の印
 今回ご紹介している白米廉売券は、この大正7年夏に起きた米騒動対策として、山梨県から芦安村各戸に配られた米の安売り券だと考えられます。芦安村誌(平成6年発行)によると、『政府は三百万円の恩賜金を各府県に配布し、米価対策費一千万円を予算化した。芦安村はこれに基づき、恩賜金七五円三〇銭分の米の廉売券を交付した。対象は三七戸、一六二人。しかし、四戸が交付を辞退したので、その分を割り振りし直した。』とあります。
R54img-2 ←裏面には「一、本券ハ1枚二付 内地米1升又ハ外米2升二対シ金10銭ノ廉売二用ウルモノトス」「一、本券の使用期間ハ大勝7年9月30日迄トス」とある
この白米廉売券の裏面には、注意事項として『一、本券ハ1枚二付 内地米1升又ハ外米2升二対シ金10銭ノ廉売二用ウルモノトス』『一、本券の使用期間ハ大正7年9月30日迄トス』とあります。
では、その内容をかみ砕いて読んでみましょう。
「内地米1升又は外米2升に対し金10銭ノ廉売」ということですから、同じ値段で外米(当時の東南アジアの国々産の輸入米)は国産米の倍量買えたということですね。この時に外米を食べた人々の言葉として白根町誌(昭和44年刊)に『南京米を喰いやすと、わしゃやせる(南京米はラングーン米のことであるという注釈有)』というのが載っていました。ラングーン米というのを調べてみると、現在のミャンマー辺りでとれた細長い米粒の長粒種で、「食べ慣れないけど安いから食べているが痩せてしまう!」という不満が皆にあったということでしょう。
 しかしながら、米1升は1.5㎏ですから、この廉売券があれば、米30キロであったら金200銭=2円で国産米が買えたことになります。 ちなみに山梨県史によると米騒動中の大正7年8月8日が甲府の最高値で、米4斗入り1俵(60k)19円20銭とあります。30キロでは9円60銭支払うことになりますから、この廉売券で30キロを2円で買えたのはかなりの救済策だと思います。
Dsc_0840 ←旧芦安役場資料である白米廉売券は、多くが切り離されていない状態で綴られている(南アルプス市教育委員会文化財課所蔵)
 また、この資料は芦安役場にまとめて綴った状態で保存されていました。役場が廉売券を使って買う米を米問屋から事前に調達し、村民に購入させた可能性も考えられます。芦安村への恩賜金が75円30銭だったということですから、内地米であれば753升分=1102.5㎏の購入券配布となり、単純に戸数で割ると一戸当たり29.7㎏ですし、人数割りしてみると6.8㎏ですから、一ヶ月分くらい充分に食べられる量の米がこの白米廉売券を使用すれば問題なく買えたようですね。

米騒動は全国的にも8月下旬までには落ち着き、発生しなくなりました。この廉売券の使用期間にも、「9月30日迄」とありますので、おおよそそのような計算で算出された救済策だったのでしょう。

2024年7月 5日 (金)

ファンシーな壁掛けフックに記された北岳の数字

こんにちは。

このたび、芦安地区で木製の壁掛けフック数点を収蔵しました。

Dsc_0832_20240705114101Dsc_0832-2Dsc_0832-4

土産物として売られていたものなのか?何らかのイベントで配布されたものなのか?は不明です。いかにも昭和末期的なキャラクター!を感じさせるペンギンやキツネ、ウシさんが付いていてかわいいです。〇博調査員の記憶の彼方から学生時代(バブル時代)に夢中になった「ファンシーグッズ」という言葉が出てきましたわ。懐かしい~

 ファンシーは実用的なことはあまり気にしないので華奢なフックですが、ここで注目していただきたいのは、キャラクターの横に貼られた北岳の数値です。

Dsc_0833

「3192m」「3192.4m」って?現在の北岳の標高と違いませんか? 確かに数字の横に「標高」という文字はありませんが・・・。標高でしたら、1メートル低い気がしますね!

 現在、北岳の最高標高点は、富士山に次ぐ高さを誇る「3193m」と知られていますよね。それもそのはず、どうやら20年ほど前に測量し直され修正されたようです。

ですからこの壁掛けフックは、少なくとも20年以上前のものであり、さらにファンシーなキャラクターたちが全盛期だったバブル期は昭和60年から平成3年頃までなのを考え合わせると、やはりちょうど昭和末期から平成時代初めにかけて作られた資料だと判断できます。

 現在、国土地理院HPのGSI Mapsで北岳山頂付近を見ると、3等三角点標高が3192.5mで、最高標高点は3193mと2か所の標高を示す数字を確認できます。当時はまだ最高標高点の測量はされておらず、そのかわり北岳の頂上に最も近い三角点の標高が3192メートルとされていたので、こういうことになっていたのですね。

北岳登山への玄関口である八田地区芦安広河原にて、今年も6月22日に2024南アルプス開山祭が行われ、蔓払いのセレモニーの後夏山シーズンが始まりました。今日も多くの登山者が広河原を起点として北岳山頂への山行を楽しんでおられることでしょう。

002img20210906_16013819_20240705114101 002img20210906_16102280_20240705114101 ←昭和37年10月31日 野呂川橋渡り初めの様子(西野功刀幹浩家資料より・南アルプス市教育委員会文化財課蔵):60年ほど前に完成した野呂川橋のおかげで南アルプスの山々への山梨県側の玄関口となる広河原が整備された

Img_1118_20240705114101 ←令和4年7月の野呂川橋

広河原山荘や北岳山荘、北岳肩の小屋などの山小屋で販売している北岳グッズの中に、3193mと記された木製フックみたいなものはまだ売っているのでしょうかね?もちろんファンシーではないでしょうけど。

 

2024年4月26日 (金)

芦安地区西河原における伊勢湾台風の爪痕

こんにちは。
南アルプス市教育委員会文化財課所蔵の昭和34年災害資料より、今回は芦安村(現南アルプス市芦安地区)西河原の被害状況写真をご覧いただきたいと思います。

1819←飯野東条家災害資料18-1「芦安村西河原流失9戸公民館流失」(南アルプス市教育委員会文化財課所蔵)

昭和34年災害とは、大水害を起こした第7号台風と強力な暴風雨で県内の藁ぶき屋根の家々をことごとく吹き飛ばし破壊した第15号台風(伊勢湾台風)が立て続けに襲いかかり、昭和34年8月から9月にかけて甚大な被害をもたらした一連の災害のことを言います。


芦安村においては、西河原地区が土石流に洗い流されるなど、甚大な被害を蒙りました。

芦安村誌(平成6年発行)によると、『(昭和34年)9月26日の夕方になると風雨が増し濁流が狂奔して川沿いの西河原地区が最も危険にさらされ、住民は家財を取りまとめて非難した。大量の流木が混じった土石流が橋桁にせき止められ、濁水が鉄砲水となって西河原地区を襲い、公民館、巡査駐在所、山梨交通バス車庫、民家、商店など地区ぐるみ十五戸を押し流した。』とあります。


 文化財課所蔵の資料には、災害前の西河原地区風景→水害時の様子→水が曳いた後の様子がわかる写真がありますので、順にご紹介します。災害前後では全く違う光景になってしまっているのですが、そのなかでも流されなかった西河原橋の位置とその左右にみえる立木や民家の場所を確認しながら、見比べてみてください。

Photo_20240426143201←芦安村役場災害資料「台風15号被害前の西河原地区」(南アルプス市教育委員会文化財課所蔵)

186←飯野東条家災害資料18-6「西河原バス終点芦安中心部」(南アルプス市教育委員会文化財課所蔵)

1810_20240426143201←飯野東条家災害資料18-10「公民館の残がい」(南アルプス市教育委員会文化財課所蔵)

153 ←甲府小林家芦安災害資料15号台風-3(南アルプス市教育委員会文化財課所蔵)
152←甲府小林家芦安災害資料15号台風-2(南アルプス市教育委員会文化財課所蔵)

154←甲府小林家芦安災害資料15号台風-4(南アルプス市教育委員会文化財課所蔵)
 芦安地区西河原は、昭和57年にも台風被害により土砂や流木で埋まり、御勅使川が氾濫しました。この時も人的被害は無かったようです。過去に起きた増水時の御勅使川の豹変ぶりと家屋などを跡形もなく押し流す水の脅威の記録を伝え続けることは、今後も起こるであろう災害への布石を打つことになると思います。

 

2023年12月28日 (木)

南プスの岩船地蔵さんめぐり

こんにちは。

237-16 237-8  ←1芦安地区芦倉237「お船地蔵さん」(令和5年12月14日撮影)

先日、芦安地区で大切に祀られている「お船地蔵さん」をお訪ねしました。立派な木堂の中で他の石造物とともに赤い頭巾と前掛けをつけておられます。その中でも船乗り地蔵さんは、一番右端にいらっしゃいます。お堂前の急な階段を上って、前掛けの布の下をよく見ると、一躰だけ御舟の上に蓮座があり、そこに立っておられるので、すぐにわかりますよ。「お船地蔵さん」の脇には丸石も置かれていて、この地蔵堂は甲州伝統の丸石信仰も見ることができます。

 このような御舟に乗ったお地蔵様は、「岩船地蔵」と呼ばれることも多く、享保四年(1719)造立のものが大多数なのだそうです。岩船地蔵の造立は、江戸時代の享保四年に関東地方西部から中部地方東部にかけて流行した岩船地蔵信仰に由来するからです。

 岩船地蔵信仰とは、現在の栃木県栃木市岩舟町にある岩船山高勝寺から、その周辺の岩を材料に造られた岩船地蔵が送り出され、村から村へ巡っていくうちに信仰を伝えていくもので、『岩船地蔵が送られてきた村では、それを迎えて華やかな服装をし、にぎやかに囃し立て、念仏をし、近隣の村々まで巡った(県文化財ガイドHP「上積翠寺の岩船地蔵」より)』とあります。そして、『岩船地蔵が巡ってきた村々では、その記念として石造の岩船地蔵を造り、路傍の仏として祀った。』のだそうです。山梨県内では65躰の舟に乗ったお地蔵さまがあるそう(上記県文化財ガイドHPより)で、当地での流行の勢いが凄まじいものであったことが判っています。南アルプス市内では9躰を確認しています。

1146-4   ←2白根地区在家塚 薬王寺内 (令和5年12月14日撮影)

208-4_20231228152001      ←3白根地区在家塚 紺屋村舟乗地蔵(令和2年10月5日撮影)

208-3_20231228152101 ←4・5櫛形地区小笠原 源然寺の2躰(令和2年10月29日撮影)

1140-6 1140-5 ←6櫛形地区上宮地 長昌院内 (令和5年12月14日撮影)

Sk0120231221_16284572→『中巨摩の石造文化財』平成7年 中巨摩郡文化協会連合会郷土研究部 には、まだ破損していない状態の長昌院内船乗り地蔵さんの画像がある

594-7 ←7・8甲西地区秋山 光昌寺前の2躰(令和3年12月20日撮影 左奥のお地蔵さまは舟から落ちた状態)

23-6_20231228153001 ←9甲西地区湯沢 「船乗り地蔵さん」(令和3年12月3日撮影)

 岩船地蔵(船乗り地蔵)さんは、造られた年が享保四年とそれに続く数年と限られていることから、その形を見ただけで、およそ300年前のものとすぐわかる興味深い石造物です。

 文献(1999岡野「山梨県の岩船地蔵」)によると、甲府盆地内に存在する岩船地蔵に刻まれた銘文の年記を分析した結果、甲斐国への主要な伝来ルートとして、享保4年3月下旬に信州から北巨摩地域に流入し、甲府周辺には享保4年7月に届き、順次甲府周辺の各村に広まったことがわかるそうです。

南アルプス市の9躰の場合、年記が判明しているのは小笠原源然寺の享保4年6月24日と上宮地長昌院の享保4年10月●日の2地点です。6月と10月ですから、享保4年3月以降に信州からの流入で岩船信仰が広まったという説に矛盾はありません。

 

 また、南アルプス市域は水害の多かった地域ですので、御舟にのったお地蔵さんは水難除けとしての願望も受け、岩船信仰の流行が終わった後も当地の民に長く親しまれてきました。さらに、湯沢の船乗り地蔵さんのように、病気平癒や旅の安全を願う対象としても大切にされてきた経緯があります。

 南アルプス市ふるさと○○博物館では、市内に岩船地蔵さんが何躰あるのか?どこにいらっしゃるのか? 過去の調査資料とフィールドワークで集成をしました。

Sk0120231220_16231221 ←「南アルプス市の岩船地蔵(舟乗り地蔵)一覧表」南アルプス市文化財課 〇博調査員作成

どうぞ、デジタル地球儀を使って地図上で場所も確認できる「南アルプス市ふるさと○○博物館『〇博アーカイブ』をご利用いただき、その所在分布なども愉しんでいただけると幸いです。

参考文献:

『中巨摩の石造文化財』平成7年 中巨摩郡文化協会連合会郷土研究部

『山梨県の岩船地蔵』1999 岡野秀典 山梨考古学論集Ⅳ

2023年3月29日 (水)

昭和8年御勅使川砂防工事実況

 こんにちは。
今日は、白根地区飯野にお住まいの方より寄贈していただいた、昭和8年の御勅使川砂防工事の写真をご紹介します。
 砂防堰堤は流れる土砂を貯めて川の水の流れをゆるくしたり、土砂の流出量をコントロールして、一度に大量の土砂が下流に流れ出て災害を起こさないようにする役目を果たします。
12_20230329145601「昭和8年度御勅使川砂防工事実況」 (飯野中澤家資料より・南アルプス市文化財課所蔵) 
 写真に見える昭和8年施工のこの砂防堰堤は、『第八号砂防堰堤』という名称で、高さ2.5メートル、長さ96.7メートル、塩沢入口交差点北の南甘利山橋の東側下流に見える砂防堰堤です。ちょうど、御勅使川福祉公園の西端部にあたります。
 出来上がった砂防堰堤の上に座ったりもたれかかったりと、この写真にはざっと数えても150人以上の人々が写っていますね。

大量の砂や石・セメントを運んだり、手練りでコンクリートを作るなど機械のほとんどなかった昭和初期には、たくさんの人とその労力が必要でした。原七郷を含む地元住民の多くが工事労働に従事したそうです。この写真の見つかったお宅のある白根地区飯野でも、大正初期生まれの多数のご先祖様方が、写真の中にいらっしゃることでしょう。
3-10 ←「石積出(いしつみだし)三番堤と第五番砂防堰堤」(令和5年3月10日撮影)
 一方、こちらは先日行われた『史跡御勅使川旧堤防(将棋頭・石積出)保存整備委員会』での『石積出(いしつみだし)三番堤の発掘調査現地報告』にスタッフとして参加した時に撮った画像です。
ちょうど石積出三番堤の真横にある『第五号砂防堰堤』がすももの樹の後ろに少し見えていますね。この第五号砂防堰堤は第八号砂防堰堤より3つ上流のもので昭和7年度内に完工されたものです。

白根町誌にある御勅使川砂防工事のリストを見ると、昭和7年に第一号から六号まで、昭和8年には七号と八号が建設されていました。

3-6←「第五号砂防堰堤」(御勅使川川下から令和5年3月10日撮影)
002img20230314_09552885 ←「御勅使川流路工事概略図 平面図」(「白根町誌」昭和44年に加筆作成)
002img20230314_09542668 ←「源大堰堤」(「白根町誌」昭和44年より)
002img20230314_09542668-2 ←「御勅使川堰堤」(「白根町誌」昭和44年より) 
  複数の砂防堰堤を設置していく近代的な御勅使川の治水工事は、大正5年、高さ22.68メートルの芦安堰堤建設からはじまりましたが、それ以前より行われてきた御勅使川治水の史跡は『国指定史跡御勅使川旧堤防(将棋頭・石積出)』という名称で「一番から三番の石積出」「桝形堤防(ますがたていぼう)」「将棋頭(しょうぎがしら)」の3つのゾーンが設定され、保存整備計画が進んでいます。

まずは「桝形堤防」が整備完了し、令和6年の4月以降に史跡公園としてオープンします。御勅使川を暗渠で横断交差する徳島堰から河原内で分水し水田へ通水する水門を守るための堤防史跡です。展望台も設けられるようですから、一年後をとっても楽しみにしている〇博調査員です。
Dsc_0790 ←桝形堤防発掘調査中に行われた見学(徳島堰ウォーク)の様子」(令和3年11月28日撮影)

2023年2月14日 (火)

昭和37年10月31日野呂川橋渡り初め

こんにちは。
市民の皆様からご寄贈いただいたアルバムの中に、〇博的に気になる写真を見つけました。

002img20210906_16102280 昭和37年10月31日(西野功刀幹浩家資料より)
 なにやら大勢の正装した人々が山奥に造られた橋の上を歩いてくる場面です。
一方、万国旗で飾られた橋の下には、建設作業に従事した人々の宿舎のようなものが何棟か建っており、切り拓かれたばかりの生々しい山肌も見えます。 

002img20210906_16013819昭和37年10月31日(西野功刀幹浩家資料より)

 こちらの写真では、神主さんを伴い、くす玉を割っている当時の県知事天野久氏の姿が写っています。
いったいこれらの写真の示す場所や出来事は何なのか? 

002img20210906_16031662 手がかりは同じアルバムに挟まれていたこの新聞記事の切り抜きにありました。この新聞の記事見出しには『盛大に完工式 野呂川総合開発十一年の努力みのる』とあります。
 掲載されている写真を拡大してみると、人々の行列の後ろ側に美しく立派なアーチ橋が架かっています。この橋は、南アルプス市芦安芦倉で現在も使用されている野呂川橋(のろがわはし)です。この場所は、野呂川広河原インフォメーションセンターの少し下流にあり、いまも南アルプス登山の玄関口である広河原へのアプローチを支えています。

 昭和37年10月31日、この野呂川橋の完成により、南アルプス市から夜叉神峠を越えてくる野呂川林道(現山梨県営南アルプス林道)と早川町の奈良田方面から通じる西山電源開発道路(現山梨県道37号南アルプス公園線)とが、南アルプス市芦安芦倉でつながりました。これにより、野呂川入西方から早川町を経由して、南巨摩郡身延町下山まで至るルートが開通し、南アルプスに通じるスカイライン『白鳳渓谷』として売り出すことになったようです。

002img20210906_16012126002img20210906_16020074 昭和37年10月31日 三代夫婦の野呂川橋渡り初め記念撮影(西野功刀幹浩家資料より)

 新聞記事によると、白根町西野に住んでいた功刀家の三代の夫婦が渡り初めに招かれたとあります。
こちらの写真がその功刀家の人々です。三代どころか四代目の赤ちゃんも参加したんですね。
「三世代夫婦による橋の渡り初め」は、全国的に行われている行事のようですが、同居する一家に三代の夫婦が元気に暮らしていることは珍しいので、これにあやかって、新しくできた橋も壊れることなく永続して欲しいとの願いが込められているようです。ちなみに南アルプス市域では昭和8年にも「西郡果実郷の父」とよばれる西野の小野要三郎一家による鉄筋コンクリート化された開国橋の渡り初めが行われています。

Img_1118令和4年7月の野呂川橋

 こちらが2022年7月に撮影された野呂川橋の映像です。南アルプス登山のスペシャリストでもある伝承館スタッフのスマホに入っていた画像をもらいました。 

 高い所が苦手な〇博調査員でもバスに乗れば、広河原まではいけることも教えてもらったので、野呂川橋を観に行くことできそうです。登山シーズンの6月中旬以降から11月上旬までバスが運行されるそうです。今年の夏は、昭和37年の渡り初めの画像を持って、野呂川橋見学ツアーをしようかな?